小動物とエクリ
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ズレの知覚と誤知覚

 

 

 

序章 多元的無知とは

多元的無知(pluralistic ignorance)とは、「集団の多くの成員が、自らは集団規範を受け入れていないにもかかわらず、他の成員のほとんどがその規範を受け入れていると信じている状況」として定義されてきた。

それは、彼らが自分の考えを表明するとき、その表明は大抵の場合、「集団が何を感じているか」という幻想によって歪められてしまうためだという。このように、集団の各々のメンバーが他者の考えを互いに読み誤っている状況が多元的無知である。

 

 

1 多数派への同調

1.1 Aschの同調実験
多元的無知という現象を理解する上で外せない社会心理学の古典的概念の1つに、「同調(conformity)がある。同調とは、個人が、自己の信念と集団規範あるいは集団成員の多数派が示す標準との不一致を認識し、集団成員からの暗黙の圧力を感知して、その規範や標準に合致するよう態度や行動を変化させることである。

 

 

1.2 日常生活における同調

いつのまにか暗黙の規範が生まれ、同調によってそれが共有されるという事態がしばしば生じる。すなわち、集団の成員一人一人が、(そうとは意識しないままに)特定の規範なるものを創り出したり、維持したり、変容させたり、といった役割を担っている。

こうした個人レベルでの現象の理解を超えて、社会現象としての同調が暗黙の裡に生起する集合的なプロセスへと、視野を広げていくこととしたい。

 

 

2 社会現象としての同調ーー多元的無知

 

2.1 『はだかの王様』に描かれた集団規範の創発過程

周囲の他者に同調した個々人は、自らの同調行動が社会現象の一部を構成することを意図したわけではもちろんなく、行動が、今度は別の他者に影響され、受動的に振る舞ったに過ぎない。しかし、そのような個人の行動が、今度は別の他者から観察され、新たな同調行動を生む。同調は、このような自他のインタクラティブなプロセスを通じて、社会現象としての広がりを見せることになる。

多元的無知とは、集団や社会の多くの成員が、自らを受け入れていない規範について、他者の大半がそれを受け入れていると推測している状況を意味する。こうした誤った推測が集団レベルで維持されてしまう理由は、誤推測に基づいて生じた同調行動が成員に互いに観察し合うことで、各々が自らの(誤った)推測に対する確信を深め、ますます同調を強めていくからにほかならない。多元的無知は、こうした集団成員の誤推測と行動の連鎖によって初めて、社会現象として立ち現れるのである。

 

 

2.2 名誉の文化研究

Nisbett & Cohen(1996)は、こうした地域からの入職者がアメリカ南部で再び牧畜を生業したことによって、名誉の文化がアメリカ南部に持ち込まれ、根づいたと推論した。

 

 

2.3 名誉の文化と多元的無知

南部の白人男性の多くが「他者は自分よりも暴力的である」と認識し、また「自分よりも他者の方が、名誉のための暴力を望ましいと考えている」と推測していることが示唆されたのである。

かつてAsch(1951, 1952)が実験室に見た「同調」とい事象は、社会とその一員たる個人とのダイナミックな相互構成的関係を視野に入れることにより、改めて社会現象としての理解可能になる。

 

 

3 多元的無知に関するこれまでの実証研究例

3.1 大学生の飲酒規範

男子大学生の多くは他者に合わせて飲酒を行っているうちに自分も飲酒を好むようになり、飲酒習慣に関する多元的無知は3ヶ月の間に解消された

 

 

3.2 日本人の相互協調性

東アジアの人々は欧米の人々に比べ、周囲の人々の間に集団主義的価値が共有されていると(実際以上に)知覚している場合が多く、またそのような知覚をもつ人は、個人的にはその価値を重視していなくても、集団主義的な行動をとりやすいという

「個人としては相互依存的な生き方をより好ましいと評価しながらも、そうした振る舞いをすれば他者から嫌われ、世の中でうまくやっていけないだろうという信念を人々が共有していること」

このような信念ゆえに日本人は相互協調的に振る舞うという予言の自己上述的プロセスが介在している

すなわち、日本文化に優勢とされる相互協調性が、実は多元的無知によって維持されている文化規範である可能性が示唆される

 

 

3.3 働き方改革の推進を阻む職場規範

周囲の他者の考えを誤ってネガティブに推測した場合には、実際の育休取得行動が抑制されてしまう可能性を示唆している

 

 

4 本書の主眼ーー多元的無知研究の新たな展開を目指して

4.1 多元的無知を引き起こす個人の認知メカニズム

他者の選考についてどのような推測がなされた場合に他者に追随する行動がとられるのか、また多数派に追随せずに独自の行動をとる個人が現れた場合にどのような評価がなされるのかといった問題について、精緻な検討を行う。これらは、集団成員が互いの行動を観察し、その背後にある意図を読み合うことで、個人的には不支持な規範が維持・再生産されるという一連の流れを可視化する試みである。

 

 

4.2 多元的無知に影響を及ぼす社会環境要因

長年にわたって同じ顔触れで共同体が構成されているような流動性地域と、住民の入れ替わりが激しい高流動性地域とでは、多元的無知現象の様相は異なっている可能性がある。

 

 

4.3 ビジネスの現場に見る多元的無知1 : 個人特性との関連

同じ環境に身を置いていても、他者からの評判低下を懸念する程度や、他者に同調せずに自分の思うままの行動を志す程度には、各個人の特質に応じた差異もあるだろう。

すなわち、「個人が自由に集団を移動し、新たな他者と新たな関係を構築する能力」を意味する。

 

 

5 本書における多元的無知と集団規範の定義

多元的無知とは集団規範の維持がいかにしてなされているかを示す概念である。

「個々の成員が自身の選好に反して、他者が受け入れている(と信じる)規範に従った行動を採用することにより、結果的にその規範が維持される状況」というもう一つの定義を加える。

経済学者の松井(2002)は「明示的にせよ暗黙的にせよ人がとるべき行動をさし示す言明」という価値判断の基準として規範を定義した上で、「集団の成員の多くがとっている行動様式」であるところの慣習を支える一つの要素であると述べている。

 

 

第1部 多元的無知を生み出す認知メカニズム

観察対象の人物は、全員がたまたま同じ選好をもっていて各々が自らの選好に基づく行動をとっている可能性もあるが、中には周囲の他者に合わせて自分の選好と一致しない行動をとっている(つまり、既に存在する規範に追随している)人がいるという可能性もある。すなわち、規範が生起する場面と規範が維持される場面とでは、他者の選好に関する実験参加者の推測は異なったものになると考えられる。

 

 

第1章 多元的無知はどのように生起するのか(研究1)

3 結果 : 仮説の検証

3.2 対応バイアスが生じる場面

「他者の行動は、たとえ消極的選択の結果であっても、積極的選択の結果である、すなわち他者の選好を反映していると判断されやすいだろう」というものだった。

自らの選好を統制した上でも推測された他者の選好の効果が有意であることを示しており、行動意思決定において推測された他者の選好が影響を与えることを示している。

 

 

3.5 正当化によって多元的無知は解消したか

多元的無知状態の解消に至るほど各集団成員が規範を内在化させることが困難であることを示している。


4 考察 : 多元的無知の生起・維持メカニズムに関する検討

人は多元的無知に基づく行動の後、自らの好みを当該の行動と同じ方向に変化させるが、そのことによって自身の態度と(推測された)他者の態度のズレは完全に解消するとは限らず、依然として多元的無知状態が存在し続ける可能性があることが示唆された。

 

 

4.1 多元的無知と文化の維持に関する2つのメタ理論

「文化への制度アプローチ」を提唱とする増田・山岸(2010)は、「人間は自分の目標(選好)の実現を求めているが、他の人たちを無視して自分の好きなことをするわけにはいかない」という前提に基づき、個人は「一般に人間はこういった状況でこう行動するだろうといった、人間一般についてのモデル(信念)」を用いて行動し、その行動が他の人々の信念の内容に影響力を及ぼす、と論じている。

日本人は(個人の選好としては)自分の意見をはっきり言うなど相互独立的に振る舞いたいと思っていても、「他の日本人は独立的な振る舞いをとる人物に対して悪い印象を抱く」と考えて、実際には相互協調的に振る舞う、というモデルである。さらに、ここでの相互協調的な振る舞いによって、その振る舞いを目にした別の他者に対して、「他の日本人は協調的な振る舞いを高く評価する」という信念をより強く抱かせると考えられる。
 このように、人々が自らの好みに一致しない行動を選択し続けることによって文化が維持されていることを指摘した研究もある。これらのアプローチのポイントは、個々人が実際にもっている選好ではなく、より一般的な人間像についてのモデル(この状況でこのように行動すると他者からの印象がどう変化するか)によって、人々の振る舞いが規定されているという点である。このようなアプローチは、人々の行動が他者の選好についての推測の影響を受けているという点で多元的無知研究と近いと考えられる。
 一方で、「文化は実質的に心を作り上げており、また同時に文化そのものも、多くの心がより集まって働くことによって、維持、変容されていく」(北山)すなわち、人々の選好(心)が行動に反映され、集合的に共有されることによって文化が維持されるという主張もある。

