堤 佑介Ⅵの3

 

昨日の休みに、例の『海風45』休刊騒ぎの下になった二つの論文を読んでみた。杉山未久のは、ネットで探し当てることができた。最終号は、かろうじて立野台の本屋に一冊だけ残っていた。

この号では、「そんなに間違っているか『杉山未久』論文」という特集が組まれていて、六つの論文が掲載されていた。このうちサヨク系リベラル系からの猛反発を食らったのは、小沢宋二郎という人の「主観的な『生きづらさ』は政治では救えない」という論文だろう。

ほかの五つには問題を感じなかった。

外で食事を済ませて帰宅してから、昨日感じたことをきちんと整理しておこうと思い立った。

前のウイスキーは底を突いたので、新しくシ―ヴァス・リーガルを買っておいた。いつものとおりオンザロックを作ってちびちびやりながらノートを取り始める。

 

杉山論文には、大した違和感を覚えなかった。「LGBTには生産性がない」という部分だけが切り取られて、サヨク陣営から人権侵害だと大騒ぎされたようだが、子どもが作れないことを「生産性がない」と表現したまでである。

杉山論文の要旨は、少子化の解決に貢献しない彼らに格別の政治的・法的な支援や税金の投入をする必要があるのかと問題提起しているだけだから、ごくまともだと思う。ただ、「税金の投入」というのが何を意味するのか、よくわからなかった。

大学生のころ、サヨクのご本尊のマルクスをちょっとかじったが、彼の本では、たしか子どもを産むことを「再生産」と表現していた。だからこの言葉に目くじらを立てたサヨクは、天に唾したことになるのではないか。

ただ、絶対平等主義や、篠原の言った「人権真理教」や、ポリコレが渦巻いているいまの世の空気の中では、誤解を受けやすい表現であることはたしかだ。

また、彼女は、LGBとTとを分けていて、T(トランスジェンダー)は性的な指向というより、むしろ「障害」として位置づけられるので、そのつらさを救うための制度的支援(社会福祉)はありえてもよいという意味のことを述べている。

これも妥当だと思った。

さらに、日本はキリスト教やイスラム教の文化圏と違って、昔から同性愛に対して寛容だったとも述べていて、これも亜弥に話したことと同じだった。

もう一つ、あの時考えたことと同じだと思ったのは、LGBT当事者にとってつらいのは社会的な差別よりも、親が理解してくれないことだと指摘している点だった。

親が自分の子どもは普通に結婚して子どもを産んでくれると信じているのに、それができないことを知ったらすごくショックを感じるだろう。だからなかなか告白できずに悩み続けてしまう。

これは、最近は当人が相談してくるよりも、親が知ってその悩みを訴えてくるケースが多いという、山名さんの人生相談の本にあったのと一致している。つまり、両方で悩みあっているわけだ。

この切実さなら、私にもよくわかる。親としては、最終的には受け入れるしかないだろうが、しかし親の知性とか寛容さ、また都会に住んでいるか田舎に住んでいるかでも、その許容度はずいぶん違ってくるだろう。

『海風』の最終号の中に、ゲイの松崎尚悟という人の論文があって、自分の愛する秋田県にはゲイバーが一つもなくてさみしいと書かれていたのが印象的だった。

つまり杉山論文は、エロス問題を政治的・制度的に解決することの不可能さを示唆しているわけで、それがLGBTという性的マイノリティを政治課題として前面に押し出すサヨクに対する有効な反論になっていた。

そうして、このことは、別にLGBT問題でなくても、エロスの問題全般に当てはまることだ。私はブサイクなのでもてません、何とかしてくださいと政治家に縋る人はいない。

だからこそ、サヨク人権主義者たちは、核心を突かれていきり立ったのだろう。

いや、核心を突かれたという意識などなくて、ただ自分たちのイデオロギーに反する考えを頭から否定しようとしているだけなのかもしれない。否定しないと、同和問題と同じで、自分たちの反権力的な政治思想に利用できるネタがなくなってしまうからだろう。

 

ただ、杉山論文には、荒っぽいところもある。

たとえば、何でも多様性を認めて、結婚相手にだれを選んでもいいとなったら、近親婚も許されるし、ペットや機械と結婚させろなどという要求さえ出てくる。そうなると常識や社会秩序は崩壊してしまう。LGBTを取り上げる報道はそうした傾向を助長しかねないと述べているくだりだ。

ペットや機械というところで笑ってしまった。実際にそういう要求をする人はいるかもしれないが、それはごく特異例で、あったとしても、そんな要求が認められるはずがない。

法制度というのは、人間のさまざまな欲望をどこまで容認し、どこまで規制するかを決めるところに意義がある。

そして、エロス欲望に関する限り、それはあくまで人間どうしの関係のあり方にかかわっている。自分はネコちゃんと夫婦ですと思うのは自由だけど、社会がそれを制度的に公認するかどうかとはまったく別問題だろう。

近親婚の場合も、現実に近親相姦がかなり頻繁にみられるという事実と、それを制度的に公認するかどうかとは、やはりまったく別の問題だろう。

そして、これからも制度的公認の気配はまずありえないと言っていいんじゃないか。人間の社会的本能として、家族関係の相互認知のしくみが崩れると、社会秩序そのものが成り立たなくなることがわきまえられているからだ。

それよりも私などにとって心配なのは、先進国では、少子化と晩婚化が今以上に進んで、家族自体が構成されなくなることだ。

職業柄、そうなると流動性がなくなって困るということもあるが、多産系の移民がどっと入ってきて、彼らがこの国を人口の面で支配し、日本の統治も文化も滅んでしまうのではないかという懸念もある。

杉山さんが、「何でも多様性がいい」「何でも自由がいい」というサヨクのイデオロギーを攻撃する気持ちの中には、「変えよう、壊そう」とする勢力に対する恐怖のような保守的感覚が読み取れる。それはそれなりに健全なものだと私も思う。

でもそれなら、杉山さんの属する民自党の政府が、消費増税や移民受け入れ拡大や水道民営化のように、国民生活を壊すような政策方針ばかり取っていることにもっと自覚的であってほしい。真の敵は内部にいるんじゃないのかな。

どうも政治家たちは、古典的な「みぎひだり」感覚の土俵で争っているだけのような、本当に争うべきことで争っていないような感じが残った。

 

次に問題の小沢宋次郎の「主観的な『生きづらさ』は政治では救えない」を読んでみた。

こちらは、タイトルはその通りだと思ったが、中身にはすごく違和感が残った。

チェスタトン(この人を私は知らない)、マルクス、ゾラ、オスカー・ワイルド、アンドレ・ジイド、トーマス・マン、三島由紀夫、ウラジミール・ホロヴィッツ、カラヤン、レナード・バーンステイン、コープランド、ミトロプーロス(この人も知らない)、レーニンと、わずか6ページほどの誌面に何と12人もの「権威筋」を並べて、妙に居丈高にLGBT擁護陣営を頭から切り捨てている。

まずその高踏インテリぶって得意になった文体が鼻についた。

しかも「LGBTという概念について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもない」と偉そうに書いている。ところがその興奮した調子からは、気になって仕方がない様子が伝わってくる。知るつもりもないなら黙っていればよさそうなものを。

要するに、この人は、LGBTなる新しいカテゴリー化そのものが、自分の「ノーマル」で伝統的な性意識の癇に障るので、ただ嫌いだと言っているにすぎない。

あるいは、LGBT擁護勢力がサヨク人権主義者なので、自分の保守思想に合わないという「感覚」を述べ立てているにすぎない。

しかしそれだけでは、言論としての体裁が保てないので、いろいろと「偉い人」を持ち出したり、もっともらしいレトリックを使ってその感情を粉飾しているのではないか。

最も変だと感じたのは、LGBTと痴漢を同じ性的嗜好(嗜癖?)のたぐいと見て、前者の権利が守られるべきなら、後者の触る権利も保証されるべきだと述べているくだりである。半分冗談のつもりだろうが、悪い冗談だ。

まずいと自分でも気づいたか、すぐ続いて「触られる女のショックを思えというか。それならLGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく」と大げさなことを吹いて、悪い冗談の上塗りをしている。

この言い分を本気で受け取るなら、彼はLGBT擁護勢力を殺したいほど気にしていることになる。それなら「知るつもりもない」というのは、言論人として失格じゃないのか。

 

この人は、根本的な勘違いをしている。ゲイやレズやトランスジェンダーは、選び取った性的な嗜癖ではないし、もちろん犯罪者でもない。逃れられずにそうあってしまう、普通とは違った性的「指向」の持ち主なのだ。

痴漢はそうではない。もちろん万引きと同じで、やっているうちに癖になり、逃れられなくなった自分の嗜癖に悩むこともあるだろう。しかしそれは、もとはといえば、男性の普通の性的欲望が高じて理性を上回ってしまったもので、窃視癖や風俗通いに病みつきになるのやレイプ犯になってしまうのと同じである。

でも痴漢行為は、少なくともその発端では、明らかに自覚的、意志的に選んだものだ。彼はいつも違法と知ってそれをやっている。しかも女性に大きな迷惑をかけている。

他方、LGBTは、それ自体としては、なんら違法行為ではない。

また小沢さんは、いわゆる「カミングアウト」について、「性行為を見せないのが法律の有無以前の社会常識、社会的合意であるように、性的嗜好についてあからさまに語るのは、端的に言って人迷惑である」と述べている。

これも単なる反感にもとづいた事態の歪曲である。

カミングアウトとは、周囲の差別や偏見の視線の重圧から自由になりたいと思って、勇気を出して表明することである。

それも当事者の性格や時代の情勢、だれにどの範囲で告白するのかなど、状況によるので、踏み切ることがいいことか悪いことかは一概に言えない。

それに対して、性行為を見せるなどというのは、ビジネスか露出狂ででもなければ、だれもしようとはしないし、する必然性もない。しかもこれは行動であって、カミングアウトのように言葉で表すこととは根本的に違う。

