私は意図的に自分のことを「王様」に例えてみたりする。

 実はこれはある種のテストである。会話相手の心の在り処を試しているのである。

 

 大半の人間は、「王様」という言葉に嫌悪感を表す。自分を「王様」という奴にはロクな者がいないという考えのようだ。おそらくは、「王様」という言葉には、反権的感情を逆撫でする因子が宿っているようである。

 

 大半の人間は、「王様」が嫌いだ。大きな権力を持っているからであろう。そして、王様意識を持てばもちろん堂々とする。何事にも揺るがず、絶大なる自信を持っているである。このことも、「謙虚」でない王様が、大半の人間から嫌われる要因といえそうだ。

 

 「王様」が嫌いな人々は、おそらくは民主主義が正しいと考えているのだろう。二次大戦からこちら、民主主義の国家となった日本人のほとんどは、「王様」が嫌いだ。自分を「王様」という者を毛嫌いする日本人は多い。

 

 私は、会話相手に「僕は王様なので」とはいうが、まだどんな王様であるかを説明していない。大概の場合、説明する前から否定されるので、とにかく皆さんは「王様」が嫌いなようである。

 では、ここで「王様」について説明したい。

 

 中国の伝説では、中国国家の礎を作ったのは「三皇五帝」であると考えられている。

「三皇」は神であり、「五帝」は聖人である。この聖人こそが実在した古代の王であると考えられている。

 

 諸説様々あるが、五帝のうち一番最初の聖人は、恐らくは「黄帝」であると考えられる。

 「黄帝」は、古代中国の自然哲学的思想書「易経」の基を考えた人であるという。すなわち、「東西南北」と「北東・南東・南西・北西」を合わせた『八卦』の概念を考えた人だ。(それだけではないが)

 ものの考え方がまだ何も定まらなかった頃、大地を「東西南北」に振り分け、そしてこれを季節の「春夏秋冬」に例えたのは凄い。人々が自然のことを考える起点を作ったといっても良い。

 こういう、人々の思想の根源を作った人だからこそ「王」になった。

 

 「五帝」のうち三番目の聖人は、定説上「堯(ぎょう)」であるとされる。

 「堯」は、農耕の技術者であったと考えられている。人々の食が、狩や木の実に頼っていた頃、土地を耕して畑を作ることを教えたのが堯であるとすれば、「王」になるのも当然だ。

 

 「五帝」四番目の成人は「舜(しゅん)」であると考えられている。

 「舜」は、治水の技術者であったものと考えられている。堯によって畑を作ることを知った人々が次に学びたいことは、当然のことながら「治水」の技術であろう。治水技術が発達すれば、より安定した供給を得られることになる。舜が「王」になるのも当然といえる。

 

 「五帝」最後の(五番目)の聖人は「禹(う)」である。

 「禹」もまた舜と同じく治水の技術者であったと考えられている。ところがこの「禹」は、それまでタブーとされていた世襲を用いた。それまでは「世襲すると世が乱れる」とされていたので、決して実子を次代の王に任命しなかったのだが、「禹」はこの掟を破った。そして、禹により生まれた掟破りの国家、それが伝説の「夏王朝」であり、これこそが現代社会の大本であるとされている。

 

 加えて説明すると、「王」は自分が成りたくで成れるものではないはずだ。民衆が欲し、その人を押し上げて「王」になってもらうのだ。学校のガキ大将ではあるまいし、「俺が王様!」と言ったからといって成れるものではない。

 

 例えば、友人グループで遭難したとしよう。そんな中、一般社会で権力があった者が、リーダーに成れるだろうか。もちろん、その者がサバイバルの術に長けていれば自ずとリーダーになるだろうが、普段(一般社会)では上役だったとしても、火は起こせない、肉も魚も獲れない、テントも張れない、、、そんな者をリーダーにしてしまえば、間違いなく全滅する。

 サバイバルの場では、無能な者でも安全に生活できる一般社会とは、まるっきり違った価値観が芽生えて当然である。そして、皆が自ずと「出来る者」の指示に従うようになり、自然にリーダーが決まることだろう。皆に押し上げられ「王」が君臨した瞬間である。

