堤 佑介Ⅱの4

 

もっとも、25年前の結婚の時には、そういう感覚はなかった。激しく燃えたというのでもなかったが、普通に相思相愛になり、お互い、そこそこ収入も蓄えもあったので、子どもができてしまえば当然のように結婚ということになった。

たしかそれから間もなくだったと思うが、アメリカの女性人類学者の書いた『愛はいつ終わるのか』という本が評判になった。その本では、「愛は4年で終わる」というのがキーワードになっていて、それには人間としての生物学的な根拠があると説いていた。

生物学的な根拠はともかく、恋愛と結婚生活はたしかに全然違う。その意味では、4年説も現実をよく見抜いていた。

私たちの結婚生活は一応12年続いたが、恋愛感情としては、4年で終わっていたのかもしれない。「子は鎹」ということもあったろう。

不倫関係では、激しく燃えはしたが、代わりに苦しみも大きかった。相手も中途半端を喜ばない真面目なたちで、ずいぶん悩んでいた。

私は1日でも会わないとちりちりと胸を焦がす思いにさいなまれた。一方で、この不都合な関係をどう整理しようかと考えない日はなかった。

芙由美1はしょっちゅう私に連絡してきて、逢瀬を求めてきた。もちろん私からも。

行為の後に、ときどきもつれた関係の清算を迫った。もう打ち切るか、離婚してもらうか。執拗な調子ではなかったが、それだけにいっそう切なくなって、私の心を圧迫した。

しかし2年間秘密を持ちこたえて、とうとう発覚した。あげく離婚後に同棲してみたら、1年半しかもたなかったのだから、やっぱり4年未満で終わったことになる。

私は、「恋愛はめんどくさい」ということを、この経験で実感したわけだった。

恋愛に躊躇する今の若者は、「4年で終わる」という事実を、踏み込む前からすでに予感しているのかな。

だとすると、これは知的な意味での一種の「進化」と言えるのかもしれない。

ただこの進化が、生物的な意味では、むしろ人類の退化につながる可能性があるともいえる。いや、この退化はもう相当進んでいるのではないか。少なくとも先進国では。

 

『電車マン』と『電子マン』。

二つの本が出たころは、ちょうど私が離婚したころだった。統計で見ると、離婚件数がピークをちょっと過ぎた時期にあたっている。いまでは、あのころよりも離婚は少なくなっているが、なにしろ婚姻数がずっと下がりっぱなしなのだから、それは当然ともいえる。

つまり『電車マン』や『電子マン』が売れたころから、日本人はあまり結婚しなくなった。

「結婚難」はますます深刻化しつつある。それともいまの婚姻率の低さは、単に「難」だけではなくて、もう諦めてしまって結婚する気がないか、それとも、「いい人がなかなかみつからない」というあたりでうろうろしている人も多いのだろうか。

『電車マン』はどうだかわからないが、『電子マン』があれから結婚したとは思えない。電子マンが望んだように、三次元から二次元への「革命的転換」は起きていないが、それでも未婚者が増え続けていることは確かだ。

オタクたちに限っての婚姻率を調べたら面白いかもしれない。きっと全体よりもずっと低く出るだろうな。

でもオタクかそうでないかを区切るのが難しい。

それにしても、このままいくと、日本の家族の未来はどうなってしまうのか。個人化がどんどん進んで、ついには解体してしまうのだろうか。

そういう私も、数えてみれば独身歴10年を越えている。さみしくないといったら嘘になる。これから先、ずっと一人で耐えられるだろうか。しばらくはまだいいけれど、あと10年で定年。そうしたらどうやって生きていこうか。体が利かなくなったら?

 

娘の亜弥とは、三か月に一度くらい会っている。大学に入学したころから、気持ちがほぐれてきたらしく、ある日、「ママには内緒よ」と言って、向こうから突然電話してきた。一瞬、言葉が出ないほど驚いた。

うれしかった反面、最初は身の置き所がないようなうろたえを覚えた。でも2度、3度と会ううちに、彼女が私のことを許しているらしいことがわかってきた。

もともと私は子どもが好きで、亜弥が小学校6年の時に別れるまで、とても可愛がっていた。小さい時の父と娘のつながりは、思春期になると一時途絶えて娘が父を嫌悪するようになるとよく言われる。

しかし私の場合は、とにかく物理的に離れていたのだ。これは今になってみると、かえって良かったのかもしれない。

亜弥はもうすぐ26で、建築事務所に勤めていた。こっちの仕事とも大いに関係がある。それで話がよく合った。仕事が終わった後でデートして、ごちそうしてやる。私はその時ばかりは幸福感に浸った。

俺の体が利かなくなったら、もしかするとあいつのご厄介になるのかな、それだけはどうしても避けたい。あいつには、俺のことなど振り向かずに、自分の道をずんずん進んでいってもらいたい。

ひとり侘しくオンザロックを傾けながらこんなことを考えているうちに、眠くなってしまった。

堤 佑介Ⅱの3

 

こんなことを考えているうちに、昼過ぎになった。2,3日前に比べるとずいぶん涼しかった。バルコニーの向こうの空はどんよりと曇っている。あまり外に出る気もしなかったので、半日は本でも読んで過ごそうと思った。

買い物は休日にまとめてやるが、夕方になってからでもいいだろう。

何気なく本棚に目をやると、『電子マン』というのが目に入った。13、4年前の本だが未読だった。当時オタクの恋愛成就をテーマにした『電車マン』が大ヒットして、数か月後にそのリアクションとして書かれた本だ。

『電車マン』はそれなりに面白かった。オタクの童貞主人公が電車の中で若い女性を助けたのがきっかけで、女性に魅力を感じ、相手も好意的に迎えてくれるので、勇気を振り絞って「脱オタ」を果たしていくという、他愛ない筋書きだ。

しかし全編3ちゃんねるの書き込みで埋め尽くされた表現のスタイルが斬新だったので、いまでも印象に残っている。

これはたぶん、個人の書き物ではなく、3ちゃん運営者と出版社が共同で構成したものだろう。

おびただしい掲示板書き込みでは、すべてが主人公の「脱オタ」を応援してくれる格好になっているが、そんなはずはない。編集に相当のエネルギーを注いで、意図的に取捨選択したり、関係ないスレッドも強引に寄せ集めたりしたに違いない。

