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すべてはうまくいっている! 光と心の調和

横浜の心理カウンセラー ロキのつぶやきブログ
その人がその人らしく
『生まれてきてよかった!」
と思える人生のために。

 

感情 vs 理性


別の面からも情動の役割がわかってきている。
ある状況下では、感情が理性を上回る働きをするというのだ。

 

 

これまではどちらかといえば人間の性質は「理性=高次」「感情=低次」のように位置づけられてきた。しかし最近の研究によると、状況によっては理性よりも感情の方が優れた働きをすることがわかってきたのである。

コロンビア大学の研究チームで、学生の被験者を理性派(理性や理論を信じる傾向)と、感情派(感情や直感を信じる傾向)の二つのカテゴリーに分けておこなった研究がある。

理性派と感情派に、多岐のジャンルにわたる8項目についての「結果」を予測させるという実験。大統領選民主党予備選挙の結果、アメリカンアイドルの決勝進出者、ある企業の平均株価、大学フットボールの優勝校、天気予報etc.‥‥といった様々な事象の結果を予測してもらった。

 

意外なことに全ての項目に渡って、感情派の学生たちの方が結果を正確に予測する確立が高いという結果が出た。感情派の被験者は理性派に比べ、25%も高い正答率であったという。

理論は意識(顕在意識)で認識できる範囲での情報に依るが、感情は無限大の無意識(潜在意識)につながっており、その膨大な情報を処理し、分析する能力を備えている。理性(思考)によるデータ処理能力は約100bpsというが、感情が無意識層にアクセスして一度に処理できるデータの量は膨大な単位になるという。したがって、これまで非合理的かつ衝動的だとされてきた感情の司るシステムが、ある条件下ではより「知的」になり得る、ということになるらしい。

 

『燃えよドラゴン』のブルースリーも言っている「Don*t think. Fee!(考えるな、感じろ!)」‥‥‥‥そうか?

 


 

無意識層と感情
 

人間の思考速度を計算すると、データ処理能力は100bps程度と上に書いた。どういう計算だかは知らない。では、情報を記録する記憶のデータ処理能力はどうなのか?
 

記憶を一時的に保存する短期記憶では、一度に記憶できる数が7±2前後、記憶再生までの時間も10~20秒と少なく、他の情報が入ると消去されるという特徴がある。たとえば、知人の電話番号を一時的に記憶することはできるが、スマホを落として大騒ぎしている間には忘れてしまう‥‥ということで、約1Gbps程度だという。ちなみに私はガラケーである

しかし長期記憶となると、脳内のニューロン(神経細胞)が結合して無意識層に一大ネットワークを形成し、その膨大なデータベースを基に一度に大量の情報処理を行なうことができる。その処理能力を計算すると10の20乗ビットに相当する記録が可能だとされ、その数値はおよそ12,500,000テラバイトになるという。理解不能だがなんだか凄いことは分かる。

 

 

意識の上では無意識層へアクセスすることはできない。無意識層の膨大なデータ処理を手っ取り早く要約し、閲覧可能なかたちにしたのが感情である。


無意識層のデータの要約 = 感情 


顕在意識から取りこぼされた大量の情報が眠っているのが潜在意識(無意識層)である。感情は無意識層の領域を覗き込み、闇の中の壮大なネットワークにアクセスすることで、複雑な事象についての予測を立てることができるのだ、という。

だからといって、何でもかんでも感情が有効だというわけではない。いくら感情派であっても、株式市場に興味のない人には、株価予測に感情はまるで役立たずであるし、フットボールの知識がない人には、優勝チームの予測に感情はなんら成果を上げることはない。予測する対象への興味や愛情が強いほど、感情は力を発揮することができるそうだ。


こうしたさまざまな研究結果から導き出されるのは、世界への興味が強ければ強いほど、他者への関心が深ければ深いほど、好きなものが多ければ多いほど、心はより優れた仕事をしてくれるし、人生を豊かなものにしてくれるということだ。大前提として「自分を肯定する」「自分を信じる」という自我の確立への道筋が見えている場合である。


何の脈絡もなく聞きかじりの知識を丸呑みのまま消化不良を起こしており、自分でも何が言いたいのかよく分からなくなってしまった。要するに「人間は こころほどの 世をわたり」にこじつけたかったのね。

 

 

自分に与えられた心を自分流にどう磨き、どう輝かせるかで人生は違ってくる。

他人の人生との比較など、まるで意味がないことに気づく


 

