小動物とエクリ -3ページ目

通り抜けるためのスペース

 

 

それぞれが自分のなかにひきこもり、ほかの者たちすべての運命にたいして他人であるかのように振る舞う。彼にとっては自分の子供と良き友人たちだけが人類のすべてなのである。

彼は自分自身のなかにだけ、また自分自身のためにだけ存在するのだ。

ーートクヴィル

第一部 公共性の問題

第一章 公的領域

現代はしばしば、ローマ帝国が衰退の道をたどった時期にたとえられる。

ローマ人の公的生活が血の気のないものになるしたがい、彼らは私生活において、みずからの感情のエネルギーのための新たな焦点、献身と信念の新たな原則をさがし求めた。

この献身は近東のさまざまな宗派に向けられ、そのなかでキリスト教が徐々に支配的なものになった。ついにはキリスト教は密かにおこなわれる霊的な献身ではなくなって、それ自体が公的な秩序の新たな原則となったのである。
 今日、公的な生活はやはり形式的な義務の問題となっている。

われわれが求めるのは、原理ではなくて内省であり、自分の心はどうなのか、自分の感情で真正なものは何かの想いなのである。

私的生活の心理に関する現代のもろもろの考えは混乱している。

各々の自我が、本人の最大の重荷になっている。自分を知ることは世界を知る手段ではなく、目的になってしまっている。そして、かくも自分にとらわれているがゆえに、われわれは私的な原理に到達したり、自らの個性がいかなるものか自分や他人に明確に説明したりすることがきわめて困難なのである。

人々は、非個人的な意味のコードによってのみ適切に扱える公的な事柄を、個人的な感情によって処理しようとしているのである。

表現とは何かに関する何らかの理論なしに公的生活における表現の空虚さについて語るのは難しい。

 

 

公的領域外の愛

公の世界は、親密な感情の世界に代わって、人々が自分を注ぎこむことができる、いま一つの対抗する世界なのだ。

ナルシズムとは、「この人物、あの出来事が、私にとって何を意味するか」という強迫観念なのだ。

ナルシズムは、かくして、自己の要求へのあくなき熱中と、その要求の充足の妨害という二重の性質をもつのである。

自己をとりまく境界は自己を孤立させるものではなく、じっさいに他人とのコミュニケーションを促進しうるものである。

常識として、善人が悪い行いをすることをわれわれは承知しているが、この真正さを問題にする考えは、われわれが常識を用いるのを難しくするものだ。

われわれの性衝動は解放されたとはいえ、われわれはピューリタンの世界を規定した自己正当化の範囲内でとどまっている。

ナルシズム的感情は、しばしば私は十分に善良であろうとか、私は十分能力があるだろうとか、その種の取り憑かれたような疑問に集中するものである。社会がこうした感情を動員し、行為のもつ客観的な性質を縮小して行為者の感情の主観的状態の重要さを膨れ上がらせるとき、行為の自己正当化についてのこうした疑問は、「象徴的行為」を経由して、系統的に表面に出てくることになる。いまや公的な関心と私的な関心との間でなされる取捨選択は、自己の正当性についてのこうした取り憑かれたような疑問を動員することで、プロテスタンティズムの倫理のもつもっとも腐食性のつよい要素をふたたび目覚めさせてしまったのである、しかももはや信心深くもなく、また物質的な富が道徳的な資本の一形態であると確信することもない文化において。

さらに誤解を招くのは、それらが治療的な解決を示唆して、人々をこの自己投入から覚まさせればよいとしていることであるーーまるで、人々の社会的意志をむしばんで、欲望を変えてしまった環境が、個人が変わればにわかに両腕を拡げて歓迎するとでもいうかのようである。

 

 

