ミシェル公41 | コラム・インテリジェンス

コラム・インテリジェンス

透き通るような…心が…ほしい

人類滅亡説は、

何度も何度も歴史上、

何人も何人もの人々によって

唱えられてはきているものの、

 

昨今の

2024年 働き方改革問題、

2025年 高齢者が人口の

3分の1になってしまうかも知れないという問題、

そして出ました、

2026年、食糧不安、都市化、森林伐採、

気候変動等々による人類生存限界説。

 

これは、我々に何ができるのかを

問われている問題として考えるのではなく、

我々には何ができて何ができないのか、

我々は次の世代のために何はできて何はできないのか、

 

我々は自分という個と

人類・世界・地球という総体のために、

なになら可能で何は否であるのか等々を、

あらためて考えなおすチャンスを、

投げかけられているような気もしないでもないのです。

 

これは究極的な

中庸、バランス、塩梅、適当適切等々を

考える責務でもあるようにも思われます。

 

「オルガヌム 17」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12543593742.html

 

モンテーニュは信用できなくても、

「知は力なり」と言ったフランシス・ベーコンの

著作「オルガヌム」なら

信用できるという人も多いのかも知れません。

 

「たいていの人は、警句や金言や格言を振り回しながらも、ご本人はそれの本当の意味さえ知らずにいる。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))

 

「格言集」とか、

「すぐに使える〇〇」とか、

「わかりやすい仏教」とか、

世にいいかげんな書物が溢れてます。

 

そんな本を読んで、

知った風な顔をする輩が多いなか、

 

ココの読者は、僕といっしょに、

それぞれの名著を一冊一冊、

一言一句ずつ、ほぼほぼ丁寧に

読破しているに等しいのかとも思われます。

 

「著者の優秀さは、彼らが何を言うかだけではなく、何を考え、なぜ考えるのかということまで見なければならない。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))

 

まったく、そのように本を読むことが、

真の読書の楽しみであり、

著名な賢者たちと直接対話している

ということになるようにも思われます。

 

「分別のある人間が適度の自己満足を感ずるのはいいが、ばかな人間が賢者以上に自己に満足しているのを見ることくらい、癪にさわることはない。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))

 

我々は苦労に苦労を重ね、

切磋琢磨、自己鍛錬を繰り返し繰り返し、

古今東西の智者賢者の著作を読破し、

その結果、

「すべては疑うべきこと」とでもいふ

ピュロン主義的懐疑哲学をも修めたはずであるのに、

 

「ピュロン主義哲学1」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12634553283.html

 

世の中のあらゆる物事に、

何の疑いも持たず、自分のことだけを、

私利私欲だけに満身しているような輩が、

人生を、自己の思想に、自己の思考レベルに、

何の疑いもなく満足しているのを見るのは、

たいへん愉快であるとは言えぬのかも知れません。

 

「知恵は、知恵ある者に満足し誇ることを禁じ、常に不満と不安のうちに送り出すのに、一方では頑迷・無分別・無知は、その主人たちを喜悦と自信で満たすというのは不幸なことである。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))