半澤玲子Ⅸの2

 

出社時刻になった。夜になるともっと冷えることを考えて、クローゼットからお気に入りのベージュのハーフコートを引っ張り出した。

出社すると、中田さんが12日付で京都支社に転勤になることを知らされた。彼自身から聞いたのではなく、さくらちゃんに教えられたのだ。

昨日、わたしが外出した折に、課に残っている人たちに伝えたのだという。中田さんはわたしには黙っていたことになる。

本人に聞こえないように、さくらちゃんと小声でやり取りした。

「みんなを集めて?」

「いいえ。課長自身がデスクを回って、それとなく知らせてました」

「みんな、びっくりしてたでしょう」

「ええ。わたしもびっくりしました」

「優しくて人望が厚かったものね。残念ね。新しい人は決まってるの」

「さあ。決まってはいるんでしょうけど、正式には発表されてないです」

京都での役職は経理部長ということだったので、支社とはいえ、一応は栄典ということになるのだろう。

複雑な心境になった。

すぐ思ったのは、わたしの失敗の責任を取らされたのではないかという懸念だった。さくらちゃんに聞いてみると、あれはその日のうちに修復したのだから、それはないだろうということだった。わたしにも特にお咎めはなかったのだし。

「上からの単純な人事異動だと思いますよ。独身ですし」

次に思ったのは、もしかして、わたしと同じフロアにいることが気づまりになってきて、自己申告したのではないかということだった。この疑いは、さくらちゃんには言えない。

しかしよく考えると、何かもっともらしい理由をつけたにしても、ウチの社で自己申告がそう簡単に受け入れられる可能性は低い。やはりさくらちゃんの言うのが正しいんだろう。

身近に起きたことを、あまり自分に直接関係があることとして結びつけてはいけないと反省した。

そういえば昔、別れた夫から、酔った勢いで「女はよ、何でもてめえ中心に地球が回ってるって思ってるから、始末に負えねえよ」と言われたことがあった。その時はものすごくムカついて、人のこと言えるのか、自分はどうなんだと反発した。

けれど、年を経ていろいろ見てきて、いま思うと、たしかに女は、周りのことを自分に引きつけて解釈しようとする傾向が強い。男のジコチュウとはまた違った意味でそう言えそうだ。だから女どうしの関係ってドロドロともつれがちなんだ。

でもわたしにしてみれば、どうしても中田さんと自分とのかかわりにこだわってしまう。そして、ほっとする気持ちと、何となく中田さんが可哀相に思える気持ちとがないまぜになってやってきた。一抹の心のしこりが残った。

今日からちょうど一週間後に経理の仲間で送別会をやることになったそうだ。その時に、機会をとらえて私の懸念を確かめてみよう。

 

今日はオフィスの一日が何となく長く感じられた。中田さんとは席が間近なわけではないし、直接顔を突き合わせる角度ではない。それでもこのフロアはパーティションで仕切られてはいないので、顔をあげてそちらを向けば、視線が合ってしまう。

だから、今日はなるべく下を向いて、視線を合わせないようにしていた。パソコン上の帳簿とずっとにらめっこ。

でも午後3時ごろになって中田さんは外出した。わたしは思わず両腕を挙げて大きく伸びをした。

あくびが出たのであわてて口を手で押さえた。

隣の藤堂さんが笑いながら「お疲れ?」と聞いた。わたしより少し前の入社だ。有能で、課長補佐的な役割をこなしている。

「ううん、それほどでも。今朝早く目が覚めちゃったもんだから」

「今朝、寒かったわよね。うち、戸建てだから冷えるのよ。半澤さんのところはマンション?」

「そう。8階だから、冬はけっこうあったかいわね。でも今朝、窓開けたら寒かったー」

「こないだまであんなに暑かったのに、秋って短いわね」

「ほんとにね」

藤堂さんは、結婚してお子さんもいる。たしかもう高校生くらいじゃなかったかしら。だから、彼女とは仲良くしてはいるけど、どうも共通の話題がそんなにないのだ。ママ友どうしだったら、きっと教育の話で盛り上がるんだろう。

わたしは、そのことを羨ましいとは思わなかった。ただ、どうしても会話が途切れてしまう。向こうも高齢独身女にあえて話題を振ろうとは思わないだろうし、こっちの身上に探りを入れようとすることは避けるだろう。

そんなわけで、それからしばらく、お互い仕事に没頭した。

ようやく退社時刻が近づいてふと窓の外に目を向けてみたら、もう真っ暗だった。街の灯が早くも煌めいていて、人々をいざなっているようだ。

朝、晩秋の気配を身に浴びたその日、今度は、日が急に短くなったことを思い知らされた。

それはそうだ。もう11月。冬至まで数えても二か月ない。

ロッカーからハーフコートを取り出してはおり、一階に降りた。今日はひとりで飲みにでも行こうかしら。秋の夜寒のなかを、女ひとり、何か思いを秘めながら街路を歩き、とあるカフェバーのドアをくぐった、なあんてね。

ふとエリを誘ってみようかと思ったが、もうちょっと我慢した方がいいような気がした。この前、告白されてから、まだ3週間も経っていない。どう進展しているか、何らかの決着がついているか……。

仮についているにしても、エリ自身が、ある落ち着いた気分になってからの方がいいだろう。わたしもそういうエリと向き合いたかった。それにはもう少し時間が必要な気がした。

 

会社から二駅ほどなので、渋谷に出て、昔何度か行ったことのある宮益坂のカフェレストランに行くことにした。ちょっと引っ込んだところにあって、フランスの家庭料理を食べさせてくれるのだ。電話したら、席を取っておいてくれるという。

渋谷駅を出て、いつもの恐ろしい雑踏をかいくぐりながら信号を渡り、坂を昇る。

そういえば、つい一昨日、ここで例のハロウィーンのバカ騒ぎがあったのだ。軽トラックがひっくり返されて警察沙汰になったそうだ。いつごろからあんなことが始まったのだろう。

ここ二、三年、テレビで見ていると、何をするでもない若者男女がぞろぞろぞろぞろと、身動きも取れないくらいの至近距離で、多くはヘンな仮装をしながら歩いている。その光景は、何というか、とても虚無的なイメージだ。

昼間ブラック企業でしごかれて、憂さ晴らしに、ともかく「ハロウィーン」という名目を頼って集まってくるのだろうか。

別に西洋のお祭りに便乗することそのものに抵抗感はない。クリスマスだって同じだから。

また仮装して、その上でカーニバルみたいに何かイベントをやるならわかる。

でも見ていると、彼らは何にもやる気配がない。というか、特定の主催団体があるわけじゃないから、それはできない相談だ。お金だってほとんどないんだろう。

この目的もなく何のまとまりもない若者群衆は、はっきり言って気持ちが悪い。ヨーロッパに押し寄せた難民の群れのようだ。

痴漢もすごく多いのだという。その点でも難民に似ている。無秩序に大都会のど真ん中に放り出された無気力で孤独で寄る辺ない若者たち。

一時の気晴らしといえばそれまでだけれど、わたしの若い頃にはこんな現象はなかったんだから、どうしても、いまの社会全体のどんよりした雰囲気を象徴しているような気がしてならない。「社会生活難民」とでも名付けたくなった。

そして今年、とうとうミニ暴動みたいなことになってしまった。当然だと思う。

 

お店に着いて、赤ワインとポトフを注文した。やっと人心地がついた。

運ばれてきたお酒と食事に口をつけながら、あのバカ騒ぎのことがまだ気にかかっていた。

政府は雇用改善を自慢しているけれど、本当は、その中身が問題じゃないのかしら。ブラック企業に雇われて低賃金でこき使われていたり、パートやアルバイトや派遣ばっかりだったら、実際には生活は悪化してることになる。

多くの若者がそんな現状に置かれていて、希望をなくしている? だから、あんな無気力に見える集まり方をしてくる?

いままでこんなこと、ほとんど考えたことがなかったけれど、なんでこのわたしが柄にもなく考えるようになったのかしら。そう思ったら、ハタとあることが頭に浮かんだ。

もしかして、堤さんの影響かな。

そうだ、きっとそうだ。

いい年をして、頬がほてってくるのを感じた。いえいえこれはワインとあったかいお料理のせいよ、と自分に言い訳してみたものの、何となく周りのお客さんを意識してしまった。

そういえば、一昨日の彼からのメールにまだ返事していなかった。

堤さんというまだ見ぬひとりの男性へのわたしのいまの思いを、なるべく忠実に伝えたいという気持ちと、いま考えていたことについて彼がどんな答えを用意しているかを知りたいという気持ちとが重なった。

大きな玉ねぎをそのまま口に入れてほおばり、濃厚なスープをすすりながらスマホを取り出した。

この前のメールを見ると、消費税の増税は、必要がないのに、政府が国民を騙しているのだと書いてあった。どう騙されているのか知りたかったし、このことといま考えていたこととは関係があるように思った。

半澤玲子Ⅸの1

                                     2018年11月2日(金)

 

今朝は早く目が覚めた。寒かった。温度計を見ると13度ちょっと。外はもっと寒いだろう。うっかりポトスとポインセチアをベランダに出したまま、昨日しまうのを忘れていた。もうお部屋に入れてあげなくては。

窓を開けると、冷気がさっと入ってきた。晩秋の気配のなかに一瞬にして身が包まれる。

この季節が好き。身が引き締まる思いがするし、木の葉がだんだん色づいてゆく。空気は適度に乾き、青空が広がる日も多い。今日も快晴が続くらしい。

武蔵野はもう紅葉が見られるかしら。母は元気にやっているかしら。ハナは?

それに……。

先週の木曜の朝、スマホを開けてみたら、「ゆう」さんから返事が来ていた。とても誠実でまじめそう。

この人にメッセージを送ったのは、岩倉さんとの件とその後の失敗があったので、半ば自分をヴァーチャルな次元で救い出そうと思ったからだ。ところが思いがけず、返ってきた文面は、好意的で真剣に答えている雰囲気がにじみ出ていた。

うれしかったので、先週の土曜日にちょっとがんばって返信した。

 

ご親切なお返事、まことにありがとうございます。

 わたしのほうで強引にご質問したのですから、堅苦しい印象を持ったなんてことはまったくありません。

 どちらかというと、政治や経済に興味をお持ちなのですね。私はそのへんは意識が低くて、あまり考えてこなかったのですが、これから「ゆう」さんに教えていただければ、と思っています。

 ただ、お話の中にLGBT差別と書かれてあったので思い出したのですが、ひと月ほど前にテレビで、ある月刊雑誌(名前を忘れました)が、LGBTについて書かれた論文のために休刊になったというニュースを見ました。

 わたしは、この雑誌を読んだことがありませんでしたし、どういう理由で休刊になったのかもわかりません。でも、こういう人たちが何かと話題になったりする背景には何があるのかという点については、関心を惹かれます。

 それから、不景気の原因についての「目からウロコ」というのにも、とても興味があります。政府は、景気は回復しているなんて言ってますけれど、そんな実感はありませんものね。こんな時に消費税を10%に上げたりして大丈夫なのかなと、日頃から心配しています。

 

 趣味の欄に活け花と書きましたけれど、いまはあまり真面目にやっていません。でもこのごろ少し本気でやり直そうかとも考えています。じつは、わたしの母がお花の師匠をしているので、その関係で、若い頃の見よう見まねで少し心得がある程度です。流儀は大原流です。

 国内旅行も美術館巡りも、最近はさっぱりです。プロフィールの趣味のコーナーって、あることないこと書き並べるところがございますでしょう。私も同じです

 でも昔行ったところで想い出深いところと言えば、夏の夕暮れ時の奥入瀬渓流、ランプの宿・青荷温泉、雪の越中五箇山合掌造り、京都天竜寺の紅葉、といったところでしょうか。

 画家で好きなのは、モネ、マティス、ミュシャ、佐伯祐三、日本画の加山又造……、いま東京で展覧会が開かれているフェルメールも大好きなのですが、土日は混むでしょうし、予約制なので、なかなか行く機会がつかめません。

 

