小動物とエクリ
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それを口にすることーー 何カモ知ラナイデソレヲ口ニスルコト ⑤

 

 

 

第二五回講義

[31]決断はキルケゴールに由来している。彼において決断は信仰と関わっていて、信仰なしには決断は宙ぶらりんになる。

行為のための自由な事行という、フィヒテ的観念論への後退。

◉客観性に対する無頓着さ、すなわち政治的な状況における判断の素朴さ。政治的な状況は行為へのたんなるきっかけに過ぎない。
 この態度は非合理性へと運命づけられている。

実存主義は、すでにその名称において、人間のたんなる現存在を二重化している。
あたかも、実存するのとは別の選択肢を現存在が有しているかのような態度がその心情となる。
ーー意味は、その不在のゆえに、同語反復となる。

[33]〈現実存在スル〉exsistereという語の派生語をスローガンに掲げるものは、身体的な経験や自己経験といった現実、役割とは別の自己存在といったものを、疎外された個別科学に抗して、回復させようと願う。物象化に対する不安から、事象的なものから身が退けられる。

主[観]と客[観]の分離は、たんなる思考の行為によっては廃棄されえないし、人間に訴えることによっても断じて廃棄されえない。

◉概念に身を委ねるのを拒むものを、その概念のもとに包摂することで同化させたり、揮発させたりするのではなく、概念をつうじて非概念的なものに付き従うこと、それがなされねばならないだろう。

[34]◉私が考えている手続きの、遠い原像となっているのは、事象をカテゴリーで覆うのではない名前であるーーただし、その際名前は認識の機能を代償として失うのだが。
 ◉切り縮められることのない認識は、それを断念するよう教え込まれてきたもの、名前がそれを所持することで暗く覆い隠してしまう当のものを、欲する。断念と幻惑はイデオロギー的に補完しあう。ーー「それを口にすること」ーー(何カモ知ラナイデソレヲ口ニスルコト〉
 ◉叙述の重要性とは、語の選択に神経質なまでに厳密であろうとすることであるーーあたかもそれらの語が事象に名前を与えるべきであるかのように、それらの語が事象の名前であるかのように。その「このもの」はそれ自体において概念によって媒介されているのだから、言葉はこの媒介を手始めとすることができる。
 言葉はその不透明なものに近づく。

哲[学]は肯定的なものをある否定的なものから汲みだす。すなわち、哲学がそれに対して敗北を認め、観念論がそこから逃げ出すあの解きほぐしえないもの、それが「別様ではないかくかくのあり方」においてはまたしてもやはり一つの物神、撤回不可能な存在者という物神となる、という事態から、哲学は肯定的なものを汲みだす。
 この物神は、端的に「かくかくであって別様ではない」のではなく、さまざまな条件のもとでそのようになったのだ、と証明されることで解消される。
 この生成は事象のうちに内在しているのであって、概念に固定的に設定されたり、[35]結果から切り離されたり、忘却されたりしてはならない。
 この点に、観念論的弁証法と唯物論的弁証法のアナロジーが存在する。
 観念論にとって、直接的なものの内的な歴史は、そのつど直接的なものを正当化する。

さらなるメモ書き

[35]否定弁証法の力は、事象において実現されていないもののもつ力である。
 言葉に戻って。名前がその理念からすれば事象それ自体であるのに対して、語はしかし概念にとどまる。
 ◉語と事象それ自身のあいだには空隙。
 これに対応して、語の選択にも叙述全般にも、相対性と恣意性の残滓が存在する。もっとも厳密な語であってもしかし、自分自身と同一ではない。

さまざまな概念のみが、当の概念が妨げていること、〈傷ヲ付ケテ癒スコト〉を実現することができる。

概念には規定可能な欠陥がそなわっている。
このことが、他のさまざまな概念による党の概念の修正にむかわせる。
名前のもつ希望は、諸概念からなる星座的布置に存している。この布置は、概念を訂正するために、一つ一つの概念を自分のまわりに取り集める。
限定的否定をつうじて哲[学]の言葉は名前に近づいてゆく。

[36]

論争もまた、新たな作用連関ではなく、一つの形式である。
 まさしくこの点に、根拠づけられた自発性の過剰さがある。

◉直接的なものと思い込まれている主観性。純粋な現在という理想は、時間のことを考慮すると、空間との関連で感覚を考慮することに対応している。

ベーコンとデカルトの類縁性。

[37]

伝統は記憶としての認識に明確に関与している。過ぎ去ったものの保持なくしては、いかなる認識も、形式論理的な認識でさえも、存在しない。カントの演繹。

時間内的に進行する、動機づけられた運動としての思考形態は、ミクロコスモスとして、マクロコスモス的な歴史の運動と等しい。
◉思考とは歴史の内面化である。

無時間性が意識の幻惑の頂点である。
これが、自律性というモティーフの真の限界である。

[38]
ーー他律性は自律性の抽象的な対立物である。

テクストにそくして哲[学]は伝統と通約可能となる。

◉哲学は象徴も象徴されているものも実体化してはならない。
真理とは立ち現われるものであり、それは聖なるテクストへの関係を世俗化すること。

哲学の最近の歴史のなかではこの本質はレトリックとして追放されている。

[39]

レトリックは叙述という要請のうちに生き延びている。叙述は、その形式には無頓着な、伝達のために固定された内容とは対照的である。

思考におけるミメーシスに対するタブーの規範は、形式論理学である。

哲[学]から言葉を廃棄しようとする傾向(すなわち哲学の数学化という傾向)に、哲学における言葉の努力は対抗する。ーー言葉による経験がたいていの哲学に欠如していることの指示。

◉言葉の傾斜にただただ従うのではなく、反省をつうじてそれに抵抗すること。
しまりのない言葉と学問的身振りは手を取り合って進む。

[40]哲[学]における言葉の廃棄は思考の脱神話化ではない。 
 言葉を放棄するとき、哲[学]は、たんなる記号作用とは異なった自らの対象に対する関係を有しているものを、放棄する。
◉もっぱら言葉としてのみ、類似したものは類似したものを認識することができる。

◉言葉は道具、慣習であるが、恣意的なものではなく、類似性という契機をふくんでいる。

◉言葉は、思想と事象のあいだで両者を分離させるものであるとともに、この分離に抗して動員されうるものでもある。
 これが言葉の分析(意味の分析)としての現象学の真理契機である。
 表現の正確さは、思考の欠陥と見えるもの、すなわち言葉との連[関]を、我がものとする。

[41]可能性の意識であるユートピアは、歪められていないものに固執する。

一片の現存在である思考は、この可能的なものに仕える。

すなわち、唯一はじめて近いものであるような、もっとも遠いものという一点において。

 

 

補填
(1)[1]精神的経験の理論について

ヘーゲルの試みが失敗したあとでは、弁証法的な思考がどのようになされるべきか、釈明されねばならないだろう。

とはいえ、観念論は弁証法の特殊な形態だったのではない。むしろ弁証法は絶対的な主観の優位と結びついていて、その主観の力が概念のそのつどの個々の動きを、また総体としての弁証法的歩みを、否定的に引き起こすのである。

(2)端的に無規定的なものとしての存在が無と同一視されるのは、その無規定的なものが無規定性に置き換えられること、したがってすでにある概念的なものに置き換えられることによってなのである。ヘーゲルはこうしてあらかじめ概念の優先性を確保しておいて、そののちにこの優先性をあたかも作品総体の結果として生じさせるのである。これは彼がやる悪ふざけの一つである。

内容にそくしたヘーゲルの哲学が基盤とも帰結ともしていたのは、主観の優位、あるいはヘーゲル論理学の導入部での考察におけるよく知られた表現では、同一性と非同一性だった。一定の個別的なものが精神によって規定されるのは、その個別的なものの規定がまさしく精神だからである、とされる。

