半澤玲子Ⅷの3

 

「ここには何回くらい来てるんですか」

「そうね。五、六回かな」

「お家でも自炊なさるんですか」

「ええ。外食はみんなで飲む時とか、どっかに出かけた時だけかな。」

「偉いですね。おひとりなのに」

これはちょっとカマをかける意味があった。でも動揺したふうは見せない。

「いや、ひとりだからこそ、やりたいようにできるんですよ。山歩きするでしょ。山で炊事する時も、固形燃料をもってって、火おこしから始めるんです」

ボロは出さない。ごく自然な調子で答えたので、ほんとにひとりなんだろう。

「へえ、すごいですね。メッセージ交換始めたころ、先生だからインドア系かって思ってたんですが、アウトドア系でもあるんですね」

「はは、原始人ですよ。いや、僕はね、毎日10時には寝て、4時には起きるんですよ」

「え? どうしてそんなに早起きなんですか」

「早朝マラソンと、授業準備。いつの間にか習性になっちゃったんだな。動物みたいですよ」

「真冬でも?」

「真冬でも」

違和感と言うほどではないが、こういう自分のポリシーをガッチリ守っている人には、何となくなじめないものを感じた。

さっき食事に誘った時だって、どこに行くかもう決めてあったらしく、わたしの希望を尋ねもしないで、さっさと店まで連れてきた。ふつう、「何が食べたいですか」くらい聞くんじゃないかしら。

ぐんぐん引っ張って行ってくれるという意味でなら、頼もしいと言えないこともない。でもちょっと強引な気がする。もう少しこっちの意向を尊重してほしい。

 

こんなに自律的でマイペースで生きてるなら、なんで婚活なんかわざわざするんだろうという疑問ももたげてきた。

やっぱりセックスが目的? もしそれだけならもっと若い恋人を作ればいい。ヘンな話だけど、高収入なんだから、こっそり風俗に通ったっていい。

それとも60近くなって、さすがに伴侶が欲しくなったのかしら。

やっぱりそうなんだろうなあ。

しかしそれなら、もう少し、初対面の女性にいろいろ関心を持ってくれてもいいはずだが、ほとんど自分のことばかり話して、わたしのことを聞こうとしない。

メール交換していた時は、けっこうスムーズにコミュニケーションができていた。

試しに『広い世界の端っこで』の話を出してみたら、彼も見たといっていた。そして爆心地近くで被爆し『夏の花』という作品を発表してから、後に自殺した原民喜という作家のことを詳しく教えてくれた。連想で、大学時代に自殺した自分の友人のことも。

いい文章だった。

毎日、計算ばかりしていて味気ない、岩倉さんのように自由な生き方をしている人がちょっと羨ましいと伝えたら、平凡な日常を生きるってけっこうたいへんなものですよね、と的確な同情の言葉が返ってきた。

でも会ってみると、文章から感じられたあの紳士的で文学的で優しいイメージとはずいぶん違った。

わたしのことをどう思っているのか、はっきり聞くべきだと思った。相手のことを、ほんとに気遣っているようには見えない。食器をカウンターに運びながら頭の中で急いで作戦を練った。戻ってきた時、思い切って聞いた。

「今日初めてお会いして、わたしのこと、どう思いました?」

「え? あ、ああ。素敵だと思ったよ。年齢よりずっと若いし。またお会いしたい」

「ほんとかしら?」

やや媚びるような目線を送りながら、作った声で迫ってみた。自分でもいやらしいとちょっと思ったけれど。

岩倉さんは、ふさふさ頭をごしごしと掻いた。明るすぎる電灯の下で、フケが光って散った。

「ほんとだって。メールにも書いたでしょう。こうして会えたのも何かの縁ですよ」

「じゃ、今度、わたしがお誘いしたらつきあってくださる?」

「もちろん」

「仕事が忙しくて、残業もありますし、あまり予定が組めないと思いますけど、それでもいいですか」

「いいよ。仕事何だっけ」

 

唖然とした。ボケてるのじゃないかと思った。やはりわたしの勘は当たっていたのだ。

「レオン本社で、経理やってます。メールで書いたの、お忘れ?」

「ああ、そうでした。ごめん、ごめん。そうね。計算ばかりで味気ないって書いてたね。……うん。」

それ以上、わたしのことを何も聞いてこない。そのぎこちない間が空くのを潮時と見て、わたしは時計に目を走らせながら、いきなり言った。

「すみません。明日もちょっと、家で処理しなくちゃならない仕事があるんで、今日はこれで失礼します」

「え? もう帰っちゃうの? まだ8時前だよ」

「岩倉さんも早く寝なくちゃならないんでしょう?」

「ま、そりゃそうだけど……。じゃ、わかった。また今度」

あっさり承諾した。ほんとに未練があるんだったら、もう少し引き留めろよ。今日はあなたに会えた特別の日だからとか何とか言ってさ。

お互いのマイレジを持って、会計カウンターに向かった。予想した通り、おごってはくれなかった。合計金額を割り勘にしてもくれなかった。わたしの伝票のほうが、二品プラス、チャージ代がついて、はるかに高かったにもかかわらず。

 

職場での続けての失敗の理由が、土曜日の岩倉さんとの出会いにあることは明らかだった。

わたしはいい年をして、インテリであること、高収入であること、そして文章がうまいこと、登山好きのようなロマンチシストであること、これらのことに幻惑されてしまったのだ。

自分の弱さを思い知らされた。苦い後味が残った。

日曜日一日、前日の出会いが何だったのかをくよくよと考え続けた。

 

わたしから誘うと言ったけれど、もちろんその気はなかった。向こうから誘われると断りにくい。誘うと言っておいて、だんまりを決め込むつもりだ。もししつこく連絡してくるようだったら、折を見て、付き合いを断つ旨を伝える。

それにしても、あの口臭には参った。ネットにいかがわしい治療CMがあれほど出ているわけだ。身近で誰も指摘する人がいないのだろう。それはプロフィールがインチキではないことの証拠かもしれないと思って、何とか我慢した。

口臭なんて小さなことで、せっかくできたつながりを壊してもよいのか、と一度は考えた。またわたしの職場がトイレタリー系だから、よけい気になるのか、とも。

いやいや、しかしこれは小さなことではない。会うたびにあのにおいを嗅がなくてはならないのだとしたら、どうしても我慢できない。

それを面と向かって言うわけにもいかない。言ったことで相手が傷つくというより、気分を害するだけで、意に介さないんじゃないかしら。そうなると、お互いの気分がいつもギクシャクするだろう。それはなんだかとても嫌だ。

 

以前、わたしと同年輩のある独身女性の家に行ったら、犬を飼っていた。犬は嫌いじゃないけど、コッカースパニエル系なので、臭いが部屋に相当強くこもっている。本人は気づいていないようだ。そんなに親しい仲じゃなかったので、その時も注意しそびれてしまった。

その話をよくもののわかる年長の女性にしてみたところ、「今度行ったときに、消臭剤を持っていって、『はいこれ、ワンちゃんにプレゼント』とさりげなく渡せばいいんじゃない」とアドバイスしてくれた。なるほどと思ったが、それきりその家に行くことはなかった。

ウチでも口臭を抑える商品はいくつか出している。マウスピュアという名の系列で、歯磨きから口内噴霧液、錠剤、サプリなど。

でも、相手は犬じゃなくて、人だ。「はいこれ、あなたにプレゼント」というわけにはいかないだろう。消してもらいたいなら、やはりはっきり言うのでなければ。

 

それに、関係を続けたくないという気持ちは、口臭だけが理由ではない。

あの人は、自分の生き方というものを強く持ちすぎている。そうして、それに対する疑いを抱いていない。人からその生き方を批判されたり、もう少し妥協が必要だと忠告されたりしても、けっしてそれを変えようとはしないはずだ。

ロートレックで支払いを別々にしたのも、「心豊か」で自分のマイ伝票のぶんしか支払わなかったのも、ただのケチというのとは違う。

相当な年収があって、その年収を何につぎ込むかについて、はっきりした目的があるので、他のこと、わたしたちの日常生活を作っている些細なことに配慮する気がないのだ。本当は、そうした些細なことへの配慮が、人と人との関係を円滑にしていくことにとってすごく大事なのに。

だからわたしも、あの人の視野の中では、一個の人格を具えた人間として見られているというよりは、「そろそろ伴侶が必要になってきた」という自分本位の気持ちの一対象としか見られていないのだと思う。それは今度の登山では新しいピッケルが必要だというのと似たようなものだ。

そう考えると、口臭が強いという体の特徴と、あくが強いという性格の特徴とが重なって感じられた。それは同じ一つのことなんだ、たぶん。

 

わたしが彼とつきあい続けたとすると、その付き合いのスタイルはどんなふうになるだろう。彼は情熱をもって、わたしを強引に自分の世界に引き込もうとするだろうか。

そうじゃないと思う。

彼はきっと、わたしのことを、自分の周りにある、あってもなくてもいいような、でもあった方が便利な道具みたいに扱うだろう。

それにしても、「文は人なり」なんて言うけれど、この言葉が当てはまらない例を、岩倉さんとのたった一回の出会いで、わたしは手ひどく味わったわけだった。

溜った澱のようなものを、日曜一日ぼんやり過ごすことで、何とか洗い流せると思っていた。ぼんやりと言っても、きちんと反省して、仕切り直しにまで持っていくことで。

けれど無意識のレベルまでは、どうも清算できていなかったようだ。それがおとといときのうの失敗になって現れた。

半澤玲子Ⅷの2

 

じつは自己紹介した時から気になっていたんだけれど、口臭のひどく強い人だった。写真を見るために顔を近づけたらいっそう臭ってきた。露骨に顔をしかめるわけにいかず、これ、何とかならないのかな、と思った。

「きれいに撮れてますねえ。まさに天然の活け花ですね。そっくり取ってきて飾ってみたくなります」

顔をできるだけ遠ざけてから、気を取り直してもう一度フォローした。その気持ちに偽りはなかった。

すると彼は、両手でバツ印を作って「それはNG」と言った。

人里離れた高山に咲いていてこそ高山植物の可憐な魅力が味わえるのに、「そっくり取ってくる」なんてもちろん思わない。本気で言ってると思ってるのかしら。

そんなこと知ってますよ、と返してやりたかったが、気まずくなるのを避けた。

「活け花用はみんな栽培植物ですからね」

「そういえば、ワレモコウってニックネーム見た時にね。おもしろいなって思ったんですよ。だって、あの花って、あんまり目立たないでしょう。僕は野山でよく見かけますけど、知ってる人、少ないんじゃないかなあ」

