「外界」の事実 | 世界を認識する存在
たとえば「私はゾンビではなく、他人はゾンビである」という肯定されるべき最初の主張にも、複数の異なる意味があることが明らかになり、したがってもちろん、「ゾンビは可能であり、私自身もまたゾンビでありうる」の方にも、同じことがいえることになります。
「ゾンビ」は定義上「意識」の欠如者ですから、この議論はそのまま「意識」にあてはまることになります。
第一日 なぜ意識は哲学の問題なのか
心なんて一般的なものはない
心とか意識とかいっても、じつは脳や神経が作り出していると、よくいわれますね。
私が感じているのは私の心だけです。
つまり、心なんてどこにもないわけです。
脳と意識の関係は他のどんな関係にも似ていない
なぜ脳のような特定の種類の物体に心や意識というまったく違う種類のものが宿るのでしょうか?
脳が意識を生み出しているとしても、その脳をどんなによく観察しても、その脳がやっているその仕事は決して見えません。
脳と意識の関係は、他のどんな関係にも似ていないのです。
そして、何にも似ていない事柄については、説明ということが成り立ちません。
どうも人間はそういう状況がずいぶん嫌いらしく、無理にでも何かに似せようとする傾向があります。
「脳から生じる意識」なんてもの、どこにあるのですか?
自分にしか観察できない変化と同時に、外部から観察できる状態変化も一緒に起きるわけです。
感覚の認知の自立ーーは決定的に重要です。
痛みや酸っぱさや不安の憂鬱を、「感じられるもの」に、つまり「感覚」や「感情」に、しているからです。
われわれは世界を、われわれなしに完結したものらとして捉えたいという根本衝動を持っている
これは、まあ、認識という理念からの必然的帰結だといえますね。◉われわれは世界を認識する存在ですが、まさにそうであることによって、世界のあり方それ自体は、われわれの認識の仕方から切り離されていなければならないのです。
その方向に向かうことがわれわれの知的探求の基本なので、真理の探求は必然的にその方向に設定されているわけです。
神経末端から発せられた信号が、神経線維を通じて脊髄後角を経由して大脳皮質感覚野と視床に伝えられるプロセスは、客観的空間の中に位置づけられた公的プロセスで、原理的には誰からも観察可能な客観性を持つことが決定的に重要なのです。それを媒介にすることによって、痛みの「治療」がはじめて可能になるのです!
われわれが探求し、その正体を明らかにしようとしている、われわれとは独立の客観的世界が存在する、という想定がいかに堅固だとしても、いやそうであればなおさら、われわれがわれわれに現われる現象そのものをそれの正体や本体の把握とは独立につかまえられるという前提もまた、それと切り離すことができない前提を構成するわけです。
実のところは、われわれは誰も他人にそれがどう「現われ」ているかを知らないのですよ。
◉そもそも「われわれ」が感じる「あのように」とは「どのように」なのか、じつは誰も知らないのです。いや、そもそも「われわれみんなが共通に感じる「あのように」の「あの」なんてないのかもしれない、少なくともあるかないかたしかめる手段はないのです。
三者とは、外的に振舞いに現われる因果連関、そのとき自分に直接「現われ」て感じられる「あの」感覚、そしてそのときその人の物理的身体の内部に起こっているはずの物理的内部状態、の三者です。
時間との類比を試みてみよう
誰も他人が持っている「ブトム」の内容を見ることはできないけれど、自分の「ブトム」がアトムな状態やイブトムな状態になったときは、自分のその状態変化だけを直接「見る」ことができるという想定では、その見えたものを外界の共通に見えるものと比較して描写することが可能になってしまう。
しかし、その「外界の共通に見えるもの」もまた、じつは「ブトム」の内部にあるので、じつは共通には見えていないのです。
なぜなら、みんなが共通に体験できるものなんか、じつはないからです。
これは、単純に言って、すべては心の中にある、という考え方です。
すべての「外界」の事実は、誰かに知覚される以外に知られる手段はないのですから。
◉私が私の脳に別の人の脳から神経をつないで、その人の見ている緑色を見ようとしても、酸っぱさを味わおうとしても、見たり味わったりできるのは、ふたたび私の色や味で、その人の色や味ではありません。つまり、私の感じている色や味が、その人の感じているものと一致するかどうかは、どこまでも決してたしかめられないわけです。いや、この領域では、そもそもそういう一致とか不一致といったことは、原理的に成り立っていないのです。それが他者が存在するということの真の意味です。
◉識別することが機能なら、直接に感じることは実質です。識別することが知覚なら、直接に感じることは感覚だと言ってもいい。識別することが「心理的な働き」なら、直接に感じることな「現象的な事実」だと言える。
また、識別することが「心」の働きなら、直接に感じることは「意識」の事実だと言ってもいいでしょう。
感じられる「痛み」や「酸っぱさ」や「不安」や「憂鬱」は、感覚的・実質的要素こそが本質的な役割を演じており、見られる「家」や「空」や「酸っぱい顔」や「他人の脳」の場合には、逆に知覚的・機能的要素が本質的であって、感覚的・実質的要素は(もちろん存在するでしょうけど)本質的な役割を演じていない、ということになります。それが本質的な違いだったわけです。
われわれは他者から言葉を習わざるをえないのと同様、記憶から言葉を習わざるをえないのらですから、これはまあ当然のことだとも言えるでしょう。
時間との類比はもう一つあって、この方がより重要である
唯一の本当の現在というものはありません。それぞれにおいて「唯一の本当の現在」が、つまり複数の唯一性!があるだけてす。
さて、「現在」は「自分」の時間的な類比として導入されたのでした。「自分」にだけ直接に現われている感覚や意識を、「現在」の出来事に類比することができる、と考えたのでした。
本当の私は、ここにいるこの私だけです。
各主体において「唯一の特別の自分」が、つまり複数の唯一性!が存在するわけです。
つまり、「自分」には「私」と「当人」の二つの意味があるのです。
言語は、導入時には他者から伝授されますから、他者とのコミュニケーションこそが無くてはならいものらですが、しかし、その後はむしろ逆転が生じて、自分自身に何かを伝える手段であることの方が、言語にとって不可欠なものに転じ、そちらが自立可能になります。
「自分」とは誰かーー「私」vs 「当人」
そして、現実性と可能性とのこのずれそれ自体が再び可能化されて、現実そのものではない「現実」という概念が生まれてくるわけです。
◉概念的にとらえようとすれば、それはとらえられない「私」の方向にどこまでも逃げていきますし、直接にとらえようとすれば、それはすでにとらえられている「当人」の方向に逃げていきます。しかも、「私」というとらえ方の内部でも、「当人」の方向に逃げていきます。しかも、「私」というとらえ方の内部でも、その同じことが反復されるので、事態はますます複雑になります。しかし、まさにそのようなあり方こそが「意識」が存在する仕方なのです。それは、一つの概念の複数の実例が同じ平面に並んで現われるような、通常の意味で実在するものとは、根本的にあり方の違うものなのです。