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解釈 = 理解の仕方、捉え方

「解釈」を分かりやすく言うと、ある事象(外界)に対する理解の仕方、捉え方である。

心にインストールされている「ものごとを理解するためのプログラム(解釈)」は、その人独自のDNAや環境・経験によって、さまざまな影響を受けながら形成されてゆく。それは完全なる私仕様、オリジナルシステムである。発達し過ぎた大脳のせいで、他の生物に比べて驚異的に複雑で緻密である一方、極度に脆弱で癖のあるシステムでもある。

問題なのは、システムの独自の癖によって、不必要に自らを苦しめてしまう「世界」をつくり出してしまっている場合。

ものごとを解釈するためには、高次な知性が機能しなければならない。ひとつは意識的に作動する「理性的認知システム」、もうひとつは無意識下で作動する「情動的認知システム」。この二つの機能は、乳幼児期から成人への過程で相補的に融和しながら成長する。

初期の成長段階で、何らかの原因によって自我が傷つくと、心はそれ以上のダメージを防ぐためのプログラムを自らインストールし、独特の自己防衛システムを形成する。たいていは成人したら必要のないプログラムになっているのだが、いつまでも作動し続けることで情動や理性による認知に悪影響を及ぼすことがある。

歪んだ認知は偏った解釈を生じさせ、結果として世界を生きづらく辛いものにしてしまう。

それを改善するためには、不要になったプログラムは捨て、認知システムのバージョンアップを行なって、自分が自然体でくつろげる、居心地のよい世界につくりかえる必要がある。それまでの生きづらさをもたらす解釈の仕方を変え、別の解釈の仕方を試みるということ。

自分の世界のパラダイムシフト。
ときには手間と時間がかかる場合もあるが、自分の世界を変えたいと希求するならば、必ずできる。人の心はそれを可能にする。


心の世界はいつできるのか?

世界をどう理解し、どう関わるか‥‥その基盤はほぼ三歳までにつくられる。

乳幼児期は、脳機能が劇的に発達するときでもあり、自分に対して外界からどのようなメッセージが与えられたかによって、「自分という存在」と「世界との関わり方」の基本的認識が形成される重要な時期でもある。

まだ言葉という表現手段をもたない乳幼児期の子どもは、「感覚」や「感情」記憶として心に刻み付ける。言語による記憶ではないけれど、世界を感覚や感情で捉え、それを心の深部にしっかりと記憶する。

例えば、喋ることのできない赤ちゃんは、泣くという手段によって自分の欲求を伝えようとする。お腹がすいても、どこかが痛くても、おむつが濡れて不快でも、ただひたすら泣いて訴える。泣きながら漠然とした不安や恐怖を感じている。

そのときに、すぐさま温かい手が差し伸べられ、優しい響きの声とともに柔らかい胸に抱かれたなら、そしてすばやく不快が取り除かれたなら、その子にとって世界は、自分を注目し受け入れてくれる信頼できる世界、という認知がなされるであろう。

逆に泣いても泣いても、ただ放っておかれたり、怖い響きの声とともに乱暴に扱われたなら、その子にとって世界は、自分に無関心な世界、敵意に満ちた不安と恐怖を引き起こす世界、という認知がなされるであろう。

成長するにつれて、母親(養育者)との愛着関係の形成や、養育環境によるさまざまな影響を受けながら、心は必要なプログラムをインストールしてゆく。それは自我を守る防衛機制のプログラムかもしれないし、それまでの基本的認識に修正を加えるプログラムかもしれない。

世界をどう解釈するか、その人の心の世界ができ上がってゆく。

心 = 意識

心のつくり出す世界 = 解釈 というのもひとつの解釈ではある。ヾ(- - ;)
では、解釈の元となる「心」とは如何なるものか? 

すぐ浮かぶのは「我思う、ゆえに我あり」という古の哲学者デカルトの言葉だ。世の中の森羅万象あらゆるものについて(自分の肉体さえも)、何一つその存在を証明することはできない。が、今この瞬間、それについて考えている「自我」は間違いなく存在している、というような意味だと思う。

しかし現代の脳神経科学によると、思うゆえにありではなく我あり故に我思うなるらしい

進化の過程で、これまで脳(心)のない生物はいくらでも存在したが、脳や心だけで身体のない生物は存在しなかった。したがって、脳(心)は生物の絶対条件ではなく、生存を有利にするための「適応的産物」として発生したと考える。

「心」は、人類という生物種が生き延びてゆくために進化的に選択された産物であって、最初から絶対条件として存在していたわけではない‥…というのだ。


したがって、脳の活動による感情や理性といった心の働きは、身体とのダイナミックな相互作用を無視しては論じることができないとし、身体活動と脳の活動は、互いに深く関わり合う対等な機能であると位置づけている。