死んだ公的空間

公的領域が空虚なものとして捨て去られるのに比例して、個人的なヴィジョンが産みだされるようになる。

ミニチュアの公共広場の復活が形の上では宣言されていながら、機能は人々と多様な活動を混ぜあわせる公共広場の性質を壊しているのである。

公共の空間は通り抜けるためのスペースであって、そこに居るところではない。

「垂直な全体に対する交通フロー支援ネクサス」なのである。翻訳すると、公共の空間は動きの派生物になったというのがその意味である。

みんながお互いを監視しあっていれば、社交は減り、沈黙が唯一の防御の形態になる。

人々は間に何かはっきりわかる障壁があればあるほどますます社交的になるのであり、それはちょうど、人々を集めることだけを唯一の目的とする特別の公共の場所を人々が必要とするのと同じことである。

ーー人間は社交的になるためには他人から親しく観察されることからある距離を必要とする。親密な接触を増せば、社交性は減る。ここに官僚的な能率の一つの形の論理がある。

性的な拘束から自らを解放したのも、内へと向かったのも第二次世界大戦後に生まれた世代である。公的な領域の物理的な破壊の大半がおこったのもこの同じ世代においてなのだ。

それらは旧制度の崩壊と、新しい資本主義の世俗的、都市的文化の形成とともにはじまったひとつの変化が生みだしたものなのである。


公的領域における変化

人は公の場で自分を作るのであり、私の領域、なかんずく家庭内の経験において自分の自然の姿を実現するのである。

公と私はいっしょになって、今日なら社会関係の「世界」と呼ばれるであろうようなものを創造したのだった。

公的生活の変容は、ちょうどとりわけ強権な運動選手が、見たところ力の衰えもなく若い時期を越えて生き残り、それから突然、絶えず内側から肉体を蝕んでいた衰えを明らかにして、急に駄目になるのに似ている。

都市のパブリックな文化に対する産業資本主義の二重の関係は、第一に資本主義が十九世紀のブルジョワ社会に誘発した私生活中心の圧力にあった。そして第二に、大量生産と大量流通によって引き起こされた、パブリックな場における物質生活、とりわけ衣服に関しての「神秘化」にあった。

公的秩序を支配し、形成しようという意志が徐々にむしばまれ、人々はそれから自分を保護することにますます力点においた。家族はこうした盾の一つになった。

家族関係を基準に用いて、人々は公的領域を啓蒙思潮におけるようにある限られた一組の社会関係として知覚するのではなく、むしろ公的生活を道徳的に劣ったものと見たのである。

世俗的なものの見方は十八世紀から十九世紀にかけて徹底的に変わった。「ものごとと人々」は、十八世紀には〈自然〉の秩序の内に場所を割り当てられることが可能だったときに理解できた。この〈自然〉の秩序は物理的な、触れることのできるものではなく、また世間的なものごとによって要約されることは決してなかった。

したがって〈自然〉の秩序とは、超越的なものとして世俗的なものをみる考え方だったのである。

事実は体系よりも信じることができたーーというよりも、論理的に配列された事実が体系となった。現象が場所を得てはいたが〈自然〉が現象を超越していた十八世紀の〈自然〉の秩序はこうして覆された。

ある人が作っている外見は、具体的な確かなものであるがゆえに、どれも何かしらの点で真実なのである。

区別することは、何であれ間違いになりうるからだ。

もし見知らぬ人たちに自分を曝すことをしないならば、人格的な力は発達しないかもしれないーーあまりにも無邪気だったりするかもしれないのである。

前世紀にあっては、公的な経験は人格の形成につながるようになった。

私生活中心化、商品の物神崇拝、あるいは世俗主義といった、見たところ抽象的な諸力は、われわれの生活にどのような点で関係しているのだろうか?

