アメリカ旅行(2)紙とプラスチックの使い捨て
あるいは精緻なリサイクル社会だった江戸時代の人々や、アマゾン奥地で自給生活を送る部族、あるいは神の目から見れば、消費の快楽にどっぷり浸かった現代の日本人がアメリカ人を批判するのは所詮、「目くそ鼻くそ」の世界なのかもしれない。
それでも、アメリカの使い捨て文化と紙とプラスチック容器の普及と無駄遣いぶりに日本人である私は大いなる違和感を感じた。
誰もが躊躇なく、ガンガン、使い捨て容器を捨てているではないか!
マクドナルドやサブウェイなどのファストフードだけではない。ホテルの朝食では紙皿やプラスチックのスプーンが当たり前。下手するとわりとちゃんとしたレストランの夕食でも、良く見るとフォークとナイフは銀色に塗られたプラスチック製である。
オーガニックやエコで有名なホールフーズ・スーパーマーケットですら、客はピザやサラダの入った大量の紙の容器を散らかしながら食べていた。当然、ゴミの量は膨大となる。飲食店の大きな黒いゴミ袋は瞬く間に一杯になり、店員はどこでも忙しくゴミ捨て場と店内を往復している。
アメリカは合理性を重んじる国だ。皿洗い機を動かして皿を洗って乾かす手間と電気代、水道代などを考えれば、紙やプラスチック容器を使い捨てた方がコスト面で有利なのだろう。
容器の使い捨てが時間と手間の節約となるのは確かだ。日本の普通の主婦が3度家庭で食事を作れば、後片付けと皿洗いに掛かる時間は1日、合計で1時間以上になるかもしれない。 だが容器を使い捨てにしたらこの時間はゼロに近くなる。おまけに使い捨て容器の値段はとても安い。
だからこそ、「アメリカ化」した日本でもファストフードや、行楽イベントや屋台などでは紙とプラスチック容器を沢山、使い捨てるようになっている。紙ナプキンや紙おむつも使い捨てるようになっている。使い捨ては楽だ。
共働きが増える中、日本の家庭でも、朝ごはんに、いや、昼ごはんも夜ごはんも全て使い捨て容器を使えば、主婦が台所に立つ時間は飛躍的に減り、家事は楽になるだろうが、なかなかそうならない。
アメリカの便利な使い捨て文化を相当部分、取り入れながらも、日本の感覚が完全にアメリカと同じにならないのは、「使い捨てはもったいない」、「紙の器では食べた気がしない」という伝統意識と相克するからだ。その感覚のため、日本の主婦は毎日、何枚もの皿を使って料理を載せ、食べ終わった後は、一枚一枚、水で丁寧に洗って、拭いて、しまう(案外、水の無駄遣いには鈍感かも)。
また、ゴミ処理の場所が少なくて困っている日本では、資源ごみ有料化や厳しい分別、公共の場にゴミ箱がないなど、ゴミへの圧力がどんどん強まる傾向にある。
でも、アメリカにはゴミ処理の場所は沢山ある。
国土が有り余るほど広くて、お金を稼ぐために皆忙しく、かつ安価な工業製品の供給能力が大きな社会に生きる人のゴミに対する意識が、そうでない地域のゴミに対する意識と同じではない。粗大ゴミ、エアコンや、ガソリンの利用に対する考え方も違う。
アメリカで3億人が実践している、快適と合理性を追求したエネルギー使いまくりとモノの使い捨ての現状を標準とすれば、日本人の「エコ、節電、もったいない」という考え方は、島国にしか通用しないしみったれた精神主義のようにも見えてくる。
世界で、日本が特殊なのか、それともアメリカが特殊なのか?
いずれにしても、アメリカ人は日本の狭隘な国土と身をかがめて生きている人々の様子を実際に見なければ日本人の「もったいない」の心が分からないし、日本人はアメリカの広大な国土を一目見なければアメリカ人の「使い捨て」が理解できないだろう。
それが分かっただけでも、有益な旅だった!
それでも、アメリカの使い捨て文化と紙とプラスチック容器の普及と無駄遣いぶりに日本人である私は大いなる違和感を感じた。
誰もが躊躇なく、ガンガン、使い捨て容器を捨てているではないか!