(3)ヘーゲルの強調とは反対に、観念論的な装置によっては言い表わすことのできないさまざまな経験を隠しているのかもしれない。

◉概念が[4]切実なものとなるのは、概念が到達しえないところにおいてであって、概念の抽象化のメカニズムが切り捨てるもの、最初から概念の実例であるのではないものに直面した場合である。

フッサールは確かに、本質に気づくというあり方を、一般化をこととする抽象化に対して鋭く際立たせた。

その一方で、その経験が向けられている本質は、(4)通常の普遍概念と何ら異ならなかった。本質直観の取り組みとその〈到達目標〉のあいだの非弁証法的な矛盾に、彼は陥ったのである。
 両者の脱出の試みが不十分であった原因は、両者が観念論を抜け出せなかったことにある。

概念の優位とは超越論的な〈自我〉の優位にほかならない。両者が空しく意図していたことが、両者に抗して固執されねばならないだろう。哲学において肝心なのは、ヴィトゲンシュタインとは反対に、語りえぬことを[5]口にすることなのである。

哲学的自己反省という作業はこのパラドクスに向けられている。

◉概念は自己自身を乗り越え、すなわちあらかじめ準備して切り捨てるという自らのあり方を乗り越え、そのことによって概念を超えたものを把握しうるということ、そのようなことが哲学にはなお可能だということ、このへんの信頼のどんなに疑わしい残余であれ、哲学にはそれが不可欠である。

しかし、概念の抽象的な領域を超えて、概念をつうじて真理として出会われるものは、さまざまな概念によって抑圧されたもの、投げ捨てられたもの、侮蔑されたもの以外を舞台とすることはできない。◉認識のユートピアとは、概念を用いて、概念に同一化することなく、概念を欠いたものを開示することだろう。

〔5)

むしろ哲学は、異質なものを既成の概念に組み込むのはなく、自分にとって異質なものに、見せかけではなく文字どおり、沈潜しようとするのである。哲学はその異質なものにできるだけ密着しようとする。

どこであれ哲学的内実を掴み取ることができるのは、それが哲学によって強要されることがないところにおいてである。哲学は本質を自らの有限な諸規定のうちに呪縛することができるなどという幻想は、捨て去られるべきなのである。

伝統的な哲学は自分の対象を無限なものとして保持していると信じ、そう信じることで哲学としては有限なもの、完結したものとなるのである。

あらゆる個別的なものや特殊的なものが、そのものとしては繰り返し哲学の手をすり抜けるあの全体を、ライプニッツのモナドのようにーーただし予定調和に従ってたが、それ自体のうちに映し出しているという、保証のない期待である。(6)

◉認識はその対象を何一つ丸ごと所持しているのではない。認識は全体という幻影を用意してはならないが、あくまで認識において真理は結晶するはずなのだ。したがって、作品と概念のあいだに同一性を作り出し、作品を概念のうちに取り込んでしまうことが[7]、芸術についての哲学的解釈の課題などではありえない。むしろ、作品は哲学的解釈のうちで自己を展開するのである。

原理的に哲学はつねに道に迷う可能性をもつのであって、だからこそ哲学は何かを獲得する可能性をもつのである。

概念が排除してきた事象の代弁、すなわちミメーシスという事象の代弁を概念が果たしうるとすれば、それは概念が自分自身の振る舞い方のなかにミメーシスのいくらかを獲得することによる以外にはありえない。

[7a]自分自身のうちで反省を行なう素朴でない思想は、自分がこの契機を完全に所持していないにもかかわらず、あたかも完全なるに所持しているかのようにつねに語らねばならない、ということをわきまえている。だからこそその思想は、遊戯的なものという特徴を帯びるのであって、思想はこの特徴を否定ることができない。

◉芸術の仕事において、直観が不気味な稲妻のように孤立した形でうえから不意打ちすることは、ほとんどない。直観は、見とおせない形で、作品の形式法則とともに育ってきたのである。直観を取り出して標本にしようとすれば、直観は限界値以上のものを提示することはないだろう。

芸術を模倣しようとする哲学、自ら芸術作品であろうとする哲学は、それだけで救いがたいものだろう。

◉芸術と哲学が共通点を有するのは、形式や形象化の手続きにおいてではなく、偽りの結晶体を禁じる振る舞いにおいてである。

哲学の使命とは、概念が何らかの形ですでに事象を所持しているという錯覚に譲歩することなく、概念をつうじて概念を乗り越えてゆこうとする努力することである。

ヘーゲルが見逃すことがなかったとおり、深さもまた弁証法の一契機であって、孤立した性質のものではないのだ。

◉神学的な〈到達目標〉はすりかえられる。あたかも、思想の尊厳を決定づけるのはその帰結、すなわち超越の確証であるかのように。あるいは、まるで世界からの撤退がただちに世界根拠の意識と一つであるとでもいうように、内面性への沈潜、つまりたんなる対自存在が、思想の尊厳を決定するかのように語られるのである。

このような◉幻影に対する抵抗こそが、深さの尺度であるだろう。現存のもののもつ力は意識を跳ね返すファザードを築き上げる。

(9)自分が手に入れることができるものを超えた、思想の思弁的な過剰さ、それこそが思想の自由である。この自由は、あらゆる真理の条件である主体の表現衝動に、すなわち苦しみを雄弁たらしめようとする欲求に、根ざしている。というのも、◉苦しみとは主観にくわえられる客観性の重圧だからである。自らの表現という、主観がもっとも主観的なものとして経験するものは、客観的に媒介されているのである。

すなわち、哲学に不可欠の表現契機、非概念的ミメーシス的契機が外化されるのは、叙述ーー言葉ーーをつうじてのみなのである。◉哲学の自由とは、自らの不自由さが言葉になるのを手助けする能力以外の何ものでもない。
表現契機がそれ以上のものと思い上がるなら、それは世界観へと堕落する。

受動的な直観の敵対者である思考という概念それ自体のうちには、努力ということが内包されているのであって、この努力はすでにして思考のもつ否定性であり、受動的に受け取るよう自分に求めてくるあらやる直接性に対する反抗である。

◉或るものがかくかくであるという判断は、主語と述語の関係がその判断[13]に表われていると違ったものであることを拒んでいる。これらの思考形式はたんに存在するもの、[所与のもの]以上のものを望んでいるのだ。

◉思考は自らの総合作用を行使しつつ対象に暴力をくわえながらも、同時に自らの向かい側に潜んでいる潜在的なものに付き添い、自分自身が打ち砕いてしまった断片に関して〈原状ノ回復〉という理念に無意識のうちに従っているのである。この無意識的なものが哲学によって意識化されるのだ。なぜなら、たんに存在するものに対する思考という行為の抵抗、主観のこの暴力的な自由は、客観のうちに存在している、まさしく客観へと整除されることで客観から失われてしまった当のもののことをも、考えているのだからである。

さまざまな概念のほうこそが、その星座的布置(コンステラティオーン)のうちに概念を欠いたものを開示するために(13)、取り集められねばならないのである。

◉現行の形態での理論を廃棄するためにこそ、理論は前提にされ利用される。理論の消失こそ、変容された理論の理想だろう。覆われていないものへの志向性は、開かれた弁証法、ないしは未完結の弁証法という志向によって示される。

開かれたものは、閉鎖された状態、転倒されたあり方を徹底して意識することをつうじてのみ、思考されうるのである。

丸川体系とは肯定的な主観ではなく[16]否定的な客観性なのである。

〈ラチオ〉は、体系として自己を貫くために、自分の関係するものの質的な諸規定を潜在的に取り除き、客観性と和解不可能な敵対関係に陥る。

もはや現実は構成されてはならない、なぜなら現実はあまりに根本的に構成されねばならないだろうから、というわけである。

存在するもの以上のものを現象のうちに認めるまなざし、しかもその現象がもっぱら存在することによってそのようなものを認めるまなざし、それこそが形而上学を世俗化させるのだ。哲学が最終的に行き着く断片という在り方が、観念論によって幻想的的に思い描かれているモナドをはじめてそれ本来のもの、すなわちそれ自体として表象しえない総体性の、特殊的なものにおける表象とするだろう。