それでも、こういう種族が膨大に存在して、お互い知らないどうしがネットを利用して一大村落を作っている事情はよくわかった。

もう少しこの世界を知りたくなって、『電車マン』のカウンターだという『電子マン』も買ったのだが、こっちは積読になっていた。読んでみることにした。

分厚い本で、サブカル情報満載だが、言いたいことは簡単だった。でもそれなりに読ませる。買い物は中止して、ビールを飲みながら冷蔵庫にあるもので晩メシをすませ、後半は繰り返しが多いので、斜め読みした。読み終えたのが夜の9時ごろ。

 

こちらは、マスコミが作り上げた恋愛幻想を目の敵にして「恋愛資本主義」と呼ぶ。

その自由競争市場では、選ばれたイケメンだけが支配権を握ってきた。それに踊らされた大量の「負け犬女」たちが、もてない「キモメン」のオタクたちを蔑視して、奴隷のように利用する。しかしすでに三次元、つまり生身の現実世界での「恋愛は死んだ」。

だからこれからは、個人の妄想にもとづいた二次元世界、つまり漫画、アニメなどの視聴覚メディアを享受して、そのなかのキャラに愛を傾ける「萌え」が、金とセックスの渦巻く三次元世界の恋愛にとって代わる。

「萌え」は、セックスだけが目的の残酷なイケメン軽薄男たちの世界と違って、モテないが優しいオタク男たちの妄想力による創造的な世界だ。

そこには現実世界のように傷つけあうこともない純粋で対等な愛の世界が広がっている。脳内で妹や姉や妻を作って、それで平和な「家族」を築けるのだ。

二次元が「恋愛資本主義」の支配する社会に革命を起こして、三次元に対する優位を獲得する日は近いから、オタクたちよ、暴発しないでもう少し我慢しろ、というのである。

 

アホらしいと言えばアホらしい。平安貴族の社会じゃあるまいし、昔からつきあうかつきあわないかの許諾権は女性が握っている。それを女性自身も知っているから、自分の容姿を磨くことに余念がないのだ。

男にとって女性は可愛い存在だが心をつかむのが難しい困った存在でもある。恋愛自由市場で敗者になった男は、諦めて次に挑戦するしかない。二次元はしょせん二次元。

この作者は、豊かな妄想力を二次元の専売特許みたいに強調しているけれど、現実の恋愛だって妄想から始まって妄想に終わる。実際に会ってひとめぼれなんてのも中にはあるが、きっかけが二次元であることも多い。

お見合い制度がなくなった代わりに、恋活、婚活サイトなんかがけっこうはやっている。あれは写真やメッセージなどの二次元情報が始まりじゃないか。

それに、いったんお互いに好意を持ったからって、しょっちゅう会えるわけじゃないから、その間は、メールなんかの文字情報で埋め合わせて、妄想を膨らませたり、維持したりしなくちゃならない。相手の写真を何度も眺めたり、顔を思い出して絵に描いてみたりして。

そうだ。この本の作者は、二次元と三次元をはっきり分けているけれど、事実は、二次元が三次元を支えたり、三次元の出会いが次の二次元妄想を誘発したりする。そうやって、結局は、うまく行った現実の出会いというのは、二次元妄想が三次元の現実に回収される形で成就するんだ。

この本は、モテないブサイクなオタクのコンプレックスやルサンチマンを慰撫する効果ぐらいはあっただろう。あるいはこれを読んで二次元世界に目覚める男も多少はいたかもしれない。しかし結局はそれだけのこと。

 

でも――と、ふと気づいた。

『電子マン』を『電車マン』と対で考えると、ちょっと笑って済ませられないことを示唆していると思った。

二次元はしょせん二次元といったけれど、もちろんこの作者はそんなこと百も承知なのだろう。自分のオタク的な趣味嗜好を『電車マン』的な三次元優位主義に逆らってあえて対置して、同時に時代の変化をやや誇張して表現しているのだ。その姿勢は、とても意識的なのかもしれない、と思った。

考えてみれば、ここには現実の日本のあり方が映し出されている。私の仕事にも無縁とは言えない。

この本が書かれたころよりもデジタル技術は格段に進歩した。またSNSサービスやYou Loopなどの動画共有サービスもどんどん充実して、個人が安い値段で「二次元」メディアに接することはとても容易になった。中学生だって、エロ動画も見放題だからな。

毎日の食事でも、コンビニやスーパーが、栄養バランスの取れた個食セットを品ぞろえしてくれているので、男の一人暮らしには不便を感じない。コンビニや自販機が全国津々浦々にこんなに普及している国は日本くらいだそうだ。私自身もずいぶんそれで助かっている。

あれだけの栄養バランスの取れた食事を、毎日家庭で主婦が作るとなったら、手間がたいへんだろう。だいいち、いまは共働き夫婦が多いんだから、そんな時間もない。できるとしたら、よほど経済的にも時間的にも余裕のある専業主婦だけだ。

スマホの爆発的な普及も大きい。私たちの青春時代には携帯電話などなく、固定電話か公衆電話だけだったから、親に聞かれたくない電話は、親がいない時か、公衆電話を利用するしかなかった。

でも、これだけ個人のプライバシーが機能的に守られる時代になってみると、そういう心配はほとんどなくなってしまった。PCだって、パスワードでロックしておけば見られる気遣いもないし。

こういう形での技術革新が、プライバシー尊重の風潮を作り出したと言えるかもしれない。時代が総力を挙げて個人主義のほうへ、個人主義のほうへとみんなを押し込んでいる気がする。

それに、最近では、別にオタクでなくとも、恋愛で傷つくのを恐れて、あまり現実の女性と関わろうとしないとか、異性の友人さえいない若者が増えているとかいう話をよく耳にする。

次々に「萌え」作品が生み出されていく「二次元」は、そういう若者たちの恰好の受け皿になっているに違いない。女性でさえ男性をしのぐほどに二次元世界に吸収されていっていると聞いたこともある。

また不況が続いているから、経済的な理由も大きいのだろう。恋愛するにはお金がかかるし、結婚ともなればさらに安定収入が必要だ。先日オフィスに訪れたあのカップルも、これからどうなることやら。

