士農工商の復活。

それが新しい社会のあり方に思えて来た。

 

細かい話は徐々にとして、取り急ぎ述べたいのは以下の通り。

農民の公務員化。

 

現代の農家は厳しい環境に晒されている。

まずはJAが悪ど過ぎる。

今のシステムでは、頑張っても稼げない。

 

敗戦後、日本の農業はアメリカにより潰され続けている。

ついに日本の自給率は35%程度にまで落ち込んだ。

もしも鎖国をしたら、ご飯が三分の一しか食べられないということだ。

国を潰さないためには、自給率は100%以上でなければならない。

しかし、やってもやっても努力の甲斐がなければ、農業は廃れて当然である。

そこで公務員化だ。

 

農業公務員は、ゼロからスタートできる。

土地もインフラも、国から借りてスタートするのだ。

仮に災害などにより作物が全滅しても、国から給料はもらえるので干上がらない。

新たな設備も、(当然申告者には調査は入るが)国の援助によって賄える。

 

しかし、作物を作らなくても給料が貰えるなら、努力しなくなるのではないか、という不安もあるが、それは、生涯生産量により年金が決まるというルールで解消できる。

頑張って量産すればするほど、年金が高くなるのだ。

 

今回は農業のみをクローズアップしたが、農水林は全面的に公務員化するべきだ。

私が君主を務められる国があるとしたら、必ずこうするだろう。

 

 

 

 

1月30日 00:52に投稿した「宇宙が」。

今の宇宙論ではない世界が広がっているはず、という内容を書いたが、それではあまりにいい加減なので、もう少し言及しておきたい。

 

太陽系惑星には、決まって似たような場所にヘソがある。

分かりやすいのは木星の大赤斑、土星の大白斑など。

これがヒントとなった。

 

ハレー彗星が地球に接近するのが、76.02年おき。

これもヒントになった。

 

太古の昔から、人類は何故か7という数字に神秘を抱いていた。

これもヒントになった。

 

宇宙は無限に広がる無限の空間ではない。きっと。

螺旋に例えると、遠くへ遠くへ行ったはずが、ごく近くに来てしまう。

マクロを追いかけた結果、ミクロに入ってしまう。

 

宇宙って、こんな感じなのではないかと私は考えている。

 

「鏡映し」は不吉という考えがある。迷信だけど。

でも、これはヒントを隠すため。

きっと太古の昔から、知っている人は知っていたんだ。

 

宇宙は万華鏡のようなもの。

同じものが、あっちこっちに映り込んでいるだけのようだ。

 

様々な宇宙線、その中に、X線のようなものもあれば、ガンマ線もある。

βもαも色々ある。

そういう放射線によって、同じものが違った形で映り込む。

地球の水だけを映した海王星。酸化質だけを映した火星。マントルだけ映した太陽。

 

いや、こんな物理的な考えは違う。

もっと宇宙は神秘的なんだ。

 

例えば、生き物は、物質と非物質とで出来ている。

物質は細胞、非物質は精神。

これらが重なった時、生命は動きだす。

 

太陽は精神・生命力を映し、月は物質・身体だけを映している。

金星は少し先の未来。火星は少し前の過去。

ただ、宇宙でいう「少し」は、地球では果てしない。

 

よく見ると、多くの星座の要は7つの星で出来ている。

7つの星は、真理を表す数。だからどうしても見えてしまうんだ。

 

世界の4と、神の3を合わせると、三次元の十字架ができる。

三次元の十字架には、7つの星が光る。

その模型は、また今度お見せしましょう。

 

ずっと果てし無く、限りなく広がるように見える宇宙。

でも実はそれは、鏡映しの奥の奥を覗いているだけ。

 

顕微鏡の機能が優れれば優れるほど、小さなものが見えるようになる。

望遠鏡の機能が優れれば優れるほど、遠くのものが見えるようになる。

 

どんどん遠くを見る天体望遠鏡と、どんどん小さなものを見る顕微鏡、

お互いの目が合ってしまう時、宇宙の真理が理解できるはず。

 

火星と木星の間に存在する2000個を超えるという小惑星群。

その空間をヴァルハラという名にした人は、きっと気づいていたはず。

 

北欧神話のオーディーンは、四角い部屋の中心に玉座を起き、右肩と左肩にとまるカラスを過去と未来に飛ばし、宇宙のすべてを知るらしい。

宇宙の真理を知っていた人たちが作った神話。

 