 お話についていけるかどうか自信がありませんが、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 

だいぶメッセージを書くことそのものに慣れてきた。

しかし岩倉さんとのことにケリをつけた(と自分で決めているだけだけど)後、まだいくらも日にちが経っていないのに、もう新しいつながりを求めている自分に対して、軽薄さを感じないではなかった。

でも、いいんだ。人の気分なんて5分で変わる、そう言い聞かせてすらすらとキーボードを叩いた。人生は乗りだってね。

じきに返事が来た。

自分の政治的な考えは、なかなか人にわかってもらえないので、あまり話さないようにしていること、それでもあなたにはもったいぶるのが嫌なので、簡単に話すこと、LGBT騒ぎは、実際に差別があるのかどうかよりも、野党が政治課題のために利用している面が強いこと、消費税増税の必要は全くないのに、政府が国民を騙していること、活け花についてもっと詳しく知りたいこと、旅行や美術の話を聞いて、あなたの趣味にとても素敵なものを感じたこと、などが書かれていた。

そして最後に、Fureaiサイトのメッセージ欄は記入欄が狭いため、長く書きにくいので、もし差し支えなければメール交換に切り替えないか、ついては自分のアドレスはこれこれである、と付け加えてあった。堤佑介という本名とともに。

わたしはこの提案に賛成し、自分のアドレスを教え、本名を名乗った。映画の話もした。先ごろ亡くなった悠木果林を惜しむ話も。折り返しメールが来て、自分も悠木果林が大好きで、『万引きファミリー』での演技に心から感服しており、本当に惜しい女優を亡くしたと嘆いていた。それが、おとといだった。

先方がわたしにどんな感じを抱いているのか、しかとはわからない。でも少なくともわたし自身は、今までのところ、とても呼吸が合うのを感じていた。それで、ちょっと浮き浮きしている。このままいくと、近いうちに会うことになりそうだ。

この呼吸の合い方は、岩倉さんとメッセージ交換していた時のそれとは違っていた。あの時は、しいて言えば、紳士淑女のよそ行きムード、それに対して、今回は、何と言ったらいいのか、懐かしい人に巡り合ったような感じなのだ。

今日まで、岩倉さんは何も言ってこなかった。わたしのほうが誘うと言ってから10日以上たっているのに、どうして誘ってくれないのか問い合わせてこない。やっぱり向こうも実際に会ってみて、わたしへの関心を薄くしたか、それとも、じっと待っているのか。

堤 佑介Ⅷの7

 

それにしても、と心の中で苦笑しながらいつもの疑問が沸き上がってきた。なんで自分はこんな直接関係のない問題に性懲りもなく首を突っ込むんだろう。

亜弥にも諭されたっけ。自分の仕事に関係ないことに夢中になるより、自分のこれからのことを考えなよって。そうだな。これはやめることのできない俺の癖なんだ。

亜弥のアドバイスを思い出したら、また、Fureaiから届いている女性のメッセージのことが気になりだした。このほうがずっと健全かもしれない。

ちょうどその時、アキちゃんが近寄って、「申し訳ありません。ラストオーダーなんですけど」と言った。

さっき、きっとして私を見つめた篠原は、何と舟を漕いでいた。対策懇談会での熱弁と、さっきの「講義」と「朗誦」とで、だいぶ疲れたと見える。

「やあ、もうそんな時間か。帰ろう」

篠原は猫背を伸ばして立ち上がった。

マスターが奥から元気よく声をかけた。

「お疲れのようですね。どうも今日はいろいろ教えていただいてありがとうございました。またいらしてください。授業料払いますから」

「ハハ……授業料だなんて。かえって寄りにくくなるよ」

レジのところでアキちゃんが、愛想よくお礼を言う。

「ほんとにありがとうございました。難しくて私なんかよくわかりませんでしたけど、でも消費税の増税が必要ないんだってことは何となくわかりました。何の力にもなれませんけど……」

そう言ってマスターと目くばせしながら、なんと消費税分8%分を負けてくれた。

「いいですよ、そんな」と、篠原と私はハモってしまったが、アキちゃんは頑として譲らなかった。

 

電車の中でスマホを開く。

ニックネーム「ワレモコウ」とあった。まずプロフィールを見直す。

 

年齢:47歳(認証済み)

身長:159㎝

 タバコ:吸わない

 趣味:活け花、ショッピング、映画、美術鑑賞、温泉、国内旅行

 

 《自己紹介文》

プロフィールを見ていただき、ありがとうございます。

年齢が高いので、ずいぶんためらいましたが、友人に勧められて、思い切って登録しました。

毎日仕事に追われ、出会いの機会がほとんどないうちに、ここまで来てしまいました。

でも、これからの人生のことを考えると、先が長いので、このままひとりで老いていくのには、とても寂しいものを感じます。

どちらかというと、インドア系で、静かな生活が好きです。

東京在住ですが、若い頃、仕事でいくつかの地方をまわりました。そのせいか、それぞれの土地の特色を味わうことに関心があり、休暇をとって国内各地を旅行することが時々あります。

年よりは若く見えると言われますが、これはお世辞かもしれません。

極端に離れているのでない限り、相手の方との年齢差にはこだわりません。

相手の方のお話に合わせるのは、わりと上手なほうです。

お料理は、普通にできます。煮物などが得意です。

わたしのことを可愛いと思ってくださる方との、長くつづく着実なお付き合いを求めています。

 

 《ディテール》

職業:トイレタリー系企業経理部

休日:土日

体型:やや細め

  居住地:東京

  出生地:東京

家族:母、妹

同居人:独り暮らし

年収:500万円以上

  婚姻歴:離婚

  子ども:なし

  好きな料理:和食、イタリアン

  お酒:時々飲む

  性格:温和・明るい

  学歴:四大卒

  休日の過ごし方:映画鑑賞、ショッピング、友人と会う、散歩、美術館巡り

  転居の可能性:時と場合による

  望ましい交際:ゆっくりメール交換をし、機が熟してから会う

 

この写真には見覚えがあった。いくつも「物件」をスキミングした中で、きっと印象に残っていたのだろう。美人、と言うより、「可愛い」系だ。色も白い。

「若い」という期待は裏切られたが、しかし私より八つ下、むしろ私とのマッチングは、年齢相応と言えた。

それに、プロフィールに書いているように、実際、歳よりもずいぶん若く見えた。眉が濃く、澄んだ目をしていて少し茶目っ気が感じられる。

今どきの四十代の女性っていうのは、人にもよるし、化粧のうまさもあるのだろうけれど、三十代前半と言っても全然おかしくないくらいに若い人がいる、と改めて思った。しかもこの人は四十代後半だ。

山下よりも少し年上か。彼女には悪いが、見慣れているせいか、あるいは世帯やつれしているせいか、山下のほうがかなりふけて見える。

ワレモコウさんは、私と同じバツイチである。離婚して何年経つのかわからないが、結婚生活に敗れた後遺症のようなものは感じられない。

トイレタリー系で経理をやっており、活け花が趣味、とある。お嬢さん育ちなんだろうか。まあ、別にお嬢さん育ちでなくとも、お花を趣味にしている人ぐらいいくらもいるだろうけれど。

ワレモコウというのはたしか野草の名前だったな。お花で活けるのだろうか。「ワレモコウ」で検索してみた。

花自体はそんなに華やかではないが、群生している画像が多く、けっこう野趣を感じさせる。こういう花みたいな人なのかな、いや、ただ何となくつけただけなのかな、などとあれこれ想像してしまった。

独り暮らしだから、お母さんと妹が同居してるのか。あまりお母さんと馬が合わないのかもしれない。いや、そんなことはまるきりわからないな。

などと思いを巡らせているうち、危うく乗換駅を乗り越しそうになった。あわてて下車する。

さて乗り換えてからメッセージを読んでみた。

 

初めまして。

 マッチングしてうれしく思います。

 わたしはあまり自分からこんなことをするタイプじゃないんですけど、プロフィールを拝見して、関心を惹かれました。

 これからお話しすることにご興味がなければ、どうぞそのまま聞き流してください。

 まだこのサイトに登録してからそんなに時が経っていないのですが、数少ない方たちとのマッチングがありました。でも、「ゆう」さんのプロフィールは、わたしには、他の方とは違った一風変わったユニークなものに思えました。こんなことを申し上げてお気に触ったらお許しください。

 どこにそれを感じたかと言うと、いくつかあるのですが、いちばん興味を惹かれたのは、休日の過ごし方の欄に「覚書を書く」とあるところです。どんなことを書いていらっしゃるのかな、と知りたくなりました。

 また、「いろいろな社会問題に関心がある」とのことですが、どのような社会問題でしょうか。わたしにはむずかしいことはわかりませんが、日頃考えていることとの間に少しでも共通点を見出せたら、うれしく思います。

 お忙しそうで恐縮ですが、お返事いただければ幸いに存じます。

 

これが2時間ほど前に書かれた文章だ。

酔いが醒めずに、そのまま続いていくような気がする。乗り換えてからは、降車駅までそんなに時間がかからないので、あまり夢想にふけっている暇はない。それでも、自分がこの人と二人でちょっとの間だけ観覧車にでも乗っているような気持ちになった。

ともかく、一人の可愛い「中年女性」(この言葉は使いたくないが)が、私の「変人ぶり」に関心を抱いてくれている。ずいぶんまれなことかもしれない。

私が覚書を書いていること、社会問題に関心を寄せていること、それについて具体的に質問をしてきた。これには真面目に答えなくてはならない、そう、時間をかけて。

私の覚書。

いつもいろんなことをまとまりなく書いている。それは紹介するに値するだろうか。

私の社会的関心。

仕事を通して何かがあると、すぐにそこから発展して、少子化や晩婚化を考えたり、日本の貧富の格差について考えたり、中国人の静かな領土侵略を憂慮したり、LGBT騒ぎやポリコレブームの意味に疑いを持ったり、今日は今日で、篠原から財務省のとんでもない国民騙しについて聞かされて、ああ、俺は何にもわかっていなかったと自省したり――こんな自分をこの人はわかってくれるだろうか。

でも、この変わり者に向こうは興味を持って、はっきりと聞いてきているんだ。ちゃんと答えなければいけない。

美術館巡りと国内旅行。これなら一緒にできるかもしれない。お互い、身軽な身だ。たとえば、いまやっているフェルメール展やルーベンス展。また篠原が言っていた大分の湯布院……。

駅を降りてから7~8分で自宅マンションに着く。その間も、まだ見ぬ人のことを巡って次々に妄想を膨らませていた。

だがひょっとわれに返ると、シニカルに自分を見つめる目がやってくる。いったい俺は何をやってるんだ、と突き放したくもなった。俺はまだこの人がどんな人か、何も知らないんだ。冷静になれ、冷静になれ。

それに、この人は休日が土日、俺は水曜と第三木曜だけ。すれ違うから、もし会えることになったとしても、お互いが早く退けた平日の夜くらいしかない。そんなにうまいタイミングがそう簡単に訪れてくるとは思えない。

そう思ったとたんに、何かにつまずいた。あやうく身を立て直した。

並木道を通っていたのだが、大きくなったユリノキの根が盛り上がって歩道のアスファルトを押し上げているのだ。

見上げると南寄りの方向に満月が輝いていた。ひんやりした夜風がそろそろ色づき始めたユリノキの葉をかすかに揺らしていた。私は人通りもなく落ち着いたこの街路の真ん中で、ひとり気を高ぶらせている自分がおかしくなった。

でも、そんな自分を偽ることはできない。

 

帰宅すると、急に自分の家がいかに散らかっているかが気になった。これまでそんなことを気にしたことはなかった。こんなのは女性に見せられない。急いで片付けなくては。

いや、俺は何を言ってるんだ。誰が俺の家に来てくれると言った。それよりも彼女――「ワレモコウ」さんにまず返事だ。

明日は早いが、これは今日中に書いた方がいい。男の誠意の見せ所だ。でもあんまり長く書いてはいけない。相手だって、軽い気持ちで、試すくらいの気持ちでやってるのかもしれない。一人合点して自己満足に陥っては、こっちの気持ちを見透かされてしまう。

ゆっくりと着替えを済ませた。酔いはほとんど醒めていたが、冷蔵庫から天然水を出してたっぷり飲んだ。風呂は省略。

心を落ち着かせるためにシューベルトの即興曲作品90と作品142をブレンデルの演奏で、ボリュームを小さくしてかけた。そう、できるだけさりげなく。

 

