西山の運命を大きく狂わせたのは、その実父の死であった。西山の父の死から4年後、「麻薬密輸」の容疑で、西山は逮捕された。
西山が行政に睨まれる原因は、デザイナーズドラッグであった。西山にとってデザイナーズドラッグは、ある種、希望の光である。しかし、行政は、西山のこの活動を、問答無用に「悪」とし、徹底的に弾圧した。
→デザイナーズドラッグへのこだわり
ともあれ、西山は逮捕された。
西山逮捕のきっかけは、別の人物の逮捕にあった。合法的な物質を購入できるよう、西山にその交渉を依頼した藤名実(ふじなみのる/仮名)という者が原因である。
先に逮捕された藤名が、「西山という恐ろしい人間に脅されて荷物を預かっただけ」という供述をした。検察はこの供述をまるで鵜呑みにし、西山の逮捕に及んだのである。
→藤名実ほか、逮捕者たちの供述
「合法な物質以外には触れていないし、触れようともしていない」「証拠はパソコン内に保存されているEメール記録を確認すれば、全ては立証される」などとして、西山は無実を主張したが、検察がこれを聞き入れることはなかった。
逮捕から数日後、まだ何の捜査も進まぬまま、全国ネット放送局および全国紙において、一斉に西山逮捕の報道が為された。報道各社揃っての、その律儀な報道の姿勢は、報道統制が敷かれたという事実を物語っていた。
→疑惑の報道統制
安倍内閣による「徹底的に弾圧」という命令を受けた厚生省・麻薬取締局そして検察は、功を焦ったのか、まだなんの確証も得られぬまま、勇み足を抑えきれず、西山の事件を
全国に向け、報道してしまったのである。
それは、まさに「見切り報道」と呼ぶに相応しい所業であった。
何とも間抜けな話であるが、以降、この行政官たちによる失当のツケを、西山は人生をかけて支払わされることになる。
→あり得ない起訴
逮捕から一年一ヶ月もの間、西山は拘置所の独房で過ごした。そのうち丸一年間は「接見禁止」がつけられていたため、家族が面会に来ることも、手紙をやりとりすることも出来なかった。
→人質司法
無論、西山は無実を主張した。
西山が海外から取り寄せようとしたのは、当時、何ら規制されていない合法的な物質だった。したがって、当然のことながら、報道にあるような麻薬物質ではない。
また西山は、「合法的な物質を注文した経緯はEメール記録に残っている。でそれを確認して欲しい。無実の証拠はそこにある」と何度も主張したが、検察官はそれを完全に無視した。西山が「確定的故意」により、つまり意図的に海外から麻薬物質を密輸しようとしたものと決めつけていたのある。
逮捕から二ヶ月、西山は拘置所の独房に拘禁され続けていた。長期に渡る取り調べは、西山の身も心も疲労させていたが、それでも、その主張するところは、一切ブレることはなかった。何故なら、それが真実であったのだから、ブレようがない。
そうした頃、検察によるパソコンデータの解析が完了し、西山が主張していたEメール記録が確認された。その物的証拠により、西山は確かに、違法な物質ではなく、合法の物質を注文していたことが明らかになった。
「何の証拠もありませんでしたわ」
そう述べる取調べ捜査官の表情を窺い、誤認によるこの逮捕劇が終わりを迎えたことを、西山は悟った。近いうちに釈放され、自宅に帰れるものと、心が弾んだ。
しかし、翌日現れた取調官は、複雑な表情を浮かべながら、「少し前なら、こんなの事件にもならなかった」と漏らした。そして、私の勾留がさらに延長される、つまり私が再度逮捕されることを示唆した。
無実が明らかになったことを受け、検察は、そのEメール記録という物証の価値を消滅させるため、今度は「未必の故意」による麻薬密輸事件として、捜査方針を切り替えたのであった。
→「確定的故意」と「未必の故意」
→取締官「少し前なら事件にもならなかった」
「確定的故意」とは、意図をもってその犯罪を行った場合のことを言う。この事件の場合でいえば、「麻薬を入手しよう」という明確な意志があり、何かしらの工作をもって密輸行為に及んだ場合のことである。
これに対し、「未必の故意」とは、「結果的に犯罪になっても構わない」と考えながら、その行為に及んだ場合をいう。