[21]対象と一体化しているなどともはや欺きはしない。そのような思想は、自らを絶対的と思い描く場合よりも、いっそう独立的となるだろう。自己を絶対化する思想においては、専制的な態度と従順な態度が混ざり合い、一方は他方に依存しているからである。

対象自身のうちで待ち受けているものが語り出すためには、介入が必要なのだ。その介入の意図はあくまで、外部から動員された諸力が、最終的には現象に持ち寄られたすべての理論が、対象において自分を使い果たすことである。哲学の理論は、自分自身の終焉を念頭に置いているのである。

◉目眩を引き起こすものとは開かれたものが与える衝撃であって、覆われたもの、つねに同一のものにおいては、開かれたものはつねにそのような否定性、すなわち真ならざるものにとっての非真理として、必然的に現われるのである。

具体的なものについて哲学がなされるべきではなく、具体的なものの周りに概念が集まることによって、具体的なものから哲学がなされるべきなのである。

哲学は自分を種々のカテゴリーへと向かわせるのではなく、ある意味でまずもって自分を構成〔作曲〕しなければならない、ということになるだろう。

不動の根本原理を支えとするのではない思考は、総合という概念に鋭く対立する。

ヘーゲルの総合は徹頭徹尾、この運動のもつ不十分さへの洞察である。

ヘーゲルは、カントに抗して、総合の優先性に制限をくわえた。彼は多様性と統一を、一方なしには他方もありえない契機として認識した。両者の緊張は否定をつうじて生み出されるのである。

統一的思考の自己批判的な転回は、概念を
、したがって総合を必要としているのであって、好き勝手に振る舞えるかの態度でそれらを中傷してはならないのだ。

統一を乗り越えるのは統一のみなのである。

開かれた認識は、統一化する主体は廃棄はしない。客体の経験においてそのような主体は消え去りはしないのだ。(26)主体自身の総合が欲しているのは、プラトンがよく心得ていたとおり、自分自身から総合を望んでいるものを、間接的に、すなわち概念を用いて、変容し、模倣することなのである。

非概念的なものはその概念と同一でないということが正当に評価されるのは、認識の実践によってであり、その認識が具体化されることをつうじてである。

とにかく存在論があるとすれば、すなわち一つの不変なものがあるとすれば、それは打ち続く敵対関係に関する否定的な存在論だろう。

「自分自身を理解していない思想だけが真なるものである」。

しかし、特殊的なものの救済は、特殊的なものから解き放たれた普遍性なしには、そもそもはじまることもないだろう。

内容の優位は、方法の必然的な不十分さとして現われるのである。哲学者たちの哲学を前にして無力に陥らないために、普遍的な反省という形態で方法として語らねばならないこと、それが正当化されるのはもっぱら遂行においてであって、このことによって方法はふたたび方法としては否定される。

主観と客観の分離はたんなる思考の行為によっては廃棄されえないし、まして人間への還元によっては到底廃棄されえない。

断念と幻惑はつねにイデオロギー的に補完しあうのだ。あたかも言葉が事象に名前を与えるべきだというように、認識を果たす語の選択に神経質なまでに厳密であること、それは、哲学にとって叙述が外的な媒体ではなく本質的なものであることの、きわめて重要な根拠である。

認識上の根拠は、〈個物〉自身の弁証法的本質、〈個物〉がそれ自身において概念によって媒介されていることにある。この媒介が、〈個物〉における非概念的なものを把握する、出発点なのである。
 存在しているもののうちに潜んでいる概念的なものに気づくことによって、認識は不透明なものに潜在的に到達する。

哲学の言葉は名前を否定することによってなまに近づくのである。

主観性の直接性と言われれるもののうちにあらゆる認識の基盤を見て取ろうとしはじめて以来、同様に現在を直接性とする呪縛のもとで、思想からその歴史的な次元を追い払おうとする努力がなされてきた。

◉客観化し静止状態に置くことによって対象を〈白紙〉にしたとたん、認識は対象を歪ませているのである。認識それ自体、すなわち内容から独立した形式としての認識でさえも、自覚されていない記憶としての伝統的に関わっている。その問いのうちに過ぎ去ったものについての知が蓄えられたり、推し進められたりしているのでないなら、いかなる問いも問われることすらないだろう。

伝統への〈関与〉が果たされるのは、哲学が批判するテクストによってなのである。

思想が自分の基体を使い果たすところ、聖なるテクストの取り戻しようのない原像を世俗化するところ、そういう場所で解釈は真なるものを探すのである。

哲学と科学の同盟が潜在的には言葉の廃棄に行き着くのだとすれば、哲学が生き延びることができるかどうかは言葉にかかわる努力と密接に関係している。それは言葉の傾斜に盲目的に従うことによってではなく、それを反省することによって果たされる。

すなわち、もっぱら言葉として、類似したものは類似したものを認識しうるのである。

弁証法は、歴史的には思考の欠陥と見えたもの、何ものも完全に断ち切ることができない言葉との結びつきを、思想の力として我がものとするのである。どんなに素朴であれ、語の分析によって真理を確保しようとしたとき、現象学に魂を吹き込んでいたのは、このことだった。

論理的な契機が形式的な傾向に従うのに対して、弁証法においてレトリックという契機はら弁証法の内容に加担する。

だからこそ、◉現存のもののただなかでは可能的なものは抽象的に見える。消すことのできない色彩は存在しないものからやって来る。一片の現存在である思考は、この存在しないものに仕える。そのような思考は、どんなに否定的な仕方においてであれ、この非存在に到達するのである。(40)この理念において、もっとも遠いものを携えたすべての哲学は収斂してゆく。もっとも遠いものにしてはじめて近いものであるだろう。哲学は受容するプリズムである。

 

 

編者註

「というのも、事柄はその目的に尽きるのではなく、その遂行において存在しているのであって、結果は現実の総体ではなくその生成と一つだからである。それ自体として見るなら目的は生命を欠いた普遍的なものであって、それは傾向が自らの現実性をいまだ欠いたたんなる衝動であるのと同様である。そして剥き出しの結果とは、その傾向を背後に置き去りにした屍である」〔ヘーゲル『精神現象学』〕

アドルノの哲学を規定したいたのは「自然支配および自然支配をこととする理性への批判というモティーフ、自然との宥和というモティーフ、自然の一契機としての精神の自己組織というモティーフ」『キルケゴール』だった。

「自然を破棄することによって自然の強制を打破しようとするあらゆる試みは、ひとえにますます深く自然な強制のなかへはまり込んでゆく。ヨーロッパの文明の道筋はそのように歩んできた」『啓蒙の弁証法』

支配に対する批判は、アドルノが語ってきたすべての思想の動機である。支配がそもそも自然支配というモデルに従って形成されてきたとすれば、自然支配はつねに第一に人間自身の自然〔本性〕の支配を意味していた。自然支配の原理は、自己保存という原理から切り離すこともまったく不可能である。

アドルノによればこの本質は「もっとも洗練された姿」で、一見すると「純粋に論理的な同一性原理」と思われるものにまで、浸透している『啓蒙の弁証法』。

「精神それ自体が無化された自然的な生であって、神話に捕われているのである」『キルケゴール』

「生きている実体とは、真実には主体であるところの存在、あるいは同じことだが、それが自己自身を定立する運動、あるいは他となることを自分自身と媒介するものであるかぎりにおいてのみ、真の意味において現実的であるような存在である。生きている実体は、主体としては単純な否定性であり、まさにそのことによって単純なものの分裂であり、あるいは、この没交渉な区別とその対立をふたたび否定するところの、対立した二重化である。根源的な統一そのものや直接的な統一そのものではなく、このような自己を再興する同等性ないし他なる存在における自己自身への反省、それが真なるものである。『精神現象学』

