ミシェル公40 | コラム・インテリジェンス

コラム・インテリジェンス

透き通るような…心が…ほしい

雲一つない青空に、

樹々の緑が映えるとき、

これほどの美しさはないと思ひます。

 

しかしながら天候の現実は、

晴天もあれば曇る日もあり、

なんなら豪雨や嵐もあるようです。

 

自然もヒトの心も心身も、

自然と自然に変化し、

清廉潔白の日もあれば、

僕に限ってしまえば、ときに、

単なるスケベじぃさんに

なってしまう日も、けっして

ないとは言い切れないのです。

 

空を見上げれば、

自然は刻々と移り変わり、

同じ一瞬などありえぬことくらい、

アタリマエに理解できる我々ではありますが、

 

近頃の我々ときたら、

ろくに空を見上げることもないようなありさま。

 

我々は自然の有難さも優しさも、

そして自然と共に自然に生きるというアタリマエも、

忘れ去ってゆくのかも知れません。

 

アタリマエのアタリマエは、

けっしてアタリマエのアタリマエなどではなく、

我々の無知と傲慢による勘違いである場合も、

多いようにも思われなくもないのです。

 

「世の中の、物事の、大部分はひとりでに運ばれる。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))

 

古代ローマの詩人ウエルギリウスも

「運命は自分で道を見出す」と謳っています。

 

人智の及ばぬこと、人の手にあまること、

人間にはどうすることもできぬことは、

それが奇跡とか神秘とかではなくても、

アタリマエにアタリマエのこととして、

受け止められなければならないようにも

思われなくもないのです。

 

「成り行きに身を任せる」ことは

美徳であり、楽ちんであり、

それが「自然であること」でもあるようにも

考えられるべきであるのかも知れません。

 

「人間の知恵が運命の役割を果たしうると考えるのはあさはかである。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))

 

悩み事、苦難に直面した時など、

心理学・占い等々の人力に頼るのは、

赤坂見附である、いや、

あさはかである、ということのようです。

 

「理性は一日ごとの、その場限りの衝動と動揺をもっている。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))

 

だから気が変わっても良い。

気分が移り気となっても

何の問題もないのかとも考えられます。

 

というよりも、いや、むしろ、

それがアタリマエ、そのほうが、

むしろ自然というものであるようにも

思われなくもないのです。

 

「もっとも影響力を発揮する者が誰かと考えてみれば、それは常に最も無能な人々であることがわかるであろう。

 彼らの幸運の結果は、智慧とは無関係である。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))