そろそろ、コペルニクス的転回が起こる時期。

それは、ここで宇宙論が真っ逆さまになる時。

 

宇宙は無限に広がってなんかいない。

ずっと遠くに行ったはずが、螺旋を描いて、すぐ身近に戻っているんだ。

ただ、サイズが変わっていたり、時間が違っていたりするから、わかりにくい。

 

宇宙の話、またするね。

 

 

 

西山は、もともとはミュージシャンであった。しかし、持ち前の創作意欲により、ラジオや映像、コンピュータゲームなど制作に参加し、ディレクターを経てプロデューサーにまで駆け上がった。

典型的な「叩き上げ」の人間である。

制作会社や代理店に所属した経験もなく、何の後ろ盾もないフリーの立場でありながら、メジャーレコード会社や、映画会社、ゲームメーカなどから直接依頼を受け、制作を請け負っていた。

 

また若い頃から大手出版社にライターとして起用されたという遍歴もあり、2冊の著作物を発表している。

 

さらには、日本における格闘技ブーム全盛の時代、プロ格闘技選手や興行主などから依頼され、犬猿の仲であった格闘技団体同士を水面下で繋ぐなどして、その功績から、プロ格闘技協会の理事長まで務めるに至った。

 

40歳を手前にした頃、再び音楽業界に戻ったが、ジャンル細分化により混沌とする業界の苦境を見て、新たな事業形態を模索するようになった。

ダウンロードコンテンツの黎明期、周囲の理解を得られぬ劣悪な環境において、新たなコンテンツ制作に身を切る形で乗り出した。

アーティストの舞台となるCLUBの流行が徐々に下火になる中、地方の町興し的なイベントに率先して参加し、例えば、宮崎・都城市で行われた1万人規模の野外フェスでは、現地の主催者の負担を極限まで減らすため、損得勘定抜きでブッキングから舞台監督まで1人でこなした。

 

そんな毎日を送る中、ある出来事が起きた。

肺癌による実父の死、そして2人の姉妹の癌化、それらが西山の運命を大きく狂わせていった。

西山の運命を大きく狂わせたのは、その実父の死であった。西山の父の死から4年後、「麻薬密輸」の容疑で、西山は逮捕された。

西山が行政に睨まれる原因は、デザイナーズドラッグであった。西山にとってデザイナーズドラッグは、ある種、希望の光である。しかし、行政は、西山のこの活動を、問答無用に「悪」とし、徹底的に弾圧した。

 

 →デザイナーズドラッグへのこだわり 

 

ともあれ、西山は逮捕された。

西山逮捕のきっかけは、別の人物の逮捕にあった。合法的な物質を購入できるよう、西山にその交渉を依頼した藤名実(ふじなみのる/仮名)という者が原因である。

先に逮捕された藤名が、「西山という恐ろしい人間に脅されて荷物を預かっただけ」という供述をした。検察はこの供述をまるで鵜呑みにし、西山の逮捕に及んだのである。

 

→藤名実ほか、逮捕者たちの供述

 

「合法な物質以外には触れていないし、触れようともしていない」「証拠はパソコン内に保存されているEメール記録を確認すれば、全ては立証される」などとして、西山は無実を主張したが、検察がこれを聞き入れることはなかった。

 

逮捕から数日後、まだ何の捜査も進まぬまま、全国ネット放送局および全国紙において、一斉に西山逮捕の報道が為された。報道各社揃っての、その律儀な報道の姿勢は、報道統制が敷かれたという事実を物語っていた。

→疑惑の報道統制

安倍内閣による「徹底的に弾圧」という命令を受けた厚生省・麻薬取締局そして検察は、功を焦ったのか、まだなんの確証も得られぬまま、勇み足を抑えきれず、西山の事件を

全国に向け、報道してしまったのである。

それは、まさに「見切り報道」と呼ぶに相応しい所業であった。

 

何とも間抜けな話であるが、以降、この行政官たちによる失当のツケを、西山は人生をかけて支払わされることになる。

 

→あり得ない起訴

 

逮捕から一年一ヶ月もの間、西山は拘置所の独房で過ごした。そのうち丸一年間は「接見禁止」がつけられていたため、家族が面会に来ることも、手紙をやりとりすることも出来なかった。

 

→人質司法

 