私自身がこの年で独身だし、恋愛をめんどくさいと感じる若者の気持ちがわかるような気がする。実際、恋愛は本気になればなるほどめんどくさいものだ。

堤 佑介Ⅱの2

 

そういえば、2日前に案内したカップルと同じ年ごろに、結婚したのだった。

あの頃は、バブル期の余波で、派手な結婚式がまだ流行っていた。しかし私たちは、あまりそういうことに関心がなかった。特に依子は堅実で質素を好むタイプだったから、彼女の希望を入れて、近親者とそれぞれのごく親しい友人だけを招いて地味婚で済ませることにした。

70年代後半から80年代後半に婚姻率がガクガクに下がって、下がったまま横ばい状態が続いていた時期だ。出生率もゆるい下り坂一方だった。それでも、結婚すれば子どもを二人以上生む夫婦は多かった。ところが、何しろその結婚がなかなか成立しない。だから結局少子化社会ということになった。

政府も焦って少子化対策に少しは手を出していたようだが、政府の対策は、間違っていたと思う。

保育所整備や育児休業導入や児童手当がそれだが、これらはみんな、結婚して子供が生まれた夫婦への支援策だ。しかも大規模予算を組んだわけでもない。生まれてくる子どもへの、雀の涙みたいな支援を当てにして結婚するカップルなんてほとんどいるはずがないのだ。

私たちの場合もたまたま出会ってお互いに好きになり、「できちゃった」ので、結婚せざるを得なくなっただけだ。将来生まれて来る子どもに対する政府の支援があるかないかが結婚の動機づけと関係あるなんて考えもしなかった。

結婚できるかできないか、する気があるかないかが問題なのだ。だから若い人たちが、進んで結婚する気になるような支援策が大事だったのである。経済全体を豊かに回すのが何よりも大切だが、他にもいろいろ手はあった。まずは若者の出会いの機会を増やすことだろう。

若者の関心興味の集まる空間、たとえばロックフェスティバルでも、マリンスポーツでも、スキー場でも、男女出会いのために積極的に場を提供しているカフェ・バーでもいい。民間の結婚相談所や、堅実な婚活サイト、オタク・マーケットなんかも有力候補だろう。そういうところを狙って集中的に補助金を出せばよかったのだ。

自治体によっては出会いを促すパーティを進んでやっているところもあるようだが、でも政府はそういう発想に多額の資金をつぎ込もうとはしなかった。まあ、中央の行政というのは市井の実情をよく知らず、机上の空論にもとづいて税金を使うのが信条みたいなものだけれど。

 

不動産屋の景気動向も、こうした社会の動きを微妙に受ける。今の会社に就職したころは、単身者世帯の割合が急速に増えている時期だった。

これは正直、この業界にとってはあまりありがたいことではなかった。新規に家を建てたり買ったりする大口の需要が減り、1Kや1DKの賃貸など、小口の需要ばかりが増えることを意味したからだ。まあそれでも、マンションは分譲、賃貸含めてそんなに売り上げが下がったわけではなかったけれど。

統計で見ると、二人世帯も増えてはいたが、それは必ずしも新婚さんが増えたというわけではない。離婚による片親家庭が増えたり、子どもが一人で自立して老夫婦だけになったといったケースが多かったせいもある。

あの頃、マンション建設の話が持ち上がると、ウチと付き合いのある大手の設計部門から何度も相談が来た。時には電話で、時には直接訪問で。

おざなりのマーケティングでは、表現が抽象的で、なかなか動向が読めないところがある。事業部からきた報告書は一応の結論を出していたらしいが、設計部門はあまりそれを信用していないようだった。

どれくらいの広さの部屋を何戸割り振るか、ある設定条件でどれくらい収益が期待できるか、それが一番の悩みの種だったようだ。

売買や賃貸に直接かかわっている私たちの会社では、ある地域でどういう人たちがどんな家や部屋を買ったり借りたりするか、その情報を細かいところまで握っている。そういうナマな情報から得られるヒントを彼らは欲しがっていた。

まだペーペーだった私は、答える上司たちのほうも頭を抱えているのを横で見ながら、下手なことを言わないように身をすくめていたものだった。

そして今。

しばらく安定していたが、今また一人世帯の割合が増える傾向にある。

これはいったい何を意味しているのだろう。

もちろん少子高齢化が進行しているせいだろうが、それ以外に、もっと別の理由もありそうだった。

考えられるのはやはり、離婚の増加、若年層のミスマッチによる晩婚化などだろう。わが業界もますます厳しくなりそうだ。

堤 佑介 Ⅱの1

 

                                    2018年8月29日(水)

今日は定休日。10時起床。

いつものように簡単に朝食を済ませてから、ぼんやりと午前中を過ごした。

不動産業をもう20年以上続けているが、本業にかかわること以外にも好奇心は旺盛なほうだ。注意をひかれた物事をノートに書き留めてみたり、それについて考えてみたりするのが好きなたちなのである。

それは逆かもしれない。仕事柄、さまざまな人生模様に出会うので、自然とそういう習性が身についたともいえる。小説になりそうな材料はいくらもあるので、これまでも挑戦してみようかと思ったこともある。

だが、仕事の合間に構想して執筆をするだけの持続力をなかなかキープできなかった。個人情報保護もうるさいし。

そうかといって、出世にも大して興味はなかった。ウチでも、私と同期で幹部にまで上り詰めているのは何人かいるが、あまりシャカリキになるのは好きではない。

中途採用のせいもあるのかもしれないが、まあ、いまくらいの規模の営業所で中間管理職やってるくらいが身に合ったところだろうと思っている。

 

大学卒業前に、友人と進学塾を経営した。バブルに上り詰めていくころで、かなりうまく行った。けっこういい気になっていた。

8年ほど続けたころ、予備校の講師をしていた女性と「できちゃった婚」した。ちょうど30歳、相手は2つ年下だった。年にしては落ち着いた、飛び跳ねたところのない女性だった。生まれた子どもは女の子だった。

産後、妻の依子は予備校を退職した。しばらく塾経営で食べていくつもりだったが、じきに生徒が減り始めた。

競合相手に負けたというのでもなく、指導や経営の仕方がまずかったわけでもない。時代に合わせて個人指導スタイルに切り替えもした。バブル崩壊による景気の悪化と少子化の進行以外には思い当たることがなかった。