 

 

4.2 選択行動後の好みの変化ーー2つの異なった認知的不協和

人は他者から嫌われたくないという思いを持っているとするなばらば、他者の選考に合致するかどうかわからない行動をとることは認知的不協和を生み出すだろう。

パートナーの価値付けに関する推測の変化は、「自分の選択行動は他者を喜ばせるために行ったものである」という正当化によって、認知的不協和の解消を図ったもの考えられる。
 自分の選好には合致するが他者の選好に合致するかどうかわからない状態での選択が認知的不協和に結びつくのであれば、自らの選好に即した行動をとることが必ずしも不協和を引き起こさない選択だとは言えない。人が、自らの選好ではなく(推測された)他者の選好に合わせた行動をしばしば選択するのは、このような、言わば他者由来の認知的不協和を避けようとする動因に基づくものと考えられ、個々人がこうした他者由来の認知的不協和の回避を目指すことによって、多元的無知状態が集団レベルで維持されると考えられるだろう。

 

 

第2章 多元的無知が維持されりメカニズム(研究2)

3 研究 2-2 : 5人集団な規範維持プロセスを追った実験室実験

他者からの期待を感じた上で他者と異なる行動をとった可能性(=規範逸脱者としての可能性)と同時に、そもそも他者からの期待を感じなかった可能性(=規範非認知者としての可能性)も存在している。

 

 

3.2 結果 : 仮説の検証

他者が下す評価の推測と規範遵守行動(作業仮説2)

「他者の行動が選好と反していると推測する人ほど、当該行動に規範性を認知し、それに沿って振る舞う」

 

 

4 研究2のまとめ

多元的無知が生起する場面においては、「他者は選好に沿った行動をとっている」と予測する人ほど他者に合わせた行動をとっていた。これは、他者が好んでとる行動に自分も追随することで、その集団の中に馴染むことを意図したものとして理解することができる。一方、多元的無知が維持される場面においては、「他者は選好と反した行動をとっている」と予測する人ほど、他者の行動に従っていた。これは、他者の行動が選好と乖離しているという規範性を認知し、自分も追随することが望ましいと判断したと考えられる。いずれの場面においても、集団成員は集団に馴染むことや(認知された)規範に従うことを志向しており、同じ行動をとることで他のメンバーとの良好な関係性を保とうとしていることがうかがえる。逆に言えば、他者と異なる行動をとれば、集団内での自己の評判が下がるのではないかという懸念を抱いているとも考えられる。

 

 

第Ⅰ部のまとめ

選好と反する行動をとる他者を観察し、自身も選好と異なる行動をとった人物が、別の他者に対して選好に反した行動をとることを再帰的に促しているのである。集団内の個々人は、単に他者から一方的な影響を受け、他者に追随するだけの受動的な個人ではなく、彼らの行動もまた別の他者からの観察対象となり、その人物に同調を促し、その結果として集団現象としての多元的無知状態が維持されると考えられる。


第Ⅱ部

多元的無知が生じやすい社会環境の検討

 

 

第3章 関係流動性の高さと多元性無知の関係(研究3)

1 背景と仮説 : 関係流動性と評判予測の関連

1.1 評判予測の2側面と関係流動性

これまでの研究から、規範を遵守すること(あるいは規範から逸脱すること)の規定因として、「他者からの評判の予測」の重要性が指摘されている。

日本は新たに対人関係を結ぶことが困難な社会(閉ざされた社会)であるがゆえに集団から排斥されるコストが大きいことを指摘した上で、日本人は他者の反応を気にしつつ、自らの選好(=相互独立的に振る舞いたい)とは異なる行動(=相互強調的な振る舞い)をとっている

流動性の低い社会環境では、評判の統制的役割やネガティブな評判を回避するインセンティブが大きいと考えられる。

関係流動性(relational mobility)

「ある社会において、必要に応じて新しいパートナーと関係を結ぶことができる機会の多さ」

個人が他者と関係を結んでいく際の戦略にも影響を与えることが理論的に示されている。 

関係が流動的でない場合、規範からの逸脱に伴う評判低下の可能性を高く予測する人ほど、規範に沿って振る舞うという仮説を立てる。

実際は評判が上昇(低下)しないにもかかわらず、個々の集団メンバーが「規範に従うと(規範から逸脱すると)評判が上昇(低下)する」と誤って予測し、規範に従っているような状況があるならば、それは他者の信念の誤推測によって規範が維持されている多元的無知状態であると言うことができる。

 

 

1.2 評判を正確に予測することはできているか

この評判予測が実際に個々の人々が規範の遵守者や逸脱者に対して行う評価と合致していないとすれば、そのような言わば「誤った」予測が、規範を維持するドライブとして力をもつということになる。

このように、他者からの評判低下予測を強化させ規範遵守行動を促し……、というダイナミックな循環プロセスがたどられる。

人々は規範逸脱が発覚した際の評判低下可能性をより高く見積もる、この傾向は低流動性社会の人々において顕著であるという仮説を立てる。

流動性の高低によって実際の評判の様相にも違いが見られることが考えられる。

①関係流動性を高く認知する人ほど、正直な人物に報酬を与える傾向にあること

②関係流動性を低く認知する人ほど、正直でない人物を罰する傾向にあること

 

 

1.4 仮説のまとめ

仮説1 : 関係が流動的な場合、個人特性(賞賛獲得欲求)にかかわらず、規範遵守に伴う評判上昇の可能性を高く予測する人ほど、規範に沿って振る舞うだろう
仮説 2 : 関係が流動的でない場合、個人特性(否定的評価回避欲求)にかかわらず、規範からの逸脱に伴う評判低下の可能性を高く予測する人ほど、規範に沿って振る舞うだろう

 

 

第4章 居住地流動性の高さと多元的無知の関係(研究4)

1.3 仮説のまとめ

例えば、ある人物が規範に従った場合、ここでの規範遵守行動が他の他者の評判予測に影響を与え、他者の規範順守行動を促進すると考えられる。逆に、ある人物が規範から逸脱した場合、他者は規範逸脱に伴う評判低下可能性を低く予測し、他者の規範逸脱を促進しうる。評判を軸に人々の規範遵守行動を捉えると、一人一人の集団メンバーは他者からの評判を考慮する受動的な存在であると同時に、他者の評判予測や行動に影響を与える能動的な存在であると同時に、評判予測と行動の関連を分析することは、集団メンバーの相互作用が集団規範を構成するに至るマイクロ=マクロ・ダイナミクスの分析につながる。

 

 

4 考察 : 居住地流動性と評判予測、多元的無知の関連

4.2 流動性と多元的無知の関係

関係流動性を低く認知する人が評判低下可能性の過大視に基づく規範遵守行動をとるという結果が得られていることを考慮すると、多元的無知状態は流動性の低い社会で維持されやすいという解釈は妥当であると考えられるだろう。

 

 

4.3 研究4の課題と展望

自己の魅力が低くても知人が離れることのない低流動性社会とは異なり、高流動性社会では各々が関わる相手を自由に選ぶことが可能である分、自己の魅力が低い場合には知人から離れられる可能性がある。そのため、高流動性社会においては関係構築のためのみならず、関係維持のためにもエネルギーを投資する必要がある。今後は関係構築に加え、関係維持の観点からも評判と規範遵守行動の関係を検討する必要がある。

 

 

第Ⅱ部のまとめ

居住地流動性の高い社会において、関係構築力が高い人は規範遵守に伴う評判上昇を予測するほど規範に従う一方、関係構築力の低い人ではそのような関係は見られなかった。このことは同じ流動性の環境の中でも、それを活用して対人関係を構築できる人とそうでない人とがおり、両者の間で行動戦略が異なっていることを示唆している。

 

 

第Ⅲ部
ビジネスの現場を対象とした応用的研究

転職行動とはつまり、社会の流動性(転職する機会)を活用して新たに対人関係を構築するという側面を持つ。本書では転職行動を社会の流動性を活用する行為として捉え、個人のパフォーマンス(職務能力)の高さと転職行動の関連を検討する。

 

 

第5章 個人のパフォーマンスと転職行動との関連(研究5)

4 考察 : 個人のパフォーマンスと転職意図の関連とその調整要因

4.2 個人のパフォーマンスと流動性の活用

転職行動に影響を及ぼす要因として包摂性の風土とパフォーマンスの交互作用が見られ、職場の居心地が悪い(包摂性の風土が低い)場合に限って、パフォーマンスの高い人ほど転職することが示されている。

彼らは、問題解決や処理能力の高さ(resourcefulness)・交友関係の広さ(social connections)・身体的魅力(physical attractiveness)といった社会的価値(social value)の高い人ほど流動性を高く認知することを示している。

すなわち、労働市場においては、個人のパフォーマンスの高さが、当該個人の関係構築力を決定づける重要な要素の1つであると言えるだろう。

 

 