 

 

現在のなかの過去

今日、人々は日常の言葉のなかで、何事かを「無意識に」するとか、本当の気持ちをほかの誰かに明らかにすることになる「無意識の」間違いをするとか述べる。

それが明らかにしているのは、感情は意志とは無関係に露呈することの信念であり、その信念は公的生活と私的生活の重みのかけかたがバランスを失うようになるにつれて前世紀に形づくられたものである。

より広いレベルでは、ヴィクトリア朝時代の最盛期に人々は衣服や話し方が個性を露見させると信じた。

他人には意図しない話し方の癖や、身振りや、さらには身の振り方などで明らかになっつしまうと恐れたのである。
 結果は、私的な感情とその公的な表現の境界線が消えて、統制する意志の力がおよばないことにもなった。公と私の境界線はもはや決然とした人間の手による仕事ではなくなった。

今日「無意識の」振舞いと間違った名前がついているものは、こうした公の場での意志とは無関係の性格の露見という考え方に原形があるのである。

すでに言及したことだが、公の場で売られている物には心理的イメージが重ね合わされた。

公的な人物が他人に自分の感じるものを提示する、こうした彼の感情の表示こそが信頼を呼び起こすのである。 

もし人が自分が感じることを表さざるをえず、かつ公の場でのいかなる感情、言明、議論の真実も話している人の性格によるものだとするならば、いったい人々はどうして見抜かれるのを避けることができようか。唯一の確かな防衛は、感じないようにすること、表すべき感情をまったく持たないようにすることである。

公的な行動とは観察、受動的な参加、ある種ののぞき行為の問題となった。「目の美食学」とバルザックはそれを呼んだ。

知識はもはや社会的な交際によって生みだされるものではなくなったのである。

近代の公的生活のじつに多くにつきまとっている可視性と孤立のパラドックスは、前世紀に形を成した公の場における沈黙への権利にはじまった。他人にとっての可能性のさなかにおける孤立とは、この混沌としてはいるがいぜん人を引きつける領域にあえて踏み込んでいくときに、あくまで黙している権利を主張することの論理的帰結であった。

親密さは、公的な問題を公的なものの存在を否認することで解決しようという試みなのだ。どのような否認とも同じく、これは過去のより破壊的な面をいっそう堅固に固めてしまっただけであった。十九世紀はまだ終わってはいない。


第二章 役割

例えば、常識からすると、社交の中心としての都市の通りや広場が郊外のリビングルームにとってかわられたことには、自己の問題にますます没入していくことと何か関係がありそうである。が、そのような関連の正確な意味は何であろうか、またそれから派生する問題は何であろうか?

その問題とは、人間が表現をおこなう社会的条件のことである。

こうした質問は、今日では〈芸術〉というきわめて特別な保護区域に孤立しているように見えるエネルギーを、いったいいかなるときに人間は自然に、大騒ぎすることなく、求めるのかを問うことなのである。

しかし、私への執着が侵食している芸術とは何なのであろうか?
 方法の問題と発育不全な表現の間には関係がある。自己没入の内に浪費されている技巧性は演技の技巧性である。演技は成功するためには見知らぬ人たちからなる観衆を必要とするが、親しい人たちの間では演技は無意味なもの、さらには破壊的なものですらある。作法、しきたり、儀式の身振りといった形をとった演技は、公的な関係が形づくられる材料そのものであり、そこから公的な関係は感情的な意味を引き出している。社会的条件が公共の広場を侵食すればするほど、人々はますます演技の能力の行使を日常的に抑制されることになる。

このような演技の形態は「役割」である。したがって、近代文化における公と私の推移を理解する一つの方法は、こうした公的な「役割」の歴史的変化を調べることであろう。

つまり人々が自分自身の感情を表現することにかかわるとき、人々はあまり表現をしていない、ということにある。

『誠実さと真生さ』のなかで、トリリングは自己表出が表現の行為とならない条件を示そうとした。

誠実とは、トリリングによれば私において感じられたことの公の場での表出であり、真正とは、感じようとする自らの試みの別の人間への直接的な表出である。真正というあり方は公と私の区別を消してしまう。人間らしさは他人を傷つけるような感情を慎むことに本来あるのかもしれないということ、偽装や自己抑制は道徳を表現しているかもしれないということーー真正の庇護のもとではこうした考えは何を意味することもなくなってしまう。かわって、自己開示が信憑性と真実の普遍的な尺度になるが、他人に自分を明かすことで何が開示されるというのだろうか?