無論、西山は無実を主張した。

西山が海外から取り寄せようとしたのは、当時、何ら規制されていない合法的な物質だった。したがって、当然のことながら、報道にあるような麻薬物質ではない。

また西山は、「合法的な物質を注文した経緯はEメール記録に残っている。でそれを確認して欲しい。無実の証拠はそこにある」と何度も主張したが、検察官はそれを完全に無視した。西山が「確定的故意」により、つまり意図的に海外から麻薬物質を密輸しようとしたものと決めつけていたのある。

 

逮捕から二ヶ月、西山は拘置所の独房に拘禁され続けていた。長期に渡る取り調べは、西山の身も心も疲労させていたが、それでも、その主張するところは、一切ブレることはなかった。何故なら、それが真実であったのだから、ブレようがない。

 

そうした頃、検察によるパソコンデータの解析が完了し、西山が主張していたEメール記録が確認された。その物的証拠により、西山は確かに、違法な物質ではなく、合法の物質を注文していたことが明らかになった。

 

「何の証拠もありませんでしたわ」

そう述べる取調べ捜査官の表情を窺い、誤認によるこの逮捕劇が終わりを迎えたことを、西山は悟った。近いうちに釈放され、自宅に帰れるものと、心が弾んだ。

 

しかし、翌日現れた取調官は、複雑な表情を浮かべながら、「少し前なら、こんなの事件にもならなかった」と漏らした。そして、私の勾留がさらに延長される、つまり私が再度逮捕されることを示唆した。

無実が明らかになったことを受け、検察は、そのEメール記録という物証の価値を消滅させるため、今度は「未必の故意」による麻薬密輸事件として、捜査方針を切り替えたのであった。

 

→「確定的故意」と「未必の故意」

→取締官「少し前なら事件にもならなかった」

 

「確定的故意」とは、意図をもってその犯罪を行った場合のことを言う。この事件の場合でいえば、「麻薬を入手しよう」という明確な意志があり、何かしらの工作をもって密輸行為に及んだ場合のことである。

 

これに対し、「未必の故意」とは、「結果的に犯罪になっても構わない」と考えながら、その行為に及んだ場合をいう。

例えば、殺人事件で例えると、ナイフで刺した相手が死んでしまった場合、脅しや多少の生涯を負わせる程度の気持ちでナイフを振ったのか、殺しても構わないと思いながらナイフを振ったのか、これが「未必の故意」の争点となる。

 

上記殺人事件の場合、未必の故意が立証されなければ、つまり事前に殺意を持っていなかったことが立証されれば、「傷害致死罪」となり、量刑もそれなりに軽く済む。

一方、「殺すことになっても構わない」と思ったことが立証され、未必の故意を構成する要件が満たされると、「殺人罪」が成立し、重い量刑が科されることになる。

 

西山のケースでは、検察は当初、明らかな故意をもって密輸に及んだ「確定的故意」を主張していた。しかし、明らかな無実の証拠が出てきてしまったために、「西山は、合法物質を注文しつつも、麻薬が送られてくる事を容認していた」という解釈に捻じ曲げ、何としてでも「麻薬密輸事件」として起訴・有罪に持ち込もうとしたのである。

 

すべては、検察の浅慮による「見切り報道」の帳尻合わせ、間抜けな全国報道の恥を拭おうとする、検察の専横である。間抜けな役人たちが、自らの体裁を保とうと、どうしても西山を犯罪者にしなければならなくなった。まさにこれは、権力の暴走である。

 

現に、麻薬取締局は、西山の事件において、多くの違憲を行った。事実、西山は検察に対し「違法収集証拠の排除」を請求したところ、(裁判所は西山の請求を却下しようとしたが)検察側から自主的に証拠を取り下げる場面もあった。もしも違法収集証拠について審議が展開した場合、検察にとって相当に不利益な事態が予想されたものと考えられる。

 

→違法収集証拠の排除法則

 

「判検交流」とか「判検一体」と言われる制度がある。

日本の法曹界において、行政司法の癒着を揶揄した言葉として使われている。

日本では、一旦、刑事事件で起訴された被告が、有罪になる可能性は極めて高い。判検交流の環境で行われる裁判において、被告が勝てる可能性は、無に等しい。

 

→判検交流

 

第一回公判では、テレビカメラが入った。出廷前の状況を撮影するためである。時流によるものか、報道統制が敷かれたためは、西山の事件はそれほど注目を集めていた。

 