そうとわかると、なぜか生徒を教える情熱が急速に冷めていった。これはもう少し安定した仕事に商売替えした方が賢明かもしれない。共同経営者ともずいぶん相談したが、結局、これまで持っていた半分の権利を彼に譲って身を引くことにした。

娘の亜弥は3歳になっていた。真剣に生活を考えなくてはならない。集中的に勉強して宅建の資格を取り、いくつか受験した結果、今の会社に就職することになった。

接客は得意なほうだったし、不動産には昔から関心があった。不快なことはいくつも経験したが、耐えるしかなかった。けっこう努力した甲斐があって、実績もしだいに伸びていった。

結婚後12年で妻と別れた。理由は私の不倫である。芙由美というその相手は15歳年下で、インテリア・コーディネーターを目指していた。

いっとき荒れた依子も比較的短期間で冷静さを取り戻し、協議離婚が成立した。妻を嫌いになったわけではなかった。やがて彼女は結婚当時とは別の予備校に職を得た。

娘は依子が引き取ることになり、養育費は私が負担した。子どもを取られたことは何とも悔しかったが、悪いのはこちらだから仕方がない。

芙由美とも1年半ほど同棲生活をしたが、目くるめくように盛り上がったはずの恋愛感情は、やはりしだいに醒め、最後は互いにぎこちなさを残しながら別の途を歩むことになった。

一緒に生活してみると、彼女はけっこうわがままで、独り決めして事を運んでしまうところがあることがわかってきた。何回も喧嘩したが、そのたびに亀裂は深まった。

不倫という壁があったからこそ、いっとき燃え上がらせていたのかもしれないとも思った。しかし未練の情はかなり長く続いた。彼女とは、性的な意味での相性がとてもよかったのだ。だから不倫相手としてつきあっている頃は、彼女が私にどれくらい深入りしているかが実感できた。

そんなことがあったせいか、その後もつきあった女性がいなかったわけではない。行きずりの女と体の関係を持ったこともあったが、長続きしなかった。芙由美のイメージがずっと後を引いて、自分のなかで清算しきれず、それが邪魔したのだろう。

でも一人になってみて、自分がけっこう独身生活を楽しむたちであることも再認識した。だんだん、これでよかったのかもしれないと思うようになった。それはただの負け惜しみに過ぎないと言えばいえるのだが。

半澤玲子Ⅱの3

 

「この店、よく来るの? 知らなかった」

会社から歩いて10分くらいのハンバーグ屋さんである。壁はレンガ造り、ちょっと薄暗くして、LEDキャンドルライトを立てて雰囲気作りに苦労している。

「時々ですけど、割とおいしいんで」

生ビールを注文してから、さくらちゃんはチーズハンバーグに卵のトッピング、わたしは和風。

店員がいろいろ説明するのを、はいはいと聞きながら、お腹がすいているので、早く来ないかなあとじれったく思っていたら、やがてジュージューと音がして焼きたてが運ばれてきた。

「はねますので、ナプキンを胸のあたりまで半分持ちあげていただけますか」と言いながら、店員はハンバーグにナイフを入れ始めた。「焼き方が足りないとお感じになりましたら、焼き直しますのでおっしゃってください」。

付加価値サービスをつけて、お値段を上乗せしている。少しうるさいわね、と思ったけれど、さくらちゃんにそれは言わない。まあ、みんなそれぞれの職場やお店で苦労して頑張っているんだわ。

 

「わたし、この間、お見合いしたんです」

「あら、そう」

「母親がうるさいもんですから。一回ぐらいは親に義理立てしといてもいいかなって思って」

「……」

「わたしの母親って、なんていうか、社交的で、いろんなところに知り合いがいるんですよ。それで、やたらああいう人がいる、こういう人がいるって電話で言ってくるんです。もううるさくて。いつもは適当にあしらっているんですけどね」

「さくらちゃん、いまや『適齢期』だもんね。母親って、ごはんちゃんと食べてる? とか、彼氏いないの? ばっかり言うでしょう」

「そう。それしか言うことないのかって。しかも今回の場合、代理婚活までやったっていうんですね」

「ダイリコンカツ?」

「ええ。親同士が息子や娘のためにホテルかなんかに集まって食事して、自分の子どもをアッピールしあうんですよ。それで意気投合すれば、それぞれの子どもに紹介する。余計なことするなあって思ったんですけど、でもお金使ってそこまでしてるのかって思ったら、あんまり無下にもできなくて、相手の人と直接会うことにしたんです」

「それでどうだったの?」

「ええ。正直、ちょっと迷ってます。優しそうな人みたいだし、ちょっとイケメンだし、勤務先もしっかりしたところみたいだし」

あんまり細かいことを聞き出しても仕方がない。わたしの趣味でもない。

「まだお返事してないの?」

「ええ。向こうからくるの待っているっていうか。アラサーからも外れかけてるし、正直ここらで手を打ってもいいのかなとも思うんです」

「少しお付き合いしてみてってのはどうなの?」

「それも考え中です。正直その気がなくもないんです」

さくらちゃんは正直という言葉を3回使った。本気で迷っている証拠だな。失恋の痛手から立ち直るきっかけにしたいというのもあるんだろう。

「迷うよね。でもお見合いってみんなやらなくなっちゃったけど、わたしみたいに若気の至りで恋愛結婚して失敗するより、案外いいかもよ。恋愛と結婚生活って全然違うから」

そう言ってわたしは、ふっと苦い経験が頭をかすめるのを覚えた。慌ててその記憶を打ち消したが、いっぽうでは、年下の子に偉そうにアドバイスして、こういう言葉が自然に出てきてしまう自分の年齢を意識しないではいられなかった。

「先輩は、お見合いしたことないんですか」

急襲された。

「ないない。わたしの母親はあんまりうるさく言わないほうだから。特にバツイチになってからは、勝手にやれって感じね」

「それはいいですね。でも失礼ですけど、お仕事一筋ってわけでも……」

「あはは……ほかに生きてく道があればいつ辞めてもいいって思ってるわよ。でもそううまく行かないから、困ってるわけ」

さくらちゃんは考え込む風だった。彼女の年齢くらいが一番の分かれ道なんだろうな。わたしはもう遅いだろう。

 