はっきり言えば、私は私の見る赤、私の味わう酸っぱさ、私の感じる憂鬱、つまり私の持つ意識しか知りません。
意識とは、言語が初発に裏切るこのものの名であり、にもかかわらず同時に、別の意味では、まさにその裏切りによって作られる当のものの名でもあるのです。
質疑応答
意識は複数そのものが並列的に存在するというあり方をすることができません。
第2日 なぜわれわれはゾンビなのか
現象的と心理的の対比は累進する
知覚は完全に心理的なプロセスとして理解可能です。
対比をどのレベルで理解すべきかが決定できないので、不安定な構造を内部に抱え込んでいるからです。
すべての対比を同じ平面に置くために開発されるのが、前回の講義で述べた、「自分」という一般概念であるわけです。
さてデカルトのその「我思う(=我疑う)」は、現象的でしょうか、それとも心理的でしょうか。
どのような過去にもそのときの現在が、どのような未来にもそのときの現在があって、その現在を中心にした過去と未来があります。
さて、ここでは、「現在」を「現象的」に対応させ、「過去」と「未来」を「心理的」に対応させてみてください。
チャーマーズの語る「現象的」が、それ自体、心理的な概念の内部での分類に変質してしまうのは、時間論における「現在」が、二段目以下に落ちて、過去における現在も、未来における現在も、やはり「現在」であることにならざるをえないことに対応します。
論理的付随と自然的付随を隔てるもの
物理的に同一なのに生物学的に異なる二つの世界なありえません。
つまり、意識は、心理的性質と違って、物理的性質に論理的に付随しているとはいえない、というのです。物理的事実と意識との付随関係は、論理的・概念的な関係ではなく、この世界の自然法則による自然的・偶然的な関係だからです。
チャーマーズの二次元的意味論
彼の議論の基礎になっているのは、クリプキの議論です。そのポイントは、アプリオリ(経験的探求に先立ってあらかじめそう知られている)とアポステリオリ(経験的探求によってはじめてそうわかる)という認識論的な対立と、必然的(そうでないことは不可能)と偶然的(そうでないことも可能)という形而上学的な対立とを、はっきり区別したことにあります。
「あのような」は、痛みや酸っぱさの現象的な質の場合と違って、私秘性があるわけではない、という点
人間間の私秘性ではなく、世界間の私秘性です。
それにもかかわらず、このような「あのような」もまた、なくてはならないものなのです。
さて、クリプキ - チャーマーズの意味論によれば、この現実世界の内部と反事実的な諸可能世界を考えた場合とでは、指示の決まり方が違うことになります。言い換えれば、概念には、二種類の内包が結びついていることになります。まずは認識論的な第一内包ですが、これは指示を現実世界に固定させる関係で、この世界が現にどうなっているかに依存して決まります。次に形而上学的な第ニの内包で、これは指示を可能世界に結びつける関係で、現実世界での指示がすでに決まっているとき、それを前提にして、反事実的世界での指示を決めます。
もっと正確に言えば、われわれが開発した言語という装置は、その本質からして、そのような方向性を内蔵していざるをえないような機構だから、でしょう。
「意識」以外の付随しないものーー指標的事実
ところで、彼によれば、意識(現象的な質、体験、クオリア)以外のほとんどのものは、物理的なものに論理的に付随しています。
「ここ」は私のいる場所のことであり、「明日」は今が存在している日の次の日のことですから、究極的には「私」と「今」が本質的な指標詞だと言えます。
物理的に(それどころか心理的にも現象的にも)私と同じ人がいても、その人はそのことによって私にはなりません。今とまったく同一の事実が、そのことによって今をつくりだしはしないのと同じことです。「私である」という性質もまた何ものにも付随していないのです。
最上段の今だけが現実の今を表しているので、最上段だけが現実の今と今以外の時点との対比を表現しています。したがって、最上段に登場する「今である」という性質だけが、世界の物理的な性質に付随しない性質であることになります。
つまり、どの対比が最上段であるかにかんする客観的事実は存在しません。
言語は、この相対化とともに始まりますから(というか、言語とはこの相対化のことですから)、言語的世界の内部には、このことによって消されたものの痕跡は残りません。しかし、◉私は、結果的にはわれわれは、この言語化のプロセスによって絶えず消されていくものと、それが絶えず作り出していくものとを、つねに同時に生きているのです。そして、「現象的」という規定が二義的にならざるをえないことの根拠も、じつはそこにあるのです。
チャーマーズ自身、こう言っています。「意識については、認識上の問題が一つ存在することが、はっきりしている。他者の心の問題である。この問題が生じるのは、われわれのまわりにいる生き物に、意識があるということも、意識がないということも、どちらもあらゆる外的証拠と論理的に矛盾しないからである。たとえば、われわれは犬の脳を覗き込んで意識体験があるかないかを観察するすべはない」。
「他者の心の問題」は、意識というものがたまたま呈する一つの問題なのではなく、むしろ、その問題を生じさせるものこそが意識なのです。それを意識の私秘性と呼ぶなら、意識はたまたま私秘性という性質をもつのではなく、むしろ私秘性という性質を実体化したものが意識なのです。
このことが本当に不可解な、問題そのもので、たとえば「現象的」という規定が累進的にならざるをえないことの根拠でもあるわけです。
たとえば「自分自身の脳を観察できれば、脳状態と意識状態との連関を観察できる」という言い方だって、「自分」にまつわる例の二義性からくるんですよ。
「意識」以外の付随しないものーー因果性
因果性もまた、外的観察によっては出来事どうしのらつながりの規則性しか観察できません。つまらは、因果性にも「他者の心の問題」にあたる問題があるのです。
時空的な全歴史を通じてわれわれのこの世界と物理的に同一でありながら、異なる法則を持つ世界が論理的に可能です。
意識は説明を要する始末に負えないものであるのに対し、因果性と法則は、存在する物理現象を、つまり自然に存在する規則性を、説明するために仮定されているにすぎないのだから、と。しかし、そう言ってよいなら、意識だって、自然に存在する規則性を説明するために仮定されているにすぎないとも言えるはずです。
そして、そのようなものが他者にもあるかどうかが「他者の心の問題」を構成するわけです。ところが、因果や法則の場合には、その唯一の確実な実例にあたるものが、そもそも存在しません。いわば、すべてが最初から「他者の心」にあたるわけです。
第〇次内包
逆方向から二つの反論を同時に
「俺にはたしかに意識であるこれがある。しかし、他者にもこのようなものがあるのだろうか?」しかし、他者に「このような」ものがあるかどうかは、他者の定義上、決してわかりません(わかったら、他者ではなく自分でしょう)。他者のゾンビ可能性は、その意味では、必然的なのです。
しかし、定義上わからないことがわかっているような問題は、擬似問題ではないでしょうか?