「ええ、でも活け花ではけっこう使うんですよね」

「うん。それ知ってね。納得しました。華道には全然詳しくないんですけど、大原流ってのもいいですよね。蒼華流なんて、派手さで見せているようなもので、奇をてらっていると感じるんですが、どうですか」

話題が華道の話になって、ひと安心。

「ええ、メールでそう書いてらしたわね。わたしも同意します。でも、最近は、どの派もいろんな試みに手を出していて、あんまり区別がつきにくくなってきてます」

「そうなんですか。よく言えば自由、悪く言えば伝統の喪失……」

「ああ、そういうことになりますかしら」

わたしはそういうとらえ方でお花の世界を見たことがなかったので、新鮮に感じた。

ただし、そこまでだった。

「いや、僕の授業でね、いろいろ感じるんですが、古典と現代文と両方やってるでしょう。

そうすると、伝統の喪失ってことをすごく感じるんですよ。たとえば、戦前の近代文学では自然主義が主流になってましたが、あれは明治になって西洋文明がどっと入ってきてから、そうなったんですね。でも僕は、本来の自然主義が誤解されたと思ってるんです。日本の伝統が否定されると同時に、自然主義イコール私小説みたいになって、ヘンな歪んだものになってしまった。大きく言って破滅型と身辺雑記型とに別れるんですが」

心配したとおり、ちょっとついていけないものを感じる。

「……」

「それとね、短歌なんかでも、現代短歌は、古典的なものとまったくちがってしまった。瓦沙智さんてご存知ですよね」

「ああ、あの『マリネ記念日』の。高校のとき読んで、私たちのこと歌ってるみたいって感じて、すごくぴったり来ました」

「いや、たしかに彼女の登場は新鮮だったし、才能のある人だと思います。それはそれでいいんですが、現代文の教科書には、子規以降の近代短歌しか載ってないんですよ。もちろん瓦さんのを載せているのもあります。でも本当は、古典から現代へとつながっている、そのつながりと変遷を教えるべきだから、国文の歴史と対になるような形の教材づくりをすべきなんですね。そうすれば、瓦沙智だって、ああ、こういう流れの中で出てきたんだ、こういう必然性があるんだってことがわかって、高校生にもっと深く伝統を味わってもらえる」

男の蘊蓄というやつだ。エリに、ちゃんと聞いてやれと偉そうにアドバイスしたっけ。そうアドバイスした手前、ちゃんと聞かなきゃと思って聞いていた。言いたいことは半分くらいはわかった。

「あの、難しいお話で、全部わかったかどうか自信がないんですけど、お教室で、そういう形で教えることはできないんですか。教科書通りでなくて」

「いやあ、一応、私立の名門校ですから、生徒は勝手に勉強はしますがね。だからけっこう教師の自由裁量でできる部分はありますよ。でもいかんせん、年間カリキュラムの拘束が強いんでね」

そういって彼は、授業計画の一覧表を出して見せた。自分で作ったのだという。手書きだった。風貌に似合わず、小さくてきれいな字がびっしりと書き込んであった。

「大枠が決められているので、それに沿って、この日は何をやり、次の時間はこれ、というように計画を立てておかないと、全体をこなせない。そこを踏み外すのは、なかなかできないんです。性分でしょうね」

やっぱり几帳面な性格なんだ。きっと、私などよりはるかに事務能力に長けているのだろう。でももっと羽目を外しちゃえばいいのに。わたしの高校時代なんて、そんな先生、いっぱいいたけどなあ。

「だから、さっき言ったようなことを本気でやるには、時間が足りない。おまけに文科省の縛りがだんだんうるさくなってきてる。いま、大学でも即効性のある教育が求められていてね、実用的なほうへ、実用的なほうへとシフトしているんです。そうなると、高校も大学受験で実績出さなきゃならないから、それに合わせざるを得ない。助成金打ち切られたらおしまいですからね。まったく文科省はろくでもないことばっかりやってる」

見ると怖い顔をしている。

ご説自体は正しいように思えたが、こうして強い調子でまくしたてられているうち、なんだかわたしが怒られているような気がしてきた。分厚い唇から漏れる口臭もだんだん耐え難くなってくる。

だいたい初デートでしゃべる話題かしら。山や活け花について話していたさっきまではまだよかったのに、自分の仕事にかかわることを興奮してしゃべっているうちに、聞き手の気持ちを思いやる姿勢がだんだん奥にしまい込まれてしまったようだ。もしかして、大勢の生徒相手に毎日講義してるから?

 

食事をしないかと誘われた。

新中野に面白い店があるという。新宿三丁目から地下鉄で四つ目。少し抵抗があったが、せっかく出会ったのだし、この人のことをまだよく知らない。もう少し付き合うべきだと思ってOKした。

レジのところで、岩倉さんは、お店の人に「別々に」と言った。もちろんそれで構わないが、ちょっと引っかかった。時間に正確、几帳面、お金の面でも、もしかして?

 

彼が連れて行ってくれた店というのは、「心豊か」という名で、なんと自分で厨房に入って食材を選び、自分で料理するのだ。飲み物はカウンターで注文する。梅酒50円からという安さ。

店は50人ほど座れる広さで、6時前なのに、もうかなりにぎわっていた。土曜日なので、パーティに使う人が多いらしい。

マイレジというのを首からぶら下げて、食材に貼ってある価格シールをはがして伝票に張り付ける。エプロン、食器、調理用器具、調味料などはタダ。ただし初めての客は、30分200円のチャージを取られる。

厨房には、どんな料理にも対応できるように、食材が山ほど積まれている。それに営業用の大型冷蔵庫。ガスコンロが一列に何台も並んでおり、中央に調理台。どちらにも男性女性が数人、せっせと立ち回りを演じていた。

岩倉さんは、料理が得意らしい。メニューをいろいろ考えてきたようで、食べられないものはないかと聞いてきた。

「大丈夫です」

「じゃあ、中華で行こうか。餃子と、レバニラ炒めと、バンバンジーでいいかな」

「はい」

「僕が餃子を担当するから、玲子さん、レバニラとバンバンジーお願いできる?」

「は、はい」

早くもファーストネームで呼ばれていた。中華はあまり得意でない。それに、このお献立って、ちょっと偏ってないかしら。まあ、それはいいとして、バンバンジーは簡単だが、レバニラは、っと、レシピを一生懸命思い出そうとした。

「あ、レシピだったら、その棚にいろいろ本があるよ。わからなかったら僕が手伝うから」

エプロンをさっさと身につけながら、こちらが準備しているゆとりもないままに、岩倉さんはてきぱきとことを進めた。こういうところはなかなか頼りがいがある。

でも、とわたしはふと考えた。これって、もしかしてわたしを試しているんじゃないかしら……。いや、そんなことを考えてるゆとりはない。

鶏ささみと、キュウリ、トマトもあった方がいいな。それからっと。レバー、どれくらいがいいかしら。岩倉さん、大食いなのかな。それを予想して、少し多めに取り出す。

たしか牛乳にかなりの時間つけとくんじゃなかったっけ。自信がないので、本をめくって、簡単レシピの項を見ると、15分とある。

これなら、その間にバンバンジーを作ればいいな。ささみともやしはチンでいいだろう。酒と塩で味付けしたが、耐熱容器がみつからない。

「岩倉さん、すみません。耐熱容器、どこですか」

岩倉さんはすでにボールにひき肉やキャベツ、ニラなどを入れてこね回している。

「あの高いところにあるよ」と、ぶっきらぼうに答える。

ところが今度は、レンジがあいにくふさがっている。空くまで待たなくちゃ。

その間に、野菜を洗って、キュウリを細切り、トマトをていねいに八つ切りにしていく。ついでにニラ、ニンニク、ショウガも切っておく。レンジが一つ空いたのを横目で見つけ、すぐに占領。4分くらい、か。

今度は、ゴマダレ。これは既製品で間に合わせる。

再び岩倉さんのほうを盗み見ると、餃子の皮で材料を包みにかかっている。その手つきはプロ級だ。

そろそろレバーを牛乳から出し、水分を切って片栗粉でまぶし、フライパンに入れて調味料、ニンニク、ショウガを。

こんがりしてきたので、ニラをからめる。これで何とか出来上がり、のはずだ。

餃子の焼けるいい匂いがしている。

「岩倉さん、ニンニクとショウガもご自分ですりおろしたんですか」

「そうだよ。オイスターソースも入れたよ」

 

競争心を煽られた。受験生のような気分を久しぶりに味わった。焦ったせいで、買ったばかりのワンピースにゴマダレのしずくをこぼしてしまった。

でもとにかく何とかやりおおせた。餃子は時間がかかるから、この分業はまあ適切だ。

それぞれを二皿に分け、テーブルに運んでから、二人ともビールを注文した。

「玲子さん、マイレジがまだかかってるよ」

「あらやだ、アハハ……いやあ、馴れないんで」

「さて、お手並み拝見……うん、なかなかよく出来てますよ」

岩倉さんは、厳しい調理師のような目つきをしながら、バンバンジーとレバニラを代わる代わる口の中で味わっていた。

「ありがとうございます。この餃子もほどよく焼きあがっていて、すごくおいしいです」

立ち込める料理の匂いで、岩倉さんの口臭が気にならなくなった。

それだけではない。共同作業をやった時の充足感のようなものが、さっきの彼の強引な印象を和らげている。

いっしょにお料理して、いっしょにそれを食べる。そのことが、わたしの気持ちをほぐして彼にいくぶん近づけたことは事実だった。

半澤玲子Ⅷの1

                                          2018年10月24日(水)

 

昨日はずいぶん冷え込んだのに、今日はまた、9月下旬並みの暑さだという。それに昼夜の温度差が激しい。毎日何を着ていくかに苦労しなくてはならない。

まるで最近のわたしの動揺する心みたいだ。

おとといときのう、社内で続けて失敗を犯した。

ひとつは、おとといの昼休み、早めの食事から帰ってきた数人のグループとすれ違う時、エントランスに自分で活けたコリヤナギに腕が大きく触れ、花瓶をひっくり返してしまったのだ。ずいぶんぼーっとしていたようだ。花瓶は割れ、水が四方に飛び散った。

さくらちゃんが宣伝してくれたせいで、しばらく前からエントランスの活け花は、わたしが担当することになっていた。

ちょうどまた、活け花でもう一度頑張ってみようかなどと思っていた矢先だったので、金曜日に少しばかり凝ってみた。翌日岩倉さんに会う予定になっていたので、心の弾みも手伝っていたかもしれない。

投入れの口元に赤いバラを数本あしらい、コリヤナギを縦と横に大きく伸ばした。なかなか評判がよかった。それが災いしたのである。

 