しばらく食欲の充足に専念。なかなかうまい。

ふとこの間のエリの話をしてみようかな、と思いついた。自分にもかかわりがあるので少しためらいがなくはなかった。でも、さくらちゃんこそ、試してみてはどうなんだろうという親切心が勝った。さくらちゃんて、そういう風にさせるところがある。

「わたしの長年の親友がね、45歳なんだけど、この間、恋活サイトでお相手見つけたんだって。一つ年下で広林堂に勤めてるって言ってたかな」

「え、そうなんですか。すごーい。それでうまく行ってるんですか」

「まだ初デートだけど、まんざらでもないようだったわよ」

「あれって、私も考えなくもなかったですけど、出会い系みたいに危なくないですか」

「私もそう思ってたんだけどね、彼女に関する限りはそうでもないみたいね。わたしはやだけど」

「ふーん……選択肢の一つではあるかなあ」

「わたしもそう思うのよ。さくらちゃんだったら、きっと引きがたくさんあるわよ。お見合いの話も捨てないで、二股も三股もかけてやってみたら」

そう勧めている自分って、いったい何なんだろう。上がってしまったオバサン? それとも自分の無意識の気持ちを、他人に託している?

そう思いつくと、何となくはっとさせるものがあった。この後のほうの答えが的を射ているような気がしたのだ。

「ありがとうございます。考えてみます。」

さくらちゃんがさわやかに言った。

 

やはり帰りの電車の中で、それから自宅のドアを閉めてからも、これからの自分の身の振り方のことが気にかかっていた。じぶんでは「やだ」と拒否していながら、若い人に恋活なんか勧めているわたしって、いったい……。

考えても仕方がない。こういう時は、増田ユリさんのマンガ『ふーちゃん』みたいに、お風呂に入るに限る。でもなぜか、この前のように景気づけの歌は出てこなかった。

半澤玲子Ⅱの2

 

そういえば、今朝、行きの電車で痴漢に遭った。

ぎっしり混みあった車両のなかで、互いにねじったような感じで周りの人たちと体を接触させていたんだけど、一人の男の手がわたしのお尻に触れて不自然な動きをしているのに気づいた。男の顔は向こうを向いていたが、電車が揺れた拍子に横顔が見えた。普通の中年サラリーマン風。にらみつけようと思ったが、その前に男は手を引いた。

じつに嫌な気分になったけれど、気の強い女性のように男の手をつかんでどこまでも追及するみたいな気にはなれなかった。それよりも離れた方がいい。とっさにそう思って、反対方向に無理をして身を寄せた。

もちろんこれまでも、こういうことは何度もあった。でもわたしは、捕まえて公安につき出すような振舞いはしたことがない。もともと気が弱いせいもあるけれど、もし冤罪だとしらを切られたり、逆恨みされたりしたら、結局面倒なことになるだけだからだ。

ただ、しばらくこういうことがなかったので(最後に経験したのはいつだったかしら)、この嫌な感じを忘れていた。それで、今日久々にあんなことをされたので、ちょっとショックが大きかった。

それは、複雑な気持ち。うまく言えないし、人にはあまり話したくない。だからさくらちゃんにも黙っていた。エリにだったら話すかもしれないけれど。

久々に痴漢に遭う。殺してやりたいほど憎いけれど、私がまだ女であることをこいつが証明してくれたのも事実だ。50になっても60になっても遭うんだろうか。もし全然痴漢に遭わなくなったら、ちょっと寂しいって感じたりするのかしら。

今度実家に帰ったとき、母親に聞いてみよう。「お母さん、いくつまで痴漢に遭った?」って。ふふ……。

 

痴漢はヘンタイ扱いされるけど、でも男って女のこと、たいてい性的な目で見てる。同僚の連中だって、そうだってことが視線でわかるわ。服装ちょっと大胆だと、すぐちらちら見るものね。だけど理性で抑えてるだけなんでしょうね。

すると、男はじつはみんな多かれ少なかれヘンタイだということになる。うん。

でも、男がみんなヘンタイだとすると、そもそもヘンタイの定義は何だろう、と、パソコンにデータを打ち込みながら、妙に理屈っぽくなっていた。

ヘンタイとは、すなわち、普通の男女がすることじゃない仕方で性的な振る舞いをすること。

あれ? これじゃ男がみんなヘンタイだっていうのと矛盾するな。えーっと、ローズからの入金が242万7千……。

「半澤さん、これ追加の伝票で~す」

「あ、はいはい」

変なこと考えて間違えないようにしなきゃ。ちゃんと、ちゃんとしなくっちゃ。

でもちっちゃなことではあるけれど、出勤時にあんなことがあると、どうしても長い時間気になっちゃうのがわたしの性分だ。

ヘンタイと言えば、最近、いろんなところでLGBTって言葉を耳にするようになった。

最初は何のことかと思ったけど、Lはレズビアン、Gはゲイ、Bはバイセクシャル、Tはトランスジェンダーのことだそうだ。

物知りで早耳の中田課長が得意そうに教えてくれたっけ。それで、トランスジェンダーだけが精神疾患扱いの対象になってるのだという。

トランスジェンダー、つまり性同一性障害ってやつね。体は男で心は女、またはその反対。ちょっと感覚としてわからないわ。

マルハチからは、と。あれ? この前よりずいぶん金額下がってるわ。閉店したところでもあるのかな? あそこは下町に店舗展開しているところが多いから、やっぱり景気悪いのかしら。報告入ってたっけ。これ調べなくちゃいけない。

でもLGBTの人たちのこと、昔はヘンタイって呼んでたけど、最近はなんだか、サベツ、サベツってうるさくて、表向き使えなくなっちゃったわね。

たしかにこういうひとたちのことをヘンタイって呼ぶのはバカにしてる雰囲気があるからよくないけど、フツーの人と違ってることはたしかなんだから、あんまり平等だ、平等だとか、人権、人権だとか騒いでフツーの人と一緒にしない方がいいんじゃないかしら。