生物の生存のための基本原則は「ホメオスタシス(恒常性)」にある。ホメオスタシスについては以前の記事ホメオスタシスにも書いたが、生物が体の状態を常に一定に保とうとする働きをいう。

哺乳類の場合、ホメオスタシスの維持のために、自律神経と内分泌系が中心になって機能している。そしてもうひとつ、情動(=心)がホメオシタシスに重要な役割を果たすことがわかっている。

一説によると、脳内には心身の内部環境を評定するシステムがあるという。つまり現在の身体と心の状態を何らかの基準によって値踏みし「プラマイゼロ」とか「マイナス2」とか評価をくだすシステムだという。評定が悪いときにはネガティブな感情、よいときにはポジティブな感情が起き、それによって行動だけではなく、理性、推測などの高次機能が動員されて、その評定を改善するように誘導されるとしている。

感情の動きに導かれてよい評定がなされるように心身が改善されれば、生存確立も高まるということになる。人の情動がホメオスタシスに大きな役割を果たしているのだ。つづく

 

 

 

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ことわざに


心ほどの世を経る


というのがある。


高校生のときに読んだ本のなかで、日本のSF作家の俳句として「人間は こころほどの 世をわたり」というのが紹介されていた。作家が誰であったかは忘れたけれど、小松左京・星新一・筒井康隆・石原藤夫・半村良などのお歴々が全盛期のころで、そのなかの誰かだったのだと思う。


僅か五・七・五の言葉のなかに、人間とは何ぞや?をパーフェクトに表現しているのでは?と激しく感銘を受け、そのあとずっと記憶に留めていた。後に日本のことわざがそのルーツであることを知ったのだった。


心ほどの世を経る」の本旨を簡単にいえば、「どのような人生も心がけ次第だよね」ということだと思うが、私の勝手な解釈では「人は自分の心のつくりだす世界でしか生きられない」という意味に捉えている。


心のつくりだす世界とは何だろう


森羅万象(現象・事象)をどう解釈するか?に尽きるのではないか。


現象は物理的にひとつしかないが、その現象をどう捉え解釈するかは人によってそれぞれ異なる。つまり、事実(解釈しない現象)はひとつだが、真実(解釈)は人の数だけある、ということだ。


芥川龍之介がそんなようなことを題材にした「薮の中」では、事実と真実の違いを分かりやすく描いている


ひとつの強姦殺人事件をめぐって、目撃者、当事者(一人は死人)の7人がそれぞれまったく異なる供述をする。ここでの7人は意図的に嘘を言っているのではなく、見たまま感じたままを語っている。自分の心を通すことで、事実は主観にすり替わるのだ。


果たしてこの事件の真実はどこにあるのか。どこにもないのである。もしくは、7人が語るどれもが真実なのだ。


えーと、話がなんだか逸れてしまった。


そう、人間は こころほどの 世をわたり」なのである。人はどんなに足掻こうと、自分の心のつくりだす世界でしか生きられないのなら、その世界をなるべく住み心地のよいものに変えるのも、自分の心に依るしかないのである。逆に言えば、自分の心ひとつで、世界を変えることが可能なのだ。

というようなことを、心理学の視点で妄想してみたい。


世界 = 解釈


宇宙の96%は暗黒関連?(暗黒エネルギー74%+暗黒物質22%)でできているというけれど、人の心のほぼ100%主観でできている。


私はセッションなどで、「自分を客観的に云々」とかよく言ったりするが、純粋な客観というのは存在しない。そこでの「客観的」や「客観性」というのは、なるべくこれまでの解釈に依らずにものごとを捉える、もしくは、別の解釈でものごとを捉える、ということになる。あくまでも主観ではあるが、多面的な解釈の可能性を自覚しようということなのだ。


お姑さんのお葬式で泣いているお嫁さんを見たときに、「あんなに悲しんで、とてもやさしいお嫁さんね」と解釈する人がいる。「あのひどい嫁いびりから解放された嬉し泣きよ、きっと」と解釈する人がいる。「悲しさ嬉しさ悔しさ寂しさもろもろが複雑に交差し、万感胸に迫り溢れ出した涙であるぞよ」と解釈する人がいる。


お嫁さんはといえば、お葬式の最中に虫歯が激しく痛み出し、病院にも行けず、頭がスパークするほどの激痛に泣いていたのだった(←友人)。

人はそれぞれの解釈による、それぞれの世界を生きている。どれが正しいとか間違っているとかの次元ではない。


自分に直接関係のない事象に対しては、どのような(勝手な)解釈をしようが、あまり自分には影響ない。しかし自分に直接関わりのある、もしくは「あると解釈する」事象については、解釈の仕様によっては多大な影響を受けることになってしまう。(つづく)