4.3 個人のパフォーマンスと規範遵守行動および多元的無知との関連

評判低下可能性が高い状況では、エリート層のほうが一般層よりも転職意図が高いという傾向が見出された。転職に伴う評判低下可能性が高い状況を「離職・転職は望ましくない(長く勤めることが望ましい)」という規範が存在している状況として捉えると、こうした状況下での転職は、転職を控えるべきという規範からの逸脱行動に他ならない。

 

 

第Ⅱ部で見た通り、規範逸脱に伴う評判低下の可能性を個々の集団成員が過大視し規範に従った場合、集団の中で多元的無知状態が生まれることとなる。

 

 

4.5 研究5の限界

エリート層もそうでない人も同様に現状の職務満足度が低くなるにつれ転職の意図を高めたことがわかるが、だからといって両者とも転職を叶えることができるとは限らない。エリート層は行動レベルでも転職を叶えることができる一方、一般層は意図レベルでは転職への意欲があっても、実際に転職を成就させることができないという可能性もある。

パフォーマンスの高い人は状況に応じて転職機会という流動性を活用するのに対し、パフォーマンスの低い人は望ましくない組織風土のもとで流動性を活用することが難しいことを示している。

 

 

第6章 職場における多元的無知とその帰結(研究6)ーー職場間比較の視点

1 背景と仮設 : ダイバーシティ信念をめぐる多元的無知の可能性

1.1 職場規範に関する多元的無知を扱った先行研究とその限界

「ズレの知覚(misalignmdent)」
「誤知覚(misperception)」

従来の多くの研究は、自己信念の集団平均と推測された他者信念の集団平均に差があることをもって多元的無知の存在を示してきたが、集団内の個々の成員のズレの知覚や誤知覚は、必ずしも一様ではない。

 

 

1.4 多元的無知の帰結としての対人葛藤

まず、個人レベルでのズレの知覚に注目すると、自分よりもダイバーシティに対して否定的な信念を保持している(と推測される)同僚に対してネガティブな感情を抱き、結果、対人葛藤が促進されると考えられる。

 

 

3 結果: 仮説の検証

3.2 個人レベルでの乖離

むしろマジョリティである男性のほうがダイバーシティに対して肯定的であること、また自己の信念と他者の信念とのズレの知覚に性差があるとは言えないことが示された。

 

 

3.3 職場レベルでの乖離

職場レベルのズレの得点はほとんどの職場でマイナスの値だったことから、異業種出身が多く、業種のダイバーシティが高い職場ほど、自分の信念と推測された同僚の信念との間のズレが小さくなりやすく、多元的無知が起きにくいことがわかった。

 

 

4 考察 : 職場における多元的無知とその帰結としての対人関係

4.2 職場レベルの多元的無知

ダイバーシティは常に組織にポジティブな結果だけをもたらすとは限らず、日本でも特徴の異なる相手との協働が葛藤を強めた事例が見られる。

ダイバーシティが高い集団では低い集団と比べて熟考が促された結果、多元的無知が緩和された可能性も考えられる。ダイバーシティが高い集団では、成員間の摩擦や懐疑が生じやすく、当たり前の前提を疑うことを強いるために、同調が抑制され、熟考が促されることを指摘する研究がある。さらに、ダイバーシティの高い職場ほど、「人は互いに考え方が違う」という前提のもとで成員間の対話が進むことによって、誤推測が解消された可能性もある。

 

 

4.3 多元的無知の帰結としての関係葛藤

個人レベルでズレの知覚・誤知覚が高く、したがって同僚の考えを過剰に否定的に推測するほど、関係葛藤の知覚が高まっていた。

 

 

第Ⅳ部
不人気な規範が解消されるには

第7章 本書のまとめ
ーー多元的無知を引き起こす認知・環境要因と個人差

1 多元的無知を引き起こす個人の認知メカニズム

他者の選好と行動とのギャップこそが規範性であることを示唆する結果

他者の選好の推測と他者からの期待に沿った行動の選択という個人レベルの対人認知・行動から、多元的無知状態という集団レベルの現象が創発するに至る、「マイクロ=マクロ・ダイナミクス」のプロセスを示唆する知見であると言える。

 

 

2 多元的無知に影響を及ぼす社会的環境要因

「他者は選好に基づいて行動をしていると推測する人ほど、推測された他者の選好に合わせて意思決定を行う」

「他者は選好に反した行動をしていると推測する人ほど、自身も他者に合わせて選好に反する行動をとる」

結果は矛盾するものではなく、むしろ多元的無知の生起から維持、再生産に至る一連のプロセスの異なるフェーズを切り出したものと考えられる。すなわち、個人が誤って推測された他者の選好に合わせることから多元的無知状態は生起する一方、個人が他者の行動と選好の乖離から遵守するべき集団規範の存在を認知しさらなる追随行動へと結びつくことで、多元的無知状態が維持・再生産される。

低流動性社会の人にとっては排斥に伴うリスクが大きく、彼らは自らの排斥リスクや評判低下のリスクを下げるために、規範逸脱に伴う評判低下可能性を実際以上に高めに推測し、規範遵守行動をとるよう自らを動機づけると考えられる。こうして各々の集団成員がが規範逸脱にともなう評判低下可能性を過大視し、嫌々規範に従うことで、その集団では不人気な規範が多元的無知によって維持されると予想される。一方で、高流動性社会では排斥に伴うコストが相対的に小さいため、評判低下可能性を高めに予測する必要性は小さく、したがって多元的無知状態も生起しにくいと予想される。

流動性は関係流動性尺度をもって測定されたものであり、社会の流動性の高さそのものではなく、各回答者が社会の流動性の高さをとのように認知しているかを測定したものである。そのため、流動性を高いと認知している個人と低いと認知している個人の比較を行うことができた一方で、流動性の高い社会と低い社会の比較を行うことはできていないという限界があった。

 

 

3 個人特性に応じた多元的無知への対処

転職とはある会社から別の会社へと移動することであり、まさしく流動性を活用する行為であるが、転職が容易にできるか否かは労働市場における個人の職務能力(パフォーマンス)の高さに大きく依存する。

パフォーマンスの高い人は多元的無知状態で自らの選好に沿って規範から逸脱する一方、平均的なパフォーマンスの人は多元的無知状態で規範に従うことを示唆している。

 

 

4 多元的無知の帰結と集団間比較

多元的無知状態において、個々人は集団メンバーの属性にばらつきがあることが職場のパフォーマンスを高めるという信念を抱いている一方、「他者はそうした信念を抱いていない」と推測しているため、多元的無知状態で規範が維持されている集団のメンバーは自他の信念にズレを感じ、より強い関係葛藤を感じると考えられる。

 

 

第8章 本書の社会的・文化的・実践的意義と展望

1 本書の意義

1.2 心の文化差をめぐる問題に対する意義

従来の文化心理学の研究は、西洋と東洋を対比した上で、西洋人は相互独立的な人間観を持っていて相互独立的に振る舞うこと、東洋人は相互協調的な人間観を持っていて相互協調的に振る舞うことを明らかにしてきた。
 しかし、橋本(2011)の調査研究によれば、日本人の多くは現実には相互協調的に振る舞っているが、理想的には相互独立的に振る舞いたいと思っているという。

こうした推測のズレによって相互協調的な振る舞いが1つの文化的規範として存在していると捉えれば、日本における相互協調性はまさに多元的無知状態で維持されている可能性がある。

 

 

1.3 経営やマネジメントをめぐる諸問題に対する意義

すなわち、パフォーマンスの低い従業員は、評判低下の可能性を恐れて望まぬ規範に従うことによって、図らずも当該の望まぬ規範の維持に寄与してしまうのである。

 

 

2 本書の展望と課題

2.1 多元的無知が解消されるためには

橋本(2011)は、日本社会においては相互協調的な振る舞いを是とする規範が多元的無知状態で存在している可能性について考察している。

雇用の流動性が高まることによって、伝統的な日本企業が多元的無知状態で抱えてきた不人気な規範は、次第に解消に向かうことになるのかもしれない。

 

 

2.3 残された研究課題

社会階層の低い人ほど自分の力で将来をコントロールできるという感覚が低く、他者と協力することで危機を乗り越えようとするが、これらの知見を考慮すると、社会階層の低い人ほど他者との関係性を維持するために、より高い頻度で規範に従う可能性がある。実際に、社会階層の低い人ほど向社会的であることも示されている。

多元的無知状態は集団メンバー同士のダイナミクスによって構成される複雑な現象であるがゆえに、簡単にはその全容を理解することはできない。しかし、多元的無知状態と関連する現象は日常にもありふれており、ときにわれわれにとって望ましくない帰結を導きうる。本書で解明できたことは多元的無知現象のごく一部かもしれないが、今後さらなる検討を進めていきたい。


『多元的無知 不人気な規範の維持メカニズム』岩谷舟真・正木郁太郎・村本由紀子/ 著より抜粋し、引用。

「眺められた」現実の様相

 

 

新芸術の不評
 
「社会学的観点から見た」新芸術の特徴は、社会を、新芸術を理解できる人間と理解できない人間の二つの階層に分けるところにある、と私は考える。
 
新芸術は、ロマン主義芸術のようにすべての人を対象としたものではなく、特に才能を持っている少数者に向けられた芸術なのである。ここに大衆が新芸術に対して憤りを感ずる原因があるのである。
 