性的「指向」と性的「嗜好(嗜癖)」。発音が同じだからといって、両者を混同してはいけない。それは、ゲイやペドフィリア(小児愛)の中にも痴漢やレイプや誘拐を犯す者があることによってもわかるだろう。

さらに言うと、杉山論文が、LGBとTとを分けたことに対して、小沢論文は異を唱えている。

そのくだりで、トランスジェンダーを曖昧な概念としたうえで、「性意識と肉体の乖離という心理的事実が実在するからと言って安直に社会が性の概念を曖昧にすれば、必ず被害者を激増させる」と何の証拠もないことを吹いている。

被害者の激増? いったい誰がどんな被害を受けるというのか。

だいいち、この文は論理的に筋が通っていない。仮にトランスジェンダーという概念があいまいだとしても、それは「性の概念を曖昧にする」ことをまったく意味しない。

むしろ逆である。性的な体と心の不一致に悩む少数者が存在する事実を見出すことは、かえって人間にとって性の区別が重大なテーマであることをあぶりだすのだ。

 

LGBTを被差別者として高らかに言挙げする政治勢力に対抗しようと思うなら、少なくともこれだけのことを踏まえた上でそうするのでなくてはならない。「知るつもりもない」では済まされないのである。

ともかく、LGBT問題などを過度に取り上げて、政治課題にすることがサヨク・リベラリズムの退廃をあらわしていることはたしかだ。

いまのサヨク勢力がダメなのは、組合運動の衰退とともに、かつてのように、大多数を占める労働者一般の生活を守るという根幹の課題を喪失して、その埋め合わせのために、周辺部に、部落、障碍者、アイヌ、沖縄、女性、LGBTといった、一見みえやすい「弱者」マークばかり掲げるようになってしまったことだ。

 

亜弥も賛成してくれたように、また杉山論文でも触れられているように、生きづらさは誰もが抱え、しかも人によって千差万別で、政治で解決できる部分はごく限られている。

「自由・平等・人権」などと理想を掲げてみても、実際にはこの世は困難と制約だらけだ。そのただ中をかいくぐることによってしか、自由や平等は実感できない。そしてそれはこれからも変わらないだろう。

堤 佑介Ⅵの2

 

午後、少しいまの国民の生活状態について、統計資料に当たってみた。

厚労省が出している平成29年版の少子化社会対策白書によると、1997年には日本人の給与所得者の年収が一番多く集まってる階層、つまり最頻値が、500万から699万だったのに対し、2012年には、300万から499万に下がってしまった。15年で最頻値が200万も落ちたことになる。

また、国税庁の民間給与実態統計調査によると、年収200万円以下のワーキングプアの人数が、2013年以降ずっと1100万人を超えていて、これは1996年の1.4倍に相当する。

 

 

さらに厚労省の福祉行政報告例によると、生活保護世帯総数は1993年から2015年までで、2.7倍に増えている。

 

 

さらに別の情報にリンクしてみた。まず実質賃金がどれくらい低下しているか。

 

 

このグラフは、大企業が内部留保をため込んでいるのと対照的に、この20年間で実質賃金(平均年収)がどんどん下がっていることを示している。つまりデフレのために大企業は投資に手を出さず、労働分配率も下げているので、勤労所得は減るばかり。これでは貧困層が増えるのも当然だ。

またワーキングプアの多くは、ひとり親世帯、それも多くは母子家庭だろう。それで、子どもがいるひとり親世帯の貧困率も気になった。

 

 

こんなひどい状態なのに、政府は「景気は緩やかな回復基調にある」などとデタラメを吹き回って、しかも消費税を増税しようとしている。いったい、この国の政治はどうなっているのか。義憤が吹き上げてくるのを抑えることができなかった。

このエリアでアパートを借りていた人が引っ越した後、補填が効かなくなったということは、単に供給過剰だけが原因なのではなくて、年収のモードが大きく下がってしまったことや、ワーキングプア層、生活保護世帯が増えていることと符合しているに違いない。

他よりも家賃が高い賃貸住宅など、借りられないのだ。家賃を払ったら家計収入がほとんど残らず、生活できない人がどんどん増えている。その人たちはもっと劣悪な居住環境へと落ちて行ったのだろう。

この地区で仕事をしていると、そうした劣悪な住環境で暮らしている人たちの生活ぶりについ想像力が及ばなくなる。でも実態は相当悲惨なものなのだろう。

その事実を、あの西山の爺さんは間接的に教えてくれた。また同時に、西山の爺さんの今後も思いやられるのだった。

 

夕方近くになって、西山の爺さんから電話がかかってきた。当分売るのは止めにして、敷金ゼロ、家賃を9.2万円から8.4万円に、9万円を8.2万円に思い切って下げる。これで広告を打ってくれないかというのだった。

ちょっと鼻白む思いだったが、価格の決断自体は悪くない。これなら客をつかめるかもしれない。わかりました、詳細を決めるために後日所員をお宅に伺わせますと答えて、日程の約束を取り付けた。

とはいえ、6室すべてを埋めるのは難しい。あと1年以内に仮に半分埋まったとして、5室だから売上約40万。

固定資産税や管理業務の手数料、これからかかってくる修繕費に要する費用などを考えると、実収入はかなり減額されることを覚悟しなければならない。

それに若いカップルは、結婚しているとは限らないので、じきに別れちゃったりして、流動が激しい。

結婚していればいるで、子どもが少し大きくなるともっと広いところに引っ越してしまうかもしれない。あの間取りは、そういう中途半端さも抱えているのだ。

また、最近の借主は強気になっていて、何かとクレームをつけてくることが多い。借主どうしのトラブルも起きるし、家賃の踏み倒しも多くなっている。複数の借主を抱えたオーナーが、こうした問題による心労に耐えられるかどうか。

まして西山さんは高齢者だから、それがますます心配である。結局、こちらに尻を持ち込むことになるだろう。

営業成績を少しでもアップさせるために管理業務委託を引き受けるか、人手不足を理由に他を紹介するか、悩ましいところだ。

でもたしか今年の5月ごろ、「ジョブトーン」というテレビ番組で家賃Gメンの活躍を取り上げていた。いざとなったらそういうところに託す手もある。しかしそれだってオーナーの経済的負担が増えるわけだ。

とにかくアパート経営は、最近は不安定で、ひところのようにあまり手を出す人がいなくなっているのが現実だ。このままデフレが続くとすると、高齢者はむしろ現金を持っている方が生活費が安くなって安心なのだが。

でもまあ、ご本人が決めたのだから、どうこういう筋合いではない。おそらく、一度手にした資産と事業経験の感覚が染みついていて、手放す気になれないのだろう。持ち家に対する執着が強い世代だから、それはそれでわからないわけではなかった。

しかし世の中は急速に変わりつつある。古い規範やモデルは崩れていく。居住スタイル、恋愛、結婚、家族、高齢者、そしてマイノリティ問題……。

何となく暗い気分にさせる一日だった。

堤 佑介Ⅵの1

 

                           2018年10月4日(木)

 

私はよく夢を見るたちである。

たいてい、いろんな手を使って目的地にたどり着こうとするのだが、いくつも電車を乗り継いでいくうち、ヘンなところに来てしまったり、知らない路地に迷い込んで途方に暮れてしまったりといった悪夢が多い。

試験の夢もよく見る。他の受験生がどんどん答案を書いているのに、私だけ白紙状態である。すごく焦っている。でもそのうち、あ、そういえば自分はもう社会人なのだから、こんな大学なんて受けなくたっていいんだという自己慰安の気持ちがやってきて目が覚める。

塾をやっていた時代の夢もある。生徒が私の講義を聞かずにめちゃくちゃに騒ぎ立てる。いっこうに収まらないので、堪忍袋の緒が切れて、怒鳴りつけたところで目が覚める。

実際にはこんなことはほとんどなかったのだが。

しかし今朝見た夢は、このたぐいの悪夢とはちょっと違っていた。

何人かの仲の良い友人たちと語らっていた。そのなかに若い女性が混じっているのだが、そのうちその女性が裸になっていることに気づいた。

私を慕っているふうに思えたので、ごく自然な気持ちで近づいて、うしろからそっと抱きしめた。女性も私のされるがままになっていた。

ほどよい大きさの乳房を揉むと、ふわふわとしてとても柔らかい。まるで空気を揉んでいるようだなと思っていると、そうだ、これはただ空気を揉んでいるだけなのだという確信がやってきて、そこで目が覚めた。

はかなさを地で行くような夢だったが、悪い感じはしなかった。股間が固くなっていた。久しぶりのことだ。

何かいいことがある前兆かな。そう無理にでも思うことにして、いつものように軽い朝食を急いで済ませ、出勤の支度をした。

 

だが仕事の上では、あまりいいことはなかった。

8室の部屋をもつ木造アパートのオーナーが相談に来て、空室が多くなって困っている、何とかならないかというのだ。70半ばくらいの男性で、西山と名乗った。

2階建てで、居室は10畳ほどのLDKに6畳という造りで、若いカップル向きと言えるだろう。

聞けば、初めのうちは1室、2室が空くだけで、じきにそれも埋まったのだが、5年ほど前から空室が増え、なかなか埋まらなくなった。いまは6室が空いたままもう2年も経っているという。1階が3室、2階も3室。

築18年というから、日本がデフレに突っ込んで少し経ってからということになる。まさにデフレが続いている現状のあおりをもろに食らった結果と言えるだろう。

けやきが丘の駅から徒歩圏に立地しているのだから、そんなにニーズがないとも思えない。外観と内部の写真を見せてもらったが、内部はなかなかしゃれたイメージで、さほど古びてはいないし、設備のメンテナンスもそれなりに行なってきたという。

