ライオンシティからリバーシティへ -3ページ目

アメリカ旅行(5)荒野の魅力

私がこれまで住んだ町、東京、パリ、リヨン、シンガポール。

気候も地域も歴史も違うが、共通点はどこも徒歩と公共交通機関で生活できる都市だということだ。

都市にしか住んだことのない私は自家用車を持つ生活をほとんどしたことがない。

徒歩や自転車で移動可能な距離というのが、生活のモノサシになっている。

そんな私にとって、レンタカーを利用したアメリカの田舎旅行は日常生活の距離のモノサシをを麻痺させるものだった。

観光地から観光地、都市から都市へと、アリゾナの荒野をドライブ。まっすぐな国道をアクセルをガンガン踏んで前進。

ライオンシティからリバーシティへ

ガソリンの無駄遣いへの罪悪感はあるが、文明の利器を駆使して、大きな空間を移動していくことには、淀んだ心を洗うような不思議な気持ちよさがある。

馬、車、電車といった文明の利器を人間は開発して距離を克服してきた。単に便利にするためだけじゃない。人間のDNAにはスピードや空間の克服を純粋に快感と感じる何かがあるのだと思う。

小さいときから、「細やかで変化に富んだ日本の自然と違い、アメリカの自然は単調」と教わってきたが、それは間違いだったことを知った。広大な荒野とはいえ、地形の微妙な変化で、草木のサイズが変わったり、岩の色が変わったり、気温や湿度が変わったり、実に変化に富んでいる。

違いといえば、そんな荒野を延々とドライブしても、住宅や耕地がほとんどないことだ。たまに出現する草地で牛がポツポツいるくらい。

日本の人口密度は、1平方キロ当たり、336人。米国は32.7人。無人地域が殆どない日本と違って、米国の国土はまだまだ開発の余地がありそうだ。現にラスベガスの郊外は砂漠の中に、忽然と最近開発された新興住宅地が広がっていた。

生活空間の広さは、人間の精神に大きな影響を及ぼすと思う。

東京佃での生活は、徒歩距離に必要な全てのアメニティが揃っている便利さがあり、安全だ。だが家は狭い。トイレも狭い。いつでもどこでも人がいて、常に他人に気を遣いながらの生活である。「節電しよう」「ゴミを分別しよう」「安全に気をつけよう」「税金を納めよう」といった標語がいたるところに氾濫している。

それは、狭い土地で多くの人が和を保って生きるうえの知恵なのかもしれない。でも、ずっとそこにいると窒息するような息苦しさを感じるのも事実だ。

パリやシンガポールも似たようなものだった。

アメリカでも、サンフランシスコやマンハッタンなどの大都市部は多分、似ていると思う。

でも、アメリカの田舎の生活は、これまでの自分の世界観のパラダイムが変わるくらい異質だと思った。

その昔、アメリカの荒野には、先住民が住んでいた。

スペインから、東部から、より良い生活を求める白人の植民者たちがやってきて、異なる言葉を話し、異なる文化を持った人たちが、無法地帯の荒野にポツンポツンと住んでいた。他民族による略奪、疫病、旱魃、洪水。。。さまざまな困難と闘いながら自らの力を頼んで生を紡いできた、タフな人々。

その子孫が今でも荒野で生活している。

アメリカ名物のビーフジャーキーはそんな荒野の保存食だ。アメリカ人はあまり豚を食べず牛を沢山食べる。

アメリカで缶詰や保存食が拡がったのも、国土が広大すぎて、地産池消でフレッシュな食べ物を食べられる地域が少ないからだということが田舎で始めて実感できる。

アメリカの国力の底力も、田舎を見ると感じられる。

セデナで会った人々は当たり前のように銃を持っていた。

できれば、キャンピングカーで野宿でもしながら、不気味で荒っぽいアメリカの田舎の魅力をもっと長く味わいたかった!


