4日早朝、カルロス・ゴーン氏が再逮捕された。

そして連日、マスコミは挙ってゴーン氏の人間性を否定する報道を続けている。

 

ゴーン氏は11日に記者会見を行う予定だったという。

その予定を知るや否や、東京地検特捜部は、ゴーン氏を再逮捕した。

これが特捜部による恣意的な判断であったのか、あるいは、なるべくして成ったゴーン氏の悪業の報いなのか、

その真実はゴーン氏の心中にのみ存在する。

 

ところで、検察のやり口を良く知り、その被害を一身に受けた経験のある者からすれば、

日本の検察ほどタチが悪く信用できない組織はない。

ちなみに、今回のゴーン氏の再逮捕に関して、ゴーン氏の妻キャロルさんはこう話している。

 

〝弁護士や通訳に電話することも許されず、女性係官の見張りなしではトイレにも行かせてもらえなかった。

パスポートと携帯電話は没収された。〟(出典・DIAMOND online)

 

 

明らかな違憲行為である。

逮捕状が出ているゴーン氏はもとより、

逮捕もされていないキャロルさんが弁護士への電話も出来ないというのはおかしい。

もし検察が「法律上許されないことだから」と言ったのなら、それは真っ赤な嘘である。

 

また、キャロルさんのパスポートや電話を押収したもの違憲である。

実はそれはゴーン氏の所持品についても同じことが言えるのだが、本来、逮捕令状と家宅捜索令状があっても、

差押令状がなければ、所持品など物品を押収することは、実は許されていない。

実は許されていないが、それを素人は知らないから、検察はしれっと押収してしまう。

そしてこれが慣例となっているため、捜査官自身、このことが違憲行為であるということを認識しないようになっている。

 

さて、本題である、ゴーン氏は正か邪か、について。

その答えは、「正」であるものと思われる。

その理由は、検察が強引すぎるから。

もしもゴーンが邪であれば、ここまで強引にする必要もない。

検察が強引に動く時、そこには常に欺瞞が伴う。

 

マスコミが一極的な報道に専念している様子も不自然だ。

マスコミが一極的な報道に専念する場合、その多くは国策であると考えるのが自然だ。

 

 

〝検察は、ゴーン被告の保釈の条件となっていたリビングの監視カメラのレンズを覆い、ほぼすべての所持品を押収した。キャロルさんが拘置所の夫に宛てた書簡の束も持って行ったという。〟(出典・DIAMOND online)

 

裁判所はよく、「証拠隠蔽の恐れがあるから」として保釈を認めない。

しかし、人質司法の最大の目的は、「無実の証拠を隠蔽するため」である。

 

検察やマスコミがゴーンを叩けば叩くほど、

検察のやり口をよく知る者から見れば、ゴーン氏の潔白は明白になっていく。

 

 

 

 

 

 

 

私はもともと音楽家である。

若かりし頃はプレイヤーとして舞台に立ち、23歳で制作会社を設立したと同時に裏方に回った。

作詞・作曲した作品は、これまでざっと数百。20代はディレクターとして活動し、30歳の頃にはプロデューサーとしてメジャーレーベルから制作を一手に請け負ったりした。

音楽を心から愛している。他のビジネスでは多少あざといこともしてきたが、音楽に関してだけは、とことんストイックに向き合ってきた。

 

そんな私からすると、現代では音楽は終わった。

いや、正確にいうなら、音楽業界が終わったというべきか。

 

つい先日、若手のミュージシャンとやらがテレビのインタビューでこう言っていた。

「音楽っていうのは、MVまで含めて初めて成立するものなので。。。」

 

何を若造がわかったような事いっているのだ。

ふざけんじゃない。

 

私からいわせてみれば、音楽が終わり始めたのは、プロモーションビデオ(現在のMV)というものが作られてからだ。

聴くものから、観るものに変わった瞬間である。

その完成形は、マイケルジャクソンかもしれない。いや、マイケルは良い。というか、素晴らしい。

マイケルの曲は、聴くだけでも凄まじいクオリティを誇っていた。

そこにダンサーを引き連れて、これまた凄まじいダンスパフォーマンスを見せてくれるのだから、これを超えることは難しい。

 