そういえば、このアパートは外観に見覚えがあった。シャッターが軒並み閉まっていた。ああ、あそこだな、と思った。

家賃、固定資産税、経営管理の方法などについて情報を提供してもらった。

家賃は、初めはけっこう高く取っていて、それでも客がついたのに、空室が増え始めてからこれまで何度か少しずつ下げてきた。現在1階が9万円、2階が9万2千円。この地区が他に比べて高いのは当然だから、いまの相場からしてリーズナブルに思われた。

 

「営々と会社勤めしてきたんやけど、ええ、営業畑です。ほんで50半ば過ぎたころからもう会社人生やんなってしもてね。ほれ、依願退職てありますやろ。小さな会社やったけど、一応役員待遇ってことで、退職金はそこそこ出ました。ほんで老後に備えよう思うて貯金と退職金はたいて始めたんですわ。ええ、借金も少ししました。最初は順調やったけど、ここへきてこんなんなってしもて、何のための老後の備えかわからへん。女房にゃせっつかれるし、どないしょ思うて、ご相談に伺いました」

「これまで、管理のほうはご自分で?」

「いやあ、とても素人じゃ手ぇまわりませんわ。委託しよりましたけど、先月、これからの処置考えなおす言うて、解約しました。ほんで、こちらさんではコンサルもやっとる言うんで、相談に伺ったわけです。こちらさんはアパートの管理も手掛けとりまっか」

「はい、やっております」

本音を言えば、これは厄介な物件の部類に入る。仲介だけでも忙しいので、安請け合いしない方がいいのだが、「やってない」と答えるわけにはいかない。

「ご自宅は持ち家でいらっしゃいますか」

「はあ、柏台です。会社辞めてから、子どもも独立したよってに、女房と二人だけじゃ家広いし、大阪ぁ景気悪いし、アパート経営なら東京のがええやろ勧めてくれる友達がおってな、息子も東京の会社勤めてますし、思い切って家売ってこっち来ました。んでも東京は物価高うおますな。あれこれ探してようやくここぉ落ち着きました。ほんま東京は物価高うおますな。え、いまの家は中古です。あれもう30年以上経っとるとちゃうかな。それにしてもこんななってしもたら、何のためにこっち出てきたかわからへん。まあ、ほんでも息子に時々会えるちゅうのはせめても御の字や思うとりますがな」

よくしゃべる爺さんだ。そこに恨めしい気持ちが相当込められているように思えた。

彼が住んでいるという柏台は、ここからは同じ沿線の2つ東京寄りだが、急行は止まらない。小さな町で、不動産価値はけやきが丘よりはかなり落ちる。きっと資金繰りで苦労してこういうことになったのだろう。

「ローンはまだ残ってるんですか」

「こちらはおかげさんで、家もアパートも終わっとります。最初は調子よかったもんで、何とか回収できました」

「奥様は、お仕事はしてらっしゃらない?」

「はあ、前にパート出たことありますが、いまはやめてます」

奥さんがいくつだか知らないが、これから奥さんに働いてもらうのはちょっと無理かな、と思った。

この人のこれからの人生について親身になって相談に乗るには、子どもたちはどうしているのかとか、貯金や年金はどれくらいかとか、いろいろと聞いておいた方がいいのだが、あまり立ち入るのは自分の職分からしてよくない。

私に与えられた役割は、この物件をどうすれば活かせるかに答えることだ。

 

しばらく考えた。

うーん、情勢が情勢だけに、適切なアドバイスをいまここでするのは困難だ。西山さんがじりじりしているのがわかった。

「そうですねえ。率直に申し上げて、いま景気回復の見込みがなかなか見えてこないんで、西山さんの場合、以前と同じような状態まで復活させるのは、かなり難しいんじゃないかと思います」

「そうでっか」

西山さんは肩を落とした。

「それと立地なんですが、周りがけっこう高級住宅街ですよね。富裕な層が多い地区ですから、かえって低所得の人たちが集まりにくいってことも、この業界では言えるんですね。いまデフレで、すごくせちがらい世の中になってますから、切り詰められるところはできるだけ切り詰めようって心理がすごくはたらいてます。ネットの発達のおかげで、みんな情報通になってて、安い地区、安い地区を狙おうとするんですよ」

「なるほどね。ほんなら、家賃もっと下げたらどうですねん。礼金はもう前から取っとらんですけど、敷金もいらんちゅうことにして」

「それは一つの有力な手だと思います。そういうところ、けっこう増えてますからね。思い切って家賃下げて、けやきが丘駅から徒歩8分とか宣伝すれば、人気エリアでこんなに安いのかってことで目を引くかもしれませんね」

今度は西山さんのほうが、腕組みして考え始めた。

 

頃合いを見て私のほうから言った。

「もしご決断なさったら、私どものほうにもう一度ご相談くださってもけっこうですよ。価格によりますが、折り合いがつけばウチと専属選任媒介契約を結んでいただいて、広く広告を打つことはできます。ただし、お客さんが増えるかどうか、それは残念ながら保証しかねますけれど」

西山さんは、黙ったままだった。その間が長いので、今度は私のほうがちょっとじりじりしてきた。言った方がいいかどうか迷ったが、思い切って切り出した。

「もう一つの選択肢としては、ちょっと申し上げにくいんですが、この際、いっそお売りになるというのはいかがですか。まとまったお金を確実に手にして、これからの人生に備えるというのも一つの考え方ですよね」

「それは考えとったんですわ。しかし高くは売れんでしょ?」

「買値からはかなり下げざるを得ないと思いますが、土地がありますから。10年近く前に駅が新しくなりましたよね。あれからけっこう値上がりしたんですよ。その点ではこの地域だってことが有利にはたらきますよね。」

私は、内心そのほうがいいと思っていた。

築18年では、上物の価値は20%以下に下がる。業界の査定では、ほとんどゼロである。しかし土地のほうは、あの駅舎新築以来一気に人気が出て、18年前に比べれば、ずいぶん値上がりしている。

この先アパート経営のあがりで生活を支えていこうとしても、いつも埋まるとは限らないから、その不安を絶えず抱えなくてはならない。しかも高齢になれば、自分で管理業務までやるのはたいへんになる。

まあそれはこちらに任せてもらえば済む話だが、それだけ手数料を引かれることになるわけだ。それに、築18年というと、これから急にいろいろなところが痛んできて、修繕代も覚悟しなくてはならない。

また、こちらの立場から言えば、この前の会議で出ていた「下町コンセプト」の対象に当てはまる。ウチで買い叩いて、というと言葉は悪いが、なるべく安く買い上げて少しリフォームすれば、ウチの管理物件として好きなように処理できる。

「下町」とは言えない立地だが、ちょっと歩けば大きな公園や店舗やクリニックがたくさんある。安い家賃で高齢者向き住宅として宣伝するのだ。

「あんたはんは、どっちがいいと思いますねん」

端的に問われたが、顧客の今後の人生を決定するようなことまでは言えない。後で恨まれないとも限らないし。

「難しいところですね。私どもでできることは、この物件に関してなるべく確かな情報を提供して、こちらの方が有利だろうというお勧めを示すことです。でも最終的なご判断は、西山さんご自身でなさっていただく方がいいと思いますよ。これからの人生がかかっているわけですから」

西山さんはちょっとむっとしたような表情を浮かべた。

「だから、そのお勧めでいいですから、言うてみておくんなはれ」

「申し訳ありません。今日の段階では、まだどちらとも申し上げかねます。もしアパートの経営を続けるとした場合、西山さんのほうで家賃、敷金などをどうするかお決めいただいて、私どものほうにもう一度ご連絡いただけますか。そうすると今後の予想も立てやすくなりますね。また、もしお売りになる場合には、よろしければ私どものほうで直接現地にお伺いして、金額の査定をさせていただきます。そのうえで、両方を突き合わせて、またご相談するということでいかがでしょうか」

西山さんは面倒くさそうに顔をゆがめた。専門家の判断を仰ぎに来たのに、スパッと言ってくれないのが不満のようだ。気持ちはわかるが、そう簡単にはいかない。

「そうでっか。んじゃ、家賃やなんかはまた女房とも相談して考えてみますわ。連絡は電話でもよろし?」

「けっこうですよ。水曜はお休みですが、そのほかは10時から6時まで営業しております。私の携帯にお電話くださってもかまいません。あ、先ほど差し上げた名刺に書いてありますので」

「ふむ。んじゃ、また」

そっけなく帰ろうとするので、もう一言。

「すみません。もしお売りになる方向で考えられた場合には、お手伝いさせていただきます。その節にはご足労ですが、こちらにもう一度お越しいただけますか。申し訳ありません、すぐにお答えできなくて。今日はどうもありがとうございました」

西山さんは無言で、わかった、わかったというように手を振って出て行った。八木沢と川越が立ち上がって「どうもありがとうございました」と唱和した。

この爺さん、なんだかいまの日本の暗い気分を象徴している――そんなふうに感じたのは、私の思い過ごしか。大阪の景気の悪さもしゃべっていたので、大阪の沈滞というあらぬ連想にまで及んでしまった。

こういう傾向は、今後も続くのだろうか。だとすると、不動産業界もうかうかしていられない。

半澤玲子Ⅵの3

 

あのお店ではほとんど食べなかったので、自宅の最寄り駅についてから、よく入るラーメン屋に立ち寄った。立ち昇る湯気と懐かしいにおいを浴びて、だんだんといつもの自分に戻ってきたのを感じた。お腹がグウと鳴った。