アメリカ旅行(4)肥満


太っている人は世界中にいるが、算盤珠のような肥満体型はアメリカ独特だ。

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顔が小さく、手足も比較的細い。そして不釣合いにヒップ回りが大きく膨張している。こうした珠型の人がチョコチョコ歩く姿は、ニワトリにも似ていてかわいらしい。

アメリカ人の肥満と比べると、日本の太鼓腹、メタボなどは肥満のうちに入らない。

勿論、アメリカ人は全員、太っているわけではない。スリムな人も多い。

スタンフォード大学のキャンパスを歩く人々に肥満体型は皆無だった。日本人の若い男女に多く見られるガリガリに痩せて小さい貧相な体型の人も少ない。長身で適度に筋肉がついて全身のバランスが取れた、まるでギリシャの彫刻のように美しいスタイルの男女がジャラジャラ歩いていた。

日本のメディアで言われているようにアメリカの肥満は必ずしも下流の貧困層だけに集中しているようには見えなかった。

フーバーダムやグランドキャニオンを旅行する中産階級とおぼしき米国人観光客にも肥満は多かった。反面、スペイン、フランス、イタリア、ドイツなど欧州からの観光客とおぼしき人々には太っている人は殆どいなかった。

肥満は伝染するようだ。

肥満男性と一緒にいる女性は大抵、肥満で、子供も太めだった。そして、痩せた男性と一緒にいる女性はたいてい、痩せていた。

今回の旅行では、田舎に行けば行くほど
肥満の人は増えていき、肥満体型が標準になっていくようだった。インディアンのナバホ族の居住地の人々は、ほぼ全員が太って大柄だった。

肥満の原因は、明らかに食生活だと思う。

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帰国して読んだこの本によるとアメリカ人が本格的に太りだしたのは70年代からで、肥満が加速したのは90年代だという。
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本書によると、アメリカ人が大食漢になったのは、たくさんのエネルギー摂取が必要になったからではなく、食品産業の過剰生産の辻褄をあわせるべく、食べ物を過剰摂取させられてきたからだという。

確かにモニュメントバレーのナバホ族博物館で見た写真に登場する、第二次世界大戦中のナバホ族の兵士は皆、精悍に痩せていた。

アメリカで第二次世界大戦後に加工食品ブーム、外食産業ブームが起きたのは、終戦で軍事需要がなくなり、だぶついた爆弾生産用の硝酸アンモニウムの平和利用として開発された化学窒素肥料と、同じく軍需で開発された毒ガス製造の技術を応用した除草剤、除虫剤の開発で、アメリカの穀物の生産効率が飛躍的に高まったためだという。

化学肥料の登場で特に生産量が急増したのはトウモロコシで、それがコーンスターチ、コーンシロップなどになって、加工食品や清涼飲料の安価な原料となることで、アメリカ人の肥満に拍車をかけたという。

つまり、アメリカ人の肥満は、アメリカの農業力、工業力、豊かさ、強大な資本主義とセットになっていて、それらがもたらした負の側面ということになる。

アメリカ的食生活の最大の犠牲者が、数千年かけて作り上げてきた伝統的な生活のシステムを破壊され、食料品の配給によって伝統的な食生活を失い白人的な食生活に切り替えを余儀なくされたインディアンだ。

キャニオン・デ・シェイで見たナバホ族の中年女性たちが、先住民プエブロ族の残した遺跡のある谷を暑い夏の日中から、トレイル・ラインに励んでいたのが印象的だった。

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日本もまた、アメリカに戦争で負け、敗戦直後はアメリカが供給する缶詰や脱脂粉乳で飢えを凌いだ。ファストフード、アイスクリーム、清涼飲料は私たちの食生活の一部になっている。

それでも、日本人の食生活は完全に米国風にはなっていない。伝統的な食のシステムを失わないで今日まで維持できたから、日本人は太らないで済んだ。

日本人が伝統を維持できた理由は、インディアンと違って伝統的な食材供給の基本となる国土を失わなかったこと、しょうゆ、味噌、昆布、鰹節といった基本食材の安価で大量の生産供給体制が維持され続けたこと、そして何より日本食のシステムそのものに異物流入に負けない「競争力」があったせいと思われる。

家庭の主婦が家族のために料理を作るという文化強制力と習慣が根強いことも日本に肥満が少ない理由かもしれない。

日本だけでなくヨーロッパやアジアの国の大半は経済が発展しても、伝統的な食習慣を維持しているように見える。アメリカナイズされた加工食品や清涼飲料を取り入れても、インディアンのようにそれが食生活の核にはなっていないのだ。