「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」ヘーゲル『法哲学講義』

自由と理性はたがいに相手なくしては無意味である。

「言葉それ自体は、真なるものの指標ではないが、しかしやはり虚偽なるものの指標ではある」『三つのヘーゲル研究』

体系はつねに、新しいものに何の余地も残さないほど閉じたものであらねばならないのだろうか。

「存在するものを概念において把握すること、それが哲学の課題である。」ヘーゲル『法哲学講義』

「思考は実践に対して自己充足しているのです」。

「ヘーゲルの哲学は、あくまで哲学にとどまるためには、この自己意識に達することを断念しなければならなかったのだ」『三つのヘーゲル研究』

「思考は一つの行為であり、理論は実践の一形態である。純粋な思考というイデオロギーのみがこのことを欺くのだ。思考は二重の性格を有する。すなわち、内在的に規定され厳密であるとともに、現実のただなかで実際の行為様式の一つであるというあり方を避けがたく有しているのである」。

「論理を最終的に言葉に置き換えること」『認識論のメタクリティーク』

「むしろ自然支配を即自存在と取り違えるという科学のあやまりが、さまざまな思想の収斂という、科学の誤謬を訂正する経験を動機づけているのである」『否定弁証法』

「世界の客観的解釈が開示されるところまで、このようにして現実的なもののすべてに深く入り込むことが必要だという意味で、現実の世界はおそらく一つの課題なのだろう。このような沈潜が課題であることに照らせば、モナド論の思想家が微積分学の創始者であったことは、何ら謎めいたことではないと思われる」『ドイツ悲劇の根源(上)』

「ヒューマニティについて語るとき、われわれは、啓蒙の光が差し込んでいたあの市民の部屋の狭さを、忘れてはならないのだ」
〔ベンヤミン『ドイツの人びと』〕

アドルノが哲学的な意味で直観という概念について語る際、つねに本質的にベルクソンの直観概念が念頭に置かれている。

「記憶の機能は媒介的、記号的なものであって、記号なしで生じる認識という、ベルクソンが要請している意味での直観では決してない」。

一九世紀の科学哲学が忘れてしまった契機、認識のための規制されていない経験という契機を取り戻したベルクソンの功績は認めつつも、アドルノはやはり直観主義を強く批判した。

「このような経験を科学と区別するのは、より高次の原理や道具立てではない。この経験を科学から分かつもの、それは、それ自体として見れば何ら科学と異ならない道具、とりわけ概念という道具の使い方の違いであり、また客観性に対してとる態度の違いである。このような経験において、ベルクソンが直観と呼ぶところのものが否認されてはならないが、同様に実体化されてもならない。◉社会化され組織化された生活が拡大し、硬化してゆけばゆくほど、さまざまな概念や秩序づける形式と絡まり合った直観は、その正当性を高めてゆく。だがだからといって、この直観という行為が、存在論的深淵によって論証的思考から分け隔てられた、認識の絶対的な源泉を形づくるわけではないのである」
『認識論のメタクリティーク』

◉「理論家にとっては論理的矛盾にほかならないが、芸術家たちにとってはお馴染みのもの、そのようなものが芸術家たちの仕事において展開される。すなわち、芸術家はミメーシス的契機を自由に取り扱うのである。彼らの振る舞いは、この契機のもつ、恣意に抵抗するあり方を呼び集め、その効力を失わせ、救出する。恣意に抵抗するものにおいて恣意を発揮すること、それこそが芸術の生命の基本であって、これを果たしうるかどうかは、そのような運動が宿命的であることが露わに保たれていかぎりは、芸術の能力を判定する信頼に足る基準となる」『美の理論』

「すなわち、現在の状況においては、別様ではないかくかくのあり方の人間それ自体が、歴然とした倒錯したありさまにもかかわらず虚偽の生を永遠化させようとする、文字どおりイデオロギーであるのだ、と」

◉「われわれは、すべての人間の知の絶対的な第一原則、端的に無制約的な第一原則を、探求しなければならない。絶対的な第一原則であるべきだとすれば、この原則は証明されることも、規定されることもできない。この原則が表現すべきは事行であって、この事行は、われわれの意識のもつ経験的な規定のもとでは現われず、また現われることができない」

「自我は根源的に端的に自分自身の存在を定立する」

『フィヒテ全集 第四巻 初期知識学』

「[……]認識という道具をわれわれが最初に探求すべきだ、というのはもっともらしく思われる。それは、泳げるようになるまでは水に入りたがらなかった、〈学者先生〉が語る話である。認識を探求するとは認識を認識することだ。しかし、認識することなしに認識したいと望むなどと、言うことはできないのである」〔ヘーゲル『哲学史講義下巻』

暗示されているのは「相同性という古くからの原理であって、[……]、それによると、類似のものは類似のものによってのみ認識されうる。この原理は最初にバルメデスとエンペドクレスによって提されて以来、哲学から完全に消え去ることはなかった」『エンアデス』


ミメーシス的衝動はますます生き延びることが許されなくなっている。情動的な知性や神秘への近頃の関心には、この抑圧されたものが発言を求める動きが認められるが、その実現となると周辺的なもの、たんなる私的なものにとどまっていて、不透明な非合理主義へ逸脱している場合もしばしばである」

「普遍的なものを平均的なものとして示すのは、転倒した試みである。普遍的なものは理念なのである。それに対して、経験的なものがいっそう深く突きとめられるのは、それがいっそう厳密に極端なものと見なされうる場合である。概念はこの極端なものから現われる。

「あらゆる意識はあらかじめ利害関心によって条件づけられており、たんなる意見とされます。真理という理念自体は希薄化され、これらの意見から構成されるべき視点となります。そして、それもまた一つの意見、自由に浮遊する知識人の唱える意見にすぎない、という反論からこの立場を守るすべはないのです。このような普遍的な拡張をつうじて、批判的なイデオロギー概念はその意味を喪失します。親愛なる真理を讃えて、あらゆる真理はやはり意見にすぎないとされるのですから、真理という理念は意見に屈服します。社会は理論によってもはや批判的に分析されるのではなく、実際にますますそうなりつつあるもの、何の導きもない偶然的なイデアと力のカオスとして、是認されるのですーーそれらの盲目的な力は、全体を没落へと駆り立てているのですが」『介入』

ある意味においては実際にその外部にはもはや何一つ存在しないのでもあって、この全面的媒介と関わりのないものは何一つ存在しないのだ。それゆえ、この領域に捕われたものはそれ自身が自らの他者となる。これこそ観念論の根源的なあり方である。人間の直接性および人間関係の直接性のすべての契機を社会化の過程が容赦なく我が物としてゆけばゆくほど、張り巡らされたこの網が生成したものであることを想起することはますます困難になってゆき、これは自然なのだという仮象はますます抗しがたいものとなってゆく。人間の歴史が自然から遠ざかれば遠ざかるほどこの仮象は強化される一方で、自然は拘禁状態を示す抗しようのない比喩となる」『否定弁証法』

自然と歴史の関係ないしは神話と歴史の関係を批判的に規定すること、それがアドルノの哲学の中心的な意図となる。

◉人間の自由と呼びうるものが生じるのは、もっぱら自然の強制力を打破しようとする人間の試みにおいてのみなのである。この自然の強制力が黙殺されるなら、すなわち、世界が純粋な人間存在の織りなすたんなる形成物となるなら、歴史のそのような全面的な人間化のなかで自由は失われる。自由はもっぱら存在物からの抵抗において展開されるものだからである。