ちょっと明日以降が気になる別れ方になってしまったけれど、まあ、何とかなるでしょう。お互い大人だ。

9時近くに帰宅してから、洗面台の下の棚を開けて、わが社の入浴剤を物色した。こんな時はやっぱりクール系がいい。そこでミントオイルを含んだマイバス6を選んだ。

湯上りに体重測定。47㎏ぴったり。まあ、年齢と同じだわ。この前より1キロ近く痩せた。けっこう仕事のストレスが溜まっているのかしら。

いや、そうじゃないかもしれない。もしかして恋活で緊張したせい? 書き慣れない文章なんか、苦労して書いてるものね。

でも太るよりマシだ。わたしは自分にとっていま、いいことをしてるのよ、と言い聞かせた。そして、今日もテッチャンさんこと、岩倉さんに頑張ってお返事しようと決めた。

 

何日もお返事をせず、申し訳ございませんでした。

ご本名を教えていただいて、ありがとうございます。

哲って男らしくて、思慮深そうで、素敵なお名前ですね。

 

と、ここまで書いて、こんなこと書くのはまだ早いんじゃないか、と反省した。会うことになったら、それからでも遅くない。もう少し他人行儀を守った方がいい。好意をあからさまに示さず、それとなく示す。その微妙な呼吸が大切。

そこで、最後の行を消して、続ける。

 

何日もお返事をせず、申し訳ございませんでした。

ご本名を教えていただいて、ありがとうございます。

わたくしは、半澤玲子と申します。

大原流についてのご理解は、とても正確だと愚考いたします。

また、わたくしも他の流派のものは、あまりなじめません。特に蒼華流は奇をてらい過ぎ ているような気がして。

ワレモコウというニックネームは、お察しのとおり、活け花でよく用いますので、そこから 思いつきました。

じつはわたくしの母が、活け花を教えていて、この前実家に……

 

いやいや、こんなに饒舌になってはいけないわ。母がお花の師匠をしていることは黙っていよう。もう少し自己抑制をはたらかせなければ。

それに、「わたくし」というのはちょっと気取り過ぎていて、よくないな。実態を知ったら幻滅してしまうかもしれない。

またやり直し。

 

何日もお返事をせず、申し訳ございませんでした。

ご本名を教えていただいて、ありがとうございます。

わたしは、半澤玲子と申します。

大原流についてのご理解は、とても正確だと愚考いたします。

また、わたしも他の流派のものは、あまりなじめません。

ワレモコウというニックネームは、お察しのとおり、活け花でよく用いますので、そこから思いつきました。

野山に群生しているのは、お恥ずかしいことに、まだ見たことがありません。機会がありましたら、一度見てみたいと思います。

すっくと立っている風情がお好きとのこと、わたしも活けられたのを見ると、ああ、あんなふうに生きられたらなあと思うことがあります。

わたし自身はとてもそんなにすっくと立っているわけではなく、ごく普通の会社員として、あれこれ迷いながら毎日を送っております。

でも、そんなふうに例えていただいて、とてもうれしく思いました。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 

これでも字数が多すぎやしないだろうか、削れるところはないか、と読み直したが、えい、これくらい書いておいた方が、次のステップに進むのに相手もやりやすいだろう、と心を決めた。

文章に変なところはないか。誤字脱字はないかなどを慎重にチェックした。「例える」っていう字は、ほんとは「譬える」が正しいのよね。どっちにしようか迷ったけれど、でもやっぱり、簡便なほうにしておこう、と、送信ボタンを押した。

われながらずいぶん入れあげている、と思った。

人を一人振ったそのすぐ後なので、何かに縋りたい気持ちがいっそうはたらいたのかもしれない。こちらに関心を集中させれば、後味の悪さを埋め合わせることができる、と。

 

とにかく、明日、中田課長と顔を合わせる。

わたしに好意を寄せてくれたこと、思わぬ純情を示したこと、彼についてのそれらの印象をちゃんと織り込みながら、しかしほだされたふうはけっして見せずに接しなくてはならない。

ふう。人間関係は難しい、と改めて思った。

カーテンの隙間から浅草の街の灯がちらちらと煌めいている。あそこでも、きっとこんな面倒な人間関係が盛んに繰り広げられているんだわ、だからわたしも、これしきのことにめげてはいけない。先を見なければ。

 岩倉さんに会ってみたい、と思った。

 

半澤玲子Ⅵの2

 

タクシーで20分ほど、神楽坂にやってきた。降りてから細い路地に入り、間口の狭い古びた格子戸をくぐった。

なるほど、ちょっとこじゃれた造りで、座席の奥に客が一組いるだけだった。渋くて趣味のいい店だ。中田さん、それなりに苦慮したようね。

「なかなかいい雰囲気のお店ね」

「そう、気に入ってもらってよかった。半澤さん、けっこういける方なんでしょう」

と、中田さんは杯を傾ける手つきをしながら、嬉しそうに言った。

「いえ、弱いんですよ」

中田さんは中ジョッキ、わたしはグラスビールで乾杯した。

「いや、こないだ半澤さんに褒められてじつはすごく嬉しかったんですよ。反面、もっと若い時期から積極的に会社に貢献しときゃよかったかなって反省もしたね。たぶんこれからじゃもう手遅れだけど」

「そんなことないと思いますよ。本社の人事異動もあと半年でしょう。業績買われて……」

「いや、そりゃもうないよ。経理も長いし、役員連中も、あいつに任せときゃって雰囲気だしね。」

「失礼ですけど、課長、おいくつですか」

「来年大台ですよ」

「じゃ、まだわかりませんよ」

「いやいや、ウチは人事、あんまり動かさない伝統があるじゃない。あれもまた、問題っちゃあ問題なんだけれどね。それはそうと、はんざ……おっと、レディに年聞いちゃいかんな」

「そんなことないですよ。47です。ほとんど同世代」

「え、驚いた。キャリアがそこそこ長いことは知ってたけど、それにしても若く見えますねえ。それにとてもきれいだし」

とてもきれい? そんなことない。それはお世辞、というかちょっと見え透いた誘惑のテクニックだ。

「ありがとうございます。でも若くもないしきれいでもないですよ」

運ばれてきたお料理に箸をつけ、目を落としながらできるだけ無機的な調子を作って答えた。

ビールを飲み干した中田さんは、お銚子とお猪口を二つ注文した。それからややためらうような風を見せて言った。

「いままで、プライベート、全然聞いたことなかったんだけど、ちょっとだけ聞いてもいいですか」

わたしは日本酒を一杯だけお相伴にあずかった。彼がしきりに勧めるのを丁重に断って、あとは梅酒サワーにした。ペースに巻き込まれないようにしなければ。

何を聞かれるか、だいたいお見通しだ。

「シングルだってのは知ってるんですけど、ずっと独身通してきたの」

「いえ、バツイチです。三年間で別れました。」

今度は相手の目をはっきり見ながら答えた。しばらくそのまま中田さんの目を見つめていた。どんな表情をするか興味があったのだ。

考えてみると、何年も同じ職場にいながら、この人の顔を真正面からこれほどまじまじと見たのは初めてだった。造作だけで言えば、そこそこ整った顔をしている。

中田さんは、目を丸め、ちょっと口をすぼめるようにしてそのまま表情を動かさずにいた。それから、

「なんで別れたのか、聞いてもいい?」

それを聞いてどうすんの? あなたのいまの関心事と違うんじゃない?

「相手が酒乱で病的に嫉妬深かったんですよ」

彼はまた同じように目を丸めて口をすぼめた。それから常識的な言葉を探すのに少し苦労しているようだった。

「そう。それは大変だったね。どうも失礼、失礼」

そういって、その場の気まずさを解消するように、お酒を独酌でつぎ、ぐっと飲みほした。

「いいんですよ。もう遠い昔の話だし。課長は?」

「え?」

「課長はどうしてシングルを通してこられたんですか」

「それは……いい出会いがなかったというか、だいたい俺は若い時からモテなかったからね」

「そんなことないと思いますよ。課長、ハンサムだし」

「いや、照れるな。そんなこと言われると。でもほんとにいい出会いがなかったんですよ。全然てわけじゃないけどね」

最後のセリフにちょっと見栄を感じた。誰の心にもあることだ。

「じゃあ、これからですね。だって、いますごく晩婚化しているでしょう。いいご縁がきっとあると思いますよ」

さっき、仕事の話をしていた時と同じ展開になってるなあ、と気づき、おかしさがこみ上げてくるのをこらえなくてはならなかった。

わざと他人事のように言ったつもりだった。ところが、相手は、これをチャンスと思ったらしい。テーブルに両肘を載せたまま、上半身をぐっとこちらに近づけてきた。丸い提灯型のランプが彼の頭に触れて、ゆらりと揺れた。

「半澤さんは、再婚とか……考えてないんですか」

声がやや上ずっている。

言ったあとで、右手をわたしの左手のほうに少しだけすうと伸ばしてくる。握ろうと思えば握れる距離だ。でもわたしはそのことを大して気にしているわけではなかった。

しかしいきなり再婚という言葉を持ち出してくるのは想定外だった。とっさに答えた。

「わたしですか。わたしはあきらめてます」

中田さんは、一瞬、狼狽したような表情を浮かべて、右手を引っ込めた。

「あきらめてる? どうして」

「だって……もうおばあさんだし、バツイチなんて相手にされないと思うし」

「そんなこと……あきらめてるなんて言わないでください。半澤さんは若いし、きれいだし……今さっき、僕に、まだこれからだって言ってくれたばかりじゃないですか」

言い方に、どことなく悲壮感が漂っている。

中田さんから、「あきらめてるなんていわないで」とお願いされるような局面じゃないと思うんだけどな。

これってプロポーズのつもりかしら。それだったら、気持ちはわかるけど、やっぱり、すごく不器用で、しかも性急すぎる。どうせなら、もっといろんな話するとか、どこか楽しいところに一緒に行くとか、そういう共通体験を積み重ねてからにしてくださいね。もっとも、中田さんとそうする気は、わたしにはないけれど。

