半澤玲子Ⅳの3

 

母はしばらく間を置いてから遠慮がちに言った。

「再婚するつもりはないの」

初めての一撃だった。

じつはわたしは、今夜ここに泊まらせてもらって、明日、例の婚活サイトに登録するためのプロフィール文を念入りに書くつもりでいたのだ。タイミングぴったりだ。気持ちを見抜かれているようだった。

載せる写真はすでにスマホにため込んだスナップと、新しく撮った何枚もの自撮りのなかから最良と思えるものを決めてある。

どのサイトがどういう特徴を持っているかについて、きちんと紹介しているブログなどもけっこうある。目的別、シェアのランク、課金のしくみ等々。その種のサイトも、それなりによく調べてみた。

また男性の中には「ヤリモク」といって、Hするだけが目的で登録しているのがたくさんいるという情報もあった。恋活サイトはヤリモクの巣窟とあり、自らヤリモクだった男が足を洗って、女性向けにヤリモクを避けるためのコツをわざわざご教示してくれている。

これには笑ってしまった。窃盗犯で入所してる囚人が警察の要望で窃盗の手口を語って協力しているようなものだ。

でもそんなものだろうな、と思った。けれどこんなバツイチのオバサンにヤリモクで近づく男は、ほとんどいないでしょう。

男はいくつになっても若い女の肉体を求めるものだ。仮にフケセンがいたとしても、こちらが本気度を示して拒否すれば問題ない。

 

エリがトップのシェアを占めているサイト「Couples」を選んでいたのに対して、わたしは二番手の「Fureai」というのを選んだ。自分にはこっちの方が性にあっているかなと思ったのだ。

昔から、何となく一番人気を避けるようなところがわたしにはある。今の会社も業界トップではない。マンションも、一流どころではなく、ちょっとマイナーな不動産会社が売り出している物件を選んだ。

それにしても、婚活、恋活サイトには、外国人向けも含めて、300以上あるのにはびっくりした。

きっとこの業界も栄枯盛衰が激しいのだろう。中にはかなりいいかげんなものもあるに違いない。でもこれだけあるのは、少なくともニーズが豊富な証拠だ。ということは、いかに真剣な出会いを求めている男女が多いかを示している。

さくらちゃんが言ってた「代理婚活」だって盛んらしいから。

でも代理婚活って、結局お見合いと大して変わらない。それが立派なビジネスになってしまったというのが、昔と違うところだ。

自治体や民間で催しているイベントのたぐいも調べてみた。しかし年齢制限で引っかかった。都内でもいくつかの人気地区で、盛んにイベントやパーティが行なわれていたが、だいたいが女性二十代、男性三十代前半までで、最高でも39歳までだった。

そりゃあそうよね。四十代後半のわたしがのこのこそんなところに出かけたって、お呼びでないに決まってる。

結局、婚活サイトぐらいしか可能性はない。とにかく、エリに勧められて、ここまで来てしまった。そうである以上、自分の決意をより固めるためにも、親しい人に何らかのかたちで話す、ということが大事に思われた。

「再婚する気はないの」

こういうことを聞く人はこれまで山ほどいたけれど、いつも適当に受け流していた。しかし一度も正面切って問うたことのない母から尋ねられると、そうはいかない。手にしていた湯飲みをいったん食卓に置き直してから答えた。

「そうね。ちょっと考えはじめたんだけど……もうぎりぎりだもんね」

「……誰かつきあってる人……いるの」

今度はもっと遠慮がちな口調だった。

「……じつはこれから探そうと思ってるのよ」

頼りなく聞こえたに違いない。「いる」とウソをついてもよかった。「どんな人?」と聞かれたら、適当にごまかしてしまえばいい。

でもそんな簡単に見つかるわけないものね。正直に答えた方がいい。

「どうやって」と突っ込まれることを覚悟した。

でも母は、

「そう。いい人が見つかるといいわね。いま寿命が長くなってるから、これからの人生、きちんと考えておかないとね」

そう言ったきり、それ以上追及しようとはしなかった。でもその言い方には、何となく安心したような響きがこもっていた。母の優しい言葉と心遣いが、また少し私の背中を押してくれたような気がした。

明日は時間をかけて自己紹介文を練ることにしよう。エリのアドバイスも入れて、余計なことは書かずに、簡潔に。

 

【半澤玲子婚活サイトFureaiプロフィール】

 ニックネーム:ワレモコウ

 年齢:47歳(認証済み)

 身長:159㎝

 タバコ:吸わない

 趣味:活け花、ショッピング、映画、美術鑑賞、温泉、国内旅行

 

 《自己紹介文》

プロフィールを見ていただき、ありがとうございます。

年齢が高いので、ずいぶんためらいましたが、友人に勧められて、思い切って登録しました。

毎日仕事に追われ、出会いの機会がほとんどないうちに、ここまで来てしまいました。

でも、これからの人生のことを考えると、先が長いので、このままひとりで老いていくのには、とても寂しいものを感じます。

どちらかというと、インドア系で、静かな生活が好きです。

東京在住ですが、若い頃、仕事でいくつかの地方をまわりました。そのせいか、それぞれの土地の特色を味わうことに関心があり、休暇をとって国内各地を旅行することが時々あります。

年よりは若く見えると言われますが、これはお世辞かもしれません。

極端に離れているのでない限り、相手の方との年齢差にはこだわりません。

相手の方のお話に合わせるのは、わりと上手なほうです。

お料理は、普通にできます。煮物などが得意です。

わたしのことを可愛いと思ってくださる方との、長くつづく着実なお付き合いを求めています。

 

 《ディテール》

 職業:トイレタリー系企業経理部

 休日:土日

 体型:やや細め

 居住地:東京

 出生地:東京

 家族:母、妹

 同居人:独り暮らし

 年収:500万円以上

 婚姻歴:離婚

 子ども:なし

 好きな料理:和食、イタリアン

 お酒:時々飲む

 性格:温和・明るい

 学歴:四大卒

 休日の過ごし方:映画鑑賞、ショッピング、友人と会う、散歩、美術館巡り

 転居の可能性:時と場合による

 望ましい交際:ゆっくりメール交換をし、機が熟してから会う

半澤玲子Ⅳの2

 

母は武蔵野に一人で住んで、遺族年金で食べている。いまでも細々とお花を教えていて、そこそこ副収入になっているらしい。

父は3年前に肝臓がんで亡くなった。74だった。働き過ぎとお酒。

それでも中堅企業の役員クラスまで上り詰めたので、多少の遺産を残した。じつはわたしが今の会社に入社できたのも、父のコネが多少効いているらしい。またマンションを買った時も、少し援助してもらった。

5時に電話を入れると、向こうもうれしそうだった。

「何時ごろになるの?」

「8時前くらいには行けると思う」

「お夕飯作って待ってるわ」

「ありがとう」

駅からバスで5分ほど。市街地からは少し外れた閑静なところだが、バスは都心から帰る客でけっこう混んでいた。

実家は30何年も前、わたしが中学生、妹が小学生のころに父が建てた二階家で、公園の際にあった。

 

「ただいま」

「お帰り。割と早かったわね」

「うん。ああ、でもお腹すいちゃった」

「すぐ食べられるわよ」

教室にしている玄関わきの8畳の和室は襖が開けてあって、床の間に母が活けた花が飾ってあるのが見えた。ワレモコウを立てる形にして、薄紅色のケイトウをふたつ足元にあしらった大原流の流れ。

「お母さんらしい活け方ね。清楚だわ」

「このごろはもう、あまり派手なのは避けるようにしているのよ。玲子は最近やってるの」

「ごめん。ほとんどやらなくなっちゃった」

「仕事で忙しいだろうからね」

父の遺影に手を合わせてから食卓についた。

鰤の照り焼きに里芋の煮つけ、トマトに豆腐の味噌汁。わたしの好物が並んでいる。

「仕事は順調?」

「順調っていうか、もうルーティン・ワークだから。忙しくたって忙しくなくたって、おんなじようなものだわ」

ごはんをぱくつきながら答えた。

 