メッセージ、ありがとうございます。

 ワレモコウさんのおっしゃる通り、私は少し変わり者だろうと思います。

 不動産業のような泥臭い仕事をしていながら、いや、それだからこそと言うべきでしょうか、余計、仕事と離れた世界に空想を馳せるのかもしれません。

 そんな私の部分に関心を寄せていただいて、正直なところ、びっくりしています。

 覚書というのは、ただの日記ではなく、社会問題にかかわることについて、メモを取っておくのです。そして、休日の時間のある時に文章を整えたりします。といっても、自分の中では、仕事とまったく無関係というわけではなく、仕事で出会ったいろいろな人や出来事と地続きの問題について考えたことを書いているつもりです。別にそれをどうしようという計画があるわけではないのですが。

 

 いま関心を持っているのは、まず第一に不景気がどうして終わらないのか、それから、少子化による生産年齢人口の減少、LGBT差別にかかわる問題、移民問題など、時々は国際情勢の理解にも首を突っ込みます。

 今日もある親しい友人と飲んできたのですが、彼は大学で社会学を講じているので、不景気の原因について話してもらい、目からうろこの思いを味わいました。

 自分のこれまでの不明を恥じると同時に、これは多くの人が知っておくべきだと思っています。

 でも、初めてのメッセージ交換で、こんなお話をして、堅苦しい印象を与えてしまったかもしれません。

 本当は、砕けた話も大好きなのです。落語を聞くのを趣味にしているくらいですから(笑)。

 

 ワレモコウさんのお写真を拝見して、とても可愛らしい方だと思いました。また、文章に接し、しっかりものを考えていらっしゃる方のようにお見受けしました。

 私はこんな方からメッセージをいただいて、貴重な機会を得たので、とてもうれしく思っています。

 これに懲りず、これからもメッセージ交換を続けさせていただければ幸いです。

 よろしければ、お花のことや、国内旅行のこと、美術館巡りのことなど教えていただけると、ありがたく存じます。

 

何か所も書き直し、やっと書き終えて送信ボタンを押したら、即興曲がちょうど終わりを告げた。思えば、今日は出かける前と帰宅してからと、2回も音楽の世話になったことになる。

いろいろなことがあったけれど、何か、自分がこれまでとは違ったある心のステージに昇ったような気分だった。

悪い予感もあれば、よい予感もある。悪いほうは、たとえそれが現実になったとしてもひるまず立ち向かい、よいほうは、美しい音楽に包まれるようにその流れに身をゆだねて行こうと思った。

堤 佑介Ⅷの6

 

篠原はようやくやめて、別のことを言いだした。

「そういえば、こないだ、You Loopで、三島由紀夫が高校生の男女二人にインタビューを受けてるのを聞いたんだよ。三島はなかなか真剣に答えていて、おもしろいんだな。そんなかで、男の子のほうが『女って考えるのかしら』って聞くんだ」

「女の子の前でか」

「そう。ああいうことが半世紀前のあの時代にはまだできたんだな。俺は羨ましいと思った」

「三島はどうした」

「大問題が出てきた、と笑いながら、男が考えるのと女が考えるのは全然違うというんだ。女の考えは自然や大地に近いのに対して、男はいつも自然や大地から遊離しちゃってて、論理的で整理されて見えるけど、じつはいつの間にか大地から置き忘れられてる……」

「それはズバリとうまく言ってくれてるな。俺も賛成だ。」

「そうなんだ。それで、女の子が、女の人のほんとの生き方は何ですかって聞くと、三島が、『それは自分には良妻賢母としか言えない、人間の母だよね、男がそこからくみ取る源泉のようなものだ』ときっぱり言う。その後がまたいい。女は愛される存在と常識は言うけれど、じつは女こそ愛の天才だと言うんだな。男は夾雑物が多すぎて、愛で世界を包むなんて絶対できない、と……」

「良妻賢母はともかくとして、女が愛の天才だというのは、本当だな。しかしそういうことを最近言う人はいなくなった。文学者がもっと自信をもって言うべきじゃないのかな」

「それは、『文学者』なんてもういなくなったと言い換えることもできる。この前、恋愛が自由化したために、男女の命を懸けた出会いがなくなってしまったって話したよな。あれと通じるんじゃないか。少なくとも、近松はもう出ない」

「なるほどそうだな。だから俺は、これから結婚や家族がどうなるかが気になるんだ。ていうか、大げさに言えば、途上国の多産系移民が押し寄せれば、先進文明の住民なんて衰退していく一方だろう」

「うーん。そうなると、もうそれは自然法則とつながってくる感じだな。動物でも水生動物はものすごく卵を産むけど、陸に上がるとあんまり産まなくなる。その連続線上にありそうだ」

「おい、それこそ発展途上国の国民を下等動物扱いするのかって、糾弾されそうだぞ」

「いや、そりゃもちろんここだけの話だけど、でも、日本人だって戦前は普通に5人くらい産んでたじゃないか。避妊が広まったのは戦後の話で、少なく生んで大切に育てるなんて思想が出てきたのも戦後だ。アフリカ系やインド・パキスタンなんかは、いまでも4人から6人は当たり前。文明が進めば進むほど、乳児死亡率が低下して、個人生活が大切になって、少子化が進む。これは社会学的な事実だ。そしてその社会学的事実が、じつはすっぽりと自然学的事実に包まれてるんじゃないか」

「やがてついにゼロ人に収斂していく、と」

「そう。途上国だって文明が行きわたれば、そのうち同じ運命をたどるぞ」

乱暴な仮説、と思ったが、たしかに当たっているような気がする。なんだかため息が出てきそうだ。後ろのカップルは相変わらずいちゃいちゃやっているが、彼らは結婚するのだろうか。子どもを作るのだろうか。

実際、私の周りを見回しても、中高年独身者や、結婚していても子どもが一人という人ばかりだ。

もっとも私個人のちっぽけな人生にとって、人類全体の運命がどうなろうと、知ったことではないとも言えるのだが。

そう考えて、ふと自分が曲がりなりにも「婚活中」であることに気づき、さっきの女性からのメッセージのことが脳裏をかすめた。心がざわめかなかったと言えば嘘になる。

しかしいまの自分には「生産性」がないと言えば、その通りなのだ。その意味では同性愛者と同じだ。メッセージを送ってきた相手にはもしかして「生産性」がある? と考えて、まだ写真も年齢も確かめていないことに思い至った。ひょっとして若い? とあらぬ期待を抱いたが、いやいや、五十代半ばの俺なんぞにと、あわてて打ち消した。

 

「そういえば三島は、結婚して子ども作りながら、同性愛者だったよな。それについては何か言ってなかったか」

「いい勘してるな。言ってたよ。男の子が、先生の作品には同性愛を扱ったものがあるが、自分たちは同性愛には生理的な嫌悪感を持つんだけど、そのへんはどうなんでしょうかと聞くと、三島は、公認された愛なんてのは、スーパーマーケットで売ってる愛みたいなもんで、文学はそういうところに主題を求めない。許されない愛、みんなからつまはじきされるような愛のうちにこそ、純粋性を求めようとするのが文学なんだみたいなことを言ってた。自分が同性愛者だとはさすがに言わなかったけどな。でもそのあと面白いことを言ってた。これまでは同性愛もそういう主題としてふさわしいと思ってたんだけど、最近じゃ、かなり社会に認められてきちゃってるから、同性愛者にとってはいいことだけど、文学としてはおもしろくなくなってきたってな」

「へえ。それは先見の明があるね。今の時代がまさしくそうじゃないか。杉山未久がLGBTの公認に危機意識を抱いているのも、裏を返せば、アブノーマルと見なされていた性的指向が、それだけ表通りをまかり通れるようになった証拠だよな。サヨクに政治的に利用されるのは別問題として」

「そうも言えるな。俺の教え子に、自分もゲイで、LGBTを研究してる若いのがいるんだ。彼と話したことがあってね。いまの60代、70代の人たちは、知られたくないから偽装結婚して無理をしてでも子どもを作ったそうだけど、40代以下だとそれはないそうだ」

「ああ、三島はその口かもしれないな」

「うん、たぶん。それと、渋谷区で同性カップルとしての入籍を公認して以降、すごくセンセーショナルに騒がれたろう。だけど、実際には、法的な婚姻を望む同性カップルなんて、そんなに多くないそうだよ」

「騒ぎすぎだな。娘と話した時も、親友から告白されたらどう思うって聞いたら、『親友だったらそんなのとっくにわかり合ってるよ』って怒られたっけ」

「うん。そのLGBT研究者も、知り合いに『なんであの人たちは権利権利と騒ぐのかね、黙っていればいいじゃん』と言われたそうだ。騒いでいるのはごく一部らしいな。ただ、自分の親に子ども――つまり孫だな――を見せられないことにはけっこう悩むと言ってた」

「なるほどね」

 

亜弥とこの前会った時に、山名さんの人生相談の本に書いてあったこと、その時考えたことを思い出した。本人の悩みよりも知った時の親の悩み、親に言えない本人の悩み。つまりこれもエロスの悩みであって、政治的な課題になるような問題じゃない。世代が変わればしだいに解決していくだろう。

「それともう一つ、世間は誤解してるけど、トランスジェンダーと性同一性障害とは、厳密には同じじゃなくて、トランスのなかにはゲイもバイもレズもいるんだそうだ。性同一性障害のほうは、はっきり医療の対象になる人を指すので、こちらは問診からホルモン療法、性別適合手術までのプロセスがちゃんと用意されてるらしい」

「ふーん。ややこしいな。そうすると杉山論文もその誤解を免れていないわけだな。つまり性同一性障害は、トランスの部分集合みたいなものと考えていいのかな。そういう性自認はいつごろ、どういうふうにはっきりしてくるのかね」

「けっこう早くて幼稚園ぐらいから違和感があったりするらしいよ。名前で困ったとか、中学生ぐらいだとプールや更衣室で同性の裸に感じちゃったとか、ともかく小さいころからのエピソードがしっかりあるかどうかが決め手なんだそうだ。こう説明してる俺も、複雑で、いまいちよくわからん。趨勢としては、トランスもだんだん医療の対象としては見なくなる傾向にあるらしい」

「それで思い出したけど、俺はね、昔からこう思ってるんだよ。明確な性同一性障害とか身体的な両性具有とかは別として、人間の性ってもともと過剰なものを抱えてるから、ゲイとかレズとかバイとかは、グラデーションになってて、置かれた状況次第で、誰でも、と言うと大げさかもしれないけど、かなりの部分が、移行できるんじゃないかってね。軍隊とか寄宿舎とか刑務所なんかじゃ、女がいないから、代わりにオカマ掘ったりするだろ」

「それは当たってるな。フロイトの言う『多型倒錯』ってやつだな。特に男はその傾向が強い。三島が言うように、ますます『生産性』と関係なくなって、大地から置き忘れられる」

「だからそういう男女のありようについての共通理解をみんながまず持ってから、ポリコレだのセクハラだのサベツだのの議論に踏み込めばいいって言ってるのさ。でないと、誤解から生じる差別や偏見はかえってなくならないだろう」

「堤、それはでも難しいぞ。集団をカテゴリーで区別するのは、言葉を使う人間の業みたいなものだからな。そこにまず偏見や差別への入り口は用意されてる。LGBTなんて言葉を反権力のための武器に使ってる連中が、かえって不必要な線引きをして、サベツの再生産をしてるって見方もできる」

篠原は、珍しく猫背をぐっと伸ばして向き直り、私を鋭く見つめた。

そのなんとなく厳粛な調子に、思わずたじろいだ。その通りだと思った。

キリスト教文化を強く引きずっている欧米には、反差別運動のためにそういう言葉を編み出さざるを得ない現実性があるのだろう。でも日本にはそういう宗教的な文化風土がないのに、お安くアチラから借りてきて、すぐ便利な道具にしてしまう。

役所なんかは特に、「サベツじゃー」の一言を葵の印籠のように突きつけられると、たちまち言うことを聞く。こういう空気、何とかならないのかな、と苦々しく思った。本当はこんな問題、一部の人が言挙げしているだけで、大多数の人の生活にとっては、関係ないはずだ。