 

 

 「王様」を嫌う人々も、エクスカリバーをかざして悪王をやっつけたアーサー王の伝説は好きだったりする。「アーサー王」といえば好きだが、単に「王様」というと、例えばカリギュラのような暴君をイメージしてしまうようだ。

 私があえて自分を「王様」と言うのは、こういう知性や価値観を試すためである。(私は、自分がどんな「王」であるかを最初に説明しないから)

 

 

 「王」がいるから皆が食えるようになる。だから、土地を擁する国家概念を離れて考えると、例えば「ニュートン」も王ということになる。差し詰め、物理の王というところか。彼がいたからこそ、後世の物理学者が「食える」ようになり、文明も発展した(諸説あるだろうが)。

 音楽を作った人は定かでないが(大勢いるのだろう)、例えばバッハは古典派の王といえそうだ。彼がバロック音楽を集成させ次代の扉(すなわち古典派)を開いたのだから。そしてベートーベンが古典派を集成させロマン派の扉を開いた。このように次代の世界を開く王が存在するのである。(これも諸説あるだろうが)

 

 「王様」の話をする際、私がいっている「世界」は、世界地図のことを指していない。自分の目の前に広がる世界、いわば自分の人生観を指していると言ってもよい。自分の生き方を決めるのは自分である。その生き方から成る価値観を世界観とし、それをどれだけ広く伝えていけるか、これによって、私の「王国」の規模は決まってくる。町内会だけで終結する「世界」で終わるのか、五大陸を股にかける「世界」にまで発展するのか、それは今後の私の生き方や努力によって変わってくるはずだが、私の世界を共有する人たちの食を安定させ、文化・文明を発展させなければならない。それが「王」たる者の宿命であり義務である。だから、他人に否定される必要など何一つない。

 

 一家の主人は家庭の「王」である。この「王」に食わせてもらっている間は、基本的に「王」の主義を尊重すべきである。主人を「王」として尊重しなくなった時、それがその家庭の崩壊の始まりになり得る。

 

 「王様」という言葉だけに嫌悪感を表し、これを否定したがる人たち。

 これは、きっと、現代社会における奴隷教育、学校や社会の教育により、権力者の道具として生きることを当然のように考え、、いや、それに気付かないままに自分が「民主的」「自由」だと勘違いしているだけなのである。(と思う)

 絶妙な洗脳教育による被害者であるのだが、もはやこの被害者たちが本当に「自由」を求めている者たちを「否定」し「迫害」している加害者と成り下がっている。(のではないか)

 

 他人を「平等論者でない」とか「謙虚でない」とか決めつけるのは簡単だが、その前に、自分の考えが本当に自由と平等に基づいているものなのか、自分は本当に謙虚なのか、それを考えてみても良いのではないか。

 自分を「王様」と言い切ることには(冗談っぽくは言っているが)、実は結構な覚悟と志が必要なのである(エセ平等論をかざして否定するのは簡単だが)。自分を「王」と例える以上、ついて来る者の未来を考え、同時に生活の糧を提供するような心構えが必要なのだ。だから、「王」を宣言するのは、実は非常に勇気のいることなのである。

 

 私は、もっと多くの人々に、王様意識を高めて欲しいと考える。そして自分なりの世界を広げ、多くの人たちと幸せを共有して欲しい。誰もそういう覚悟をしなくなってしまったから、つまらない世の中がいつまでも続いているのだ。

 

最後に、「私は王様です」という言葉に対して嫌悪感を露わにされた人に、私はその相手を「家来」だとは言っていない。私は私の世界で「王」なのだ。その世界を大きく育てたいとは思っているが、「王様」という言葉だけに嫌悪感を露わにするような人を私に世界には招待しないので、どうか心配しないでほしい。

新潟県の米山隆一知事(50)が、 近く発売される週刊誌に、自身の不適切な行為に関する記事が掲載されるとして、辞職する意向を固めたことが16日にわかった。

 

http://www.yomiuri.co.jp/politics/20180417-OYT1T50003.html

 

 

