20140717

手指に水疱ができては消え、ときに潰れる。
ところどころに変な疵が残り、しかしそれもやがて消えることがわかっている。

身体の感覚のいろいろがうまく把握できなくて、時間が歪んだりする。
なので食事を忘れたりする。
思い出したのに、食欲を忘れていたりする。
食欲を思い出したのに、味覚を忘れていたりする。

しかし君が深淵を覗き込むとき、深淵もまた君を覗き込むように、時間が歪むとき、私もまたぐにゃりとしていることだろう。

いろいろなことが分からなくなったりする中で、ではいったい、僕は何を分かっていたのだろうかと自問する。



もしかしたら。

僕は何も知らなかったのではないだろうか、そもそものはじめから。

とはいえそれさえ、良いとも悪いとも思わない。

不思議な感覚な気がする。
あるいはそもそも、何も感じてなどいないのかもしれない、ずっとずっと昔から。


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会社を去る前に、その歪みを少しでも正すことができればと、前社長の家に行く。
あいにくこれからライオンズクラブの集会だということで、打合せは明日に持ち越し。
奥様と30分ほど話す。

本当に、誰にも言えず、言わずにいた愚痴めいたことを、初めてきちんと言った気がする。

そういえば、会社を辞めようと思ったのは先月の23日の朝で、その夕方には辞意表明をしていたのだから、ほんとうにどうかしているのだろうとは思う。

いろいろ辛かった気もする。

しかしどうだろう。

そうでもないような気もして、やっぱりよくわからないのだ。
140710

 曇り。

 Macの電源の不具合が再発し、起動しなくなって数日が経つ。
 今まで騙し騙し使っていたのだけれど、騙しすぎたのだろうか。よく分からない。
 毎日、30分から1時間は試しているのだけれど、まったく動作しない。
 そろそろ買い換えたものか、どうしたものか。悩んでいる。

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 ここ数ヶ月「あなたはこう思っているに違いない」という指摘を受けることが多い。
 これまでの人生でもたびたびあったことである。老若男女、特定されているわけでもない。

 理由は後述するが、僕はその「他人から指摘される僕の思考」が間違っていても基本的に否定しない。
 指摘されることそのもので気分が悪くても、正しければ肯定する。

 しかし、実態としては「そんなふうにはまったく思っていない」ということが多い。本当に多い。
 そういうとき、ぜんぜんまったくさっぱり思っていないことなのだけれど、僕は自分の思ってもいないことを思っていることにされてしまう。
 にもかかわらず、僕はそれを否定しない。否定しないから余計、僕はそう思っていることになるらしい。

 なので時々は否定をすることもある。
「僕はそんなことを思っていないし考えてもいない」と。

 しかし、どういうわけなのか、そういう状況において、僕の思考を断定してくる人の多くは僕の意見を聞かない。
 僕の考えを僕以上に知っていて、理解しているかのように振舞う。
 どういう道理なのかは分からないが、その様子があまりにも自信満々であるために、僕よりも僕の思考に詳しいのかもしれないと、当の僕自身が感じて自信を失うこともあるほどだ。

 実際のところ、僕はいちいち物事を考えて行動しない。
 考えるときは(ちょうど今そうしているように)考え抜くけれど、行動のときはなるべく考えないようにしているし、考えていない。

 そのため「ではどう思っていたのか」と尋ねられても「たいして何も考えていなかった」という答えしか出せないことがほとんど。
 僕は誰かに説明するために生きているわけでも、行動するわけでもないから、言葉で明確に説明できることのほうが少ないし、それが自然だとさえ思っている。
 どうやらその時点で、一部の人とはちょっと違う様態ではあるらしいけれど、僕には理にかなっているから、説明のしようもない。
 こうした状況がますます相手の理屈を強化するものらしい。

 いよいよ面倒になるので、僕はもはやどうでもよくなってしまう。

 僕が何をどう思っていようと、そんなものは目に見えない。見えるはずがない。
 僕の、なおかつ見えないものを取り上げて、それを「こうに違いない」と断定されて、否定しても効果がなく、またそれを否定する根拠もとくに用意がないのだ。
 行動から逆算して僕の思考が読めるというのならば、僕は他人の逆算やその答えなど無視して、ありのままに行動していればいい。
 仮に誤解があったとしても、僕の本心がきっとそこに現れ(たぐい稀な幸運にたまさか偶然ばったりと恵まれてしまった場合は)読み取ってもらえるだろう。

 誤解を気にしていても仕方がない、という僕の思考はこうして生まれた。
 曲解に曲解を重ねる人もいるだろうけれど、それは放っておけば、僕に近づいてこなくなる。
 誰が近づこうが、誰が遠ざかろうが、その基準を考えるのはその人であって、僕がそれを逆算してまでコントロールする必要などないし、そんないやらしいことをしたいとは思わない。