 

そういえば、以前、所用で税務署に行ったとき、裏に20台以上止まれる駐車場があって、半分ほど埋まっている。そこに車を入れようとしたら、工事現場用のフェンスでふさいであった。係員が出てきて、「ここは身障者用です」と言うのである。なるほど「身障者用」と書かれた小さな札がわざわざ掛けてあった。

私は、「あの駐車している車の主はみんな身障者の方なんですか」と聞いた。すると黙ってフェンスを取り外してくれた。一応断らなくてはならないお役目らしい。ご苦労なことだと思った。

建物の表側には数台しか止める場所がなく、しかもちょうど申告時期だったので、多くの訪問者の行列ができていて、その整理のために駐車できないのである。

「あなたに言ってもしょうがないけど、これってバカらしいと思いませんか?」と柔らかく聞いてみた。係員は面倒くさそうに、「そういうことは上のほうの人に言ってください」と、予想通りの答えが返ってきた。

そうですね、と答えてその場は済んだが、考えてみると、「上のほうの人」の愚かな判断のために、せっかくの広い駐車場を、ほとんどいるはずのない「身障者」専用にしている。ほんの一部用意しておけばいいじゃないか。

しかも「ここはすべて身障者用」と命じられた係員の人は、いちいち断ってはフェンスを開けたり閉めたりしなくてはならない。可哀相だと思った。

「社会的弱者にウチはこんなに配慮してます」という表看板のために、係員の人は毎日、ドストエフスキーが『死の家の記録』で書いていたあの無意味な繰り返しという刑罰、あっちの水槽からこっちの水槽に水を移し替えたら、直ちにその反対をやらされるという空しい仕事を続けさせられている。シジフォスと同じように。

この人のほうがよっぽど弱者だ、と私は思った。

堤 佑介Ⅷの5

 

「そう言えばさ」と私のほうから話題を切り出した。

「ひと月前に『海風45』が休刊したろ。あの最終号、読んだ?」

「いやあ、小沢宋次郎のだろ。あれ、読みたかったんだが買いそびれた」

「その前の杉山未久のは?」

「あれは読んだ。『生産性』についての炎上はバカバカしいな。杉山論文はあの人の猪突猛進ぶりが出てて誤解を招きやすいところがあったけど、主旨はまともだと思ったよ」

「俺は後でネットで読んだんだけど、同じ感想だな。サヨクがLGBTを政治課題に担ぎ出してる欺瞞をよく突いてる」

「だからこそその後の成り行きを注視してたんだけど、まさか突然休刊するとは思わなかったな」

「俺はあくる日、慌てて買ったよ。あとでAladdinで見たら3000円の値がついてた」

「へえ……それでどうだった、小沢論文は」

私が意見を述べる番だった。主客逆転の感じだ。

「ちょっとあれはいただけないな。LGBTに対する誤解もあれば偏見もある。要するに性的マイノリティに対する自分の違和感を絶対化して、エラそうに息巻いてるだけだ。痴漢も法的に許されるべきだってのには、思わずのけぞったよ。何よりも教養をひけらかして高みに立った口調が鼻につく。ただ汲むべきところがまったくないわけじゃない。結婚の意義を説いてるところはその通りだし、サヨクの政治利用の欺瞞を突いているところは、杉山論文と共通している」

「なるほど。そうすると、杉山論文の援護射撃っていう編集企画に乗って、かえって不毛な対立を煽ってるって構図かな」

「そんなところだな。それでLGBT問題については、こういう政治的な左右対立の議論に持ってく前に、その根っこのところにもっと考えるべきことがあるんじゃないかなって思ったんだよ」

「というと?」

「この前、『女は腫物』って話が出たよな。あの時、男の委縮にはポリコレの風潮がすごく作用しちゃいないかって言ったろ。それで、そういうポリコレブームに対する違和感をまともな議論に持ってこうとしても、すぐジンケンだ、サベツだってやられる。そういう土俵の中で議論しようとすると、これこれの言動は、人権違反か、サベツに相当するかどうか、っていうふうにしか論じられないだろう。それが、なんていうか、肝心のことを言わせなくしていると思うんだよ」

「肝心のこととは?」

「男女の性差を議論の中で認めるのか認めないのかって問題さ。男と女は違うだろう?」

「まるっきり違う生き物だな」

「欲望のあり方も男と女じゃずいぶん違うよな」

「うん。堤は、その違いの一番重要なのはなんだと思う?」

そう聞かれると、なかなかスパッと言えない感じがするが、ここはほかならぬ篠原と飲んでる席だ。エイヤーで言ってしまった方がいい。

「男はまず女の身体に欲情して、女はまず男の心に欲情する。この違いをバカにしちゃいけない」

「ほう、堤にしちゃずいぶんざっくりした言い方だな。そんなふうに決めつけられるか」

「概しての話だよ。社会学だって平均を対象とするんだろ」

「おっと、これは一本取られた」

「別の言い方をしてもいい。男は女のセクシーな魅力に取りつかれるけど、女はその視線を受けとめて、自分をできるだけセクシーに仕立て上げようとする。お化粧や身だしなみやファッションに対する関心の度合いは男の比じゃないだろ。その非対称な関係のフォームって、今も昔も変わらないんじゃないか」

「ふむふむ」

「いや、なんでこんなことを言うのかっていうと、俺はガキの頃から不思議だったんだよ。若い女の顔や身体はもともと美しいか、そうでなけりゃ美しく装ってるから、男が目で見てそれに魅力を感じるのは当然だと思える。だけど逆に、ふつうの男の身体なんて、別にちっとも美しくないだろ。なのに女は男のどこに魅力を感じてるのかなって」

 

サラリーマン四人組が入ってきた。店内は狭いので、彼らが座ると、もうそんなに空きはない。篠原は、そちらをちらりと見てから、私のいつもの不思議がりをおもしろそうに受け止めた。

「筋トレで鍛えた身体なんかは?」

顔に笑みが浮かんでいた。学生に質問するように私を試すつもりらしい。こちらは少し身構えた。

「……あれは男のナルシシズムだと思うよ。まあ多少はあるかもしれないけど、男が自分の筋肉みせつけたって、たいていの女は、そんなところにあんまり性的な魅力を感じないと思う」

「よし、今度、堤説が正しいかどうか、女子学生にアンケート取ってみよう」

「いや、大いにやってみてくれ。俺はウチのスタッフも含めて何人かの女性に聞いたことがあるんだ。そしたら、キモイわねっていう女のほうが多かったぞ。すてき!なんて目を潤ませる女はいなかった」

「堤先生のフィールドワークはサンプル数が足りない気がする」

「ハハ、茶化すなよ。データはそっちでそろえてくれ。でもだいたい経験的に言ってそうだろ。つまりこれは、女が男の性的魅力を別のところに見出しているんじゃないかって説の状況証拠のひとつだ。その別のところってのは、心のあり方、自分にどう向き合ってくれるかっていう態度だって言いたいわけさ」

「しかし、芸能人やアスリートのイケメンには女どもが殺到するじゃないか。桐生結貴とか」

「あれはほんとにきれいな男だな。男っていうより歌舞伎で言えば女形みたいな……あれは普通の男じゃないよ。それに一般的にはさ、女どもが殺到するのはスターとファンていう落差を前提としているからだよ。言ってみれば、強いえり好みの気持ちの投影だよ。もちろん街の男でも、ほれぼれするようなイケメンだったら、女心はその顔かたちを見て多少は心を動かすかもしれない。でも、男が美人の女やセクシーな体つきをした女を求めるほどには、女は男のヴィジュアル面を気にしていないと思うよ。ところが異性に対する関心は、男以上にものすごく強い。男とは違った形でな」

「高校のころだったかな、真剣な顔して、女には性欲がないんじゃないかなんていう奴もいたっけな」

「それは間違いだな。ただ入り方が違うんだよ。もちろん、いったん性関係になったら、性欲の激しさでは女も男も同じさ。いや、女のほうが激しいな。どうみても女のほうが快感が強いようだからな」

「それは昔からよく言われてるな。ギリシャ神話にも出てくる。女のほうが七倍いいとか」

「うん。だけど、その気になるかならないかのところで、すごく違いが現れるのさ。男はいい女だと思ったら後先見ずにやりたくてしょうがなくなるだろ。だけど、女は男が自分の身体目当てだとかぎつけると、ほとんど必ず拒否したり逃げたりする。『わたしの心をわかってくれるのじゃなきゃいや』ってな。つまり女は初めから『自分にとっての男』を無意識に選んでるんだ」

「なるほど。篠原社会学教授もあんまり真面目に考えたことがなかった」

「売春を考えると一番わかりやすいよ。あれは例外を除いて、必ず男が金を出して買う形を取るだろ。つまりお願いしてやらせてもらうわけだな」

「女のほうはさせてあげるわけだ」

「そう。強姦するんでもない限り、許諾権はいつも女が握ってる」

「それは、結局、女が子どもをはらんで子孫を残すっていう生物学的な負荷を背負っているから、慎重になるように宿命づけられているんじゃないか。進化心理学的に言えば……」

私は近頃はやりらしいこの学問のことをよく知らなかった。それに、動物行動学などを持ち出して、生物学的な答えに還元することで喜んでしまう多くの人たちの興味関心のあり方にあまり共感できなかった。

私が話したいのは、その種のことではない。だから悪いと思ったが、篠原の講釈をあえてさえぎった。

「そうかもしれない。人間も生物の一種だから、そういう自然性から逃れられないのかもしれない。でもさしあたり、俺はその理由については関心がないんだ。俺が気になるのは、いまのポリコレ、セクハラ、サベツ議論が、そういう大きな男女差の問題を見ないようにして成り立っているってことなんだよ。だから話が、『平等人格』っていう作られた枠組みの中でしか語られない。そうじゃなくて、その大きな違いをまず男女みんなで確認しあってから、ポリコレやセクハラについて議論した方がいいと思うんだ」

「しかし近代社会の枠組みから『平等人格』のたてまえを外すわけにはいかんだろう」

「もちろん法的な意味ではな。しかし、文化圏が違えば、そんな近代的なたてまえは吹っ飛ぶじゃないか。イスラム圏じゃ四人まで奥さんが持てるし、いまだに女はブルカをかぶってるところが多い」

「うーん、そりゃ、社会学でもよく問題にされるところだ。自分たちの文化圏の法的なたてまえが普遍的で、人間のすべてを覆っていると錯覚すると、とんだしっぺ返しを食らう。そのいい例が移民・難民を大量に受け入れたドイツのケルンで3年前の大晦日に起きたムスリムの若い男性による500件もの強姦事件だ」

「ありゃひどかったな。ヨーロッパは失敗したな」

「ロンドンじゃ移民が45%だってさ。それもほとんどが若い男で、多くは仕事にあぶれてる。いま手元にデータがないけど、犯罪もすごく増えてるらしい」

「それも言ってみればポリコレの失敗だろ。要するに、俺が言いたいのは、自由平等の原理だけじゃ割り切れない人間の領域がこの世にはあるっていう了解をみんなが持ってほしいってことなんだ」

「その最も重要なものがセックスの領域である、と」

「そう。そういう幅広いものの見方が、ポリコレブームでだんだん狭められてしまっている。でもそんなのがおかしいってことは、我々の足元をよく見れば、誰でもわかることだろ。男と女の付き合い方、ふるまい方の基本を見ればな。男と女はもともと平等な人格の対立関係じゃないだろ。」

私は内緒話のように声を落として、

「うしろのカップルがいちゃいちゃやってるけど、これが男女の基本的振舞い。ここに平等・不平等なんて概念が入り込む余地はない。関係がもつれた時だってそうだよ。それは葛藤というんで、何も権力対立じゃない」

