一方、翠は翌日が仕事休みのため、旧来の友人である咲子に夕方に飲みに行く約束をしていた。咲子は夜勤明けでぐったり疲れていた。翠と咲子との関係は二人が同じ大学のサークル仲間であった。咲子は学業が優秀で高校からの推薦で進学した。しかし彼女が二年時に留年したため、それをきっかけに自主退学。安定した職を求め、看護師を目指すために看護学校に入学、勉強に明け暮れて晴れて看護師になった。

  

 翠は化粧品メーカー退社後は転職先が決まらず、結婚して専業主婦と考えていたが、以前からファッションやメイクに興味を持っているため、親を説得して美容専門学校に入学、美容師になったものの長続きせず、大学時代の友人である咲子に相談をした。そこで咲子は兄であるモデルの裕一郎に話を持ちかけた。ちょうどその頃、彼の事務所ではスタッフ募集をしていたこともあり、あっさり採用が決まった。翠は先輩たちについてスキルを磨いていき、彼らと肩を並べるほどになった。

 

 「彼女には天性の才能、一流になれる素質がある」と彼女に目を付けていたのが、社長の小山田エツコだった。彼女は”おジャマだ社長”と呼ばれており、小太りでボサボサの白髪混じりの髪、すっぴんでガサツな言葉遣いで、いかにも”だらしのないおばさん”といった感じだ。ストレス解消法は、かつての職場仲間と同僚や後輩の悪口を言うこと。以前は夫が店長を務めるスーパーのパート店員だった。二人の間には子供がなく、夫とは家庭内別居でほとんど口をきいていない。その後、遠縁にあたる方から話がかかり、モデル事務所「モデルクラブ・ハヅキ」で清掃員として働くことになった。社長になったきっかけは、その遠縁の方の一言だった。

 「エツコ、あんたがこの事務所を守っていくんだよ」

 

 翠はイケイケで思ったことはすぐ口に出さないと気が済まない。”小心翼々”で弱い犬ほどよく吠えるタイプだ。エツコもその性格が気に入っており、まさに”似た者同士”だ。その二人からパワハラを受けて辞めてしまったスタッフもいる。人手不足になった分、翠は着々と腕を上げ、チーフスタッフになるまで成長した。

 

 咲子の子供は三人、夫がいない代わりに中学生の長女が弟妹の面倒を見てくれている。受験生で勉強が忙しいにもかかわらず、家事は一通りこなしている心強い存在だ。そして行きつけの居酒屋で待ち合わせをして、二人は懐かし話で盛り上がろうとするが、

 「咲、めっちゃ久しぶり。こうして会えるのは何年ぶりだろ。あんたも三人の子持ちになって随分貫禄づいたね」

 

 「そうよ、三人いるよ。中・小・保育園よ。お姉ちゃんが下の子たちの面倒見てくれてるから、だいぶ楽になったよ~」

 

 「うちはまだ手のかかるクソガキだよ。あたしに似て口だけは達者よ。四歳の保育園児だけど、あそこでも問題児になってるよ。今旦那に見てもらってるよ」

 

 「うちとこもクソガキだった時期もあったけど、一番下の子がちょうどそんな感じ。一度キレると手がつけられなくなっちゃって」

 

 「乗り越えなければならない壁があるんだな。萌もそのうち落ち着いてくれたら…」

 

 (つづく)

 そうしているうちに昼休憩を迎え、

 「お腹すいたな~このへんに美味しい定食屋さんがあるんだけど、そらちゃんも一緒に行かない?」

 

 「私でもいいのですか?誘ってくれて嬉しいです」親切な先輩スタッフたちがそらをランチに誘ったが、側にいた翠は彼女を呼びメイク室に連れて行くと、いきなり説教を始めた。

 

 「そら、あんたねーなんでこの業界に入ったわけ?ズバリ言うけど向いてないわ」

 (いきなり…何もこんなところで説教始めるなんて…)

 

 「私、子供の頃から絵を描くのが好きでファッションに興味を持っていたから、将来はデザイナーになりたかったんです。でも母はそんな学校を出てもお金儲けにならないし、通わせるにせよ余裕がなかったんです。中学出たら働いて家計を助けるべきと。それでも母は”お前の夢を叶いたければ自分で学費を稼ぐこと”を約束し、高校に進んでから自分でバイトして学費を稼いだり将来のために貯めていたんです。専門学校に進んでからもバイトを掛け持ちしてました」

 

 「へぇー、お金に縁のない人って随分苦労してるのね。あたしは何の不自由なく育ったからわかんないや」

 

 「”エリート街道まっしぐら”の翠さん、いやチーフにはわからないでしょうね。あの頃は大変でした。安いアパートで一人暮らしを始めて、バイト代も家賃と学費でほとんど消えちゃったからカツカツの生活でした。でも母には迷惑かけたくなかったんです。泣き言言っても追い返されるだけです」

 

 「あ、そう。でもね、あんたの貧乏自慢なんて聞きたくない!顔見ただけでこっちまで鬱になるわ」

 (聞いてきたのはチーフじゃない…せっかくのお昼休みが説教タイムになっちゃうなんて)

 

 「はっきり言うけど、あんたと一緒に仕事したくないわ。モチベ下がるし、あたしの足ばっか引っ張っちゃて、ちっとも役に立ってないし。そもそもスタイリストの素質なんてこれっぽっちもないわよ」

 

 そらは思ったことをすぐ口に出す翠の容赦ない”口撃”に逆らうことができなかった。ただ黙っているだけで涙があふれてきた。

 (この業界に憧れて夢の一歩を踏み出したばかりなのに、ひどい…ひどすぎる…)悔し涙を流す彼女を尻目に翠は、

 