例えば、殺人事件で例えると、ナイフで刺した相手が死んでしまった場合、脅しや多少の生涯を負わせる程度の気持ちでナイフを振ったのか、殺しても構わないと思いながらナイフを振ったのか、これが「未必の故意」の争点となる。
上記殺人事件の場合、未必の故意が立証されなければ、つまり事前に殺意を持っていなかったことが立証されれば、「傷害致死罪」となり、量刑もそれなりに軽く済む。
一方、「殺すことになっても構わない」と思ったことが立証され、未必の故意を構成する要件が満たされると、「殺人罪」が成立し、重い量刑が科されることになる。
西山のケースでは、検察は当初、明らかな故意をもって密輸に及んだ「確定的故意」を主張していた。しかし、明らかな無実の証拠が出てきてしまったために、「西山は、合法物質を注文しつつも、麻薬が送られてくる事を容認していた」という解釈に捻じ曲げ、何としてでも「麻薬密輸事件」として起訴・有罪に持ち込もうとしたのである。
すべては、検察の浅慮による「見切り報道」の帳尻合わせ、間抜けな全国報道の恥を拭おうとする、検察の専横である。間抜けな役人たちが、自らの体裁を保とうと、どうしても西山を犯罪者にしなければならなくなった。まさにこれは、権力の暴走である。
現に、麻薬取締局は、西山の事件において、多くの違憲を行った。事実、西山は検察に対し「違法収集証拠の排除」を請求したところ、(裁判所は西山の請求を却下しようとしたが)検察側から自主的に証拠を取り下げる場面もあった。もしも違法収集証拠について審議が展開した場合、検察にとって相当に不利益な事態が予想されたものと考えられる。
→違法収集証拠の排除法則
「判検交流」とか「判検一体」と言われる制度がある。
日本の法曹界において、行政司法の癒着を揶揄した言葉として使われている。
日本では、一旦、刑事事件で起訴された被告が、有罪になる可能性は極めて高い。判検交流の環境で行われる裁判において、被告が勝てる可能性は、無に等しい。
→判検交流
第一回公判では、テレビカメラが入った。出廷前の状況を撮影するためである。時流によるものか、報道統制が敷かれたためは、西山の事件はそれほど注目を集めていた。
第一回公判では、裁判官による人定質問、次いで検察官・弁護人の双方による冒頭陳述、そして被告人による罪状認否が行われる。
まずは裁判所から、被告人が確かに西山その人であるかどうか、その確認がされるわけである。
次いで、検察から、この被告がどれだけの悪人であるか、どのような反社会的事件を起こしたのか、それらを読み上げられる。一方、弁護人からは、被告には犯意はなく、この事件が冤罪であること、その根拠などが述べられる。
そして罪状認否。
被告人による罪状の認否、つまり、犯行を認めるか認めないか、これを明確にする意見を述べるわけである。
西山の場合、この罪状認否の内容を、拘置所内で書き上げ、裁判所に原稿を持ち込み、読み上げた。
合法の物質以外に興味がなかったこと、その証拠は全てEメールに記録されていること、違法なものを扱うのにこれほど大っぴらな取引などするはずないこと、中国の業者にとって大きなビジネスであり取違いといったいい加減な間違いは起こり得ないことなど、誰も目からしても当然の道理として納得できるはずの内容であった。
西山は、この写しを多量に刷り、傍聴席にいる全てのマスメディアに配布するよう、弁護人に依頼していた。
この罪状認否をマスメディアに配布してから、西山の事件を報道するメディアは皆無となった。いや、裁判が行われたその地域のローカル局だけは、執拗に報道をしていたようだが。罪状認否を読んだ後、ほとんどのメディアが報道を止めた理由、それは想像に易い。無実を感じたからであろう。それ以外に、報道統制を敷かれた環境下において、罪状認否の配布を機に、報道が止まった理由は説明できない。
→4度目の逮捕
→その後のメディアによる報道について
ようやく裁判が本格的に始動したのは、第一回公判から半年以上の経った後だった。もちろん西山は、その間、拘置所の独房に勾留されたままだった。
→長すぎる勾留と接見禁止
公判において、判事たちは西山の主張を真っ向から否定した。また、公判におけるスケジュールにも、異常性が見られた。西山の裁判は、公正に真実を推し量るためでなく、なんとしてでも西山を有罪にするため、そのためだけに行われたようである。
→不自然に引き伸ばされる裁判