他者に「このような」ものはないのです。だからこそ、他者なのです。
ある意味では、誰でもが自分自身を内省して「私にはたしかに意識がある。しかし他者にもこのようなものがあるのだろうか?」と問えるのです。
彼には彼の「私」が、彼女には彼女の「私」があるのと同様に、私には私の「私」があって、その誰にも必然的に他者がいるからです。そして、その場合もまた、他者に「このような」ものがあるかどうかは、他者の定義上わからないので、他者のゾンビ可能性は必然的になるのです。
しかし別の意味では、それらは現実の他者ではない。「私には私の」の中に登場している「私」は、誰もが持つ「私」とは意味が違い、したがって「他者」の意味も違ってきます。
累進構造から一般的な「意識」の成立
すべてを疑っても疑っているこの私が存在することは疑えない、という真理に彼が達したその瞬間、その真理は、一般にすべてを疑っているその私が存在することは疑えない、という真理に転化しました。それは、実はもっぱら言語の働きによるもので、言語が見せる夢にすぎないのですが、われわれは言語が見せる夢の世界に生きているのですから、その夢から「覚める」ことはできません。
このようにして、一般的なゾンビの想定が可能になることによって、一般的な「意識」もまた成立します。「私の複製体で、もちろん私ではないけど、しかし現象的な意識は立派に持っている人」というものが想定可能になりますし、逆にまた「私の複製体で、もちろん私ではないけど、そのこととは別にまた、現象的な意識も持っていない人」というものも想定可能になります。
その意味で、「意識」は最初から機能的・心理的ならざるえない。
つまり、私に・意識がある・ことになるのです。
過去なのだから端的に現在でないか、時点なのだから必ず現在であったか、その二つの答えしかありえないでしょうから。
クオリアの逆転はいかにして可能か
記憶によってそれを知る可能性こそが自己という時間的まとまりを成立させる、ともいえます。そうすると、他者とのあいだには、この記憶にあたるものがないので、そのなさこそが他者の本質であることになります。
外部認知と独立に自分の認知様式それ自体を認知して保存するその機能に、外部からのアクセスがもしできれば、それが相互であったり逆であったりすることが可能になるからです。
ジャクソンのメアリーとネーゲルのコウモリ
色覚の主観的経験の事実は、物理的事実に内含されないことになる、というのです。
ゆえに、物理的知識がすべてではない。
つまり、物理学には含まれていない心理-物理法則が現実世界にあることになる。したがって、この関係は論理的な付随関係ではなく、自然的な付随関係であるということになり、物理的性質以外にこの世界を作っている別の物が存在するということになる、というわけです。
言うまでもないことですが、私はこの応答にまったく賛同しません。
それは、この話はメアリーがゾンビであっても成り立つのではないか、というものです。
自分とかけ離れた主観性の形式はうまく概念化できないからです。人間がもつ意識概念は人間の意識の機能形式に基づいて作られているので、それとあまりにも違う形式は想像しにくいからです。
一般にコウモリであることがどんなことなのかは、コウモリだってわかりません。
何が問われずに前提されるようになっているか、われわれは何を前提してしまっているのか、それこそが心身関係の問いにおいて哲学的に問われるべき本当の問いなのです。
現象判断のパラドクスと神の存在論的証明
体験そのものは、発言の原因になっていない、因果的に必要のない、単なる随伴現象にすぎないことになる、というわけです。
(別に論じるべき話で言えば、この現実世界もただ自世界に言及する限りにおいて「現実」とされる諸可能世界の一つにすぎない、ということです。)
つまり、意識そのものはつねに、たまたま伴う随伴現象にすぎないわけで、私の行動の説明もまた私の意識と無関係に成り立ちうるということになります。
概念や機能ではとどかない、ただ実在する〈神〉は、どこに認められるべきなのか、それが問題になるのです。
私は「意識の存在はじつに不思議だ」と語る他人の発言を「心理的」な水準でしか受け取ることができません。
質疑応答
要するにわれわれは、自己として、過去の自己と現象的につながっているのでなければならないのです。そうでなければ自己的なつながりの重要な要素が失われるからです。
つまり言語とは、世界を人称的かつ時制的に把握する力なんですね。そのことによって、客観的世界というものがはじめて成立する。
ーーハイデガーは、他者と決して共有できない「死」こそが他者との根源的な共同性を作り出す最後の紐帯だと言っています。この話は、しばしば情緒的に読まれてしまうのですが、たぶん本当はそうではなく、死が特別であるのは、それが文法的な同一性の基準を超えた、共有できないどころか他の同種のものと並列されることも不可能な、無内包の現実性の水準を、それが指し示すからだと思うのです。
並列不可能なものの、並列不可能による、並列ですね。
誰かが自分の幼い直観を思い切って語り出さなければ、哲学は結局、学力自慢で勉強好きの秀才たちの手で、どこまでも無駄に複雑なものになり続けるだけでしょう。
哲学業界全体を敵に回す勇気がなければ、哲学なんてできるわけがない、という逆説が成り立つわけです。
第3日 なぜ意識は志向的なのか
人称化と時制化による客観的世界の成立と志向性
世界は事実そのようにできているからです。それが問題のすべてです。
◉「世界は、事実として、なぜか、私の目からしか見えない」
「私は私です。あなたではありません」
ここには「他者の心の問題」なんか介在していないのです。相手がゾンビかどうかなんて問題は関係ないのです。
このような端的な事実に徹すると、言語は成立しないのです。
相手にも「私」を認めることは、累進的な読みを認めることですが、さらに進んで「私」という語の一般的成立を認めることは、今度は累進性を逆方向へと超え出て、すべての「私-他者」関係を同じ平面に置いて、一種類の関係に仕立てあげることを意味します。こうして、第一回の講義で導入した「自分」という一般概念ができあがり、「私」は一個の「指標詞」となります。これが「人称化」です。
「時制化」についても、構造上は、まったく同じことが言えます。
本当の現在でない時にもそれぞれに「現在」としてのとらえ方を認めて、本当の現在もそのとらえ方でとらえる。そのことによって、一個の指標詞としての「現在」という語が成立する、ーーということです。
◉伝達可能性の成立とともに、現実の今の現実性は消される
そういう視点に立つことが一般的な「今(現在)」というとらえ方を成立させているのです。そして、そういう視点に立つことがすなわち言語の視点に立つことなのです。
結果として、すべてが並列的に並んだ平板な世界ができあがるので、「今」も「私」も、反省的・再帰的な働きに転じます。
人称化と時制化の根底にあるのは様相化なのですが、いまの問題を「私」と「今」の代わりに「現実」で考えてみると、面白いことがわかります。われわれのこの現実世界の中には、さまざまな虚構世界がありますね?
そういう世界だって、それぞれその世界としては「現実世界」でしょう?
つまり、ある可能世界から、その世界を「現実世界」とみなした場合の可能世界の一つとして、この現実世界が指示され言及される、ということがありうるのです。
これは端的な事実に反する、摩訶不思議な世界像なのですが、これを認めるとなるとどうしても、缶詰は何らかの仕方で開いていて、各々の意識は何らかの仕方で客観的世界に向かっているーーあるいは缶の中の意識は客観的世界を表象しているーーのでなければならないことになります。
知覚経験はいかにして志向的となるか
志向性の対象(すなわち表象されているもの)は心の中にあるということと、心の外にとどいているということが、一緒に主張されているような感じがするのです。
心は世界のあり方を表象する能力を持っているわけですが、代表的なものはもちろん知覚ですね。そのほかに、過去に向かう記憶や想起、未来に向かう予期や願望、さらに意図や信念や恐怖や探索なども、みな世界を表象します。つまり、志向的な意識です。さて、それらは何に向かっているのでしょうか?
知覚は世界を表象すると言っても、風景画が世界を表象しているのとは表象の仕方が違います。まず、風景画の場合なら、風景そのものと絵に描かれた風景とを見比べることができますが、知覚ではそれができません。だから、風景画と違って、知覚が世界の表象であることは確かめようがありません。それはなぜかと言えば、最も根本的な話をすれば、絵は世界を表象しているのではなくて、知覚された風景を表象しているのであって、その知覚そのものは、それ自体としては、そもそも何かを表象するようなものではないからです。◉表象が成立するためには、何かそれ自体とは別のものがrepresentされて、写されていなければならないわけですが、知覚においては、そのreが成立する余地がない。そもそも項が二つないので、何かを写すということが成り立たない。知覚経験は、ただいきなりpresentされるしかないわけです。
風景画の場合には、絵の素材と、風景の表象としての絵と、表象されている風景、という三層構造が成り立っているのに、知覚は一層構造にしかなっていない、ということになりますね。
まず、外部に客観的な世界そのものがあって、何らかの心的素材を使ったそれの写しが別にある、というとらえ方が可能になります。
つまり、われわれは志向対象の特徴を意識することはできるけれど、それを作り出している自分の体験の内在的特徴を意識することはできないのだ、というわけです。
私は、こう茶々を入れてみたくなります。志向対象に内在的な性質も、体験そのものに内在的な性質も、いずれにしても、そのようなものとして体験されるものにすぎないのてしよう?