マクドナルドやサブウェイなどのファストフードだけではない。ホテルの朝食では紙皿やプラスチックのスプーンが当たり前。下手するとわりとちゃんとしたレストランの夕食でも、良く見るとフォークとナイフは銀色に塗られたプラスチック製である。
オーガニックやエコで有名なホールフーズ・スーパーマーケットですら、客はピザやサラダの入った大量の紙の容器を散らかしながら食べていた。当然、ゴミの量は膨大となる。飲食店の大きな黒いゴミ袋は瞬く間に一杯になり、店員はどこでも忙しくゴミ捨て場と店内を往復している。
アメリカは合理性を重んじる国だ。皿洗い機を動かして皿を洗って乾かす手間と電気代、水道代などを考えれば、紙やプラスチック容器を使い捨てた方がコスト面で有利なのだろう。
容器の使い捨てが時間と手間の節約となるのは確かだ。日本の普通の主婦が3度家庭で食事を作れば、後片付けと皿洗いに掛かる時間は1日、合計で1時間以上になるかもしれない。 だが容器を使い捨てにしたらこの時間はゼロに近くなる。おまけに使い捨て容器の値段はとても安い。
だからこそ、「アメリカ化」した日本でもファストフードや、行楽イベントや屋台などでは紙とプラスチック容器を沢山、使い捨てるようになっている。紙ナプキンや紙おむつも使い捨てるようになっている。使い捨ては楽だ。
共働きが増える中、日本の家庭でも、朝ごはんに、いや、昼ごはんも夜ごはんも全て使い捨て容器を使えば、主婦が台所に立つ時間は飛躍的に減り、家事は楽になるだろうが、なかなかそうならない。
アメリカの便利な使い捨て文化を相当部分、取り入れながらも、日本の感覚が完全にアメリカと同じにならないのは、「使い捨てはもったいない」、「紙の器では食べた気がしない」という伝統意識と相克するからだ。その感覚のため、日本の主婦は毎日、何枚もの皿を使って料理を載せ、食べ終わった後は、一枚一枚、水で丁寧に洗って、拭いて、しまう(案外、水の無駄遣いには鈍感かも)。
また、ゴミ処理の場所が少なくて困っている日本では、資源ごみ有料化や厳しい分別、公共の場にゴミ箱がないなど、ゴミへの圧力がどんどん強まる傾向にある。
でも、アメリカにはゴミ処理の場所は沢山ある。
国土が有り余るほど広くて、お金を稼ぐために皆忙しく、かつ安価な工業製品の供給能力が大きな社会に生きる人のゴミに対する意識が、そうでない地域のゴミに対する意識と同じではない。粗大ゴミ、エアコンや、ガソリンの利用に対する考え方も違う。
アメリカで3億人が実践している、快適と合理性を追求したエネルギー使いまくりとモノの使い捨ての現状を標準とすれば、日本人の「エコ、節電、もったいない」という考え方は、島国にしか通用しないしみったれた精神主義のようにも見えてくる。
世界で、日本が特殊なのか、それともアメリカが特殊なのか?
いずれにしても、アメリカ人は日本の狭隘な国土と身をかがめて生きている人々の様子を実際に見なければ日本人の「もったいない」の心が分からないし、日本人はアメリカの広大な国土を一目見なければアメリカ人の「使い捨て」が理解できないだろう。
それが分かっただけでも、有益な旅だった!
アメリカ旅行(1)
初めて海外に出てから、何回目の海外旅行だろうか?
空港でチェックインして、パスポートチェックを受けて、飛行機に乗る。
飛行機を降りると、別世界が待っている。空港を降りると空気の匂いや重さが違う。人々の言葉が違う。食べ物が違う。文字が違う。
縛られている自分が解き放たれる。
この感覚は格別で、何度繰り返しても飽きることがない。
昔、皇太子妃の雅子さまは「外国に行けないことを苦しく思う時期がありました...」と記者会見でおっしゃっられていた。この「外国好き」発言は、皇太子妃としての立場をわきまえない、贅沢でわがままなものとして批判的に捉えられたが、間違いなく雅子さまの本音だったのだと思う。
小さい時に海外と日本を行ったり来たりする生活を続けた雅子さまは、そうした生活の「美味しさ」を存分に味わってきた。自由に海外に行けなくて本当にお可哀相だ。
もちろん、こうした美味しさ、楽しさを経験できる人は、この地球上でとても恵まれた人たちである。だが、世界中に中産階級の人々が増え、こうした非日常を味わえる恵まれた人々は増えている。
海外の大地をレンタカーでぶっぱなし、歩きまくり、外国の食べ物を食べている間は、日常生活を忘れる。
ひごろかじりついているネットや活字からの情報を遮断する。五感を使って自然や人々の生活を感じる。
自分の東京に日常生活が相対化され、島国である日本という国も相対化して見られるようになる。
出来れば健康であり続け、旅行できるお金を稼ぎ、いろいろな国を旅行してさまざまな発見をし続けたい!