私が「終わった」と言っているのは、そういう次元にまで及ばないくせに、口先だけで「音楽」を語る連中のことである。

 

 

その昔、世界にはテレビがなかった。ラジオだけが情報や娯楽を支えるメディアの時代があった。

ママは、庭で洗濯を干しながら、ラジオを流していた。

そんなラジオから、あらゆるジャンルの曲が流れていた。

中には、バンド・アレンジや歌い方にものすごい個性を打ち出すものもあった。

ラジオだけで聴く者にショックを与えていたのである。

 

例えば、歌手。

歌に集中すれば、声帯を微妙にコントロールする際(高い声や低い声で微妙なニュアンスを出したり)、発声に集中するあまり、「変な顔」になってしまったりする。

モノマネ師は、そういう変な顔を真似して世間を笑わせた。

 

ところが、である。

テレビやビデオが当然になってからというもの、歌い手は、「格好良い顔」をすることに集中するようになった。

顔を気にしていたら、発声に集中なんかできない。当然、歌は二の次になっていったのである。

 

テレビはビデオの罪悪はまだある。

昔は「プレイ」する姿を見るだけで満足できたものだが、最近ではダンスが必要になった。

観る者たちが、もっと面白いものを見たいという欲にかられ、そして発信する側(エンターティナー)が、これに迎合した。

一人でダンスするより、大勢の方が迫力がある。

そうやって、1人〜2人が歌い、そのバックでクラス全員で踊るようなパフォーマンスが横行しはじめた。

 

ダンスの型も、日本・韓国共に、オリジナリティのかけらもない。

どこかで見たような、R&BとかHipHopとかの真似ごとばかりである。

これなら、チアダンを見ていた方が、はるかにエキサイトできる。

どこかで聞いたことがあるようなメロディーと歌詞に、鼻先で歌うような弱々しく魂のこもらない歌、そしてバックはクラス全員でダンス。。どこを見ても同じである。もう勘弁して欲しい。

 

本物のディレクター、プロデューサーがいなくなってしまったのだろうが、それにしてもひどい。

本物がいない。

玉石混交、、、どころか、玉がどこにも見当たらない。

 

何度も言うが、音楽は「聴く」ものなのである。

よく、社会派のドラマなどでは、社会における『ダークサイド』が描かれる。

ドラマの中のダークサイドは、夜な夜な権力者が集う料亭や、閉ざされた会議室の中で描かれる。

しかし、それはリアルではない。実際には、社会のダークサイドは、常に見える場所に存在するのである。

 

例えば、私の友人・西山氏は、無実の罪で収監され、しかも法を無視した官権力者たちにより、長期服役を言い渡されている。

何の物証もなく、また希薄(というか、もはや無茶)な法的根拠を基に、強引に有罪に持ち込まれた。

弁護士や法学者など、法に明るい方々が憲法に照らし、私の無罪を主張し、争ってくれたが、官権力によりすべてが握りつぶされた。

 

西山氏の裁判には、本物の悪人・玄川(くろかわ)が出廷した。

その証言を見た刑務官(被告人を裁判所に連行する拘置所の担当官)は、この時初めて玄川という男を見たので、事前に玄川の人間性などを知る由もなかった。しかし、玄川の悪意に満ちた証言を聞いた後、被告である西山を連行する際に、思い余った様子で、こう聞いてきたという。

 

「あの玄川っていうの、あれ凄く悪い人だよね。あの人こそ、何で逮捕されてないの?」

 

法的なことを解説するには、このブログは適さない。話せば長くなるので、掻い摘んで説明すると、、

実はこの時、玄川は、検察側証人として出廷していたのである。

無実の西山氏を有罪にするために検察が無理やり作り出した証人、それが玄川だったのである。

玄川の証言を聞いた者は皆、「こんなこと述べているこの男、なんで検察は逮捕しないの?」と思ったようである。

しかし、検察官と玄川は、事前に打ち合わせした通り、にこやかに会話を交わしながら(尋問とは思えない様子で)、ありもしない西山氏の罪を並べ立てた。

この証言が重用され、西山氏は有罪になった。

この頃の日本では、司法取引は認められていなかったのであるが。

 