「そう言えばな、だいぶ前の話だけど、こんなことがあった。ストーカーって言葉が流行り出した頃のこと。ストーカー法が成立する以前だったな。ある小人数の会合に呼ばれて弱者とか、サベツについて話したんだ。話が終わってから、質疑ということになった。とても砕けた会合でね。しばらくしたら、ひとりの若者が言い出した。『俺、ストーカーって言葉、嫌いなんです。俺、いまある女に狂ってるんですよ。狂って何が悪いんだって思うんです』 みんな一瞬、しんとした。俺は内心、こいつ、なかなかいいこと言うなって感心したんだ。だけど、『そうだ、そうだ、どんどん行け』って言うわけにもいかなくてな。しょうがないから、『うん。昔はそういうの、痴情のもつれと言ったんですね。こっちのほうがいい言葉だと思わない? せいぜい犯罪にならないレベルでがんばってください』って答えておいたんだ。彼がそれで納得したかどうか、よくわからなかったけどな」

「それはいい話だな。戦前の阿部定は、痴情の極致で、一つの理想だよな。吉蔵ももちろん切られて本望だったと思うよ」

「しかし堤。さっき言おうとしてたことはわかるけど、それ、公式の場で不用意に言うと、きっと誤解されるぞ」

「おや、こないだはポリコレがはびこると、晩婚化がますます進むことについて論文書くって言ってなかったっけ。今どきサヨクなんぞを恐れていて、何ができるって息巻いてたじゃないか」

「ヘヘ……あんときは酔った勢いでな。でも酔いが醒めたら、誤解受けないように書くのはなかなか難しいってことがわかった。もう少し慎重に論理を整えないといかん」

「それ、篠原先生、ぜひやってください。きちんと書けば、わかってくれる読者は必ずいる。いるどころか、多数派であることは間違いないと思う。俺は別に公式の場でこんなこと言うわけじゃないからな。相手が篠原だから無責任に言ってるんだ」

 

喉が渇いてきたので、水を頼んだ。われながら議論に熱中している自分がおかしかった。

少し間を置いてから、私は懲りずに始めた。

「くどいようだけど、俺は男と女が平等じゃないとは一言も言ってないよ。先進国に住んでる限り、法的に平等なことは当然だ。ただ男と女の違いに対する感受性を大切にしようと言ってるだけだ。巷の人は、もの言わないけど、こんなことは本能的にわかってると思う。男と女は違うから面白い。違うからかみ合う」

不意に篠原が歌うような調子で高い声を出した。

「なが身はいかにか成れると問いたまえば、あが身は成り成りて成り合わざるところひとところありと答えたまいき。ここにいざなぎのりたまわく、あが身は、成り成りて成り余れるところひとところあり。」

さすがよく暗記してるな、と思ったが、少なくともこいつにはわかってもらえたようなのでほっと一息ついた。ただ、朗誦しているうえに、篠原はもともと声がでかい。後ろのカップルがけげんそうにこちらを見ているのが、背中でわかった。

サラリーマンたちの会話の声が盛り上がってきたので、篠原はそれに対抗するようにだんだん調子を上げていく。

「かれ、このあが身の成り余れるところをもちて、なが身の成り合わざるところにさしふさぎて、国を生み成さんとおもう。生むこといかに……」

「わかった、わかった、もういいよ」

アキちゃんとマスターが笑いをこらえている。

「つつみのみこと、あなにやしえおとこを」

私はつい吹き出してしまった。

「やめろ、やめろって」

照れ隠しから、私は「これ、早く食えよ。うまいぞ」と言いながら、刺身の皿を篠原のほうに押しやった。

堤 佑介Ⅷの4

 

私も出羽菊のお代わりを頼むことにした。何度も篠原の言ったことを反芻した。

「……なあるほど。マクロ経済のからくりが少し読めてきたぞ」

アキちゃんは、慌てて一升瓶とグラスを取りに行った。

私自身どこまで理解したかおぼつかなかったが、マスターもアキちゃんも、とてもすんなり理解したとは思えない。そりゃあそうだろう。彼らはそれでもいっとき、篠原先生のよき生徒だった。

戻ってきたアキちゃんはグラスに酒を注ぎながら、言った。

「私たち、騙されてたんですね。でもどうすればいいんでしょう」

私はブランデーグラスに注がれた出羽菊を、静かにゆすりながら、篠原の言葉を反芻した。そして言った。

「どうやらそのようだね。どうすればいいか。それはゆっくり考えよう。」

アキちゃんは「そうですね」と、納得したようなしないような顔をして、その場を離れた。

私には、まだ聞きたいことがあった。

わかってみると、そんなに難しいこととは思えなかったが、それにしても、政治家やマスコミは、みんな騙されてることになるのか。

「するとだな、財務省はどうしてそんなデマを振りまいて国民を総なめに騙してきたんだ。官僚にそんな悪意があると思えないんだが」

「それはいったん決めたことは、口が腐っても間違ってましたとは言えない。それが官僚の意地ってやつだ。若い連中も上に逆らったら出世の道が閉ざされちまう。だから自分たちだけのドグマに忠実になってるからとしか言えないな。あれは『緊縮真理教』ともいうべき一種の狂信団体だよ。各省や政治家へのその影響力は猛烈だ。それも邪教中の邪教だ。彼らは歳入と歳出の数字を机上で均衡させることしか考えてなくて、国民生活のことなんかこれっぽっちも考えてない。そうやって膨大な国民をこれまで不幸に陥れてきたんだ。だいたい税収だけで歳出を賄おうって発想が根本的に間違ってる」

篠原は、千代鶴を荒っぽくあおった。

私は目の前に出てきた、特大オムレツにゆっくり箸をつけながら、慎重に聞きただした。

「篠原の考えに従うと、デフレ脱却のためには、政府が税収に依存しないで、もっともっと国債を発行して、積極的に財政拡大をすべきだ、ということになるかな」

篠原は間髪を入れずに答えた。

「デフレの時には当然だよ。特に未整備のままになってる地方のインフラ、全国の劣化したインフラにすぐにでも投資しなくちゃいけない。しかもこれは建設国債で賄って固定資産として残るんだから、本来、例の『借金』に含めるべきじゃないんだ。何しろ日本は災害大国なんだからな。インフラが地方に整備されれば、地方経済だって活気づくし、こんなに東京一極集中しなくて済むはずだ。ほかにも、科学技術の遅れとか、教育費や国防費の不足とか、年金給付年齢のかさ上げとか、みんなあの『緊縮真理教』から出てる。これさえなけりゃ日本はとっくにデフレ脱却して、いまごろGDP1000兆円ぐらい軽く超えてるよ。」

 

若いカップルが入ってきた。アキちゃんが新しいお客さんのほうに走り、マスターは「いらっしゃい!」と威勢の良い声。しかし篠原は見向きもしない。アベックは、私たちのカウンターのちょうどうしろのテーブルについた。

私は彼らのことを少し気にしながら、また声を落として聞いた。

「それって、アガノミクスでやるはずじゃなかったっけ」

「やるはずだった。国土強靭化とかいってな。でも阿川政権は、財務省に跪いちゃって、何にもできなかったんだ。金融緩和だけやって、財政出動しないから、金がブタ積みで、企業も怖いから投資に手が出せない。野党も、アガノミクスは失敗だったなんて与党攻撃してきたけど、そもそもアガノミクスは、その一番大事なところが行われてないんだよ」

「おい、声を少し小さく。ところで、公共投資のために国債は、どんな情勢でも、いくら発行してもかまわないのか」

「いくらでもってことはない。インフレが過熱しない程度まではな。それこそ、金利を睨みながら日銀と政府と二人三脚でコントロールしてきゃいいわけだ。これは通貨発行でも同じ。国債も通貨も、必要に応じて発行すればいい。大々的に公共事業もできるし、その経済効果で国内の需要も高まるだろう。そうすればさ、GDPが増えるから、税収だって増えるんだよ。財務省が必死で財政収支の帳尻を合わせようとしていることなんか、バカみたいなもんで、経済が上向けば、ちゃんと収支も均衡するのさ。均衡させる必要なんかもともとないんだけどな。そうそう、公共事業っていえばさ、ピークが20年前だったんだけど、いまその何%くらいか知ってる?」

「7割くらいか」

「5割ちょっとだよ。こんなんで、大災害が続いたら、日本はいっぺんで終わりさ。今年もあっちこっちで災害が頻発したけど、あのクラスのが首都圏を襲ったら、地方には助けようにも助ける力がない。」

「それでおまけに消費増税か」

「そう。阿川政権はとんでもないことやってるんだよ。消費増税は国民生活を苦しめるだけじゃない。グローバル企業の法人税を減税する肩代わりにも使われてるんだ。これやったら日本経済はもうダメだ」

「要するにグローバルなほうに資本が全部向いちゃってるわけだな」

「そう。これはやばいよ。日本のGDPは消費が6割だから、資本を外に逃がして内需が落ち込んでいくと致命的だ」

「もう一つ聞きたいんだけど、もし国家予算が国債や財務省の短期予算で賄えるなら、わざわざ国民から税を取り立てる必要ってなくなるんじゃないか」

「いわゆる無税国家論な。理念としては可能だけど、現実にそれをやると、インフレの過熱を抑えるのが難しくなる。それと富裕層からたくさん取って社会保障などで貧困層に回すという、いわゆる所得の再分配機能が税にはあるからな。だから本来、消費税みたいな、貧乏人に負担がかかる税は、デフレ期には絶対やっちゃいけないんだ」

「なるほど。インフレ抑制のためと、格差是正のために税はあるのか」

「そう。財務省はこれまで、デフレの時にインフレ対策をやるという大バカなことをやってきた。だから、インフレが過熱して来たら、これまで取ってきた得意の緊縮路線をやればいいのさ。」

 

後ろのアベックが海外旅行を話題にしていた。

「バリ、すてき! 行ってみたいわ」

「マレーシアもけっこういいらしいね」

「ね、ふたりの休暇調整して、行こ、行こ」

若い人はいいな、と思った。それで思いついた。

「政府はIRとか、観光客の増加で稼ぐつもりらしいけど、あれはどうなのかね」

すかさず、篠原が答える。

「国内生産や国内労働者を大切にしないで、インバウンドで埋め合わせようなんて考えたらおしまいだよ。それこそギリシャみたいになっちゃう」

この前、岡田が言っていたことと一致する。

「だいち、インバウンドなんて見かけは目立つけど、何千万人来ようが、落としてく金なんて、GDPんなかじゃほんの微々たるもんだ。為替の影響も受けるし、輸入がちょっと増えただけで目減りしちゃう。それに、この前の話じゃないけど、これほとんどが中国人や韓国人で、残りは台湾人と香港人。なかにはビジネス目的もたくさんいるんだ。しかも観光地が荒らされて問題になってる。京都や金沢なんかたいへんみたいじゃないか」

「そうだな。さっきの俺の話とも関係あるな」

「関係ある、関係ある。大方の日本人はそういうことを見ないようにしてる。政治家もマスコミもな」

「こういうこと考えてるのって、ごく少数派じゃないか」

「そうさ。だから困るのさ」

 

篠原がトイレに立った。

後ろのカップルは、マレーシア、シンガポール、ジャカルタ、バリと周遊する計画をまとめようとしていた。楽しさが盛り上がっていた。

日本が内憂外患、さまざまな危機にさらされているのに、私たちはみな、こんなふうにいつもの私生活の安定がそのまま続くと、どこかで信じている。後ろのカップルだけが浮かれているわけじゃない。

いくら南海トラフ地震や首都直下地震の可能性が高まっていると知識情報で吹き込まれても、建設中のビルの作業をやめるわけにはいかない。明日のことはわからないからといって、明日がこのまま平和に訪れるという期待と確信を前提にしなくては、計画された旅行も、毎日の仕事も、何も進まないのだ。

もちろん能天気な人たちが大半かもしれないが、現に自分が戦乱の真っただ中にさらされているのでもなければ、危機意識が切実なリアリティを持つことなんかないんじゃないか。

今までも言ってきたけれど、私たちはいつもこの二重になった意識のもとで暮らしている。大きな「観念」と小さな「実存」とのギャップを常に抱え込みながら。

これは当たり前のことなのだが、私はいまさらのように、この二重意識の奇妙さに驚き、そして、生に付きまとうこの矛盾を切なく思った。「観念」も大事だが、毎日の「実存」から逃れるわけにもいかない。