そうあらためて強く思った楽しいアメリカ旅行だった。
空港でチェックインして、パスポートチェックを受けて、飛行機に乗る。
飛行機を降りると、別世界が待っている。空港を降りると空気の匂いや重さが違う。人々の言葉が違う。食べ物が違う。文字が違う。
縛られている自分が解き放たれる。
この感覚は格別で、何度繰り返しても飽きることがない。
昔、皇太子妃の雅子さまは「外国に行けないことを苦しく思う時期がありました...」と記者会見でおっしゃっられていた。この「外国好き」発言は、皇太子妃としての立場をわきまえない、贅沢でわがままなものとして批判的に捉えられたが、間違いなく雅子さまの本音だったのだと思う。
小さい時に海外と日本を行ったり来たりする生活を続けた雅子さまは、そうした生活の「美味しさ」を存分に味わってきた。自由に海外に行けなくて本当にお可哀相だ。
もちろん、こうした美味しさ、楽しさを経験できる人は、この地球上でとても恵まれた人たちである。だが、世界中に中産階級の人々が増え、こうした非日常を味わえる恵まれた人々は増えている。
海外の大地をレンタカーでぶっぱなし、歩きまくり、外国の食べ物を食べている間は、日常生活を忘れる。
ひごろかじりついているネットや活字からの情報を遮断する。五感を使って自然や人々の生活を感じる。
自分の東京に日常生活が相対化され、島国である日本という国も相対化して見られるようになる。
出来れば健康であり続け、旅行できるお金を稼ぎ、いろいろな国を旅行してさまざまな発見をし続けたい!
そうあらためて強く思った楽しいアメリカ旅行だった。
司馬遼太郎のアメリカ素描
- アメリカ素描 (新潮文庫)/新潮社
- ¥788
- Amazon.co.jp
旅行するのと住むのとでは外国の社会や文化の印象は大きく変わる。
その国の言葉が分かるか分からないか、知人がいるかいないかで対象の理解の度合いは変わるし、1年住むのと10年住むのでは理解の深さが違ってくる。
その点、私は20代のときフランスに7年住み、現地の学校に行き、現地の会社で仕事をし、多くのフランス人とさまざまな関係を持った。私にとって、フランスは日本の次に良く理解している国のはずだ。
でも、フランスについて今、何か語ろうとすると不思議なくらい、何も語れない自分がいる。思い出が錯綜して、何が普遍か、何か個別か分からず、何をどう語っていいか分からないのだ。
反面、2年足らずの生活だったシンガポールはもっと単純だ。人にシンガポールってどんなところ?10分で話して、と言われたら、客観的に要領よく、まとめることが出来そうだ。そして皮肉なことに、わずか数週間しか滞在したことのないスリランカのような国にはさらに強烈な印象が焼き付いている。
外国に長く住み、その国のさまざまな側面に愛憎の感情を持ち、多くの人と知り合い、さまざまな体験をすると、細部ばかりで全体が見えなくなるのかもしれない。
その点、この国民的作家のアメリカ滞在の紀行文は、滞在が短く、体験が浅いがゆえにアメリカ社会のデッサンは他のどんな専門家より上手なものに見える。
おそらく司馬遼太郎は、英語が不自由で、現地の人との接触も(恐らくこの機会を提供した読売新聞のツテを使った)日本がらみのアメリカ人ばかりであり、62歳という年齢や、すでに文壇の大御所という立場からして短い旅行でそれほど深くユニークな体験をしているようには見えない。
司馬遼太郎はアメリカの都市を歩きながら、自分の脳内幻想を意識的に膨らませて、対象となるアメリカ人とは全く関係のない、日本人としての自らの感慨をつぶやき続ける。そう、本書は常にデータベースと眼前の光景をマッチングさせようと感性を尖らせている「頭でっかち」な日本人作家、司馬遼太郎の脳内ドキュメンタリーなのだ。
司馬遼太郎の脳内にぎっしりつまっているのは、自分のホームグラウンドの該博なアジア史と日本史の知識と事前に日本語されたアメリカ文学を通じて知っていたアメリカである。
本書は徹底して博覧強記の司馬遼太郎の「つぶやき」で構成されている。つぶやきは、「このパンケーキ美味しい!」というような、現地の現実に対するストレートな反応ではなく、すでに頭の中で大半出来上がっている「文明」「文化」「アメリカという国のなりたち」「歴史」という抽象想念を、現実の旅の臨場感に触発された独特の感性で語ったものだ。
司馬遼太郎の視座はあくまで、「(自分のホームグラウンドである)日本史、アジア史から見たアメリカ」なのだ。
滞米体験の長い日本人や自国について語るアメリカ人で司馬遼太郎ほど日本やアジアの文明や文化の素養がある人はいない。だがら、自分が感じている「アメリカってこういうところ」という感覚を、司馬遼太郎ほど上手に調子で日本人に伝えられない。
司馬遼太郎は、英語も下手で、アメリカの生活に深入りせず、アメリカへの精神的思い入れもない。アメリカの食べ物もあまり食べない。逆説的にそんな彼の言葉だからこそ、司馬遼太郎の「アメリカってこんなところ」という感覚は「ああそうか~」日本人の心に腑に落ちるのだ。
司馬遼太郎の文体は、日本語以外の言語に訳したら、とても読めないのではないかと思うほど、論理ではなく感性に頼った日本語独特の文体だ。こうした文体や思考回路、視点こそが、本書を古びないものにしている。とても興味深いことである。