「課長。わかりました。わたしにもご縁が訪れてきたら、考えてみます。でも、いまはそういう気にまったくなれないんです」

中田さんは急に力が抜けたように体まで引いた。二本目(三本目だったかしら)のお銚子から弱々しそうにお酒を注いだ。そのしぐさがちょっとかわいそうだった。

仕事の話とか、知識を披露する時とかは、あんなに雄弁なのに、まるで人が変わったようだ。

 

しばらく沈黙が続いた。お酒を注ぐ間がだんだんと短くなっていくのがわかった。二人とも料理にはほとんど箸をつけない。

それから中田さんは、あのぶっきらぼうな口調にちょっと戻って言った。

「誰かつきあってる人はいないの」

これは予想された質問だ。

「それは……いないわけではないです」

ヘンな答え方になってしまった。というか、いまの自分の状況からすれば、とても正直に答えたことになるとも言えた。

初めからこの質問をしてくれれば、「います」と答えて話は簡単だったのに、なかなか思った通りにはいかないものだ。

しかし中田さんは、それ以上追及しようとはしなかった。

やがて彼は、落ち着きを取り戻したのか、できるだけ抑えた口調で、うつむきながら、ゆっくりと語り出した。つむじを中心に白髪が何本か放射状に広がっているのが見えた。

「ごめん。つい動揺してしまって。ちゃんと話すよ。……話しても仕方がないってことはもうわかったんだけど……でも、つまり……何ていうか、やっぱり自分の気持ちを伝えるだけのことはしておいたほうがいいかな、と」

そこでいったん間をおいて、精進揚げに手を付けた。それからゆっくりと盃を飲み干した。

「……あの……前から半澤さんのこと好きだった。……でも、仕事場で一緒にいると、いるっていうだけで、なんだか、慰められてるっていうのか、癒やされてるっていうのか……いや、これは僕が勝手に感じてただけのことなんだけど……それで、そんなに激しい気持ちになんかならなくて、これでいいんだよなって、自分で言い聞かせてたんです。……でも、こないだ、あんなふうに褒められたでしょ……あれ、何ていうか、たとえ悪いんだけど、結婚してたら、きっと奥さんにこんなふうに励ましてもらえるんだろうななんて思っちゃって……」

そこで間をおいて、わたしの反応を見るように顔をこちらに向けた。わたしは、ただ黙って聞く姿勢を崩さなかった。中田さんは、再びうつむいた。

「そしたら、なんだか、胸の奥のほうから、『はっきりさせろよ、男だろ』って声がせりあがってきたような気がしたんです。……それで、こんなバカなことしてしまった。許してほしい」

わたしは思わず、白髪交じりのつむじを、ちっちゃな子にしてあげるように、撫でてやろうかと、手を伸ばしかけた。でも、そんなことしちゃいけない、自分の気持ちを偽っちゃいけない。

「課長。謝ったりしなくていいです。それに、バカなことなんて何もしてませんよ」

「ありがとう。なんだか恥ずかしい。明日も顔を合わせるんだよね」

「そうですね。これからもずっと」

「うん。これからもずっと。それで、何もなかったことにしてくれないか」

「もちろんです。誰かに見られたわけじゃないし、実際何もなかったし、誰にも言いませんし」

じつはわたしも、彼の今の言葉を聞いているうちに、そのことが気にかかり始めていた。何もなかったとはいっても、心の問題として何かがあったのだ。

誘われたときは、ただの不器用なスケベって思った。でも、振ってみると相手から男の純情みたいなものがにじみ出てくるのがわかった。それがわたしの中に刻みつけられてしまった。だからこれからは、そういう人として接する新しい心構えを身につけなくてはならない。

 

長く顔を突き合わせていても、気まずさが募るばかりだ。早々に退出しようと思った。

「すみません、今日ちょっとやらなきゃならないことがあって」と言い訳して(事実、あった)、お店を出たのが8時ちょっと前だったかしら。

中田さんは、僕はもう少しここに残ると言った。別れ際に握手を求めてきたので、握り返すと、掌に彼の分厚い手の汗ばんだ感触が残った。

もしかして、これからやけ酒?

「あまり飲みすぎませんようにね」

中田さんは、営業的な笑いを浮かべて「ありがとう。また明日」と言った。

目が駄々っ子のそれのようだった。

半澤玲子Ⅵの1

                                   2018年10月4日(木)

 

やっと秋らしい空気になった。

台風25号は沖縄、九州に大雨を降らせているようだが、どうやらこちらには近づかず、東シナ海から日本海へ迂回していくようだ。

こちらは雲がかかっているけれど、今日一日雨にはならないらしい。

ポインセチアとポトスに軽く水をやってからマンションを出た。駅までの道を歩いていくと、微風が頬を撫でる。通学の小学生たちが五、六人、縦一列に歩いている。平凡な朝の風景に心が和む。

 

社に着いてから聞くと、キーピィ騒動は、どうやら事なきを得たようだ。役員クラスがじきじきにクレーマー宅を回って説明と謝罪にこれ努めたらしい。

だけど考えてみると、マスコミが取り上げるのはごく一部だろうから、こういうトラブルは実際にはごまんとあるに違いない。そしてこれからも増えるだろう。

さて、デスクに就いた。

昨日遅くに届いた報告書群に目を通す。

ふとある取引先の書類に不備を感じたので、直接担当者に会って確認した方がいいと思った。取引先まで30分もかからない。先方にアポを取ってから、新宿の近くにあるビルまで出かけた。久しぶりの外出だった。

駅構内を通る時、フェルメール展の広告が目に入った。「牛乳を注ぐ女」の大きな画像だった。ちょうど今日が開催日。

フェルメールは大好きな画家のひとりだ。あ、すぐにでも行きたいな、と思った。でも考えてみると、初めのうちはすごい混雑だろう。ほとぼりが冷めてからにしよう。

一瞬、エリと一緒に、と思ったが、そうだ、彼女はあの彼氏と行くことをもう考えているに違いない。ここは誘うのを遠慮すべきだ。そう気づくと、ふっとさみしさに襲われた。

でも考えてみれば、わたしだって、一緒に行ける相手がもうすぐできるかもしれない。テッチャンさん……。

 

先方との確認作業は、わりにあっさりと片付いた。担当者がいい人でよかった。

帰りの電車の中で、スマホのFureaiアプリを覗いてみる。

あれから、いくつかマッチングが入った。でもそれらにはもう取り合わなかった。一応はみんな見たけれど、気持ちがそれほど動かなかった。あまり惹きつけられる人がいなかったし、最初の新鮮さが失われたせいもあるかもしれない。あれこれ目移りするのもよくない。

トニーくんからもすぐに返事が来た。こちらのやんわりとした距離の取り方にあまり気づいていないらしく、『広い世界の端っこで』に反応してくれたことをひたすら喜んでいた。わたしのコメントに感心もしてくれた。尊敬するという言葉もあった。

でも、この人は、ああいう作品が秘めている生活情緒的トーンに心から感銘を受けているのかしら、とわたしは疑った。やっぱり『剛郭機動隊』のほうがホントは好きなんじゃないのかな。わたしの心をつかむために無理をしているような気がする。

そう思うと、もう返信する気持ちが萎えてしまった。それで、「プロフィールにはああ書いたけれども、やはり年齢差が気になるので、申し訳ないけれど、やり取りを打ち切らせていただきます」と書いて、切ってしまった。

テッチャンさんからも来ていた。5日前の28日だ。

 

お返事、ありがとうございます。

本名を岩倉 哲と申します。

大原流ですか。華道は詳しくありませんが、たしか水盤を使って低く活けたのをもとに、その上にすっと立ち姿をあしらったりするんですよね。間違っていたらごめんなさい。

全体のバランスを重んじているようで、他の流派ほど派手ではないけれど、それがかえって好きです。

ワレモコウさんというちょっと変わったニックネームも、そこから選ばれたのでしょうか。私は山歩きするときに、時折、群生しているのに出会うことがありますが、何本か取ってきて活けた方が、すっくとしている風情があっていいですね。

お人柄が偲ばれるような気がいたします。

またよろしくお願いいたします。

 

やはり他の人とはちょっと違う。ヘンにお世辞を言ったり、蘊蓄を傾けたりせずに抑制しているところがいい。

この人だったら会ってみてもいいと思った。今夜、お返事を書くことにする。

 

午後になって、いつものように計算に追われていると、中田課長がわたしの傍らに近づいてきて、小声で言った。

「今日、よかったら、仕事が終わってから、一杯いかがですか」

やっぱりきたか。

予定があるから、と断ってもよかった。しかし必ずまた誘ってくるに違いない。二度、三度と断ると、パワハラを覚悟しなくてはならないかもしれない。ここは受けるのが無難だ。

わたしもできるだけ小さな声で答える。

「わかりました。周りがうるさいから、待ち合わせ場所を決めていただけますか」

「この間の喫茶店で待っててくれる? 僕のほうは6時くらいには行けると思うから」

会社に近いので、それもあまりいい方法とは思えなかったが、長話は無用。黙ってうなずいた。

中田さんがデスクに戻る後姿は、ステップが妙に軽く見えた。わたしはもともとちょっとかすれ声なので、小声がよけい秘密めいて聞こえたかもしれなかった。

 