現・新潟県知事といえば、柏崎刈羽原発である。

米山知事は、この原発の再稼働について否定的だったという。

しかし、この退陣によって、事態が急変する可能性が出て来た。

 

米山知事は、共産、社民、自由党の推薦で立候補しているが、次の知事は誰になるのか。

自民、公明の推薦から次の知事が決まった場合には、ちょっと怪しい。

何が怪しいかって、米山知事の「女性問題」をリークしたのは誰かということ。

自民・公明などの推薦から推薦され、そして再稼働に肯定的な知事が次に決まったら、いよいよ怪しいように思える。

 

原子力村の権力は、未だに強い。

 

 

昨年から流行した「忖度(そんたく)」という言葉。

 

辞書で調べると、

「他人の気持をおしはかること。また、おしはかって相手に配慮すること」

と書いてある。

意味は分かる。

意味は分かるが、使い方によって、どのようにでも解釈できてしまう言葉だ。

 

「忖度」は、最近では森友問題で多用されている。

安倍も麻生も、あれは笹川たちが勝手に「忖度」してやったことだとして、自分らには責任がないといっている。

 

本来、「忖度」というのは、例えば秀吉が信長にやったという「草履」の件、ああいうのを言うはずだ。

あくまで、相手の気持ちを「推し量った」結果、行動したものなのだ。

 

私は、森友問題でいう「忖度」を考えると、「示唆」そして「教唆」という言葉を思い出す。

極道の親分が、「ヤツは死ぬかもしれんなあ」と言ったとする。

すると子分がヤツを殺してくれたりする。

これは示唆した結果だ。

もしも親分が、「誰かヤツ殺してくれたらいいなあ」と言ったとする。

これは「教唆」に当たる可能性が大きいので、刑事罰の対象となり得る。

 

さて、森友問題。

全て安倍の秘書が絡んでいたはず、という説も浮上しているが、もしそうだとしたら、秘書に対して安倍が示唆あるいは教唆した可能性は高い。

仮に、具体的に示唆・教唆していなかったとしても、関係者に「安倍」の名があれば、役人は必要以上に気を使い回すことになるだろう。その後の行動次第で、彼らの今後の人生に大きく影響するだろうから。

 

極道者の場合は、苛烈に進化する暴対法により、仮に示唆・教唆してなくとも、子分が犯した罪は「使用者責任」

を問われ、親分が捕まることがある。親分の全く預かり知らない所で起きた事件だとしても、「使用者責任」を問われるのである。

 

極道者に対する「暴対法」が厳しくなったのには、極道世界の検量構造が原因している部分がある。

つまり、絶対的な優劣関係・従属関係があるからこそ、「使用者責任」が問われるものと考えられる。

 

ここで気づかないだろうか。

安倍・麻生と各省庁の官僚との間、そこには明らかは従属関係が存在している。

その威力は、極道世界のそれとは比較にならない。

 

安倍・麻生は、ひと昔前の極道親分がやっていたように、「あれは現場で勝手にやっていたことだから」とシラを切っているが、民主憲法の基本概念は「国民が権力者を縛る」ことにある。

どの段階までやれば「示唆」で、どこまでやれば「教唆」にあたるのか、あるいは安倍や麻生に「使用者責任」はないのか、追求したいところだ。

 

野党議員はどう思っているのだろうか。

もしも安倍・麻生を糾弾したいのなら、「使用者責任」の概念に基づき、示唆・教唆の線を洗い出した上で、言及・追求するべきだと思う。

国民の代表を務める男たちである。

法網を掻い潜ることだけを覚え偉そうにしているが、国民のリーダーだからこそ権力にモノを言わせて勝手にさせてはならないのである。

 

道義上の問題から言えば、「使用者責任」これに尽きるのではないか。

そして、リーダーだからこそ、道義上の問題を追求されて然るべきだ。

道義上の問題をものともしない不敬な態度をハッキリ見ることができれば、少しは国民にも響くのではないか。

 

佐川の行為に刑事訴追の可能性があるというのなら、使用者にも刑事罰があって当然ではないか。

最近の北朝鮮の動向が気になる。

ミサイルの件では今ひとつその真意を測りかねていたが、平昌オリンピック以来、ここにきて外交政策に凄みが増してきた。

 