「志向の客体は彼[すなわち、サルトル]にとって原理的に意識の外部にある、つまり超越的である。超越的なものがたんなる現象的存在を有するにすぎず、内在的なものは絶対的な存在を有すること、このことをフッサールが強調しているのに対して、サルトルはあらゆる種類の内在主義に反感を抱いている。イメージ Bildは意識内容であることをやめる。それはもはや意識のうちにはない。イメージは意識の志向構造へと姿を変え、この構造は一つの超越的な客体に関係づけられる。いまやこの超越が意味しているのは、まさしく『外部にある』ということである。[……]これがサルトルである。

『認識とは、何ものかへ向けての爆発である』。

『結局のところ、すべては外部にある。すべてが、われわれ自身でさえも、外部に、世界のなかに、他のものとともに』

「無から始まる選択、無に抗する選択といった選択は何も選択しないことであって、選択としては消滅するだろう。存在するのは現象的な選択のみなのである」〔サルトル『存在と無 Ⅲ』

「存在は概念によって媒介されており、したがって主観によって媒介されているが、同様に主観もまた逆にそれが生きている社会によって媒介されている。だからこそ、その決断も無力でたんに内面的なものとなるのである。このような無力さのゆえに、事物めいた悪逆非道が主観に対して勝ちを占めることになるのだ」『否定弁証法』

『否定弁証法』の「認識とは〈傷ヲ付ケテ癒スコト」である」

◉『判断の意味の発生を明らかにするということは、いっそう詳しく言うと、明々白々な姿で存在している意味のうちに潜在的に含まれていたり、それに本質的に属していたりするさまざまな意味の契機を解きほぐす、ということにほかならない。何らかの〈構成〉や〈発生〉によって作られた生産物であり判断に関しては、その構成と発生について問うことができるし、また問わねばならない。まさしく以下のことは、それらの生産物の本質特性をなしているのである。すなわち、それが意味であるということ、しかもその意味は自らの発生という潜在的な意味の一種の歴史性として自らのうちに担っているということ、また、それらの生産物においては意味が段階をなしていて、根源的な意味とそれに属するノエマ的志向性を振り返って指差しているということ、したがってわれわれは、どんな意味形成体であっても、それにとって本質的な意味の歴史を問うことができる、ということである』。

「あらゆる判断はその意味からして自分自身の発生を自らのうちに保持している」というこのフッサールの思考の意義は、アドルノの思考にとって、いくら評価しても足りないほど大きなものなのである。


編集あとがき

「徳というものをその不変の要素、したがって抽象的なもの」に還元しようとする。

抽象化こそ、あらゆる方法、とりわけ概念形成が用いねばならない振る舞いである。そのつど扱われている特殊的なものを視野の外に置いて、それを操作可能なもの、すなわち支配可能なものにすること、である。方法に従う者や論理学者は、このようにして普遍的なものを特殊的なものの他者、有限なものの他者、現に存在しているものの他者として扱うことができると考えているが、それはあまりに不当なことである。◉数学は巨大な同語反復であって、「数学の全能の支配はやはり、数学がすでに準備したもの、数学自身が作り上げたものに対する支配に限られている」。それと同様に、方法がつねに関わっているのは自分自身であり、もっとも希薄なもの、抽象的なもの、いわば世界の残り滓である。

出発点において客観が主観に拠っているように、客観はそのようなあり方でしか存在せず、客観は依然として主観の支配に従属している、と観念論は主張した。

すなわち、彼がもとめている「方向転換」は「込み入った弁証法的な仕方で、経験論の救出もまた意図しているのです。つまり、ここでつねに原則として重要なのは実際、下から上への認識であって、上から下への認識ではありません。肝心なのは自分自身を対象に委ねることであって、演繹ではないのです。」

〈前モッテ感覚ノ内ニ内在シナイモノハ知性ノ内ニ存在シナイ、知性ソレ自身ヲ除イテハ〉。経験が精神的経験となるためには、精神は経験されたもののなかに浸透し、それを乗り越えなければならない。そういうわけにはいかないことをアドルノはヘルダーリンとともに心得ていた。

アドルノの否定弁証法をデリダの言う意味での「差異の哲学」になぞらえることはできない。

◉事象とその概念はもはや一致していず、後者を前者の内容だなどと言い立てることは不可能である。「事象それ自体」は否定弁証法にとって「断じて思考の産物」ではなく「むしろ同一性を潜り抜けた非同一的なもの」『否定弁証法』なのである。

「必要となるのは、意識がすでにカントの教えに従っていわば自動的に、無意識的に行なっている同一化よりも、いっそう持続的な影響をもった主観の反省である。

「認識のユートピアとは、概念を欠いたものを、概念に同一化することなく、さまざまな概念によって開示することであろう」『否定弁証法』

したがって、現実を確定的なものとして分類し静止させているさまざまなカテゴリーを、新たなもののためにふたたび開こうと試みるのである。

星座的に布置ないし配列する思考という思想は、アドルノがもっとも時間をかけて、もっとも集中的にもとめつづけた思想の一つである。

◉普遍的な概念は、認識されるべき存在者から最良のものを、すなわち、その個別者の特殊性をそのつど形づくっているものを、切り捨てる。道具として扱いうるように、概念はそれが扱っている事物から、それらが他の多数のものと共有している抽象的なものだけを残しておく。

アドルノの哲学の唯一の対象は「一回性」ないし「具体的な歴史的事実」だった。

星座的布置な体系ではない。すべてが固定されているのではないし、すべてがその布置に編入されているのでもない。それでいて、それぞれの契機は他の契機に光を投げかけていて、個々の契機が形づくる図像は明確な記号であって、読み取ることのできる文字なのである」『三つのヘーゲル研究』

二〇〇二年九月二四日

 

『否定弁証法講義』T・W・アドルノ/著、細見和之・河原理・高安啓介/訳

 

 

客観性の経験 ≠ 主観の消去 = 量化 ④

 

 

第一五回講義

(16)◉さまざまな体系のもつ奇矯さと杓子定規ぶりは、それらの体系について真理を告げている。すなわちそれらは、すっきり割り切れないことから生じる瘢痕なのだ。手はずを整えることで割り切りが強行される。あたかも、事物のなかの思考の手を逃れるものが、思考においてパロディ化され、思考自身の事物性として生じているかのよう。

さまざまな体系の崩壊は社会の発展と対位法的な関係にある。

体系に反対であることが、すでに当然至極となっている。
 ◉現実はもはや構成されてはならない、とされる。なぜならその場合、現実はあまりに根本的な構成を必要とするからである。世界が抽象的になればなるほど、哲学はますます具体性を装うようになる。

体系は存在しないという言い方は、なお生が存在していると偽ろうとするものだ。体系を否定する者は誰でもなお、自由な、非アカデミックな思考の代弁者とも見える。

 

 

第一六回講義

(16)

体系とは、哲[学]がまずもって的確に判断すべき事柄について、先行決定すること。出発点の要請によって。

(17)観念論を支持するあらゆる議論に先立つ、観念論的な態度。

統一と一致とは同時に、もはや敵対的ではない宥和された状態が、支配をこととし専横に振る舞う思考の座標に、歪んで投影されたものである。

体系の二重の意味に対しては、ひとたび体系から解き放たれた思想の力を個別的な契機の規定へと移し入れる以外に、選択の余地はない。個別的なものは、私たちが所持していない全体を表わしている。

経験論が哲[学]である場合には、経験論は主観[的な]体系に向かいがち。

すなわち、カテゴリーに外からかぶせられる全体を考慮することなく、自らにおいてカテゴリーを反省すること。
 これが概念の内在的運動の意味である。
 その際もちろん体系は、そのときはじめて結晶するのではなく、舞台の裏につねにすでに存在していたのである。

諸現象のなかへの意識の、いわば意識なき沈潜。「自分自身を理解していない思想だけが真なるものである」ということで考えられているのは、このこと。自分自身を理解している思想はすでに自分を超えていて、そのかぎりで非真理。これによって弁証法は質的に変容する。
 体系的一致は崩壊するだろう。
 現象は潜在的にはもはや、当人の異議にもかかわらず[へーゲル]においてそうであり続けたもの、すなわち概念の例証ではないだろう。否定弁証法の課題はまずもって、この質的変容を展開すること。