第一回公判では、裁判官による人定質問、次いで検察官・弁護人の双方による冒頭陳述、そして被告人による罪状認否が行われる。

まずは裁判所から、被告人が確かに西山その人であるかどうか、その確認がされるわけである。

次いで、検察から、この被告がどれだけの悪人であるか、どのような反社会的事件を起こしたのか、それらを読み上げられる。一方、弁護人からは、被告には犯意はなく、この事件が冤罪であること、その根拠などが述べられる。

 

そして罪状認否。

被告人による罪状の認否、つまり、犯行を認めるか認めないか、これを明確にする意見を述べるわけである。

西山の場合、この罪状認否の内容を、拘置所内で書き上げ、裁判所に原稿を持ち込み、読み上げた。

 

合法の物質以外に興味がなかったこと、その証拠は全てEメールに記録されていること、違法なものを扱うのにこれほど大っぴらな取引などするはずないこと、中国の業者にとって大きなビジネスであり取違いといったいい加減な間違いは起こり得ないことなど、誰も目からしても当然の道理として納得できるはずの内容であった。

 

西山は、この写しを多量に刷り、傍聴席にいる全てのマスメディアに配布するよう、弁護人に依頼していた。

 

この罪状認否をマスメディアに配布してから、西山の事件を報道するメディアは皆無となった。いや、裁判が行われたその地域のローカル局だけは、執拗に報道をしていたようだが。罪状認否を読んだ後、ほとんどのメディアが報道を止めた理由、それは想像に易い。無実を感じたからであろう。それ以外に、報道統制を敷かれた環境下において、罪状認否の配布を機に、報道が止まった理由は説明できない。

 

→4度目の逮捕

→その後のメディアによる報道について

 

ようやく裁判が本格的に始動したのは、第一回公判から半年以上の経った後だった。もちろん西山は、その間、拘置所の独房に勾留されたままだった。

 

→長すぎる勾留と接見禁止

 

公判において、判事たちは西山の主張を真っ向から否定した。また、公判におけるスケジュールにも、異常性が見られた。西山の裁判は、公正に真実を推し量るためでなく、なんとしてでも西山を有罪にするため、そのためだけに行われたようである。

 

→不自然に引き伸ばされる裁判

 

西山が、違法行為を厭い、厚労省発行の規制リストを入念にチェックし、合法物質の選定に拘り続けたことに関して、裁判所は、「規制一覧を念入りにチェックしていたということは、いつ麻薬が混入してもおかしくないと考えていたはず」とした。

 

西山が、化学合成物を中国の業者から取り寄せ用としたことについて、裁判所は、「中国から科学物質を購入しようとした時点で、疑わしい物質が混入されてくることは容易に想像できたはず」、つまり「中国から買えば違法物が混入して当然」という、国際問題に発展し兼ねない見解を堂々と展開して見せた。(ただし、この件に関しては、後日公判記録から全面的に削除されていた)

 

西山が、海外の物質販売会社に宛てたEメールで、くれぐれも違法物質が混入しないよう注意を促していたことについて、裁判所は、「ネット上で買い物する時、そこまで念入りに確認するのは不自然」とした。

 

 西山が、繰り返し試験を行い、安全性を重視していたことについて、裁判所は、「違法物の疑いがあり、人体に害がある物質であることは明白」と、客観的根拠を持たない、個人的な印象論にて、否定した。

 

「聞く耳を持たない」とは、まさにこのことだ。

厚労省による規制を守る守らないは関係なく、とにかく行政が気に入らない動きをしたことが犯罪なのだ、という理屈に、裁判所は終始した。

 

 

特に酷いのは、裁判所は、検察による幾多の理不尽な主張を、全面的に支持したことである。

 

検察は、海外からの輸入過程において、税関が麻薬を発見したのだという。しかし、その荷物の中身は、ただの白い粉に過ぎないので、分析器を使用しなければ、その正体を知ることは出来ない。

 

検察による「麻薬」の証拠は、「分析の結果、麻薬だった」という税関員の文言(言葉)のみであった。科学捜査において、科学的根拠を示す証拠の開示もなく、ただの「言葉」が証拠になってしまうのであれば、行政の思いのままに、誰が相手であっても、犯罪者を作り上げることが出来てしまう。こんな杜撰な捜査・裁判を許してはいけない。

 