裁判所は、こういった検察の無茶を、前面的に支持する。

弁護側が出す証拠は前面的に却下、検察側の証拠や主張は、どんなに無理のあるものでも前面支持。

それが日本の司法のあり方なのである。

 

西山氏の罪状は「麻薬密輸」であった。

西山氏が玄川の弟分に頼まれ英語で発注した製品は、完全に合法な物質だった。にも関わらず、「麻薬」が届いたのだという。

「麻薬」といっても、西山氏が逮捕されるつい半年前に、厚労省によって強引に「麻薬」に指定された物質である。

かといって、西山氏は麻薬指定の物質など発注していない。念入りに法規制をチェックし、そして合法な物質を選んだ。

しかも、それは西山氏が扱う品物ではない。何度も言うが、玄川の弟分に依頼され、西山氏は発注作業を代行したに過ぎなかったのである。

しかし、先に逮捕された玄川の弟分が、すべてを西山氏の指示により行われたもので、恐ろしい西山氏には逆らうことが出来ず、仕方なく荷物の受け取りを担った、と虚偽の供述を残した。

検察や麻薬取締局は、この玄川弟の供述を鵜呑みにし、何の裏付けも取らないままに、西山氏を逮捕し、その直後、全国に報道した。これにより、西山氏の運命は決まったのである。

 

後日、西山氏の供述を基に、裏付け捜査が行われたが、西山氏が麻薬を密輸したという証拠は、何一つ出てこなかった。

当然である。やっていないのだから。

焦ったのは当局の連中である。全国に報道した後で、「間違いでした」とは言えない。

 

その後、検察は、西山氏の裁判を延々と延長させた。既に提出されていた資料を再編集し、何度も何度も「新証拠」として裁判所に提出し続けたのである。もちろん、裁判所はこれを喜んで受理した。こうして西山氏の裁判は、公判開始から半年以上も「新証拠」の提出のみで開廷され、延ばされた。

当局は、この間に、嘘でも良いから西山氏に不利となる証言をする証人を集めた。

玄川もその一人であった。

 

さて、西山氏の弁護人や、西山氏を擁護する法学者たちは、私が密輸したという「麻薬」物質の真偽について争った。

西山氏の事件では、「麻薬」であったという証拠は税関員による「確かに麻薬でした」という書類のみで、その科学的裏付けも為されないまま西山氏は起訴されていたのである。

化学物質を扱う事件において、科学捜査の裏付けとなる「クロマトグラフィー」の提出もない状態で、裁判所は「確かに麻薬」と判断した。弁護人たちは、それは明らかな憲法違反である、と主張をしたが、前面的に却下された。

 

 

一説には、日本司法において、起訴された事件における有罪率は、99.98%とも言われている。

つまり、起訴されたら、被告に助かる道はないのである。

 

全国報道されるような大きな事件において、無罪判決が出た場合には、その検察チームは解散となり、全国散り散りに飛ばされるという。また、検察の意向に反し、無罪判決を出した裁判官は、出世の道から外され、地方などに点々と飛ばされる生活を強いられるようになるという。

官憲にとって、それは屈辱である。そんな目に遭うくらいなら、間違いであろうと一度立件した事件は、何としてでも成立、、つまり有罪にしなければならない。

 

これが日本の官憲による「正義」である。

一般人の人生など、虫けらのそれ程とも感じていない。

選ばれた自分らが、偉くて偉くて堪らないのである。

万が一、自分らの「正義」を覆す恐れのある者が現れたとしたら、彼らは暗黙のうちに一致団結して、これを葬るだろう。

 

一方、自由と真実を追求すべきマスメディアは、権力の前では単なる提灯持ちに過ぎない。

「これを報道しろ」と言われれば無条件で報道するし、するな、と言われればしない。

また、戦後教育やメディアによる洗脳が完成されてしまっている現在、当局やマスの発表に疑問を感じる者など、ほとんど存在しない。存在しているとしても、社会の影に追い込まれているか、「異常者」として魔女狩り宜しく迫害を受けたりする。

 

