「人々が何か物事を探究する場合に、結果としてありそうな事態は、その探究しているものそのものを発見するか、その発見そのものを否認して把握不可能であるということに同意するか、あるいは探究を継続するかのいずれかである。」
(「ピュロン主義哲学概要」セクストス)
───西洋古典叢書断片集───京都大学学術出版会───
いきなりピュロンは小難しいことを述べているようです。
が、たとえば僕が何かの企画プロジェクトで、
あるコンセプトに対するコンセンサスのようなものを見出したとします。
これが僕にとっては「発見」に当たるわけですが、
この僕のコンセンサスあるいはコンセプト自体を否認して、「実現不可能である」とか「パンピー(一般ピープル)には理解把握が不可能である」としてしまう人々がいたり、
「そのコンセプト自体は良いアイデアであるが、コンセンサスについてはさらに探究、リサーチを継続すべきである」とする人々もいます。
これは実際に僕の現役時代の部内ミーティングの
再現でもあったのですが、要するに、ある物事に対して、
簡単信用単純信頼のもとすぐさま賛成する人と、はなから否認または不可能あるいは把握不能として処理してしまう人、賛成ではあるがさらなる検討を望む人という、三通りの「いずれかである」ということのようです。
「そしてこのうち、真実を発見したと考えるのは、アリストテレス派、エピクロス派、ストア派、その他の哲学者のようにある意味、ドグマティスト(懐疑主義的教条形而上学者)と呼ばれる人たちである。
(「ピュロン主義哲学概要」セクストス)
───西洋古典叢書断片集───京都大学学術出版会───
当コラムを御読み頂いている方々には
もう御解りのことかとも思われますが、
ココでも再三再四扱わせて頂いてきたアリストテレス、エピクロス、ストア哲学等々、僕もどちらかといえばなんとなくドグマティストであるのかも知れません。
「哲学を大きく区別した場合、ドグマティスト哲学、アカデメイア派哲学、懐疑主義哲学の三種類になるのは、理に適ったことであると思われる。」
(「ピュロン主義哲学概要」セクストス)
───西洋古典叢書断片集───京都大学学術出版会───
この文脈も、当コラムの読者であれば、すんなりと
受け入れて頂けるものと思われます。
思えば、
当コラムの読者であらせられる方々は、
知らず知らずのうちに京都大学並の大学の哲学科の院生並の学識をお持ちになってしまわれているのかも知れません。
僕は園児並に幼稚なのですが・・・。
「『懐疑主義』は探究と考察を旨とするその活動から『探求主義』ともよばれ、探求の後に考察者に生じる情態から『判断保留主義』とも呼ばれる。
また、我々にはピュロンが誰よりも実質的に、かつ顕著に懐疑考察に専心したと思われるところから『ピュロン主義』とも呼ばれている。」
(「ピュロン主義哲学概要」セクストス)
───西洋古典叢書───京都大学学術出版会───
ピュロン主義 ≒ 懐疑主義 でもよいのかも知れません。
「なぜ?」「本当に?」「誰が?いつ?どこで?どうして?」
等々が懐疑主義の原点。
が、僕が現役当時、取締役、大株主の方々から
「部長はいつも『かも知れません』とか『らしいです』ばかり」
という御批判を頂いていたのは、
懐疑主義でもピュロン主義でもなく、単純に「無責任」
「いい加減」の象徴でもあったようにも思われなくもないような気もしないでもないのです。