 これは他者の思考の逆算に応用できる。

 他人の思考は目に見えない。
 いくつもの筋を考え、予測するけれど、そのほとんどは外れる。
 それはたとえ本当に当たっていたとしても、当人が素直に認められない場合もあるから、それも含めて「結果的にほとんど外れる」ということだ。
 また、行動に対しての思考が後付けになることも実際は多いように感じる。
 たいした理由もなかったことに対して、あれこれと理屈を付ける人は実に多いし、本人は質問された時点での思考をもって「過去の思考がそうであった」として上書きする。
 僕からすれば、それこそ素直ではないし、正しくもない。何にも考えていなかったことに対して無自覚なのにも関わらず、無自覚であることに無自覚だからこそできる芸当だとすら思う。
 もちろん、それが悪いことだと言いたいわけではないので誤解のないように。

 ただ、何も考えずなんとなく行動していることを偽り、同じようになんとなく行動している人を非難するのはどうかと思う。
 要するに、どうせ同じなら仲良くしようよ、ということが言いたい。

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 どこで自分に書き込まれたものか、人の考えを否定しないことが僕の中では道理として推奨されている。
 僕以外の人間の思考は、それを考えた人の所有物であり、生産物であり、それを否定することは、僕にとっては不可侵の領域を侵すことであるように思える。
 もちろん他人の考えに、そうそう迎合できることがあるわけではない。

 やや違うかな、と感じるときもあれば、とうてい相容れない考えもときにある。
 しかしその思考は、その人のものだ。僕の考えではない。
 ために僕はそれを否定しない。否定する余地もない。
 その思考は僕の所有物ではないし、生産物でもないのだから、僕はそれを所有する必要がないし、使用しなければならない義理もない。

 好みでない商品が店頭に並んでいるのと一緒だ。
 並べるのはお店の勝手、買わないのはこちらの勝手。

 僕自身の思考も同様、考えるのは僕の勝手、それを並べるのも僕の勝手。

 しかしもちろん、それを他人に押し付ければ、当然ながら失礼にあたる。
 だから僕は、できるかりぎ自分の思考を他人に押し付けるつもりはないし、自分の考えた道理も僕だけのものだろうと思っている。

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 僕にとって物事の道理の互換性というのは、話し合いで「こうしましょう」と到達するものではなく、事象に対する観察と力学的な最適化によって、意思とは関係なく思考のみによってそれぞれ導き出される答えがそれぞれに近似することだと考えている。
 たとえば星が空を巡るのを見て「星が動いている」と思っている人と「大地が動いている」と思う人がいたとしよう。
 それでも最終的にひとつの答えにたどり着くことが可能なのは、星が空を巡ることについて、合理的な答えを誰かが導き出して、それを多くの人が最適であると認められるからである。

 もちろん、声高に「これが最適である」とアナウンスすることで、その浸透速度は上がるかもしれない。
 けれどもそれは道理ではない。
「最適である」ことというのは、適していることであって、正しいとか間違っているとかではない。
 ただ、主流であり、そうあることが望ましいというだけで、そんなことが浸透しても、何の意味もない。

 大事なことは「合理であること」。つまり、理にかなっていて、本当に正しい、つまり真理だということだ。
 その道筋が道理であり、その道のところどころに置かれる道標が理屈だろう。

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 もっとも天体の運行のようなものは、その合理的なありようというのを計算などによって求めることができる。
 合理の姿がわかりやすいのだ。

 いっぽう人の心理や気持ち、感覚や感情というのは、理を計算しづらいもののようである。
 これは環境や学習、場合によっては教育やしつけや経験などによっても大きく左右されるからであろう。

 しかし同じ人間である以上、ある程度の傾向はある。
 同時に、個別の傾向もある。
 だから算出は困難で、さまざまな筋が考えられるし、いずれが正しいとも限らない。

 あなたの予測は間違っているといわれれば「そうですね」となる。
 それどころか「勝手に断定して失礼をした」という程度の気持ちに、僕はなる。

 ただ僕の思考を断定する他者が、どう思っているのかは、やっぱり僕には分からない。

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 湿度が高い。
::しかし、どう考えて良いものかわからない。解決の方法など、思い浮かぶはずもなかった。そもそも、どうなれば解決なのだろうか。
「どのようになれば良いとお考えでしょうか?」イオカにそれをきいてみた。





140703

自転車というのは体の使い方において、左右のバランスが均等であればあるほど有利になる。
剣道やテニス、野球のように、利き手や軸足というものがあると、必然的に身体にクセがつく。
鍛えるとは、身体にクセを作るということだからだ。
クセがつくことで、より強い手が生まれる。強い手を作るために、もう一方の手足を捨てるといってもよい。

クセが左右均等で、なおかつ強い者があるならば、それは本当に、相当に強いということになる。
たとえば野球でも、左右両方に対応できて、両方とも強く、精密にコントロールできる選手は相当な技量の持ち主だろうと想像する。
普通はなかなか、そうはゆかない。