むしろ痴漢のほうがフツーの男の性欲とつながってるんだから、フツーの男がみんなヘンタイ傾向を持ってるんだとすれば、痴漢やった奴なんかに対しては、「このヘンタイ!」って怒鳴りつけてやっていいと思う。

なんだか、こんがらがってきた。思考停止。早く仕事片付けちゃわなくちゃ。今度エリにでも会ったとき、聞いてみよう。

えーっと、マルハチさんはっと。マルハチ、マルハチ……。

みつかった。やっぱり店舗の数を減らした報告書が来ていた。

あの大きなホームセンターが縮小するとは、ちょっと驚きだ。やっぱり不景気は回復してないんだわ。

半澤玲子Ⅱの1

                                    2018年8月29日(水)

 

やっと過ごしやすくなった。30度以上に慣れ切っていたので、肌寒く感じるほどだ。でもまた暑さがぶり返すんだそうだ。

今日は仕事のほうも比較的楽だった。午前中は受注と売り上げの情報をコンピュータの会計システムに取り込む。午後はいつも通り伝票を整理してエクセルで出納処理。

お昼に同僚のさくらちゃんといつものスパゲッティ屋へ。

さくらちゃんはまだ30代前半で未婚。鼻がちょっと上向いてて可愛い。屈託のない子で、わたしのことを慕ってくれている(と思う)。

「半澤先輩、いつも若いですね」

「何言ってるのよ。もう先のないおばあさんよ」

「もしかしてお花とかやってます?」

「え? どうして」

「いつか、エントランスで花瓶にお花活けてたじゃないですか。あれ素敵だったから」

「ああ、あれね。うん、母がお花の先生しててね。わたしも若い頃ちょっとやってたのよ。」

「ええそうなんですか。いいなあ」

「でも今はやってないわ。時々気が向くと買ってきて家で活けたりするけど」

「趣味のある人っていいですね。私なんか……」

「え? さくらちゃんてアウトドア系じゃなかったっけ。まえスノボーの話とかしてなかった?」

「よく覚えてますね。でも、ちょっとそれがらみで失恋しちゃったんですよ。それ以来、触る気もしなくなっちゃって、収納スペースの片隅で埃かぶってます。」

「あ、そうだったんだ。ごめんなさい」

「いえ、いいんです」

さくらちゃんは少し気持ちを切り替えるというふうに間をとった。それから真面目に心のうちを明かすようなやや重い調子で、

「でもやっぱり彼氏ほしいな」

わたしは、この率直な言い方にとても好感を持ったけれど、まずは茶化すほうが雰囲気が軽くなる。

「こら、わたしの前でそれを言うな。」

「え? 先輩、つきあってる人いないんですか」

「いないなんてもんじゃないわよ。深刻なシングルババアよ」

同僚や部下とはプライベートな話はしないように心掛けているが、さくらちゃんの真面目さに思わず釣り込まれて、言ってしまった。

「さくらちゃんなんてまだまだこれからよ。ほら、人事に大村さんっているでしょう。あの人ちょっと素敵じゃない。彼、独身よ」

「大村さん、大村さん、と。ああ、あの人ね。うーん、でもちょっとタイプじゃないかなあ」

「そうっか。じゃ、しかたないわね。それに最近、社内恋愛ってあんまり流行らないみたいね」

「特に男性が、セクハラの疑いかけられるの、恐れているんじゃないですか」

「ああ、なるほど。それは気づかなかった。そういえばここんとこ社内の空気が乾いてるわね。わたしはただ、最近の男の子って草食系になっただけなのかって思ってた」

「ここ一、二年、なんかそういうの感じるんですよ。わたしなんかもっと声かけてほしいなあなんて思うんですけどね」

「ことにウチは生活用品扱ってるんだから、男女のコミュニケーションが大切よね。世の中であんまり騒ぐもんだから、男の子たち、おびえちゃってるのかもね」

「そう言えばアメリカで『Me Too』なんて運動が盛り上がりましたよね。先輩はああいうの、どう思います?」

とっさに聞かれて答えが出なかった。これまでほとんど考えたことがなかったからだ。ハリウッドの有名監督や俳優なんかが次々にやり玉に挙げられて、反トランプ・デモにも利用されていたっけ。西海岸とトランプって水と油じゃなかったのかしら。

「難しいわね。アメリカの事情、よく知らないし。ただ、日本人と違ってアメリカ女性って、すごくはっきりものを言うでしょう。日本じゃそんなに盛り上がらないんじゃないかしら」

これでは答えになっていないなと思いながら、ごまかすようにアイスティーのストローに口をつけた。ここのアイスティーは、なかなかいける。

「それがそうでもないみたいですよ。日本でもけっこう相談件数が増えているんですって」

「そうなんだ。私たちも男性研究が必要ね。でもそういう情報があんまり独り歩きして、男性諸君が委縮しちゃうのも考えものね」

そろそろ戻らなくてはならなかった。何となく年下の女性に対してオバサンやっちゃったかなと思った。つまり、自分には関係のないことについて感想を述べるみたいな言い方になっような気がしたのだ。これじゃいけないのかもしれない。

「あの……」

オフィスに戻る途中で、さくらちゃんがちょっとくぐもった顔つきで言った。

「え?」

「今日、よかったらお夕食、一緒にしません? さっきの話ししているうち、ちょっと先輩に相談したくなっちゃって」

「いいけど、でも、恋愛相談なんて、わたし、できないわよ。未経験ババアだから」

「だけど、先輩って、なんか頼りになる気がするんです。女どうしとして」

女どうしとしてという言葉に、心の中で苦笑してしまった。くすぐったいがうれしくないこともない。素直に約束して部署に戻った。

堤 佑介Ⅰの2

 

チーフの岡田がひとり残っていた。

「一杯やらないか」

「いいですね! もう早くビールにありつきたいわ!」

岡田はいつものおどけ癖を出してオネエ言葉で答えた。

八月も終わりに近づいたので、窓の外には暮色が迫っている。しかし今年の夏は夕方になっても気温が下がらない。車で案内したとはいえ、ちょっと外に出てくるだけで、下着が汗でびっしょりだった。日中30度を超える日が当たり前になっているので、暑さになれてしまったとはいうものの、今日はまた、格別暑かった。

 