スマホに手が伸びた。誰もが一時の不安からそうするように。そして篠原のご説を聞かされた後でも、いや、後だから余計だろうか、自分の「実存」に立ち戻る気持ちになった。

もう一度、出羽菊をお代わりしながら、自然とFureaiのアプリに指が伸びた。

ある女性からメッセージが入っていた。10/24 20:23とあるから、いま入ったばかりだ。へえ、と思った。読みかけたが、篠原が戻ってきたので、帰宅してからゆっくり読むことにして、急いでスマホをしまった。

「おや、またお代わりしたのか。じゃ、俺も」

そう言って篠原は、今度は加賀鷹を注文した。

堤 佑介Ⅷの3

 

「しかし不思議なんだが、デフレ脱却できてないのに、消費税を増税しなくちゃならないのはなぜかね。やっぱり国の借金で財政破綻しちゃまずいからか」

「え!? 堤までそう思ってるのか。こりゃ財務省やマスコミの洗脳が隅々まで効いてるな。国の借金1000兆円で財政破綻ってのは、ありゃ、全部、財務省が流したデマだよ」

「デマ?」

虚を突かれて、思わず私は聞き返した。

「そう。三十年以上も前から政治家やマスコミを巻き込んで流してるデマだ。現に破綻なんかしてないじゃないか。国債金利はゼロだし」

「しかし財政が苦しい中で、これから借金を続けていけば……」

「これだから洗脳効果の恐ろしさには、今さらながらあきれる。だいたい国の借金て言葉がよくないよ。まるで俺たちが借金してるみたいだ。現に国民1人当たり800万円とか言って脅しつけてるからな。」

「じゃ、なんて言えばいいんだ」

私は自分も洗脳されていると言われて、ちょっとむっとしたが、篠原の言うことが本当なら、これはぜひ聞いておかなくてはならない。

マスターもアキちゃんも、口を開けて黙ってしまった。

「あれは、政府が日銀当座預金を通して銀行なんかから借りてるだけだから、『政府の負債』というべきなんだ」

「ふーん。しかしいつか返さなきゃまずいことも確かだろ」

「返す必要なし。破綻の可能性もなし」

「なんだって? どうして」

私は自分が常識だと思っていたことが、そのまま裏返しにされたような気がして、びっくりしてしまった。

 

篠原は、まず咳ばらいを一つしてから、おもむろに語り始めた。

「まず国債は100%円建て、つまり自国通貨建てなんだよ。政府の負債がいくら積み上がったって、政府は通貨発行権を持ってるよね。だから負債の分だけ円を刷りゃあいいんだから、原則的には返せないってことはありえない。だから財政破綻なんて起こりようがないんだよ。ほんとは刷る必要もないんだけど、それはまあ、あとの話として……」

「ちょっと待って。よく言われてるのは、ギリシャが財政破綻したように、日本も下手したらそうなるって話だよな」

「ギリシャは通貨発行権がなくて、ユーロで借金してるから、自国の財政政策に失敗したらEUにユーロで返さなくちゃならない。EUは金貸す代わりに、ギリシャに緊縮財政を強要した。だからギリシャは悪循環にハマって、ますます苦しくなったんだ。自国通貨建てかそうじゃないかは決定的なのに、連中は、ギリシャの例を引いて、国債の返済が滞るとギリシャみたいに財政破綻するぞ、とインチキなレトリックを使ってきたわけだ。みんな一国の財政を給料の決まってる家計と同じように考えるから、この罠にまんまと引っかかる」

「ああ、なるほど。その違いは分かった。日本政府はその点、外国から借金してるわけじゃないからEU各国と違ってフリーなんだってことだな。だけど、借りたものは返すのが常識だろう」

「いったい誰に返すのかね。銀行が返済を政府に迫ったとでもいうのか。これもあとで話すけど、銀行は政府が国債を発行してくれなかったら、かえって困るんだよ。しかも政府は公共的な資金が必要な時には、いつだって借金し続けてきたんだぜ。でも現にこれまで財政破綻したことなんか一度もなかったじゃないか。経済評論家の三石貴之が言ってたけど、明治時代初期から今まで、政府の負債は何と4000万倍近いそうだ。だけど全然破綻なんかしてない」

「うーん。そういえばそうだな。だけど、これもよく言われてるよな。日本は民間に膨大な金融資産があるから、それがあるうちは大丈夫だけど、政府の借金がそれに近づいていくと危ないって」

篠原は「そこだ」と言いながら、グラスに残った千代鶴をぐっと飲みほし、お代わりを頼んだ。アキちゃんがあわてて厨房に走る。ブランデーグラスに注がれた千代鶴は、なんだか少しいつもより多いような気がした。

「まさにそこが大きな間違い。みんな、民間が銀行にお金をたくさん預けてるから、政府は借金が増えても財政破綻を免れてると思ってるけど、話は逆なんだ」

「逆?」

「逆。銀行が手持ちの金融資産を元手に国債を買ってるんじゃなくて、彼らは国債を買うことで預金を作り出しているんだ。国債を購入しなかったら銀行は預金取引にも対応できない。これは経済理論家の中山武志が『国富と戦争』っていう大著の中でわかりやすく説いてる。

「ちょっと待ってくれ。もう少しゆっくり。通貨を発行するのは日銀じゃないのか」

「紙幣はね。しかし、日銀はじつは政府の子会社だ。行政府と合わせて統合政府と呼ぶ経済学者もいる。子会社だから連結決算で、政府が借りた分をチャラにできるんだ。現にこれまで日銀は大量の量的緩和をやってきたろ。市場の国債の買い取りだな。あれでもう、いまの時点で300兆円ぐらいは政府の負債は事実上減ってる。つまり、日銀が買い取りのために発行した通貨で、ちゃんと返済ができてる」

「じゃあ、政府は自分から返す必要は全くないわけか」

「そう。政府は負債を増やしてって全然かまわないんだよ。だけどいまの日本政府みたいに、どうしても返したいのに返せないって悩むんだったら、無利子無期限で次々に借り換えて行けばいい。でも悩む必要なんか何もないのさ。いま話したように、政府が国債を発行することで、つまり借金をすることで、かえって民間の預金が生まれるんだからね。これを経済学の用語で、信用創造といってる。信用創造は、べつに政府と民間との間でだけ成り立ってるわけじゃなくて、市中銀行と民間との間でも成り立ってるんだ」

「というと? たとえば企業が銀行から金借りる時とか」

「そう。みんな、銀行が企業や個人に金貸すときは、銀行に預金者からかき集めたそれだけの金がプールされてると思ってるだろ。財布の中の現金を貸すみたいに」

「え、そうじゃないの?」

「そうじゃないんだよ。借りたい企業がやってきて1000万円貸してくれって言うだろ。そしたら、極端な話、銀行は自分のところに一銭もなくても、通帳に1000万円貸したって書き込む。それだけで貸し借りが成立するんだ。だから信用の『創造』というわけさ」

狐につままれたような気分の私を見て、篠原はにんまり笑って、千代鶴をゆっくり口に含んだ。

「じつは、このリクツは国債の返済の場合でも同じで、政府は別に借金ぶんの通貨を発行して返済に充てるんじゃなくて、日銀当座預金の帳簿に、いくらいくら返済した、と記帳するだけでいいのさ。実際、毎年そうやってる。その時に何十兆円なんていう莫大な現ナマを動かすはずがないじゃないか」

「でも通貨発行権があるからこそ、返済ができるんだろ?」

「もちろんそうさ。だけど通貨発行権というのは、借りることが保証されてる担保みたいなもので、何も現ナマをいつでも出せますって話じゃない。その担保を活用して記帳することが、そもそも通貨が動いたことになるんだ」

うーむ。すぐにはピンと来ない話だ。何か物事の考え方を根本から変えないといけないような気がする。

「腑に落ちない顔をしてるな、堤。無理もない。それは、貨幣流通というのが、何か金や銀みたいな現物が動くことだという観念に囚われてるからだ。これは昔からずっと続いてきた囚われなんだ。紙幣が流通して、金銀が本位貨幣じゃなくなって、兌換が停止されたいまでも、まだみんなこの観念に囚われてる」

「……それは、つまり、こう言ったらいいのかな。貨幣流通は、モノが流通してるんじゃなくて、人と人との信用関係の動きを表してるだけだ、と」

「百点。そこまでわかってくれると話がしやすい。堤が、だれかの振り出した債権を持ってるってことは、その誰かをその額面の分だけ信用したってことだ。それ以外の意味はない。これを政府と民間の関係に適用してみよう。だれかの債務は必ず他のだれかの債権だよな。言い換えると、誰かの赤字は、他の誰かの黒字。だから政府が赤字国債を市中に振り出したってことは、そのぶん民間が黒字になったってことだ。つまり政府が国債を発行すれば、まずそれが民間の預金になる。企業がそれを使って生産活動に使われれば、それだけ民間経済は潤うことになるんだ。企業はその刺激を受けて、今度は自発的に設備投資なんかに乗り出すことになる。これを乗数効果っていう。それ以外にデフレから脱却する道はない」

「しかし国債は預金や現金とは違うだろう」

「いや、それは取引の形式が違うだけさ。そのからくりを説明してるとややこしくなるからやめるけど、国債も現金紙幣も預金も、その本質が借用証書だって点では同じだよ」

「現金紙幣が借用証書?」

「そう。あれは日銀が国民から借りてる借用証書なんだよ。現金は、モノやサービスとすぐに交換できるから、ピンと来ないかもしれない。でもその借用証書の値打ちを俺たち日本人はみんなが信用してるだろ。だからこそ、誰かが生産したモノやサービスと交換できる。つまり人から人へと譲渡することができるわけだ。でもいったん日本から出たら、ただの紙屑だよな。じつは、130年も前に福沢諭吉が同じことを言ってるんだよ。俺一枚は最高額の借用証書だぞーって」

「へえ……そうなのか」

「また、こんな勘違いもある。政府はまず税金を徴収して、それを使って政府支出に充てる、とみんな考えてるけど、実際にはそうじゃなくて、毎年、まずは政府短期証券を日銀に発行して、日銀当座預金を調達する。それを政府小切手の形で支出するんだ。税金を徴収するのは、その後なんだよ。つまりは、別に政府は税収がなくても普通に支出できるのさ。だから、社会保障の支出が足りないし、これまでの国債も金利含めて返さなくちゃならないから、みんな、増税を我慢してくれーって言うのは、全然嘘っぱちなんだよ。国の借金、つまり政府債務ってのは、じつはこれまでの財政収支の残高が積み重なったものに過ぎない。だから4000万倍になったって、別に政府は破綻なんか一度もしたことがないわけだ」

私は滔々と語られる初めて聞く話に、半ば呆然としながら、ゆっくりとその意味をかみしめようと思った。にわかには消化できない話だ。

ともかくこの話は、家に帰ってから、もう一度頭を整理して、ぜひ書き留めておかなくてはならない。

堤 佑介Ⅷの2

 

そして今日は休日。篠原との約束の日だった。

午前中は洗濯、昼飯は牛乳とベーコンで、スパゲッティ・カルボナーラを作った。冷蔵庫がさみしくなっていたので、午後は買い出し。

篠原と会うまでまだ時間があった。フルニエの弾くドヴォルザークのチェロ協奏曲を聞き、ちょっとばかり感傷に浸った。チェロはいつも女性に呼びかけている――そんな気がしたのも、乾いた日々を送っている私の我田引水か。

「夕凪」へは私のほうが早かった。スマホに連絡メールが入った。20分ほど遅れるという。だいぶ忙しいらしい。

先にビールとつまみを頼んで一人でやっていた。休日にこの店に来たことはなかったが、客は他にはいない。

やがて篠原が猫背を丸めて入ってきた。なんだかどことなくじじむさくなり、髪の毛も少し薄くなったような気がする。早くも冬物のジャケットを着込んでいるせいだろうか。

「やあ、たいへんそうだな」

「悪い、悪い。さっきまで少子化問題対策懇談会ってやつに出ててさ。ちょっと議論がもめてた。……あ、すいません、ビール。それと……堤、適当に頼んで」

私はメニューを見ながら、生ガキ、さつま揚げ、特大オムレツ、刺身盛り合わせ、などを頼んだ。

「なに、それは政府の機関?」

「まあ、政府の息のかかった外郭団体だな。こないだ堤が言っていたように、『子ども手当なんかに金つぎ込むより、若い男女の出会い機会を増やす方向に積極的にシフトべきだ』ってぶったら、きょとんとしてる会員もいるんだな。頭の固い連中が多いんで、なぜそれが必要か説明するだけでも骨が折れたよ」

