引き続き、第二海堡上陸ツアーの話である。
この地図をアップするのも、3回目。東京湾要塞 第二海堡は、三浦半島と房総半島の間、浦賀水道に造られた人工島。
造られた歴史については、その1を。それから、観光資源として上陸できるようになった流れはその2をお読みいただきたい。
昨日は、地図上で逆への字型にみえるこの第二海堡の中央部分にあるトーチカのことを中心に書いた。
今日は、その西側(地図でみると左側)のあたりのことを書き綴っていく。
トーチカのあったあたりがこの海堡の最も高さのあるあたりである。そこから、防波堤に守られた平地へ下りて行った。
少し古い第二海堡の写真をみると、この西側は防波堤が崩れ潮の加減によっては水没していたようにもみえる。現在では防波堤は修復されている。
ともかく、砲台としての能力は、この島を造る計画当初から完成時に至ってもう不要のレベルとなっていた。それに加えて、関東大震災によって防波堤が痛んだり、あるいは太平洋戦争後にアメリカ軍によって砲台が破壊されたりと、かなりの状況に一時はなっていたようだ。
防波堤の向こうは、浦賀水道ね。
そして、こちらが加農砲(カノン砲)を設置してあった台座の跡。
撤去された砲台の代わりに灯台などが設置されている。台座の部分には「Fort No.2」の文字。もちろん適正語であるから、戦後書かれたものに違いない。ちなみにこの第二海堡は、英語表記にすると「No.2 SEA FORT of Tokyo Bay」となる。
で、前回きた時は、この台座近くに露出したレンガ積み等を見学したのだが、そこと防波堤の間が発掘されるように掘りかえされていた。
この第二海堡には、地上部にはもちろん砲台がある。兵たちの居住施設や司令部、あるいは砲弾などの貯蔵庫はすべて地下に造られていたようだ。
発掘をすることによって、その全貌を明らかにすべく調査が行われているのだろう。
もともと地下に埋まっていたものなのか、どうなんだろう。ここへ来る途中にある横須賀中央沖合にある無人島 猿島にも砲台が置かれていた。関連する施設はやはり地下に設けられていた。同じような感じだったのかな。
案内人の方からこれらの建造物を構成しているレンガの話があった。組み上げられている時には裏に隠れるようにされていたらしいが、何個かに一個こうやって桜の方が押されているレンガがあるのだそうだ。これは、浦賀にある千代ヶ崎砲台跡でもきいた。
再び小高いところにのぼる。ちょうど灯台のあたりだ。
先ほどの文字が書かれた台座を上からみるとこんな感じとなる。コンクリートで作られた台座は割れている。震災によって壊れたのか、アメリカ軍によって壊されたのか・・・写真右側のフェンスのあたりに加農砲が据えられていた。ただし、実戦で使用されたことは一度もなかった。
その砲台と砲台(全部で3基据えられていた)の間には観測用のこんな構造があった。ここから、敵が襲来したときそこまでの距離を元に砲の角度などを指示したのだそうだ。
ただし、命中確率は10%程度。
そして、唯一実戦で使用されたのが、太平洋戦争当時に設置された高射砲。上の写真は、その砲座跡だ。東京や横浜に空襲にやってくるB29に向けて、ここから撃ったらしい。1分間に15発撃てる性能だったらしいが、25キロの弾を人力で装填するため、その性能で稼働することはとてもできなかったと案内の方の説明にあった。
ここまででほぼ滞在1時間。説明人の方の話に耳を傾けたり、実際にレンガ積みに触ったり、写真を撮ったりあっという間の上陸時間。
再び、「フレンドシップ1」に乗り込んで、三笠桟橋へ戻ることとなる。