窓際に席を取ってからしばらくして、中田さんがいそいそとやってきた。6時よりはだいぶ早い。急いで処理したのだろうと思うと、少しおかしくなった。

さいわい、同じ社の人はいないようだ。

「待たせてごめんなさい」

やはりいつもの仕事モードとは調子が違って、優しい声になっている。

「いえ。私もさっき来たばかりです。お先にいただいてます」

「カフェオレか。僕はブレンドにしよう。……すみません、コーヒー!」

ウェイトレスが来る前に、ぶっきらぼうに注文した。その大きな声が、わたしにかけたのとはずいぶん違っていた。この前は、この落差には気づかなかったけれど。

ウェイトレスは「かしこまりました」と無表情に受けた。

「キーピィ問題、何とか大事にならないでよかったね」

「ほんとにそうですね」

「ああいう処理の仕方には、不満が残るけどね。僕だったらああはしないな。まず隠蔽しないで、どういうふうに告知するかを考える。それから……」

この前わたしに褒められた余韻を引きずっているようだ。正論だと思ったけれど、その先はわたしのほうであまり聞く気がなかった。

いつの間にか、これから行く店の話に移っていた。

「何度か行ったことがある居酒屋というか、もともとそば屋なんだけどね。そばは……おそばは好き?」

あわてて「そば」に「お」をつけた。こういうところ、けっこう緊張している様子が感じられた。

「ええ、好きです」

「よかった。6時半に予約入れといたんですよ。静かなところだから、ゆっくり話ができると思うんだ」

ゆっくり話ができる。何を話すのか。中田さん、キーピィ話題はもう終わってますよ。

堤 佑介Ⅴの5

 

帰宅してテレビをつけると、民放ニュース番組の一コマで、『海風45』の休刊を伝えていた。

報道によると、「部数が低迷したため、編集上の無理から原稿チェックがおろそかになり、偏見と認識不足に満ちた表現を掲載してしまった」という趣旨の海風社の発表があったというのだ。10月号発売からわずか1週間である。

その「偏見と認識不足に満ちた表現」というのが、何とLGBTにかかわるある論文を指しているらしい。さっき亜弥と話してきた話題と偶然一致していたのでびっくりしてしまった。

しかし問題の論文は、部数減のための休刊(事実上の廃刊)の口実に使われた疑いがある。どんな「偏見と認識不足に満ちた表現」なのか、確かめてみないとわからない。

私は少なからず興味を掻き立てられた。

休刊になったからといって、最終号がすぐに書店から消えることはないだろう。明日は休日だから、さっそく買ってこよう。大型書店でないと置いてないだろうから、立野台まで出る必要がある。ついでに一週間の買いだめもしてこよう。

雑誌を買うことはめったになかったが、『海風45』のバックナンバーに掲載された杉山未久という国会議員の論文が批判にさらされて炎上していたことは知っていた。「LGBTには生産性がない」と書いたことが人権主義者から槍玉に挙げられていたのだ。

しかし、彼女の論文を読んだわけではない。できればそれも入手したい。ネットで探せば見つかるだろう。

 

床に入る段になって、やはり今日の亜弥との婚活をめぐるやり取りのことが思い出された。

それにしてもあいつめ。いつの間にあんなしたたかさを身につけたんだろう。依子にはああいうところはなかった。俺の血にもない。

はてさて。やっぱりかなり経験を積んできたのかな。

そう思うと、ほとんど知らない亜弥の生活史の部分に対して、嫉妬のようなものを覚えた。父親として何も関与できなかった悔しさと言ってもいい。

でもああ言われて悪い気はしなかった。それどころか、けっこうやに下がっている自分がいたことに気づく。

婚活サイトか。

いままで考えてみたこともなかった。自分の気持ちを整理してみる必要がありそうだ。

俺はどうしたいのか。いまの自分にはどういう関わり方が向いているのか。

結婚してもう一度家庭を築きたいのか。

気の合った女を見つけて、お互い自由な立場で付き合いを重ねたいのか。それは一人の女と? それとも複数? 

ただいい女とセックスしたいだけなのか。

あるいはこんなことに思いをはせること自体が、もう手遅れなのか。

しばらく考えたが、頭がまとまらなかった。これらのどれでもあり、どれでもないような気がした。区別してみても始まらない。ただ、素敵な女と出会いたいというのだけは確かだ。

私は風俗に行ったことがない。青春時代は金もなかったし魔界に入る勇気もなかった。

不倫相手と切れてからは、ますますそんな気はなくなった。別に聖人君子を気取っていたわけではない。金を払ったぶんだけの満足が得られると思えなかったのだ。

やはり自分は、女性とつきあうなら、単なる性欲の処理というようなことよりも、会話をしたり食事を楽しんだり、一緒にどこかに出かけたり、そうしてかかわりを深めて行くことを求めるタイプらしい。

その過程でセックスに及ぶこともあるだろうし、そうせずに別れてしまうかもしれない。あるいは双方がその気になれば結婚にたどり着くかもしれない。

とすると、いままで意識の上でも行動の上でも避けてきた「恋愛がしたい」というのが一番当てはまっているようだった。

恋愛の面倒くささについては、十分味わったつもりだった。でもここにきて、どうやらまたその面倒くさいことを懲りずにやってみたくなったようだ。

 

自分の周りにいる女性たちを、相手として想像してみる。

部下の社員たち。

山下は人妻だしあまり美人ではない。

八木沢はまあきれいだけれど、ちょっときつくて自分の好みとは言えない。

渡辺は堅実な女性だが、その堅実さが固さにつながっているような気がする。

川越は――若くて可愛いし、賢そうだからそそられるのは確かだが、年齢が違い過ぎると話が合わないだろう。

パート社員にも女性はいるが、特に魅力を感じることはなかった。

これまで接した顧客の中にも、魅かれる女性は何人かいた。

しかし夫婦だったり、そうでなければほんの短期間の接触である。性格まではわからないし、よほどのことがなければ、ずっと記憶に残るということはまずない。そして「よほどのこと」というのはこれまで起こらなかった。

今日の本部の会議でも、女性が三人いた。うち二人は前から知っていた。

一方は頭の切れる人で容貌もまあまあ。でもたしか結婚していたと思う。

もう一人もやはり優秀だが、お顔のほうはちょっと。これまで仕事上で話したことは何度かあったが、そういう対象として考えたことはなかった。

残りのひとりはおとなしそうな若い女性だったが、どういう人だかまったくわからない。

いずれにしても、出会っている時のモードがいけない。誘おうと思えばできないことはないが、会議の余韻が残る中で、なかなか気安くはできないものだ。

また、歌や映画や三文小説のように、突然見つめ合って、電光が走るように双方が燃え上がるなんてことはあるもんじゃない。ああいう恋愛幻想はいいかげんにやめてもらいたい。

考えてみると、村落や小さな町で暮らしていた昔と違って、この大都会では、たくさんの異性と出会っているのだ。極端な例かもしれないが、満員電車の中で痴漢が多く発生するのも、その一つの証拠だ。

人類史を振り返ってみれば、こんなことはほんの短い期間に発生した一種の異常事態と言っていい。都市で社会生活をする男たちは、よほど性欲を理性で抑えるように馴致されてしまっているのだろう。

互いに見知ったり会話を交わしたりする機会だって、じつは昔よりずっと増えている。

女性も、ひそかに慕っていながら男性からの呼びかけを待っているというようなことはなくなって、その気があれば自分からどんどん積極的にアプローチできる。実際そうやって早くからいい男をゲットしてしまうケースは多いんだろう。

それなのに、恋愛関係が成立しにくくなっているのはなぜなんだっけ。

ああそうだ。恋愛が自由市場化したからこそ、男に対する女の理想水準が上がって、モテるやつとモテないやつとの二極分解が起きたんだった。

「イケメン」にはすぐ女がつくが、「キモメン」にはずっとつかない。それにセクハラ告発を恐れる男の遠慮。恋愛を面倒くさがる心理。あとは経済問題。

おそらく恋愛というのは、壁があればあるほど盛り上がるんだろうな。身分制社会とか、親の不許可とか。

いまの時代はどちらもない。恋愛が許されないので心中したなんて話は聞いたことがない。性関係に寛容になった社会は、そのぶんだけ、「この人、命」みたいな濃密さは失われてしまったと言えるだろう。

そこで婚活か。

お見合いのビジネス版だな。

篠原の言う「紹介」より確率的には高いかもしれない。紹介だと、ごく人数が限られる。「下手な鉄砲」のほうがいいのかも。

べつに再婚すると決める必要はない。でも俺もそろそろ恋愛アレルギーから脱却して、積極的に探すことにしよう。そうしないともう後がない。ダメ元のつもりでやってみるか……。亜弥の言った「ゲーム感覚」というやつだ。

こうして私はいつの間にか、篠原と亜弥のけしかけに乗せられているのだった。

堤 佑介Ⅴの4

 

「もう少し何か食べないか。時間はいいんだろ」

「うん。時間は大丈夫。食べ物はもういいや。デザートが欲しい」

「あ、好きなの選んで」

注文を終えてから、亜弥は私に、真剣なまなざしを注いできた。でもその真剣さには、どこかこちらを試すようなものが含まれていた。涙袋の部分にはかすかな笑みさえたたえられている。