そもそもの話をすれば、私の知覚に志向性はない。
外界に認知とは独立の物があって、自分がそれをときに見誤るとか、過去に記憶とは独立の事態があって、自分がそれをときに記憶違いするとか、そんな想定をする必要はないでしょう。つまり、どうしても志向性を想定しなければならない必要はまだないのです。(意図や予期や願望のような未来志向的な態度の場合には、他者の介在なしに志向と客観的現実が区別できるように思われるかもしれませんが、しかしその客観的現実とはすなわち知覚経験でしょう)。
◉私の知覚は言語報告できる要素だけでできているわけではない。
しかし、決定的に表返されるのは、他者たちとの単なる相互の食い違いを超えて、外部の世界そのものに割り当てられる客観的事実というものが成立し、自分がその客観的事実と食い違う信念を持っていたことを自覚する、ということが可能になったときでしょう。
◉見間違いや記憶違い、あるいはさらに錯覚や幻覚や妄想の可能性が認められることによって、すなわち表象することの失敗が、つまり表象の真偽が認められることによって、知覚ははじめて世界を表象するものとなり、「絵」と同型の志向構造を獲得します。このことは、見たものは見たとおりにあったはずであるという前提の成立と表裏の関係にあるでしょう。「見たとおりに」とはつまり「見なくても」ということなのです。
つまり、見間違いと並行的に、偽なる風景画がありうるからこそ、絵は世界を表象しているとみなされるわけです。その意味で、絵はすでにして言語です。
というわけで、知覚は、対象を写し、絵のように対象を再現・代理しているという側面と、媒体なしに直接的に対象にとどいているという側面とがあることになります。
夢は知覚の誤りではないのです。それは、現象と実物の区別がすでにあって、すでに真偽の区別が成り立っている、志向的な世界経験の全体が、まるごと偽なる表象であったという、いわばメタ誤認なのです。だからこそ人生全体がまるごと夢である可能性すら考えられるわけです。
志向性と内包をつなぐもの
「現実世界」は、端的なこの現実世界ではなく、可能的な現実世界であることができます。
様相と人称の累進構造は同型です。だから、「現実世界」もまた、一つだけ真ん中で表と裏が逆になった缶詰のように考えることができるのです。もちろん、それをふつうに表返して、他の諸世界と並べることができるようになったとき、様相という文法装置が成立するわけです。他の「私」たちと並べることができるようになったとき、人称が成立するのと同様です。
なぜ意識は志向的であらざるをえないのか、という問いに対する究極の答えは、なぜ世界は様相的であらざるをえないか、という問いに対する答えと共通でしょう。
「私」の第〇次内包へ
現状にその目から世界が見える生き物が一匹しか存在しないから、それが私なのです。
意識の私秘性とは、何か認識論的な壁があるがゆえの私秘性なのではなく、存在論的に並列不可能であるがゆえの私秘性なのです。
◉当然のことながら、私は単なる一個人なんかになりえませんし、逆に、他者は単なる一個以上の、私でもありうるもの、なんかにはなりえません。
無内包の現実の〈私〉は、言葉よりも手前のにあるので、そもそも言葉で語られることとそりが合わないのです。
他者の意識はふつうの意味でちゃんとあってかまわないのです。そして、他者の意識にかんする懐疑論は、この問題を前提にして立てられます。なぜなら、意識とは最初からまさにこの問題構造からの派生態だからです。
懐疑論は問題の問題性をわかりやすく提示するための漫画的な誇張にすぎないので、そこに問題の本質があるのではないのです。
質疑応答
もともとは単にpres-entしていただけの対象が二つに分裂して、内側に入ったほうは外側でpresentしている対象のrepresentだと解釈されることになるわけですね。
その本質的な違いは何もないということこそが無内包ということです。
概念的(相対的)なものの内部に、非概念的なものの対立が必ず再び成立する。
私と他者の例で言えば、他者もまた私であると認めるというよりはむしろ、私自身もまた「他者もまた私である」と言える意味での私にすぎない、と認める方向です。
独在性は簡単に客観的真理に顚落してしまうので。
『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』永井均/著
知覚された身体という空間的な限界
序論
いまこのときが世界の最後の夜だとしたら?ーージョン・ダン
パンデミックは広範にわたる社会および生態系の状況と切り離せないので万人の生活にとって単一の状況を生み出すと、私はいっているのではない。けれども、現在のパンデミックによって、ウクライナへの軍事侵攻をふくむそうした広範な諸状況は、新たなかたちで関連しあっている。
われわれはみな病気と死という環境とかかわって生きている。死と病気は広まっているばかりか、文字どおり空気中にあるのだ。
われわれは間違いなくパンデミックをグローバルなものと理解している。パンデミックによってわれわれは相互連関の世界に組み入れられる。たがいに影響を及ぼしあうという、この世界に生きるものがもつ能力は、生あるいは死の問題になりうるのだ。これがわれわれの共有する共通世界であるといってよいか、私にはよくわからない。なぜなら、われわれは共通世界に住むのを望むであろが、現在そうなっているかはわからないからである。コモンはいまだ実現されていない。いまは多くの世界が重なり合って存在していると述べるのが、おそらく適切だろう。
われわれはジャック・ランシェールとともに「全体の一部ではない部分」ーーコモンズとかかわることができない、あるいはできなかった、あるいはもはやできない人々ーーについて語らねばならないだろう。
パンデミックの状況下で社会的、経済的格差がこれまで以上に浮き彫りになり、また、見捨てられた存在、避難民、実験的生といった脆弱なアンダーコモンズの増大があらわになるなかにあって、グローバルな動きもまた存在する。その根底にあるのは、誰が早死にするのか、誰の死を防ぎうるのか、誰の死が重大問題なのかという政治的意識と結びついた、これまで以上に鋭い意識の回復であるように思われる。
たとえ、われわれがどこにいるか、そして適切に機能する社会の内部にともかく「位置づけられた」場合にどのような社会的位置にあるか、に応じてこの苦境の生き抜き方に違いが出るにしても、である。
語源をふまえていえば、パンデミックとはパン-デモス〔pan-demos〕、すなわち、すべての人々のことである。より明確にいえば、あらゆるところにいる人々、あるいは、人々を横断する何か、人々を超える人々を通じて広がる何かである。◉パンデミックは、たがいにつながり相互浸透する、多孔性の〔侵入孔だらけの〕人々を生み出すのだ。
パンデミックはたえずパンであること、すなわち、世界に注意を向けることに固執しているかのようであり、世界はたえず、ウィルスへの暴露の度合いが異なる複数のゾーンに分けられているかのようである。われわれは世界を単一の地平として語りがちである。
われわれは不連続、境界線、不均質を強調するために複数形の世界、つまり諸世界について語る。そして、ありのままの世界を記述するためにはそうせざるをえないと感じている。
つまり、それらの地平はいわば、重複や分岐はしても完全にはひとつにならない様々な時間性によって構成された、もろもろの世界-限界であるだろう。
われわれはこの世界概念にゆさぶりをかけ、地球という非人間中心的な概念に目を向ける必要があると、考えるひともいる。地球という概念は、つねに地政学的なものである地理的な地図に対して批判的な見方をもたらす。そうした地図に引かれた線は、征服者の引いたもの、戦争や植民地化が生み出した国家的な境界線である。
◉他人に触れ他人を理解しようとするなかで知識として身に着けた世界の座標軸をすすんで宙吊りにする、あるいは手放すといった、他なるものとの出会いの過程において、自分の認識論的領域ーー世界の限界および構造に対する自分の感覚そのものーーを転倒し、再構成すること。ルゴネスが強調するのは、そのことの重要性である。
パンデミックがもたらしたのは、世界と諸世界とのあいだのこうした揺れ動きである。パンデミックはそれ以前から存在していた世界のあらゆる不備をさらに悪化させると主張するひとがいる一方で、われわれはパンデミックによって新しいグローバルな相互連関と相互依存へと開かれると示唆するひともいる。どちらの主張も、今日の持続的な、方向感覚の失調のなかから現れる考えである。
