堤 佑介Ⅴの2

 

店内は早くも混み始めていた。やはり若い人たちが多い。早めに来ておいてよかったと思った。ちょっとキラキラした雰囲気で、正直なところ、あまり私の趣味ではない。

まだ8時にはだいぶ間がある。奥のテーブル席についてから、私一人、アルコールを飲み継いで粘ることにした。

この前、篠原が同業者として挙げていた社会学者・山名昌彦の『日本人の悩み』という本を買ったので、それを取り出してパラパラめくってみた。

大新聞の「人生相談」の回答者を何年か務めた経験から、家族や男女関係をめぐるいまの人たちの「悩み」が昔とどう変わってきたかを分析した本だ。

すると次のような面白いことが書いてあった。

 

重要なのは、どうやら性的マイノリティであること自体への悩みは、少なくなってきているのではということです。かつては多かった、同性を好きな自分は変なのかとか、私が女装したいというのは異常でしょうかといった本人の悩みは、かなり減ってきました。

 

また、後ろのほうを見ると、こんなくだりもあった。

 

今後はモデルからこぼれる人のほうが多数派になると断言してもいいでしょう。ここで留意しなくてはならないのが、多数派ではあるものの、その「こぼれ方」が、非常に多様化しているという点です。

 

なるほど、私のような年代の者にはよく納得できる話だ。若い頃には、好きになった異性と結婚して、お互い妥協を重ねながら家庭を築き、子どもの成長に夢を託していくという「モデル」がまだ生きていた。

だが山名さんは、そうしたモデルはもう解体しているという。同性愛や女装趣味でさえ、そのアブノーマルさに悩むというよりは、多様性の中の一つとして位置づけられ、本人たちもそんなにそのこと自体に悩んでいないのではないかというのだ。

そういえば、ネットで、次のような記事を読んだことがあった。

高校生相手に差別をなくすためのLGBT教育というのをやっても、聞いている子どもたちの反応はいまいちで、「あなたの友だちが、自分はゲイだと告白してきたら、あなたはどう感じますか」という質問を出しても、子どもたちは「別に」と答えるだけだというのである。

亜弥が来たら、同じ質問をしてみようと思った。

山名さんの本には、最近は性的マイノリティの人自身が悩みを訴えてくるより、むしろ親がそれを知って相談してくる例が多いとも書かれてあった。

旧世代としては、それは当然だろうな。

私だったら、と考えてみる。

一般の母親よりは寛容になれるかもしれない。けれど、やはり多少は悩み、受け入れるのに時間がかかるだろう。ほかの特異性を抱えた子と同じように、就職や恋愛や友人関係などで、その子の人生の幅を狭くしてしまうのではないかと危惧するからだ。

しかしたしかに昔に比べれば、ゲイ・コミュニティなども堂々と成立しているし、あからさまな差別も少なくなっているのはたしかだろうな。

とはいえ、本人がまったく悩まないということはないだろう。

ことに思春期のような多感な時期に、周りと自分とは違うと気づくと、それをことさら意識するというのは誰にもあることだ。性や身体にかかわることは特にそうだ。

 

男女関係の規範やモデルが壊れたいまの社会では、性的マイノリティという問題は、たぶん社会的差別の領域によりも、個別の自意識の領域に、より集中して現れるだろう。

その自意識も直接の対人関係と深くかかわっている。だから、自分の中にある対人意識の問題となって現れるのではないか。

つまり、いまの時代は、性的マイノリティであることで受ける被差別感よりも、親に告白するかしないかとか、異性の話題で花が咲く友人たちについていけないのをどうするかとかいったことのほうが、悩みの中心をなすのだろう。

ことに親に対しては抵抗が大きいだろうな。若者たちは、私の世代に比べてずいぶん優しくなっているから、親が嘆き悲しむのを見たくないという理由で、告白をためらってしまうのではないか。世はコミュニケーション・スキルの受難時代。

 

本に目を落としながら二杯目のビールに口をつけたところで、テーブルの傍らに亜弥がぽつんと立っているのに気づいた。

「おや、割と早かったな」

「やだパパ、さっきからいるのに全然気づかないの」

クスクス笑っている。

「そうか。まあ座りなよ。仕事は片付いたのか」

「意外と早くね」

メニューに見入っている亜弥の顔を盗むように見る。またちょっときれいになったかな、母親にも似てきた、と思った。少しぽっちゃりしてきたかな。仕事やつれは見えない。

「わたし、これにする。プライムステーキの150g。パパは」

「じつは、さっき夕飯食ったんで、つまみ程度でいいよ」

「なんだ、そうなの。じゃ、これは。テイスティングセット4種盛り合わせ」

「ああ、それでいい」

亜弥は白ワインが好きなので、デカンタでとって二人で分けることにした。

 

「この間の住宅の仕事はまだ続いてるのか」

「うん。ちょっと手間取ってるわね。キャドの調子がいまいちでさ。わたしが入所するずと前からの使ってるんだものね。所長に買い替えてくれませんかって文句言ったのよ。そしたら苦虫噛み潰して、もう少し待ってくれだとさ」

昔から誰に対してもはっきりものを言うたちである。小学校時代にも口の利き方をたしなめたことが何度かあった。でも言うことを聞かない強情っぱりだった。

「あんまりズバズバ言わない方がいいぞ」

「言い方くらい心得てるわよ。あの、僭越なんですけどぉ、そろそろ買い替えの時期が来てるかもしれないと思うんですぅってね」

後半、猫なで声になった。まあうまくやってるようだ。

「景気はどうかね」

「相変わらずね。よくないわ。給料安いし」

「だけど設計事務所は、いまどこも厳しいだろう」

「厳しい、厳しい。ゼネコンの下請け仕事受注しなかったら危ないかもね。だから所長の苦虫もわかるんだけどね」

「オーナーの要求は」

「うるさくなってるみたいね。最近災害情報が多いでしょう。ウチはデザインのほうだし、私自身まだ3年目だから上の言うこと、ハイハイって従ってるだけだけど、構造屋さんのほうはたいへんみたいよ」

「こっちも客がそのへんに対して相当突っ込んでくるよ。こないだもな、新築物件で……」

注文品が来た。店内は笑声や嬌声でにぎわっている。少々会話が聞き取りにくい。

 

「ところで、なんかあったの? パパからってたぶん初めてだよね」

さっそくステーキで口をもぐもぐさせながら、亜弥が大して関心もなさそうに訊いた。

「いや別に。何となくきみに会いたくなっただけさ」

「でも、なんかありそう」

探るような目線をこちらに送ってくる。

私は苦笑しながら答えた。

「亜弥のことで、とかいうんじゃないよ。強いて言えばパパ自身の心の風景の問題かな」

「ママとも関係ないの」

「ああ、それは関係ない。でもママは元気か」

「うん。最近予備校生教えるのも疲れてきたなんて愚痴こぼすようになったけどね」

「この前亜弥と会った時、小論文問題の作成に主力を注ぐようになったとか言ってなかったっけ」

「まだ両方やってるのよ。受験生の国語力が最近とみに落ちてきたってさ。全然本なんか読まないんだって。IT社会だとどうしてもそうなるよって慰めてるんだけどね。わたしだって必要以上は読まなかったから」

「それはパパが塾やってるときからそうだったなあ。ふん、ママもたいへんだな」

一応同情を示しながら、どんな生活を送っているかには深入りしないようにする。

養育費の振り込みとその受領の知らせ以外、いっさいやり取りをして来なかった。だから、私が家族を捨てた後、失敗したことを知っているのかどうかも知らないはずだ。

知ったらざまあみろと思うかもしれない。あるいはきれいさっぱり気にもしないかもしれない。

12年連れ添っても、もうそれ以上離れたきりなので、そのあたりの依子の心模様はなかなかうかがい知れないものがある。しかし亜弥には、その後の私の生活については概略話してある。

「パパとこうして時々会っていることは知ってるのかい」

「うーん。わたしも面倒なこと嫌いだから黙ってきたんで、気づいてないと思うよ。何かあったら言っちゃうかもしれないけどね。」

亜弥が依子のことを話し続ければ応じるつもりだが、私のほうからはあまり話題にしたくない。亜弥も心得ているようで、それ以上言葉を継ごうとはしなかった。

 

ふいに亜弥が言った。なんだかうれしそうな表情を浮かべている。

「あ、わかった。年取ってきて寂しくなってきたんでしょう」

言い当てられた。言い当てられてむしろいい気持だった。

「ハハ、まあ、そんなところかな」

「つきあってる人とかいないの」

ずけずけ聞いてくるこの調子に、ときには閉口することもあるが、私が依子や亜弥に対してした仕打ちをまるでなかったことのようにして、いまのこと、これからのことだけを突っ込んでくるこの明るさに、感謝しなくてはならないと思った。