「今日、コールセンターの子が、客のしつこい苦情に参って倒れちゃったんだって」

「倒れたって……入院でもしたの」

「それはよくわかんないんだけど、たぶんストレスでめまいでも起こしたんじゃないの」

製品に瑕疵があったかもしれないことは言わない。親であっても、これは企業秘密。

「まあ、その子は可哀相だけど、玲子じゃなくてよかったね。お前もコールセンターにいたことがあったね」

「あの頃はわたしもたいへんだった。お父さんやお母さんには言わなかったけど、倒れる寸前のこともあったわ」

母は、わたしの結婚生活の破綻には触れないようにしてくれる。また、再婚しろとも決して言わない。それはとてもありがたい。でも実家から職場までそんなに遠くないのに、別れて互いに独り暮らししていることには反対らしく、実家に帰るたび、家に戻ってくればよいのにと、それとなくほのめかす。

それはしかし、母が父を失って心細くなったからではなかった。自立心の強い人だから、子どもに迷惑をかけることを極端に嫌っていたし、子どもの意向をどこまでも尊重するタイプだった。また孤独を愛するふうもあった。

ただ、昔の人だから、親子が両方とも独り暮らしをしてるのは、型として不自然だと思っているようだった。それに、確かに不経済な話だ。マンションを売れば少しはお金ができるわけだし。

わたしが離婚しても実家に戻らず、独り暮らしを続けているのには、はっきりとした理由があるわけではない。父を疎ましく思っていたのでもないし、母とは昔からとても仲良しだった。

でも何というか、わたしにとっては、一度家を出てしまった以上、一人で生きていくのが自然に思えるのだ。慣れてしまったといってもいいかもしれない。地方への転勤が重なったこともあるし。

だから一度自由を味わってしまうと、なかなか古巣に帰る気になれない。

とはいえ、時々帰りたくなるところを見ると、やっぱり母に甘えたい気持ちもあるのだろう。今日も自分に直接災難が降りかかったわけでもないのに、実家の懐かしいにおいを嗅ぎたくなってしまった。

庭はそこそこ広いし金木犀や紫陽花、山茶花や柿の木がある。公園は森になっていて武蔵野の柔らかい風が梢を通して季節ごとの香りを運んでくる。わたしの膝ではさっきからハナが気持ちよさそうに居眠りしている。

「やっぱりここに帰ってくるとくつろぐわね」

「そろそろ里心がついた?」

「うーん、そうかもしれない。でもさ、わたしって別荘があるみたいなもんでしょう。このぜいたくもまた捨てがたいんだなあ」

「ふふ……実家じゃなくて別荘か。勝手なこと言ってるよ」

そうつぶやいたきり、母はそれ以上何も言わなかった。

 

「話は変わるけどさ、わたし、こないだ通勤電車で痴漢に遭っちゃったのよ」

「ええ? それでどうしたの」

お茶を継ぎ足しながら、母は目を丸くしてこっちを見た。

「ま、うまくすり抜けたけどね。でも久しぶりだったんで、ちょっと複雑な気持ちになったんだ」

「複雑な気持ちって」

「つまりね、わたし、もうこんな年でしょう。まだそういうことがあるのかと思うと、何ていうの、男どもは自分のこと、若い女として見てるのかなあと……」

「それでうれしかったっていうの」

「うれしくなんかないわよ。蹴とばしてやりたくなった。その日一日やな気分が残ってたわ。でも、そういうことが全然なくなっちゃったら、それはそれでどうなのかなって」

母は少し考えるふうにしてから、分別をわきまえたゆっくりとした口調で言った。

「いまの人たちは昔と違ってとても若く見えるからね。みんな出勤の時はお化粧してパリッとした服装で出かけるんでしょ。玲子だって47には見えないと思うよ。わたしもさ、街歩いてて、この人はいくつぐらいだろうって見当がつかないこと、よくあるもの。こないだ入会した生徒さんでね、どう見ても20代にしか見えないんだけど、入会録に42って書いたんでびっくりしたわ」

やっぱりそうか。エリが言ってくれたのもまんざらお世辞や元気づけじゃないのかも。自信を持て、自信を持てと、もう一人の自分がささやいているように思った。

「そうね。そういえばお母さんも75にはとてもみえないわ」と、これは、フォローしてくれたお返しのつもり。

 

「ねえ、お母さん。変なこと聞くけど、最後に痴漢に遭ったのって何歳ぐらい?」

母は、一瞬、答弁に詰まった政治家のように顎を引き、それから目じりに皺を寄せ、口元に微笑みを浮かべて言った。

「さあねえ。わたしはあんまり電車に乗らないほうだからねえ。やっぱり45くらいまでかしらね。今の人と違ってそんなに若く見えなかったしねえ」

恥じらうようにお茶を急須に継ぎ足しに立った小柄な母が可愛く見えた。

ハナが目を覚まし、わたしの膝から降りて、母のほうに歩み寄った。

「やっぱり、そうか。45か」

帰ってきた母は、つぶやいたわたしの言葉をまともに受け止めるかのようにじっとこちらを見つめた。それから言った。

「わたしのほうから変なこと聞くけど、生理はまだあるの」

こんどはこちらが面食らう番だった。

「……おかげさまで、まだ一応。時々不順かなあ」

「そろそろ更年期ね。そういう兆候はない?」

なにせアラフィフだ。心配されて当然だった。

「うん、それも考えてはいるけど、少し疲れやすくなったぐらいで、目立った症状とかはないわね」

「まあ、いまはいい薬や治療法もあるみたいだからね。それらしい症状が出たらすぐお医者さんに相談するといいよ。仕事で無理しないようにね」

「ありがとう」

半澤玲子Ⅳの1

 

                                     2018年9月13日(木)

 

今日はちょっとしたトラブルがあった。

出勤して間もなく、社内でニュースが流れてきた。

ウチの製品で、キーピィという子ども用の日焼け止めジェルがある。

今年の夏、一部の地域で出荷されたその製品を自分の赤ちゃんにつけていた複数のお母さんから、赤みやはれが生じたというクレームがコールセンターに寄せられたのだ。

赤ちゃんの体質にもよるので、一応注意書きには、そういう兆候が出た場合には、皮膚科に診せることを勧めてはいる。しかし、今度の場合は、いままでになかったことでもあるし、クレームの数も二ケタ近くに上った。

こういうクレームはふつう、まず総務部に上げられて、そこで対処法が議論される。

もし製品そのものに欠陥があるのだとしたら、ブランドの信用にかかわるかなりの騒ぎになる。

マスコミに知れる前に事実を一つ一つ確認し、そのうえで、機先を制してこちらから発表しなくちゃならない。社員をたくさん動員する必要があるし、出荷分の回収が必要だし、場合によっては製品全体の販売停止に追い込まれる可能性もある。

総務部と経理部は同じフロアにある。五十嵐次長が大きなお腹を突き出しながら、いつになく緊張した顔つきで、何度も出たり入ったりしているのが遠目に見えた。優しい五十嵐さん、応援してるから頑張って。

しかしそれだけではなかった。

クレーマーの中にしつこいのがいて、電話で直接対応したコールセンターの社員がストレスのあまり倒れてしまったというのだ。

「とにかく謝れ」が最近の傾向である。これってどうなのかしら、と疑問を持つ人は多いけれど、それ以外に手がない。キレちゃったらおしまい。

モンスター・クレーマーは、自分の日ごろの不満を発散するために電話をかけてくるので、こちらがいくらていねいに対応しても聞く耳を持たない。

口汚いくらいは当たり前、「出るところに出るからね」「他の製品一年分よこせ」などといった脅迫まがいのもある。一人のお客様係ではとても対応しきれない。

私にも身に覚えがあるので、他人事とは思えなかった。

会社にはそれなりに衛生管理の部門があって、カウンセラーも配置されているけれど、しょっちゅうそういうところにお世話になるのも、なんだか癪な話。

「笑顔を絶やさず」何とか頑張って見せなくては、職業人としてのプライドが許さないし、だいいち、人事評価にもかかわってくる。

大げさとは思うけど、「王様と奴隷」という言葉がふと浮かんだ。みんな平等な社会ということになっているから、身分がそういうふうに固定されているわけではない。そうすると、わたしたちは、自分が消費者の時には王様になれるけれど、逆に消費者に対応する時には奴隷にならなくてはならない。