きのうの失敗はもっとまずかった。

月ごとの収支報告書の明細に打ち込んだ数字に、一部間違いがあることを指摘されたのである。これを間違えると、決算から社員の給料まで、全部やり直さなくてはならない。給料日は明日。

中田課長が、何とも言えない複雑な目をしながらわたしのほうを見ていた。睨むというのでもなく、同情的というのとも違う。

面と向かって叱ることはしなかったけれど、部下のミスは上司の責任でもある。査定に響くことは覚悟しなくてはならないだろう。彼に意地悪されても仕方ないと思った。

ともかくこのミスのおかげで、きのうは深夜までかかり、帰りはタクシーだった。

さくらちゃんが自分から申し出て手伝ってくれた。最後まで付き合うと言ってきかなかったが、彼女を深夜まで引き留めるわけにはいかない。終電時間を見越して、ある程度目途がついたところで、帰ってもらった。

なぜこんな失敗を重ねたのか、理由はもちろんわかっている。

 

ミスの修復に費やしたきのうの残業中、一息入れようと、お茶にした。さくらちゃんがコンビニで買ってきてくれたおにぎりを食べた。

話は自然、彼女のお見合い(代理婚活)のその後を聞くほうに向いていった。あれから2か月くらい経ったかしら。

「ええ、それがですね。あれ以来、全然音沙汰なしなんですよ。やっぱ振られたんでしょうね」

さくらちゃんはさばさばした調子で答えた。

「そうだったの。それは残念ね」

「いいんです。希望なくしてません」

その声と表情がとても明るい感じだった。

「そうね、そのポジティブな姿勢が一番大事よね」

わたしは、いまの自分の気持ちを押し隠し、つとめて彼女を励ました。

「じつは、一か月ほど前に、婚活バスツアーっていうのに参加したんですよ」

ああ、そういうのもあったなと、思い出した。イベント系は年齢制限が厳しかったが、40代対象のバスツアーというのもないではなかった。

でも複数の見知らぬ人たちがいきなり同じ場所に集まって時間を共有するという企画にはなじめず、わたしは初めから候補から外したのだった。

でもさくらちゃんなら、いかにもお似合いだ。身を少し乗り出した。

「あらそう! それでどうだったの?」

「ええ。一応マッチングしました。わたしより2つ年上で、とても誠実そうな人です。話していて気が置けないっていうか。ツアーの最後にカップル誕生おめでとうみたいな大げさな儀式があって、3組の中の一組に入っちゃったんですね。そんときは、恥ずかしくって、ちょっとやめてくんないかなって思ったんですけど」

これはまんざらでもない雰囲気だ。さらに身を乗り出した。

「それから? その人とはデートしてるの?」

「はい。週一ぐらいで、二人の時間が空くときに」

さくらちゃんの頬がほんとにさくら色に染まった。これだから若い人はいい。

「まあ、よかったじゃない。今度は、きっとうまく行きそうね」

「だといいんですけど」

うん。これはほんとにうまく行きそうだ。わたしは、自分のことは差し置いて、心から祈らずにはいられなかった。くやしさ、嫉妬、そんな感情はみじんも湧いてこなかった。

 

話はわたし自身のことに戻る。先週の土曜日、20日午後4時。

わたしが少し早めにロートレックに着いて待っていると、岩倉さんは時間ぴったりに現れた。几帳面な人なのかな、と思った。そうか、先生だものね、と合点が行った。

ちょっと緊張した。なるべく薄化粧にして、グレーのツィードのワンピースに淡い水色のジャケット。落ち度はないか、急いで自分を見まわし、髪を整える。

岩倉さんは、写真よりももっと武骨な感じだった。身長のわりに頭が大きい。白髪混じりのふさふさとした髪にあごひげを生やしていた。スポーツシャツにウィンドブレーカーというラフな格好。山男みたいだ。そう、山歩きが好きだって書いてたっけ。

「初めまして。岩倉です。どうぞよろしく」

頭をほとんど下げず、気さくな感じで挨拶した。太い、よく通るバスだった。唇のずいぶん分厚い人だと思った。

「半澤です。どうぞよろしくお願いします」

「僕はコーヒー。半澤さんは?」

「わたしは……そうですね、じゃあカフェオレを」

慌てて答えた。てきぱきとことを進めていくのが好きなタイプらしい。

 

しばらく今年の異常気象のこととか、旅行や山登りなどお互いの趣味とか、当たり障りのない範囲で話をしているうち、だんだん打ち解けてきた。

日本の有名な山はだいたい登りつくしたので、還暦を過ぎたらアルプスやヒマラヤに挑戦したいという。情熱的なんだ。ついていけないのではないかと、ふと不安を感じた。

「お仲間と昇るんですか。それとも一人で」

「仲間と昇ることもありますが、一人のほうが多いですね。ほら、思惑がぶつからないで気楽じゃないですか」

孤独を愛する人らしい。

「すごいですね。山に憑かれる魅力って何ですか」

「そこに山があるからだ……っていうのは冗談で、やっぱり苦労して登頂した時の達成感でしょうかね。下界を見下ろしながらゆっくり深呼吸する。最高の気持ちです」

岩倉さんは、わたしの背後に広がる空間を見つめるようなまなざしをして、本当に深呼吸した。

ともかくも、話を合わせなくてはならない。

「高山植物との出会いなんかも素敵でしょうね」

「ああ、それもあります。ユキワリソウとかとかコマクサとかね。特にユキワリソウは可愛いですね。今年のゴールデンウイークに一人で剣岳に昇った時、咲いてたんですが、あの時は恋人に会ったみたいな気持ちになったなあ」

わたしは笑いながら、「まあ、よかったですね」と相槌を打ったが、ちょっと無神経だなと、かすかに思った。彼はこちらを気にするふうもなく続けた。

「イワベンケイって知ってます?」

「ああ、ごめんなさい、知らないです」

「急峻な岩場なんかの厳しい環境に生えるんですが、その名の通り、よくこんなところにって、その生命力の強さに驚きますね。こっちが必死に昇っている時に、さりげなく咲いてるんですよ。あれも感動的だったなあ」

それから彼はスマホを取り出して、最近撮ったといういくつかの花を見せた。わたしは顔を近づけて画面を覗き込んだ。イワギキョウ、シナノキンバイ、ミヤマリンドウなど、わたしも知っている花だった。どれもなかなか見事に撮れていた。

「スマホがなかった時にはね、大きいカメラで撮って、帰ってから図鑑で調べて、アルバム作りましたよ。5冊くらいあるかな」

「まあ。勤勉でいらっしゃる。拝見したいですね」

「今度持ってきましょう」

お世辞で言ったつもりだったのだが、彼はこれからもつきあい続けることを自明のように考えているらしかった。それとなく誘うテクニックともとれないことはないけれど、どうもそうとは思えない。

堤 佑介Ⅶの3

 

その余計なことの一つに、「婚活」がある。またそのことが気になり出してきた。最近は、仕事を離れると、ついそっちのほうに気持ちが向く、

帰宅途中の電車の中で運よくすぐ前の席が空いたので、タブレットを取り出して、いろいろ調べてみた。ゲーム感覚、ゲーム感覚と自分に言い聞かせながら。

調べていくと、出会いがどれくらい成立するのかはともかくとして、婚活サイト自体がものすごくたくさんあり、相当な市場を形成しているのに驚いた。

逆に言えばこれは、それだけ出会いや結婚が成立しにくくなっているという、篠原とも共有した認識を裏付けるものだった。

だんだんとハマっていく。

帰宅してからも着替えもせずに追及し続けた。

まずは、亜弥が勧めてくれた例のCMのCouplesに行ってみた。なるほど、SNSのフェイスメイトを通して簡単に登録でき、しかも仲間にはけっして知られない仕組みになっている。

ただし、もし異性の知人の誰彼が同じサイトに加入していれば、お互いにばれてしまう可能性がある。まあ、そうなったとしても、双方がとぼけていれば済む話ではあるが。

また、婚活を続けるにあたってのコスト面では、女性がかなり優遇されていた。この市場では、男女平等ではないのだ。つまり「人権思想」など出る幕ではない。

逆差別だなどと表立って文句をつける男性も皆無だろう。これはパーティやイベントの参加料金で、女性が安くなっているのと同じだ。稼ぎの実態からして、妥当なことだと思う。

また女性をいたわる気持ちからいっても自然なことだし、男のほうからきれいな女性をゲットしようと求めていく伝統的な男女関係のあり方にもフィットしている。

「男はつらいよ」でかまわないのだと思う。フェミニストたちは、慣習が許しているそういうことには頬かむりをしている。

 

いくつかサイトを探ってみたが、まあ、だいたい似たようなものだった。けっこう高額の入会金や初期費用のかかるものもあったが、これは結婚相談所系のもので、ちょっと時代遅れかもしれない。

初期費用が無料のサイトは、登録し、写真を掲載し、年齢認証を受け、自己アピールのためのプロフィールを送る。女性の年齢付き写真とプロフィールをいくつも見ることができるので、気に入ったら「いいね!」を送る。

しかし無料では限度があってすぐ尽きてしまうので、ポイントを増やすために課金に応じなくてはならない。この段階で男女差がはっきり出てくる。

また、有力サイトには経験者のレビューがある。おおむね評判は悪くないが、「サクラが多い」「ぼったくりで出会いの確率ゼロ」「くそアプリ」などという悪評判もたくさんあって、これらを平気で載せているのは、鷹揚さをあえて見せるビジネス感覚か。

ネット広告は何であっても、その企業に自信があれば、批判的レビューも載せるものだ。それは不動産でも同じである。ただ、わざわざレビューを書く人というのは、被害感覚が強い人が多い。辛口の点数をつけることには快感が伴うからだ。

ともかく、「ゲーム感覚」で、Fureaiというサイトに登録してみた。Couplesよりはシェアは落ちるが、システムはしっかりしているし、何となく自分に合っているように思えたのだ。

 

写真3枚。

私はあまり自分の写真を撮ったり撮られたりしたことがない。ここ二、三年誰かと旅行に行ったこともないので、適当なのが見つからない。あまり古いのでは、若すぎて疑われてしまう。しかたなく、自撮りによる外ない。スーツ姿のままだったことをいいことに、2枚はそのまま撮った。