政治から芸術の分野にいたるまで、社会は、当然あるべき二つの階層というか階級、つまり、すぐれた人間の層と凡俗な人間の層に再構成される時が近づいているのである。
 
今日の生のあらゆる局面の根底には、腹だたしい不正が息づいている。つまり、人間は完全に平等であるというあの誤った仮説がそれである。われわれが人びとの間に分け入り、足を一歩踏み出すごとにその反対の事実があまりにも明白になるので、一歩一歩が苦痛に感じられるほどである。
 
 

芸術のための芸術
 
新芸術がだれにでも理解しうるものでないとすれば、それはその手段が総括的に人間的なものではないことを意味している。そうした新芸術は一般向きではなく、一般人よりすぐれているとはいえないかもしれないが、しかし一般人とは明らかに異なっている特殊な階層向きの芸術なのである。
 
彼らにとって芸術とは、興味深い人間的な事象との接触を可能にしてくれる諸手段の総体なのである。
真に芸術的なフォルムや非現実性や想像力の介入も、彼らが人間の姿とその有為転変を明確に感じとる上に妨げにならない範囲内でのみ認めるわけである。
 
こうしたかかわり方の可能性を提供しない芸術作品は、彼らが役割を演ずる余地を与えないのである。
 
芸術作品の人間的な側面にのみとらわれるということは、厳密な意味での美的快感とは、相入れないものなのである。
 
何ものかを見ようとする場合、われわれは視覚機関をある特定の方法で調節しなければならない。
この調節が適切でない場合は、ものは見えないか、見えたとしてもぼやけてしまう。
窓のガラス越しに庭を眺めている姿を思い描いていただきたい。
 
このように、庭を見るということと窓のガラスを見るということは両立しえない二つの操作であり、一方が他を排除するとともに、それぞれ異なった視覚調節を必要とするのである。
芸術作品は、それが非現実的である程度においてのみ芸術的なのである。
 
ところで、大多数の人びとは、芸術作品というガラスに、彼らの注目の焦点を合わせることができない。
そこをきづかずに素通りしてしまい、作品に暗示されている人間的現実に執着し熱狂するのである。
 
事実、そこには人間的事象はなく、芸術的に透明なもの、純粋に潜在的な力があるだけだからである。
 
新芸術は芸術的な芸術なのである。
 
 
現象学の数滴
 
つまり、一つの現実も、これを相異なる視点から眺めた場合、多くの相異なった現実に分割されるのである。そこで次のような疑問が生じる。これを無数に分割された現実のうち、どれが真正な現実なのか。われわれが、どれをとったとしても、それは恣意的たらざるをえない。われわれがどれかを選択するとすれば、その選択は気まぐれ以外の根拠を持ちえないのである。これらの現実はすべて等価値なのであり、それぞれの現実はそれに相応する視点に立った場合には真正なのである。われわれがなしうることをいえば、こうした観点を分類し、その中から実際的にいっていちばん正常で自然だと思えるものを選び出す以外にない。そうすることによってわれわれは、絶対的というにはほど遠いが、少なくとも現実に対する実際的で標準的な概念をうることができるのである。
 
われわれがあるものを現実に見ることができるためには、つまり、ある事実がわれわれが眺める対象となるためには、その事実をわれわれから引き離し、われわれの存在の生きた一部であることを止めさせねばならない。
 
われわれがその尺度の一方の端に位置した場合には、この世界ーー人間、事物、情況ーーの一つの様相、つまり「生きられた」現実を見出し、反対の端からはすべてをその「眺められた」現実の様相において見ることになるのである。
 
ここでわれわれは、美学にとって本質的なことを指摘しなければならない。
 
つまり、先のような相異なった視点に相応する現実の様相の中に、それ以外のすべての様相がそこから派生し、すべての様相の前提となっている一つの様相があるという事実である。現実の様相のうち生きられた様相がそれである。
 
観念は、それによって事物を思考するとき、われわれは観念を「人間的に」用いているといえるのである。
 
 
芸術の非人間化始まる
 
新芸術は、目まぐるしい速さで、種々様々な方向と試みへとむかって自己分解してきた。それらの生み出した作品の相違を強調することはきわめて容易である。しかし、それ以前にまず、すべての作品にみられる共通の基盤ーーそれは相異なる形で、また時には相矛盾する形で表われるーーを限定すべきで、それをせずに、差異性、個別的な特殊性を強調することは無意味であろう。
 
1860年の画家が、それ以上の多くの複雑な美的意図を持っていたことも考えられるが、しかし重要なことは、まずはっきりと似せるというところに出発点があったことである。
 
ところが最近の絵画では事情は逆で、われわれはそうしたものを見分けるのに苦労する。
 
最近の絵画では、これとは全く逆のことが起こるのである。
つまり、画家が失敗するとか、脇道にそれてしまって実物(自然的=人間的)に到達しないというのではなく、彼らの方向は、われわれを人間的な対象に導く道とは全く逆の道を指し示しているからなのである。 
 おぼつかない足どりで現実を目ざして歩いてゆくのとは反対に、画家は大胆にも現実に反抗しているのである。
画家は大胆にも現実をデフォルメし、現実の持つ人間的様相を破壊し、現実を非人間化しようともくろんでいるのである。
われわれは伝統絵画の中に描かれている事物となら、幻覚のうちに共存することができる。  
 
画家はわれわれを一つの抽象的な世界にとじ込められたままに放置し、われわれに、人間的に接触することが不可能な対象との接触を余儀なくするのである。
 
俗人は現実から逃避することはたやすいことだと考えるが、実はこの世で最もむずかしいことなのである。
 
「現実」は、芸術家の逃亡を防ごうとして常時待ち伏せている。
それをまいてみごとに逃げきるには、芸術家側にどれほどの抜け目なさを必要とすることだろうか。
 
 
理解への招待
 
ところで、様式化するということは現実を変形することであり、非現実化することである。
つまり様式化は非人間化を意味するのである。
 
 
芸術の非人間化は進む
 
生きられた現実は、われわれを強く補えずにはおかず、われわれをその現実に感情的に参加させ、その結果、それら現実をその客観的な純粋さにおいて眺めることを不可能にしてしまうのである。
 
見るという行為は距離を必要とする。美術というものはすべて、それぞれの幻燈機を持ち、事物を遠ざけ、変形してみせる。
 
詩人は、それ自体としてらすでに存在している現実に、一つの非現実的な大陸を加えることによって、世界を拡大する。
作家autorの語源はauctorつまり、増大させる者である。
 
どちらを見てもわれわれが遭遇するのは以上と同一のこと、つまり、人間からの逃亡である。
非人間化の方法自体は数多くある。
 
しかしながら、今日の音楽がドビュッシーに始まった歴史の一章に属しているのと同じように、すべての新しい詩はマラルメが指し示した方向へと進んでいるのである。個々の芸術家の着想によって画された諸々の小さな事で印から目を上げ、新様式の基本線を探し出そうとするならば、この二人の芸術家を結びつけることが肝要であると私は考える。
 
 
タブーと隠喩
 
われわれができる最高のことといえば、ある事物にほかの事物を加えたり、差し引いたりすることくらいである。
そうした中にあって隠喩のみが、現実からの脱出を可能とし、現実の事物の中に空想の岩礁をつくり出し、軽やかな浮き島を出現させることを可能にしてくれるのである。
 
隠喩は、ある対象を、その上を他のものの相貌で覆うことによって、掻き消してしまう。われわれとしては、こうした隠喩の背後に、現実を避けようとする人間のある種の本能の働きを認めないわけにはいかないのである。
 
最近、ある心理学者が隠喩の起源を研究し、その根源の一つが「タブー」の心理にあることを発見して驚いた。
 
詩の武器は、自然の事物に反逆し、それを傷つけあるいは殺しているのである。
 
 
超現実主義と下部現実主義 
 
隠喩は非人間化のための最も基本的な手段ではあるが、しかし唯一の手段ではない。
それぞれ効果を異にする様々な手段があるのである。
 その中でも最も単純な手段として、慣習的な遠近感に変化を与えるという方法がある。人間的な観点に立った場合、事物には特定の順位というか、序列がある。ある事物は、われわれにとって非常に重要なものに思えるのに対して、他の事物はそれほど重要とも思えないし、まったく無意味にさえ思える事物もある。したがって、非人間化の願望を満足させるためには、事物の本来の形を変形させなければならない。つまり、事物の序列を逆転させ、生における最も些細な出来事が記念碑的な雰囲気のうちに前景に浮き出るような芸術を作ればよいわけである。
 