私は、そんな気持ちを胸に畳みながら、とにかく率直に答えを返すしかなかった。

「それがいないんだよ」

「わたしとつきあったってしょうがないじゃん」

「そりゃそうだ。でもパパは、亜弥がそうやっておいしそうに食べてるのを見るのがすごく嬉しいんだよ」

「いつもの決めゼリね」

そう言って亜弥は、次の一切れにパクついた。

大学を卒業して就職するまでは養育費を払うというのが約束だった。支払いからもう3年間解放されているので、経済的にも心理的にも楽になった。

亜弥のほうからすれば、父親離れをしてもおかしくないはずだが、こちらから声をかけたら躊躇なく応じてきたところを見ると、私に対してまんざらでもない気持ちを残しているらしい。一種のファザコンとも言えたが、そんなことを気にしているふうもない。

「亜弥はいま彼氏とかいないのか」

「ヒー・ミー・ツ」

いきなり聞かれて慌てる様子はなく、フォークを口に運びながら答えた。

表情からして、いるようないないような印象だった。というよりも、プライドが高いから、いない場合でも「いない」とは答えないだろう。

「まあいい。適当にやれ」

「言われなくたって適当にやるよーん」

こちらもそれ以上突っ込まない。仮にいたとしても、この年齢ではいつまで続くかわからない。「彼氏」の段階で紹介しろなどと迫る趣味は私にはない。結婚するとでも言いだしたら話は別だが。

東京の女性の平均初婚年齢30.5歳。まだだいぶ間がある。話題を変えよう。

堤 佑介Ⅴの1

 

                                   2018年9月25日(火)

 

またまた大型台風が発生した。昨夜半から猛烈な勢いになり、ゆっくりと南西諸島に近づいているという。5日の台風被害や6日の地震被害がまだ修復されていないのに、被災地が追撃されたらどうなるのだろう。

しかし、この一週間ばかり穏やかな天気で、昨日までの三連休は秋らしい陽気だったので、客の入りもかなり良かった。賃貸の成約がいくつか成立した。

また1か月前に岡田が言っていた例の中古物件は、あれからオーナーとの相談で、価格を下げたので、少しずつ問い合わせが来ているという。

大災害が来ようと何だろうと、私たちが直接被害に遭ったのでない限り、平時には、これまで続けてきた仕事を淡々と、粛々と進めていくほかはないのだ。

三日間の忙しさに比べると、今日は比較的暇だった。午後からは渋谷の本部に出向き、事業開発部や各営業所と合同の会議に出席した。

議題はいくつかあったが、私が一番重要だと思ったのは、やはり単身高齢者の激増にともなう、居住形態の変更可能性についてだった。

 

 

提出された資料によると、2000年の国勢調査時から15年で、単身高齢者が約2倍に増えている。

国は介護や医療など、社会福祉の問題としてこれを取り上げるが、不動産業界としては、どういう形の居住形態を供給すべきかという課題となって表れる。

高齢者はもともと流動性が低いので、これまで住んでいた地域内での住み替えを促すような開発スタイルが望ましい。しかしまた、単身高齢者は低所得者層に多いので、移動のモチベーションもそれだけ低い。

けれども層は分厚いので、市場として魅力がないわけではない。医療ケア付きマンションのニーズは高いし、健康な高齢者も多いからだ。

開発部から出された提案は、よく宣伝されているような、いわゆる自然環境に恵まれた高額医療ケア付きマンションなどよりも、これからはむしろ高齢者が住み慣れている地域に焦点を当てるべきだというものだった。

特に日常生活用品が手近なところで手に入る下町的な物件の開拓に力を入れることが望まれると書かれていた。提案資料には、「下町コンセプト」と銘打ってあった。

賛成だった。

デフレが続いているので、私たちのような中堅どころは、大手のように富裕層を狙うのは望ましくない。中流以下、できれば低所得者層をターゲットとすべきだろう。第一、供給するこちら側の資金力に限界がある。

売買や賃貸取引に直接かかわっている者として意見を求められた。

私は、提案に賛意を表したうえで、次のようなことを述べた。

最近は戸建てよりも集合住宅にシフトしていること。

医療機関なども、たまり場的な要素を持った昔からの町医者的な存在がいるのが望ましいこと。

普段の生活に連続したコミュニティ的な条件を備えた地域をターゲットにすべきこと。

そうした要素が不足している地域ならば、「下町コンセプト」に当てはまる物件を積極的に探し求めるのが得策と考えられること。

さらに、特に低層で低価格の賃貸物件に目星をつける必要があるのではないか、たとえば街なかの空き家を安く買い取り、リフォームしてアパートを直営するのなども一つのアイデアだと付け加えた。

おおむね同意を得られたが、まだ混沌とした雰囲気のまま、会議は終わった。

 

近くの杉乃家で、ビールを頼んで、少し早い夕飯を食べながら、さっきの会議の中身について考えた。

自分が担当しているけやきが丘は比較的富裕層が多いので、今日の話に当てはまるような対象地域として想定してはいなかったが、案外そうではないかもしれないとも思った。

駅前にはURが50年前に開発した大きな団地があるし、昔からの商店街の広がりもある。庶民的な飲食店も多いし、クリニックもたくさんあった。

町全体は、若い層の転入が多く、鉄道会社を基幹としたデベロッパーが、イメージアップに力を注いでいる。半世紀の歴史があるとそれなりに成熟していて、高齢者のコミュニティ形成も進んでいるように思われた。

また高齢者の貧困家庭だってけっこうあるかもしれない。安価で新しくて老人が住みやすい集合住宅を提供すれば、団地から移ってくる人々もけっこういるかもしれない。

そのあたり、次の会議の時までに調べておこう。意外と地元のことをわかっていないものだと思った。

しかしこういう企画は、成就するまでに5年、10年と時間がかかる……と、そこまで考えた時、10年後は自分が高齢者の仲間入りをしていることに気づいた。

にわかに目の前の10年という時間が、リアルなかたちで意識に迫ってきた。

俺はこれからどう過ごしたらよいのだろう――それはまるで青春期の悩みのようだった。

私の隣の席では、杖を傍らに置いた80近い男が一人でしょぼしょぼと鯖をつつき、味噌汁をすすっていた。俺の未来の姿――侘しい連想に誘われた。

この前、篠原と会った時の再婚話を思い出した。あの時は酔った勢いで、少し浮き浮きして、年甲斐もなく夢を膨らませたが、その後仕事に追われてそんな気分を忘れていた。

紹介話があれば受けてもいいし、いい人がいればつきあってもいい。でもそんなに簡単に見つかるもんじゃないからな。結婚にまでこぎつけるとしたら、さらにたいへんだ。

 

ふと亜弥に会ってみたくなった。彼女が勤める事務所は表参道にあって、会う時はいつも渋谷近辺にしている。

これまではいつも向こうから連絡してきた。いまでもこちらから連絡するのは気が引けるところがある。ちょっと迷ったが、でも、そうしてもいいじゃないか、自分の気持ちに素直になろう。

そう思ってスマホを取り出した。

「あら、どうしたの」

「いや、ちょっと会いたくなった。今日は忙しいか」

「うーんと、ちょっと仕事残ってるけど、渋谷だと、8時くらいなら大丈夫かな」

「何が食いたい」

「そうね。ステーキ!」

「ステーキか。若いな。じゃ、マロリーの7階に、何とかいう肉バルがあったろう」

「ああ、マツムラね。そこでいいわ」

「じゃ、先に行って席とっとくから8時に」

「オーケー」

半澤玲子Ⅴの3

 

気分を変えようとテレビをつけてみたら、『海風45』という雑誌が突然休刊になったことを伝えていた。知らない雑誌だ。たぶんオジサン向けなのだろう。

なぜこんなことをニュースにするのかと思っていたら、何でも少し前に杉山未久という国会議員がLGBTを取り上げて、彼らには「生産性がない」と書き、人権派の人たちからバッシングを食らったのだそうだ。で、今度は同じ雑誌で彼女を擁護する特集を組み、その中の一つの論文が前にも増してバッシングを食らったのだという。

出版社の休刊宣言には、そのことを反省する文言が盛られていた。でも出版不況で発行部数が激減したのが本当の理由なんじゃないかと、わたしは疑った。わたしの会社でも、製造打ち切りの言い訳には、何かとそれらしい理屈をつけるのだ。

 