正面向きと、ちょっと角度を変えてリラックスした笑顔。それぞれ何枚か撮る。

後の1枚は、着替えをしてからにする。いつもの普段着ではちょっと、と思ったので、クローゼットからカジュアルなジャケットを選び出した。

ファッションショーをしているみたいだ。こんなことにけっこう真剣になっている自分がおかしかった。女になったような気分だ。

改めてアルバム欄で見ると、ずいぶん老けたなという印象がまずやってきて、こんなんで「いいね!」が来るのか、と自信をなくした。

でもまあいい、半分は遊びでやっているつもりだと言い聞かせて、さて次はプロフィール。

これを書こうとして、パソコンに向かうと、「おい、堤、遊び半分なんてダメだぞ」と言う篠原の声が聞こえるような気がした。

たしかに、やる以上は、きちんとした自己紹介文を書く必要がある。もともと私は言葉にうるさいほうだ。仮にも相手を惹きつけようとしているのに、いいかげんでは済まされない。

こういう時は、腰を据えて一杯やりながらに限る。

シ―ヴァス・リーガルを取りに立ち上がった。同時に無伴奏チェロ組曲のギター演奏版を、ボリュームを落としてかける。ああ、そういえば、しばらく音楽も聴いていなかった。瞑目し、思わず深呼吸した。

少し間をおいてから、紹介文に取り掛かった。あまり凝るのもどうかと思い、ごく必要なことだけを、率直かつ慎重に記述した。それでも小一時間かかってしまった。

あとは年齢認証の手続きと、どのランクのサービスを受けるかについて決めることが残されている。

免許証の写真を取ってFureai当局に送る。サービスは、「半年分がオトク」というのを選ぶことにする。

「物件」を探すためのポイントがぐんと増えるし、「いいね!」を送った相手に自分のプロフィールを見てくれるようお願いできる。マッチングの機会をできるだけ多くするわけだ。

もっとも、オトクといっても12000円。いいお値段だ。まあ、仕方がない。明日振り込むことにしよう。

 

ひと仕事終えた気分になった。篠原に電話してみたくなった。

「やあ、どうした」

「どうもこうもないんだけどね、あれからいろいろあって、またおぬしと飲みたくなったってだけさ」

「いろいろとは」

「いや、大したことはない。仕事と恋愛と」

「なに、恋愛だと。いよいよ堤もlove affairの始まりか」

「冗談、冗談。でもたったいまさ、婚活サイトってやつに登録したのよ」

「ほーお、堤が婚活にねえ。それも一手だな。何やら興奮が伝わってくる」

「それで、どうかな、その興奮を分け与えることも含めて、近々会えないか」

「俺は興奮しなくていいよ。今さら回春は無理だ。それはそうと、ここんとこちょっと忙しくてな。いや、この歳んなると、政府関係やら、外郭団体やらのお呼びが多いのよ。でも都合はつけるから、ちょっと待ってくれ。いまスケジュール調べる」

ということで、次に篠原と会うのは、24日の水曜日ということになった。できれば休日の前がいいのだが、まあ仕方がない。

 

【堤 佑介婚活サイトFureaiプロフィール】

 ニックネーム:ゆう

年齢:55歳(認証済み)

 身長:171㎝

 タバコ:吸わない

 趣味:音楽、美術、映画、落語鑑賞、読書、気の合った友人との会話

 

 《自己紹介文》

プロフィールを見ていただき、ありがとうございます。

仕事に追われる毎日です。

趣味欄にいろいろ書き並べましたが、どれも忙しくて思うに任せません。

離婚してから13年経ちます。

もう遅いかもしれませんが、連れ添う人を求める気持ちが募ってきたので、

無理とは思いながら登録してみました。

一人娘は成人して職を持ち、別れた妻と同居しています。

自分は昔から不思議がり屋のところがあり、

仕事に直接関係ないことでも、理屈っぽく考えるたちです。

いろいろな社会問題に関心があります。

いまの仕事は、さまざまなお客様とじかに接することが多いので、

人間好きの自分には適しているのかもしれません。

あまり自分から希望を語るべきではないとは思いますが、

もしお付き合いしていただけるなら、

世代が近く、共通の話題を持てる人がいいと考えています。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 《ディテール》

職業:中規模不動産会社営業所長

休日:水曜日、第三木曜日

体型:中肉

  居住地:東京

  出生地:横浜

家族:長女一人。両親は他界。

同居人:独り暮らし

年収:700万円以上

  婚姻歴:離婚

  好きな料理:和食、イタリアン、その他何でも

  お酒:飲む

  性格:真面目・明朗・好奇心旺盛

  学歴:四大卒

  休日の過ごし方:読書、散歩、覚書を書く、音楽鑑賞(主にクラシック)、時々落語

  転居の可能性:時と場合による

  望ましい交際:ゆっくりメール交換をし、機が熟してから会う

  初デートの料金:自分が全額負担

堤 佑介Ⅶの2

 

西山の爺さんにどう話せばいいか、悩ましい問題である。彼がいっそ拒否してくれればいいが、とまで思った。

しかし逆に拒否された入居希望者のほうで、人権侵害だとか人種差別だとか騒ぎ立て、サヨク・マスコミがこれをかぎつけたら、彼らの恰好の餌食にされるだろう。

そんな先のことまで考えなくてもいいのかもしれない。

しかし、西山ハウスの空室率の高さがいい例だ。そのほかにも、戸建ての空き家がたくさんある。多少裕福な中国人に目をつけられれば、プラートと同じように、買い叩かれてしまうだろう。

日本政府は不動産の外資規制をやっていない。一方中国は土地私有を認めていないので、当然日本人が中国の土地を買うことはできない。

それで現在、北海道を初めとして、全国で中国人が土地の爆買いを進めているらしいが、こんなことを放置していると、そのうち領土の大半を乗っ取られてしまうかもしれない。

こんな不公正はないと思うのだが、国交省は、一向にその是正に乗り出そうとはしない。それどころか、外国人向けの案内パンフレットまで作って、どうぞ買ってくださいといった体たらくである。

政府が動くのを待っているわけにはいかないから、不動産業者としても、力の及ぶ範囲で、何らかの抵抗を示す必要があるのではないか。ただ売買や賃貸の媒介で儲かればいいというのでは、あまりに地域住民のことを考えなさすぎる。

全国不動産協会にはウチも加入しているが、この種の問題が議論されたというのを聞いたことがない。いつか機会があれば、本部を通して提議してみてもよいかもしれない。

ここまで考えてきて、そんな公共心みたいなものが俺にあったのかな、と思った。

一方では、中国人というだけでカテゴリーに括って、一介の不動産業者がしゃしゃり出て何らかの抑止行動に出るのもためらわれた。正直なところ、頭が痛い。

 

一方、ゲイカップルのほうは、格別問題ないと思う。それでも事実を知ったら西山の爺さんは拒否反応を示す可能性がある。だからこれは「友人」のままで通すことにすればいい。

西山さんにしてみれば、一度に三室も埋まるのだから、経営面では喜ばしいことだ。でも、中国人のほうは、知らせないわけにはいかない。ディレンマに悩むのではないか。

とにかく、早く知らせて、考える時間を確保してもらうのがいい。さっそく電話を入れた。

「三人の方から申し込みがありまして……」

「さよか。そりゃ嬉しいこってす。やっぱりあんたはんとこ頼んでよかった。おおきに」

心から喜んでいるふうが電話の向こうから伝わってきた。話しづらくなった。

「ところがですね。一つだけ問題があって……」

「何やねん、問題て」

「申し込んだ方のひとりが中国人なんです」

「あ、中国人。さよか」

西山さんは、しばらく無言で、考えているふうだった。よきにつけ悪しきにつけ、関西人は、関東人よりも猥雑でたくましい世界を生きているので、外国人に対するイメージをはっきりと固めている可能性がある。

「中国人と言っても、いろいろですからね。私が直接会わなかったので、何とも言えないんですが、一応勤務先はきちんとしていて、年収は高くはないですけど、そこそこという報告は受けています。」

私は言葉をつないだ。

「なんぼやねん」

「申込書には、35歳で年収300万とありますが、まだ証明書類を渡していませんので、本当かどうかわかりません」

「家族はいてはる?」

「奥さんに子ども一人とあります」

「証明書類かて、適当に作れるやろ」

西山さんは、思いのほかしっかりしていて、鋭く突いてくる。このへんは長年の勘がはたらくのか。

「それは疑えばきりがありませんが、当社としては、媒介が仕事ですから、書類がそろえばお話を続けさせていただくほかはありません」

西山さんは、また少し黙った。慎重に考えているふうだ。

「いまこの電話で返事せんとあきまへんか」

「いえ、まだ時間がありますから、お考えいただくのがいいかと思います。諾否はあくまでオーナーさんの決断ですから。ただし、私どもとしては迅速を心掛けていますので、オーナーさんのご承諾しだい、証明書類をすぐにでも送付する必要がありますし、書類がそろった段階では、拒否しにくくなるのはたしかですね。さき様も『せっかく苦労して揃えたのに、なんで』ってご不満をお持ちになるのは当然ですから」

またしばらく間があった。

「こういうこと、でけへんやろか。いまけっこう引きが多いようでんな。ほんで、書類は一応渡しておいてやな、さきさんが揃えてる間に、申し訳ないけど、もう一杯になってしまいましたて連絡入れる」

私は、この狡猾な知恵に内心舌を巻いた。75になろうという爺さんである。でもさすが大阪で長年営業職に就いていただけのことはある。昔取った杵柄か。

しかし自分自身としては、ウソをつくのは職業的良心が咎めるところがあった。西山さん自身の本当の気持ちを探ってみたくなった。

「失礼ですが、これまで中国の方と接触なさったご経験はおありですか」

「そりゃ大阪時代にぎょうさんありますがな。あの連中、とにかく利にさといちゅうんか、ずるいちゅうんか、こちとら顔負けやで。一度なんかわし騙されたさかい、会社にえろう迷惑かけてしもたこともありますねん」

やっぱりそうか。中国人VS大阪人。熾烈な商取引の世界。誠実さなど効かない世界かもしれない。

私が黙っていると、西山さんは畳みかけてきた。

「ほんでどやねん。そうゆうことできます?」

「それは……考えていなかったですけど、担当者が女性ですし、ウチは誠実さをモットーとしてますので、ちょっと難しいですかね。」

「やっぱ関東人はぼんぼんやね。外国人お断りにしときゃよかったね」

「それは、人権、人権で騒がしい当節、厳しいと思いますよ。内部事情申し上げて恐縮ですが、私どものほうにも火の粉が飛んできかねませんから」

「さよか。ほな、女房とも相談して、も少し考えてみますよってに、明日こちから電話します」

「よろしくお願いいたします」

西山の爺さんの中で、少しでも空室を満たそうという気持ちと、中国人を入れたくないという気持ちとが戦っているようだった。

最初会った時は弱々しい爺さんが泣きついてきただけかと感じたが、いざ取引となると意外と思慮深く、しぶといところを見せた。とすると、あの泣きつきも、半ばは私相手の演技だったのかもしれない。