自転車でも、日常生活のクセは出る。
僕の場合、利き手と利き足がそれぞれ右、利き目も右だけれど、静止視力は左目のほうが優れている。
必然的に、利き足の動きは踏み足(※)も引き足(※)も容易にできる。
一方、普段が軸足のほうは、動きもぎこちなく、そもそもモニタリングがそれほど頻繁に行えない。

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踏み足:
ペダルを踏む動作。

引き足:
ペダルを引き上げる動作。
クリートなどを装備しない自転車にはあまり関係ないと思われがちだが、踏み足と逆側の足をきちんと意識して「持ち上げる」ことによって、運動効率も速度も上がる。

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不慣れなうちは、利き手/利き足に動作を覚えこませ、残りを受け手/軸足とする。
受け手/軸足は、ぱっと見ただけでは動きが少ないために、覚えることが少ない。
実際には、動きの礎を為している部分こそが受け手/軸足であって、こちらがしっかりしていなければどんな動きも無駄が多くなってしまうのだけれど、やはり最初に習うべきは利き手/利き足の動作なのだろう。

自転車の場合は、左右均等に動かすことができるというだけで出力が上がる。
呼吸も整えやすくなるし、疲労分散もしやすくなる。
あるいは利きではない側の手足を主力にすることで、走行中に利き側を休めることもできる。
脚の筋肉でいうと、これは左右だけではなく、前後(もしくは上下)の筋肉にもいえる。

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僕は他人に「気配がしない」と驚かれることが多い。
そのためか、店にいると店員だと勘違いされたりする。

逆に、僕にとっては他人の気配がとても大きく、うるさく感じられることが多い。

たとえば足運びの場合、左右のリズムが狂っている人はそれが普通だと思えるほどたくさんいるし、カカトとつま先の接地リズムが異なることも多い。

僕が神経質なのだろうと自覚しているが、他人の足音を乱暴に感じることがとても多い。
これは僕の棲んでいるアパートが安普請なせいもあるけれど、アスファルトでもリノリウムの床でも、絨毯が敷いてあっても同様に感じる。
その人の身体の使い方ががさつで乱暴なのだろうとつい思ってしまう。

音を立てず、空気もなるべくかき回さないように僕は動く。
これはどういうきっかけでそうなったのか、よくわからない。
近くに他人が居ても居なくても、動き方は変わらない。

たいして意識せずカカトから乱暴に接地すると、大きな音がする。
多くの人は、ただ力を抜くことで接地するのかもしれない。
そうすれば必然的に、乱暴な接地になって大きな音がする。
上体の位置や動きをきちんと意識して制御していなければ、動きが空気をかき乱す。
以前は人混みの中で、そうした大量の位置発信を拾ってしまって、酔うこともあった。

歩くだけでなく、戸を閉めたり、ものを見る動作ひとつでも、がさつな人はやはり大きく気配を出す。
最近は考えを改めた。
そういう人が普通なのだと考えることにした。
たまたま、僕がちょっと神経質に過ぎるのだろうと。
今の社会で、自分の気配を抑制する必要性は、もしかしたらないのかもしれない。

しかし、犬や猫も、利口なものはこちらの気配にはとても敏感だ。
鈍感な者には鈍感な者ならではのかわいらしさがあるのだろうとは思う。
それでも、動物は、多少なり敏感なほうが、僕は安心する。

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自転車でも、速く走れるようにメインテナンスしてあるメカニズムは、とても静かだ。
無駄なところに力をかけず、無駄なところに力を逃がさず、そうすれば綺麗なカタチを、綺麗な動きを保つことができる。
静かに動くことによって疲れにくくなるし、バランスを崩したときのリカバリも早くできるようにもなる。
なにより、バランスを崩しにくい。
また、速く動く場合も、いちいち音を立てるような動きをしていたらその時点ですでに遅いと感じる。

静けさとは、いうなれば、殺気そのものだろう。
殺気というのは、何かを殺そうとする意志や気配のことではない。
相手を察知し、感覚しようとする、そうした意識の働きだと僕は思う。

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7月で会社を辞めることにした。
現在の業界そのものから足を洗うことを僕は選択した。

8月からの予定は、まだ、ない。

僕は無職になることが確定しているが、同時に、とても自由だと感じられる。
13年ほどにもなるだろうか。
どこに行くこともできるし、何をすることもできる。
とても、自由だと感じる。







::それで良いのだ。こんなことを日常としていては生きてはいけない。どんなに獰猛な動物であっても、こんな日常を送ってはいない。






冒頭・文末の引用は、
「episode 1:Searching shadow」From「The Void Shaper」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
によりました。

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202202 ひろいもの

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本日の一言:
الأزرق القط هو التفكير، إن كنت لا أعرف.
(in アラブ)

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