こういうまわりまわった関係になっているので、あるところで奴隷の気分を味わわされたその不満を、立場が変わった時に王様になって発散することになる。

これって悪循環じゃないかしら。

なんだかこういうことが、最近増えてきたような気がする。

妹の子どもたちの学校にも、モンスター・ペアレントっていうのがいて、採点にいちいちケチをつけたり、ウチの子どもをリレーの選手にしろとか、どんな教え方をしてるのか疑わしいから毎日参観させろとかいうのがいるんだそうだ。

個人主義って、干渉しあわなくて気持ちのいいところもあるけど、自分のエゴばっかり主張するようになると、いやな風潮だなあと思う。

今日聞いたクレーム事件の場合、製品に問題があるならもちろん社としてきちんと処理しなくちゃいけない。でも、倒れちゃった人のことを考えると、こんな「お客様は神様」式のやり方を続けていていいんだろうかって言いたくなってくる。

テレビでの謝罪会見て、しょっちゅう目にするけど、あれも見ていてあまり気持ちのいいものじゃない。あれって日本人特有じゃないかしら。もっと正当に釈明すべきところはした方がいい。受け取るマスコミの側も、釈明を許さないような圧力をかけるのをやめるべきだ。

おまけにこの頃は、ネットでの匿名のバッシングがものすごい。わたしたちみんながお互い、何か見えない妖怪のようなものと向き合っている感じだ。

今日のことは、私のいまの部署には直接かかわらないので、黙って観察してればよかった。でもことと次第によっては、こちらにも類が及んでくる。

そんなことを考えていると、なんだかひどく精神的な疲れを感じてしまい、一人でマンションに帰る気がしなくなった。こういう時、優しい彼氏でもいればなあ。

でもそれはかなわぬ望み。今日は母のところにでも寄らせてもらおう。

堤 佑介Ⅲの3

 

帰宅してから、事業部から出されているモデルハウス改築の提案書をざっと調べた。

あれもだいぶ古くなっている。とにかく今日の客が新築物件の設備をあんなに喜んでいたところをみても、そのあたりの綿密な議論は必要だろうなと思った。

風呂から出て、いつものようにオンザロックを作った。

それから今日の打ち上げの会話を思い出してみた。くつろいだ気分になってみると、原発や電力自由化の話よりも、むしろセクハラ話題の方が気になった。

 

セクハラかどうかは、当の女性がそう感じたかどうかにかかっている――これって少しおかしくないかな。すべては女性の主観で決められる。

この前『電子マン』を読んだときは、この本は「キモメン」の恨みつらみを代弁してるだけで、昔から許諾権は女が握ってるに決まっていると思った。

セックスとか、それに類する行為だったら、それはそうに違いない。男の欲望のままにさせたら、男女入り乱れるいまの社会では、めちゃくちゃになっちゃうからな。だから風俗だってほとんど男が金を払って女にさせてもらう形になってる。

しかし、ちょっとした言葉や振舞いまで、その判定の権利が女にあるというのは、どうも行きすぎてる感じがする。嫌がってるのに触ったり抱き着いたりしたら、これは論外だろうけど。

たとえば「今日はお化粧のノリがいいね」はセクハラか。「お。髪切ったの。なんかあったのかな」は? 「ちょっと疲れてるみたいだけど大丈夫?」は? 

これらは相手との親密さの度合いによって、セクハラになったりならなかったりするだろう。それにしてもそう判断するのはもっぱら女性だ。

セクハラっていう言葉が定着してから、親睦を深めるつもりで言ったのに、そう受け取られない可能性がとても大きくなってしまった。

これってジェントルマンシップの持ち合わせの問題で、やっぱり男にもっぱら心理的な負担がかかってしまう。だから最近の若者は、女性に対して引いてしまうんだろうな。

もっとも今日八木沢が結論づけた、相手がブサイクなオヤジだったらセクハラになるけど、イケメンに同じことされたらかえってうれしい場合もあるってのは、いかにもリアリティがある――そう思って改めて笑ってしまった。氷とウィスキーを継ぎ足した。

結局、誰がどんな状況、どんな口調で誰に向かって言ってるかをはっきりさせずに、ある言葉だけを切り取ってきてセクハラかそうでないかを判定しようというところに無理があるんだろう。ひところ流行った差別語狩りと同じようなものだ。

ウチの社員で言えば、山下みたいな既婚者のさばけたお局に言っても、うまくかわす可能性が高いけど、同じことを川越嬢に言ったら、被害感情を抱くかもしれない。八木沢や渡辺は微妙だな。

それと、こういうことも言えそうな気がする。

女自身が自分の女性性に自信を持っているかいないかで、被害感情も変わってくる。自信を持ってると、何かそれらしきことを言われても、あんまり気にならないんじゃないか。セクハラ、セクハラ騒ぎ立てるのは、どうもブスやオバサンに多いような気がする。

こんなことはあからさまには言えないけれど。

でもそうだとすると、ここには被害を訴える女性の側の自意識の問題も絡んでるってことだ。

そういえば、いつだったか、そんなに混んでいない電車から降りるとき、傘を持つ私の手が隣にいたオバサンの腿のあたりにほんの少し触れてしまったことがある。そのオバサンも同じ駅で降りるので、両方がドアに接近したのだ。謝るほどのことはないと思った。

ところがオバサンは何を勘違いしたか、ホームに降りてからも私の顔を睨んでいた。私は知らん顔をしたが、心の中では「あんたみたいなブスオバサンに痴漢するわけないだろ。まず鏡を見ろ」と言ってやりたかった。

とかくセクハラにしてもパワハラにしても、線引きが難しい。生命身体やモノの被害ならはっきりしてるけど、心の問題だからな。でもセクハラ問題がこれほどクローズアップされるってのは、要するに、女性が社会的に強くなりすぎたってことじゃないのかな。

 

ウチの正社員の容貌を一人ひとり思い浮かべながら人事査定を試みる。まず女性。

山下は「優」。

よく勉強しているし、接客も身についている。

八木沢は頭が切れるが、ちょっと気が強すぎて接客には向かないかもしれない。

川越はまだ未知数だが、伸びしろが大きそうだし、仕事への情熱を感じる。

事務担当の渡辺も緻密に仕事をこなす。

かたや男性社員。チーフの岡田は別格として、中村は入社何年だったかな。だいぶ経つけど、いまいち。誠実で真面目だが、ちょっとガッツに欠ける。もう少し押しが欲しいところだ。

逆に谷内は元気で明るいところはいいが、それが災いする時もあって、接客面で少しハラハラさせる。この業界、やり過ぎは厳禁だ。

川越の2年前に入った本田は、あの世代にふさわしく情報処理能力が優れているが、可愛い坊やみたいな風貌だから、お客さんになめられていないかちょっと心配。

こうしてみると、ウチも女性の方が優秀かもしれない。

 

セクハラ問題。

これはもっぱら女性に対する男性の振舞い方への突き付けの問題だ。逆はほとんどあり得ない。昔、痴女もいるなんてことを言ってた評論家がいたが、そんなのは圧倒的に少数で、特殊な状況だろう。

他にも女性専用車両、女性割引料金、女性議員や女性総合職の数がもっと増えることが進歩の尺度だったりする風潮。女性っていま、ほんとに社会的弱者なのか? 