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ふだん出かけるときに公園を通るのだが、寒くなってここ1ヶ月ほど、早朝に出る日には、たいてい枯れ木にハシブトガラスが2~3羽止まっていることに気づいた。ときたま私を見下ろして「カア」と鳴く。

人間に身近な野鳥、スズメやカラスがものすごく好きなので、どうしてもかまいたくなってしまう。朝7時の出勤の折り、こっそり食パンを一枚隠し持って、通りすがりを装ラスいる樹の下さりげなく落とす2羽のときは二つ3羽のときは3つにちぎってやる。


ほんとうはカラスにエサなんぞやってはいけないことは重々承知している。けれども、パンを落とした直後にフワリと舞い降り、咥えて木の枝に戻って食べる様子を肩越しにチラ見する楽しみがやめられない。


今日も公園のいつもの樹を見ると、3羽のカラスが止まっている。一羽がこっちを向いて「カア」と鳴く。最近は歓迎されているような気がする。わたしにも待っていてくれる人、じゃないカラスがいる。。


さっそくウキウキしながらバックの外側ポケットに忍ばせた食パンを取り出す。うつむいてちぎろうとした瞬間に人の足音に気づく。


はっとして、食パン片手に顔を上げると、気難しい顔をしたおじさんが数メートル前をこちらに向かって歩いてくる。朝の散歩のようである。明らかに私の手に持った食パンを見ている。

エサやりがばれてはイカンと、うろたえてとっさに食パンを咥えてしまった。自分で喰ってどうする。


人間、後ろめたいことをするものではない。


もぐもぐしながら「おはようございます」と挨拶すると、「おはよう・・」と返してくれたが、絶対に呆れているよ。いい歳して朝から咥え食パンで歩いている、どれだけ行儀の悪いおばさんだと思ったであろう。


おじさんが公園の向こうへ行ってしまうまで木の陰にひそむ、そのあと無事に残りのパンをやることができた。この次はもっと抜かりなく周囲に気を配ろう。( ;) オイ


ああ、今年もあと数日。

今年中にあと一回、最後くらいはまともな記事で締めくくりたいな。



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今日も豊かな一日でありますように!
11月も今日で終わり、明日から師走である。
いやいやほんとうに、歳をとるほど時間が速くなる。
4~5日束になって飛んでいく。
今年のお正月がつい数ヶ月前のことのように感じる。
というか、春も夏も秋も風のように過ぎ去ってしまった。


年齢によって時間の感じ方に特徴があることは、以前このブログに書いた記憶がある。そのなかにジャネーの法則というのがあったと思う。

ジャネーの法則では、記憶が始まる3~4歳くらいから20歳までの体感時間(脳で感じる時間)と、20歳から80歳までの体感時間は、ほぼ同じくらいの長さ(年月)に感じるという。

少しでも時間を長く感じるように過ごすには、常に新しい経験を重ねつつ中身の濃い充実した日々を送るべし、というようなことだったと思う。つまり、安寧で呑気な人生を過ごしていると、いくら長生きしてもあっという間にお迎えが来てしまうよ、ということかな。

だからといって、年がら年中24のジャック・バウアーのように、ハラハラドキドキイライラバキューンの生きるか死ぬかの人生だったら、十年一日の如し・・の退屈人生の方が (・∀・)イイ!!。

もしかしたら、太く短く生きるのも、細く長く生きるのも、体感時間でいえば、「もう十分に生きたよ」とあの世に旅立つことに変わりはない、かもね。

すでに80歳を超えた母などは、戦前、戦中、戦後を、つねに一人突撃隊のように全力で突き進んできたので、同じ歳まで生きたとしても、私の3倍以上長い人生を体感しているはずである。

うちのジャンガリアンのガルビー軍曹は脱走の名人(ハム)で、毎日新しい刺激を求めて探検しまくっており、短命という運命を背負ってはいるが、規則正しく優等生のトム君よりも、多少は脳で生きている時間は長いかもしれない。ただ2時間も3時間も探させて、飼い主の人生を無駄に浪費させないでほしい。

などと、一ヶ月に一度のブログのUPのためにどうしようないことを書き連ねていたら、寝落ちしてしまってすでに12月なのだけれど、更新時間は書き出した時間のままなので、ラッキー♪


うつ病についても書きかけでほったらかしだし、来月からもうすこし更新を増やそう。

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