それはそうと、LGBTと聞いて、エリとのいつかの夜のことを思い出した。

あのときエリがわたしの首筋に寄せてきた唇の感触がほのかに甦る。わたしたちはもしかしたらLかもしれない、それも悪くないなと、あの時かすかに思ったのだった。

でも本気でそうなったら、性的マイノリティということになり、いろいろ面倒になりそうだ。カミングアウトという言葉を昔からよく聞くけれど、あれは、本当に必要なんだろうか。ケースバイケースじゃないのかしら。

それにしても人間て、不思議な動物だ。セックスは子どもを産むためじゃなくて快楽のために行われるし、相手も方法もいろいろなかたちが選ばれる。わたしだって、子ども産めない年齢なのに、男性を求めて恋活までやってる。老人ホームでも恋愛関係が生まれたり、結婚したりするって話も聞いたことがある。

老人ホームで結婚した人もセックスするのかしら。

する場合もあればしない場合もあるんだろうな。裸で抱き合って、キスして、したつもりとか。

でも、と、その先を考えた。してもしなくても、カップルとして残りの人生を生きていくこと、そのことをまわりが認めて、祝福してくれること、そのことに意義がある……。

人間て、きっとずいぶんさびしがりやなんだ。ていうか、きっと心が身体からすごく浮き上がって独り歩きするところがあるのね。

いい年になってるんだから、こういうこともこれから少しずつ考えていこうかしら。うん。玲子の人間研究。ちょっと哲学者っぽいな、などと一人で悦に入っているわたしでした。

 

テレビを消してスマホを取り、もう一度Fureai画面を出してみると、なんとトニーくんから二通目のメッセージが届いていた。胸キュン、なんて言ったら中学生みたいでおおげさだけど、正直、少し心が騒いだことはたしかだ。

 

僕のメッセージ、読んでいただけましたか。お返事がなかなかないので、しつこいと思われるのを覚悟でまた書きました。これでお返事もらえなければ、ご縁が無いものと、あきらめようかと思っています。この前もちょっと自分の仕事のこと書きましたが、アニメはお好きですか。僕は仕事としては剛郭機動隊みたいなロボット系だろうと、サラ雪みたいな子供向けのものだろうと何でもやりますが、個人的には『となりのポポロ』とか『広い世界の端っこで』みたいなハートウォーミングなのが好きです。ワレモコウさんは、生け花をやっているそうで、プロフィールの雰囲気からも、たぶん温かい心を持っていらっしゃるに違いないと信じています。その点で、きっと打ち解けてお話しできると思っています。この前も書きましたが、ワレモコウさんは、きれいな人です。僕にとってはとても魅力的です。どうか一度だけでも結構ですから、お返事してくれるとうれしいです。

 

うーん。読み終わってみると、胸キュンは冷めていた。

日常生活が壊されていくあの『広い世界の端っこで』がそんなにハートウォーミングかなあ。もう少しうまい言い方ができないのかしら。改行が全然ないのも気にかかる。

ま、それはいいとして、こう攻めてこられると、応えないわけにはいかなくなる。容貌と同じように、可愛いところがある人みたいだ。子どもを持ったこともないのに、何となく母性本能をくすぐられた。

わたしは自分が可愛がってもらいたいほうなんだけど、歳の差から言えば、逆の組み合わせパターンも当然ありだ。

でもこの人、「下手な鉄砲」いっぱい打ってるかもしれない。そのことをしっかり想定した上で、返事を書いてあげよう。明日早いので、もう寝なくちゃいけないんだけど、せっかくの好意に報いる気持ちで頑張ってみた。

 

お返事しなくてすみませんでした。ちょっと立て込んでいたものですから。

アニメはあまり見ないほうですが、『広い世界の端っこで』は見ました。ゆきさんが時限爆弾を踏んでしまって直美ちゃんを失い、大切な右手を失ったシーンには驚くと同時に、泣けました。ああいうふうな描き方は、きっとアニメでしかできないんでしょうね。

戦争というきびしい時代を生きる運命を背負ってしまった人たち。それでもふだんの生活は続いていくのですね。そのことの強さを感じさせるとても良いアニメだと思いました。

それから、わたしはきれいではありませんし、トニーさんが思っていらっしゃるほど温かい心の持ち主でもありません。ただの中年おばさんです。じつは最近は、暇がなくてお花のほうもさっぱりなんです。

これからも仕事の関係で、あまり几帳面にお返事できないかもしれませんが、よろしくお願いいたします。

半澤玲子Ⅴの2

 

あれから例の恋活サイトでは、「いいね」がけっこう入った。もちろん、わたしのほうからも「いいね」をいくつか入れた。結果、マッチングが三つ。やっぱり素直にうれしい。来た、というだけでちょっとわくわくする。

若い順にいきましょう。

 

一人は39。未婚。ニックネームは「トニー」。身長170。目が大きくてきれい。丸顔で年よりも若く見える。アニメ制作会社に勤務。

「国内旅行をよくする」と書いてあり、東京在住、どちらかといえばインドア系で、好きな料理も和食とイタリア料理。わたしと一致している。年収は300万以上。

悪くない、と思ったし、アニメ制作という仕事に興味がわいた。

しかし、プロフィールに年齢差はそれほど気にしないと書いたくせに、じつは、気になる。大学生といってもおかしくないほどの若作りで、頼りがいがあまりなさそうに見える。

8つ違うと、わたしのほうが早く老けてしまうので、そうなったとき、相手が気を移すのではないかという不安がぬぐえない。

自己紹介文もちょっとつたない感じだ。「望ましい交際」の項目も、「マッチングしたらすぐに会いたい」を選んでいて、わたしと食い違ってる。

でも、8歳も年上のわたしに的を当ててくれたことには、素直に感謝したい。

 

二人目。49。バツイチ。ニックネームは「ひろくん」。身長168。子ども無し。生命保険会社に勤務。年齢的にはちょうどいいけれど、顔が何となく貧相で、疲れた感じ。奥さんに逃げられたんじゃないかしらと、余計なことを考えてしまう。

趣味は音楽鑑賞、美術鑑賞、読書、散歩。年収300万以上。

普通に正社員として働いてきたなら、男性としては、この年齢で300万以上はどう見ても少ないんじゃないかな。少なくてもかまわないんだけど、もしかして転職を繰り返していたり、派遣社員だったりして、不安定そうに見えるのが気にかかる。

最近は非正規社員が4割だっていうから、その部類なんじゃないかしら。それに生保系っていってもピンキリだろうし、キリのほうだとしたら先行きが危ぶまれるなあ。

年齢、趣味、バツイチなどでマッチングしたんだろうけれど、やっぱり甲斐性の点で落ちるかな。

 

三人目。58。未婚。ニックネームは「テッチャン」。私立高校国語教師。趣味は山歩き、読書。日本の古典や歴史に興味があるので、歴史遺産のある地方をよく旅行するという。歳にしては若く見えるが、ちょっといかつい感じ。身長が163とかなり低い。

でもさすがに文章がしっかりしていて、知性が感じられる。高校教師だからそれは当然か。学校名は書いてないけど、かなりレベルの高い学校じゃないのかしら。年収は900万以上。

「こんなことを言う資格はないのですが、優しく落ち着いた感じの女性がいいなと思っています」とある。繊細さを感じる。

知性派、そこそこ高収入。こういうデータって、やっぱり女心をくすぐる。だけど、わたしのほうが付いていけないかもしれない。古典や歴史なんて、てんで教養がないもの。

でもどうしていままで結婚しなかったのかしら。

そうだ、例の四分の一が未婚ってやつか。珍しくないんだったわ。意外と、こういうハイレベルの人のほうが出会いの機会が少ないのかも。

いやいや、キャラが問題だから、それは会ってみないとわからないな。

年齢が11違う。万一結婚とかなったら、わたしが60になった時、この人は71。母と同じ75になった時86。平均年齢からすると死んじゃってるかもね。でも、そんな先のことはわからない。

なんだかんだ言っても、この三人の中では、やはり最後の人が一番自分にしっくりくるかな――そう思った。

さてどうするか。こちらからメッセージサイトに書き込むか。

女性が積極的にならないと出会いが成立しない時代だというのは、エリにもさんざん聞かされたので、そのことはじゅうぶんわかっていた。わかってはいるけれど、しばらく「惑いの時」を過ごした。

結局、向こうからの反応を待つことにした。期限は五日間。すると、マッチングの翌日にメッセージが来た。一昨日の日曜日。

他の二人からも来たけれど、応じないと悪いとは思いながら、こちらにあまりその気がないのに、ヘンに気を持たせてしまってはかえって申し訳ない。

というわけで、無視を決め込むことにした。とはいえ、トニーくんにはちょっと未練が残った。

 

エリに見せてもらったけれど、マッチングすると、たいていの人は「マッチングありがとうございます」と書き出す。前の二人もそうだった。男女ともに常套句になっているらしい。