南北統一について、韓国国内ではどのように考えられているかといえば、ほとんどの人が反対のようである。

貧困に喘ぐ北朝鮮と組んでしまえば、それは重病人を抱え込むようなものだと、経済急成長を終えた時代に突入している韓国人にしてみれば、南北統一における不安要素は多いようだ。

しかし、それは、多分間違いだと思う。

 

韓国も日本と同様にアメリカの属国だ。

すなわち、メディアにおけるアメリカの影響は大きい。

つまり、アメリカ監修の下でメディアは報道していると言えるのである。

 

では、考えてみたい。アメリカにとって、朝鮮半島の南北統一は都合が良いのか悪いのか。。

考えるまでもなく、、そりゃ、都合悪いでしょう。

都合悪いから、南北統一には否定的な見解を報じる必要がある。

新聞やテレビのニュースが「正しい」と考える大衆にすれば、南北統一に否定的な見解が増えるのも当然というわけである。

 

では、南北統一すると何が起きるのだろうか。

韓国人にとっての「重病人」、北朝鮮は、それほどお荷物になる国なのだろうか。。

 

私は、そんなことはないと考える。

 

世界経済はが行き詰まると、大国は戦争を起こしたがる。

戦争には、巨大な利権が伴うからだ。

(戦争と利権についての解説は、別の機会にするとして)

 

朝鮮戦争により、日本経済は肥えた。

焼け野原にすると、その復興のために儲かる人たちがいるのだ。

「重病人」と評されるほどの状態、それは、焼け野原と揶揄できるかもしれない。

北朝鮮の生活環境を向上させ、経済を発展させることで、韓国は確実に景気が回復するものと考えられる。

さらにいえば、北朝鮮は経済力に乏しいかもしれないが、人材は溢れているように思える。

今時の「先進国」には見られないような、気合いの入った有能な人材が沢山いるものと考えられる。

 

韓国は、今こそ、南北統一を真剣に進めるべきだ。

 

そして、南北統一により、韓国は中国とロシアと大接近することになる。

これが最大のメリットだ。

 

そうなれば、アメリカはこれまでのように韓国を支配し難くなる。

これは嬉しいことだ。

 

日本は、アジアの一員として、南北統一に協力するべきだ。

そうすれば、新たな利権と共に、強力なチームへの参入が実現するはずだ。

 

しかし、今の安倍政権では無理だ。

安倍は、明治維新以来続いた、アメリカ従属主義の一族の末裔だ。

今でもそれしか考えていない。

日本のこと、日本人の未来など、これっぽっちも考えていない。

 

本来なら、(原発事故の件で)被告として国際裁判にかけられねばならない存在が、今でも堂々と総理を気取っていられるのは、国民の意識が薄いからとしかいいようがない。

 

民主憲法の概念を改めて考え直し、日本は日本人の手によって、正しく立て直して欲しい。

でなければ、今後の日本は、アジアの孤児になる。

 

 

「反省はするべきだけど、後悔はするべきでない」

 

こういう言葉を耳にすることがある。

 

きっと、「後悔」という言葉には、後ろを振り返るような、ネガティブな印象があるのだろう。

これに対し、「反省」には前向きな(ポジティブ)な印象がある。

だから、こういった言い回しをしたくなるのだろう。

 

ちなみに、私は、この言い回しには否定的だ。

私にしてみれば、後悔するから反省するのである。

「くっそー、大失敗したぜ、参ったぜ、あ〜あ、やらなきゃよかった!」

と、こんな後悔をするから、二度と同じ過ちを繰り返さないよう注意するのである。

すなわち、これが反省だ。

 

人間の心なんて、計算通りにコントロールできるものではない。

「後悔」と「反省」を切り離して、別々に認識することなんて、きっと出来ない。

私からいわせれば、「後悔」と「反省」はセットなのだ。

 

「私は後悔はしない、でも反省はする」

・・・、よくそんなことが出来るな。。

 

こんなことを言う人は、きっと本当は反省出来ない人なのだと思う。