司馬遼太郎のアメリカ素描 | ライオンシティからリバーシティへ

司馬遼太郎のアメリカ素描


アメリカ素描 (新潮文庫)/新潮社
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今から26年前の1986年に書かれた本。1923年生まれの司馬遼太郎がすでにその地位を揺ぎ無いものにしていた62歳の時、40日間アメリカを旅行して書いた。この著名な国民的作家はその後、10年足らずでこの世を去った。

旅行するのと住むのとでは外国の社会や文化の印象は大きく変わる。

その国の言葉が分かるか分からないか、知人がいるかいないかで対象の理解の度合いは変わるし、1年住むのと10年住むのでは理解の深さが違ってくる。

その点、私は20代のときフランスに7年住み、現地の学校に行き、現地の会社で仕事をし、多くのフランス人とさまざまな関係を持った。私にとって、フランスは日本の次に良く理解している国のはずだ。

でも、フランスについて今、何か語ろうとすると不思議なくらい、何も語れない自分がいる。思い出が錯綜して、何が普遍か、何か個別か分からず、何をどう語っていいか分からないのだ。

反面、2年足らずの生活だったシンガポールはもっと単純だ。人にシンガポールってどんなところ?10分で話して、と言われたら、客観的に要領よく、まとめることが出来そうだ。そして皮肉なことに、わずか数週間しか滞在したことのないスリランカのような国にはさらに強烈な印象が焼き付いている。

外国に長く住み、その国のさまざまな側面に愛憎の感情を持ち、多くの人と知り合い、さまざまな体験をすると、細部ばかりで全体が見えなくなるのかもしれない。

その点、この国民的作家のアメリカ滞在の紀行文は、滞在が短く、体験が浅いがゆえにアメリカ社会のデッサンは他のどんな専門家より上手なものに見える。

おそらく司馬遼太郎は、英語が不自由で、現地の人との接触も(恐らくこの機会を提供した読売新聞のツテを使った)日本がらみのアメリカ人ばかりであり、62歳という年齢や、すでに文壇の大御所という立場からして短い旅行でそれほど深くユニークな体験をしているようには見えない。

司馬遼太郎はアメリカの都市を歩きながら、自分の脳内幻想を意識的に膨らませて、対象となるアメリカ人とは全く関係のない、日本人としての自らの感慨をつぶやき続ける。そう、本書は常にデータベースと眼前の光景をマッチングさせようと感性を尖らせている「頭でっかち」な日本人作家、司馬遼太郎の脳内ドキュメンタリーなのだ。

司馬遼太郎の脳内にぎっしりつまっているのは、自分のホームグラウンドの該博なアジア史と日本史の知識と事前に日本語されたアメリカ文学を通じて知っていたアメリカである。

本書は徹底して博覧強記の司馬遼太郎の「つぶやき」で構成されている。つぶやきは、「このパンケーキ美味しい!」というような、現地の現実に対するストレートな反応ではなく、すでに頭の中で大半出来上がっている「文明」「文化」「アメリカという国のなりたち」「歴史」という抽象想念を、現実の旅の臨場感に触発された独特の感性で語ったものだ。

司馬遼太郎の視座はあくまで、「(自分のホームグラウンドである)日本史、アジア史から見たアメリカ」なのだ。

滞米体験の長い日本人や自国について語るアメリカ人で司馬遼太郎ほど日本やアジアの文明や文化の素養がある人はいない。だがら、自分が感じている「アメリカってこういうところ」という感覚を、司馬遼太郎ほど上手に調子で日本人に伝えられない。

司馬遼太郎は、英語も下手で、アメリカの生活に深入りせず、アメリカへの精神的思い入れもない。アメリカの食べ物もあまり食べない。逆説的にそんな彼の言葉だからこそ、司馬遼太郎の「アメリカってこんなところ」という感覚は「ああそうか~」日本人の心に腑に落ちるのだ。

司馬遼太郎の文体は、日本語以外の言語に訳したら、とても読めないのではないかと思うほど、論理ではなく感性に頼った日本語独特の文体だ。こうした文体や思考回路、視点こそが、本書を古びないものにしている。とても興味深いことである。