マイノリティと一口に言っても、女性は男性と同数だし。昔から、財布は母ちゃんが握っているとか、カカア天下とか、女のほうがいろんな意味で強いとは、よく言われるセリフだし。平均寿命だって五年以上の差があるし。

緊急事態なんかで、女性より先に男が逃げたりしたら、そいつはやっぱり軽蔑されるだろう。車内で健康な同年齢の男女二人が立っている時、目の前で席が一つ空いたら、まず間違いなく女に座ってもらうだろう。

こういうことって、じつは性差の問題が深く絡んでいるんじゃないのかな。難しい言葉で言うと、男と女の非対称性ってやつだ。

そのことをよく考えないで、ただなんでも平等とか人権とかポリティカル・コレクトネスとか前面に振りかざすのって、どうも生活感覚と合わない。俺が古いのかな。

そういえば親友の篠原がいた。あいつは、専攻が社会学だったな。今度会っていろいろ聞いてみよう。最近の若者の恋愛、結婚志向のことなんかも含めて……。

堤 佑介Ⅲの2

 

6時に終わって軽く打ち上げをしようということになった。

明日の日曜日も重要なのだが、明日は本部でモデルハウス改築についての会議があって、私が現地に来られない。そこで岡田が気を利かせて提案したのだ。

いつもの居酒屋で、男二人、女二人。

三人が生ビール、川越嬢は遠慮がはたらくのか、グレープフルーツサワー。

「皆さんご苦労様。好調な滑り出しでよかったね。今後の成功を祈って」

「あの午前中のお客は脈がありそうですね」

岡田がさっそく言った。

「うん、私もそう思った。しかし皮算用は禁物。戸建て市場は厳しいからね」

「明日もちょっとした勝負ですね」

「うん、岡田君、よろしく頼む」

「しかしこんなに災害が続くと、こっちもいつ来るかわからないから、やっぱりお客さんもあの辺を心配されるんでしょうね」

「台風と地震と連続だからね。今年はちょっと異常だよね。」

「そういえば川越さんのご実家、神戸じゃなかった? 大丈夫だった?」

八木沢が訊いた。

「はい、家は大丈夫でした。でも母から電話があって、風すごかったよ、家が何度も揺れたんだよって言ってました。わたし、ちょうど阪神大震災の年に生まれたんですよ。あのちょっと後なんです。ですから母親はすごく災害に敏感になってるんですね」

みんながああ、なるほどというようにうなずいた。

「震災の時は大丈夫だったの?」

「ええ、何とか大丈夫だったみたいです。でも怖くて、大きいお腹抱えて一晩中車の中で過ごしたって言ってました」

「お母さん、震動で産気づいたとか」

岡田がジョークを飛ばした。

「ハハ、そんなことないと思いますけど」

「震動こそが美女を生む、って誰か言ってなかったかな」

ちょっとエッチなニュアンスを感じる。

すかさず八木沢がチクリと刺す。

「言ってませんよ、そんなこと。それよりいまの発言、セクハラに限りなく近い」

「なんで? 川越君、いまのセクハラ?」

川越は口を手で押さえながら笑って首を横に振るばかり。

「ほら、セクハラじゃないって」

「だから限りなく近いって言ったんですよ」

それから二人はセクハラの定義を巡って、ああでもない、こうでもないと議論した。

私と川越はおもしろそうに聞いていたが、結局、言われた本人がそう感じるか感じないかが決め手なのだという八木沢の意見に落ち着いた。ブサイクなオヤジから言われたらセクハラだが、イケメンから言われたらかえってうれしい場合がある、とも。

「すると俺は、ブサイクなオヤジに限りなく近いのかな」

岡田がひとりごとのようにつぶやいて、この話題は笑いで一段落ついた。

たしかにセクハラもパワハラも線引きが難しい。私自身も、日頃けっこう神経をとがらせている。岡田発言がセクハラとはどうしても思えなかったが、気の強い女性にそう言われたら、抗弁できないかもしれない。

 

私もこの会話を楽しんではいたが、一方ではさっき出た地震の話題が気になっていた。

そう、阪神大震災は、もうあの時生まれた子がこうして社会人になっているほど古い話になったのだ。

 

それにしても、あれから中越地震、中越沖地震、そしてあの3.11、熊本地震、今年6月の大阪地震、そして今度の北海道地震……と、数え上げるのを忘れてしまうほど大地震が続いている。

今度の地震は暖かい時に起きたからまだいいけど、厳冬の北海道でブラックアウトが起きたら、水や食料だけじゃなくて、産業も物流も止まって凍死者が続出するかもしれない。考えただけでもぞっとする。

話は変わるけど、と前置きして、

「今度の地震で、全道ブラックアウトしただろう。電気は我々の生活の命だからね。ガスヒーターだって石油ヒーターだって電気がなきゃつかない。これが冬場に起きていたら大変なことになっただろう。いろいろ反対意見はあるだろうけど、政府はこの際思い切って泊原発の再稼働に踏み切るべきだと僕は思うんだけどね」

所長はまじめすぎる、とよく言われる。酒の席でこういう話題を出すのはまずいとわかってはいた。だが所員の反応も見たかったし、仕事上の心構えをしっかりさせておく必要もあった。

原発再稼働の是非をみんなに問うのではなく、住宅で消費する電力源がどうあるべきかについての考えを、政府や電力会社任せにせずに、不動産業者としてしっかり固めておきたかったのだ。

電力自由化の流れは一応できてはいるが、ひところ流行ったソーラーはコストがかかり、住宅では売電しても償却できないという声が高く、最近は伸び悩んでいる。

しかし案の定、一瞬白けたような空気が漂うのを感じた。所長が言うことだからうかつには意見を返せないという遠慮もあるのだろう。私は、なんでこんなことを言い出したのかを説明した。

岡田が口を開いた。こういう時は、逃げずにまじめになるのが彼の性格だ。

「でも再稼働には相当時間がかかって、冬場には間に合わないんじゃないですか」

「それがね、専門家が書いてるのをネットで読んだんだけど、一か月ちょっとで出来た実績があるそうだよ。だから今すぐ始めれば十分間に合う。今度の停電では、泊を動かしていれば楽々避けられたんだ。ところが政府をはじめとした関係者は、反原発派を恐れて、原発のゲの字も出さない。おかげで北海道電力は死に物狂いの努力をしなくちゃならなかったそうだ。不合理なタブーの支配ほど怖いものはないよ」

女性陣は、やはりあの原発事故の余韻が心の中にわだかまっているのか、固い表情をして黙っていた。

岡田は、しばらく考えるふうにしてから、再び口を切った。

「おっしゃることはとてもよくわかります。再生可能エネルギーは、特に太陽光や風力はいろんな意味で日本の風土に合わないし、蓄電技術が発達してないから供給が不安定ですしね。そうである以上、政府がベースロード電源として原発を位置付けているのは、当分の間は当然だと思います。でも、いずれにしてもこれは国家レベルの話ですから、原発を再稼働するかどうかについてはわれわれが口出しできない領域ですよね。」

「うん、それはそうだ。だけど、これから発送電分離が進むとすると、各家庭での自家発電の機運も高まるかもしれないよ」

実はそんな可能性はないと思っているのだが、ちょっとカマをかけてみる気もあった。

「ですが、われわれの業界では、家庭用の電源を自家発電で、っていう方向性をあまり積極的にお客さんに勧めるべきじゃないと思います。」

「というと?」

「ソーラー発電に将来性が見込めないからです。供給が不安定な上に、初期コストが高くてなかなか償却できない。売電価格が年々下がってますし、メンテ費用もけっこうかかりますからね」

今度は私が助太刀する。

「じつは岡田君の言う通りだと私も思ってる。それにマンションの場合は、充電設備の設置に管理会社や住民の合意が必要だからね。ますます難しいよ。……ちょっと話を戻すんだけど、発送電分離は、電力の安定供給の観点からいって非常にまずいと私は思ってる。アメリカなんか、あれやったために停電がしょっちゅう起きて、連携がうまく行かないんで修復にすごく時間がかかったそうだよ。あれは民営化の流れだけど、何でも自由化、民営化ってよくないと思う。でもアメリカはもうそれを反省しつつあるんだよ。日本は相変わらずアチラサンの後追いをやってるんだね」

みんな黙って聞いてくれてはいたが、岡田以外は、やはり心底納得してくれたようには思えなかった。

話題がだいぶややこしくなってきた。というより私がややこしくしたのだ。ここらで締めた方がいいだろう。

「……いや、お疲れのところ、面倒な話を持ち出して悪かった。そろそろお開きにしましょう。明日は頑張ってください」

八木沢は、岡田と私の一方的な調子にちょっと不満そうで、何か言いたそうだった。セクハラ論議で勝ったからいいじゃないかと、私は含み笑いの気分で思った。川越はこれで解放されるかといった安堵の表情。

