よく、社会派のドラマなどでは、社会における『ダークサイド』が描かれる。

ドラマの中のダークサイドは、夜な夜な権力者が集う料亭や、閉ざされた会議室の中で描かれる。

しかし、それはリアルではない。実際には、社会のダークサイドは、常に見える場所に存在するのである。

 

例えば、私の友人・西山氏は、無実の罪で収監され、しかも法を無視した官権力者たちにより、長期服役を言い渡されている。

何の物証もなく、また希薄(というか、もはや無茶)な法的根拠を基に、強引に有罪に持ち込まれた。

弁護士や法学者など、法に明るい方々が憲法に照らし、私の無罪を主張し、争ってくれたが、官権力によりすべてが握りつぶされた。

 

西山氏の裁判には、本物の悪人・玄川(くろかわ)が出廷した。

その証言を見た刑務官(被告人を裁判所に連行する拘置所の担当官)は、この時初めて玄川という男を見たので、事前に玄川の人間性などを知る由もなかった。しかし、玄川の悪意に満ちた証言を聞いた後、被告である西山を連行する際に、思い余った様子で、こう聞いてきたという。

 

「あの玄川っていうの、あれ凄く悪い人だよね。あの人こそ、何で逮捕されてないの?」

 

法的なことを解説するには、このブログは適さない。話せば長くなるので、掻い摘んで説明すると、、

実はこの時、玄川は、検察側証人として出廷していたのである。

無実の西山氏を有罪にするために検察が無理やり作り出した証人、それが玄川だったのである。

玄川の証言を聞いた者は皆、「こんなこと述べているこの男、なんで検察は逮捕しないの?」と思ったようである。

しかし、検察官と玄川は、事前に打ち合わせした通り、にこやかに会話を交わしながら(尋問とは思えない様子で)、ありもしない西山氏の罪を並べ立てた。

この証言が重用され、西山氏は有罪になった。

この頃の日本では、司法取引は認められていなかったのであるが。

 

裁判所は、こういった検察の無茶を、前面的に支持する。

弁護側が出す証拠は前面的に却下、検察側の証拠や主張は、どんなに無理のあるものでも前面支持。

それが日本の司法のあり方なのである。

 

西山氏の罪状は「麻薬密輸」であった。

西山氏が玄川の弟分に頼まれ英語で発注した製品は、完全に合法な物質だった。にも関わらず、「麻薬」が届いたのだという。

「麻薬」といっても、西山氏が逮捕されるつい半年前に、厚労省によって強引に「麻薬」に指定された物質である。

かといって、西山氏は麻薬指定の物質など発注していない。念入りに法規制をチェックし、そして合法な物質を選んだ。

しかも、それは西山氏が扱う品物ではない。何度も言うが、玄川の弟分に依頼され、西山氏は発注作業を代行したに過ぎなかったのである。

しかし、先に逮捕された玄川の弟分が、すべてを西山氏の指示により行われたもので、恐ろしい西山氏には逆らうことが出来ず、仕方なく荷物の受け取りを担った、と虚偽の供述を残した。

検察や麻薬取締局は、この玄川弟の供述を鵜呑みにし、何の裏付けも取らないままに、西山氏を逮捕し、その直後、全国に報道した。これにより、西山氏の運命は決まったのである。

 

後日、西山氏の供述を基に、裏付け捜査が行われたが、西山氏が麻薬を密輸したという証拠は、何一つ出てこなかった。

当然である。やっていないのだから。

焦ったのは当局の連中である。全国に報道した後で、「間違いでした」とは言えない。

 

その後、検察は、西山氏の裁判を延々と延長させた。既に提出されていた資料を再編集し、何度も何度も「新証拠」として裁判所に提出し続けたのである。もちろん、裁判所はこれを喜んで受理した。こうして西山氏の裁判は、公判開始から半年以上も「新証拠」の提出のみで開廷され、延ばされた。

当局は、この間に、嘘でも良いから西山氏に不利となる証言をする証人を集めた。

玄川もその一人であった。

 

さて、西山氏の弁護人や、西山氏を擁護する法学者たちは、私が密輸したという「麻薬」物質の真偽について争った。

西山氏の事件では、「麻薬」であったという証拠は税関員による「確かに麻薬でした」という書類のみで、その科学的裏付けも為されないまま西山氏は起訴されていたのである。

化学物質を扱う事件において、科学捜査の裏付けとなる「クロマトグラフィー」の提出もない状態で、裁判所は「確かに麻薬」と判断した。弁護人たちは、それは明らかな憲法違反である、と主張をしたが、前面的に却下された。

 

 

一説には、日本司法において、起訴された事件における有罪率は、99.98%とも言われている。

つまり、起訴されたら、被告に助かる道はないのである。

 

全国報道されるような大きな事件において、無罪判決が出た場合には、その検察チームは解散となり、全国散り散りに飛ばされるという。また、検察の意向に反し、無罪判決を出した裁判官は、出世の道から外され、地方などに点々と飛ばされる生活を強いられるようになるという。

官憲にとって、それは屈辱である。そんな目に遭うくらいなら、間違いであろうと一度立件した事件は、何としてでも成立、、つまり有罪にしなければならない。

 

これが日本の官憲による「正義」である。

一般人の人生など、虫けらのそれ程とも感じていない。

選ばれた自分らが、偉くて偉くて堪らないのである。

万が一、自分らの「正義」を覆す恐れのある者が現れたとしたら、彼らは暗黙のうちに一致団結して、これを葬るだろう。

 

一方、自由と真実を追求すべきマスメディアは、権力の前では単なる提灯持ちに過ぎない。

「これを報道しろ」と言われれば無条件で報道するし、するな、と言われればしない。

また、戦後教育やメディアによる洗脳が完成されてしまっている現在、当局やマスの発表に疑問を感じる者など、ほとんど存在しない。存在しているとしても、社会の影に追い込まれているか、「異常者」として魔女狩り宜しく迫害を受けたりする。

 

そういう事実からして、真実に宿る正義は影に追い込まれて、欺瞞に満ちた権力者によるご都合正義に光が当てられている。

ダークサイドこそが陽の当たる場所、つまり表社会の中にあり、権力の伴わない「真実」は、闇に葬られてしまっているのである。

 

 

『上を下に、下を上に入れ替える。

 鶏供は、はしゃぎ飛び舞い、

 鳳凰様は、籠の中。

 玉と石とは混ざり合い、

 同じ升で量られる』

 

春秋時代、屈原が詠んだ詩である。

亡国の兆しを詠み、嘆いた詩である。