「イライラ」というのは、誰しもがかなり日常的に感じる怒りの感情だと思います。
例えば、グズグズしている人へのイライラ、予定通りにいかないときのイライラ、公共の場で騒ぎ続ける子どもへのイライラ、反抗的な部下へのイライラ、泣きわめく乳幼児へのイライラetc.・・・あげればきりがありません。
このイライラ感を探っていくと、「自分の考える〈本来あるべき状態からの逸脱 〉」に対する怒りであることに気づくでしょう。なぜ「本来あるべき状態からの逸脱」に怒りを感ずるのかというと「本来こうあるべき」なのに、自分ではそれをコントロールできないと感じるからです。
先ほどから「自分の考える〈本来あるべき状態からの逸脱 〉」や「自分の〈こうあるべき〉」と、いちいち枕詞のように「自分の」を付け加えていますが、「~べき」思考というのは、一見ごく普通の常識について語っているようで、実はたいていの場合その人の主観にすぎないのです。
さまざまな事情によって相手が「~べき」という要求に応えられない可能性があることを考慮に入れず、べき論によって相手を非難するのは、かなり一方的な思い込みに基づいていることが多いのではないでしょうか。
もしかしたら、物理的・身体的・精神的な事情を抱えているのかもしれない、自分とは異なる社会規範や倫理観を持っているのかもしれない、という個別の事情に想像を巡らすことができない。世界に視野を広げれば、それこそ白目を剥くような価値観やマナーだって存在するのですが。
「~すべき」はあくまでも自分の主観による正論なのです。正論とは何ぞや?という問題はさておいて。
ところが、人は「~すべき」思考を好みます。なぜかというと、そう考えることによって自分の感じる不快感をすべて外部のせいにできるからです。
前の人がモタモタするせいで遅れてしまう → 行動はテキパキすべき
親がいるのに子どもが騒いでうるさい → 親が注意すべき
気が利かない彼女のせいでミスしてしまった → 気を利かすべき
仕事が忙しいからと彼が会ってくれない → 私を優先すべき
イライラの元になる「自分の〈こうあるべき〉」は、「~べきなのに、そうしない~のせい」という思考になります。「~のせい思考」はそのまま「○○のせいでこうなった」という被害者としての感情に直結します。○○のせいで自分は被害を被った被害者である。「自分は被害者」という認識から「被害者意識」は発動します。
実はこの被害者意識、どっぷりと浸かってしまうと、なかなか抜け出せないほど居心地のよい心的状態なのです。
自分は被害者だからイライラしたり怒りを感じるのは当然である。自分には何の非もなく、悪いのはすべて○○のせいである。そう考えることによって、自分自身は1ミリたりとも変化する必要がなくなります。加害者と認定した○○をただ批判し責めるだけよい、ある意味とても楽チンな立場に身を置くことになるのですね。
感情的・身体的に自分が不当に扱われた、被害を被った、と感じたときに生じるイライラや怒り、すべては周りのせいだとする被害者モードに留まり続ける限り、消えてなくなることはありません。
被害者意識については、以前、”「傷ついた人」ではなく「傷つけられた私」”というかなり危ない記事を書いています。「被害者意識」というのはなかなかのくせ者で、臨床の場でも、道を阻む存在としてしばしば手こずらされる相手です。
怒りの感情はストレスによって増幅します。イライラしたり、すぐに怒りが湧くのは、すでにストレスを抱えている状態にあるからです。心が満たされている状態、ウキウキと心楽しいとき、些細なことでイライラしたりカッとしたりすることはまずありません。
では、イライラしたりカッとしたりする怒りとは何でしょう?
怒りの感情の背後にあるものは、心に抱える不安や恐怖です。
心の不安がストレスを生み、それを打ち消すための防衛機制によって攻撃性に変換され、怒りとなって表出します。不安という情動的ストレス反応が高まって、初めて生起するのが二次的反応である攻撃性、つまりイライラやカッとする怒りの感情です。
また、意識、無意識に関わらず、不安や恐怖の心を隠している人ほど、「~べき」「~ねばならない」といった考えに固執してしまう傾向があるのです。
慢性的なイライラを解消するためには、表層的な怒りを抑えるのではなく、心に巣食う不安感や恐怖心を取り除き、ゆったりとした安心感を得ることが必要なのです。
そのためのヒントを次に挙げます。
被害者でいることをやめ、被害者モードから抜け出すこと。
「私を怒らせた」のではなく、「私が怒った」のだと自覚すること。
受け身である被害者役から能動的な主役になること。
物事にどう関わるかを主体的に選択し、行動してゆくこと。
自分をまるごと受け入れ、自己肯定感を高めていくこと。
今に集中し、今を生きること。
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