堤 佑介Ⅲの1

 

                                    2018年9月8日(土)

週の初めにだいぶ気温が下がって過ごしやすくなったと思ったのに、週半ばからぶり返して、今日はまた真夏日だ。

それよりも、4日に台風21号が西日本を直撃し、関空への連絡橋にタンカーが衝突、多くの倒壊・半壊家屋が出た。それもつかの間、6日の夜中に今度は北海道胆振地方で震度7が襲って、全道がブラックアウトしてしまった。

いやはや今年の日本は猛暑、水害、台風、地震と自然の猛威が立て続けにやってきて、これは神様の何かの警告ではないかと言いたくなる。

首都圏はいまのところ被害に遭っていないが、いつ直下地震や南海トラフ地震がやってこないとも限らない。

少し前に土木学会が阪神淡路大震災のデータをもとにして、南海トラフ地震による被害総額のシミュレーションをやっていたが、それによると、なんと1400兆円、首都直下の場合だと700兆円を超えると推定していた。こうなったら日本は終わりだ。

政府はソフトな防災対策ばかりやらないで、インフラなどハードな対策にどんどん金をつぎ込んでもらわないと困る。「ヤマモリ」なんてくだらない問題で時間を空費して、政治家や官僚はいったい何をやっているんだろう。

もっともあれは野党があらさがしのために仕掛けているんで、民自党は早く打ち切りたくてしょうがないんだろうな。野党もどうしようもないな。

わが不動産業界だって、他人様に商品を進めるのに、耐震性や浸水の防止など、防災関連の部分をもっともっと重視しなくてはならない。お客さんも当然そこを突いてくる。

また、いくら災害列島だからといって、日本から逃げ出すわけにはいかないんだから、毎日の活動をやめることはできない。建設中のビルや住宅も、粛々と進めるほかはないわけだ。

 

折しも今日は、大手から販売を委託された新築物件の発売開始日だった。

初日なので、私も現地に行かなくてはならない。こういう時は一応、責任者の威厳とやらを客に示しておく必要がある。「威厳」などという言葉を浮かべてみて、少し自嘲的な気分にもなったが。

山下以下、賃貸担当グループに後を任せて、現地へは4人で赴いた。山下はベテランだから、彼女に任せておけば、たとえ売買の部分が手薄になっても大丈夫だろう。

ウチでは、賃貸と売買とに担当を一応分けている。賃貸のほうが物件数が多いし、維持管理業務もあるので、人数を多く配置している。

しかし、格下の社員は時々担当を入れ替えて、臨機応変に対応できるようにしている。こうしておけば、一種の社員教育にもなって、一石二鳥だからだ。

新築物件は、駅から徒歩20分、バスだと7分、バス停からは徒歩3分、土地190㎡、二階建て、延べ床面積112㎡、価格8,780万円。

うーん、これで売れるかどうか微妙なところだ。しかし相場からすれば、条件はそんなに悪くないから、案外客がつくかもしれない。

幟を何本か立てた。チラシも相当撒いた。ただ、マンションに比べると、ここのところ戸建ては相当売り上げが落ちているのが心配だ。先だっての若い男が言っていた「フユーソー」を狙うしかないだろう。

洋間の一室があらかじめ仮のオフィスに充ててあり、私はそこに座り(と言っても、客が来れば立ち上がって出迎えるが)、岡田が主たる説明役、八木沢が補佐、受付役に去年正規として入社した川越嬢。

9時に到着して、10時開場。前にも何度か下見しているが、やはり新築特有のいい香りが鼻をくすぐる。

「今日は晴れたのはいいですけど、暑さが気になりますね。いまから30度近いですからね」と岡田。みんなの士気が落ちてはいけないと思って、私が応じる。

「うん。でも雨よりはマシだろう」

ところが出だしは上々だった。午前中だけで、17組が訪れた。3組の夫婦が同時に内見に訪れた時間帯もあった。

天候はけっこう決定的なのだが、暑さはどうやらそんなに響いていないようだ。みんなもう慣れてしまったのかもしれない。

中に脈のありそうな中高年夫婦がいた。ていねいに書かれたシートを見ると、夫57歳、妻54歳、子どもが社会人一年生の姉と大学生の弟二人。中堅IT関連企業の管理職で、年収も悪くない。

私と年齢が近いので、ふと羨ましい気持ちが心をかすめる。

この夫婦には岡田が対応した。

「子どもが自立しないもんですからねえ。マンションが手狭になって」

奥さんがニコニコしながら言った。

「新築ってやっぱりいいわねえ。設備が素晴らしいわ」

「最近は、そこに力を入れませんと、お客様に喜んでいただけないんですね」

「庭がけっこう広いのがいいね」とご主人。

「お庭造りなどは」

岡田がそつなく奥さんに水を向ける。

「わたし、前からの夢だったんです。ベランダや室内に鉢植えを置くだけでは物足りなくて」

「ここですと、季節の花がいろいろと楽しめますよ」

「そうですね。バラなんかにも挑戦してみたいわ」

もう住んだ気になっている奥さんをよそに、ご主人はしばらくあちこちを見まわしている。やがて今度は私のほうに向きなおって聞いた。

「この建物は、耐震級数はいくつですか」

来た、と思った。最近の客はよく研究している。

「はい。最高度の3を採用しております」

パンフレットを見せながら、地盤の揺れの建物への影響を最も少なくする免震構造を採用していることも説明する。

「この構造だと、普通の耐震設計と違いまして、最高震度7まで持ちこたえます。」

次なる質問。

「この地域一帯の地盤て、大丈夫なの?」

いいところを突いてくる。

「はい。杭を打ち込んで固い地盤にぶつかるまで何センチかを調査するんですが、この地域は、19センチで、関東では2番目に安定していることがわかっています。土地によっては50センチくらいずぶずぶ行っちゃうところもあるんですよ。あと免震構造は軟弱な地盤にはむしろ不向きなんですが、ここは盤石ですから、その点でも適合していると言えるんですね」

熱心に説明を聞いてくれた。客の中には、冷やかしも多く、「こんな高い金、うちじゃ無理だよ!」などと捨て台詞を吐いて去っていく人もいるのだが、この夫婦は違った。

 

午後もそこそこ盛況だった。三十代後半から四十代が多かった。金利が低いので、チャンスと見ているのだろう。消費増税の前の駆け込みを狙っている点も挙げられる。

一人の男性客が訊いた。

「来年10月になったら10%払わないといけないわけですよね。この価格だと8%との差額が……」

八木沢が最後まで言わせずに応える。

「ええ。18万近く出ますね。大きいですよね。ただ一応はそうなんですが、阿川政権の決定が不透明なものですから、それが出るまでは私どもも8%で計算させていただいております。」

「というと、10月以降でも8%のままっていう可能性もあるわけですか」

「皆無ではございません。おそらく年末までには決定すると思うんですが。申し訳ございません。今の時点で確かなことが申し上げられなくて」

「軽減税率は適用されるんですか」

「不動産はされないんです。大きい買い物ですから政府もガッチリ押さえようとするんでしょうね。ただし、ローンを組まれる場合は、住まい給付金制度というのがございまして、8%のままだと10万円から30万円ですが、10%に増税後は10万円から50万円までの一時金が出ることになっています。また、もしかしたらさらに優遇措置が取られるかもしれません」

八木沢の説明を傍らで聞きながら、いまさらながら、消費増税という政策に対する苦々しい思いがこみ上げてきた。なんでこのデフレの時期にわざわざ消費を悪化させるような政策を取るんだ。

お客さん、すみません。消費者の方たちだけじゃなく、こちら納める方もたいへんなんです。申告期になると一度にどっとですからね。しかも粗利全体にかかるんですよ。

ウチの場合はきめ細かさが要求されるサービス業だから、外国人を使うわけにはいかないが、コンビニや外食産業や建設業なんかでは、最近にわかに外国人が目立つようになった。あれはやっぱり経営が苦しいから、人件費を削減せざるを得ないんだろうな。