アメリカはグローバルスタンダードではない。世界中でとても特殊でエキゾチックな場所なのだということは、こうしたことからも感じられる。






















アメリカ旅行(3)設計思想の違い

日本が誇る戦闘機、零戦。

靖国神社の遊就館で実物を見たときの感想は、「可愛い!」だった。

丸っこくて小さくて、素材が薄くてペラペラで。

普段、見慣れたジャンボ旅客機で作られた「飛行機」の概念がガラガラと崩れたのを覚えている。

零戦ことゼロ式艦上戦闘機は、速度、格闘性能、航続力を重視し、限られた出力のエンジンで最大限の性能を発行するように作られていた。だが、その軽量化のおかげで、被弾や急降下機能が弱いという弱点も持っていた。

一方、ゼロ戦と戦った米グラマン社のヘルキャットの姿は零戦とは極端に違う。

ヘルキャットは大きい。

そして直線的で骨ばっている。鋼板は零戦の数倍も分厚く、いかにも頑丈だ。太平洋戦争末期。零戦の弱みを研究し尽くした米空軍はF6Fと零戦を直接、格闘させず、上空から打ち落とすようにして戦況を有利に導いていったという。

唐突ではあるが、零戦とヘルキャットの間にある日米の設計思想の違いは今回のアメリカ旅行で食べたサンドイッチと同じだ。

日本では200~400円くらいでコンビニやパン屋でサンドイッチが売っている。おにぎりだと100円くらい。サンドイッチが600円だと、高過ぎる感じがする。

でも、アメリカには、どんな安売り店でも6ドル以下のサンドイッチは見つけられない。訪れたアリゾナ州のドライブインやAMPMなどでもだいたい、6~7ドル、サンフランシスコでは8~9ドルくらいだった。ちなみにアメリカでは乾きモノ以外で5ドル以下で買い食いすることは難しい。そして、レストランでは10ドル以下で食事をすることは難しい。


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その代わり、アメリカのサンドイッチはどれも「具」が沢山入って実に頑丈で、内容が充実していた。ランチには1つ食べればおなかが一杯になるように設計されているのだ。

これに対し、日本のサンドイッチはそういう風には設計されていない。圧倒的に「具」が貧しい。パンは薄くてフワフワで心元なく、ハムも薄いのが一枚だけ、レタスも一枚だけ。良質の肉が沢山入ったサンドイッチなんてどこにも売っていない。

だから、おなか一杯食べるには、サンドイッチにおにぎり、菓子パンなどを組み合わせて買う。

そういう風に設計されている。

アメリカは調味料もさまざまなピクルス、ケチャップ、マヨネーズ、ハラペーニョ、マスタードなど豊富だ。日本はバターだけ。

おにぎり、ざるそば、ラーメン、カレーライス、お好み焼き。日本の日常的な食べ物はどれもシンプルで軽量だ。ちなみに、タイ、シンガポール、中国。アジアの国はどこもそういう傾向がある。

それに対して、アメリカの一品料理はどれもずっしり実質的だった。

日本人は、軽く食事をする。おなかがすいたらチョコチョコおやつを食べる。

アメリカ人は、食事の後にデザートやアイスクリームを食べるが、あまり間食しない。

日本の本は、薄くて小さくてペラペラしている。アメリカの本はずっしりと重くて厚い。

日本の家や家具は薄くてペラペラしている。アメリカの家や家具は厚くて重い。

日本の寿司はシンプルで小さい。カリフォルニア寿司はごちゃごちゃしていて大きい。

日本語は直感的にアッサリしゃべる。英語は論理を組み立ててきっちりしゃべる。

日本人の体型は薄くてペラペラしている。アメリカ人の体型は厚くて重い。

日本の美人は楚々としている。アメリカの美人はゴージャス。

違いの根本にあるのは風土だと思った。風土が違うから、違う歴史が生まれ、ボリュームや質量に対して違う感覚が生まれ、違う設計思想が生まれてくるのだ。

狭い国土と湿潤な気候が日本を作った。

欧米の風物を取り入れるとき、日本の風土にあうように本来のあり方を換骨奪胎し、薄くてシンプルでアッサリしたしょうゆ味に変えてきたのだ。

私はアメリカのパストラミ・サンドイッチが大好き。これが東京であまり食べられないのが残念だ。

アメリカで大きなアメリカのパストラミ・サンドイッチを食べてアメリカを体感するのは本当に楽しいことだ!