そこで西山の弁護人は、検察に対し、「クロマトグラフィー」の開示請求を行った。

税関で抑えた荷物の中身を「麻薬」であるというが、科学的分根拠を伴う析データが提出されていない。何故データが提出されないのか不思議としかいいようがない。

というのが弁護人による請求の理由である。当然のことながら、いくら体裁を整えようとも、税関員の言葉を記しただけの書類が、証拠になるはずがない。いや、これが証拠になってはいけない。

 

しかし、裁判官は、

「行政のやる事に間違いがあるはずがない」

という根拠により、弁護人の請求を即刻却下したのである。

「証拠のデータなど出す必要はない」という意味である。

裁判官による、三権分立を完全に否定した言動に、被告性一同は度肝を抜かれたが、裁判長の姿勢はこれ以降も全く変わらなかった。

 

考えるまでもなく、おかしな話である。

検察が正式な科学分析データを開示した場合、困るのはむしろ西山の方だ。

本来、民主憲法国家における裁判では、特に科学分析を必要とする証拠品については、検察官・弁護士それぞれの手の内で分析に回し、その分析結果の信憑性におよぶまでが審議の対象になるが、日本ではそうはならない。検察が抑えた証拠品を、検察が弁護人に預けるなど、決してあり得ない。日本の裁判制度は、非常に不平等である。

検察のさじ加減次第で、いかような分析結果をも作り出すことができる。

 

さて、クロマトグラフィーの件。

本来なら、検察は、何の迷いもなく提出してくる場面である。データが存在するなら、の話であるが。

 

不可思議なことに検察は提出を拒み、裁判所もまた「提出の必要はない」として検察を支持した。

誰の目からしても、これほど不自然な状況はない。

「分析の結果、麻薬であることが判明した」と主張しているのだから、その分析結果の証拠データを出せば良いだけの話である。

しかし検察は出さない。

データは本当にあるのか。

 

西山は、税関・麻薬取締局・検察により、確たる物証もないまま逮捕され、重罪人として裁かれたのである。

また、裁判所は、憲法上および刑法上の法解釈を歪曲して判決を下した。

 

まず「未必の故意」について。

未必の故意が犯罪として認められる構成要件には、「認識」と「容認」がある。

 

西山の事件の場合でいう「認識」とは、「手違いで誤った荷物が届く可能性」を考えたことがあるかどうか、であるが、それは当然頭に浮かべることだ。だからこそ、規制一覧を念入りにチェックし、販売者にくれぐれも間違わないよう、確認を重ねている。その経緯も全てEメールに記録されており、弁護人により物証として提出されている。

 

もしも「認識」だけで未必の故意が成立してしまうのであれば、例えば、自動車の任意保険に入った人が事故を起こした場合は全て、傷害や殺人事件にならねばならない。あるいは、医師が少しでも患者の命の危険を感じながら、この手術が失敗し患者が死亡した場合には、全てを未必の故意における殺人事件に問わねばならなくなる。

 

実は、未必の故意を問う場合には、犯罪を構成するもう一方の要件「容認」こそが重要なのである。

つまり、自動車事故を起こした本人が、人が傷ついても構わないと思いながら暴走運転をしたとか、医師が、患者の死を想定して乱暴な手術に及んだとか、そういう「容認」がなければ、未必の故意の構成要件は満たない。

 

殺人事件での「殺してもいい」という思い、すなわち西山事件でいうところの「麻薬が届いても構わない」という悪意(犯意)の存在を立証出来なければ、未必の故意は立証できない。

 

西山の事件を聞きつけ、某大学法学部の教授が、裁判所宛てに意見書を提出した。この教授の専門は、「未必の故意」である。

 

西山の事件の資料を念入りに確認した上で、この法学部教授は、「容認の議論を待たずして有罪にするのは、犯罪を行っていない者に罰を与えることになるので、あってはならない」と、書面を通し、強く意見した。

 

また、「この事件で未必の故意を認めてしまうと、今後これが判例になってしまう。するとどのような事件においても裁判所は恣意的に未必の故意を認めることが出来るようになり、人権保証の原則からして非常に危険」という旨の趣旨も、明確に書かれていた。

 

ところが、法学者の意見などどこ吹く風か、第一審における判決は、未必の故意により有罪。

懲役7年6月罰金500万円。

異常に重い量刑が科された。

長く行われた(初公判から結審まで一年半以上)裁判も、全く意味はなかった。もはや、見せしめ、口封じ、の域の判決であり、有罪ありきで始まった裁判であったといってよい。

 