こうなってみると、これは契約を成立させた方が面白いという、野次馬的な好奇心さえ頭をもたげてきた。もちろんこれは、先刻考えたことと矛盾する、理に合わないヘンな好奇心だったけれど。

とりあえず、書類送付に関しては、中国人は一日ペンディング、ゲイカップルは今日中に送るように、山下に指示した。

不動産屋も営業が命だからなあ、と帰宅途中で考えた。あのくらいの商魂をもたないといけないのかもしれない。俺は仕事以外の時間には、余計なことばっかり考えていて、西山の爺さんの言う通り、「やっぱ関東人はぼんぼんやね」。

堤 佑介Ⅶの1

 

                                          2018年10月14日(日)

 

先週の日曜日、手はずが整ったので、渋々ながら西山の爺さんの要求に従って、広告を打った。裏面に前から売り出している戸建ての売却物件や、最近出た賃貸マンションを掲載して、抱き合わせの形を取った。

ポスティング用チラシ12000枚。ウチとしては普通の賃貸物件よりはかなり多いほうだ。もちろんネットにも出した。1000枚撒いて1件問い合わせがあればいい方だから、12件の問い合わせで成約が四分の一として、3件は確保できる計算になる。あとはネット頼り。

チラシの原稿は私自身が起草した。駅近で環境の素晴らしさと家賃の安さ、敷金、礼金なしを強調。

しかしこれはしょせん捕らぬ狸の皮算用である。ところが、山下に聞くと、昨日までに20件を超える問い合わせがあったという。そのうち8人を案内。もちろんまだ内装のリニューアルはしていないが、だいたいがいい反応を見せたそうだ。

成約には至っていないものの、まずは幸先良し、と思ったのだが……。

 

今日、契約を結びたいという連絡が3件入った。

私は別の売却物件の査定をしなければならなかったので、山下に任せて外出した。帰ってくると、山下は何となく浮かない顔をしている。

「どうだった?」

「それがですね。一人は普通の若夫婦で問題ないんですが、あとの二人がちょっと引っかかるんです。いえ、わたしは全然かまわないんですけど、一人が中国人、もう一人がゲイカップルなんですよ」

「へえ。よりによって」

私は、この前篠原と飲んだ時、中国人の不動産買い漁り面積が静岡県全県に相当しているという事実を聞かされ、何とはなしに嫌な予感がしたことを思い出した。

それから最近、自分がLGBTに関心を持っていることも、妙に符合する話だった。

「つまり、それを西山さんに伝えるのは、気が重いと」

「そうなんです。受け入れてもらえるかどうか心配で」

「たしかに、あの爺さんにしてみれば、痛し痒しだろうな。さっそく店子が見つかったはいいが、ちょっと異種の人たちをそうすんなりと受け入れそうに思えない」

「わたし、ゲイカップルのほうはまだいいかなと思ったんですけど、中国人だと、マナーの悪さが評判になってますし、家族と称して仲間をどんどん引き込んじゃうなんて話も聞いてますし」

「うん。私たちが別に偏見もってなくても、オーナーがどう感じるかが問題だからね。契約申込書見せてくれる?」

中国人のほうは、年齢35歳、職業は貿易関係で、聞いたことのない企業名が書いてあった。中国に本社がある日本支社か。年収は300万。同居人は妻と子ども一人、妻の収入は不安定だが、合算で420万くらいはいくという。現住所は品川区で、入居希望理由は、もっと安い家賃を求めて、とある。

これだけの情報では本当かどうかはわからない。

「この会社だけど、実在するの?」

「ネットで調べたら、一応実在しました。赤坂にあって、リサイクル原料の輸出入を扱っているそうです」

「ああ、あの辺はいろんな外国人がいるね。日本語は流暢なの?」

「流暢と言うほどではありませんけど、一応ふつうに話せます。3年前に本国から転勤になって、ビザはあと2年で更新すると言ってました。それで、所長に相談した方がいいと思って、証明書類の用紙はまだ渡さなかったんです。後でご連絡しますと言っておきました」

なるほど。本当なら断る理由はないが、西山さんの反応次第である。山下のとっさの機転に感謝した。

 

一方、ゲイカップルのほうは、同居人の欄に「友人」と書いてあったのと、なんとなくそれっぽい雰囲気なので、それと知れたという。年齢は31。職業はグッズ小売り。年収360万と書いてあった。

グッズとは怪しげだな、と私は卑猥な連想に誘われた。そして自分で笑ってしまった。

これも西山さん次第だが、身元さえしっかりしていれば、問題はない。しかし山下は、こちらも慎重を期して証明書類を渡さなかったという。

「どうもご苦労様。西山さんには私が当たりましょう」

「ありがとうございます」

山下はほっとしたような表情を隠さなかった。

 

中国人を入居させるかどうかは、周囲の環境への影響の問題だろう。もしこの当事者が、日本のマナーをよく理解して守る紳士的な人なら――そういう人が大部分なのだろうから――入居してもらって一向にかまわない。

だが、一般に中国人はどの国へ進出しても、中国人としてだけまとまって、けっしてその国の文化に溶け込もうとしないと聞く。東南アジアからオーストラリアに至るまで、華僑の伝統を受け継いで、自国の文化を持ち込み、そこで一種の自治区を形成してしまう。

「自由で寛容な国」オーストラリアでは、想像を絶するほどの広大な土地を買い取り、市民権をじわじわと勝ち取り、そうして気づいた時には、政治の中枢で発言権を持つに至った。いまようやく政府は危機を感じて、数多くの規制に乗り出しているそうだ。

欧米でもその進出ぶりは半端ない。去年の12月に謎の急死を遂げた中国系のサンフランシスコ市長は「聖域都市」宣言をして、国の政策に従わずに不法移民を囲い込んだという。

また一年くらい前だろうか。イタリアで日本語の先生をしている人のブログ記事を読んだことがある。イタリアは、北アフリカ系の不法移民・難民に悩まされているだけではないと知って、印象に残っていたのだ。

その記事によると、フィレンツェの隣にある人口19万ほどのプラートという普通の地方都市が、人口の九割を中国人に占められてしまった。15年くらい前から中国人移住者が増え、標識も漢字、聞こえてくる言葉は中国語というわけで、完全に乗っ取られたのだ。

この街は、繊維産業が盛んでイタリアの高級生地の産地だったため、裕福な家も多かった。ところがイタリアの業者が現ナマを突き付けられて中国人に工場を売ってしまってから、この街の繊維産業は中国の安い布地の勢いに勝てず、衰退していったという。

他人事とは思えない。個人個人はいい人たちでも、文化の違いからくる摩擦だけはどうしようもない。

けやきが丘は純然たるベッドタウンで、産業などは何もないが、都心に通うのはかなり便利だ。だからそう遠くない将来、中国人に占領される可能性があるというのは、あながち私だけの空想とは言えない。

有名な埼玉県の芝山団地でも、人口5000人のうち半分近くが中国人で占められているという。

ここでも分断が起きていて、中国人は自治会には加入しない。祭りの準備はすべて日本人、中国人は楽しむだけ楽しんでおきながら、後片付けも手伝わないという。日本人は高齢化していて、亡くなる人も多く、やぐらを組む力仕事に耐える人々も年々減っているそうだ。

これは実態を確かめようとわざわざ芝山に移り住んだ某新聞記者が書いていた。

ちなみにこの新聞は「リベラル」を気取ることで有名な毎朝新聞である。

 

万一、西山ハウスに入居を申し出てきたこの中国人が、背後にそうした関係を背負っていたとすると、家賃の安さを聞いて、親族、知人友人が押し掛け、西山ハウスの残りの空室を満たしてしまわないとも限らない。

篠原に示唆されていたにもかかわらず、これは想定外だった。

さらに将来的には、それが蟻の一穴となって、近辺のアパートや比較的安価な賃貸マンションに殺到するかもしれない。駅前には、豊かな森に囲まれた大団地もある。築50年と古いので、家賃は安く、しかも空くことが多い。

そうすると、仮にトラブルを起こさないとしても、付近の住民たちは快く思わないだろう。けやきが丘は高級感が売りで、ほとんどの住民はそれを崩されたくないと思っている。なのに、この街のイメージが次第に壊れていく可能性だって皆無ではない。

半澤玲子Ⅶの3

 

帰宅してから、やっぱり今日は憂鬱な日曜日なのだと思った。わたし自身の心の屈託に、エリの一件が重なった。

彼氏は、奥さんと別れる気だと告白したそうだ。それがウソとは思えない、とエリは言った。「ベッドではすごく優しかったし……」。

はたから話だけ聞けば、「そんなのウソに決まってるじゃない」とか、「男ってずるいんだから」とか、「惚れた弱みってやつね。同情しないわよ」などと、無責任に突き放すことはできる。

でもわたしには、世間一般で説かれている、その種の一方的な判断を彼女にかぶせる気にはなれなかった。それは、何というか、一つには物事の成り行きをわたしが詳しく知らないし、もう一つは、彼氏の誠実さの程度をこの目で見たわけではないからだ。

 

わたしには不倫の経験がないけれど、二十年も前、親しくしていた沙織さんという人からこんな話を聞いたことがある。

彼女は当時、妻子ある男性と不倫していて、その悩みをある女友だちに打ち明けた。すると女友だちは、その男性のことを指して、「まずてめえが身辺整理してから、することしろよって言ってやんな」と言い放ったというのである。

わたしはこれを沙織さんから聞かされた時、ずいぶん単純にものごとを考える人だなあと思った。女友だちが若いせいもあったのだろうけれど、道ならぬ恋に落ち込んで苦しんでいる人に向かって、その言い方はあまりにデリケートさを欠いている。

沙織さんもそんなこと言われてよけい困っただろう。だからわたしにも打ち明けたのかもしれない。わたしも黙って聞くだけで、何も答えてあげられなかったが。

身辺整理が簡単にできれば、この世に不倫なんてなくなる。エリの彼氏の本気度は測ることができないけれど、成り行きでそういうことはありうる。

 

たしかに、独身であることを条件にしている婚活サイトに、自分の意思で登録するというのは咎められるべきだろう。でも、もし仮にエリの言う通り、真剣に別れる気だったなら、いろいろなかたちで別の人を探そうとしてしまうのではないか。そのいろいろなかたちの中で、婚活サイトだけが例外とは言い切れない。

別れようと思っている、あるいは奥さんとその話をもうしている、とする。でも子どももいるし、奥さんがその気になれないとする。

そんな場合、新しい彼女ができたということを利用、と言ったら語弊があるけど、そのことでひとつの強力なドライブがかかることはたしかだ。それを不純だと決めつけることができるんだろうか。そういう決めつけをする資格のある人がいるだろうか。