思想が真に自己を外化するなら、客体自らが語りはじめるだろう。

 

 

第一七回講義

(18)

哲[学]とは何かは、現象の解釈にそくして学ばれる。
 ◉認識論は認識の遂行から切り離しえないという、認識論に対するヘーゲルの批判(鍛冶屋は鉄を打つことで鍛冶屋となる)は、文字どおりに受け取られるべきである。

解き明かしえないものをこじ開けること。こじ開けるのは否定的、しかしヘーゲルにおけるように、反弁証法的な態度、否定の否定ではない。

思想は、自分を絶対的なものと考えているよりも、いっそう独立的になる。◉思想が自分を絶対的なものと考える場合には、専制的な態度と従順な態度が入り混じり、一方は他方に依存している。

(19)◉同一性への要求は対象を切り離すが、個別的な極への沈潜は、その契機として、対象から歩み出る自由をも必要とする。ここで求められているのはミクロロギー〔微視的探求〕だが、それが用いることのできるのは、もっぱらマクロロギー的な〔巨視的な〕手段である。
 ◉確かに、個別的なものを実例として自分に帰属させる分離をこととする概念は、個別的なものを開示することはできない。しかし、構成をこととする思想が個別的なものに持ち寄るさまざまな概念の星座的布置(コンステラティオーン)には、それが可能。

◉哲学は自分自身のうちで対象をつねに動かす手立てを、対象の外部からも注入しなければならない。この点で自他を欺こうとするならば、哲学はライプニッツないしヘーゲルの予定調和の餌食となるだろう。ーー客観性が経験されるためには、主観が必要であって、主観の消去が必要なのではない。

 

 

第一八回講義

[挿入15a]どうして客観性の経験のために十全な主観が必要なのか。
主観的な性質の消去はたえず客観の還元に対応してもいる。反応のなかからますます多くのものが「たんなる主観的なもの」として脱落すればするほと、事象の質的な規定もまたそれだけ多く脱落してゆく。

◉主観の消去=量化。
個々の認識する主観、個人、それ自体が質的存在である。だからこそ主観が必要。
◉類似性という概念。類似したもののみが類似したものを認識しうるということ。
その際、偶然性という問題が残る。

しかし、この偶然性は、科学主義的な迷信が思い込んでいるほど絶対的ではない。なぜなら、特殊化それ自体のうちに、差異化〔Differenzierung 洗練化〕の進展という社会的に普遍的な原理が潜んでいるからである。◉ーーこの差異化はたんに主観的なものではなく、客観を捉えようと準備することで零れ落ちるものを、客観において知覚する能力である。この差異化はそれ自体客観の側から構成されている。それが目指しているのは、客観の〈原状ノ回復〉である。
その際、この差異化は誤りの可能性をもつ

それゆえこの差異化には修正が不可避。精神的経験の自己反省ということで考えられているのは、この修正である。
したがって、比喩的に表現するなら、水平的(抽象的・量化的)な客観化の過程ではなく、垂直的(時間的)な客観化の過程。

(19)それら[哲学の対象]それ自体において待ち受けているものは、自ら語りだすためには、介入(究極的には、実践的なもの)を必要としている。

外部から動因されたさまざまな力、最終的には理論を、その対象のうちで使い果たすことにある。
 哲学の理論は、自分自身の終焉を念頭に置いている。

 

 

第一九回講義

(20)

否定弁証法は公理学ではない。「支えになるものが何一つ存在しない」。

(b)足場の不動性。

(参照訳は恣意的な公理に基づいていてかまわないーー恣意と公理が相携えて進む。それに対して、自分を第一のものとして設定しないものだけが、恣意的である必要もない)。
参照枠をつうじていっさいが補足され、いっさいはそのなかに存在している。内在の意味。

ジンメルのように具体的なものについて哲学するのではなく、さまざまな概念が具体的なものの周りに集まることによって、具体的なものから哲学がなされるべき。

(21)少なくとも「一片の存在論」に対する普遍的な要求。

決定的なものはいちばん小さなものに潜んでいるということが真実なら、単純化は非真理である。

単純化は愚鈍を装うことに等しい。

 

 

第二〇回講義

(21)

否[定]弁[証法]のさまざまな認識は、動機づけられている。その位置から可能なかぎり思考すること。しかし、このことを実体化しないこと。

[挿入17a]相対主義にはそれ自体、個人主義という市民モデルがある。
「すべては相対的だ」というのは抽象的である。

特定の事象に立ち入るやいなや、その事象を専門的に扱うちに、相対主義は消えてゆく。相対主義が現われるのはいつももっぱら外部からである。

個人的と考えられている反応は、メーメーという羊の鳴き声のように、あらかじめ規定されている。

◉精神に対する適意は、理性という概念それ自身からのさまざまな帰結に対する防御。したがって相対主義は、教義としての絶対主義によって阻止されるのではなく、それ自身のテーゼを追求することによって解消される。

(21)それ〔すなわち、否定弁証法〕は、思考の自足性という幻想に抗して、思考を思考それ自体とは異なったものに結びつける。

真理は逃げ出しうるものだ。

 

 

第二一回講義

(a)概念は、尺度として固定されているかぎりでのみ、運動を行なう。したがって、さまざまな概念をきわめて厳密に受け取ること。概念の厳密さの要請。言葉の機能。
(b)概念は本質的にヘーゲルの「第二の自然」という形態を取る。

◉主観の自律性が批判的に制限されてゆけばゆくほど、客体に優位を見とめる責務はいっそう拘束力を増してゆく。この客観の優位が思想に固定的なものを与えるのであり、弁証法はそれをふたたび解消するのである。

❓弁証法に内在する契機として客観の優位を示すこと、それが否定弁証法の跳躍点である。

◉総合〔ジンテーゼ〕に対する批判。すなわち、総合は方法として主[観]と客[観]の同一性を目標に設定する。問題なのは、区別された諸契機を一緒に考えるという論理的な総合ではなく、哲[学]の最高の目標としての絶対的な総合である。

(24)ヘーゲルにおいては円環という形態がそのような総合として存在している。

したがって、必然的な総合から最高の総合という理想への自動的な進展に抗すること。

 

 

第二二回講義

ヘーゲルは確かに、多様性と統一性を相互に連関させることによって、カントに反対して総合の優位に制限をくわえている。

(25)とはいえ、思考は統一の抽象的な否定に固執してはならない。多様なものを直接的に入手できると思い込む者は、とりとめのないものをもたらす恐怖、神話にふたたび落ち込んでしまう。神話的なものとは区別なきものである。

統一は、抽象的に理解されるなら、宥和に対してと同様、さまざまな質的なものに対する抑圧にも、余地を与える。
 まさしくだからこそ統一は、その暴力を絶えず繰り返し人間にとって魅惑的なものに見せかけることができた。

主観に発する理念のもつ客観性の経験。すなわち、音楽の形式的類型。

 

 

第二三回講義

(25)総合が多なるものに加える暴力に対する、総合の自己省察。

同一性の契機において生存権を有するもの。すなわち、親和性という契機。この契機は、それによって抑圧されるとともに、それにおいて生き延びている。

(26)対象に身を委ねる思考は内容をそなえたものとなる。

◉哲学的努力は、すべての内容の向かい側にある形式的なものとしての主観からではなく、内容から規定されている。
 ◉概念ならざるものはその概念と同一ではないということ、このことが、認識という実践においてその実践の内容化となる。

(27)

内容に関わる認識の可能性は、こんにち差し迫った認識論の問題である。

(28)