隠喩による超自然主義と下部現実主義とも呼びうる手法によって、現実の回避と現実からの逃亡という同一の心理が満足させられるのである。
 
 
反転法
 
観念とは、われわれが世界を眺める望楼のようなものである。
 
われわれは観念によって事物を見るのであり、精神が事前に活動している場合には、目がものを見るときに目自体は見えないのと同様に、われわれも観念そのものには気づかないのである。別のいいかたをするならば、考えるということは、観念をとおして現実を把握したいという願望であり、精神の自然な動きは、観念から世界に向かう方向をとるのである。
 しかしながら、観念と事物との間には、つねに絶対的な距離がある。現実は、つねに、その現実を内包しようとする観念から溢れ出てしまう。事物は、つねに、その観念の中で考えられた以上のものであり、別の様態をしているものである。観念はまたつねに、一つのあわれな図式のようなもの、われわれが現実に近づこうとして組み立てる足場のようなものに過ぎない。しかしながら、一般的には、現実とはすなわちその現実についてわれわれが考えたことであるとする傾向があり、現実と観念を混同し、観念を事物そのものと看做してしまう。要するに、われわれの生に根ざすリアリズムへの熱望が、現実の無邪気な理想化という方向にわれわれをおとしいれるのである。これがわれわれの生得的、「人間的」な傾向なのである。
 
なぜならば、観念は、事実上、非現実的なものであり、それを現実と看做すことは、とりもなおさず理想化することであり、邪気なく偽造することだからである。観念にその非現実そのものの状態において生命を与えることは、いうなれば、非現実を非現実として現実化することなのである。この場合、われわれは精神から世界へという動きはとらず、その逆に、図式、つまり、内在的、主観的なものに成形力を与え、客観化し、世界化するのである。
 
一枚の肖像画を描く画家は、モデルとなっている人物の現実を把握しえたかのようにふるまうものだが、実際には、その現実の人間を構成している無限の要素の中から、画家が自分の頭で図式的に選択したものしか画面にとどめていないのである。
 
現実と張り合うことを断念することによって、その絵は、真にそうあるべきもの、つまり、一枚の絵=一つの非現実に代わるのである。
 
画家は、事物を描くことから観念を描くことへ移った。
芸術家は、外部の世界に対して目を閉じ、彼の内部にある主観的な景観に瞳をこらすようになったのである。
 
 
偶像破壊
 
今日の芸術は、なぜ、生命ある形体の柔らかな線に従うことにかくも嫌悪を感じ、それを幾何学的な図式に置き換えてしまうのであろうか。
 
宗教と芸術の歴史においてしばしば爆発を繰り返しているこの偶像破壊という現象を徹底的に研究してみることは、非常に有益なことであろう。新しい芸術に、こうした偶像破壊を望む奇妙な感情が作用していることは明らかである。
 
 
過去の否定的な影響
 
過去の現在に及ぼす影響を論ずる場合、以上のことが忘れられているのが普通である。一つの時代の作品には、そのまえの時代の作品に大なり小なり似せようとする意志があるのだ、となんの疑問もなく認めできたのが従来の立場であった。つまり、過去の及ぼす否定的な影響を認め、新しい様式は、多くの場合、伝統様式に対する快楽さえ伴う意識的な否定によって形成されているのだ、ということを認めるのは、ほとんどの人にとってかなりむずかしいことらしいのである。
 ところがロマン主義から今日にいたるまでの芸術の起動は、過去の芸術を否定し、攻撃し、嘲笑するという気質を美的快感の一要素と看做さない限り、理解することはできない。
 
実のところ、新しい感受性が原始美術にひかれるのは、作品そのものにひかれるというよりも、その純真さ、すなわち、伝統の不在、まだ伝統が形成されてはいない芸術だという理由である。
 
今日あまりにも一般化されているのは過去の芸術を攻撃するという態度は、つまるところ、芸術そのものに反逆することを意味するからである。なぜならば、芸術とは、具体的にいって、今日にいたるまでの間に作り上げられたものにほかならないからである。
 
芸術に対する憎しみは、科学に対する憎しみ、国家に対する憎しみ、要するに文化全般に対する憎しみが芽ばえているところでなければ、生まれないのである。
 
過去の芸術が未来の芸術に否定的に作用する際の心理的メカニズムを分析してみるのは興味のあることである。さしあたっては、とにかく一つきわめて明白なものがある。倦怠がそれである。一つの様式の単純な繰り返しは、感受性をにぶらせ疲れさせる。ヴェルフリンは、『美術史の基礎概念』において、この倦怠がしばしば美術を動かし、変形を余儀なくせしめたことを証明している。
 
 
アイロニックな運命
 
芸術が自分自身の中には引きこもった事実がもたらす最初の結果は、いっさいの感傷性の追放であった。
「人間性」で覆いつくされていたときの芸術には、生に附属した重々しさが反映されていた。
 
新しい発想はすべて、喜劇的というただ一本の弦をかなでている。
 
しかし作品の内容が喜劇的なのではない。もしそうならば、「人間的」様式の一つに逆戻りしたことになるであろう。
 
つまり、芸術そのものに向かってゆくのは、まさに芸術を笑劇と看做しているからである。
 
しかし今日の芸術家は、われわれが、冗談である芸術、まさに自嘲そのものである芸術を眺めるように仕向ける。
実は自嘲こそ、新しいインスピレーションの喜劇性があるのである。新芸術は、特定のだれかとか特定の何かとを嘲笑する代わりに、芸術そのものを嘲笑するのである。
 
芸術は、こうした自嘲において以上に、その魔術的な資質を最高に発揮することはないのである。
というのは、芸術は自殺行為を行ないながらも芸術であり続けるのであり、自己否定は驚異的な弁証法によって、自己保存となり勝利となるからである。
 
芸術の使命は、現実には存在しない地平線を出現させることにある。その使命を達成するためには、われわれの現実を否定し、そうすることによって、われわれをその現実の上に引き上げなければならない。つまり、芸術家であるということは、われわれが芸術家でない限りそうであるようにきわめて真面目な人間を真面目にとりあげないことである。
 
 
芸術、この重要たらざるもの
 
今日の芸術は、雰囲気が厳粛さを失いはじめ、事物がいっさいの形式から自由になった軽々と跳びはじめるのに気がついたときはじめて、そこに芸術の成果を感じはじめるのである。
 
芸術が人間を救うことがあるとすれば、それは人間を生の厳粛さから開放し、思っても見なかった幼年時代に帰してくれるからに過ぎないのである。
 
歴史は、長大な生物的リズムによって動いているのである。
 
歴史はこの両極の間をリズミカルに往復しており、ある時代には男性的資質が、そして他の時代には女性的資質が支配的になり、またある時代には青年的特質が、そして他の時代には円熟味という老人的特質が称揚されてきたのである。
 
芸術は外見的にはその属性をなんら失ってはいないが、より遠く、より軽い、二次的なものとなってしまったのである。
 純粋芸術的をあこがれることは、一般に信じられているように傲慢な態度ではなく、その逆に非常に謙遜な態度なのである。人間的感傷を拭い去った芸術は、重要さというものを全く持たず、芸術たること以外を望まない芸術そのものと化すのである。
 
 
結語
 
現実の構成要素、現実のもつ相貌は無数なのである。
 
そして対象としている現実が生まれたばかりで、これから生の軌道を描き始めようとしている場合には、なおさらのこと、その偶然に出会う可能性は少なくなるのである。
 
芸術は、つねに伝統の枠内に存続しうるのだ、と叫ぶことはきわめて簡単である。しかしながら、この快適な言葉は、絵筆やペンを片手に、具体的なインスピレーションの到来を持っている芸術家には、何の役にもたたないのである。

 
 『芸術の非人間化』 オルテガ・イ・ガセット/著、川口正秋/訳より抜粋し、引用。

 

 

知覚された身体という空間的な限界



序論

いまこのときが世界の最後の夜だとしたら?ーージョン・ダン

パンデミックは広範にわたる社会および生態系の状況と切り離せないので万人の生活にとって単一の状況を生み出すと、私はいっているのではない。けれども、現在のパンデミックによって、ウクライナへの軍事侵攻をふくむそうした広範な諸状況は、新たなかたちで関連しあっている。

われわれはみな病気と死という環境とかかわって生きている。死と病気は広まっているばかりか、文字どおり空気中にあるのだ。

われわれは間違いなくパンデミックをグローバルなものと理解している。パンデミックによってわれわれは相互連関の世界に組み入れられる。たがいに影響を及ぼしあうという、この世界に生きるものがもつ能力は、生あるいは死の問題になりうるのだ。これがわれわれの共有する共通世界であるといってよいか、私にはよくわからない。なぜなら、われわれは共通世界に住むのを望むであろが、現在そうなっているかはわからないからである。コモンはいまだ実現されていない。いまは多くの世界が重なり合って存在していると述べるのが、おそらく適切だろう。

われわれはジャック・ランシェールとともに「全体の一部ではない部分」ーーコモンズとかかわることができない、あるいはできなかった、あるいはもはやできない人々ーーについて語らねばならないだろう。

パンデミックの状況下で社会的、経済的格差がこれまで以上に浮き彫りになり、また、見捨てられた存在、避難民、実験的生といった脆弱なアンダーコモンズの増大があらわになるなかにあって、グローバルな動きもまた存在する。その根底にあるのは、誰が早死にするのか、誰の死を防ぎうるのか、誰の死が重大問題なのかという政治的意識と結びついた、これまで以上に鋭い意識の回復であるように思われる。