パンデミックは、世界中に広がる現象、力、危機、さらには状態として理解されている。
自分の居場所がどこてあろうと、世界について考えていないひとはいないのだ。
コロナウィルスがひとたびエンデミック〔一地域に特有〕なものになれば、それは世界の永続する構成要素となるだろう。
それは名詞から形容詞へ、世界の一時的な状態から永続的な特徴へ変わるのである。
人間をふくむ動物は、生きるために外的世界の要素を摂取、吸収、吸引するのである。人間の身体は、外部との接触を絶たれたら生きていけない。
世界は人間の行動の背景として、あるいは人間の介入の場として、たんにそこに存在するのではない。日常のレベルで世界の断片は身体に取り込まれており、このことは身体と世界との、生命維持に必要なつながりを示している。
われわれの意志によって、われわれの意志が欲するものによって、世界の限界が変わりうるとき、世界は新しい世界になる。
こうした世界全体の拡大は、われわれの意志の効果あるいは意志の表象ではない。それはむしろ、世界がわれわれの想定とは違うものとして露呈されることである、と。
たがいに追いつ追われつしながら時間的に継起する、世界に対する諸感覚、あるいは、大地全域に空間的に配分されると考えられる連続する、世界に対する諸感覚について語っているのである。
われわれはいわば、既知の世界の限界にたち、その危険な場所からその問いを発するのだ。
マルティン・ハイデガーは、「世界像」とは世界の像ではなく、像としての思い描かれ把握された世界であると主張している。
そうした世界像を前にした主体は、この像となった世界全体をとらえようとするだけでなく、自分が知ろうとしている世界から自分が除外されていることに気づくとハイデガーはいっている。
◉われわれは、われわれの見ている像のなかにいる。見る主体が生み出す、像との距離は、主体が認識しようとしている現象のなかに主体自身が巻き込まれていることの意味を否定する、あるいは、少なくとも一時的に無効にする。
第一章 世界感覚ーーシェーラーとメルロ=ポンティ
意識がもつ、世界を構成する力は、世界を創造するのでも世界を基礎から打ち立てるのでもない。それは、世界はいかなる条件のもとでわれわれに対して認識の対象となりうるように現れるのか、世界がそう現れるのはいかなる時間的な流れを通じてなのか、また、いかなる認識行為との関係においてなのか、という問いへの答えである。
世界が意識に与えられているとすれば、その状態は、その与えられているという性格を、その客観性を、けっしてあるいは軽視しないプロセスと行為によってもたらされる。客観的なものであっても、ともかく認識されるように現れねばならないのだ。
悲劇的なものは、われわれの行為が引き起こすものではない。それはむしろ外部からやって来て、そのあと魂に浸透する何かがもたらすものであると、シェーラーは表現する。
いいかえれば、悲劇的な出来事は世界に関する何かを開示する。◉悲劇的な出来事はこの開示のきっかけであるが、世界はその開示の条件であり、同時にその開示という現象そのものである。「悲劇的なものはつねに個人的な、特異なものにかかかわっているが、それと同時に世界自体の構成でめある。」
悲劇的なものはいわばより遠いほうの主題は、つねに世界そのものである。すなわち、そのようなものを可能にする、全体としての世界である。この「世界」は悲しみに侵された客体であるように思われる。
現在はまるで、生に必要な基本的条件がむき出しになったかのようだ。
われわれは、自分たちが大事にしていた、他人との物理的近さを失う。
実際、悲劇的なものの感覚は、出来事の責任の所在が特定できなくなるなかで増幅する。
つまりわれわれは、この世界における生存可能な人生がいかなるものであるかがわからないのだ。
◉世界が悲しみに侵された客体であるとき、どうすればそうした世界に住むことが可能になるのか。世界を居住不可能な場にする悲しみが永続することについてはどうか。答えは個人の行為や個人の習慣にはない。答えはむしろ、物理的距離に関係なく発生して世界に住むための条件を生み出す、ひと同士の連帯にある。
というのも、世界のなかに住まなければ、世界のなかで生きられないからである。住むということからは、持続と空間という問題が出てくる。
だが、人間が世界に居住する方法には、よいものとわるいものがある。そして、人間の居住する範囲とその破壊的な混乱を制限しないかぎり、大地は生き残れないーー再生しないーーのである。気候変動という状況下で居住可能な世界を生み出すために、人間はみずからにしばりを課す。◉居住を可能にするためには、世界を部分的に居住不可能な状態にしておかねばならない。われわれが住む世界は、大地をふくみ、大地に依存し、大地なしに存在できない。
だから、居住可能な世界という問題と生存可能な人生とは最終的に切り離せない。
人間の生活がわれわれの自由を制限せずに営まれた場合、われわれは生存可能な人生を犠牲にして自由を享受することになる。われわれは自由の名のもとに、みずからの人生を生存不可能なものにする。より正確にいえば、われわれは始終、個人的自由と生産性重視の名のもとに、世界を居住不可能なものにし、人生を生存不可能なものにする。
個人的自由は、その様々な種類をふくめ、世界を破壊する力とみなさねばならない。
この自由によって妨害されている、それとは別のかたちの自由もある。後者が現れるのは、社会生活のなかから、すなわち、共通世界を得ようとする生、共通世界を自由に得ようとする生のなかからである。
社会性と生存可能性という、厄介な、重なり合う感覚によって、われわれの重要な政治的概念は改変されるーーそれが私の考えである。
しかしながら、メルロ=ポンティとともに意識の身体性に照らして考えてみたとき、相関関係という考え方は貧しいものであることが判明する。彼にとってきわめて重要な問題は、世界が私にとって認識可能なように構築されていることではない。
そうではなく、◉私が身体として、私の認識対象である世界の一部であること、私がすでに世界のなかにあり、見られ、移動し、身体に具現していることである。知覚された身体という空間的な限界は、身体固有の広がりを見誤らせる。というのも、身体はつねに私にとってここにもあちらにもあり、一か所に根付くとともによそにも移されるからである。私からみて向こう側にある、あるいは私の周囲にあると普通考えられる世界は、実際には、すでに私のなかに、そして私にぴったり接して存在している。
◉私の反省能力、私が私自身を見る、あるいは感じる能力(見ることが可能だとすれば、の話だが)は、経験の二つの極である主体と客体のあいだを揺れ動く。
◉私の身体は、見ると同時に見られている。すべての物を見るものは、自分自身を見ることができるし、自分が見るもののなかに、自分の見る力の「裏側」を認識することができる。私の身体は、見ている自分を見ており、物に触っている自分に触っている。……私の身体は、混在やナルシズムを通じて、見るものが見られるものに、感ずるものが感じられるものに内属することを通じて〔不透明なものになる〕自己である。それゆえに、それは、事物のなかに捕らえられた自己、表と裏、過去と未来をもつ自己である。
われわれがともあれ何かに触れることができるのは、触知可能な世界のおかげである。自分が或るものに触れたのはいつ、どのようにしてか、ということについて私はその気になればストーリーを語れると思っているが、そうしたストーリーを語る「私」は、その最初の触感、その触感/接触の場面から完全におくれてやって来る。
制限を課されることで私は特定の行動ができなくなるが、制限は同時に、相互連携からなる世界というヴィジョンを明確にし、私はそのヴィジョンを受け入れるように求められる。
まるで私は、他者に害を与える、あるいは他者から害を受けるのを見込んで、他者と結びついているかのようだ。
それゆえ、私の行為はあなたの生を左右し、あなたの生は私の生を左右する。少なくとも、潜在的にはそうなのである。
私は生のプロセスが持続し他者が生きることとを要求するが、それは、そうしたプロセスや他者がなければ私が存在しないことを意味する。
他者は私に先行する。
第二章 パンデミックにおける権力ーー制限された生活をめぐる省察
生と労働の気候環境
私はパンデミックというグローバルな状況を気候変動のなかに位置づけることが急務であると信じている。
気候変動とパンデミックは二つの異なる状況であるが、目下のところ両者はひとつにつながっており、勢いを増している。