すなわち、哲学的経験は、この普遍的なものが現実的に、事実的に優位であることを知りながらめ、それを自分に存在原理として、したがって存在論的に与えることはできない。不安は社会的に普遍的なものであって、精神状態などではない。

弁証法は、その対象の否定性のゆえに、否定的なのだ。

(29)

思考は、強制と恣意の弁証法に気づくことによって、このような事態を乗り越える。

[30]

すなわち、社会的総体性としての全体を弁証法的に構成する原理と事象に盲目的に身を委ねる原理は、どちらにも解消されない形で進む。

 

 

第二四回講義

内容の優位は、必然的に、方法の不十分さとして示される。

哲学の理想とは、自分が行なうことについての釈明が、現にそれを行なうことによって余計になる、ということである。

[31]

客観性の諸契機はあらゆる決断のなかに浸透している。ーー最小限のものとしての決断。

 

『否定弁証法講義』T・W・アドルノ/著、細見和之・河原理・高安啓介/訳

 

総合 = 否定 ③

 

 

第一〇講義 哲学と「深さ」
一九六五年一二月九日

メモ書き

真理要求がわれわれに立ち上がるのを求めるところでは、確かな地盤という幻影は退けられねばならない。本質と現象の区別は現実のものである。たとえば、主観的に直線的なものという仮象。とはいえ、この仮象は必然的である、すなわちイデオロギー。

哲[学]が抵抗の力となるのは、その本質的な関心を、たとえ否という答えによってであれ満たすのではなく、断念させようとするものに決して丸め込まれないことによってである。

抵抗としての哲[学]は展開を、媒介を必要とする。

(8)深さは弁証法の一契機であって、孤立した性質のものではない。

肯定は基準ではない。意味の概念について。
 同様に、深さは内面への撤退ではない。

◉深さとは、表層に満足しないこと、まさしくファサードを打ち破ることである。ーーそこには、どんなに深く見せかけるものであってもあらかじめ設定されているものには満足しない、ということも含まれいる。批[判]理論に関してもまた。
 抵抗とは、自分の法を所与の事実から唯々諾々と指示されない、ということである。そのかぎりで、この抵抗のあり方は、事実ときわめて密に接触しながら、対象を乗り越える。

深さの概念のうちには、本質と現象の差異が設定されている。

(9)たんなる存在者を越える思考の思弁的な過剰、それが思考の自由である。

すなわち、苦しみをして語らしめること。これがあらゆる深さの理由。「神は私に語る能力を授けた」。

講義録

本質と現象、思弁とイデオロギー

私たちが立ち上がることを真理要求が求めるところでは、言い換えれば、最後のもの、絶対的に確かなものと主張されているその当のもの自体が決して究極のものではなく、媒介されていて、したがって絶対に確かでないことが明らかになるところでは、確かな地盤と称されている幻影から立ち去る必要がある、ということです。絶対的な確実性を求めること自体、こう言ってよければ、その観念論的な誇張によってなされています。つまり、概念にそもそもそれが満たしえない絶対的な確実性を帰すことでそれはなされているのですが、私がそこから見て取るのは、反思弁的であることを自らの基準としつつも、その背後で絶対的な確実性という要請が密かに掲げられることによって、思考に口論が装着されている、ということです。この口論は、そのつど確かだと称されている事実が保証しているものを越えてさらに思考が先に進んでゆくのを妨げます。

それらの基準が正当か不当かを問う反省は、事実と所与という立場から素朴に見れば、思弁による反省と見えてしまうのです。

現代の社会における人間の主観的な振舞いは、それらが当の人間自身には思いもつかない規模で客観的な構造に依存しているかぎり、その構造のたんなる現象として理解されねばなりません。

私たちがさしあたりつねに関わりあわねばならない直接性という領域、それゆえに私たちが絶対的に確かなものと見なす傾向がある直接性の領域は、実際にはそれ自体において媒介されたもの、方向づけられたもの、仮象的なものであって、したがって不確かなものです。
 他方でしかし、この仮象はまた必然的です。すなわち、主観がとにかく抱いている意識内容を社会が産み出しているということ、そして、それらの意識内容においてたんに媒介されているもの、決定づけられているものを、自分の自由にもとづく行為ないし所有物、場合によっては絶対的なものと見なしていることに主観が盲目であるということ、この二つの事柄はともに社会の本質に属しています。

◉社会的に必然的な仮象としての人間の直接的な意識は、かなりの程度イデオロギーである、と。

いずれにしろ、私が思弁ということで理解しているもの、遠慮深く自分を固定するsich-festestellenのではない反イデオロギー的な態度は、事実確認的festellendな学問の習慣と際立った対象関係にあります。というのも、支配的な思考習慣では、当然ながら、思弁はイデオロギーと同一視されるからです。

[抵抗]としての哲学

ちょうど、元来は本質的に意味を創出するカテゴリーだった思弁という概念が、みなさんに説明したとおり、たんなる現存在が横領している意味の仮象を破壊するものとなることによって、本質的にその位置が変わるのと同様です。

哲学が抵抗の力であるのは、その本質的な関心を断念させようとするものに丸め込まれないことによってであり、さまざまな事実のデータに丸め込まれないようによってです。哲学は、たとえ確定的な「否」をつうじてであっても、つまりその達成不可能性が指示されるという形であっても、自らの本質的な欲求を満たせばならないのです。

マルクスは十分にヘーゲル主義者であって、本質の概念をつねに堅持していました。
 ともあれ、本質と現象の差異はこんにち否定されていますが、これを否定する人々が、現象の現われの背後には何も存在しないと言って、その現われをあるがままのものとして受け入れることを私たちに強いるかぎりは、本質と現象の差異を否定する試みは第一級のイデオロギーである、と私は見なします。そして、それらの現われを理論的に越えてゆくことがもはやできなくなる瞬間、それらの現われを理論的に受け入れざるをえない瞬間には、たとえ理論と実践の関係を確保したと思っていてもまさにそのときに、それらの現われを理論自体において乗り越えてゆく可能性は、根本においてもはや存在しないのです。

実際、抵抗というのは衝動に属するカテゴリー、直接的な振舞いに属するカテゴリーです。

この抵抗という契機が哲学の理念ないし衝動を差し出す一方で、その抵抗が非合理なもの、したがって一時的なもの、さらには虚偽のものにさえとどまりたくないのであれば、それはたんに反省されるのみならず、理論的な連関において展開されねばならない、と。そうでないかぎり、この抵抗は貧しい抽象的な決意主義、たんに恣意的な決断というあり方に行き着きます。

苦しみの弁神論、苦しみと幸福

ライプニッツまで遡るなら、深さという概念は弁神論という思想、すなわち苦しみの正当化という思想と独特の結びつきを経てきました。深さが苦しみと何らかの関係があること、深さとは苦しみを否定するのではなく直進する思考であるということ、このことは確かです。

悲劇的なものといった美学的なカテゴリーがそのまま現実や人間の共同生活や人間が相互に置かれている人倫的な関係に転用されているという点に、それだけですでにはなはだ疑わしいものがある、ということです。

悲劇の概念を決して認めないこと、すなわち、存在しているいっさいはその有限性のゆえに没落にも値するのであって、この没落が同時にその無限性の保証であるといった考えを決して認めない、ということだと思います。

実際にそれが自分の立場とし、形而上学的なものにまで高めようとしているものは、どのみち世のなりゆきにほかならないからです。

深さないし形而上学的内実の魔術的呼び出し

私たちは概して美学的には正反対のことを言うことができます。すなわち、その作品が形而上学的内容を客観的に保持していればいるほど、その形而上学的内容を説き伏せたり、自ら描いたりすることは少ないのです。

ハイデガー

その哲学は、深さという切実な要請、すなわちそのような理念を真剣に受けとめるという切実な要請によって元来課せられていたものから、ますます根本的に逸脱してゆくのです。