「それで説得されたのかね」

「まあ、理解してはくれたものの、動きゃしないだろうね。それと、感じたのは、女性会員のほうがこういうことには理解が早いな」

「なるほどね。そうかもしれない。女性は愛については男より真剣だからな」

篠原はジョッキを傾けて少し飲んでから手を止めて、カウンターに置き直した。

 

「そういえば、お安くないことをこないだ言ってたな。あれからどうした」

アキちゃんに聞かれたりすると恥ずかしいので、私は声を落とした。

「どうもこうもないよ。ただあんなこともやってみるかくらいの軽い気持ちさ」

「だけど、あれは、相当コストがかかるんだろ」

篠原はこちらのことなど忖度せず、いつもの大きな声だ。私はちょっとはらはらした。

「本気でやったらね。まったくいいかげんじゃ意味ないから、まあ半分本気ってことで、一応『6か月コース』申し込んで、12000円払わされたよ」

「それで? いい『物件』が見つかったかい。もうかれこれ10日も経ってるだろ」

「物件」と言ってくれたので助かった。それなりに心得ているようだ。

私はさらに小声になる。

「それがあんまり熱心に見てないんだよ。顔写真だけはヒマつぶしみたいによく見てるけどな。マッチングしたのも二、三あったけど、どうも言ってることが俺の趣味じゃないっていうか、ありきたりっていうか。そういえば67のばあさんもいたな。ちょっと引くよ」

「しかし、67はともかくとしても、おぬしもあんまり歳のことなど言ってられないんじゃないか」

「そりゃわかってるさ。しかし全体としては、若い連中どうしで盛り上がってるだけみたいなところがあるから、こちらは片隅でそっと」

「何だ、目の保養か。そりゃ堤自身のほうも情熱が足りないな」

「そうかもしれない。何しろ、仕事のほうで厄介なこともあってな。なかなか気持ちがそこまで回らないんだ」

「厄介なことって?」

 

私は西山ハウスの1件をかいつまんで話した。

篠原は興味を示して、途中、いろいろと口をはさんでディテールを知りたがった。特にゆくゆくけやきが丘がイタリアのプラートみたいになってしまうのではないかという懸念を漏らしたところでは、次のようなことを言った。

「その懸念は、気持ちとしてはよくわかるな。じつはあれから、中国の不動産爆買いのことが気になって、埼玉の芝山団地と群馬の大沼町に行ってみたんだ。大沼町はブラジル移民で有名だよね。ところが、あそこも韓国人や中国人がどんどん増えてる。低賃金で食っていけないブラジル人たちが、教会にすがるだろう。そこでコンビニをにわか作りの教会に改築して、プロテスタントの韓国人牧師が管理してる。ブラジル人はカトリックなのにね。その背後には中国が絡んでいるらしい」

「へえ、そうなのか」

「芝山のほうは、すでに7割以上が中国人らしい」

「え、7割以上? ネットには半分近くって書いてあったと思うけど」

「掃除のおじさんに聞いてみたら、そう言うんだよ。何しろ羽田空港に大きな案内広告が出てるそうだ。トラブルはあるかって聞いたら、そりゃあるけど、立場上言えないって答えてた。印象的だったのは、玄関に各戸のポストがあるだろ。部屋番号が打ってあるだけで、名札がほとんど入ってないんだよ。たまにあると、それは日本人名。日本人は高齢化してるから、ここはそのうち乗っ取られるだろう」

「うーん。中国人には、『郷に入ったら郷に従え』ってのがないからなあ」

「それと、北海道や沖縄や対馬の不動産が中国や韓国に爆買いされてるのはけっこう知られてるけど、いま問題になってるのが、奄美大島の東端の西古見っていう35人しかいない集落に、5000人だか7000人だかの中国人を乗せた20万トン級のフェリーが停泊する計画が進んでるんだ」

「国交省は何してるのかね」

「いや、何言ってんの。国交省のお墨付きで推進されてるんだよ」

「反対運動は起きてないのか」

「起きてるけど、それが奄美の美しい自然を守れっていうエコ系の運動なんだ。それはそれで大事だけど、国防の要地を守れっていうんじゃないところが問題だよ。それだと辺野古の珊瑚を守れと同じになっちゃう」

「この前も同じ話ししたけど、とにかく日本じゃ、外国人の不動産取得はフリーパスだからな。『外国人土地法』には、相手国の土地規制と同じ規制を政令で定めることができるって書いてあるのに、政令を出したことは一度もない。これじゃ戦争なんかしなくたって、領土をどんどん侵略されちゃうよな」

「そう。これ知ってる? いま全国で所有者不明の土地が九州全体より多いんだって」

「ああ、聞いたことある。400万ha超だってな」

「さすが不動産屋。これも恰好の餌食だな。誰かが買って、転売されちゃったら、全然追跡できないんだそうだ」

「だいたい、登記が任意ってのが異常だよ。日本の土地行政はないに等しい。登記を義務化すれば、それを土台にして外国人の土地購入の規制もしやすくなると思うんだが」

「それも今の緊縮財政下じゃ難しいだろうな。義務化するためには登記費用を安くしてもらわなくちゃ困る。そうすると国の負担を増やさなくちゃならんからな」

 

一身上の話をしていた時は小声で済ませていたが、こういう天下国家問題になると、自然と声が大きくなる。普段あまり口を利かないマスターもカウンター越しに耳を傾けていたらしく、中トロをきれいな手さばきで切り分けながら、珍しく自分から言葉を発した。

「そりゃひどいですね。政府はいったい何してるんだろ」

「そうなんですよ、マスター」

「ウチなんかも関係ありますね。漁場が荒らされたら、お客さんにいいネタ出せなくなりますよ」

新しい客が来ないのをいいことに、アキちゃんまでが真剣そうに聞いていた。

篠原が言った。

「漁場といえば、釧路なんかもう危ないですよ。港の周りに中国系企業がひしめいてるからね。あそこは北海航路の拠点にしようってんで狙われてるんだ。そういう事態に対して政府も北海道庁も、何ら対策を講じようとしない。幕末のころ、ペリーが来たでしょ。あんときは幕府の官僚が頑張って、外国人の国内移動距離を港中心に半径何キロ以内ってちゃんと決めたんだよ。そのころ中国では西洋人が国内を勝手に歩き回ってたからね。その中国が今度は、北海道をはじめとした日本の不動産を買いあさってるんだ。あのころの日本の気概はどこに行っちゃったのかね」

鎖国を解いて国を開こうという時代と今とでは比較にならないだろうと思ったが、それにしても、こんなに自分からグローバリズムを受け入れてしまうのは日本人の気概が失われたからだという篠原の意見には賛成だった。

私が黙っていると、アキちゃんが言った。

「なんか、戦争しないで平和でいいって思ってたら、いつの間にか土地は取られてるし、移民はどんどん入ってくるし、怖いですね」

「そ! アキちゃんとやら、いいこと言った。ドンパチだけが戦争じゃないんだ。これからの戦争は、サイレント・インヴェージョン、つまり静かな侵略といってね、経済戦、情報戦、歴史戦の時代なんだよ。不動産爆買いは経済戦の一種だな。だからもう戦争は始まってるんだよ」

マスターが言った。

「でもそれに対して政府は何にもしようとしないんですよね、負けっぱなしのままですか。日本は滅びちゃうじゃないですか」

「とにかくデフレ脱却してまずは国力つけなきゃどうしようもないな。マスターの言う通り、このままじゃ日本は滅びるよ」

ビールの泡を唇に残しながら、前回と同じように、吐き捨てる口調で篠原が言った。

この前「財務省は諸悪の元」と言った篠原の言葉の、その深い意味を聞きそびれたので、今回そこを突っ込んでみることにした。

堤 佑介Ⅷの1

 

                                    2018年10月24日(水)

 

あれから西山ハウスに関していろいろなことがあった。

西山さんから中国人を受け入れる旨の連絡があったのが、先週の火曜日の午前中。

結局は背に腹は代えられないと考えたのか、それとも、トラブルが生じた時、いざとなればウチだけに任せず、接触に慣れた自分が出て行ってもかまわないと考えたのか、それはわからない。

とにかくこれで、管理業務を請け負わなくてはならないことになった。

すぐに入居希望者の陳秀洪さんに必要書類を郵送した。

すると、水・木の連休をはさんで金曜の午前にはすべてそろえて、奥さんが五歳くらいの男の子を連れて直接来所した。彼女はこの前も同伴していたそうだが、もう一度内見したいと言う。

さすが中国人夫婦。書類提出の速さとその鋭敏なビジネス感覚に感心した。これから取りかかるリニューアル箇所をあらかじめ細かくチェックしたいのだろう。

彼女は、普通の奥さんとは違うちょっと派手ななりをしていた。おそらく夜、お水系に勤めているのだと思われる。1年ちょっと前に夫に呼び寄せられて日本に来たそうだ。

山下の手がふさがっているので、中村に頼むことにした。接客があまり得意でない彼では、押しまくられやしないかと少し心配だったが、まあ、何事も経験だ。

案の定、帰社した中村に話を聞くと、ドアや窓の立て付け、隣室との壁の厚さ、水回りの劣化状態その他、いろいろな部分を詳しく調べ、図面の該当箇所にチェックマークを入れながら、カタコトの日本語で何度も質問したという。

書類に遺漏はなかった。印象だけからすれば、なかなか堅実な夫婦のように思えた。

「旦那に今日の調査報告をして、これからいろいろと注文つけてくるんだろうね」

「そうだと思いますよ。西山さんがなんていうかですね」

「まあ、覚悟の上だろうね。ただ敷金取ってないんだから、それが武器になるよね」

 

それからあくる土曜、予想通り、いろいろな注文をつけてきた。日本人にもその手合いはけっこういるから、別に嫌な感じは抱かなかった。ただ、西山さんとの間で折り合いをつけるのが面倒なだけだ。

久しぶりにスタッフに昼食をおごることにした。みんなで近くのファミレスに集まった時、そのことが話題になった。

「いや、私も言葉の壁があるのと、とにかく細かいんで苦労しましたよ。普通の倍近く時間がかかったんじゃないかな」

中村が弱々しそうにぼやいた。

「すみませんでしたね。ほんとはわたしが当たるべきだったのに」と山下。

「いえいえ、それはいいんですけどね」

「ったく、たかが8万かそこらの家借りんのに、文句が多いんだよ。先が思いやられますね」

強気の八木沢が毒舌を吐いた。

「しかし、これは中国人に限ったことじゃない。最近の借主は、安い家賃の家に限ってけっこうタカビーなのが多くて、ああだ、こうだとクレームつけてくるよ」

岡田がとりなすように言った。

そこで私。

「ストレスが溜まってるんだろうな。これも不景気からきてるんじゃないか。阿川政権になってからワーキングプアはずっと1100万人超えてるし、生活保護世帯はここ20年で急増して160万世帯で高止まり。アガノミクスなんてデタラメだよ。国民の不満は相当高まってると思うね」

「そこへもってきて中国人がどんどん入ってくるんでしょう。西山さん大丈夫かしらね」

山下が心配そうに言う。岡田がそれを受けて、

「西山さんもだけど、これは日本人全体の危機ですよ。インバウンドなんかで浮かれてる場合じゃないよな。だれか優秀な政治リーダーはいないんですかね」

みんな黙っているので、私が答えた。

「どうもいそうもないね。もっと危機が深刻になると出てくるかもしれないけどね。とにかくいざなぎ越えとか、ファンダメンタルは底堅いとかなんとか、政府はインチキな発表ばかりしてるし、こうやって貧困層が増えると、貧困層どうしでいがみ合いになりやすいんだな」と、私。