おまえは見ず知らずの男にずいぶん同情的なんだな、ただの浮気性の可能性のほうが大きいじゃないか、という声が聞こえた。

もちろん、そうだ。その可能性のほうが大きいだろう。でも、だとすると、なんでわたしは、その男をかばおうとしているのか。

なんで、「早く切っちゃいなさいよ」と言ってあげられないのか。

しばらくこの問いの周りをうろうろした。そして、かろうじて答えのようなものが見つかった気がした。

それは……男をかばっているというより、エリの涙が信じられたからだ。

クールで気丈なあのエリが、思い乱れてわたしの前で泣いている。一瞬ではあったけれど、その初めて見る姿は衝撃的だった。そして衝撃的であればこそ、彼女の涙が信じられたのだ。

しかもエリは、告白されてから関係を深めた。ということは、エリの中にかなりのっぴきならない恋心がもう育っていたということだ。

恋って、白紙の状態から始まるものじゃない。どんな恋だって、不自由な条件に拘束されたところから始まって、そして深まっていく。それは世間のルールをいつも越えようとする。

 

これから二人がどうなるのか、相手の心、相手の出方を推し量ることができないのだから、わたしにはまったくわからない。おそらくエリ自身にもわからないのだろう。

人の心って、状況次第でいくらでも変わる。不動心なんてない。それはお互いの心が、相手次第で不安定に揺れ動くようにできているからだ。

そしてわたし自身。

岩倉さんだってインチキかもしれないし、本物かもしれない。でも約束したからには、ともかく会ってみるしかない。

というより、ここまで来た以上、本物かどうかを見極めるためにこそ、会わなくてはならない。いや、岩倉さんが本物かどうかではなく、彼とわたしの出会いが本物になるかどうかが問題なのだ。

わたし自身だって、中田さんに対しては、気を持たせながら十分冷たく振舞ったのだ。だから、物事を慎重に見極めながら、しかしあまり重苦しくならないように進むことにしよう。それ以外に方法がない。

半澤玲子Ⅶの2

 

そして一夜明け、今日になった。

頭は相変わらず整理できない。昨夜からぐずぐず考え続けているうち、時はたちまち過ぎて、午後になってしまった。

たぶんこれは、頭で整理できる問題ではなく、大げさに言えば、人生の選択にあたって、きっぱりと決断する問題なんだ。とりあえず、目の前に迫っていることから決めていくしかない。

そう思って、とにかく岩倉さんに返信することにした。

会うべきか、会わざるべきか。

心のなかではもちろん答えは決まっている。でも何か決断する時には、いつも一抹の憂鬱感のようなものがわたしのなかで蠢く。

それをねじ伏せてPCを開き、キーボードに指を置いた。

 

いつもお返事が遅くなり申し訳ありません。

昨日、花瓶を買ってきました。少し自分の部屋に彩を添えようと思ってのことです。

こんな小さなことが、自分を前向きにしてくれるような気がします。

お会いする件、賛成いたします。

場所も新宿三丁目のロートレックでけっこうです。

わたしはできれば土曜日が都合がいいので、挙げてくださった日の中では、一番近いところで20日が最適でしょうか。

でも21日の日曜日でもかまいません。時間は午後2時ごろでいかがでしょうか

 

送信し終わったところで、携帯が鳴った。エリからだった。

窓からは、秋の西日が差しこんでいる。もうずいぶん日が短くなったのだ。

「今日、会えない? 無理?」

レンチャンか、ちょっときついなと思ったけれど、何かありそうな雰囲気だ。これは受けないわけにいかない。

「いいけど。どうかした?」

「うん。ちょっとどうかしちゃったかな」

声に元気がないというわけでもない。でもどことなくヤケ気味みたいな感じがある。

「そう。じゃ、一杯やるか」

「そうこなくちゃね。どこにしよ」

「エリの家の近くまで行くよ」

「悪いね。じゃ、6時に千駄木の改札口で」

「オーケー」

6時に千駄木ならまだ間がある。シャワーを浴びていこう。

服は地味目に、濃紺のセーターに細かいチェックのロングスカート。夜になると少し寒くなりそうだから、薄いジャケットも羽織っていこう。口紅も控えめに。

こんなふうに慎ましくするのが、たぶん落ち込んでるだろうエリに対するエチケットのような気がした。

駅の近くのビールバーで、座席に向かい合って腰を下ろした。

彼女も珍しくロングスカートなので、おや、やっぱり気持ちがシンクロしてしまうのかなと思った。でも違うのは、もともとショートの髪が前よりも短くカットされていたこと。わたしはここのところむしろ伸ばすつもりでいる。

口火を切ったのはわたしのほうだった。少し気を紛らしてあげる方がいいかもしれない。例の中田課長との顛末を手短に話した。それ以降の社内での二人の微妙な雰囲気についても。

エリの表情は快活だった。わたしの話をおもしろそうに聞き、そして笑い声を立てた。

「そりゃ、おかしいね。でもその中田さんて、可哀相だね」

「そうなんだけどね、わたしだってどうしていいかわかんないのよ。でもお互いじっと我慢してやり過ごしていれば、そのうちどうにかなるでしょう」

「それって、<男の子>って感じね」

そう、そういう感じ。ある思い出がよみがえった。

 

高校一年のころ、わたしに思いを寄せてきた男の子がいた。そんなにイケメンでもなくブサイクでもなかった。成績も中くらい、何か部活には入っていたが、特にスポーツが得意というほうでもなかった。まじめな目立たない子で、席が私の斜め後ろ、授業中もわたしのことを意識しているのが、何となく背中で感じられた。

下校時に男子と女子で連れだって帰る光景もよく見られるようになってきたころ。でもその子は、わたしを誘う勇気はなかったようだ。積極的に話しかけてくるのでもなく、何かちょっかいを出してくるというのでもない。

わたしのほうも、別段その子のことが好きだったわけではないから、ほおっておいたが、気にはなっていた。

ある時、その日の授業が終わって、みんなバタバタと教室を出て行った。わたしから遠い片隅のほうで、女の子が三人くらいおしゃべりをしていた。わたしは、やり残していた課題か何かを引き続いて処理してしまおうと思って、座ったままでいた。

その男の子も他の子たちと一緒に立ち上がったのだが、わたしが立ち上がらないのをいぶかるように上半身をこちらに向けた。でもみんなに遅れるわけにいかないと思ったのか、急いで他の男の子たちの後を追った。

女の子たちも出ていき、私ひとりが残った。

しばらくして、その子が教室に戻ってきた。

「あ、ちょっと忘れ物しちゃって」

私はちょっと微笑んで、それに応えた。

その子は、ぎこちない足取りでわたしの前を通って自分の席まで来ると、机の中を覗き込み、「あれ、ヘンだな、ここに入れといたはずなんだけど」と言った。

わたしは、内心おかしくなってきた。くすりと小さく声に出したかもしれない。

彼は立ち去りがてにぐずぐずしていたが、やがてためらいがちに、小さな声で言った。

「まだ残ってるの」

「うん。ちょっとこれ片付けちゃおうと思って」

「そう……。あのさ……」

「え?」

わたしは向きなおって、まっすぐ彼の目を見た。

「あ、何でもない。じゃね」

そう言い捨てると、さっきとはえらく違ったいきおいで、足早に教室を出て行った。

気の小さい男の子のヒソウな決意。そして挫折。

なぜか私はこの時のことを切り取られた断片のようによく覚えていた。名前も忘れてしまったし、その後どうなったかも記憶していない。

いまエリに指摘されて、そうだ、中田さんは、あの時の男の子とおんなじだと思った。乱暴だったり軽薄にふるまったりする人もたくさんいるけど、たいていの<男の子>って、確かにそういうところがあるんだよな。

集団でいる時と、一人で女の子に向かう時と、すごく違う。いくつになっても、それは変わらないんだ。可愛いというか、なんというか……。

 

けっこう二人とも黙っていたのだろうか、エリが独り言のようにつぶやいた。

「女房子ども持ちだったんだよね」

「えっ、例の彼氏?」

エリはただうなずいた。

「でも、どうしてわかったの」

「向こうも土日が休みなのに、いつも平日を指定してくるし」

「でも初めのころ、日曜日に会ってたんじゃなかったっけ」

「あれは無理してたんだろうね。それに会ってるとき携帯が入ると、必ず立ち上がってわたしから離れるんだよ」

「それって、仕事の電話で、雰囲気壊さないようにしてたんじゃないの」

「いや、顔つきからしてそうじゃないなと思った。しかもこっちから電話する場合には、必ず11時半以降にしてくれっていうのよ。それでね、おかしいと思って追及したわけ。そしたら、あっさり吐いた。本気で謝ってたけどね。」

そんなに落ち込んでるふうでもない調子で一気に言った。もう気持ちのけじめがついたのだろうか。そうだとすれば、いかにもエリらしい。

ふと「ヤリモクじゃないの」という言葉が口から出かかったが、この前聞いた話からして、それはたぶん違うだろう。

「彼氏は、独身じゃないのになんで登録したの」

「それも聞いたんだけど、ずっと奥さんとうまく行ってなくて、初めから別れる気だったって言ってた。まんざらウソとも思えないんだよね」

「それで……聞いていい?……したの?」

「した」

乾いた調子だった。

「それは、彼氏に吐かせるまえ? それともあと?」

「あと」

ということは、わかってて不倫したことになる。燃えちゃってブレーキが利かなくなったってことかな。

「いまでも奥さんと別れたいって言い分、ウソとは思えないの?」

「うん」

「いまでも好き?」

「そうね……そりゃ、許せねえって気持ちもあったよ……でも自分でもおかしいんだけど、心の整理がつかなくて、それでついレイに電話しちゃったんだ」

なんと応じていいかわからなかった。

気丈なエリがだんだん崩れていくようだ。顔が下に傾き、目線がわたしから離れてテーブルのほうに落ちている。

心の整理がつかない――それはつまり、まだ好きだっていうことだろう。けじめはついていないのだ。そうだとすると、相手の出方次第では、さらにのめり込むことだってありうる。

「ベッドではすごく優しかったし……」

ふいに、蚊の鳴くような声でエリが言った。見るとテーブルの片隅に目を集中させながら、涙をいっぱいためている。

「……いろんな話して気が合ってたしね。フェルメール展行こうって約束したんだ」

すでに泣き声だった。

彼女が自分のことで泣くのに初めて接した。わたしの離婚話の時、いっしょに泣いてくれたけれど。

わたしは、これからどうするつもりなのか聞きたいのを抑えるのに苦労した。

「まだ行ってないの」

「まだ行ってない。でも約束断りたくないし……」

しかし、彼女が気持ちを切り替えるのに長くはかからなかった。ハンカチでさっと両目を拭ってから、笑顔を作った。

「もういいの。ごめん。話してすっきりした」

 