そういう事実からして、真実に宿る正義は影に追い込まれて、欺瞞に満ちた権力者によるご都合正義に光が当てられている。

ダークサイドこそが陽の当たる場所、つまり表社会の中にあり、権力の伴わない「真実」は、闇に葬られてしまっているのである。

 

 

『上を下に、下を上に入れ替える。

 鶏供は、はしゃぎ飛び舞い、

 鳳凰様は、籠の中。

 玉と石とは混ざり合い、

 同じ升で量られる』

 

春秋時代、屈原が詠んだ詩である。

亡国の兆しを詠み、嘆いた詩である。

 

 

 

安倍政権では、お金を擦ってばら撒いてきた。

これで景気が回復すると思い込んでいるのか、あるいは、その場凌ぎの苦肉の策なのか。

 

民主党政権時代、焼肉屋の集団食中毒事件が起きた。

これを受け、政府は、レバ刺しやユッケの販売を禁止した。

私は、この政策をみて、お犬様を思い出した。

 

「お犬様」と言えば、徳川綱吉将軍時代に行われた「生類哀れみの令」のことである。

しまいには犬の命の方が人のそれより重んじられ、犬のために人が処刑されるところまで社会は荒れた。

綱吉といえばお犬様が有名だが、綱吉時代の愚策はこれだけではない。

もっとも問題となったのは、「元禄小判の鋳造」である。

新たに小判を鋳造したわけであるが、その際に、砂を混ぜ、金の比率を下げたのである。

つまり、少ない金で多くの小判を作ったわけである。

 

一時は、これにより、幕府の財政は潤った。

いや、正確にいえば、潤ったように見えた。しかし、このしわ寄せは、数年後に現れることとなった。深刻なインフレが起きたのである。

 

それは当然だ。

当時の日本は鎖国中だったので外貨を稼ぐアテもないのに、ありもしない金を多く見せただけ、これではいずれしわ寄せが来るのは明白だ。

 

安倍政権も似たようなことをしている。

デフレ脱却を狙ったあげく、また深刻なインフレを引き起こそうとしているのである。

本末転倒だ。

 

 

さて、先のユッケの件。

私は食に関してはプロの知識があるのでここで述べるが、ユッケで集団食中毒を受けこれを禁止した、というのでは、これも本末転倒である。

まずは、何故集団食中毒が起きたのか、それを考察するべきである。

私から言わせれば、これこそがデフレの影響だ。

そもそも、四つ足動物の刺身を「安価」で食べようとすることに無理があるのである。

安価にしようとした結果、店舗ではプロの職人が雇えなくなる。生肉会社の食肉管理も然りである。つまり、ユッケ食中毒は、プロの仕事が軽視されたことで起きたのである。

 

では、これに対し、どのような政策をとるべきであったのか。

結果から言おう。河豚料理と同様、四つ足動物の刺身に関して、免許制にするべきなのだ。

免許制にすれば、資格取得者の意地にかけて、中毒などの事故は起こらないよう最新の注意を払うことになる。また、免許制でなければ扱えないとなれば、肉刺身料理の価格も、徒らに下げる必要もなくなる。デフレ脱却につながるのである。

 

老子いわく、「法網で統べようとしても、民衆は法網の隙間を潜り、これを恥と思わなくなる」とのこと。

レバ刺し・ユッケが禁止になってから、桜ユッケなる「馬肉のユッケ」が合法として出されるようになった。牛肉の刺身より、はるかにリスクが高い。

 

そうでなく、「許してコントロール」をした方が、民衆は恥を知り、そしてそれはいずれ、景気回復にもつながるものと私は考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

日本では、「南京大虐殺などなかった」とか、「慰安婦問題はなかった」という意見が意外に多い。生き証人たる戦争体験者が少しでも存命しているうちは、その意見にも程度が限られるであろうが、戦争体験者が絶滅した後の時代では、恐らく、こういう意見がもっと幅をきかせてくるに違いない。

 

戦争を語るには、その時代の背景を読まねばならない。

各時代の社会通念や社会情勢を知るのは必須であろう。

 

ちなみに、私の兄は、学校教育が正しいと本気で考える人間であるが、その兄は、「戦争を起こしたのは東條英機だ。奴は悪人だ」と、アメリカGHQが広めた教えを盲信している。