控訴審において、西山の弁護団は、高裁判事に対し、

 

原判決は、その信用性に関し「専門的な鑑定技術を有する者によるガスクロマトグラフ質量分析等の科学的手法を用いて、適切に鑑定がなされたことが認められる」としている。しかしながら、適切に鑑定がされたかは、前記の通りガスクロマトグラフデータの開示を受けて検討することが必須なのであり、その機会を与えないで反証の機会を奪っておきながら、適切に鑑定が認定されたと認定することは、おぞましい所業であるといわなければならない。

 

つまり、第一審における裁判所は、「科学的根拠に基づくデータにより麻薬が検出された」として、これを証拠としながらも、その肝心な科学的データの開示を拒んだ検察を擁護し、かつ分析データの開示は必要ないとしたのである。もちろん裁判所がデータを確認したという記録もない。

これほど理不尽な訴訟指揮があって良いものなのか。

 

被告である西山の主張に関しては、物証を伴う主張でも全面的に否定するが、検察の主張に関しては、物証の伴わない「伝聞」のような根拠も全面的に支持し、判決を言い渡したのである。

西山の弁護団は、第一審(地裁)によるこの所業を「おぞましい所業」として控訴審にて訴えたが、高等裁判所もまた、第一審の有罪を無条件に支持した。

 

第三審、西山と弁護団は、検察による違憲性を主張し、最高裁に上告した。

特に西山は、何とか最高裁判事にこの理不尽な状況を理解してもらおうと、弁護人による上告趣意書と同時に、本人による趣意書も提出し、さらに1~2ヶ月に一度のペースで、趣意書を送り続けた。

そのためか、通常であれば、早くて三ヶ月、長くても半年程度で結論の出るはずの上告審が、1年半にも渡り審議された。個人の刑事事件としては、異例の長期審議である。

時は独裁軍国化を目指す安倍長期政権時代。安倍政権により任命された判事で最高裁は埋め尽くされた。

1年7ヶ月後、あえなく棄却。異議申立てをするが、形通りに棄却。懲役7年6月罰金500万円が確定した。

 

→西山の現在

 

 

例えば、大企業のビルには警備員がいる。

彼らは、ビルの出入り口はもちろんのこと、各部署から社長室、

さらには金庫室(があれば)の鍵まで預けられている。

侵入者からビルを守り、

その企業に事故や事件が起こらぬよう、目を光らせているわけである。

それが警備員、すなわち「番人」の仕事だ。

 

ところが、警備員の中に、大きく勘違いしてしまった者が出現したとしよう。

警備員は、企業の心臓部にまで入れる鍵を預けられているのであるが、

勘違いした警備員は、それらの鍵を「預けられている」のではなく、

「自分が所有している」と勘違いしてしまったわけである。

勘違いした警備員、すなわち「番人」は、どこにでも出入りできる鍵を「所有」しているため、

ビルにあるすべての財産を、まるで自分の好きに扱えるものと勘違いしてしまったわけである。

 

その番人は、預けられた鍵を、自分の者のように扱い始める。

それも、享楽を目的として。

 

この場合、このビル(企業)は、どうなってしまうのであろうか。

早期にこの番人(警備員)の悪事に気づけば、傷も浅いうちに済みそうだが、

もしも最後まで気づかなかったとすれば、この企業は倒産するであろう。

 

 

 

さて、問題を地球に立て直そう。

 

神か仏か、天か妖魔か、一体誰によるものか分からないが、

地球に生まれた人間には、五本の指と、火を扱う知恵と、情報を伝達できる言葉とが与えられた。

文明が発達するにつれ、五本の指と火と言葉をもって、

人間は天空を飛びまい、地中や水中を自由に行き来することができるようになった。

これは恐らく、宇宙を創生した者が、この地球の番人として人間を誕生させたのではなかろうか。

五本の指と火と言葉をもって、人間は地球の金庫室にまで入れる権限を手にいれたわけである。

地球に事件や事故が起こらぬよう、それを守る番人だからこそ、与えられた特権なのである。

 

ところが人間たちが、この特権を、まるで自分らの力による自分らのもの、と勘違いしてしまったとしよう。

健全な地球の活動を保持させるために与えられた権限を、利己的に使い始めてしまったのだ。

 

番人が、番人である立場や分際を忘れ、勘違いし、番人の権限を悪用して、

享楽的に降るまったとすれば、地球はどうなってしまうのか。

倒産である。