そんなにすっきりしているはずがない、とわたしは思った。けれど、しばらくそっとしておいてあげよう。そう決めるとほとんど同時に、エリが笑顔を崩さずに元気な声に戻って言った。

「それよりさ……あ、すみませーん。ビールお代わり。……レイのほうは進行状況、どうなの」

わたしは、メール交換を通しての岩倉さんの印象、今度会う約束をしたことなどを話した。

「順調じゃない。その人、いい人みたいね。うまくいくといいね」

でもいまエリの話を聞いたばかりだ。同じような目に遭うかもしれない。

わたしは不安になった。これまでのやり取りが単なる虚構なら、通い合っていると感じた心の履歴はパーになる。

けれど、こういうことは十分考えられることだ。相手が妻子持ちでなくたって、他のいろいろな面で、全然期待していたのと違ってたなんていくらでもありうるだろう。

しかし何しろ、年齢が年齢だ。若い人たちのように、いくつものサイトに登録して、何度も繰り返すなんてことはできない。やり直すチャンスは限りなく少ない。

「でもレイも失敗だったら、勧めたわたし、責任感じちゃうな」

わたしの不安に呼応するようにエリが言った。「失敗」という言葉を使ったということは、この関係はもう思い切るということか。そうでもなくて、不倫になってしまったことを単に「失敗」と表現しているだけなのかもしれない。

それにしても、何でもてきぱきと決めていくエリでも、やっぱりこういうことには惑わずにはいられないんだろうな。

「エリ、そんなこと考えなくていいわよ。あれはわたしが自分で決めたの。それに失敗したって思ったら早く手を引けばいいんだし」

「そう言ってくれるとありがたいわ」

これ以上は会話が続かなかった。エリが今後どうするつもりなのかについて突っ込んで聞いてみる勇気が出なかったのだ。だから、こちらからお座なりな慰めとか、具体的なアドバイスを投げかけることはできない。

それに、そういうのは、いくら仲がいいといっても、あまりセンスのいい振舞いではない。エリの強さを信じて、ヘンな泥沼にハマらないように祈るしかない。

半澤玲子Ⅶの1

 

                                  2018年10月14日(日)

 

だいぶ過ごしやすくなった。今日など肌寒いくらいだ。しかしここのところ曇り日か小雨の日が続いていて、秋晴れに出会わない。予報によると、まだこの天気はしばらく続くのだという。少し憂鬱。

というより、これは昨日のことからくるわたしの気の迷いが、天気とシンクロしているのかもしれなかった。

昨日、土曜の午後、母から、買い物と食事をしないかとの誘いがあった。

四谷三丁目の「きくの花器店」で、新しいお稽古用の水盤や剣山を買いたいという。きくの花器店にはわたしも何度か行ったことがある。品ぞろえが豊富だから、お花をやっている人が多く集まるのだ。

また四谷三丁目には、おいしい店がいくつかある。ちょうど花器店のすぐ近くに山形料理を食べさせてくれる渋い店があるので、花器を買ってから、母をそこに連れていくことにした。五時に予約を入れた。

母は、濃緑色のなみだ型をしたちょっと変わった水盤と、その大きさに合った小さな剣山を買った。消費税込みで約6000円。

「あれ、そんなの使うの。新開拓?」

「そうでもないんだけどね。若い生徒さんには、時にはこういうのを味わってもらうのもいいかなと思ってね」

わたしもつられて3000円の白地の投入れを買った。白地といっても、練色というのかしら、わずかにピンクがかった柔らかいその色調が粗めの地肌によく合っていた。前から下駄箱の上が殺風景だなあと感じていたのだ。

これからは少し、家の中に気を配ろう。昔の心得を思い出して、時々はお花を買ってきて、自分をいとおしむように、活けることにしよう。

母にもらった小さな水盤も、部屋の隅の置台の上で、活けられる花もなく孤独をかこっている。1LDK のマンションには床の間も和室もないけれど、あの置台で間に合わせればじゅうぶんだ。

なぜって、わたしは……わたしはもしかしたら恋をするかもしれないから。

そんなことをひそかに考えて、少し顔がほてるのを意識した。

 

母の買い物は、ちょっとかさばるけど、郵送してもらうほどではなかった。別れるまではわたしが自分のと一緒に持ってあげるよと言ったのだが、母は、「いいよ、いいよ。これくらいなんでもない」と言って持たせようとしなかった。

石畳の狭い路地に入って、竹の枝折り垣の間を抜け、格子戸を引いた。

「こんなお店があったのね」

「ね、ちょっと小粋でしょう」

いらっしゃい、と60代のマスターがカウンターの奥から元気に迎えた。他の客はいない。

もともと土曜日は休みにしているらしいけれど、前に来たことがあるので、わざわざ受け入れてくれたのだ。

「予約した半澤ですけど。ちょっと早かったかしら」

「半澤さんね。かまいませんよ。テーブル? 座敷?」

「お母さん、どっちにする?」

「わたしはどっちでもいいけど」

「じゃ、座敷にします」

テーブルと言っても四人がけが二つ、その奥に、詰めても七、八人くらいがせいぜいの座敷があるだけの小さな割烹店だ。出てくる料理は決まっている。

だだちゃ豆、お刺身に、玉こんにゃく、最後の里芋と油揚げをメインにした芋鍋が、故郷の味というのにぴったりで、とてもおいしい。

「お母さん、疲れたでしょう」

「そうでもないわ。いい品が買えたもの。満足よ」

「ビール、飲む?」

「そうね、久しぶりに少しいただこうかしら」

瓶ビールしかない。大びんを二人で、わたしが主に飲めばいい。酔っぱらっちゃうかな。

「玲子も投入れが買えてよかったね」

「うん。それでね、これは下駄箱に置いて、あと、お母さんにもらった水盤あったでしょう。あれここんとこずっと使ってなかったから、これからわたしもちゃんと時間見つけて活用しようかなって思ったの」

「まあ、それはいいわね。でも時間あるの?」

「何とか見つければ大丈夫。こうして休みだってあるんだし」

「そりゃお母さんはうれしいし、いつでも相談に乗るけど、あんまり本気出しちゃだめよ。仕事に差し支えるから」

「本気になってもいいかなって」

なんでこんなことを口にしたのか、初めは自分でもわからなかった。

「え?」と母は耳を疑うような顔をした。

「半分冗談だけどさ、でも、もう仕事もいいかげん飽きてきたってのが本音。だからもし本気でのめり込んじゃったら、仕事そっちのけになっちゃうかも」

母のおどろき顔はまだ消えない。

「でもどうやって食べてくの」

わたしは母を少しからかってやりたいような気持ちになってきた。玉こんにゃくをもぐもぐさせながら、とっさに思いついたアイデアを口にした。

「つまりお母さんの跡を継ぐわけよ」

「そんな。わたしの収入なんてたかが知れてるし、あのへんじゃ生徒集めるのはたいへんよ」

「そうかしら。ちゃんとやり直して、免状もらって、親子二人で看板出せば、けっこう評判になるんじゃない。わたしが大原流の新風を吹き込んでさ」

言ってるうちになんだか、ほんとに実現しそうな気になってきた。ビールのせいかもしれない。瓢箪から駒ってやつだ。

「わたしね。会社のエントランス・ロビーに何度か活けたことあるのよ。そしたらちょっとした評判になっちゃってさ」

よせばいいのに、さくらちゃんに褒められたのを、大先生の母の前で、オーバーに吹聴してしまった。やっぱり酔っぱらってきたようだ。

「あら、そうなの。すごいじゃない。玲子はたしかに筋がいいところはあったわね。ここだけの話、真奈美に比べれば、ずっと向いているなと思ってた。あの子は全然興味示さなかったものね」

母までがだんだん乗ってきたような感じだ。お酒などめったに飲んだことのない彼女が、無意識にコップを差し出して二杯目を求めた。頬がすでに赤らんでいる。

「ふふ……。この計画、意外と可能性あるかもよ」

芋鍋がぐつぐつと煮立ってきた。油揚げが表面で盛り上がって、早く食べてちょうだいと言っているようだった。わたしは、母の小鉢に適量を取ってあげた。

「ありがと。おいしいわねえ」

わたしも、自分の小鉢に油揚げと里芋とキノコを取って、ふうふう吹きながら口に運んだ。

お料理のおいしさと、話の盛り上がりとのタイミングがよくあっている感じだった。

しかし母はいつもの慎重さを示して言った。

「そうねえ。でもせっかくの安定した職を振ってまでっていうのは不安だわねえ。景気もあまりよくないみたいだし」

たしかにそうだ。私にその勇気があるかどうか、それはその時期が来なければわからない。

でもそう言いながら、母は、じつは私に帰ってきてくれることを期待している。たしかに不景気が続いてはいるけれど、真面目な話、経営さえ回れば一石二鳥だ。余裕のある人たちを相手にすればいいのではないか。

いずれにしても、いつかは老母の面倒を見なくてはならない身だ。

母はまだ十分元気だけれど、仕事の合間を見て、華道の修練に集中する。師範の資格を取り、最近の流行も勉強し、確信が持てたところで、「老親介護」を理由に退社。そして実家に帰って母と二人で教室を。

武蔵野のあの家。公園から吹いてくる風がさわやかに通り過ぎ、梢をさらさらと鳴らし、鳥たちが可愛いさえずり声で遊び回る。春には桜が咲きはらはらと散り、秋には紅葉が青空を背景にあたりを鮮やかに彩る。そしてハナもいるし。

華道教室って、あの環境にぴったりだし、わたしもそういう人生を求めていたのかもしれない……。

 

けれど、その時、はっとわれに返った。

わたし、恋活をしてるんじゃなかったっけ。

岩倉さんと、それは始まったばかりだった。そして進んでいた。

今週は2度、彼とのやり取りがあった。どちらもそんなに長いものではなかったけれど、すでにFureaiサイト内でのメッセージの送受信を中止して、メールに切り替えていた。

とにかく会ってみないことには、いいお付き合いができるかどうかもわからないので、会ってもらえないかというのが彼の言い分だった。ダメとわかれば、その時はその時、とも。

メールには、会う場所の指定と候補日まで書かれてあった。「よろしければ」という但し書き付きで。

これはお互いのコミュニケーションがいい感じになってきているいまのステップから考えれば、もっともな言い分だった。でもわたしは、彼のその最後のメールにまだ返事を送っていない。

鍋の中身も少なくなり、酔いも少しずつ醒めてきた。

ちょっと盛り上がりすぎたかな、という反省の気持ちと同時に、わたしが退職して実家に帰るというアイデアを、冗談半分とはいえ、持ち出してきたのには、別の理由もあることに気づいた。

