ミシェル公39 | コラム・インテリジェンス

コラム・インテリジェンス

透き通るような…心が…ほしい

人類が、自分以外の他者を、

これほど軽んじて観るようになったのは、

これほど軽んじて扱うようになったのは、

いったい いつのころの ことからなのでしょう。

 

レジ係がAI化されるのならいざ知らず、

人間である客が人間であるレジ係に、

まるで機械のように、

まるで存在しないかのように、

「レジ係にさえ人間扱いされていない」と

感じたことのある人も少なくはないようです。

 

ヒトはいつのころから傲慢になり、

ヒトはいつのころから優しさを失い、

ヒトはいつ、人間らしさを失い、

ヒトはいつ、

ヒトではなくなってしまうのでしょうか。

 

「たとえどんなに完全な人間でも、やはりきわめて愚鈍な人間であることに変わりはない。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))

 

問題は自覚にある

のかとも思われます。

 

自分が愚鈍で無知であることを

自覚している人間は救われるけど、

 

どうにも救いようのない人間というのは、

 

自分の知識、自分の経験だけで物事を

分析、判断、論説、納得してしまうような人間である

とも考えられるような

気もしないでもないのです。

 

「つらい考えにとらわれたときには、それを征服するよりも逃げるほうが早いと思う。友を失ったときには恋に溺れ、恋を失ったときには友との遊興に明け暮れる。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))

 

逃げること、逃避は、

けっして恥ずべき情動ではない。

 

殴りかかってこようとしている相手が

パンチを繰り出したまさにその時、

自分から自分の顔をその前面に

差し出すバカはいないと考えられます。

 

とりあえずは相手の攻撃をかわし、

同時に報復に打って出るが賢である

ようにも思われなくもないのです。

 

「自然が我々の情念の最良の医者として与えた『時』も同じような働きをしている。時は我々の頭に次々と別の事柄を投げかけ詰め込むことによって、最初の感情を、たとえそれがどんなに大切で強くても、解きほぐし、滅ぼしてしまうからである。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))

 

気をまぎらす、あるいは気晴らし

とでもいうのでしょうか。

 

紅麹が最悪であったのなら、

この「気まぎらしの術」は、

自然が我々に与えてくれた

最良のサプリとでもいうのでしょうか。

 

つらいときは、そこから離れ、

ラジオ体操でも深呼吸でも、

早口言葉でも歌を歌うでもよいから、

なんでもよいから、そのつらいこととは、

まったくべつのことをしたりやったり思ったり

考えたりするが肝要であるとも思われます。

 

「最も陳腐な、最も使い古された意見が、おそらく、見かけは悪いが、実行には最も確実で便利なのかも知れない。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))