それに、大企業じゃ、給料支払いにかかる消費税の控除を狙って下請けに外注するところが多いというのも聞いたことがある。下請けいじめだ。

こういうところにも、増税が追い打ちをかけて、景気回復はますます遠のくだろう。困ったものだ。

半澤玲子Ⅲの4

 

シャワーを浴びてから、エリにパジャマを貸し、一つベッドに二人で寝た。

灯りを消しても話のほとぼりが残っていて、すぐには眠れない。それは彼女も同じらしかった。

「結婚したい?」

エリが言った。

「うーん、そこまではわかんないな。相手によりけりだし。それよりエリはどうなの」

「わたしもおんなじね。今の人、嫌いじゃないけど、結婚となるとね」

「うまくいくといいね。結婚じゃなくても」

「そうね。レイもね。でも今日はよかった。ゆっくり話ができて」

「ほんとにありがと」

エリがひっそりと体を寄せてきた。襟足にほんの少し熱い吐息がかかるのを感じた。

「レイ、いい匂いね」

ささやくような声だった。彼女の左手が伸びてきて、私の肘をゆっくりと撫でた。その左手を私の指に絡ませた。そしてわたしの首筋に軽く唇をつけた。

「ウフ、くすぐったい」

そう言ってはみたものの、彼女のそんな振舞いを少しも不自然とは思わなかった。けっして激しくはないけれど、ほのかな快感が全身に広がるのを感じた。

もし二人とも恋活がうまく行かなかったら、こうして二人で暮らしたっていい――そんな気持ちがふとよぎった。ベッドサイドテーブルのスタンドの常夜灯が、寄り添う二人をじっと見守っているような気がした。LGBTという言葉を思い出した。私たちってもしかしてLなのかしら。

女どうしの肌と肌の触れあい。それも悪くないわ。

いつか二人で温泉に行ったとき、背中を流しっこしながらお互いの体をほめあったっけ。エリはわたしの肌の白さをほめた。乳房の形がよいとも言ってくれた。わたしはエリの浅黒くすらりとした体躯にほれ込んだのだった。黒人と白人のハーフみたいだった。

 

昔、同性愛を疑われて学校経営を壊されてしまう『噂の二人』という映画があった。映画好きだった父がテレビで放映されたのをビデオに録画しておいたのだ。

オードリー・ヘプバーンとシャーリー・マクレーン。

シャーリーが可愛かった。そして自殺してしまう彼女が可哀相だった。少女のころ見て、アメリカはずいぶんこんなことにうるさいんだなと思った。それで印象に残ったのだ。

あとから考えれば、あれは時代も古かったし、一夫一婦制を厳しく守らせるキリスト教の戒律が強く関係してるってことがわかったけれど。

それに比べればいまの日本はずいぶん自由だと思う。

別にレズだってゲイだって、周りの人たちは、共感はできなくても、ああ、そんなものって言って、棲み分けているだけなんじゃないかしら。昔でも、同性愛者ってわかっちゃったから、自殺したなんてあんまり聞いたことないし。

私たちがこんなふうに仲良しで、仮にだんだんそれが深くなって、肉体的にレズの関係になったとしても、黙ってればいい。もっともこれが思春期なんかだったらずいぶん悩むだろうし、大人になってからも、マイノリティだっていうことだけで肩身の狭い思いはするだろうけれど。

男を好きになるか、女を好きになるか。これって、境遇によってどっちにも転ぶのかもしれない。

もしエリもわたしも恋活がうまく行かなかったら……。わたしはエリが好きだし、たぶんこの感情、これからも変わらないと思うし……。

目をつむると少しずつ眠気が忍び寄ってきた。わたしの肩にエリの寝息が気持ちよくかかり、絡めた指はいつしか力が抜けてほどけていた。

半澤玲子Ⅲの3

 

駅から5分ほどの1LDKマンション。本社に戻って1、2年後だったからもう住み始めてから10年になるかしら。8階で見晴らしがいいので気に入り、思い切って買った。

エリに先にシャワーを浴びてもらって、その間、窓際に立って夜の景色を眺めていた。

隅田川の向こうにスカイツリーが光り、手前に浅草の灯りが煌めいている。でもひところに比べるとずいぶん寂しくなったような気がする。

 

バブルが崩壊したころに大学を出た。まだ不景気という実感はなく、バブル期の浮かれ気分は何年か続いていた。それからあの男と結婚して、3年で別れた。

ずっと同じ会社に勤めてきた。最初は営業に回されて消耗したけど、不向きと判断されたんだろう。結婚する少し前くらいからコールセンターでお客様の苦情聞きに転属になった。

一時は重荷が下りたようで安心したけど、いざやってみると、これも疲れた。私生活での苦労が重なってもいたし。

離婚してから安アパートを2回ほど梯子した。独身になっていくつかの地方支社に転勤になった。あのころは身軽で、地方の暮らしの様子がわかってちょっと面白かったかな。

本社に戻って経理に配属されてからはもうそういうこともなくなった。これから仕事の面で発展の可能性はたぶんないだろう。

この家に落ち着いてからは、何となく自分の人生はある決着がついてしまったような気分で毎日を過ごしている。ローンは初めはかなりきついと感じたけれど、最近では多少昇給もあったし、あまり気にならなくなった。

こうたどってみると、わたし自身の人生がしょぼくなっていくのと、社会に元気がなくなっていくのとが、なんだか並走しているみたいな感じがしてきた。ああ、よくない、よくない。そんなふうに考えるべきじゃないわ……。

 

「ありがとう。気持ちよかったわ。さすがトイレタリー系にお勤めだけのことはあるね。石鹸やコンディショナーなんかもみんなレオン製品?」

「一応ね。買わなくてももらえるから」

「それにしてもレイのとこ、どこもかしこもきれいね。ここ築何年だっけ?」

「たしかちょうど10年…かな」

「全然そんな風に見えないね。新築みたい」

「主人はしっかり古びてきたけどね」

「そんなことないって、レイ。これからこれから」

そう言いながら、エリは景気をつけるように、チリの何とかいう赤ワインの栓を勢いよく抜いた。わたしはオリーブの瓶詰の蓋に力を込める。

ひとわたり雑談をしてから、おもむろにいまの曖昧な気持ちを何とか言葉にしようと試みた。ワインの渋みがじんわりと広がる。

「さっき、エリが言ったことね。とても心に響いたのよ……やっぱり何か行動に踏み切らなくちゃだめね」

それ以上、なかなか言葉が出てこない。これではさっきと同じだ。

「うん。もちろん恋活サイトじゃなくたっていいんだけどさ。じゃあ他に何があるかって言ったら、いまさら若い子みたいに合コンでもないでしょう」

「そうよね。だいいち、そういう機会がめぐってこない」

「自治体の婚活イベントってダサいし、民間のは地方に出かけていくケースが多いから、お金と時間がけっこうかかるしね」

「調整がつかないわね。休暇使うんだったら、個人的に旅行した方が楽しいよね」

「灯台下暗し。会社に独身男性って、けっこういるんじゃないの」

「けっこういるんだけど、わたしのほうがどうも食指が動かないんだ」

エリは、しばらく考えるふうをしてから、言った。

「レイ、男欲しい?」

わたしはこの直截な聞き方に笑ってしまった。でも、それがかえってありがたかった。

「……うん。やっぱり欲しい。このままいくと、たぶん、仕事あと何年か続けて、辞めて、そのあと、実家に引っ込んで、自然に老老介護という末路ね」

「お母さん、おいくつだっけ」

「75になったのかな。まだ元気だけどね。妹一家に背負わせるわけにもいかないしね」

「こんなこと言ってなんだけど、お母さんがお元気なうちがチャンスかもね」

「そうなのよ。……要介護ばあさん付きじゃ、ますます道は細るよね」

わたしのなかで、しだいにある意思がマグマみたいに立ち昇ってきた。それはだんだん地表近くまでやってくるのがわかった。少し間を置いて、グラスに残ったワインを飲み干し、とうとう、ためらいを断ち切るように言った。