ウチは首都圏だけにエリアを絞って、本社以外に4つの営業所を持つ中規模不動産会社で、賃貸と売買の受託仲介が中心。仲介後の管理業務も行っている。時には不動産に関するコンサルも。

私は郊外の急行停車駅前にある営業所の長を務めている。スタッフは私を含めて13人、うち、非正規が4人。

何かのネット情報で読んだが、不動産業はサービス残業が教育業界に次いで多い職種だそうだ。

それはそうかもしれない、と思った。この仕事は、土日は超多忙だし、金曜などは夜遅くまで顧客の相手をしなくてはならないことも多い。

でもウチはそのあたりは堅実で、ブラックの汚名を着せられないように気を配っている。いわゆる「働き方改革」による規制の動きには敏感な方で、残業代は、名目上はちゃんと計算されている。まあマシな方だった。

しかし人気エリアだから、この人数で売買と賃貸の仲介、賃貸の維持管理の業務を円滑にこなすことはかなり無理がある。

ずいぶん前から増員を申請しているのだが、本社のほうは首を縦に振ってくれない。長引く不況で、人材投資を渋っているに違いない。粗利はかなり上がっているはずだが、株主配当などに流れているのだろう。そのうちブラック企業に転落するかもしれない。

 

「所長、暑いのにご苦労様でした」

「いやいや、たまには現地に行くのも勉強になる」

よく立ち寄る居酒屋でジョッキを合わせた。

「しかしこの界隈も空き家が増えましたね。さっき私が案内した物件も築23年ですが、売りに出されてから1年半たつのにまだ売れません。もう一段下げた方がいいかもしれませんよ」

「どれだっけ」

「中野木のやつです」

「今日の客はどうだった」

「うーん、何とも言えませんねえ。脈があるような、ないような」

「夫婦で来たの」

「ええ、四十代かな。まあ経済的には余裕がありそうに見えましたけれどね。築浅のマンションにしようか、戸建てにしようか迷ってるって言ってました」

「全国で空き家800万戸だっていうからな。ウチの空き家対策もちょっと遅れ気味だね」

「売買と賃貸だけに特化させ過ぎてきたきらいがありますよね」

「そう。これからは空き家をどうケアしていくかが競争の修羅場になるかもな。まずはアパートの空きをどうするかが大きな課題だね。」

「その通りですね。これからは、巡回管理、相談といったサービスだけじゃなくて、場合によっちゃあ、中古を買い叩いてリフォーム、新規売り出しに力を入れた方がいいかもしれませんね。エステリアさんなんかはそっちにシフトしているらしい」

「あそこは大手だし、住宅販売やゼネコンとの結びつきが緊密だからな。やっぱり資金の流動性の面で強いよ。そこへ行くと、ウチは……」

「でも所長、遺品整理とか物流サービスのような細かいところに活路を見出す手もありますよ。」

「なるほど、遺品整理か。それは超高齢社会だからけっこうニーズがあるかもね。今度本部で会議があった時に提案してみよう」

「物流の場合は、たとえばいくつもの運送会社と契約を結んで情報交換し、効率的な配置サービスでサポートする。実際に共同で仕事やってもいいと思うんですよね。あと、ウチにはいまのところ関係ありませんが、もっと大きい話だと、女性の社会進出に応えて住宅と保育所と店舗の複合施設を開発するとか」

岡田は明敏である。私はそこまで考えていなかった。たしかにこの業界も、これからは体面を棄てて、いろいろと多角経営に手を出さないと生き残りが難しいのかもしれない。

一時間半ほど食べて飲んだ後、二人は別れた。やはり、ウチのこれからという点に関しては、景気の良い話はあまり出なかった。

 

堤 佑介Ⅰの1

                                    2018年8月25日(土

 

暑さにやられたのか、昨日から賃貸担当の山下が休んでしまったので、代わりを務めなくてはならなかった。

シーズンオフのため、若手も順繰りに休暇を取っている。たまたまシフトの調整がうまく行かず、山下しかいなかったのだ。その山下もダウンというわけで私が代役。

土曜日なので混むかと思ったが、そんなに忙殺されたというわけでもなかった。それでも最後の客を案内し終わったのは7時近くになっていただろうか。

閉店間際に入ってきた若いカップルが、プリントアウトしたネット情報を差し出して、ここを内見したいと言った。車で七、八分ほどかかる高台の場所だった。

シートに記入してもらっている間に、車と部屋のキーを取りに奥に戻った。

「どうぞ。いま車をつけますので、申し訳ありませんがソファでお待ちいただけますか」

接客や案内はもうずいぶんやっていない。失礼に当たらなかったかと、ちょっと気になる。

そこそこインテリっぽい、感じのいいカップルだと思った。男女とも30前後といったところか。

エンジンを発進させながら、さりげなく聞いてみた。

「お住み替えですか」

「はい、今までのところが狭くてあんまり環境もよくないもんですから」

女のほうがきびきびした調子で答えた。

「けやきが丘はおなじみなんですか」

「いえ、初めて来てみたんです。人気のエリアですから」

「そうなんですよね。最近も駅前に大規模マンションができましたが、建設当初から完売でした」

「物価とか、やっぱり高いですか」

「そうですね。沿線の他の駅よりは多少」

「フユーソーが多いんだな」

今度は男が、独り言のようにつぶやいた。何となく心配そうだ。

目的の物件は、オーナーが高齢になって、便利な駅近のマンションに移ったため空き家となった戸建てである。当分は売らずに賃貸するのだという。

 