たとえ、われわれがどこにいるか、そして適切に機能する社会の内部にともかく「位置づけられた」場合にどのような社会的位置にあるか、に応じてこの苦境の生き抜き方に違いが出るにしても、である。
 語源をふまえていえば、パンデミックとはパン-デモス〔pan-demos〕、すなわち、すべての人々のことである。より明確にいえば、あらゆるところにいる人々、あるいは、人々を横断する何か、人々を超える人々を通じて広がる何かである。◉パンデミックは、たがいにつながり相互浸透する、多孔性の〔侵入孔だらけの〕人々を生み出すのだ。

パンデミックはたえずパンであること、すなわち、世界に注意を向けることに固執しているかのようであり、世界はたえず、ウィルスへの暴露の度合いが異なる複数のゾーンに分けられているかのようである。われわれは世界を単一の地平として語りがちである。

われわれは不連続、境界線、不均質を強調するために複数形の世界、つまり諸世界について語る。そして、ありのままの世界を記述するためにはそうせざるをえないと感じている。

つまり、それらの地平はいわば、重複や分岐はしても完全にはひとつにならない様々な時間性によって構成された、もろもろの世界-限界であるだろう。

われわれはこの世界概念にゆさぶりをかけ、地球という非人間中心的な概念に目を向ける必要があると、考えるひともいる。地球という概念は、つねに地政学的なものである地理的な地図に対して批判的な見方をもたらす。そうした地図に引かれた線は、征服者の引いたもの、戦争や植民地化が生み出した国家的な境界線である。

他人に触れ他人を理解しようとするなかで知識として身に着けた世界の座標軸をすすんで宙吊りにする、あるいは手放すといった、他なるものとの出会いの過程において、自分の認識論的領域ーー世界の限界および構造に対する自分の感覚そのものーーを転倒し、再構成すること。ルゴネスが強調するのは、そのことの重要性である。
 パンデミックがもたらしたのは、世界と諸世界とのあいだのこうした揺れ動きである。パンデミックはそれ以前から存在していた世界のあらゆる不備をさらに悪化させると主張するひとがいる一方で、われわれはパンデミックによって新しいグローバルな相互連関と相互依存へと開かれると示唆するひともいる。どちらの主張も、今日の持続的な、方向感覚の失調のなかから現れる考えである。

パンデミックは、世界中に広がる現象、力、危機、さらには状態として理解されている。

自分の居場所がどこてあろうと、世界について考えていないひとはいないのだ。

コロナウィルスがひとたびエンデミック〔一地域に特有〕なものになれば、それは世界の永続する構成要素となるだろう。

それは名詞から形容詞へ、世界の一時的な状態から永続的な特徴へ変わるのである。

人間をふくむ動物は、生きるために外的世界の要素を摂取、吸収、吸引するのである。人間の身体は、外部との接触を絶たれたら生きていけない。

世界は人間の行動の背景として、あるいは人間の介入の場として、たんにそこに存在するのではない。日常のレベルで世界の断片は身体に取り込まれており、このことは身体と世界との、生命維持に必要なつながりを示している。

われわれの意志によって、われわれの意志が欲するものによって、世界の限界が変わりうるとき、世界は新しい世界になる。

こうした世界全体の拡大は、われわれの意志の効果あるいは意志の表象ではない。それはむしろ、世界がわれわれの想定とは違うものとして露呈されることである、と。

たがいに追いつ追われつしながら時間的に継起する、世界に対する諸感覚、あるいは、大地全域に空間的に配分されると考えられる連続する、世界に対する諸感覚について語っているのである。

われわれはいわば、既知の世界の限界にたち、その危険な場所からその問いを発するのだ。

マルティン・ハイデガーは、「世界像」とは世界の像ではなく、像としての思い描かれ把握された世界であると主張している。

そうした世界像を前にした主体は、この像となった世界全体をとらえようとするだけでなく、自分が知ろうとしている世界から自分が除外されていることに気づくとハイデガーはいっている。

われわれは、われわれの見ている像のなかにいる。見る主体が生み出す、像との距離は、主体が認識しようとしている現象のなかに主体自身が巻き込まれていることの意味を否定する、あるいは、少なくとも一時的に無効にする。

 

 

 

第一章 世界感覚ーーシェーラーとメルロ=ポンティ

意識がもつ、世界を構成する力は、世界を創造するのでも世界を基礎から打ち立てるのでもない。それは、世界はいかなる条件のもとでわれわれに対して認識の対象となりうるように現れるのか、世界がそう現れるのはいかなる時間的な流れを通じてなのか、また、いかなる認識行為との関係においてなのか、という問いへの答えである。

世界が意識に与えられているとすれば、その状態は、その与えられているという性格を、その客観性を、けっしてあるいは軽視しないプロセスと行為によってもたらされる。客観的なものであっても、ともかく認識されるように現れねばならないのだ。

悲劇的なものは、われわれの行為が引き起こすものではない。それはむしろ外部からやって来て、そのあと魂に浸透する何かがもたらすものであると、シェーラーは表現する。

いいかえれば、悲劇的な出来事は世界に関する何かを開示する。◉悲劇的な出来事はこの開示のきっかけであるが、世界はその開示の条件であり、同時にその開示という現象そのものである。「悲劇的なものはつねに個人的な、特異なものにかかかわっているが、それと同時に世界自体の構成でめある。」

悲劇的なものはいわばより遠いほうの主題は、つねに世界そのものである。すなわち、そのようなものを可能にする、全体としての世界である。この「世界」は悲しみに侵された客体であるように思われる。

現在はまるで、生に必要な基本的条件がむき出しになったかのようだ。

われわれは、自分たちが大事にしていた、他人との物理的近さを失う。

実際、悲劇的なものの感覚は、出来事の責任の所在が特定できなくなるなかで増幅する。

つまりわれわれは、この世界における生存可能な人生がいかなるものであるかがわからないのだ。

世界が悲しみに侵された客体であるとき、どうすればそうした世界に住むことが可能になるのか。世界を居住不可能な場にする悲しみが永続することについてはどうか。答えは個人の行為や個人の習慣にはない。答えはむしろ、物理的距離に関係なく発生して世界に住むための条件を生み出す、ひと同士の連帯にある。

というのも、世界のなかに住まなければ、世界のなかで生きられないからである。住むということからは、持続と空間という問題が出てくる。

だが、人間が世界に居住する方法には、よいものとわるいものがある。そして、人間の居住する範囲とその破壊的な混乱を制限しないかぎり、大地は生き残れないーー再生しないーーのである。気候変動という状況下で居住可能な世界を生み出すために、人間はみずからにしばりを課す。居住を可能にするためには、世界を部分的に居住不可能な状態にしておかねばならない。われわれが住む世界は、大地をふくみ、大地に依存し、大地なしに存在できない。

だから、居住可能な世界という問題と生存可能な人生とは最終的に切り離せない。

人間の生活がわれわれの自由を制限せずに営まれた場合、われわれは生存可能な人生を犠牲にして自由を享受することになる。われわれは自由の名のもとに、みずからの人生を生存不可能なものにする。より正確にいえば、われわれは始終、個人的自由と生産性重視の名のもとに、世界を居住不可能なものにし、人生を生存不可能なものにする。

個人的自由は、その様々な種類をふくめ、世界を破壊する力とみなさねばならない。

この自由によって妨害されている、それとは別のかたちの自由もある。後者が現れるのは、社会生活のなかから、すなわち、共通世界を得ようとする生、共通世界を自由に得ようとする生のなかからである。

社会性と生存可能性という、厄介な、重なり合う感覚によって、われわれの重要な政治的概念は改変されるーーそれが私の考えである。

しかしながら、メルロ=ポンティとともに意識の身体性に照らして考えてみたとき、相関関係という考え方は貧しいものであることが判明する。彼にとってきわめて重要な問題は、世界が私にとって認識可能なように構築されていることではない。

そうではなく、私が身体として、私の認識対象である世界の一部であること、私がすでに世界のなかにあり、見られ、移動し、身体に具現していることである。知覚された身体という空間的な限界は、身体固有の広がりを見誤らせる。というのも、身体はつねに私にとってここにもあちらにもあり、一か所に根付くとともによそにも移されるからである。私からみて向こう側にある、あるいは私の周囲にあると普通考えられる世界は、実際には、すでに私のなかに、そして私にぴったり接して存在している。

私の反省能力、私が私自身を見る、あるいは感じる能力(見ることが可能だとすれば、の話だが)は、経験の二つの極である主体と客体のあいだを揺れ動く。

私の身体は、見ると同時に見られている。すべての物を見るものは、自分自身を見ることができるし、自分が見るもののなかに、自分の見る力の「裏側」を認識することができる。私の身体は、見ている自分を見ており、物に触っている自分に触っている。……私の身体は、混在やナルシズムを通じて、見るものが見られるものに、感ずるものが感じられるものに内属することを通じて〔不透明なものになる〕自己である。それゆえに、それは、事物のなかに捕らえられた自己、表と裏、過去と未来をもつ自己である。