でもテッチャンさんは違った。「マッチングして、とてもうれしく思いました」というのだ。考えてみれば、このほうが正しい日本語だ。

だって、マッチングというのは、何かの基準がコンピュータにインプットされてて、それぞれのプロフィールを自動的に判断して、互いの合致点が高ければ機械的に成立するシステムでしょう。相手に「ありがとうございます」とお礼を言うのは変だ。

このあたりにもわたしは好感を持った。同時に、わたしってけっこう言葉にうるさくて理屈っぽいんだなと改めて気づいた。この理屈っぽさは人から指摘されたことはないけれど、これから新たに「男への旅路」に発つ身としては、気をつけておくべき点の一つだ。

さてテッチャンさんの最初のメッセージ。

 

マッチングして、とてもうれしく思いました。高齢者までもういくらもないので、半分あきらめていたのですが。

可愛らしいお写真を拝見して、優しい方にちがいないと感じました。また静かな暮らしをお望みで、お花を趣味にしていらっしゃるとのこと、とても好ましく思います。

お花は何流でしょうか。

プロフィールにも書きましたが、私は職業柄、歴史や古典に少しばかり詳しいので、もしお付き合いしていただけるなら、そちらの方面にも興味を持っていただけると、うれしく存じます。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 少し時間をおいて返事した方がいい。それだけ向こうの期待感が高まるから。でもあんまり待たせないように。と、これはエリの入れ知恵。

 そこで翌々日の夜、つまり今夜、仕事から帰って夕食を済ませ、落ち着いたところで次のようにメッセージを返した。

 

メッセージ、ありがとうございます。お返事が遅くなり申し訳ありません。ちょっと仕事が立て込んでいて余裕が持てなかったものですから。

お花といっても、最近はあまり打ち込む暇がなく、ほんの時たましか手をつけません。流儀は大原流です。

歴史や古典のことにはとんと暗い方ですので、ご期待に応えられるかおぼつかないところがございますが、いろいろとご教示いただければ幸いです。

こちらこそ、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

まだあなたのことをよく知りません、ということをきつく念頭に置きながら、けっして尻軽女と思われないように、慎重に言葉を選んだつもりだった。たったこれだけなのに、なかなか疲れるものだ。ふう。

半澤玲子Ⅴの1

                                          9月25日(火)

 

例の子ども用日焼け止めジェル、キーピィについてのクレーム問題は、該当地区の営業社員をほぼ総動員したおかげで、いまのところ対外的には大事にならずに済んでいる。マスコミにも知られていない。

しかしもちろん、社内的にはそれで片付いたわけではない。この商品を今後も販売し続けてよいのか。販売方法に抜かりはなかったか。本当にあの商品に問題があるのかどうか、等々。

この最後の課題は、研究開発部にフィードバックして検証しなくてはならないし、問題があったとしてもなかったとしても、広報をどのように行うのか。

コンプライアンスのあり方にも反省点が必要だろうし、クレイマーに対する対処法も、これまで通りでいいのかどうか、検討を重ねなくてはならない。

何しろいまの情報過多の社会では、蟻の一穴でイメージダウンが起きたら、全社にとって致命的だもの。わたしは東日本大震災のときの原発事故にかかわる風評被害の恐ろしさを思い出した。

あの時は、横に広い福島県の西の方まで、農家が大きな風評被害に遭った。事故そのものはたいへんなことだったには違いないが、わたしはあれはどうかと思ったものだ。

総務部には、会津若松出身の男性ベテラン社員がいて、当時、「あんなの、全然関係ないよ」と少し憤慨気味に漏らしていたっけ。「俺は、産地直送で故郷から送られてくるほうれん草を毎日食ってるよ」

でもなかなかそういう勇気ある発言て、公式的にはできないんだよなあ。

 

というわけで、このところ、社内がけっこう騒然としていた。

お昼休みに中田課長と近所のステラマックスで少し話をした。

いつもよりコーヒーが苦い。

「先週の木曜だったかな、研究開発部から報告が上がってきて、成分的には全く問題ないそうだ」

「そうなんですか。でも、頬かむりするわけにはいかないから、消費者向けにどういう対応をとるか難しいですよね」

「そうなんだよね。イメージにかかわるからね。それにしても、上の連中はちょっともたもたしすぎてる。マスコミがかぎつける前に機先を制さなくちゃならない。まったくマスコミは、自分たちのこと棚に上げて、なんか探り出すと、鬼の首でも取ったように煽り立てるからね。それに最近はSNSでの炎上も覚悟しとかないと」

「私も気が弱い方で、大きなことは言えないんですけど、問題がないんだったら、そうはっきりと発表すればいいと思いますけどね。」

「そう。どういう言葉を使うかにはデリケートな配慮が必要だけどね。とにかく『今回の場合は、厳重に検査を重ねた結果、普通に使用して問題はないことがわかりました』って言うべきだね。そのうえで、『でもお肌に合わない場合もあるので、そういうクレームのあった方については、弁償も治療代もお支払いいたします』ときちんと発表すればいい。ところが、そこが日本人の毅然とできないところなんだね。ずるずる先延ばしして、そのうちマスコミやクレーマーの圧力に負けて、ことを大きくしてしまう」

「そして幹部が謝罪」

「そう。『世間をお騒がせしてまことに申し訳ありませんでした』なんてね。謝罪する理由がいつの間にかすり替わってしまう。あの光景は見たくないね。慰安婦問題なんかでも、強制連行の証拠なんてどこにもないのに、『人間としての尊厳を計り知れないほど傷つけた』とかなんとか言って、とにかく謝っちまえで、結局相手にますますつけ込まれる」

中田さんとこんな話をしたのは初めてだ。ちょっとうれしくなった。同じ会社に勤める人間として、代表者の人たちにはぜひしっかりしてもらいたいと思った。

「でも、どうなるんでしょうね。キーピィについては」

「うーん、全品回収なんてする必要がないと思うけどね。製造年月日と販売地域の記録はあるんだから、それに該当する部分だけ回収すればいい。もちろん、きちんと説明責任を果たしたうえでね。しかしウチの幹部連中はそこまでやり切れるかどうか。どうも怪しいもんだ」

聞いていて、中田さんて、けっこう骨のある人なんだな、と思った。こういう人が出世すればいいのに、なかなか世の中そうはいかないみたい。

「課長、生意気なこと言いますけど、経理にいらっしゃるの、なんかもったいないですね。もっと活躍できる部署があるんじゃないんですか」

中田さんは、かすかに頬を紅潮させた。

「いやいや、私なんぞ、傍観者の立場だから、無責任にこんなこと言ってられるんですよ」

謙遜してそう応じたものの、褒められてうれしそうな表情が顔にはっきりと出ていた。

すると次に、少し顔をこちらに近づけて、いきなりこんなことを囁いた。

「半澤さん、今度飲みに行きませんか。二人で」

「あ、はい」

唐突だったので、思わずそう答えてしまったが、約束するつもりはない。

彼は物知りだし、考えもしっかりしているから、ある程度好感は持っているけれど、一緒に飲みに行くというところまでは、ちょっと勘弁だ。

第一、「二人で」って付け加えるところに下心が透けて見える。男っておだてに乗りやすくて、すぐ勘違いするのね。中田課長の顔が、さっきの凛々しい表情から、急にスケベオヤジに見えてきた。

まあ、不器用なところが可愛いとも言えるんだけど。

とはいえ、わたし自身だって、誘われて悪い気はしなかったのが正直なところだ。何しろ年ですからね。状況次第で受けてもいいかな、と揺れ動く自分がいたのは事実です。

堤 佑介Ⅳの5

 

「すみません。ラスト・オーダーになりますが」

見渡すと、もう他の客は一組しかいない。

「そろそろ終わりにするか」

「そうしよう」

「あ、けっこうです。どうもごちそうさま。おあいそ」

「どうもありがとうございます」

「アキちゃん、セクハラに遭わないように」

アキちゃんは、マスターとまた目配せして、ほほえみながら、

「ウチのが守ってくれますので」

「二重にごちそうさま、それじゃ、また」

 

外に出ると、ついこの前とは打って変わって、ひやりとした空気が頬を撫でた。篠原の足は少しふらついている。

「おい、大丈夫か」

「大丈夫、大丈夫。いや、しかし今日は久しぶりに楽しかったな。言いたいことが言えた気がする。またやろう」

「大学ってところもけっこう抑圧的空間だな」

「けっこうなんてもんじゃないさ。俺みたいな異端児にとってはな」

どちらからともなく握手をして、駅に向かった。

たしかに楽しくはあったが、まだ聞き足りない思いがかすかに残った。それは、男女関係というのは、政治的な、また社会的な強さ、弱さといった切り口では語れない部分があるのではないかという疑問だった。