二人は相当微に入り細を穿って調べていた。質問も多かった。特に女の方が。

駅から距離はあるが、バスの便は多いし、昔から住宅街として有名な地区である。築二十五年ほど経っているが、けっこう値が張る。

帰りの車中で二人が話し始めた。

「いいところね。私は気に入ったわ」

「うん。だけど問題は家賃だね」

男の声は遠慮がちだった。

「センターに帰ってから、ほかの物件もいろいろご紹介できますよ」と私。

ところがそれには耳を貸さず、二人の話し合いは、だんだん言い合いになっていった。

「がんばればなんとかなるわよ」

「そう簡単に言うなよ。君は安定しているかもしれないけど、僕はいつ派遣切りに合うかわからないんだぜ」

「それはあなた次第よ。もしそうなったら、もっと条件のいい勤め先、努力して探せばいいじゃない」

「僕の甲斐性のせいにするのか。そう簡単じゃないことは派遣になってみればわかる」

男の口調は半ば自嘲気味だった。

「だから就活んとき、ちゃんと正規を目指せばよかったのよ」

「あんときは芝居に打ち込んでたんだ。前にも話しただろ。いまさら古い話を持ち出すなよ」

帰ってからやればいいのに、こういうところはやっぱり若いな。私的事情を外の社員に聞かせるのはまずいですよ。

センターに戻る車に乗り込んだ時、「お買い求めのほうはお考えになっていないんですか」と持ちかけようと思っていたのだが、その言葉を出す機会を失った。

そういえば、3年前に労働者派遣法が改正されて、すべての職業に関して、3年経てば使用者側から一方的に派遣社員を解雇できることになった。ずいぶん労働者に対して過酷な法改正だなと、当時思ったものだった。今の政権は何を考えているんだろう。

女のほうは、「安定している」と言われていたから、大企業か公務員だろうか。とにかく、昨今の若い男女のご多分に漏れず、女のほうが気丈でしっかりしていて、男のほうが気弱で頼りなく見えた。

大学に勤めている友人の篠原が言っていたが、最近は女子学生の方がずっと成績がよくて、日本語も満足に書けない男子学生が多いそうだ。

しかし、と、このハリキリ女性に言ってやりたかった。

政府はいつだったか、「すべての女性が輝く社会」とか言っていたけれど、あれは女性を低賃金で労働市場に駆り出す誘い文句に過ぎない。

労働現場はそんなに甘くないよ。子どもでもできればきっとあなたにもいろんな問題が降りかかってきて、疲れを感じるようになる。それは個人の努力で簡単に解決する問題じゃないんですよ。

他の物件の資料も何枚か渡し、おススメ物件について簡単に説明したが、結局「検討してみます」ということになって、カップルは帰っていった。

あの二人はたぶんここには越してこないな。

長年の勘のようなものがそう思わせた。

考えてみれば彼らの世代は、幼いころから不景気しか知らないのだ。ちょっとかわいそうだった。

私が結婚したころは、すでにバブルははじけていたが、まだその悪影響は普通の市民生活の場面には響いていず、中古市場は活気を帯びていた。若者にこんなに希望を持たせない世の中になるとは想像すらしなかった。

しかしそれはこちらの見方で、彼ら自身はいまの社会環境が当たり前だと思っているのかもしれない。就職も売り手市場だと言われているし、一部の業界では人手不足が叫ばれているし。

半澤玲子Ⅰの3

 

表に出ると昼の暑さがまだそのまま残っているようで、温気を含んだ風が頬をなぶるように迫ってきた。エリとは反対方向なので、地下鉄の改札口で別れた。

電車の中でも家に帰ってからも、今日のエリの話が、背中にしょった小荷物みたいに心にかかっていた。といって、重さのために打ちひしがれるとか、押しつぶされるというほどじゃない。

とにかくエリの話は、他人事ではないという感じをわたしに与えたのだ。そのことが大きかった。これから自分の行く末に思いをはせるたび、今日のことが甦るはず。

「よくお考えあそばせ、元奥様」か。

でも恋活サイトに登録するかどうか考えるんじゃなくて、考えるべき問題はもっと本質的なんだ。といって、どういう風に考えていけばいいのか、その道筋についてはてんで見えてこない。

職場の男性たちの顔を何人か思い浮かべてみる。

独身はけっこういた。ウチは仕事柄、男女比は4:6ぐらいなんだけど、それでも人数が多いから。

営業の吉岡さんはたしか四十半ば、わたしと同じ経理の中田課長はもう五十に近かったかな。人事の大村さん、けっこう素敵だけど、まだ四十行ってないでしょう。年が違い過ぎる。最近じゃフランスのマクロン大統領みたいに年下が流行ってるとかいうけど、やっぱりなあ。

総務の五十嵐次長はたしかもう五十代半ばよね。彼なんか一生独身のつもりかしら。すごくいい人なのに、お腹が出てるのと薄毛が災いしてるかもね。クスッ。

そういえば、何かで読んだけど、いま五十代男性の四人に一人が一度も結婚したことがないそうだ。もうすぐそれが三人に一人になるとか。

これからの男女関係とか家族ってどうなっちゃうのかしら。このまま少子化が進んで日本は滅んじゃうのかしら。

いやいやそんな大きな話はどうでもいいわ。問題は私自身の人生よ。

前の職場でも今の職場でも、これまで言い寄ってきたのは何人もいた。感じのいい優しい人もいた。でもどうも食指が動かなかった。そんなにえり好みをするほうじゃないと思うんだけど、いざとなると考え込んでしまうのだった。もともとわたしのほうから接近、なんて積極性は持ち合わせていないし。

そうこうするうち、こうなってしまいました。

 

考えたって仕方がない。お風呂に入ることにした。

洗面台の鏡の前でブラジャーをはずすと、小ぶりだけど形のいい(と、自分で勝手に思っている)乳房が元気よくこっちを向いた。まだほとんど垂れていないな。いまどきの若いもんにゃあ負けねえぜ。

いつかTSUKAYAで借りて見たクリント・イーストウッドの『マディソン郡の橋』を思い出した。田舎の主婦のメリル・ストリープが、橋を撮りに来たカメラマンに出会った一日目の夜、恋心が芽生えているのを感じて、食事を終えて彼が帰った後に、自分のややだぶついた裸体を鏡に映すシーンだ。ほんの短い瞬間だけど、自分は恋をしてしまったんだろうか、そうだとしたらこの体は恋に値するんだろうかと迷っている感じがすごくよく出ていた。

恋をするには才能が必要だ、なんて誰かが言ってなかったっけ。でも本当にそうだ。よーし、わたしもエリみたいに、でもたぶんエリとは違った仕方でがんばるぞー。

そう思うとまた元気が出てきて、浴槽の中で唄を歌ってしまった。

♪ときのながれにみをまかせ~ あなたのいろにそめられ~ いちどのじんせいそれさえ~ すてることもかまわない~ だからおねがい~ そばにおいてね~……♪