「パパ、仕事と関係ない議論にふけるのもいいけどさ」

「うん?」

「誰かいい人見つけたら?」

そう言ってから、今度はからかうような目つきになった。

不意を突かれた。

そうだよな、何しろ寂しいから呼んだというのを見抜かれているんだものな。娘に本来のテーマに引き戻してもらったわけだ。

「うん。見つけるよ。ありがとう。こないだも篠原のおじさん、覚えてるよね」

「篠原のおじさん……ああ、あの猫背の学者の人ね。時々うちに来てたね」

「うん。彼と飲んだら、同じようなこと言われたよ。再婚考えたらどうだってな」

「ネット、よく見る?」

「そりゃ、仕事がらしょっちゅうだよ」

「ネットニュースの広告によく出てるでしょ。『仕事だけじゃなく、恋愛もしようよ』って」

「え? どんな」

「グラマーな女性が自転車うしろにして、こっち見てるやつ」

「ああ、あれか。よく見る、よく見る。あれがどうかしたか」

「じゃ、何の広告か知らないの」

「知らない」

「あれ、Couplesっていう婚活サイトの広告。あれは圧倒的なシェアを誇るサイトなのよ」

「へえ、それで」

「一度クリックしてみたら」

そう言って亜弥は、来た時と同じようにクスクス笑い出した。

こいつ、父親をおちょくってるな、と一瞬思った。しかし、好意で言ってくれていることは疑いようもない。

ティラミスに匙をつけながら、亜弥はまだにやにやしながら私を見ている。私はさっき頼んだハイボールを口に持って行きながら、思わず沈黙した。

心の中では、亜弥の成熟ぶりに少なからず驚くと同時に、やや狼狽もしていた。自分を捨てた不埒な父親に、婚活を勧めるとは。

亜弥がしばらく他人の女のように思えた。酔眼を通してよけいにそう見えるのかもしれない。

だがこれは、と、私は反省した――とても恵まれたことなのだ。こんなことはそうそうあるものではない。もう一度、亜弥の心遣いに黙って感謝した。

それにしても、母子家庭でよくここまで成長したものだ。思春期にだっていろいろあったろうに。ここは、依子にも深く頭を下げるべきところだ。

ともかく、自分の人生と婚活サイトを結び付けることなど、娘に言われなければ考えてもみなかった。

やや余裕を取り戻してから、落ち着いた素振りで答えた。

「気持ちはわかった。しかし俺はああいうのはちょっとNGだな。年も年だし」

「でも見たことないんでしょう。ダメ元ってことあるじゃない」

「うーん。なんでもそうだけど、この年だと、だいたい入り口で見当がつくよ。見ず知らずじゃあな。下手な鉄砲は打ちたくない」

「見ず知らずっていうけど、誰でも初めは見ず知らずよ。出会いのための一つのツールと考えればいいのよ」

それはそうかもしれない。こう理詰めで来られると、うまく抵抗できなかった。

私はできるだけ平静を装うために、静かな声を出すように努力しながら言った。

「いやはや。捨てた娘からそんなことを勧められるとは思ってもみなかった。そんなことまで言われると、申し訳なくて、なんだか胸が痛むところもある」

「そんなこと思わなくていいよ。わたしも無理にとは言ってないわ。ゲーム感覚でちょっとボタン押すだけだからって言ってるだけよ」

子どもの時の強い調子が顔を出し始めた。ふと、少し逆襲してやろうかと思った。

「それより亜弥。お前は試してみたのか。それともそんな必要はないのか」

「フフ、ゲーム感覚で試してみた。おもしろいよ。欲張らなきゃ女はただですむし」

焦るふうもなく答えた。

「それとね、パパ。わたしはまだいいの。ちゃんと年齢と相談してるの。アラサーくらいからマジに考えるよ」

「そりゃそうだな。まだ早い。きょろきょろしない方がいいだろう。でもああいうのはALADDINでモノ買うのと同じで、登録しないとダメなんだろ」

「そうよ」

「亜弥は登録したのか」

「うん」

「じゃ、少しはそういう気があったってことか」

「だから言ってるじゃん。ゲーム感覚なんだって」

ふーむ。これ以上踏み込むのは、たとえ娘といえども控えておこう。成人しているんだし、養育責任を途中から放棄したんだし。彼氏がいようがいまいが、やるんだろうな。私にそれをとがめる資格はない。

自分も娘くらいの年には、けっこういろんなことに手を出した。ちょっと気に入った女がいればすぐに声をかけた。うまく行くこともあれば恥ずかしい失敗もした。まして、ボタン一つで相手を探せる時代なのだ。おそらく男も女も、二股、三股もかけてるのだろう。

しかも篠原や山名さんが言うように、自由恋愛の時代になればなるほど、資本主義みたいに格差が開いてミスマッチが多くなっているのだ。『電子マン』もその底辺事情を、悲哀すら込めて描き切っていたのだった。

「そろそろ行こうか」

「ごちそうさま」

マロリーを出て、亜弥は千葉と東京の境まで行く地下鉄、私は南東京に向かう私鉄と、お互い反対方向なので、路上で別れることにした。

別れ際に、亜弥はまたあのいたずらっぽい笑みを浮かべて、背伸びしながら私の頬にチュッと軽くキス。

「パパ、まだまだモテると思うよ。がんばって」

「亜弥もな」

私は照れながら返すのが精いっぱいだった。

背中を向けながら手を振り、軽快な足取りで地下鉄への階段を降りていく亜弥をしばらく上から見送っていた。ちょっと複雑な気持ちだった。あれはファザコンとは違うな。

 

亜弥は浦安のマンションに依子と一緒に住んでいる。山本周五郎の『青べか物語』の舞台になったあたりだ。あの小説は名作だったが、それよりも数十年の間の変化に驚かされる。『青べか』が書かれたころは遠浅の湿地帯だったのが、60年代に埋め立てられてから急速に発展し、ディズニーランドができ、高級住宅街に変貌し、そして震災で液状化現象が起きた。

依子は震災後に値が下がったのを見計らって中古を買ったそうだ。亜弥からそれを聞いたときは、なかなかやるな、と思った。

だが油断はできない。

浦安の歴史を見ていると、まるで東京の戦後史の縮小コピーみたいに思えるのだ。

焼け跡から奇跡的に復興し、10年後に高度成長が始まった。瞬く間にこの発展は東京中心に広がり、メガロポリスが形成され、関西圏はそのぶん落ち込み、首都圏一極集中が進むことになった。地方は疲弊してシャッター街が至る所に。

そこに、首都直下地震や南海トラフ地震発生の危険が高まっている。東京全体が大被害という「液状化」に遭った時に、疲弊した地方の助けに期待することはできない。

東京という首都の社会資本の極端な集中は、埋め立て→急速な発展→テーマパークの参入→高級住宅街の出現→地震による液状化という浦安のプロセスにどこか似ている。

液状化はまだ起きていないにしても、これは歪んだ、不気味なものを予感させずにはおかない。この異常に肥大化したメガロポリスでせっせと不動産業を営んでいる自分が、どことなく空しくも感じられた。

ざわめき ささやき

――2018年ふたりの秋――

                     

 

半澤玲子Ⅰの1

 

                                     2018年8月25日(土)

 

きのうは暑さがまたぶり返して30度を超えた。オフィスにいる時はいいけれど、お昼に外に出るだけで汗びっしょりになる。

でもわたしなんか事務系はまだ仕合せだ。勤務時間中のほとんどを室内で過ごせるんだもの。営業の外回りの人たちはさぞ大変だろう。個別店舗までくまなく回ってくるんだから。

この夏は帰ってくるたびお化粧直しにトイレに行く同僚の女性を何度も見た。ケイ子さん、さとみさん、プッチー……。男の人はもっと大変ね。スーツ着てネクタイ締めて。

もっとも中田課長が言ってたけど、最近は、クールビズが進化して、相当涼しい繊維の服ができてるんだとか。でもネクタイはやっぱりきついでしょう。まさかアロハシャツで営業するわけにはいかないし。

それにしても、ほんとに今年はどうかしている。7月末のあの猛暑ったらなかった。それに6月には大阪の地震、7月の西日本豪雨災害。

今日はまた昨日にもまして暑い。熊沢37度とか天気予報が言ってた。

せっかくの休日なのに、この暑さでは外出する気がしない。灼熱の太陽に照らされて、ぶっ倒れてしまいそうだ。それとやっぱり一週間の疲れがたまっているのかな。何となく体がだるい。

昨日は仕事のほうもかなりきつかった。

なんだかまだまだ災害が続くような嫌な予感がする。いよいよ関東にも大災害が来るのかしら。

 

 お昼を食べ終わってから、いつの間にかソファで寝てしまったらしい。時計を見たら2時半になっていた。

 睡眠を取ったら気分が軽くなった。一日家にこもっているのもなんだから、やっぱり出かけることにしよう。久しぶりにエリを誘ってショッピングと夕食でも一緒にするか。

「もしもし、あ、レイだけど」

「ひっさしぶり! 5月以来だよね。このクソ暑い夏、生きてた?」

「うん、何とか。でもここ二、三日は忙しかった。ここんとこ請求書の量が増えててね。おまけにきのうは給料日だったし。……そっちは?」

「こっちも忙しい。いまさ、配送以外の新企画に取り組んでるんだけど、それがとにかくごちゃごちゃしててね。家電の回収とか女性向け家事支援とか農業への参入とか東南アジア系にも手出すらしくて。あんまりいっぺんにやらない方がいいと思うんだけどね」

エリは物流系大手・全通運の事業開発部にいる。私などと違って有能で実行力があって、キャリア系と言っていいんだろうか。

彼女とは大学時代のバイトで知り合ってからずっと親しい仲だ。飾らないたちで、シャキシャキしてて何でも話せる。判断力も的確だから、二つ年下なのにこれまで何度も困ったときの相談役になってもらった。

女同士のこんなに長い付き合いってそんなにないかもしれない。それも両方とも独身だからか。もっともわたしはバツイチ、彼女は未婚。

「骨休めにメシどう?」

「いいね」

「その前に買い物つきあってくれる?」

「いいよ。洋服?」

「うん」

「北千住ならけっこうお店あるよね」

「そだね。リモネでいいよ」

「あ、それにさ、この前、駅近でおいしいイタ飯屋見つけたんだ。そこにしない?」

「いいよ。じゃあっと、4時に北改札でいい? あそこ、そのままリモネの3階に入れるでしょ」

「OK。じゃ、お店のほうは予約入れとくから」

「サンキュー」

 最近、鏡を見るのが何となくつらい。小じわも増えたし、ホーレー線もけっこう目立ち始めた。

周りは若く見えると言ってくれるけれど、それは実年齢にしてはって話でしょ。あと三年で大台だもんね。五十から七十までの二十年間はあっという間だなんてことも聞くし。

そこへ行くと、エリはけっこうはつらつとしてるな。2年の違いか、それとも結婚経験の有無が関係してるかしら。いやいや、やっぱり性格だろうな。

それにしても、あの結婚は早く解消しておいてよかった。子どもができてからだったらそう簡単にはいかないだろうから、悲惨なことになっていたかも。

あんな酒乱男の嫉妬魔とずっとなんて、いま思うだけでもぞっとする。わたしにしては珍しく決断力を示したほうだ。ほんとに結婚って、生活してみなければわからないものだ。

でも、離婚したこと自体はよかったんだけれど、その後がいけない。3年後に1度だけ恋愛っぽい付き合いはしたものの、じきに別れてしまった。数えてみれば、彼氏いない歴15年。ギネスブックものよ。そうして年取っちゃった。