われわれがともあれ何かに触れることができるのは、触知可能な世界のおかげである。自分が或るものに触れたのはいつ、どのようにしてか、ということについて私はその気になればストーリーを語れると思っているが、そうしたストーリーを語る「私」は、その最初の触感、その触感/接触の場面から完全におくれてやって来る。

制限を課されることで私は特定の行動ができなくなるが、制限は同時に、相互連携からなる世界というヴィジョンを明確にし、私はそのヴィジョンを受け入れるように求められる。

まるで私は、他者に害を与える、あるいは他者から害を受けるのを見込んで、他者と結びついているかのようだ。

それゆえ、私の行為はあなたの生を左右し、あなたの生は私の生を左右する。少なくとも、潜在的にはそうなのである。

私は生のプロセスが持続し他者が生きることとを要求するが、それは、そうしたプロセスや他者がなければ私が存在しないことを意味する。

他者は私に先行する。


第二章 パンデミックにおける権力ーー制限された生活をめぐる省察

生と労働の気候環境

私はパンデミックというグローバルな状況を気候変動のなかに位置づけることが急務であると信じている。

気候変動とパンデミックは二つの異なる状況であるが、目下のところ両者はひとつにつながっており、勢いを増している。

パンデミックは明らかにしたのである。生産が縮小されれば、旅行が抑制されれば、二酸化炭素排出量とカーボン・フットプリント〔製品の生産・排気過程で排出される温室効果ガス〕が削減あるいは根絶されれば、自然界がいかに再生に向かうか、ということを。

パンデミックは二つの文脈のなかで起こる。ひとつは気候変動と環境破壊。もうひとつは、これが大部分を占めるのだが、労働者の命を使い捨てにし続ける資本主義という条件である。

われわれは貧困労働者層の生活を維持するために経済活動を自由にする、あるいは自由なままにしておく。だが、貧困労働者層とは、経済活動を自由にすることでその命が使い捨てられる運命にある人々、代わりに労働者にもできる仕事をしている人々、かけがえのない無二の命をもっているとはみなされない人々のことである。

労働者は、自分が使い捨てられる存在であること、替えの効く存在であることに気づく。

ソーシャル・ディスタンスはひとつの特権である。誰もがそうした空間的な状態を確保できるとはかぎらないのだ。

ひとつの問題は、世界をつくり直すという理想に燃えるか野心が、世界を白紙状態、新たなはじまりとして前提としつつ、この新たなものが重厚な過去をともなうものなのか、この新たなはじまりとして前提としつつ、この新たなはじまりが実際に過去から断絶するのか、あるいはその可能性があるのか、を問わないことである。

経済に健康を移植することは、たんに人間の性質を市場に移すことではなかった。それは経済の健康を確立するために身体の健康を奪い取るのである。それは、パンデミック時代に表面化する資本主義の論理が内蔵する、きわめて有害な置換と転倒であったし、いまもそうである。

ひとつの表象形式としてのグラフは、そうした死をいわば無菌化する。あるいは、そうした無菌化のアレゴリーとなっている。これもまた、死政治的 ネグロポリティカルな計画に資する隠喩作用の一例である。これがきわめて鮮烈なかたちで例示しているのは、資本主義という機械の心臓部に息づく死の欲動であるかもしれない。

市場の再起動と世界の作成とを分離すること。それこそが、世界の前途有望な造り直しにむけた第一歩となるであろう。

現象学者のいう「生活世界」には、生きる者たちのあいだの解消不可能な不平等がつねに組み込まれている、ということである。命のなかには、是が非でも〔どんなコストをかけても〕死から守らねばならないものもあれば、守るに値しないーーコストをかけるに値しないーーとみなされるものもある。

生活世界の未来

スピノザのひそみに倣っていえば、感受性の潜在的な力が強まれば強まるほど、活動の力も強まるのである。

われわれは影響を与えようとしている対象から逆に影響を受けるのであるから、能動性と受動性を相容れないものとして区別することはできない。

われわれが日常生活において他者との近接を完全にコントロールする状態にあることは、めったにない。その意味で社交の世界は予想がつかないのである。物および他者との望まない近接は、公的生活の特徴であり、公共機関を利用し混雑した街路を移動するひとにとっては普通のことであるように思われる。われわれはせまい空間でぶつかり合い、話をするときは手すりや他人に寄りかかり、行く手をふさぐものには何でも触れる。

いまはおそらく、分別という考え方自体に浸透している偏狭なナショナリズム的傾向を解除するときである。

命に限りがあるということを思い知る経験は、不平等をめぐる鋭敏な意識と結びついている。

われわれが環境毒素に反対するのは、そうすることで人間が中毒を恐れずに生存し呼吸できるからではない。水と空気はそれ自体、われわれの生命に重きを置かない、あるいはわれわれに仕えるのではない、命をもたねばならないからである。われわれはこの相互連関の時代に、硬直した個人主義を解体する。

居住可能な世界の成立に必要なのは、われわれが大地のあらゆる場所に住まないことである。つまり、人間の居住と人間による生産の限界域を定めるだけでなく、大地が必要としているものを知り、それに留意することである。


第三章 絡み合いーー倫理および政治としての

ラントグレーベにとって、「世界の観念を形成するには、それゆえに、起こりうる経験の無限性を体系的に構築する必要がある」ということは、覚えておくと有益かもしれない。そういったわけで、世界をめぐるどの概念も、概念の枠にもイメージの枠にもおさまらない無限の可能性によって際限のないものになっているのかどうか、ということが問題となる。◉地平という概念によって課されたあらゆる限界は、いわば地平を築き抜けそれを超える無限という観点から再考されねばならない。

なぜ現象学なのか、どの現象学なのか

それはまさに、社会的構造がいかに生きられたものになるか、そしてその構造が生きた存在において身体のレベルでいかに再生産されるか、を示すことである。

「哲学の役割は隠されたものを発見することではなく、可視的なものを可視化することである。いいかえれば、自分にあまりにも近いために、あまりにも親密なために、あまりにも深くつながっているためにわれわれが知覚できていないものを明確にすることである。科学の役割が見えないものをあらわにすることであるのに対し、哲学の役割は、われわれが見ているものをわれわれに見させることである」。

それは「「見慣れたもの」を多くのひとに対する圧迫の場に変える、共通経験としての不正を突きとめ、それを変容させるために、周縁化、圧迫、権力に関する経験を際立たせること」だ、と。

たがいに密接に結ばれている

われわれの生の間主観的な次元は「絡み合い」、「重なり合い」として、あるいは、おそらく交叉配列という比喩形象を通じて、理解されねばならない。 フッサール

交叉とは、二つの別個の存在が共有する領域であり、それ以外のあらゆる点では両者はたがいに明確に分離されている。

むしろ関係性は個としての主体を生み出すと同時に解体するのである。

触知可能な世界とは、五感を働かせる存在にとっての基盤であり、ひとが感じ取るものであり、その感覚のいかなる発生をも超えたものである。

われわれの生は身体と感覚のレベルでたがいに絡まり合っているというメルロ=ポンティの理解を敷衍すれば、私のなすこと、私の行為自体はたしかに私自身の行為であるが、とはいえ、それは同時に、私自身ではない何か、いいかえれば、この「私」がより能動的な「私」へ変容するための契機となるある種の他者性としての私自身である何か、との関係においてつねに規定される。

つまり、私とあなたは同じ規則にしばられており、われわれに共通するその規則への志向によって相補性にもとづく倫理的行為が可能になる。私はあなたに私に対してこうふるまってほしいと思う、そして、それに合わせて私もあなたに対してこうふるまう。つまり、ひとつの同じ行為が個人的になされると同時に没個性的になされる。

一連の仮説を通じて「私」と「あなた」は増殖する。

何かに触れるひとは触れられてもいるし、自分自身に触れてもいる。

それはまた、接触と呼吸のたびごとに、われわれを超え出て、われわれを包み込む、あるいは抱き込むものである。

その意味でコモンなものには、いわば区別と重なり合いという溝が刻み込まれている。周知のとおり、コモンな世界は、われわれがその世界を平等に分かち合うことを意味しないし、われわれがみな同程度に毒と伝染病にさらされていることを意味しない。コモンな世界とは、デニース・フェレイラ・ダ・シルバがいうように「分離可能性なき差異」なのである。

意識は世界をあるがままに認識するための構造をそなえており、世界は認識されるように意識に与えられている。

意識と世界がきわだって不適合であるとしたら、どうだろうか。適合か不適合かは、その世界がどの世界であるかで決まるのではないか。それは世界の限界がどのように設定されるか、世界の永続的な「事実」がどのように自然化されるかで決まるのではないか。そもそもわれわれは世界そのものと、この世界ーー不平等、生態系の破壊、死に駆られた資本主義、等々によって溝を刻まれたこの諸世界ーーとを区別できるのか。