パンデミックは明らかにしたのである。生産が縮小されれば、旅行が抑制されれば、二酸化炭素排出量とカーボン・フットプリント〔製品の生産・排気過程で排出される温室効果ガス〕が削減あるいは根絶されれば、自然界がいかに再生に向かうか、ということを。
パンデミックは二つの文脈のなかで起こる。ひとつは気候変動と環境破壊。もうひとつは、これが大部分を占めるのだが、労働者の命を使い捨てにし続ける資本主義という条件である。
われわれは貧困労働者層の生活を維持するために経済活動を自由にする、あるいは自由なままにしておく。だが、貧困労働者層とは、経済活動を自由にすることでその命が使い捨てられる運命にある人々、代わりに労働者にもできる仕事をしている人々、かけがえのない無二の命をもっているとはみなされない人々のことである。
労働者は、自分が使い捨てられる存在であること、替えの効く存在であることに気づく。
ソーシャル・ディスタンスはひとつの特権である。誰もがそうした空間的な状態を確保できるとはかぎらないのだ。
ひとつの問題は、世界をつくり直すという理想に燃えるか野心が、世界を白紙状態、新たなはじまりとして前提としつつ、この新たなものが重厚な過去をともなうものなのか、この新たなはじまりとして前提としつつ、この新たなはじまりが実際に過去から断絶するのか、あるいはその可能性があるのか、を問わないことである。
◉経済に健康を移植することは、たんに人間の性質を市場に移すことではなかった。それは経済の健康を確立するために身体の健康を奪い取るのである。それは、パンデミック時代に表面化する資本主義の論理が内蔵する、きわめて有害な置換と転倒であったし、いまもそうである。
ひとつの表象形式としてのグラフは、そうした死をいわば無菌化する。あるいは、そうした無菌化のアレゴリーとなっている。これもまた、死政治的 ネグロポリティカルな計画に資する隠喩作用の一例である。これがきわめて鮮烈なかたちで例示しているのは、資本主義という機械の心臓部に息づく死の欲動であるかもしれない。
市場の再起動と世界の作成とを分離すること。それこそが、世界の前途有望な造り直しにむけた第一歩となるであろう。
現象学者のいう「生活世界」には、生きる者たちのあいだの解消不可能な不平等がつねに組み込まれている、ということである。命のなかには、是が非でも〔どんなコストをかけても〕死から守らねばならないものもあれば、守るに値しないーーコストをかけるに値しないーーとみなされるものもある。
生活世界の未来
スピノザのひそみに倣っていえば、感受性の潜在的な力が強まれば強まるほど、活動の力も強まるのである。
われわれは影響を与えようとしている対象から逆に影響を受けるのであるから、能動性と受動性を相容れないものとして区別することはできない。
われわれが日常生活において他者との近接を完全にコントロールする状態にあることは、めったにない。その意味で社交の世界は予想がつかないのである。物および他者との望まない近接は、公的生活の特徴であり、公共機関を利用し混雑した街路を移動するひとにとっては普通のことであるように思われる。われわれはせまい空間でぶつかり合い、話をするときは手すりや他人に寄りかかり、行く手をふさぐものには何でも触れる。
いまはおそらく、分別という考え方自体に浸透している偏狭なナショナリズム的傾向を解除するときである。
命に限りがあるということを思い知る経験は、不平等をめぐる鋭敏な意識と結びついている。
われわれが環境毒素に反対するのは、そうすることで人間が中毒を恐れずに生存し呼吸できるからではない。水と空気はそれ自体、われわれの生命に重きを置かない、あるいはわれわれに仕えるのではない、命をもたねばならないからである。われわれはこの相互連関の時代に、硬直した個人主義を解体する。
居住可能な世界の成立に必要なのは、われわれが大地のあらゆる場所に住まないことである。つまり、人間の居住と人間による生産の限界域を定めるだけでなく、大地が必要としているものを知り、それに留意することである。
第三章 絡み合いーー倫理および政治としての
ラントグレーベにとって、「世界の観念を形成するには、それゆえに、起こりうる経験の無限性を体系的に構築する必要がある」ということは、覚えておくと有益かもしれない。そういったわけで、世界をめぐるどの概念も、概念の枠にもイメージの枠にもおさまらない無限の可能性によって際限のないものになっているのかどうか、ということが問題となる。◉地平という概念によって課されたあらゆる限界は、いわば地平を築き抜けそれを超える無限という観点から再考されねばならない。
なぜ現象学なのか、どの現象学なのか
それはまさに、社会的構造がいかに生きられたものになるか、そしてその構造が生きた存在において身体のレベルでいかに再生産されるか、を示すことである。
「哲学の役割は隠されたものを発見することではなく、可視的なものを可視化することである。いいかえれば、自分にあまりにも近いために、あまりにも親密なために、あまりにも深くつながっているためにわれわれが知覚できていないものを明確にすることである。科学の役割が見えないものをあらわにすることであるのに対し、哲学の役割は、われわれが見ているものをわれわれに見させることである」。
それは「「見慣れたもの」を多くのひとに対する圧迫の場に変える、共通経験としての不正を突きとめ、それを変容させるために、周縁化、圧迫、権力に関する経験を際立たせること」だ、と。
たがいに密接に結ばれている
われわれの生の間主観的な次元は「絡み合い」、「重なり合い」として、あるいは、おそらく交叉配列という比喩形象を通じて、理解されねばならない。 フッサール
交叉とは、二つの別個の存在が共有する領域であり、それ以外のあらゆる点では両者はたがいに明確に分離されている。
◉むしろ関係性は個としての主体を生み出すと同時に解体するのである。
◉触知可能な世界とは、五感を働かせる存在にとっての基盤であり、ひとが感じ取るものであり、その感覚のいかなる発生をも超えたものである。
われわれの生は身体と感覚のレベルでたがいに絡まり合っているというメルロ=ポンティの理解を敷衍すれば、私のなすこと、私の行為自体はたしかに私自身の行為であるが、とはいえ、それは同時に、私自身ではない何か、いいかえれば、この「私」がより能動的な「私」へ変容するための契機となるある種の他者性としての私自身である何か、との関係においてつねに規定される。
つまり、私とあなたは同じ規則にしばられており、われわれに共通するその規則への志向によって相補性にもとづく倫理的行為が可能になる。私はあなたに私に対してこうふるまってほしいと思う、そして、それに合わせて私もあなたに対してこうふるまう。つまり、ひとつの同じ行為が個人的になされると同時に没個性的になされる。
一連の仮説を通じて「私」と「あなた」は増殖する。
◉何かに触れるひとは触れられてもいるし、自分自身に触れてもいる。
それはまた、接触と呼吸のたびごとに、われわれを超え出て、われわれを包み込む、あるいは抱き込むものである。
その意味でコモンなものには、いわば区別と重なり合いという溝が刻み込まれている。周知のとおり、コモンな世界は、われわれがその世界を平等に分かち合うことを意味しないし、われわれがみな同程度に毒と伝染病にさらされていることを意味しない。コモンな世界とは、デニース・フェレイラ・ダ・シルバがいうように「分離可能性なき差異」なのである。
意識は世界をあるがままに認識するための構造をそなえており、世界は認識されるように意識に与えられている。
意識と世界がきわだって不適合であるとしたら、どうだろうか。適合か不適合かは、その世界がどの世界であるかで決まるのではないか。それは世界の限界がどのように設定されるか、世界の永続的な「事実」がどのように自然化されるかで決まるのではないか。そもそもわれわれは世界そのものと、この世界ーー不平等、生態系の破壊、死に駆られた資本主義、等々によって溝を刻まれたこの諸世界ーーとを区別できるのか。
社会理論は、境界の定まった身体を思い描く様々な方法が個人主義と関連していることを示すことができるが、精神分析は、境界をある程度想像的なものとして考えるための方法を与えてくれる。
われわれはたがいに完全には区別されない(また完全に同じでもない)。というのも、われわれは契約や同意に先立って、すでに他者の生にかかわっているからである。