「悲しいことですね。それはとても」

山下が感に堪えたように言った。その溜息混じりの調子がみんなの笑いを誘った。

「どうして日本はこんなことになっちゃったのか、私もよくわからない。今度、大学で社会学教えてる友人と会う約束になってるんで、じっくり聞いてみるよ」

まあ、ぼやいていても仕方がないから、それぞれの持ち場で頑張るしかない、という平凡な結論でこの粗末な昼食会は終わった。

 

一方、普通の若夫婦とゲイカップルとは、それぞれ日曜日と月曜日に書類をそろえてきた。

私はどちらにも応対しなかったが、若夫婦は2階に、ゲイカップルは1階、中国人と一つ間を開けた部屋に入居することになった。

また同じ日曜日に、新しい入居希望者があった。西山さんよりは少し年下の老夫婦だ。

担当にあたった本田によれば、年金暮らしで、夫のほうは、デパートの地下駐車場入り口での交通整理をやっている。臨時雇いだそうだ。奥さんはパートに出て何とか生活をしのいでいる。あまり風采の上がらない雰囲気だったという。

老夫婦は中国人とゲイカップルの間の部屋に入居することになった。

彼らは皆、汚れた部分のクロス張替えやクリーニングなど、標準のリニューアル以外に格別の注文をつけたわけではなかった。しかし私はこの三組が並んで入居する結果になったことに、何となく嫌な予感がした。

とはいえ、オーナーにとってはとにかくありがたいことで、今のところ西山さんの作戦は成功したと言ってよかった。こんなに短期間に四組も入居が決まったのだ。残るは2階の二室だけとなった。

 

さらに昨日の火曜日、西山さんに来てもらって、陳さんの注文とのすり合わせを行った。電話でだいたいのことは話してあったので、彼は別に嫌がるふうは見せなかった。

しかしあまり面白い話でないことはたしかである。そこで私は、他の新しい入居者のことを伝えて、ご機嫌を取った。

「ほんま、おおきに。思うとったよりずっと早く埋まりましたな」

さすがに西山さんは相好を崩した。頬と目尻の皺がいっそう深くなった。

「ええ。あと2室も早く埋まるといいですね」

「ま、そううまくはいかんやろけどな」

「期間をおいて、第2弾という手もありますよ」

「そやね」

西山さんはまたにっこりした。

「それでさっそくですが、例の陳さんの要求の件ですが……」と、私は図面を出して、陳さんの奥さんがチェックした点を一つ一つ指摘していった。

「あ、いろいろおますようやけど、全部はあきまへんな。建具関係は代えるわけにいかんね。敷金も取っとらんのやから。網戸の隙間なんて我慢してもらうんやな。ほんのちょっとですやろ。壁も穴が開いてるわけやないんからどうしょうもない。ノブの不具合は調整してもらいましょ。フローリングの傷の大きなもんも、直しましょ。あとは何でしたかな」

「風呂とキッチンの水道栓の締りが悪いんで、パッキンを代えてくれと」

「それはOKやな」

「あと、照明器具関係ですね。少し暗いっていうんですよ。これは他の入居予定者もちょっと言ってましたけどね」

「そりゃしかし、器具全体を代えんでもええんとちゃいまっか。とにかく点くんやから。LEDでも何でも、新しい電球自分で買うてきてつけりゃえやないか」

「そういう契約条項になってますね。それで当面いいと思います。全部代えたら出費もかさみますからね。……ただ、これは先の話ということになりますが、いずれいろんなところが痛んできますから、ちょくちょくリニューアルしていく必要がこれから出てくると思います。私どものほうで借主さんと怠りなく接触を保つようにして、何かクレームが出た時には、そのつどアドバイス差し上げることにいたしますけどね」

西山さんの笑顔は消えていた。「しんきくさいこっちゃね」とつぶやいて、相談は終わった。

 

夕方、先方に貸主の条件を伝えようと電話すると、会社が休みなのか、夫の秀洪さんが出た。早口だった。しばらくごねていたが、敷金ゼロを持ち出して粘ると、向こうもさすがに折れてきて交渉が決着した。

あとは、入居時期を決めてもらって、契約書を交わすのみだ。やれやれ、と思ったが、あの嫌な予感は消えなかった。ほんまにしんきくさいこっちゃ。

半澤玲子Ⅷの4

 

そして今日。

今日はさいわい職場では何事もなく、平穏無事に過ぎた。仕事も比較的早く終わった。

それにしても失敗の連続。

投入れを割っちゃったほうは、会社に弁償すれば済む話だし、そんなに心のダメージも大きくはなかったけど、昨日のやつはきつかったな。

でも、ふと、さくらちゃんがあんなに思いやってくれたことを思い出した。あれはありがたかった。

そして、お土産までついていた。彼女の婚活はうまく行きそうだ。わがことのようにうれしかったっけ。

しかし、とわが身に戻ってみて、さて、今回の挫折で、このやり方での彼氏探しはもうあきらめるか。それとも、たった一度出会っただけなんだから、もう少し続けるか。

エリに相談してもいいんだけれど、エリは今、それどころじゃないだろう。彼女はあれからどうしたろう。別れたろうか、まだ続けているだろうか。

いずれにしても、いまはまだ会うべき時じゃない。ここは自分で決めるしかなかった。自己責任、自己責任。

結論が出ないときは、例によって、マンガの「ふーちゃん」みたいにお風呂に入るに限る。今日は体が温まるマイバス4にしよう。

 

お風呂から上がって、何となくスマホを開いて、Fureaiアプリに行ってみた。ぜんぜん期待など抱かずに。

一応習慣のように毎日見てはいたけれど、マッチングが来ていても、まじめに相手のプロフィールを探ってあれこれ迷うのはやめていた。岩倉さんに焦点を絞っていたからだ。

その焦点がもう完全にぼやけてしまった。かといって、誰かほかの人を積極的に調べるという気も生まれてはこなかった。

ただ、少し気分を変えたかった。これまでマッチングしてきた男たちのプロフィールを、お風呂上がりの気分で野次馬式に追いかけてみた。ちょうど大して読む気もない雑誌をパラパラめくるように。

写真、年齢、プロフィールの文章、どれもいまいち。

趣味の一致するケースは多かったが、趣味の欄は、わたし自身があれこれ寄せ集めて書いているので、共通項があったとしても、実際には、感性としてそんなに重なり合うとは限らない。みんな同じようなことをたくさん並べるものだ……。

 

ふと10日前に来た男のプロフィールが目に留まった。

 

【堤 佑介婚活サイトFureaiプロフィール】

ニックネーム:ゆう

年齢:55歳(認証済み)

身長:171㎝

タバコ:吸わない

趣味:音楽、美術、映画、落語鑑賞、読書、気の合った友人との会話

 

 《自己紹介文》

プロフィールを見ていただき、ありがとうございます。

仕事に追われる毎日です。

趣味欄にいろいろ書き並べましたが、どれも忙しくて思うに任せません。

離婚してから13年経ちます。

もう遅いかもしれませんが、連れ添う人を求める気持ちが募ってきたので、

無理とは思いながら登録してみました。

一人娘は成人して職を持ち、別れた妻と同居しています。

自分は昔から不思議がり屋のところがあり、

ものごとを理屈っぽく考えるたちです。

いろいろな社会問題に関心があります。

いまの仕事は、さまざまなお客様とじかに接することが多いので、

人間好きの自分には適しているのかもしれません。

あまり自分から希望を語るべきではないとは思いますが、

もしお付き合いしていただけるなら、

世代が近く、共通の話題を持てる人がいいと考えています。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 《ディテール》

職業:中規模不動産会社営業所長

休日:水曜日、第三木曜日

体型:中肉

居住地:東京

出生地:横浜

家族:長女一人。両親は他界。

同居人:独り暮らし

年収:700万円以上

婚姻歴:離婚

好きな料理:和食、イタリアン、その他何でも

お酒:飲む

性格:真面目・明朗・好奇心旺盛

学歴:四大卒

休日の過ごし方:読書、散歩、覚書を書く、音楽鑑賞(主にクラシック)、時々落語

転居の可能性:時と場合による

望ましい交際:ゆっくりメール交換をし、機が熟してから会う

初デートの料金:自分が全額負担

 

ほかのプロフィールとはちょっと違う、と感じられた。ほかのは、自分を売り込もうという気が見え見えなのが多い。

でもこの人のには、それが感じられない。文章の調子は、ちょっと硬くて、ぶっきらぼうと言ってもいい。年のせいかもしれない。

でもその前にまず顔。

不動産屋って、偏見持ってたけど、なんか、らしくない雰囲気してる。特に美男てわけじゃないけど、眼鏡の奥のちょっと垂れ眼気味の目が優しそうだ。それでいて意志が強そうで口元がきりっとしている。歳のわりに、オヤジ臭くなくて、どことなく可愛い。

物事を真剣に考えるタイプっていうか、「ディテール」の性格欄に「真面目」と書いてあるのと、そんなにギャップがない感じ。

離婚やその後の家族関係をわざわざ書いてるのも、正直そうで好感が持てる。

「不思議がり屋」「理屈っぽく考える」「いろいろな社会問題に関心がある」――こんなことを書いてくる人はあまりいない、と思う。少なくともわたしが受け取ったプロフィールの中にはなかった。

そして、休日の過ごし方として、「覚書を書く」というのが、いちばん変わっている。そんなことあえて書く人がいるだろうか。

おもしろい人だ。不動産の営業なんてやりながら、それとは別の自分をどこかにしっかりと取っておいているようだ。謎めいている印象がある、と言ったらいいかな。

もっとも岩倉さんだって、教師をしながら、登山に情熱を傾けていた。そういう意味では共通しているわけだけど、これくらいの年長者になれば、わらじを二足も三足も履いている人はたくさんいるだろう。

でもこの人のは、そういうこととはどこか違っている。仕事と趣味、というのではなく、「社会問題への関心」にどうしても引きずられて行ってしまうという感じなのだ。

 

それにしても、覚書って、いったい何を書いているんだろう。思わず興味を持ってしまった。

もちろんとんだ食わせ物だっていう可能性もある。岩倉さんで失敗したばかりなのに、書いてあることをそのまま信用しちゃいけない。

しかし、わたしは、こういう試みにとにかく踏み込んでしまったのだ。やめてしまうか続けるか、さっきまでどっちつかずの堂々巡りをやっていた。

けれど、仮に続けるなら、こういう変わった人をマークするのも一興かもしれない。どうせアラフィフのババアだ。それに10日も前に発信されているから、もう別の人とマッチングが成立しているかもしれない。ダメ元のつもりで噛んでみるか。

さくらちゃんの明るい未来を想像して、そしてお風呂に入ってさっぱりしたら、なんだか元気が出てきて、やるだけやってみようという気になっている自分を発見した。

疲れてはいたけれど、こちらからメッセージを送って、その反応を見るのも面白い。なんだか妙に強気になって、昨日と一昨日の失敗に対する取り返しをしてやろうかとも思った。

 

初めまして。

マッチングしてうれしく思います。

わたしはあまり自分からこんなことをするタイプじゃないんですけど、プロフィールを拝見して、関心を惹かれました。

これからお話しすることにご興味がなければ、どうぞそのまま聞き流してください。

まだこのサイトに登録してからそんなに時が経っていないのですが、数少ない方たちとのマッチングがありました。でも、「ゆう」さんのプロフィールは、わたしには、他の方とは違った一風変わったユニークなものに思えました。

こんなことを申し上げてお気に触ったらお許しください。

どこにそれを感じたかと言うと、いくつかあるのですが、いちばん興味を惹かれたのは、休日の過ごし方の欄に「覚書を書く」とあるところです。どんなことを書いていらっしゃるのかな、と知りたくなりました。

また、「いろいろな社会問題に関心がある」とのことですが、どのような社会問題でしょうか。わたしはむずかしいことはわかりませんが、日頃考えていることとの間に少しでも共通点を見出せたら、うれしく思います。

お忙しそうで恐縮ですが、お返事いただければ幸いに存じます。

 

わたしにしてはずいぶん大胆なことを書いてしまったな、と思ったけれど、なに、かまうものかと半分破れかぶれみたいに決心して、送信ボタンを押した。やはり岩倉さんとのことの反動の気持ちが強かったのかもしれない。

これで今夜はぐっすり眠れるような気がした。