もう少し広い視野を持つべきではないか、とでも意見しようものなら、逆上してくるので面倒だから彼には何も言わないでおく。

 

戦争など、たった一人の人間が起こせるはずがない。

彼(私の兄)が、東條英機を悪者にして何の疑問も持たないでいられるのは、ボスになった経験がないからであろう。(超零細企業の社長にして、その会社の経営も成立させられず、年老いた親から大金を借りたまま返さなかったり、たった一人の従業員を抱えることを自慢する程度の人物なので仕方ないのであるが)

 

組織は大きくなればなるほど、コントロールが難しくなる。

末端になればなるほど人物と呼べる人材は乏しくなり、そして彼らはよく暴走する。

 

例えば、大きな暴力団組織が睨み合っているとしよう。

しかし、ボス同士は様子を見あっている。まだ抗争を始めるべきでないと考えているからだ。

そんな中、ボスの気持ちを理解できないでいる末端の組員同士が盛り場などで出喰わし、揉め事を起こす。そしてどちらかの組員が殺される。

こういうことが口火となり、大組織間の抗争は始まったりするのであるが、ボス同士の心中としては、全くの不本意だったりする。しかし、立場上、やらざるをえなくなる。

 

上記のようなケースならまだ良い。

場合によっては、第三者の介入により、末端組員にスパイがまぎれ込み、強引に揉め事を作ることもある。抗争により両者が弱ったところを丸ごと飲み込む作戦である。

これはまさに、幕末以前の欧米による植民地化作戦そのものである。

 

第二次世界大戦においては、事実上、「ノモンハン事件」がそのきっかけを作ったと言ってよい。

辻政信という軍人(その他数人の士官含む)が、大本営の命令を無視してノモンハンで暴れたのである。

ノモンハン戦線では、辻は最高責任者ではなかったので左遷されただけで済み、後日栄転復帰する。そこでまた真珠湾攻撃作戦を推進させた。

戦後、辻はラオスあたりで失踪した。逃げたのか、殺されたのか、、、生死のほどは不明である。

いずれにしても、実に怪しい人物である。

 

戦後行われた東京裁判では、A級戦犯であった岸信介が無罪放免となった。

現在の安倍総理の祖父にあたる。

戦勝国が戦勝国側の価値観のみで行われた裁判において無罪となったことに、どんな意味があるのであろうか。

 

現在、日本には、米軍基地が点在しているが、それは事実上、日本がアメリカに現在をもって占領され続けていることを意味している。安保条約という呼び方、それは、「売春」を「援助交際」と呼ぶのと似ている。(つまり言い方で本質の意味合をぼかしているが、やっていることを同じということ)

 

戦勝国が占領する国においては、戦勝国側に都合の悪い人物は悪人とされ、都合の良い人物は英雄とされる。ちなみに、二次大戦における悪人は東條であり英雄は岸である。

 

 

台湾には、親日派が多い。

台湾を占領した日本軍は、懐柔策として台湾に学校を作ったりして善政を施した。

一方、朝鮮半島や中国に侵攻した日本軍(主に関東軍)は、台湾とは逆に、蹂躙政策をとった。

末端の構成員の人格によって抗争が引き起こされる暴力団と同様に、同じ日本軍にしても、各軍の体制によって、結果は全く違うものになってくる。

 

例えば、慰安婦問題はなかった、という人は多い。慰安婦は自らの意思により喜んで来たのだと述べる人もいる。もちろん、そういう慰安婦も大勢いたであろう。もともと売春で生計を立てていた者にしてみれば、植民地化された朝鮮本国にいるよりも、軍人相手の仕事の方が割がよかったりする可能性もあるからだ。

しかし、それでも慰安婦の数が足りなくなった当時の日本軍はどうしたのであろうか。

嫌々連れてこられた女性も多数存在するであろう。

 

物事は、局面だけで見てはわからないのである。

 

 

最後にひとつ、伝えたいことがある。

現在のアメリカには、「原爆投下はなかった」とする説が横行しはじめた。

こんな説を聞いて、日本人はどう思うのであろうか。

 

私は、「仁」をもって、歴史を振り返りたい。