◉毒性のある環境が身体に取り込まれ、身体形成の一部となるとき、身体の成長および骨と肺といった器官は影響を受ける。ここで語られていることこそ、身体の社会的な構築であり、場合によっては性の社会的構築である。これは〔われわれが接触する事物の〕表面にかぶせられた虚構のことではない。そうではなく、環境がわれわれの身体に入り込み、われわれの将来の生活を規定するありようである。われわれのいう根本的必要あるいは根本的欲求はつねに社会的に編成されているが、だからといって、その必要ないし欲求が完全に社会的に生み出されるわけではない。それとは逆に、必要や欲求が社会の編成をうながすのであり、欲求と社会編成とはいっしょに現れる。
可視的なものとは、私が見ることと私が見られることとが調和し総合される場なのであらる。この〔見る/見られる〕厄介な反転は、私における再帰性〔見ている私が私によって見られる〕が他者および対象との関係ーーおよび他者および対象の、私に対する関係〔他者(対象)を見ている私が他者(対象)によって見られる〕ーーと重なり合うときに現れる。
われわれはたしかにたがいに区別されてはいるが、この相互連関からはそう簡単に逃れられない。われわれは家や様々な援助ーーたとえば保険医療や生活インフラーーといった必要条件だけでなく、触れられるもの、見えるもの、吸い込めるもの、食べられるもの、摂取できるものといった領域にも依存し且つそれらを共有している。
したがって、課題は相互依存をたんに肯定することではなく、相互依存の最善のかたち、すなわち、根源的平等という理念を明確に具現する相互依存のかたを見出すべく、あるいは作り出すべく、集団的に努力することである。
功利主義は「このひとたちは死なせておけばよい」ということを、言葉を変えていっているにすぎない。
第四章 生者にとっての悲嘆可能性
メランコリアは、喪失という出来事を承認できない状態として説明されることが多い。通常この承認の失敗は、不満、落胆、自己非難となっておもてに現れる、無意識的かつ積極的に維持されたある種の否認の姿勢である。
生にはいかなる意味での価値が付与されているのか、また付与されるべきなのか。価値とは、いかなる評価基準になじむものなのか。
◉世界に属する権利は匿名的なものだが、まさにそれゆえに、強制的なものでもある。
見知らぬひとが耐え忍んでいる喪失は、誰もが感じる個人的喪失と共鳴するが、両者は同じではない。同じでないからこそ、共鳴が起こるのである。◉隔たりはつながりに変わるのだ。非嘆にくれる見知らぬひとたちは、見知らぬ間柄であるのに、ある種の集団性を生み出すのである。
アーレントにとって、人間は生まれながらにして、共通基盤のうえで共生するという条件のもとにあり、この条件は異種混淆性〔多種多様な人々の共生〕あるいは複数性〔多数の人々の共生〕という不変の特徴を帯びている。
われわれが世界を、いやそれどころか地球を、修復しようと努めるなら、世界は、生と死の分配によって売買し利益を出す市場経済から解放されねばならない。
それは、根源的な平等を実現するために、またグローバルな性格をもった非暴力的な命令を尊重するために、共有された生の条件について反省することであろう。
あとがき ーー変容
こんにちもっとも重要なのは、情動と行為の関係を生き生きとした者にする行為、反感と憤怒を集団の能力で革命の徴候に変える行為である。
◉破壊は個人の力の究極のしるしであって、自由のしるしではないーーウラジミール・プーチンならこの言葉に間違いなく同意するだろう。憤怒によって、共通の生あるいは共有された生、集団的自由という理想、大地と生き物ーー人間をふくむーーに対するケアが放棄されるとき、憤怒は個人的自由の表明である。憤怒は、個人であることを皮膚によって縛られたーー個々別々に分離したーー状態とみなす、個人的自由に関する考え方の最後のあえぎかもしれない。この考え方は、いうなれば、個人の消費と快楽を促進する場合を除いてあらゆる開口部を閉じるという空想、世界を取り入れるものと世界に取り入れられるものは自分ひとりが管理でき決定できるという空想である。そうした「個人」は、自分は有毒な空気や土から、病原菌やバクテリアから隔てられていると思い込んでいる。◉多孔性という特徴をもつ身体は純然たる境界線ではないし、純然と開かれているわけではない。それは、その二つの状態のあいだの複雑な駆け引きであり、呼吸、食べ物、消化、幸福ーーつまり、セクシュアリティ、親密さ、たがいの身体の取り込み、にとって満足のいく状態ーーが(自分にとっての、世界の、世界による)必要条件となる生の様態のなかに位置づけられている。
われわれは生きていくためにたがいを必要とする。いいかえれば、他人の気孔の内部に取り込まれる必要があり、他人を取り込む必要がある。というのも、われわれが世界に対して開かれたものとして、境界の定まった自己とその自己のいわれは、われわれを支える世界との、ひとつの大地との、人間の居住地をふくむその大地の生物環境との、関係のなかで生きている。この生物環境は、世界に積極的にかかわる政治に支えられている。ここでいう世界とは、われわれがみな感染、汚染、警察による背後からの首絞めを恐れることなく呼吸できる場所、われわれの呼吸が世界の呼吸と混ざり合う場所、自由でシンコペーションの効いたこの呼吸の交換が共有されたものーーいわば、われわれのコモンーーとなる場所である。
原注
序論
免疫システムの働きは「異種混交的な構成要素」に依存するだけでなく、自己の統合のためにそうした要素を必要とするからである、と。つまり統合という概念は、その定義に異種混交性をふくまなければ、意味をなさない。
第三章 絡み合い ーー倫理および政治としての
(1)フッサール現象学における「括弧入れ」は、世界についての自明視された前提を、主題的問題としての世界を失うことなく疑問視することをともなう。だが、括弧入れにおいて目指されているのは、世界の本質と、われわれが世界について獲得する自然化された前提の本質とを把握することを可能にする視点から、世界と世界に関するわれわれの前提とにアプローチすることである。
「メルロ=ポンティがきわめて的確に述べているように、人間とは自然の種ではなく、歴史的観念なのだ。女は固定した現実ではなく、生成である。女を男と比較する場合も女を生成として捉えなければならない。つまり、女の可能性を明確にするべきなのである」。〔ボーヴォワール『決定版 第二の性ーー Ⅰ 事実と神話』
訳者あとがき
生の可能性の条件と不可能性の条件との短絡に世界の素性を見出し、それが「価値の破壊」として感覚的に現象することを「悲劇的」と呼んだ。
バトラーがシェーラーを導入したことの意義は大きい。
「コモンな世界は、われわれがその世界を平等に分かち合うことを意味しない……」
つまり、コモンなものとは「悲劇的なもの」の別名なのだ。
私は超越論的主体であるまえに、「身体に具現した」存在としてある。バトラーはこの身体の特徴を「多孔性」という言葉で表現する。身体は穴だらけであり、その穴を通じて身体の内と外はつながり、身体の境界なるものは幻想であることが判明する。この身体的交通のありようを、バトラーはメルロ=ポンティのいう「絡み合い」という概念あるいは比喩に接続する。コモンであることは、他の身体、物と絡み合うことであり、それが生存の条件でもあり、死の条件ともなる。その意味で「悲劇的なもの」の現象を生み出す世界は「肉体感覚を伴わない」どころか、その感覚と一体である。メルロ=ポンティが「交叉」という比喩形象によって名指した身体間の関係性は「個としての主体を生み出すと同時に解体する」。つまり「交叉」もまた「悲劇的なもの」なのであり、ゆえに、われわれが属し且つわれわれのなかにある世界は身体的なのである。
この世界はどんな世界なのか。忘れてはならないのは、バトラーにとってこのフレーズはひとつの問いであるだけでなく「抗議の叫び」でもある、ということだ。
シェーラーによれば、「悲劇的な出来事のまわりに漂うあの客観的悲哀性」は「見渡しがたさ」という性質をもつ「悲劇的なもの」。なぜならこの出来事の例示する「世界構造」自体が「見渡しがたい」ものだからである。「それゆえ悲哀は出来事を越えて、いわば地平のない無規定な広がりの流れてゆく」「悲劇的なもの」。悲劇的な悲哀はそれゆえに、悲嘆不可能性を乗り越えるかもしれないのである。バトラーは本書のいたるところで「グローバル」という言葉を使っているが、われわれはそれをシェーラーのいう「見渡しがたさ」のいいかえとして読むことができるだろう。「グローバルな世界感覚」がバトラーの示唆するように「根源的で実質的な社会的平等」の必要条件であるとすれば、その感覚は「悲劇的なもの」を現象させる世界に対する感覚と別物ではない。