表通りをまかり通っている「正義」のあれこれでプライベートな問題を測り取るのには、どこか無理がある。これは社会学とか、倫理学とか、政治の声といった枠組みではうまくとらえられないんじゃないか。

つまり篠原と本当に議論してみたかったのは、社会正義の以前にある男女の性差についてどう考えるのかという問題だった。というのも、最近の「どっちが正義か」という表通りの議論は、いつも、具体的な性差の問題を無視しているように私には思えて仕方ないからだ。

人権、平等、自由、格差、合法性、多様性、多文化共生、責任、どの語彙も抽象的で、普通の生活感覚から乖離している――しかしこれは、結局自分だけで感覚を研ぎ澄ませて考えるしかないのかもしれなかった。それに、次の機会もある。

 

改札の手前でふいに篠原が言った。

「それにしても堤。さっき俺が言ったこと、もう少し真剣に考えてみろよ」

「さっき言ったことって?」

「サイコンだよ、サイコン」

「ああ、その話か、考えとくよ」と受け流してはみたものの、人から言われると、たしかに自分の内面でリアリティが増してくるのを否定できなかった。

改札をくぐってから、逆方向なので、「じゃ、またな」と言いながら篠原と別れた。

トイレに立ち寄った。

再婚か、いい女がいればな。

放尿しながら、そういう個人的な身の振り方のほうもおろそかにするわけにはいかないな、とだんだん本気になっているのを感じた。

そうすると、好奇心でこだわっていたさっきのテーマとは、まったく別の形でそのことが自分の心を占領してくる。しかし、こちらの方は、「どう考えるか」というよりは、「どう行動するか」という問題だろう。

いや、そうでもないのかな。結婚経験や不倫経験はあっても、自分だって「生涯未婚率」のお仲間と大して変わらない境遇にいるといってもおかしくない。行動する前に「考える」ことも必要だろう。

女性と深い接触をしなくなってから長い時間がたつ。それを自分の意思の問題のように思っていたけれど、知らず知らずのうちに、いまの時代風潮に影響されていたのかもしれない。つまり、男性が女性に遠慮して近づかなくなっている風潮に。

酔いも手伝ってか、これからのことを考えてちょっと篠原のアドバイスに乗り気になってきた。年甲斐もなく、はずむようにホームへの階段を降りた。

明日予想される忙しさのことなどはどこかに吹き飛んでいた。もちろん、自分から積極的にならずに、うまい話が向こうからくるはずがないと一方ではみずからを戒めてもいたけれど。

堤 佑介Ⅳの4

 

「うん。たぶんそうだろうな。そりゃあ、もう俺のところなんかたいへんだよ。女子学生が研究室に質問に来るだろ。ドアは絶対開けとかなきゃいけないんだ。通路でも建物の外でも、特定の女子学生と親密にしているように見えちゃいけないな、っていつの間にか絶えず気にしてる。俺みたいなモテないに決まってる男でもな」

「篠原教授は、可愛い女子学生がいたらムラムラとか来ないのか」

「そりゃ、来るよ。堤だってそれは同じだろ。若い女子社員にはムラムラ来るだろ。おまけに堤は独身じゃないか」

酔いが回って話がだんだん下世話になってきた。

私はふと川越嬢のつぶらな瞳とはつらつとした身体を思い浮かべた。たしかにムラムラ来ないわけではない。しかし所長としてはそんなスケベ心をおくびにも出すわけにはいかない。オヤジと思われたくないというプライドもある。

それから高校生みたいな本田の丸顔が思い浮かんだ。彼が川越に言い寄るところはとても想像できない。

私は言った。

「まあな。いま世代って言ったけど、いまの若い連中は、恋愛するのをひどくめんどくさがってるみたいだな。実際、恋愛は真剣にやればやるほどめんどくさいからな。みんな三次元から逃げて、二次元で済ませてる。こないだ『電子マン』って10年以上前に出た本を読んだけど、時代を映してておもしろかったよ」

「ああ、あれはおれも読んだ。詳しいことは忘れちゃったけど、若者がアニメオタクになだれ込む状況を自己批評的に書いていたな。しかしどうなるのかな、日本の男と女は」

「そこを分析するのが、篠原教授、あなたのお役目でしょう」

答えを期待していなかったが、篠原は、急に饒舌になった。

「うーん、正直、俺にもよく読めない。ただ、これまでこうだったと言えるだけさ。同業の山名昌彦が見事に分析しているけど、大ざっぱに言って、七十年代までは男女は恋愛したらその相手と結婚するものだっていう規範があった。八十年代になると、それが崩れて、恋愛の自由競争市場が成立した。出会いの機会は昔よりも増えたんだけど、そうなるとモテるやつ、モテないやつの格差がかえってはっきりしてきた。九十年代になると、バブルがはじけて、そこに経済格差が加わった。それまではパラサイトシングルはそれなりにリッチな独身生活を楽しんでいたのが、今度は、パラサイトしなくちゃ経済的に持たなくなってきた。そこへもってきて今世紀に入ってデフレが続いて非正規社員の増大だ。少数のモテるやつはますますモテ、大多数の貧困男性はますますモテなくなった。恋愛プロレタリアートの出現だ。さっきの『電子マン』は、そういう時代の産物なんだ。恋愛プロ、レ、タリアート、わかりますか」

プロレタリアートというところで、篠原の舌はいささかもつれた。「よくわかるよ」と私は笑って答えた。

「それに加えて、男女共同参画社会とやらで、女が経済力をつけて大きな顔をするようになった。恋愛市場は女の独壇場だ。しかも女は理想の男性像を捨てない。そうなると、ますますミスマッチが拡大する。男はなかなか女に触れることがかなわない。半ばあきらめの心境だ。ある調査によれば、恋人はおろか、異性の友人すらいない若者の割合がここ二十年で増大してるんだ。俺の知人でさ、有力企業に勤めてる三十代半ばの男がいるんだけど、彼も言ってたよ。職場では『女は腫物』だってね」

声が大きくなった。隣の客がちらりとこっちを見た。アキちゃんにもマスターにも聞こえたらしく、二人ともまたにやっとした。

「女は腫物か。名言だな。名言が出たところでもう一杯行くか」

「よかろう」

篠原の目はすでに半ば座っているが、まだ聞きたいことがある。こういう気取らない話を学者から聞くのは飲み屋でしかできない。

 

「アキちゃん、出羽菊ある?」

「はい、ございます」

篠原はメニューをしばらくにらんでから、

「俺はと。千代鶴にしよう。ええっと、千代鶴、ありますか」

「はい、ございます」

「なんでもあるね。いいね。それと、おしんこ」

「おしっこはあちら」

と私はトイレの方向を指さした。

「おしっこじゃなくて、お・し・ん・こ」

アキちゃんが笑いながら、「ハイ、わかりました」と言った。

客はそろそろ入れ替わりつつある。いまごろ山下たちはまだ頑張ってるのかな、とふと思ったが、いまさらどうしようもない。

「その、男どもが感じてる不自由感というか、窮屈さというか、自分から引いてしまう感じ、これはさ、いま篠原が分析してくれた恋愛事情だけじゃなくて、そこに政治的な正義、つまり人権とか平等とかを無条件に押し立てる風潮が絡んでやしないか」

「ポリコレってやつだな。あれは一種の言論統制だな。それはたしかにある」

私は、ポリコレがはびこる仕組みについて、篠原に解説してもらいたいと思った。

「『人権』とか『平等』とか、政治の表舞台じゃ、なんであんなに騒がれるのかね」

「だれにとっても生きにくさを感じさせる社会があるなら、その生きにくさを取り除くのが政治の役割だ。だけど、『人権』とか『平等』とかはそのためのツールに過ぎない。ところが、その単なるツールが硬直した原理主義になってしまうと、それが押し通されるために必ず別の生きにくさが生じる。少数者とか弱者とかカテゴライズされてきた人たちが特権者に転化するんだ」

ふむふむ、と私は自分が考えていたことを代弁してくれているような気持でうなずいた。

「この問題の厄介さがどこにあるかっていうと、誰も異議を唱えられないような『正義』を振りかざされると、それに違和感を感じたとしても、対抗論理をうまく対置できないところにある。フツーの人の感覚が黙らされてしまう。ただ、なんか変だなって感覚だけは残る。でもうまい言葉がみつからない。何か言えば『サベツ、サベツ』だ。逆に日本の学者はたいていリベラルだから、その社会的発言力に物を言わせて、そういう人権主義や平等原理主義のお先棒担ぎをやってるわけだ。評論家の唐理英が昔、そういうのを人権真理教って呼んでたな」