それは、中田さんとの一件が、何となくくすぶっていたからだ。別に彼の態度が特によそよそしくなったわけでもなければ、何か陰湿な嫌がらせのような振る舞いに出たわけでもない。わたしの前では冷静なビジネスマンとしての姿勢を崩さなかった。いや、そう努力していたというのが正確かもしれない。

わたしのほうも、平常心を保とうと努力していた。それで、表立っては何も問題はなかったのだが、仕事に傾けるわたし自身の熱意が、どうも少しだけ、殺がれてしまったような感じなのだ。

理屈で考えれば、これは私の自分勝手というものだった。でも、そういう自分を正当化する気持ちはないけれど、仕事に対する倦怠感が長年続いてきていて、それを中田さんとの一件がもうひと押ししたような気がしてならないのだ。

恋活をうまく続けるためには、そう簡単に退職しない方がいい――だろうな。結婚なんてすごく実現の確立が低い到達点だから、少しでもそれを目指すなら、安定した職を失わない方がいい。

そうすると、お花の師匠の道を選んだ場合、母と二人で暮らすことになるわけだから、恋活はおあずけになる、かな。

いや、そうでもないのかな。そういう条件で、新しく出発すればいいのか。でも師匠になるのに何年かかるかわからないし、お金も積まなきゃいけないだろうし。そっちに集中すれば、再婚の機会も遠のくかもしれない。そのうちもっと年を取ってしまう。

しかも、いま現に、恋活をやっていて、具体的な相手が見え始めている。

頭がこんがらがって、何が何だかわからなくなってしまった。

わたしはこの複雑な屈託を母に悟られないようにしながら、ちょっと声を大きくしてマスターに言った。

「ごちそうさま。とてもおいしかったわ。お愛想おねがいします」

母も丁重にお礼を述べた。そして財布を取り出した。

「お母さん、ここはわたしが」

「何言ってるの。いいのよ。わたしが誘ったんじゃない」

少し押し問答したが、結局母に甘えることにした。

 

大通りに出ると、まだ車の流れや人通りが衰えていず、街は賑わいを見せていた。時計を見ると、7時ちょっと過ぎ。サラリーマンやOLたちの夜の楽しみはこれから始まるのだろう。

今度はわたしが母の荷物を持つと言って聞かなかった。といっても、地下鉄の改札までのことだ。

そのわずかな間に、母がわたしに寄り添うようにして、小声で話しかけてきた。

「玲子、お店で話せばよかったんだけどさ、この前、再婚相手を探す気があるって言ってたわよね」

「ああ、うん。あれいつだっけ」

できればとぼけて済ませたい気分だった。

「ちょうど一か月くらい前。その後どうなったか、やっぱり知りたくってね。ううん。言いたくなければ言わなくていいのよ」

間をおいてから、答えた。

「ちょっと進行中って言えばいいかしら。でもまだわからないわ」

「そう。わかったわ。はっきりしたら教えてね」

で、もう地下鉄の階段を降りるところまで来てしまった。

「うん。教える。ごめんね、はっきりしなくて」

母は微笑んで言った。

「そういうことは、そうはっきりできるものじゃないわ」

わたしの帰る方向は目の前に改札があるが、母の帰る方向は改札が反対側にあり、階段を昇ってぐるっと回らなくてはならない。母は、もうここでいいわよと、荷物を受け取ろうとしたが、わたしはそれでは気が済まず、いっしょに向こう側まで回ることにした。

改札前で荷物を渡しながら、

「重いから気をつけてね」

「大丈夫。今日はつきあってくれてありがと。じゃあまたね。成功を祈るわ」

「うふふ。どうもありがとう。じゃあね」

成功を祈る――初めにわたしがエリに言い、次にエリからわたしが言われ、いままた母から同じ言葉を受け取った。

気が若くて優しい、大好きなお母さん。

さっき混乱した頭で考えたことを、もう一度整理しなくちゃならない。

堤 佑介Ⅵの4

 

ずいぶん批評家気取りのことを長々と書いてしまった。肩が凝った。オンザロックの二杯目。

マッターホルンによく似たぶっかき氷の大きいやつを入れて、シ―ヴァス・リーガルをゆっくり注ぐと、透明な氷上を琥珀色の液体が滑り落ちてゆく。少しばかり自分自身の頭が冷やされていくようだった。

もう夜更けに近いが、昨日たまたまネット記事で、東都医科大学の入学試験点数操作問題に触れて、考えさせることが書かれてあったのを見つけた。この際もうひと頑張りして、それについても頭を整理しておこうと思う。杉山、小沢両論文のテーマに関係なくもない。

 

東都医科大学では、7月に、文部官僚の息子を不正入学させたことや、女性の合格を抑制するための点数操作を行っていたことが発覚して大問題となり、10月1日付で初めての女性学長が誕生した。

これは、学長職に女性を据えておけば、「女性差別などしていません」というアピールになり、評判を回復できるだろうという意図があることがすぐ推定できる。それ自体に欺瞞のにおいが漂う。記事にも同じようなことが書かれていた。

ところが記事によれば、この女性学長は2014年にマタハラをはたらいたとして民事裁判で訴えられているそうだ。昨日発売の『週刊海風』が暴いたという。

事実とすれば、そういう人を学長に据えるのは拙いやり方だ。彼女の周辺で知られていなかったはずはないから、それを隠しても「ともかく女性学長を」という声が勝ったのだろう。欺瞞の上塗りということになる。

ところで、点数操作が発覚した時にも感じたのだが、これを女性差別として無条件に告発する空気に私は違和感を持った。なぜそうせざるを得ないかという背景が、医師の世界にはあるに違いないのに、そのことが語られていなかったからだ。

篠原が言っていたように、試験の成績という点では、女子のほうが優秀である。だから点数だけで合否を決めると、医療界は女性医が多数を占めることになる。

ところが医師は責任が重く、気の抜けない重労働だ。必ずしも「入学試験」の成績優秀者が、この任に適しているわけではない。

一方で多くの女性は、妊娠出産というもう一つの重労働を抱え、また子どもが小さいうちは、できれば育児に専念したいという気持ちを抱いている人がほとんどだ。そうすると、医師の世界では、大事な時に一時離脱せざるを得なくなる。

記事では、そのことを裏付けるような数字が掲げられていた。

男女の医師を対象に行ったある調査によると、東都医大が女性受験者を一律減点したことについて、「理解できる」「ある程度は理解できる」の合計が65%に達したという。

また別の調査では、「医療現場で男性と女性の医師とで業務内容などに差があるか」という質問をしたところ、73.2%が「ある」と答えたという。

 

しかし、この記事を書いているライターは、こうした事実を踏まえながら、「それは、『差別ではなく、事実として女性は厄介な存在だ』と正当化したくなるほど、そもそも医療現場の労働者に重い負担がかかっているということを意味する」と書いている。そして最後は、「医療現場を性別にかかわらず風通しよく働ける職場環境にしていく」ために「社会全体の意識改革が求められる」とあいまいに結論づけている。

この記事は、医療現場での男女の戦力の質の違いが問題なのに、労働環境一般のあり方の問題に逃げている。

そして、「性別にかかわらず」「社会全体の意識改革」という言い方の中に、男女絶対平等イデオロギーへの媚が感じられる。

このライターを批判しても仕方ないだろうが、ここでも、性差がもつ深い意味に切り込むことを避けているのだ。

「意識改革」とは、明らかに男女がすべて平等に働ける環境を理想の方向としているということだろう。思わずそのように書いてしまうのは、いかにほとんどの人が「差別」と非難されることを恐れて、男女の区別について語ることをタブー視しているかを示している。

医療現場での業務内容が男女で異なるのは当然のことである。

また、一律減点に理解を示す医師が多いのも、男女の区別を考慮すれば十分納得できることである。ライターは、それを修正すべき事態だと無意識に考えている。

医療現場という、時間制限のない厳しい戦場で、時には夜を徹して手術などに臨まなくてはならない業務に、女性を男性と平等に従事させなくてはならないとしたら、それは女性にとってあまりにも可哀相だ。

たとえば、ゼロ歳児や1歳児を抱えた女医さんが、わが子の側にいてあげたいと思いながら、乳の張る自分を抑えて、無理に頑張る。こんなのはどう考えてもおかしい。

仕事に就くことをあくまでよしとするような平等主義イデオロギーは、女性にとってかえって残酷なのである。

これは何も医療現場に限ったことではない。きつい労働現場に男性並みに女性を駆り立てることをよしとするような思想が、どこか間違っているのだ。

とはいえ、もちろん、女性が家庭に引きこもるのもあまりいいことではないと私は思う。

無理がかからない程度に働くのは、それだけ家計を潤すことになる。また未婚時代に仕事を持つことは、本人の自立と成熟を促すし、子育て期を卒業したら、いろいろなかたちで社会との接触を回復する方が、充実した人生を送れるだろう。

 

共働きが当たり前の世の中になっているが、それは、大部分がそうしなければ食っていけないからで、何も平等原理を貫くべきだからではないし、みんなが働きたがっているからでもない。

大部分の人は、安月給でつらい思いをしているのだ。豊かささえあれば、だれでも、なるべく時間的なゆとりを持った生活を送りたいに決まっている。

政府は、「すべての女性が輝く社会」などという空虚なスローガンを打ち上げているが、レジ打ちや介護士や看護師や小中学校教師のきつい労働に従事して、くたくたに疲れて、女性は輝くのか。アホらしい。

もともとあれは、財界が、低賃金でも文句を言わない女性労働者を、労働市場に駆り立てるための騙しのテクニックだったのだろう。

そうすると、結局は、まず経済が繁栄しなくては話にならないという結論に落ち着く。それを阻んでいるのは何なのだろう。日本のデフレ不況の原因は?

篠原が言うには、財務省の緊縮路線が諸悪の根源ということだった。しかしなぜ財務省は、このままだと国の借金で日本の財政は破綻するとばかり言うんだろう。

金融緩和は続けてきたし、金利は最低だし、アガノミクスでは、たしか積極的な財政出動を謳っていたはずだし……。

 

ここまで書いてきて、力が尽きた。経済問題になるとどうも弱い。今度篠原に会った時、聞いてみることにしよう。

時計を見ると12時を回っていた。明日は金曜。忙しくなりそうだ。氷が解けてほとんど水みたいに薄くなってしまったオンザロックを飲み干して、寝室に向かった。

また今朝みたいなほんわかした夢が見れるといいのだが。

そう、それより現実にいい女性に巡り合えることでも想像しながら寝ることにしようか。