ある人が感じられたものの客観的な内容よりも純粋に感じることに心を集中すればするほど、ますます主観性それ自体が目的となり、ますます表現は希薄になるのかもしれない。自己に没頭した状態のもとでは、自分の束の間の開示は不定形なものになる。

『孤独な群衆』におけるリースマンの議論はそれに対立する極に向かってはいる。

実のところ、空虚な公的領域と果たせない過重な仕事を負わせられた親密な領域の間の不均衡を無意識に強化していたのだった。

というのも実際にあったのは彼の指摘とは逆の動き、というのは彼の指摘とは逆の動き、つまり他人指向型の社会から内部指向型の社会への動きだったからである。リースマンの功績はこの一般的で多岐にわたる問題に社会心理学のことばを生みだしたことだった。

公衆は自分と同様の他人からなっているので、公的な事柄は官僚と国の職員の手に委ねることができ、彼らが共通の(つまり平等な)利益に気を配るのである。生活の魅力ある問題はそこでますます心理的な性質のものとなるーー市民たちは国家を信用して、親しい領分の外側で起こっていることへの関心を失ってしまうからである。その結果はどうであろうか?

自我の満足はますます難しくなるだろう。なぜなら、トクヴィルの議論によれば、いかなる感情的な関係にしても意味あるものになれるのは、それが個人主義の「孤独な表現を閉ざした道」ではなく、むしろ社会的関係の綱の一部として認められるときに限られるからである。

トリリングの著作にも、またリースマンの著作にも、平等が親密なヴィジョンの「原因となる」という考えはない。

 

 

役割

役割には特別な種類の信念がふくまれている。このことはそのような信念を二つの同系の言葉、「イデオロギー」と「価値」から区別することでわかるかもしれない。

人間の行動と人間の道徳には何か区別があり、科学者は前者のみを扱うものだと考える傾向があるということなのだろう。

それはまさに公と私の比重の変化に関係しており、現代の指導的な役割分析家、アーヴィング・ゴフマンの著作にありありと表れている。

ここにあるのは場面があっても筋のない社会の姿である。そしてこの社会学には筋がない、歴史がないがゆえに、劇場では意味をもつ登場人物なるものがそこにはいない、というのも彼らの行為は人々の生活に何の変化も起こさないからである。あるのはただ終わりのない適応なのだ。人々は行動するが、経験をもつことはないのである。

ーーそれはすなわち感情を呼び起こすような社会的関係を想像しえないことであり、人々がただ撤退、「調停」、「宥和」によってのみ行動し、また自分の行動を管理する公的生活しか想像できないことである。


公的な役割

役割演技の条件が変わり、それがますます表現の問題でなくなり、ますます他のものの中立化と宥和の問題になったのは、どうして起こったことだろうか?

公的な生活と親密な生活との不均衡が大きくなるにつれて、人々はますます表現を希薄にしていった。心理的な真正さを強調することで、人々は俳優のもつ基本的な創造の力、自己の外側のイメージによって演じ、それに感情を没入する能力を開発できないために、日々の生活で人々は非芸術的になった。そこでわれわれは、演劇的であることと親密さとの間には特別の敵対的な関係があるとの仮説に到達する。演劇的であることは、強力な公的生活にたいしても同等に、特別な親しい関係をもっているのである。

どちらの領域でも、表現は比較的見知らね人たちからなる環境のなかで起こる。強力な公的生活をもつ社会にあっては、舞台と街の領域の間に類似性があってしかるべきだろう。

公的生活が衰えるにつれて、こうした類似性も減退するはずである。舞台と街のこの関係を研究するための必然的な場は大都市である。群衆のなかの見知らぬ人たちの生活がもっともはっきりと見え、見知らぬ人たち同志の交渉が特別の重要性をもつようになるのはこの環境においてである。

