子どもの頃は、何でもできる気がしていました。私は早熟なタイプだったんだと思うんだけど、まわりの子たちよりもいろんなことがすんなりできたし、特に苦労することなくお勉強もできた。
そういうタイプの子って、一定数いると思うけど、ある年齢以上になれば、世の中は広いってことを知り、自分よりもデキる人はたくさんいるんだと知って、努力も必要だ…とか、感覚が修正されていくんじゃないかと思うんです。
私もそういうプロセスを踏んできたのかなと思うのですが、転校によって、短期間で環境が極端に変化したので、「何でもできる」から、「私なんて全然ダメだ」と、自己イメージも極端に振れてしまったんですね。(今思えば…ね)
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世界が広ければ、「全然ダメ」なんてことはないってわかる。お勉強はダメだけど、運動は得意とか、何か習い事はそこそこイケてるとか。友人やゆるくつながっているコミュニティーが複数あれば、違う場所ではまた、違う見方ができたりするものです。
でも、世界が学校しかないと、そして、友人知人も学校しかないと、学校がダメなら全然ダメになってしまう。(親も学校の価値観を重視してるとね…)
子どもにとって、「私なんて全然ダメだ」というのは、「生きていけないかもしれない」恐怖との闘いなんです。
生きていけないかもしれない…となったら、人は生きていくために何でもします。今の自分で生きていけないなら、違う自分にならなければならない。
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今のままでダメなら、人に優越しないとならない。
そうやって、自分を見失ったまま、大人になってしまうのです。
自分の基準より、世の中の基準。人に認められるにはどうしたらいいか?人よりデキるには何をすればいいのか?そこをクリアしなければ生きていけないとなったら、心安らぐときはない。いつも必死なのです。
だけどね、私、長いことそのことに気づいていなかった。だから、デキる人になりたい…というのも、純粋に自分の望みだと思ってやっていたのです。
もちろん、努力できる自分になれたことはよかったし、そのお陰で成果を得たこともあったけど、どこか苦しいし、いつも焦っているのです。
あの頃の私が今目の前にいたら、ギュっとハグしたいと思う。
なんだかわからないけど、焦ってる。努力しているのに上手くいかない。いつも同じようなパターンにはまって、空回りしている。そんな感覚があったら、神社にお参りするより、風水に凝るより、自分を理解した方がいい。
そこには、まったく気づいていないような無意識の思い、生き延びるために大切なものを大切にしている自分がいるのです。
うまくいかないその現実の目的を知ることで、一気に自分への理解が進みます。小手先の処世術でなく、自分が自分として生きるための根本原則を手に入れれば、それは一生ものなのです。
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