「恋活、やってみる。要領教えて」

 

エリは「よしきた」とばかりにスマホを取り出して、まず自分のマイページを見せた。写真はいずれも自撮りで、いろいろな服装、角度、表情を映していた。特に若く見せようとはせず、彼女の全体の印象がよくわかるようになっていた。

プロフィールの自己紹介文は、短めで、趣味や職業を書いた後に、少し自分の特長をアピールしながら、欠点などもやんわりと書き込んであった。

その後にいろいろな項目についてのチェックリストのような部分があった。年齢、身長、細めか太めか、喫煙の有無、年収、同居人の有無、結婚経験の有無、どういう出会い方をしたいかなどに答える仕組みになっていた。

もちろん答えたくない項目は空白のままでよい。相手の信用をより深く勝ち取るためには、年齢の認証が必要で、身分証明書のコピーを運営会社に送らなくてはならない。

次にエリは、相手の男たちのプロフィールを見せてくれた。

毎日20人くらいの「物件」を、入れ代わり立ち代わり無料で物色することができる。気に入った物件には「いいね!」を入れる。相手にはそれが伝えられ、自分のプロフィールを見てほしいという要望が届く。

女性は料金面で優遇されているが、でも要求をエスカレートさせたい場合には、一定料金を支払うことになっている。

双方の要望が一致すれば、マッチングの知らせが届き、それからは、プライベートなメッセージサイトで「文通」ができる。ただし初回はメルアドなどを知らせてはいけない。

数えたわけではないけれど、若い人が主流ではあるが、30代後半から40代前半が意外と多いように思った。

「いろんな男がいておもしろいね」

これが第一の感想だった。

いかにも格好つけてるやつ、モテないことを意識的に演出しているちょっと切ないやつ、顔は誠実そう、でも文章を読むと何となく嘘っぽいやつ、こんなイケメンがなんで? と不純な動機を疑いたくなるやつ、ああ、朴訥さがよく出てるけど、これだとなかなかいいお相手に巡り合うのは難しいだろうなとつい同情したくなるやつ……。

要するに、あんまり「当たり」はいないということだ。それを言うと、エリは、「そりゃそうだよ」とそっけないくらいの調子で答えた。

「この年代だと、かなり成約率は低くなるだろうね。ていうか、いい男はもう結婚しちゃってるってことね」

「じゃ、エリはもしかしたら金的を射当てた?」

「そんなのわかんないよ。まだこれからの話だし。一般的にってことよ」

心なしか、エリの頬が少し赤らんでいるように見える。

それから登録手続きや契約事項の要点などについての説明を聞き、マッチングを多くするコツを指南してもらった。

エリ自身が選んだサイトでなくてもいいけれど、メジャーなサイトのほうがやはり安心できること、顔写真は必ず鮮明なものを載せること、文章はいかにも誰もが書きそうなものではなく、自分の個性と思えることを、あまり極端ではない仕方でさりげなく挟み込むこと、あまりだらだらと書かないこと、チェックリストの部分は、取捨選択してもかまわないが、書くと決めたことは必ず正直に。特に「バツイチ」は絶対必要等々。

「サイトはごまんとあって、それぞれ特色があるから、ネットでいろいろ調べてみるといいよ。もちろん掛け持ちもありよ」

「ありがとう。じっくり検討してみる」

知らぬ間にワインが残り少なくなっていた。両方のグラスに注ぐともう空になった。

「成功を祈って乾杯」

「あら、この前と反対じゃない」

「そうだっけ。わたしも頑張りますわよ」

半澤玲子Ⅲの2

 

「ごめーん、待った? あら、さっそく着てきたのね。似合うじゃない」

エリのほうは、今日は白シャツにデニムパンツというラフないでたちだ。心境の変化? そうでもあるまい。

「ううん、さっき来たばっかり」

「そう、じゃよかった。いや、出がけに電話が入っちゃってさ」

「あら、もしかして例のお方?」

「そんなんじゃないのよ。仕事、仕事。この前言った例の働く人女性向け家事支援、いよいよ本格的に乗り出すらしくてさ。」

わたしはそんな話、忘れてた。でも「うん、うん」と覚えていたふりをした。

「お飲み物は何になさいますか」

若くて足がすらりとした女の子みたいなウェイターが近寄ってきて言った。

「生ビール」とハモってしまった。

「課長から、こういうプロジェクトはやっぱり女性に企画を立ててもらうのが一番いいからって、急きょ、月曜日から取り組むことになったってわけ」

エリの言葉を聞いて、そういえば物流業界もいろんなことに手を出そうとしているって言ってたな、とだんだん思い出してきた。

「たいへんそう。全通運じゃ初めての試みなんでしょう?」

「そうね。でもこっちにお鉢が回ってくるんじゃないかって何となくわかってたよ。」

「要するに、働く女性の家事負担を減らそうと」

「そう。わたしら一人もんには関係ないね。子どもがいて、旦那も忙しい家庭なんかがターゲットだろうね」

「家事だったら旦那と均等に分担するってのはどうなの」

「いやいや、なかなかそうはいかないよ。『理解ある男性』とかいうのも最近は増えてるみたいだけど、ほんとに戦力として期待されてる男は、いくら理解があったって物理的に難しいしね。旦那が一番忙しい時と奥さんが育児で手が離せない時とは重なるんだよ。それにさ、むしろ女の方に、家事育児はまだまだ女性中心でって観念が残ってるのよ。だからこそ市場開拓の余地があるわけだしね」

思わず、テラスのテーブルを囲んでいる家族の方に目がいってしまった。食事はたけなわで、子どもたちの楽しそうな表情が笑い声とともにこちらにも伝わってくる。

奥さんは男の子がちょこちょこするのに気を使っていた。旦那は、短い口ひげを撫でながら、ワイングラスを口に持っていくところだった。あの旦那は「理解ある男性」なんだろうか。あの家族は幸せなんだろうか。

 

今日はスパゲティとラザニアと二つとって、二人で分け合い、あとはピザのLサイズで済ませることにした。スパゲティをあの女の子みたいなボーイが運んできた。

「ねえねえ、あの子、フィギュアの桐生結貴に似てない?」

私はさっきから感じていたことを口に出した。

「ちょっとね。わたしも思った。ウチにもああいう男の子いるよ」

「ああいう華奢な男の子ばっかりになっちゃったら、家族なんて養っていけるのかしらね」

「ばっかりってことはないだろうけどね。でも草食系が増えてることは確かよね」

「男性の4人に一人は50代になっても未婚だって話聞いたことあるんだけどさ、これってだんだんモノセックス化していくってことなのかな」

「それはわかんない。精子が少なくなってるなんて説もあるけどね。それより社会問題としては何と言っても少子化という現実だよね。一人っ子同士の結婚が二代続くと、双方の親が4人、寿命が延びてるからじじばばが合計8人。このうち何人かがこけると、こりゃ若夫婦はたいへん。高齢者ビジネスはこれからが正念場ね」

「ってことはさ、家族の数が減っていくんだから、エリのさっきの話も、市場開拓が難しいってことにならない?」

「そうなのよ。一人暮らしだったら別に家事支援なんていらないもんね。うん、市場規模の算定がまず課題だろうな。この企画、うまく行くのかな」

「エリが例の人と結婚すればさ、少しは市場規模の拡大に貢献するじゃん」

「ハハ……限りなく確率低いね」

「ところでその後は? 二回目のデートの模様。詳細に報告せよ」

エリと会う前はこの話題は気が重いなんて思ってたくせに、自分から誘導してしまった。

「またそこに話もってくのか。はいはい。お話いたしましょう。それがさあ、この間の日曜日。いきなり寒くなって最悪だったでしょう。風邪引きそうになっちゃうから散歩もできなかったんだよ。」

