人類が、自分以外の他者を、
これほど軽んじて観るようになったのは、
これほど軽んじて扱うようになったのは、
いったい いつのころの ことからなのでしょう。
レジ係がAI化されるのならいざ知らず、
人間である客が人間であるレジ係に、
まるで機械のように、
まるで存在しないかのように、
「レジ係にさえ人間扱いされていない」と
感じたことのある人も少なくはないようです。
ヒトはいつのころから傲慢になり、
ヒトはいつのころから優しさを失い、
ヒトはいつ、人間らしさを失い、
ヒトはいつ、
ヒトではなくなってしまうのでしょうか。
「たとえどんなに完全な人間でも、やはりきわめて愚鈍な人間であることに変わりはない。」
(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))
問題は自覚にある
のかとも思われます。
自分が愚鈍で無知であることを
自覚している人間は救われるけど、
どうにも救いようのない人間というのは、
自分の知識、自分の経験だけで物事を
分析、判断、論説、納得してしまうような人間である
とも考えられるような
気もしないでもないのです。
「つらい考えにとらわれたときには、それを征服するよりも逃げるほうが早いと思う。友を失ったときには恋に溺れ、恋を失ったときには友との遊興に明け暮れる。」
(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))
逃げること、逃避は、
けっして恥ずべき情動ではない。
殴りかかってこようとしている相手が
パンチを繰り出したまさにその時、
自分から自分の顔をその前面に
差し出すバカはいないと考えられます。
とりあえずは相手の攻撃をかわし、
同時に報復に打って出るが賢である
ようにも思われなくもないのです。
「自然が我々の情念の最良の医者として与えた『時』も同じような働きをしている。時は我々の頭に次々と別の事柄を投げかけ詰め込むことによって、最初の感情を、たとえそれがどんなに大切で強くても、解きほぐし、滅ぼしてしまうからである。」
(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))
気をまぎらす、あるいは気晴らし
とでもいうのでしょうか。
紅麹が最悪であったのなら、
この「気まぎらしの術」は、
自然が我々に与えてくれた
最良のサプリとでもいうのでしょうか。
つらいときは、そこから離れ、
ラジオ体操でも深呼吸でも、
早口言葉でも歌を歌うでもよいから、
なんでもよいから、そのつらいこととは、
まったくべつのことをしたりやったり思ったり
考えたりするが肝要であるとも思われます。
「最も陳腐な、最も使い古された意見が、おそらく、見かけは悪いが、実行には最も確実で便利なのかも知れない。」
(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))