人権真理教か。私はおもわず吹き出した。

 

篠原は、大学では保守派教授として通っているらしい。社会学者のなかでは珍しいそうだ。「俺の周りはサヨクばっかりだよ」といつもぼやいている。少々被害妄想的な感じもするが、いまのセリフには、持論が飾り気なく出ているとも言えた。

「俺が感じてたこととだいたい同じだな。だけど、女性は少数者でも弱者でもないんじゃないか」

「ふむ。少数者じゃないかもしれんが、社会的法的な意味では、かつては弱者だったことは確かだろう。参政権もなかったんだから。いまだって、同じ能力でも給料が低い」

ここでは篠原は、学者としての「公正」な見方に一瞬立ち戻った。私はそれに抵抗する。

「いや、俺は最近の空気の話をしてるんだ。俺のオフィスの部下が、酒の席だけど、ちょっとしたジョークを飛ばしたら、女性社員が、まあこれもジョークの範囲内だけど、その発言は限りなくセクハラに近いって言うんだ。俺の感覚ではとてもセクハラとは思えない」

「その種のことはしょっちゅうあるな。一人一人の女はそんなことないんだけど、なんか、一種のファッションみたいなもんだ」

「ファッションというファッショ」

「そう! 女ってのはけっこう空気を読むのがうまいだろ。これは使えるってどっかで感づいてて、機会あるごとに『ワタシは人格を持った一人前の女よ! お安く見ないでちょうだい』ってアピールしてるんじゃないかね」

「でもさ、そのアピールが強すぎるから、かえって男が委縮しちゃうんじゃないか。そうなると逆効果じゃないか」

「それはそうだ、それはそうだ」と篠原はうなずきながら、キュウリを口に含み、音を立てて噛んだ。

「そこが問題だ。さっきのテーマに帰るわけだ。人権真理教や平等原理主義やポリコレがはびこると、晩婚化がますます進む、と。これは今度の論文のテーマにしてもいい」

「ほんとにやる気か。サヨク・リベラルに叩かれる覚悟はあるのか」

「今どきサヨクなんぞを恐れていて、何ができる」

篠原が大見えを切ったのに煽られたのか、こっちもだいぶ酔いが回ってきた。

「その頼もしさを買って、ついでにもう一つ、セクハラ、セクハラって騒ぎ立てる女は、美人よりもブスが多いんじゃないかと俺は疑ってる。そこらあたりを統計学的に証明してもらえないか」

「それは、ハハハ……俺も成り立ちそうな気がするけど、証明は難しいよ」

篠原は酔っている割には、意外にも冷静さを示して言った。

「だろうな。だけど、自分の容姿に自信がある女は、何言われたってうまくかわすんじゃないか。反対にコンプレックス持ってる女ほど、過剰に被害感覚もってアピールしたがる。こういう論理は成り立つと思う」

「ハハ……それはお前がやれよ。エビデンスがないと学者の世界では通らない」

堤 佑介Ⅳの3

 

「なるほどねえ。要するに結婚したくても金がかかるからできないってことか。やっぱり不景気の影響かね」

「そう。それが一番大きい。でもみんなそのことに気づいていないんだよ。マスコミは景気がよくなったなんて言ってるけど、あれはウソだ。実質賃金はここ二十年、下がりっぱなしだからね。それにいま、非正規社員がうんと増えてて、短期間の転職も多い」

「ああ。政府は失業率だけ見て雇用が改善したとか言ってるけど、問題は雇用の質と形態だよな。とにかくすごく不安定な時代だな」

「うん。将来見通しが立たないから、結婚に踏み切れない。多くは親にパラサイトしてる状態だね。だから四十代になってもバイトで食いつないでいるなんてのはざらだよ。これは職業スキルが身につかないし、親がこけたらどうするんだって問題があるから困った状態なんだけど、当の学生諸君たちは、自由な働き方がいいなんて考えているみたいだな。」

主観と客観は常にずれる。客観的理由のほうは若者の意識調査なんかをやってもはっきり出てこないだろう。

「でも二十歳や二十五の若者に将来のことまでも戦略的に考えろというのはちょっと無理なんじゃないかな。こないだ来たウチの客でも、芝居に夢中になっていたんで、気づいてみたら派遣しかなかったってのがいたよ」

「それはそうだろうけどさ。でもそこが企業の目の付け所だよ。こんな情勢じゃ、これからブラック企業はますます増えるぞ。それともう一つ、これは地方に多いんだけど、結婚をためらう理由に、親の世代にイエ意識が残ってるもんだから、女性が相手の家に嫁として入るのを嫌がるってのもある」

「ははあ、なるほど。その後のほうの理由と関係があるかどうかわからないけど、俺は女性が経済力を持ったのと、コンビニやスーパーが個食をたくさん揃えるようになったんで男も女も独身でも困らなくなったことが大きいんじゃないかと思ったんだけどね。これは俺自身の実感でもある」

「うーん。それはどっちかというと原因であるよりも結果だな。ビジネスは男女の動向を敏感にとらえるからね。」

「ああそうか、なるほど。つまり独り暮らしが多いのを見越して」

「そう。そういえば俺の同僚でね。もう50代だから、それこそ生涯未婚率にカウントされちゃうんだけど、いい人がいれば結婚する気でいたんだ。仲間が仲介を買って出て、そいつのことを、こういう人がいるけどどうですかって、女性に持ちかけたんだそうだ。そうしたら、その同僚に会いもしないうちから、全然そんな気はありませんって言われたんだって。しかもなんとそれが三回もあったそうだ」

「みんな別の女性?」

「もちろん。その同僚はあきらめ気味に苦笑していたよ」

「それだけ聞くと、女性の方が結婚願望が下がってるように思えるな。でもその相手ってのは、一部のインテリ女性じゃないのかな。一方では結婚相談所とか婚活サイトなんかはすごく盛んなんだろう?」

「そう。だけどあの種のビジネスは、メジャーなところは収益は上がってるけど、それでも成約率は低いみたいだよ。実際にどれくらいかは、企業秘密だからわからないけどね。つまり、昔と違って女性のほうの理想水準が上がってて、それに応えられるだけの男がなかなかいないんだよ。結局、全体としては結婚願望はあるけど、さまざまな理由でミスマッチが多いってのが現状」

篠原は、まるできっぱりと結論づけるように、グラスをぐいと上げて、残りの酒を飲み干した。

 

二人とも酒がなくなったので、もう一杯注文した。少し腹を膨らませるために、追加でナスの味噌炒めとだし巻き卵。

「アキちゃん、お嬢さん、いくつになったんだっけ」

「5歳です」

「早いなあ。そろそろもう一人どう。少子化の歯止めに貢献しなくちゃ」

マスターにも聞こえたらしい。アキちゃんは、彼のほうにちらりと目配せしてから、恥ずかしそうに笑って答えた。

「ハイ、頑張ります」

マスターも包丁をたたきながらにやりとした。

 

 私は篠原に向きなおって、

「それにしても『生涯未婚率』ってのはふざけた言葉だな。人生100年時代とまで言われているんだから、50代で未婚だからといったって、これからいくらでも結婚機会はあるはずじゃないか」

「それってもしかして堤自身のこと言ってる?」

「あ、それは意識していなかったけど、もしかしたらそうかもしれない。今のところ再婚する気はないけど、このまま一人で年取っていくのが寂しいという感じは正直あるな」

「堤君。なかなか率直でよろしい。たしかにこれからは子どもが自立した後の人生をどうするかが大きな課題だな」

「再婚率は増えてるの」

「増えてる。高度成長期には下がってたんだけど、いまは当時の2倍を超えてるね」

「それだけ、一生この人と、みたいな結婚規範に縛られなくなったってことだな。とにかく個人化が進んでいるから、俺の仕事でも、もう昔の家族イメージで考えてると、思わぬ計算違いをすることがあるね」

「不動産業界でも、独り暮らしとか、子どものない夫婦とかのニーズが多いんだろうね」

「多い、多い。若者の独り暮らしよりもむしろ独居老人、それに子どもが自立しちゃった老夫婦、初めから子どものいない中年夫婦。話はそれるけど、あと問題なのは、木造アパートの空室率がここ3年ほどで激増しているんだ」

「それは何が原因なの」

「いろいろあるけど、相続税対策でアパート経営に乗り出した人が急に増えたんで、供給過剰になってるのが一番大きな原因だな」

「そりや、ケインズの言う『合成の誤謬』じゃないか」

「なんだっけ、『合成の誤謬』って。大学で習った覚えがあるけど忘れちゃったよ」

「要するに、ある人が家計支出を減らして貯金するだろ。でも考えてることはみんな同じで、みんなが貯金するから、みんなの支出が減る。だれかの支出は必ず他のだれかの所得だよな。だから支出が減れば全体の所得も減る。結果、家計の収入が減ってしまって、支出を減らそうとした意味がなくなるわけだ。マクロでみれば不景気になってしまう」