 「泣いたところで、あたしが何とかしてくれるとでも思ってるの?いつまでメソメソしてるのさ。子供じゃあるまいし。考えが甘い!甘すぎる!あんたの顔なんて見たくないから、とっとと実家に帰んなよ。じゃ、あたしはお昼食べてくる」

 

 「…ごめんなさい」そらはうつむいたまま顔を上げることなく自分を責めた。

 (母さんに一人前のスタイリストになると約束して上京して学校を出て憧れの世界に飛び込んできた。でも甘くなかった。実家に帰ろうかな…いや、母さんにはこれ以上迷惑や苦労はかけたくない)と、実家に帰るか悩んでいた。だが母・五美の言葉を思い出すとあきらめるしかなかったのだ。

 

 (一人前になるまでは絶対に帰ってくるなと。帰ったところで追い返される。門前払いになるに決まってる)実家では一人寂しく過ごしている五美だが、娘のことは一日たりとも心配してないそうだ。だから娘には必ず一人前になってくれると思っているのだ。彼女の娘に対する期待は並外れている。それだけに母・五美の非力さを痛感しているのだ。

 

 「もうお昼休みが終わっちゃうよ…お腹すいちゃった…」

 

 (つづく)

 

 

 翠が夫と出会ったのは彼女が化粧品メーカー勤めだった頃に遡る。彼は取引先である商社の営業マンだった。翠は彼を一目惚れし、交際を申し込んだ。彼からも即OKを貰い交際を始めた。セレブな専業主婦に憧れていた彼女は退社後も交際を続けたが、結婚の条件として新しい仕事が見つかること、結婚しても仕事を続けてほしいと約束をした。金銭にゆとりがあるため新居も一戸建てをキャッシュで購入。やがて二人は長い交際を経てゴールイン。挙式は新郎・新婦の両親、親族、友人、仕事仲間を招いて盛大に行われた。新婚旅行は行かず、まもなく妊娠、元気な女児を出産。「萌木」と名付けた。萌木はすくすく健康に育ち四歳になった。翠は保育園に預けながら仕事を続けている。

 

 その時、側にいたそらが「こんにちは」と萌木に近づこうとすると、萌木はそらを睨みつけた。

 

 「ママ~、このおばちゃん誰?」と母親の翠に訊くと、

 

 「このおばさんは落ちこぼれの木偶の坊よ。あたしにとって単なる邪魔者よ」

 

 「ふーん(そうなんだ…)」

 

 そらはカチンときて、(失礼ね。おばちゃんはないでしょ。まだ20代なのに。ママより10歳も若いよ。母娘揃って可愛げないわ)と、心の中でつぶやいた。それでも、

 

 「びっくりさせてごめんね。初対面なのになれなれしく近づいちゃって」と言うと翠は、

 

 「そんなの屁理屈じゃない。あんた、娘と初めて会ってそれはないわ」

 

 「だって…」

 

 「だってもへったくれもないでしょ!仕事の邪魔になるから、さっさと帰ってよ」彼女はそらに帰るように促した。そらはしぶしぶ帰路につきながら、

 

 (私だって翠さんみたいに一人前になりたい…でも邪魔者扱いされて迷惑かけてるし、この仕事向いてないのかな…どうせENILのグループにもハブられるに決まってるのだから)

 

 「さてっと、邪魔者は帰ったから仕事続けよっと」と、翠たちは仕事を続けた。

 

 (こんな貧乏田舎者があたしみたいな一人前になれるわけないじゃん。ただ都会に憧れてやってきただけじゃない。都会暮らしなめてるとしか思えないよ)

 

 スタイリストとは、ファッション・メイク・ヘアなどの分野で魅力を引き出す職種である。「モデルクラブ・ハヅキ」改め「Office MIDORI」には翠を含め初見玉恵、築山唯子、そして見習い新人の天馬そらが働いている。なお、裕一郎らのスカウトマンの正体はデザイナーの九十九遥(つくも・よう)だった。彼の描いたデザイン画をもとに、衣装の作成は外部の業者に依頼している。また「ミドコレ」に招待したモデルたちは名の知れた大手事務所に所属しているが、その橋渡し役をしたのは実は彼だった。そのイベントも彼の人脈のおかげで実現できたのだ。

 

 時は過ぎていき、「ミドコレ」を三か月後に控えスタッフたちが次々と事務所にやってきた。

 

 「おはようございまーす!」昨夜、飲み過ぎた翠が、ふらふらしながら出勤すると、

 

 「おはようございます、チーフ。あれ?いつものチーフらしくないですよ。なんか顔色悪そうだけど大丈夫ですか?」

 

 「昨夜家で飲み過ぎちゃった。まだ酔いが残ってるけど大丈夫よ。さ、仕事仕事」

 

 「でも、無理しなくても…」

 

 「何言ってるの!本番まであと何日だと思ってるの?気合入れないとダメでしょ!そう言ってるまでに本番はすぐだよ」約一時間後、そらが出勤。

 

 「おはようございます。遅れてすみません」

 

 「そらちゃんおはよう。寝坊しちゃったの?」と玉恵が言うと、

 

 「ごめんなさい。目覚ましセットするのを忘れてしまって…それで電車に間に合わなくて…」とそらはペコペコ頭を下げた。すると翠は、

 

 「そんな言い訳いらない!あんたにはやる気が一ミリも感じれられないのよ。ていうか、社会人としての自覚あんの?」と怒鳴りつけ、

 

 「すみません。翠さんたちの足を引っ張らないように頑張ります」

 

 「なんとかの一つ覚えみたいなこと言わないでよ。それからあたしのこと”チーフ”って呼んでくれない?」

 

 「はい…わかりました、チーフ」

 

 (つづく)

 

 「