二〇二三年一一月
中山徹
『この世界はどんな世界か? パンデミックの現象学』ジュディス・バトラー/著、中山徹/訳
鏡について | 視覚的空間の隔たり
平面である鏡がなお深みをもち、ひとつの空間でありうること、想像力にとって、鏡の主題はそこにしかありえないのである。そしてそれこそが、日用品でありながら、鏡が特権的な地位を与えられてきた理由だろう。
落ちる、鏡のなかに落ちる……
だが、われわれはどこに落ちるのか。鏡の空間はどこにあるのか。われわれはどこにいるのだろうか。それはここではない、とはいえ、他処でもない。とすれば、しかし、それはそのとき、どこでもないところがここであり、ここがどこでもないところであるからなのだ。ここ、この現実の空間に重ね合わされ、それを蝕んでしまうもうひとつの曖昧な空間。ここであり、しかも、どこでもないところ。
距離は見ることの可能性である。見ることが可能になるためには、わたしと対象との間に距離を必要とする。それはわたしのイニシアチヴに属し、またそのこと自体によって、同時に対象に属するものともなる、いわば透明で、機能的な空虚ともいえるだろう。
距離が見ることの可能性であるならば、〈見ないことの不可能性〉(モーリス・ブランショ)、それが鏡であり、その魅惑なのだ。なぜなら、魅惑とはまさしくわれわれから見ることをやめる可能性を奪い去るものにほかならないのだから。
この見ることをやめることができない眼、閉じることを忘れてしまった眼が見ているもの、それはまさしく鏡に映っているもの、対象そのものではもはやなく、イマージュ、すでにそれ自体イマージュと化してしまった対象でなくてなんだろうか。
鏡のなかに落ちる。だが、われわれはどこに落ちるのか。イマージュの空間、それ自体イマージュ化した空間。われわれがそこから排除され、近づくことのできないこの純粋な外面の輝き、鏡。
空虚はもはや外側から限定され、閉じ込められるのではなく、いわばそれが自体の凝集力によって自らを支えながら、そこに立ちはだかっている。そして、この余白は、この空虚の不透明な凝結の外にある白昼、見ることの可能性である日常的世界の追憶をとどめているかにみえる。
『想像力』のなかで、サルトルは古典的なイマージュ論を批判して、そこに〈内在性の錯覚〉を指摘した。
一言でいえば、イマージュとは一段落劣った事物なのだ。
ここでは、イマージュとはつねに対象の再現であることが自明の前提になっている。
イマージュの問題は、根源的に、ここ、いまがあらわす対象の存在ではなく、いわばイマージュそのものの現前、なにものかの再現ではなく、単純に似ていることにこそありはしなかっただろうか。
再現とはつねになにものかの再現である。いいかえれば、その背後につねに実体の自己同一性、この現実の存在があるだろう。というよりも、われわれは実はこの背後に存在すべき対象しか見てはいない。似ていることもまた、なにかに似ていることであるとしても、しかしそこであらわれるのは逆に、まさしくこの自己同一性の間隙なのだ。似ていること、それはあるものがそれ自体であると同時に、それ自体からのずれであること、それ以外のところでそれであることであり、あるいはむしろ、この自己同一性の間隙からのある非人称の出現、それをわれわれは似ていることと呼ぶのだろう。
われわれが見ているのは、背後にあるべき対象ではなく、そのような背後を失った純粋なあらわれなのだ。
「いかにして絵画をファースト・ハンドの〈現実〉にするから」
本来イマージュである絵画をそれ自体がオブジェと化し、それゆえにイマージュを消滅させる結果となったのだ。 逆に、いわば再現以前のもの、イマージュそのもののこの現前、この純粋な外面の輝きに返すためなのだ。
イマージュの現前の実体化
今日の絵画にみられるものは、一見、「事実の世界」への復帰であるかのようにみえて、しかし、むしろイマージュのイマージュそれ自体への復帰というべきだろう。
「読む行為は、読まれている紙の上に、しかもそれと同時に他処に位置している。われわれに一冊の本を規定することをえさせてくれるのはこの他処である」。
書く行為は読む行為によって二重化されなければならないのだ、そのときに成立する〈中間的な〉空間、すなわち〈本〉(だが作品ではなく)。作家が、あるいは作品がーあの自己表現が重要なのではもはやない。作家はなにごとかを伝えるために書くのではなく、そしてコミュニケーションては作家が読者に伝えることではない。重要なのはこの本の空間であり、この本の成立そのものこそがコミュニケーションにほかならないのだ。
〈似ている〉という観念、〈見えるとおりに〉描くという立場、近代以来、これほど美術の上で虐待されてきたものがあるだろうか。
観察しようとすれば、イマージュは消滅してしまうのではないか。
「イマージュがわれわれに与えられるのはただそれが同時にわれわれに拒まれているとい限りにおいてのみである」。
ジャコメッティはイマージュのこの不安、イマージュのこの空虚を捉えようとする。
イマージュとはこの対象の遠ざかりそのもの、遠ざかりの現前なのであり、この遠ざかりはたんに対象が同一の対象であることをやめずに場所だけを移動する(ここにない、よそにある等々)ということではなく、つねに対象のさなかで起り、対象を内部から蝕んでいるのだ。
「近づけば、事物はいっそう遠ざかる」とジャコメッティはいう。それはかれが近づいているのが事物ではなく、イマージューこの遠ざかりそのものだからだ。そして、彼がそのなかを進んでいる空間それ自体がすでにイマージュとは化しているからだ。
似ているといい、見えるとおりにといい、それはもはや対象そのものの次元の問題ではなく、むしろこの踏破することのできない距離、この鏡のなか、イマージュというこの不可能性そのものの体験だろう。
鏡、それに想像力にとって、もはや何者かのイマージュなのではなく、イマージュそのものの根源的なイマージュにほかならないのだ。
芸術はこの「芸術は……ではない」という形であらわれつづけることをやめない。それは「ない」という不在そのものの現前である。
芸術はもはや可能性としては成立しえない。しかも、それは芸術の終末を意味しないのだ。逆に芸術はいよいよその影をあらわす。影ーもはや存在することの可能性ではなく、存在しないことの不可能性。それは不可能性そのものの現前であり、その体験にほかならない。
コミュニケーションという非人称的な出来事
われわれのうちから外へ出、いわばひとり立ちしてしまったこの孤独な待つこと、非人称的な待つこと、しかし、それはまた、なんとすぐれて鏡のイマージュであることだろうか。鏡、あるいはわれわれがそのなかへ入ってゆくこの〈環境〉。
ある非人称の時代
主体=客体という二元論と、そして認識→伝達(現実の主体的再現)という二重過程との上に成立してきた近代の古典的な認識論そのものの崩壊。
見ることの可能性を、見ないことの不可能成立に向かって解き放つこと
ー視覚的空間は諸対象をたがいにへだてる。
ー触覚的空間はわれわれを対象からへだてる。
「見ること、聞くことはなにごとでもない。認めること(あるいは認めないこと)がすべてなのだ。わたしが認めないものとの間に、わたしがいる。そして、わたしが認めないもの、わたしはそれをいつまでも認めずにいつづけることだろう。わたしが愛するものには、わたしが認めることを愛するものと、わたしが認めないことを愛するものとがある」『シュルレアリスムと絵画』
眼によって、しか見られ、あるいは織られるのではなく、認められるべきこの合図。
概念は現実に存在し、したがっていずれは失われ、死滅すべき、この事物、この存在から永遠の本質のみを救いあげる。だが、概念はついに存在するもの、現存とは無縁に終るだろう。
言語もまた直接性の否定だというヘーゲル以来の認識がある。
鏡の手前で右手をあげる。すると、打てば響くように、鏡の向こうの〈私〉が左手をあげる。親密な他者としての自己の鏡像。それらとの対話ー弁証法は、予定されたとおり、自己同一性の確認に向かっていくだろう。
だが〈手前〉とか〈向こう〉とかいうのはいったい何なのか。むしろ、そこに純粋な鏡の表面しかないのだとしたら?
こうして宮川淳は、鏡のおもて、その「底なしの深さのなさ」に向かって降りていく。自己でも他者でもないもの、いやむしろ、〈私〉てあると同時に〈私〉でないもの、この中性のシミャラクルの出現ー「自己同一性の間隙からのある非人称の出現」ーに立ち会うために。
鏡はあらゆる遠近法をはぐらかす。
「鏡・空間・イマージュ」 宮川淳