西山が、違法行為を厭い、厚労省発行の規制リストを入念にチェックし、合法物質の選定に拘り続けたことに関して、裁判所は、「規制一覧を念入りにチェックしていたということは、いつ麻薬が混入してもおかしくないと考えていたはず」とした。
西山が、化学合成物を中国の業者から取り寄せ用としたことについて、裁判所は、「中国から科学物質を購入しようとした時点で、疑わしい物質が混入されてくることは容易に想像できたはず」、つまり「中国から買えば違法物が混入して当然」という、国際問題に発展し兼ねない見解を堂々と展開して見せた。(ただし、この件に関しては、後日公判記録から全面的に削除されていた)
西山が、海外の物質販売会社に宛てたEメールで、くれぐれも違法物質が混入しないよう注意を促していたことについて、裁判所は、「ネット上で買い物する時、そこまで念入りに確認するのは不自然」とした。
西山が、繰り返し試験を行い、安全性を重視していたことについて、裁判所は、「違法物の疑いがあり、人体に害がある物質であることは明白」と、客観的根拠を持たない、個人的な印象論にて、否定した。
「聞く耳を持たない」とは、まさにこのことだ。
厚労省による規制を守る守らないは関係なく、とにかく行政が気に入らない動きをしたことが犯罪なのだ、という理屈に、裁判所は終始した。
特に酷いのは、裁判所は、検察による幾多の理不尽な主張を、全面的に支持したことである。
検察は、海外からの輸入過程において、税関が麻薬を発見したのだという。しかし、その荷物の中身は、ただの白い粉に過ぎないので、分析器を使用しなければ、その正体を知ることは出来ない。
検察による「麻薬」の証拠は、「分析の結果、麻薬だった」という税関員の文言(言葉)のみであった。科学捜査において、科学的根拠を示す証拠の開示もなく、ただの「言葉」が証拠になってしまうのであれば、行政の思いのままに、誰が相手であっても、犯罪者を作り上げることが出来てしまう。こんな杜撰な捜査・裁判を許してはいけない。
そこで西山の弁護人は、検察に対し、「クロマトグラフィー」の開示請求を行った。
税関で抑えた荷物の中身を「麻薬」であるというが、科学的分根拠を伴う析データが提出されていない。何故データが提出されないのか不思議としかいいようがない。
というのが弁護人による請求の理由である。当然のことながら、いくら体裁を整えようとも、税関員の言葉を記しただけの書類が、証拠になるはずがない。いや、これが証拠になってはいけない。
しかし、裁判官は、
「行政のやる事に間違いがあるはずがない」
という根拠により、弁護人の請求を即刻却下したのである。
「証拠のデータなど出す必要はない」という意味である。
裁判官による、三権分立を完全に否定した言動に、被告性一同は度肝を抜かれたが、裁判長の姿勢はこれ以降も全く変わらなかった。
考えるまでもなく、おかしな話である。
検察が正式な科学分析データを開示した場合、困るのはむしろ西山の方だ。
本来、民主憲法国家における裁判では、特に科学分析を必要とする証拠品については、検察官・弁護士それぞれの手の内で分析に回し、その分析結果の信憑性におよぶまでが審議の対象になるが、日本ではそうはならない。検察が抑えた証拠品を、検察が弁護人に預けるなど、決してあり得ない。日本の裁判制度は、非常に不平等である。
検察のさじ加減次第で、いかような分析結果をも作り出すことができる。
さて、クロマトグラフィーの件。
本来なら、検察は、何の迷いもなく提出してくる場面である。データが存在するなら、の話であるが。
不可思議なことに検察は提出を拒み、裁判所もまた「提出の必要はない」として検察を支持した。
誰の目からしても、これほど不自然な状況はない。
「分析の結果、麻薬であることが判明した」と主張しているのだから、その分析結果の証拠データを出せば良いだけの話である。
しかし検察は出さない。
データは本当にあるのか。
西山は、税関・麻薬取締局・検察により、確たる物証もないまま逮捕され、重罪人として裁かれたのである。
また、裁判所は、憲法上および刑法上の法解釈を歪曲して判決を下した。
まず「未必の故意」について。
未必の故意が犯罪として認められる構成要件には、「認識」と「容認」がある。