社会理論は、境界の定まった身体を思い描く様々な方法が個人主義と関連していることを示すことができるが、精神分析は、境界をある程度想像的なものとして考えるための方法を与えてくれる。

われわれはたがいに完全には区別されない(また完全に同じでもない)。というのも、われわれは契約や同意に先立って、すでに他者の生にかかわっているからである。

毒性のある環境が身体に取り込まれ、身体形成の一部となるとき、身体の成長および骨と肺といった器官は影響を受ける。ここで語られていることこそ、身体の社会的な構築であり、場合によっては性の社会的構築である。これは〔われわれが接触する事物の〕表面にかぶせられた虚構のことではない。そうではなく、環境がわれわれの身体に入り込み、われわれの将来の生活を規定するありようである。われわれのいう根本的必要あるいは根本的欲求はつねに社会的に編成されているが、だからといって、その必要ないし欲求が完全に社会的に生み出されるわけではない。それとは逆に、必要や欲求が社会の編成をうながすのであり、欲求と社会編成とはいっしょに現れる。

可視的なものとは、私が見ることと私が見られることとが調和し総合される場なのであらる。この〔見る/見られる〕厄介な反転は、私における再帰性〔見ている私が私によって見られる〕が他者および対象との関係ーーおよび他者および対象の、私に対する関係〔他者(対象)を見ている私が他者(対象)によって見られる〕ーーと重なり合うときに現れる。

われわれはたしかにたがいに区別されてはいるが、この相互連関からはそう簡単に逃れられない。われわれは家や様々な援助ーーたとえば保険医療や生活インフラーーといった必要条件だけでなく、触れられるもの、見えるもの、吸い込めるもの、食べられるもの、摂取できるものといった領域にも依存し且つそれらを共有している。

したがって、課題は相互依存をたんに肯定することではなく、相互依存の最善のかたち、すなわち、根源的平等という理念を明確に具現する相互依存のかたを見出すべく、あるいは作り出すべく、集団的に努力することである。

功利主義は「このひとたちは死なせておけばよい」ということを、言葉を変えていっているにすぎない。

 

 

第四章 生者にとっての悲嘆可能性

メランコリアは、喪失という出来事を承認できない状態として説明されることが多い。通常この承認の失敗は、不満、落胆、自己非難となっておもてに現れる、無意識的かつ積極的に維持されたある種の否認の姿勢である。

生にはいかなる意味での価値が付与されているのか、また付与されるべきなのか。価値とは、いかなる評価基準になじむものなのか。

世界に属する権利は匿名的なものだが、まさにそれゆえに、強制的なものでもある。

見知らぬひとが耐え忍んでいる喪失は、誰もが感じる個人的喪失と共鳴するが、両者は同じではない。同じでないからこそ、共鳴が起こるのである。隔たりはつながりに変わるのだ。非嘆にくれる見知らぬひとたちは、見知らぬ間柄であるのに、ある種の集団性を生み出すのである。

アーレントにとって、人間は生まれながらにして、共通基盤のうえで共生するという条件のもとにあり、この条件は異種混淆性〔多種多様な人々の共生〕あるいは複数性〔多数の人々の共生〕という不変の特徴を帯びている。

われわれが世界を、いやそれどころか地球を、修復しようと努めるなら、世界は、生と死の分配によって売買し利益を出す市場経済から解放されねばならない。

それは、根源的な平等を実現するために、またグローバルな性格をもった非暴力的な命令を尊重するために、共有された生の条件について反省することであろう。

 

 

あとがき ーー変容

こんにちもっとも重要なのは、情動と行為の関係を生き生きとした者にする行為、反感と憤怒を集団の能力で革命の徴候に変える行為である。

破壊は個人の力の究極のしるしであって、自由のしるしではないーーウラジミール・プーチンならこの言葉に間違いなく同意するだろう。憤怒によって、共通の生あるいは共有された生、集団的自由という理想、大地と生き物ーー人間をふくむーーに対するケアが放棄されるとき、憤怒は個人的自由の表明である。憤怒は、個人であることを皮膚によって縛られたーー個々別々に分離したーー状態とみなす、個人的自由に関する考え方の最後のあえぎかもしれない。この考え方は、いうなれば、個人の消費と快楽を促進する場合を除いてあらゆる開口部を閉じるという空想、世界を取り入れるものと世界に取り入れられるものは自分ひとりが管理でき決定できるという空想である。そうした「個人」は、自分は有毒な空気や土から、病原菌やバクテリアから隔てられていると思い込んでいる。多孔性という特徴をもつ身体は純然たる境界線ではないし、純然と開かれているわけではない。それは、その二つの状態のあいだの複雑な駆け引きであり、呼吸、食べ物、消化、幸福ーーつまり、セクシュアリティ、親密さ、たがいの身体の取り込み、にとって満足のいく状態ーーが(自分にとっての、世界の、世界による)必要条件となる生の様態のなかに位置づけられている。

われわれは生きていくためにたがいを必要とする。いいかえれば、他人の気孔の内部に取り込まれる必要があり、他人を取り込む必要がある。というのも、われわれが世界に対して開かれたものとして、境界の定まった自己とその自己のいわれは、われわれを支える世界との、ひとつの大地との、人間の居住地をふくむその大地の生物環境との、関係のなかで生きている。この生物環境は、世界に積極的にかかわる政治に支えられている。ここでいう世界とは、われわれがみな感染、汚染、警察による背後からの首絞めを恐れることなく呼吸できる場所、われわれの呼吸が世界の呼吸と混ざり合う場所、自由でシンコペーションの効いたこの呼吸の交換が共有されたものーーいわば、われわれのコモンーーとなる場所である。

 

 

原注

序論

免疫システムの働きは「異種混交的な構成要素」に依存するだけでなく、自己の統合のためにそうした要素を必要とするからである、と。つまり統合という概念は、その定義に異種混交性をふくまなければ、意味をなさない。

第三章 絡み合い ーー倫理および政治としての

(1)フッサール現象学における「括弧入れ」は、世界についての自明視された前提を、主題的問題としての世界を失うことなく疑問視することをともなう。だが、括弧入れにおいて目指されているのは、世界の本質と、われわれが世界について獲得する自然化された前提の本質とを把握することを可能にする視点から、世界と世界に関するわれわれの前提とにアプローチすることである。

「メルロ=ポンティがきわめて的確に述べているように、人間とは自然の種ではなく、歴史的観念なのだ。女は固定した現実ではなく、生成である。女を男と比較する場合も女を生成として捉えなければならない。つまり、女の可能性を明確にするべきなのである」。〔ボーヴォワール『決定版 第二の性ーー Ⅰ 事実と神話』

 

 

訳者あとがき

生の可能性の条件と不可能性の条件との短絡に世界の素性を見出し、それが「価値の破壊」として感覚的に現象することを「悲劇的」と呼んだ。
 バトラーがシェーラーを導入したことの意義は大きい。

「コモンな世界は、われわれがその世界を平等に分かち合うことを意味しない……」

つまり、コモンなものとは「悲劇的なもの」の別名なのだ。

私は超越論的主体であるまえに、「身体に具現した」存在としてある。バトラーはこの身体の特徴を「多孔性」という言葉で表現する。身体は穴だらけであり、その穴を通じて身体の内と外はつながり、身体の境界なるものは幻想であることが判明する。この身体的交通のありようを、バトラーはメルロ=ポンティのいう「絡み合い」という概念あるいは比喩に接続する。コモンであることは、他の身体、物と絡み合うことであり、それが生存の条件でもあり、死の条件ともなる。その意味で「悲劇的なもの」の現象を生み出す世界は「肉体感覚を伴わない」どころか、その感覚と一体である。メルロ=ポンティが「交叉」という比喩形象によって名指した身体間の関係性は「個としての主体を生み出すと同時に解体する」。つまり「交叉」もまた「悲劇的なもの」なのであり、ゆえに、われわれが属し且つわれわれのなかにある世界は身体的なのである。
 この世界はどんな世界なのか。忘れてはならないのは、バトラーにとってこのフレーズはひとつの問いであるだけでなく「抗議の叫び」でもある、ということだ。

シェーラーによれば、「悲劇的な出来事のまわりに漂うあの客観的悲哀性」は「見渡しがたさ」という性質をもつ「悲劇的なもの」。なぜならこの出来事の例示する「世界構造」自体が「見渡しがたい」ものだからである。「それゆえ悲哀は出来事を越えて、いわば地平のない無規定な広がりの流れてゆく」「悲劇的なもの」。悲劇的な悲哀はそれゆえに、悲嘆不可能性を乗り越えるかもしれないのである。バトラーは本書のいたるところで「グローバル」という言葉を使っているが、われわれはそれをシェーラーのいう「見渡しがたさ」のいいかえとして読むことができるだろう。「グローバルな世界感覚」がバトラーの示唆するように「根源的で実質的な社会的平等」の必要条件であるとすれば、その感覚は「悲劇的なもの」を現象させる世界に対する感覚と別物ではない。

二〇二三年一一月

中山徹


『この世界はどんな世界か? パンデミックの現象学』ジュディス・バトラー /著、中山徹 /訳

 

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