身だしなみというものは、
他者に不快感と与えず、
己も爽快感を感じられるということが、
大切であるようにも思われます。
「身だしなみのセンスを身につけるのには、それらを、ばかにしないということだけでも、十分といえるであろう。」
(「随想集/身だしなみと礼儀について」フランシス・ベーコン
身だしなみも学問も、地位も名誉も、おカネさえも、
それらを、ばかにしないということだけでも十分である
と、いえるのかいえないのかは、わからないような気も
しないでもないようにも思われなくもないのです。
「が、あまりに骨を折って、身だしなみに気を配っているということをあらわそうとすれば、その品のよさを失うことになるだろう。
それには自然で気どりのないことが大切なのである。」
(「随想集/身だしなみと礼儀について」フランシス・ベーコン)
あからさまは宜しくないようです。
身だしなみ一つにも、その人の人間性が現れる。
ほどほど、良い塩梅、最適なバランス、
つまりは「中庸をわきまえる」ことができている人か、
そうでもないのかも、身だしなみ一つで判断されかぬない
のかも知れません。
「バランスは中庸。中庸が幸不幸の分かれ道となる」
「貴女へ 8」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12103921716.html
「礼節を全然用いないことは、他人に、こちらに対してもそれを用いないことを宣言することになる。
だから、自分自身に対する尊厳を減少させることになるのだ。」
(「随想集/身だしなみと礼儀について」フランシス・ベーコン)
礼儀を知らぬ者は、他者を冒涜しているということ。
礼節をわきまえぬ者は、社会に対して孤立する。
礼儀、礼節をわきまえぬ者は、
己の実力もわきまえず、己本意の狭量なる心魂は、
他者を不快にするだけではなく己をも破滅へと
導く第一歩となってしまうのかも知れません。
礼儀、礼節をわきまえぬ者は、中庸もわきまえず、
慈愛、品性、優美、高貴をも粗末に扱うような
気もしないでもいのです。
「幸福 ↔ 中庸 ≒ 徳 ↔ 不幸」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-11878461169.html
さて、そこで、身だしなみも礼儀も
賞賛という情動と関係しているのかも知れません。
「賞賛は徳性の反射である。」
(「随想集/硝酸について」フランシス・ベーコン)
徳性こそが賞賛に値すべきものであるようにも思われます。
賞賛は、
「もし、ふつうの人たちから出るものであれば、ふつうは、まちがっていて、無意味なものである。
そして、徳性のある人よりも、うわべだけの人についてまわることが多い。
ふつうの人は、すぐれた徳性の多くを理解しないものだからである。
いちばんひくい徳性でも、そういう人たちから賞賛を得る。
中くらいの徳性は驚きや感嘆の気持ちを、それらの人たちの中にかきたてる。
しかし、最高の徳性に対しては、感じないのか、全然理解できないものなのである。」
(「随想集/賞賛について」フランシス・ベーコン)
徳性とか賞賛の話というよりは、まるで、
「ふつうの人はバカである」「バカは賢者を認知できぬ」
または「バカな人が普通に多すぎる」という話に
なってしまっているような気もしないでもないのです。
「そして外観と『徳性に似た表面(おもてづら)』というものが、そういう人たちにとってはいちばん適当なのである。」
(「随想集/賞賛について」フランシス・ベーコン)
愚かなる人は、外観だけに気を取られる。
愚かなる人は、真の徳性を知らず、
愚かなる人は己の愚かなる判断に基づき、
人間の表面だけで人を判断するということ
なのかも知れません。
そして愚かなる人々にとっては、
外観だけつくろい、表面だけの薄っぺらな人間こそが、
彼等にとっては最も適した人間である、とも述べている
ようにも思われなくもないのです。