西山の事件の場合でいう「認識」とは、「手違いで誤った荷物が届く可能性」を考えたことがあるかどうか、であるが、それは当然頭に浮かべることだ。だからこそ、規制一覧を念入りにチェックし、販売者にくれぐれも間違わないよう、確認を重ねている。その経緯も全てEメールに記録されており、弁護人により物証として提出されている。
もしも「認識」だけで未必の故意が成立してしまうのであれば、例えば、自動車の任意保険に入った人が事故を起こした場合は全て、傷害や殺人事件にならねばならない。あるいは、医師が少しでも患者の命の危険を感じながら、この手術が失敗し患者が死亡した場合には、全てを未必の故意における殺人事件に問わねばならなくなる。
実は、未必の故意を問う場合には、犯罪を構成するもう一方の要件「容認」こそが重要なのである。
つまり、自動車事故を起こした本人が、人が傷ついても構わないと思いながら暴走運転をしたとか、医師が、患者の死を想定して乱暴な手術に及んだとか、そういう「容認」がなければ、未必の故意の構成要件は満たない。
殺人事件での「殺してもいい」という思い、すなわち西山事件でいうところの「麻薬が届いても構わない」という悪意(犯意)の存在を立証出来なければ、未必の故意は立証できない。
西山の事件を聞きつけ、某大学法学部の教授が、裁判所宛てに意見書を提出した。この教授の専門は、「未必の故意」である。
西山の事件の資料を念入りに確認した上で、この法学部教授は、「容認の議論を待たずして有罪にするのは、犯罪を行っていない者に罰を与えることになるので、あってはならない」と、書面を通し、強く意見した。
また、「この事件で未必の故意を認めてしまうと、今後これが判例になってしまう。するとどのような事件においても裁判所は恣意的に未必の故意を認めることが出来るようになり、人権保証の原則からして非常に危険」という旨の趣旨も、明確に書かれていた。
ところが、法学者の意見などどこ吹く風か、第一審における判決は、未必の故意により有罪。
懲役7年6月罰金500万円。
異常に重い量刑が科された。
長く行われた(初公判から結審まで一年半以上)裁判も、全く意味はなかった。もはや、見せしめ、口封じ、の域の判決であり、有罪ありきで始まった裁判であったといってよい。
控訴審において、西山の弁護団は、高裁判事に対し、
原判決は、その信用性に関し「専門的な鑑定技術を有する者によるガスクロマトグラフ質量分析等の科学的手法を用いて、適切に鑑定がなされたことが認められる」としている。しかしながら、適切に鑑定がされたかは、前記の通りガスクロマトグラフデータの開示を受けて検討することが必須なのであり、その機会を与えないで反証の機会を奪っておきながら、適切に鑑定が認定されたと認定することは、おぞましい所業であるといわなければならない。
つまり、第一審における裁判所は、「科学的根拠に基づくデータにより麻薬が検出された」として、これを証拠としながらも、その肝心な科学的データの開示を拒んだ検察を擁護し、かつ分析データの開示は必要ないとしたのである。もちろん裁判所がデータを確認したという記録もない。
これほど理不尽な訴訟指揮があって良いものなのか。
被告である西山の主張に関しては、物証を伴う主張でも全面的に否定するが、検察の主張に関しては、物証の伴わない「伝聞」のような根拠も全面的に支持し、判決を言い渡したのである。
西山の弁護団は、第一審(地裁)によるこの所業を「おぞましい所業」として控訴審にて訴えたが、高等裁判所もまた、第一審の有罪を無条件に支持した。
第三審、西山と弁護団は、検察による違憲性を主張し、最高裁に上告した。
特に西山は、何とか最高裁判事にこの理不尽な状況を理解してもらおうと、弁護人による上告趣意書と同時に、本人による趣意書も提出し、さらに1~2ヶ月に一度のペースで、趣意書を送り続けた。
そのためか、通常であれば、早くて三ヶ月、長くても半年程度で結論の出るはずの上告審が、1年半にも渡り審議された。個人の刑事事件としては、異例の長期審議である。
時は独裁軍国化を目指す安倍長期政権時代。安倍政権により任命された判事で最高裁は埋め尽くされた。
1年7ヶ月後、あえなく棄却。異議申立てをするが、形通りに棄却。懲役7年6月罰金500万円が確定した。
→西山の現在