「なるほど。みんなが消費すればいいのにな。アパート経営者が金をため込もうとしてみんながそれをやると、供給過剰が起きて空室が増えちゃうから、結果的に収入が減る、と」

「そう。それにしても空き家問題は深刻だな。政府は手を打ってるのか」

「アパートの新築を抑制しようとしてるけど、効果薄だな。あと古い戸建ての空き家もすごく増えてる。老夫婦の一方が亡くなって、一人で戸建てに住むわけにいかないから、駅近のワンルームマンションに住みかえたり、ホームに入ったり、子どもの家にご厄介になったりして売りに出すんだけど、それが売れないまま残ってる」

「すると、トレンドとしては、これからは戸建てよりも比較的狭いマンションにシフトしていくと考えていいのかしら」

「うーん。売買の場合はそうだな。たとえば中古マンションの成約件数は去年の7月には前年比9期連続増だったけど、戸建ては2期連続減だった。でも、今年に入ってからは、全体として減少気味だな」

「なんだか、日本はだんだんお寒くなってくるな」

そう言って篠原はナプキンをとり、猫背をさらに丸めてくしゃみをした。

 

「話を戻すけどさ、堤は独り暮らし何年になるんだっけ」

そう言って、篠原はこちらに柔らかい視線を送ってよこした。

「ええっと、もう12年近くかな」

「ほんとに再婚する気はないのか」

単刀直入な質問に私はやや戸惑った。

「うーん、そう面と向かって聞かれると、迷うところだな」

「たとえばもし俺が、いい人がいるから会ってみないか、とか言ったら?」

「うーん……応じるかもしれない。会うくらいならいいよ。でもあんまり積極的になれないな。さっきの篠原の話みたいに、女性に三度も拒絶されたりしたら、ちょっとめげるよ」

「そういうためらいはよくわかる。でも、ご両親は亡くなってるし、えっと、別居してるお嬢さん、名前なんだっけ」

「亜弥」

「その亜弥ちゃんはいくつになったの」

「25、もうすぐ6だ」

「ちっちゃかったのにそんなになったか。もういい大人だ。堤は羨ましいほど身軽な境遇じゃないか。先はまだ長いんだぜ。一生独りでいいと覚悟を決めるか、そうでないなら、積極的にならないと、運命が向こうからやってくるなんてことはないよ」

「ありがとう。その通りだな。まあ、考えとくよ」

ここでしつこく追及されるても困るし、気恥ずかしくもある。子どもの話が出たのをいいことに、矛先を篠原のほうに向け変えた。

「そういえば、哲史君や卓也君はいくつになったんだっけ」

「哲史は、ええと27かな。卓也はまだ大学二年」

「彼女とかいるのか」

「どっちもいなさそうだな。いや、よくわからないけど、女房に言わせるといないらしい。いまは、恋愛や結婚に対する若い男のためらいがすごく大きいんだよ。ちなみにこれは、仮に経済力があってもの話だよ。というか、男が女にひどく遠慮せざるを得ないような状況になってる」

そう、それがまさに聞いてみたかったことの一つだ、と、私は心の中で膝を打った。酒のお代わりを頼みながら、思わず肘に力が入るのが自分でわかった。

「俺もそう思うんだよ。世間じゃ草食系が増えたとか精子が減ってるとかなんとか言ってるが、これって、男の生理的な問題じゃなくて、男女関係に関する社会的な風潮が変わってきた問題じゃないかと思ってるんだけど、違うかね」

堤 佑介Ⅳの2

 

「お飲み物は」

可愛いことで評判をとっているアキちゃんという若い奥さんが注文を取りに来た。

この店は夫婦で仲良くやっている。

マスターはややむくつけき風体だが、腕は確かで肴が実にうまく量もたっぷりだ。生牡蠣などはちょっと他では食べられないような立派なのが出てくる。酒も種類が多い。

まずはビールと一緒にいくつか好みの品を頼んだ。アキちゃんは素早く書き取りながら、 「こちらは大学の先生か何かでいらっしゃる?」と聞いた。

「やっぱりわかる?」と私のほうが答えた。

「ええ、いかにも教養がありそうな雰囲気で」

にっこリ笑って愛想を振りまく。

「おい、教養がありそうだってさ。少しは猫背を直したらどうだ」

「うむ。これは研究熱心な証拠だから直らないな」

「ところで講演の演題は?」

「晩婚化とこれからの日本」

「おや、それは切実なテーマじゃないか。俺もそのへん大いに関心があるよ」

「晩婚化が不動産屋とどうかかわるのかね」

「大いにかかわるとも。これでもひと様の生活意識をつかむのが仕事だ。これからの家族形態がどうなっていくのか、知っておかないと商売にかかわる。これは篠原の領域と大いにかぶるじゃないか」

「ああ、なるほど。堤も研究熱心だな」

「研究熱心なんだか、好奇心が強いだけなんだか。それでどういうことを話したの」

「最近の男女関係の傾向について。政府の少子化対策のどこがおかしいか。これから結婚や家族がどうなっていくのか」

「ああ、重大な問題だな。俺も素人なりにそれ考えたんだけどね。違ってたら言ってくれ。政府は育児休業の拡充とか幼児教育の無償化とか児童手当増やしたりとかしてきたけど、あれって少子化対策としては間違っているんじゃないか。子ども産める夫婦はけっこう裕福で、その裕福な層に児童手当や教育無償化とかやったら、かえって格差が開くだろう。本当は結婚しない男女が増えちゃったから子どもも生まれなくなったんで、子どものいる夫婦を支援する以前に、どうやったら若者が結婚するかを考えるべきだったんじゃないの」

「そのとおり。それに、保育園の無償化なんかやると、タダならってんで、希望者が殺到しちゃって待機児童が一層増えるだろうな」

「なるほど。そういうこともあるか」

「うん。そもそも日本人は欧米と違って婚外子をすごく嫌うんだよ。だからまず出会いから結婚までをサポートすることこそが大事なんだ。それは、できちゃった婚が多いところにも表れている。できちゃうと結婚に対するモチベーションがぐっと高まる。それと、少し前までは結婚すれば二人以上産んでた夫婦がけっこう多かったんだけど、最近では、結婚したカップルでも、一人しか産まないとか、子どもを産まない夫婦が増えてるね」

「やっぱりね。それはこれからの日本にとって困ったことだな」

「うん。その困ったことってのもさ、みんなはただ漠然と人口減少が国力を減退させるから困るって思ってるだろう。だけどあれは違うんだよ。人口減少そのものは、緩慢な変化だから、いますぐどうってことはないんだ。差し迫った問題は、高齢化と少子化が同時に起きていることなんだよ。」

「というと?」

「つまり人口減少のカーブよりも、生産年齢人口の減少カーブのほうがずっと大きい。そのギャップが人手不足とか、年金問題とか、いろんな問題を引き起こしてるんだ」

「ああなるほど。要するに弱って働けなくなったじじばばが増えちゃって、少なくなった現役世代がそれを支えなくちゃならない、と」

「そういうこと。政府は人手不足を移民で解決しようとしてるけど、あれもすごくまずいね。移民を大量に受け入れた欧米が今どんなひどいことになってるか、見ればわかるはずなのに」

 

「しかしこれからの若者はますます結婚しなくなっちゃうんじゃないか。なんかそんな予感がするんだけど」

「そうだろうな。だからもう少子化に歯止めをかけようって発想は捨てて、少子化を前提として対策を考えていかなくちゃならない」

「篠原式対策は?」

「それはAIでもなんでも技術力を駆使して労働者一人当たりの生産性を高めていくほかない。あとは給料上げて、日本人で余ってる人材を掘り起こすことだ」

「だけどそれには企業がどんどん設備投資や人材投資していかなきゃならないだろう。企業は内部留保ばかりため込んで、一向にその気配がないじゃないか」

「そう、それは政府が積極的な財政政策を打たないで、財源ばっかり気にしてるからだよ。最終的には財務省の緊縮路線が、デフレ脱却を阻んでるのさ。財務省は諸悪の根源!」

篠原は吐き捨てるように言った。絶望、とは言わないまでも、かなりペシミスティックなトーンがこもっていた。

 