なんか昔を思い出すと、くさくさしてくる。いけない、いけない。明るく見えるように口紅をちょっと濃いめに。つけまつ毛も長めのを。

堤 佑介Ⅴの3

 

「全然関係ない話なんだけど、いま差別撤廃のためのLGBT教育ってのが高校で課されてるそうだね。でも生徒の反応がいまいちらしい。たとえば亜弥が親しい友達から、自分はトランスジェンダーなんだってカミングアウトされたら、どうする」

「つまり体は女、心は男ってやつ?」

「うん」

「別に。いままでどおりつきあってくと思うけど。だいたいカミングアウトとかって、受ける方もうざいんだよね。わざわざしなくていいよ」

「やっぱり、そうか」

「でもなんでそんなこと聞くの」

「いや、ただ、最近問題にされてるから、若い人がどう感じてるか知りたくてさ」

「パパ、わたし、もうそんなに若くないよ。もしその人がわたしの古くからの親しい友達だったら、そんなのとっくにわかり合ってると思う。万一悩んでるんならすぐにでも相談に乗るよ」

「なるほど。それは考えなかった。俺には17も26も同じような若者に見えちゃうんだ」

「んもう、パパったら。好奇心旺盛なのはいいけど、どうせ若者のこと考えるなら、もうちょっと年齢層で微妙に違うってこと考えた方がいいよ」

亜弥の言うことはもっともだった。その8年間で若者は飛躍的に成長するんだろう。特に女は精神的な成熟が早い。

だが、「別に」という答えは、ネット情報にあった高校生と同じだ。カミングアウトされて「それがどうしたの」という対応で返せば、悩んでいた当事者の自意識はずいぶん軽くなるだろう。

「たしかにそうだな。それでLGBT教育のことはどう思う?」

「あんまりよく知らないけど、あれって一種のサヨク運動でしょう? 性教育とおんなじでなんか白けるよね」

「だけどLGBT自体は世界的に騒がれてるぞ。つまりさ、Me Tooにしろ、ポリコレにしろ、アファーマティブ・アクションにしろ、弱者、少数者の人権、人権と、まるでそれしか正義の問題はないかのようにうるさいじゃないか」

「アファーマティブ・アクションって何だっけ」

「不平等が社会的な理由で是正されないなら、政治的な措置を施すことで不平等をただそうって考え方。たとえば、アメリカで黒人の大学入学者が貧困や家庭環境のために阻まれてるなら、一定の枠組みで黒人を優先的に入れようとか。北欧なんかでは普通だよ」

「ああ、日本で言われてる女性のポジティブ・アクションのことね。もっと女性議員増やせとか。でもそれっておかしくない? どれも実力勝負の領域でしょ。機会均等が保証されてるんだから、最初から枠を決める方がかえって不平等じゃないのかな。まかり間違えば逆差別になりかねない。わたしだって大学受験や就活で男と対等に闘ってきたよ」

「もちろんそういう批判もある。でも、いま世界、といっても欧米先進国の話だけど、世界の潮流は、社会的弱者やマイノリティのカテゴリーに収まる人たちを、人権や平等の建前の下に優遇しようという流れがすごく強まってるよ」

「でも日本でそんな動きって強まってるかなあ。わたしのまわりじゃあんまり聞かないよ」

デカンタの残りをグラスに移して、お代わりを頼んだ。ここが親爺としての蘊蓄の見せ所、と改めて衿を糺す恰好をして、

「いや、公務員なんかだと、けっこう推進されてるんだよ。騒いでいる人たちは、例によって欧米の動向をそのまま持ち込んでるところがたしかにある。たとえば同性愛だって、日本は昔からキリスト教文化圏と違って寛容だからな。江戸時代でも衆道とか陰間とか呼んで棲み分けてた感じがあるね。多少は取り締まったらしいけど、あんまり苛酷な締め付けはなかったようだ。いまだったら新宿二丁目が有名だろ。あそこに出入りしている人たち、ゲイ差別のために戦うぞーなんてこぶし上げてないと思うんだよ。欧米とはそのへんの緊張感がたぶん違う」

こう話してから、自分で言った「緊張感」という言葉が、ヨーロッパの現状とだいぶそぐわない感じがした。よくわからないが、あそこではいま、教会に通う人もほとんどいなくなってるそうだし、むしろ逆に行き過ぎた「自由と寛容」の理想が、自分で自分を苦しめているような気もする。同性愛者を少しでも異端視したら、それだけで、差別とか排外主義者とか見なされるんだからな。

それで、異端視する感情だけはなくならないから、本音の部分でガス抜きをやってる。そこにあるのは新しい「緊張感」なんじゃないだろうか。

こんなふうに考えていたら、イスラム教を侮蔑したシャルリ・エブドという雑誌の執筆者がムスリムのテロリストに襲われた事件のことに連想が飛んだ。

しかし、こんな込み入った話題をここで亜弥に向かってするのはおっくうだし、彼女も喜ばないだろう。で、話を同性愛に限ることにした。

「同性愛の扱いも文化によってずいぶん違うな。ヨーロッパじゃ、いまは排斥しちゃいけませんてことになってるけど、イスラム教文化圏に至っては発覚したら何と死刑。」

「いまでもそうなの」

「いや、イスラムでは今世紀に入ってからかえって厳しくなってるんだよ。だけど日本じゃ、反対に、すごく平等主義が好きで、一部の人の声が大きいと、官公庁なんかじゃあわてて人権教育が必要とかいってやり出すんだ。これまでもジェンダー・フリー教育とか、普通の常識感覚で考えておかしなのがあったね」

「ああ、男女混合名簿とか、更衣室一緒とかでしょ。小学校時代、性教育について読んだことがあったの思い出した。ずいぶん騒いでたみたいね。ウチの学校じゃいいかげんにやり過ごしてたけどね」

「そうそう。いまのLGBT教育もそれと似ていると思うよ」

「でもそれって、当事者たちが実際にどのくらい差別を受けてるかによるんじゃないの。それちゃんと調べないで理想だけで押しても、みんなあんまり関心示さないんじゃないかな」

わが子ながら、こいつ、なかなかいいこと言うな、と心のなかで親バカになる。離れて暮らしていても考え方が似ている、と、酔いも手伝ってだんだん調子に乗ってくる。

新しいデカンタを亜弥のグラスに注ぎながら、

「うん。誰にだって生きにくさや辛さはあるからね。あるところだけカテゴリーで括ってマイノリティだっていう理由一つで政治問題化するのはおかしいよね。サヨクって、差別の実態がそんなになくなってるのに、自分たちの反権力活動を維持するために、わざと課題をほじくり出してくるところが昔からあるからね。ある時期からの部落解放運動がそうだった。ずっと前、小山悦郎という評論家の『弱者とは何か』という本を読んだことがあるんだけど、たしかそこで、部落差別がなくなりつつあるにもかかわらず、部落解放団体が自分たちの運動の延命のために、差別の事例を無理にでも探し出そうとしてる、これは退廃だって批判してたな。なるほど、と感心したのを覚えてるよ」

「どんなにつらい問題抱えてたって、政治で解決できることとできないこととあるもんね」

「そう、そこだよ。恋愛したいのにモテないとか、結婚したいのに金がないとか、引きこもり20年とかな」

「性格が暗いために学校や職場でいじめられるとか、ブラックでこき使われてるとかね」

「孤独で貧乏な老人とか、親の介護で離職を強いられている人とか、不況で増えてるワーキングプア。そういう生きづらさを抱えた人たちって、いまあふれてるだろ。そっちの方が、当人にとってみれば切実だよね。しかもその人たちは『普通の人』っていうカテゴリーに放り込まれるから、政治的な注目を浴びない。LGBTと比べてどっちを優先的に取り上げたらよいかなんて問いには正解はないと思うけど、でも、サヨクはそういう人にこそ焦点を当てるべきだと思うんだ。それだって政治で解決できることは極めて限られてるけどな。とにかくサヨクは自分たちの反権力アイデンティティ保つために、次から次へと目立つ看板を見つけてきては政治課題として言挙げするのさ。その最先端がLGBTってわけ」

「LGBTってどれくらいいるの」

「さあ、専門家じゃないからよくわからないけど、知人に聞いたら、議論が高まってきたのをビジネスチャンスと見て博通が調査したんだそうだ。そうしたら7.6%って数字が出てきたんだって。でもこれはいくらなんでも水増しだろう。40人のクラスに3人もいることになるもんな。たぶん2~3%じゃないの。要するに、LGBTって、誰がつけたのか知らないけど、名前つけて、クローズアップして、性的マイノリティでございってカテゴライズしたら、政治とうまく結びついちゃったんだろうね」

すでにステーキを平らげた亜弥は、そろそろこの話題に飽きてきたようだ。わたしに合わせてくれているだけかもしれない。何かびしっと結論を、と思うが、なかなかいい文句が出てこない。

「結局、表通りで騒がれていることって、普通に生きてる人々の生活感覚に触れてこないんだよね。プライベートな問題って人によってものすごく違うから、政治や法の問題と安易に混同しちゃいけない」

まだあまり自分の中で煮詰めてない曖昧な言い方をしてしまったかな、と思う。