有意味なものの定立に抗して、「内面性」

したがって、深さの概念には本質的に、思想の執拗なこだわりによってありきたりな伝統的深さを否定するということが属している、と言うことができます。

思想の根源を決定するのはその成果ではありません。

思想の努力ないし抵抗はまさしく、そのようにたんに現存するものを有意味とする直接的なテーゼを拒むところに存在するのだ、と。
 同様に深さはまた内面性への一種の撤退でもありません。

たんなる内面性としての深さというこの偽りの概念が致命的な役割を演じています。その際この概念は、私たちがたんなる内面に引きこもったときに送ることになるはずの「質素な生活」というイメージと結びついています。

ここで扱われているのが深さではなく大量生産品だということを是非とも見抜いていただきく思います。田舎の静けさがもつこの深さは実際には、寸法に合わせて仕立てられたものであって、文化産業の生産する、標準化さ
れた既製品にすぎません。

メーメー鳴く嘆きに対する抵抗

深さはたんなる主観への沈潜を意味しているのではないという、ゲーテやヘーゲルの洞察が実際に、そしてあらゆる意味で、妥当します。主観は自分自身のうちへ引きこもるなら、自分のうちにたんに「空虚な深さ」を見いだすのであって、深さを外化の力から引き離すことなどとうてい不可能な話なのです。

これとまさしくぴったり符号しているのは、その当人がその際絶対的な対自的な対自存在としての自分のうちで見いだし受けとめている内容が、実際には彼に絶対的に固有のものではさらさらなく、集合的な残滓、一般的な意識の残り滓にすぎない、ということです。

したがって私は、こんにちの深さの尺度となるのは抵抗、しかもメーメーという嘆きに対する抵抗である、と思います。

深いとは実践に表層に満足しないこと、いやむしろ、ファサードを打ち破ることです。しかし、その抵抗にはまた、どんなに深く見せかけるものでもすでに与えている思想には満足しないということが含まれていますし、とりわけ自分の持ち札、自分のスローガン、自分がある種の集団に属していること真理の保証と見なすことなく、自分自身の思想に対しても仮借のない反省の力を行使する、といったことが含まれています。自分の思想であっても、あたかもいつまでも安全無事に用いることができるかのように、自分をそれに縛りつけてはならないのです。
 そのような態度、とりわけ集団との同一化が残っている場合、それらの態度はなお全体主義の痕跡を帯びていると言えるでしょう。

抵抗とは、そのつどの所与の事実と称されるものによって自分の法を唯々諾々と指定されない、ということです。そしてそのかぎりにおいて、この抵抗は、対象ときわめて密に接触しながら対象を乗り越えるのです。

苦悩の表現としての深さ

深さという概念のうちには、現象と本質の差異がつねに設定されています。

思弁なしには深さといったものは存在しないと思います。さもないと、実際に哲学はたんなる記述に退化するでしょう。
 たんに現状を形づくっているもの、たんに存在しているものを越える思考のこの思弁的な過剰、これこそが思考における自由という契機であり、それのみが自由を保証し、それが実際にそもそも私たちの所持している自由のわずかな断片であるがゆえにこそ、それはまた同時に思考の幸福でもあるのです。

表現に課せられているさまざまな限界を内側からこのように打ち破ることおよび私たちを取り巻いている生のファサードを打ち破ること、この二つの契機はおそらく同一のものなのかもしれません。

ゲオルグ・ジンメルが正当にもたいていの哲学者に欠けているのを嘆いていたもの、つまりまさしく、世界の苦しみ、世界の苦しさを言葉にすること、です。そして、苦悩のうちで人間が沈黙するときには神がその苦しみを口にする能力をその者に授けてくれる、というタッソーの格言は、実際のところ、詩作と哲学の一つの結びつき、一つの直接的な結びつきを示しているのです。

 

 

第一一回講義

(9)もっとも主観的なものである表現、まさしく苦しみをつうじての客観的媒介、その苦しみには世界過程の姿が含まれている。

哲[学]にとって自らの叙述は外的なものではなく、その理念に内在しているのだ。

実定的な契機、孤立させられた契機としては、表現は世界観に退化する。

表現は思考をつうじてその偶然性は免れる。たんなる直接性としての表現は悪しきもの。思考は表現においても拘束力を有する。

逆に表現は、そこに存在している主観を無視して厳密さが自立することで生じる、厳密さの物象化を矯正するものである。

(10)

ヘーゲルにおける主体と否定性の同一視ーー科学の実定性および個別的なものの偶然性に抗した同一視ーーは、経験という核をもつ。思考は、そのあらゆる特殊な内容に先立って、否定であり、抵抗である(だからこそ、努力という契機。これは思考を受容性から区別する。この点で、思考はその原像たる労働に等しい。労働もまた同時に否定的)。

(11)あらゆる論理的な操作、判断、推論には、それ自体批判的な萌芽が含まれている。論理形式の明確さは、論理形式によっては到達されないものの排除にある。

論理形式が〈ソレ自身トシテ〉主張している真理は、同一性の刻印を帯びていないものを、非真理として否定する。思考はア・プリオリに批判である。
 「暗黙の否定性」。すなわち、あるものがかくかくであるという判断は、主語と述語の関係がその判断におけるのとは別様に表現されることを、潜在的に拒絶している。

◉思考形式はア・プリオリに、たんにそこにあるもの、所与のもの以上を欲する。総合とは否定である。

哲[学]とは、この無意識的なものの意識である。

 

 

第一ニ回講義

(11)フッサールとベルクソンが試みながら果たせなかった、意識内在と体系からの脱出が、是非とも遂行されねばならない。
 
第二の反省をつうじて〈真ッ直グナ志向〔直行的志向=直観〕〉を取り戻すこと。というのも主観は、どのように規定された客観性であれ、客観性を前提しているからである。主観はこの客観性はもっぱら〈哲学ノ流儀ニヨッテ〉構成すべきなのである。ここで核となる議論を提示すること。自我〔我〕でありつつ、抽象。

(13)さまざまな概念の布置をつうじて概念を欠いたものを開示すること。

 

 

第一三回講義

(13)下から上への道、分析。「経験論の救出」。

経験から〈分離〉されないこと。

理論が前提とされ利用されるのは、その現在の形態が破棄されるためである。理論の消失という理想。

総合はもはや高次のものではない。「全体は真ならざるものである」。

強制的性格を無視するのではなく概念的に把握すること。

この関係性を徹底的に意識することをつうじてのみ、開かれたものを考えること。

(14)

哲学は絶対的主体として体系を産出できると思い込んでいるが、哲学は体系を客観から受け取るのである。

 

 

第一四回講義

(14)さまざまな体系のもつ、埋め合わせという目的。

体系においてはすでにその始まりが自らの不可能性と絡み合っている。それゆえ、一方が他方を食い尽くす。哲学の弁証法的歴史とは哲学自身の否定性の歴史である。

◉〈ラチオ〉は自らが把握しようとしているものを消失させてしまう。これが体系の二律背反である。杓子定規さはこの二律背反の傷跡である。

〔挿入12〕
質的なものについて
質的なものの量への還元ーー

しかし、まさしくこの過程は、抽象化の過程として、事象から遠のいてゆく。
それ自体において虚偽である。なぜなら、交換においては、さまざまな質的なものはたんに消失するのではなく、同時に保持されもするからである。
交換から解放された社会的な過程には、さまざまな質的なものが帰属する。
こんにちの質的なものに対する二重の態度。

それもまた社会的な仮象である。

把握されるべきもののなかの、概念の同一性を怖れて身を退けるもの、それが、隙間が何一つないことに疑いが生じないように、体系という滑稽なまでに過度の装備に概念を駆り立てるのである。

哲学はこの他者を理性のあらゆる狡知を用いて追いまわす。一方他者は、この追跡からますます遠く身を退けてゆく。

 

『否定弁証法講義』T・W・アドルノ/著、細見和之・河原理・高安啓介/訳

 

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