「お飲み物のお代わりはよろしいですか」

アキちゃんが近寄ってきて言った。見るとジョッキは二人とも空になっていた。

「十二代ある?」

「はい、ございます」

「あ、僕もそれ」

この店では、日本酒をブランデーグラスに入れてくれる。そのおしゃれな感じが私は好きだった。

「そういう話を大分でしたわけね。それでどうだった。講演してて、聴衆の反応は」

「うん。やっぱりのんびりしてるな、地方は。俺を呼んでくれた先生は俺の本を読んでるからしっかり問題を把握してるんだけど、他の聴衆はしんとしてて、質問もほとんど出ない。動員かけられて仕方なく来てるって感じだ。担当の人たちはそりゃ親切で、ものすごく優遇してくれるんだけどな」

「そうか。大都市で問題にされてるほどじゃないってことだな」

「なってない、なってない。ていうか、少子化や晩婚化は、若者が流出してしまう地方でこそ深刻な問題で、そのことはみんなわかってるんだ。でも日本全体の動向や経済情勢が絡んでいるから、一地方自治体レベルでは、どうしようもない」

「大分県なんかだと未婚率とか初婚年齢とか、それから何て言ったかな、50歳以上になっても一度も結婚したことがない男女の率」

「生涯未婚率。どれもランキングで言うと確かに低い方に属するけど、大した差じゃないな。要するに全国的に晩婚化傾向が顕著だってことだよ。でも意識の問題としては、教育の中にその問題を取り入れていこうっていうような発想がなかなか出てこないみたいだ」

「文科省は、そういうお達しを出してないのかね」

「全然。仮に出したとしたって、現場には届かない。効果はないだろうね」

「そうすると、その、深刻さはわかっているにもかかわらず、打つ手もなく何となくぼんやりしてる、その理由ってのは」

「まあ、俺みたいに客観的な社会現象として分析している学者と、自分の人生の問題として考えてる人たちとは距離があるってことかな。『学問の要は活用にあり』なんだけど、その活用の道筋が昔みたいにうまく見えなくなってる」

 

私は十二代を口の中で転がしながら、気になっていたことを尋ねた。

「若者が結婚しなくなった理由は、何なのかね」

「それはいろいろ考えられるけど、やっぱり何と言っても経済的理由だな。若者の結婚願望統計を見ると、やや低下傾向はあるけど、そんなに下がっちゃいないんだよ。俺の授業でさ、『将来結婚したいですか』ってアンケートとるんだけどね。そうすると、まずほとんどの学生が『したい』と書く。そのうえでさ」

そう言って篠原は、擦り切れて膨らんだ汚い革鞄のなかをあっちこっちまさぐった。それから一枚の紙を引っ張り出した。

「あった、あった。これこれ。このグラフをみんなに配ってね。さっきの生涯未婚率の話をしながら、このまま行くと、君たち男子学生のうちで四人に一人、あるいは三人に一人は一生結婚できないと説明する。みんなかなり焦った顔をするよ」

 

 

 

堤 佑介Ⅳの1

                                 2018年9月13日(木)

 

先週の土曜に脈がありそうに見えた中高年夫婦が、午後早く再び訪れた。事前に「ほぼ決めた」旨の電話連絡があり、もう一度物件を見たくて来たのだった。この夫婦、他の人に取られてしまうのを心配して焦っていたようだ。

岡田が勇んで案内し、1時間ほどして戻ってきた。私の傍らを通るとき、「ご成約、ご成約」とささやいた。私も「よかったな」と微笑みを返した。彼は、今日の残り時間は、この夫婦への詳しい説明や書類上の処理に追われるだろう。

マンションの賃貸物件が新しくまとめて入り、山下、谷内、中村と派遣社員を含めた四人がその処理に追われていた。

八木沢は前から売り出している中古マンションの来客をパート社員と一緒に案内。駐車スペースがない場所なので、一人車に残る必要があるからだ。川越、本田ともう一人のパート社員が、新しく入ってくる客の窓口を担当していた。

 

東日本チェインズという宅建業者間だけで共有できる情報機関がある。

地域に入ってきた情報は、オーナーが断らない限り、すべてここに報告する必要がある。

そのうえでポスティングのためのチラシ原稿を作り、本部に送る。さらに店内用のリーフレットを作成して、ネット広告も手配する。

急がなくてはならない。物件が複数重なると、けっこう重労働になる。

「山下さん、今日はたいへんだね。手伝おうか」

「ちょっと数が多いですね。でもお任せください」

「悪いね」

「いいえ」

ねぎらいの言葉をかけたのには、わけがあった。

彼女たちはかなりの残業になるだろうが、私のほうは、この間のモデルハウス改築設計案についての意見報告書を仕上げればよく、しかも、退社後に友人の篠原と会う約束を交わしていた。

所長の裁量範囲とはいえ、部下たちが残業で頑張っているところを定刻退社するのは、何となく気が引ける。私たちのようなこじんまりしたグループだと、親密さの度が強いので、よけいそういう空気に支配されるのだ。もちろん、部下たちの側からすれば、もっとその空気には敏感にならざるを得ないだろう。

篠原には、数日前にメールでアポを取った。

こちらは火曜の夜が都合いいのだが、その日は出張で無理だという。一泊するので翌日も無理。金曜日以降ははこちらが書き入れ時なので、今日ということになった。

 

篠原の大学は都心にあって、自宅は、ちょうど私のオフィスがあるけやきが丘のそのまた先の郊外に位置している。私は私で、同じ私鉄を少し都心のほうにさかのぼる格好になる。それで、私はオフィスからあまり動かずに、けやきが丘の気に入りの居酒屋「夕凪」で彼と待ち合わせることができた。

こちらの方は、いつもスタッフと行く居酒屋とは違う。かなり狭いので、みんなで労いあうための一杯には適さない。私はこの店を彼らに教えていない。いわば秘密の隠れ家だ。

定時よりも少し長く職場に残ってから、おもむろに店に行くと、カウンター席の奥で篠原はもう背中を丸めてビールを飲んでいた。猫背がいっそう高じてきたような印象だ。

「なんだ、早いじゃないか」

「おう、お先に失礼。今日は四限で終わったんでね」

「出張はどこだったんだ」

「大分。県立高校の社会科教師の会で講演に呼ばれてね。大分なんてずっと昔、一度行っただけだから、これ幸いと観光も兼ねてきたよ」

「別府でのうのうと温泉三昧か」

「別府じゃなくて湯布院に泊まったんだ。泉質にコバルトがふくまれていて、青い湯のホテルがあってさ。なかなか神秘的なんだよ。久しぶりにいい気分になって、あくる日、日田まで足を延ばしてきた」

「日田っていうと、ずいぶん内陸のほうだろう」

「うん。ところがあそこはさ、江戸時代、天領で、西日本じゃちょっとした金融の中心地だったらしいな。広瀬淡窓って知ってる?」

「名前だけは聞いたことがあるけど、儒学者だったっけ」

「そう、その儒学者が咸宜園という塾を流行らせて、全国から大勢の塾生が集まった。実践的な教育を重んじたんだけど、彼の弟が金儲けに長けていて、日田を金融の町に仕立て上げた中心人物だったんだ。兄の実学主義と弟の現実感覚とがどこかでつながっていたようだ。学問と金融で栄えた名残が今もあってね。豆田町というところが観光地としてけっこうにぎわっていたよ。なかなかよかった。もっと日本人が行くべきだな。」

 

私は聞きながら篠原の身分をちょっと羨ましく思った。二泊三日のような短い期間でも、なかなか取れない。

篠原が、そんな私の気分とはお構いなしに話を続けた。

「日本人はあんまり旅行しなくなったな。家計が苦しい人が多いんだろう。湯布院の近くに金鱗湖っていう小さな湖があってさ。そこもにぎわってるんだけど、聞こえてくるのが韓国語ばっかりだった。安っぽい土産物屋がずらっと並んでて、日本を珍しがる韓国人向けの品しか置いてないんだ」

「そういえば、対馬なんかは観光客だけじゃなくて、業者もほとんど韓国に占領されてるらしいな」

「うん。困ったもんだよ。堤のところなんかも中国人や韓国人がけっこう来るんじゃないか」

「俺のところは今のところ来ないな」

そう答えたものの、北海道をはじめとした中国人の土地爆買いは有名だ。少し心配になってきた。日本は外国人の不動産取得に何の規制もしていない。私は言った。

「しかし日本政府は弱腰で困るな。そのうち中国にとられちゃうかもしれない」

「これ知ってるか。日本の全国土の2%がすでに中国人に買い占められてる」

「2%ね。それでもまだ50分の1か」

「ところがこれが静岡県全県の面積に匹敵するんだ」

「え、そんなになるか」

ため息が出た。

そのうち、私のところにも中国人が訪れるようになる可能性がある。職業柄、ちょっとめんどうだなという気持ちになった。