「ふむふむ。でも室内でいちゃいちゃやればいい。もしかしてキ……」

「まさかそんな。そこまで行くわけないだろ。でもまあ、喫茶店でけっこうねばってね。それからお食事でございます」

「彼氏のご趣味は何でございますか」

「そう、美術に詳しいみたいね。ブリューゲルとかボッシュとか、あのへんの画家のことでずいぶん蘊蓄を傾けてたな。ヨーロッパの美術館巡りを何度かしてきたらしいのよ。情熱たっぷりに話してた」

「あら、素敵じゃない。これから芸術の秋だし、エリもかなり好きなほうでしょう」

「嫌いじゃないけど、ブリューゲルやボッシュってなんかちょっとキモくない?」

「うーん、好きかって言われたらうまく判断できないけど、偉大な画家であることは確かよね。東京には美術館が腐るほどあるし、デートに使うには最高じゃない」

「うん。ただね、知識が豊富過ぎてちょっとついていけない感じもある」

「それは贅沢というもの。ふんふんって聞いてあげればいいのよ。なんならわたしがもらい受けようか」

「それも一案ね」

エリは企画会議のような口調で言った。結婚時代の夫のことがふと思い浮かんだ。あんな彼でも、しらふだと可愛いところがあることはあった。囲碁の話になると際限がなかった。

「男って自分の得意分野だと相手かまわずしゃべりまくるところあるじゃん。あれってけっこううんざりするけど、そういうもんだって割り切れば、我慢できるんじゃない。エリだって自分の趣味があるんだから、それ利用してこっちに惹きつけるようにすれば」

「ほうほう、レイコお姉さまにしては、珍しく熟女の処世訓ですな。なかなかいいアドバイスをいただきました」

そう言われて、わたしは、ほんとに柄にもないことを言っているな、と感じた。

これは、やっぱり人のことだからそうなれるんだろうな。また、話がほかならぬエリのことだから、というのもある。男女の出会いというテーマに、エリをダシにして、ついつい自分が前傾姿勢になってしまっているのだった。

日はとっぷり暮れていた。家族連れが帰り支度をしているところだった。旦那がレジの前までやってきた。女の子と男の子が表でふざけ合っている。それを窓越しに見ていると、何となく自分が切なくなってきた。

去年の夏は、花火をどっさり買い込んで、妹の家にお邪魔して、みんなで花火大会をやったっけ……。

 

「それより、レイ、あれ考えてみた?」

不意を突かれて一瞬戸惑ったが、すぐ気づいた。

「あれって、恋活サイト?」

「うん。わたしは勧めるよ。自分がマッチングしたからってわけじゃなくてね、これから先のレイの人生をさ、わたしもちょっと考えちゃったのよ。出過ぎてたら申し訳ない」

「いや、出過ぎてなんかないよ。ほんとにそうだよね。でも、それは……恋活サイトって選択でなくてもなあ、もうちょっと、何ていうか、その、出会いの手段をどうするかよりも、まず、自分なりの生き方の基本をどう決めるか、だと思うんだ」

「わかるよ、それは。その通りだと思う。でもね。偉そうに聞こえたらゴメン。そういうのってさ、まず基本をこう決めて、そのための適切な方法を探してっていうように、何か順を追った企画みたいに行くものじゃないような気がするんだ。わたしたち、もう若くないでしょう。志望大学目指して受験勉強に励むのと違うんじゃないかしら」

エリの言ってることは、まったく的確だ。賢い女だ、と改めて思った。

「そうね。何でもいいから動いてみて、そこから何かが見えたり開けたりしてくるのよね。相手がいなけりゃ何も始まらないもんね」

「相手次第でもあるし、けっこうしがらみに取り巻かれてもいるし」

そう、自由だなんて自分を思いこんでる暇はそんなにない。温もりがかすかに残ったピザを口に含んで、その固まりかけた感触を味わいながら、少しずつ、少しずつ、自分をまずある形のほうに追い込むことが大切なのかもしれないと思うようになってきた。

「ねえ、エリ。もう少し話したい気がする。よかったらこれからうちに来ない? 泊まってってくれるとさらにありがたい」

「……いいよ。ただし湿っぽいの苦手だから、ワインとつまみで盛り上げようよ」

半澤玲子Ⅲの1

 

                                     2018年9月8日(土)

 

なんとわたしの予感はあたってしまった。

4日に台風21号が近畿地方に上陸して関西空港に大きな被害を与えたと思ったら、6日の夜中には北海道で震度7の大地震。全道で停電。いったい日本はどうなっちゃうのかしら。

ああいう災害があると、平時の出荷の体系が狂ってしまって、こっちにもしわ寄せが来る。おかげで昨日も9時過ぎまで残業だった。現地では生活用品の確保でさぞ大変だろうな。

でも、少なくともいまのところ、首都圏は被害に遭っていない。ここに住んでる自分としては、人には言えないけど、ラッキーと思わずにはいられない。

遅い朝ご飯を済ませて、ベランダのポトスとポインセチアにお水をやりながら、今日はだらだら過ごそうかと思っていたら、携帯が鳴った。エリだった。

「あ、エリ。元気?」

「元気、じゃないかな。昨日は9時半まで残業よ」

「こっちもよ。それにしても台風と地震の連続パンチ、すごいわね」

「そう。ウチの会社、物流が乱れるし、産地直送なんか抱えてるから、北海道がやられるとダメージ大きいんだよね。」

「ああ、そうかもね。ウチも関西にも北海道にも支店があるから、その影響がもろに来るのよ」

「お互いこれから大変になりそうね。会えなくなる前に会っとかない? そっちの都合はどう?」

「いいよ」

「じゃ、この前と同じでいいかしら。6時に予約入れとく」

「ありがとう」

二週間前にあの暑さの中でエリに会った。そう、まだ二週間前なんだ。

今度は彼女のほうから会いたいと言ってきた。そうして今日もこの前みたいに暑い日だ。まるでわたしを取り巻く熱気の渦のようなものがゆるりゆるりとお天道様のほうに登らせていくような感じ。ちょっと大げさかな。

わたしは少し恐れていた。

もちろん断る理由なんかないんだけど、二週間前の話がまだ尾を引いていて、もしかしたら今日はその後の進展具合を聞かされる、というよりも聞かざるを得ないような流れになる、それが前よりも心をよけいかったるくしていくような気が何となくするのだ。

断ってもいいんだわ、いや、それはよくないよ、と堂々巡りの気持ちに揺り動かされながら、テレビをぼんやりと見ていると、二つの災害のその後のニュース。

関空のほうは水は引いて暫定的な運用が可能になったけど、タンカーの橋桁衝突の修復はまだまだこれから。

北海道の停電は、電力の全面復旧にはだいぶ時間がかかりそう。

それにしてもあの剥落した山肌の映像にはびっくりした。それぞれの被災地で懸命な努力を続けている人たちの苦労を思わずにはいられなかった。

 

この前エリに見立ててもらったオレンジのサマーニットにくすんだマリンブルーのロングスカートで、やっぱりちょっと口紅を濃い目にして家を出た。

さすがに日中よりは気温が下がっている。

イタ飯屋に着いてみると、今日は店の前にテラスを出していて、そこに家族連れらしい一組がいた。40代中頃の夫婦に、小学校高学年くらいの女の子と、低学年くらいの男の子。わたしの姪っ子甥っ子とちょうど同じくらいかな。可愛い。

妹の真奈美は割とすんなり結婚して、旦那の仕事の都合で海外へ行き、帰国してから二人子どもを産んだ。外資系で活躍している甲斐性のある旦那で、生活は優雅そうだ。横浜北部の建売住宅に住んでいる。

お正月や姪甥の誕生日なんかには時々会っていた。でも頻繁ではなかった。

わたしは子どもが大好きだし、生まれた時から彼らのことをよく知っていて、向こうも「玲子おばちゃん」によくなついてくれている。だから彼らには会いたいのだが、ただ、妹とは昔からあまりそりが合わなかった。それで彼らの家に出かけることにはためらいを感じるのが常だ。

それはそうだが、と、テラスにいる楽しそうな一家を店内から窓越しに眺めて、やっぱりわが身のことに思いが行く。

もう子どもは持てないんだわ……。