ミシェル公42 | コラム・インテリジェンス

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透き通るような…心が…ほしい

「安楽死」ではなく

「選択死」という感覚で、

最後のときを考えてみるという議論が、

展開されても良いような気もしないでもないのです。

 

「自死」ではなく「選択死」、

「自殺」でもなく「選択死」、もちろん、

「安楽死」ではなく

「選択死」という概念が、

確立されても良いようにも思われなくもないのです。

 

マトモな思考でマトモに生きれば、

人生は過酷で、安寧よりも苦悩のほうが、

多いようにも考えられなくもないのかも知れません。

 

生まれてくる時の状況を

選ぶことができないのであれば、

せめて死ぬ時くらいは選択肢が与えられても

よさそうで、そうでもないような、

なんだかわからないような気もしないでもないのです。

 

「大衆は普通、無知で、本当の無能と長所を識別できない。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))

 

どういうデータなのか、

またはそもそもそのような

データなんかは存在しないのか。

 

モンテーニュにとっては、ニーチェもいうように、

大衆は愚かで無責任な存在でもあるようです。

 

ニーチェ「ツァラトゥストラ1」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12646424651.html

 

モンテーニュは信用できなくても、

ニーチェなら信用できそうだという人も、

少なくはないのかも知れません。

 

「最悪の場合には、常に支出を切り詰めて、貧乏を迎え撃て。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))

 

アタリマエではありますが、

我々はともすると、人がヒトとして

生きていくうえで最低限必要なものと、

そうでもないものとの区別を

怠りがちとなってしまうのかも知れません。

 

ゲーム代は切り詰めずに、

ヒトとして身に付けておかねばならぬ名著の購入、

知識と品性知性の探求にはいっさい

お金を使わない人々も増え続けているようです。

 

愚か者でもまぐれ的に富を手にできる者は

幸いではありますが心は貧しく、

 

愚かゆえに貧乏から抜け出せないのでは、

ヒトとしても品性知性の欠けた人間に、

なり下がってしまう可能性もないとは

言いきれないようにも思われなくもないのです。

 

「貧乏に強いられる前に自分の生活を改めることが、私の常々心がけていることである。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))

 

モンテーニュほどの

爵位も財も手にしている人でさえ、

この心がけを疎かにはしないのですから、

地位も財産もたいして持てない人々は、

なおさらスマホ代を

節約すべきでもあるのかも知れません。

 

「心の中に、自分の持っているものよりも少ないものでもやっていける階段をいくつも作れ。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))

 

いま、自分のもっているものの中から、

いつ手放してもよいと思われるものを

常にリストアップしておくくらいの心がけも、

大切となってゆくような気もしないでもないのです。

 

「富の度合いは収入の多寡ではなく、暮らし方によって計られる。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))