メディアとは、表現の目的をもついかなる試みもさらに中立的、機能的なコミュニケーションの観念にとってかわられてしまった、民衆芸術の定式化なのである。「メディアはメッセージである」とは、表現そのものがメッセージの流れに還元されるときにのみ意味をもつ金言なのだ。

したがって、舞台芸術と社会的関係を結びつけるに当たっては、真剣で、本物の、純粋な芸術は、一般的な社会条件を理解するのに役立つことができるという考えを、率直に快く受け入れなければならない。

 

 

都市における公的な役割

劇場は社会一般とではなく、ある特定の種類の社会ーー大都市ーーと問題を共有している。その問題とは観客の問題でありーーとりわけ、見知らね人たちの環境のなかで、自分の外見への信頼をどうして呼び起こすかの問題である。

都市とは何かについてのさまざまな考え方は、たぶん都市の数と同じくらい多いことだろう。

もっとも単純なものは、都市とは見知らぬ人たちが出会いそうな居城地、というものだ。この定義が正しいものであるためには、その居城地には異質な大勢の住民がいなければならない。

見知らぬ人たちが触れ合って生活するこの環境には、俳優が劇場で向き合う観客の問題に類似した観客の問題があるのである。

劇場ではわれわれは俳優にたいして自分たちが見知らぬ人たちであるかのように振る舞うのであり、そこで俳優のほうは役を信じさせるようにしなければならない。

舞台と街の橋渡しが、観客の問題に応えて生じるときに、公的な地理が生まれる。なぜなら、その時、未知の人たちと想像上の人物の双方の現実性を、単一の領域におけるかごとく信じることが可能だからである。

人は芸術の領域で前者から学べることを、非個人的な社会生活という特別の領域で後者から学ぶ、あるいはそれに応用することができるだろう。したがって、まさに本当の意味で、芸術は人生の教師になりえよう。人の意識の想像力の限界が拡げられたのである。ちょうど、他人をかついだり、それらしくよそおったりといったことが道徳的に本当ではないように見える時代には、こうした限界が狭められるように。

何が真実であり、それゆえに信じられるかを判断する想像力は、自己がいつも日常的に感じているものによって確認する必要に縛られていないからである。

公的なものが崩壊するにつれて、記号はいっそう主観的になるのである。
 劇場を社会に関係づけるこれら四つの論理的構造は不規則動詞のようなものだ。ひとたび活用を覚えてしまえば使うことができるのである。

公的な領域がますます曖昧になるにつれて、社会が人間の表現能力をどのように理解するかを示す条件は提示から表示へと移ったのだった。

 

 

証明か、もっともらしさか?

経験的な社会研究において「証明」という語は不幸な意味をもつようになったーー一定の調査の過程をへて提出された説明以外はいかなる説明もふさわしくない、ということである。

排除による真実の尺度では、新しい証拠の発見によって生じた矛盾は、もとの議論の無効を意味するはずのものなのだ。なぜなら、同じ主題についての二つの対立する解釈がどうして等しく正しいことがありえようか?証拠を検討しつくすことで排除することに基礎をおくこの経験主義は、私の考えでは知的誠実についてのいかなる本物の考えにも反するものだ。◉われわれが知的誠実に到達するのは、まさしく矛盾の真実性を認め、不変の陳述にいたろうとする望みをいっさい避けることによってである。証拠を検討しつくすという規範は実際問題として奇妙なものである。それは焦点をますます小さくすることにならざるをえないようであり、そこでわれわれがらある主題について「知る」ことが多ければ多いほと、ますます多くの細部を知ることになる。知性の麻痺がこの形式の証明の必然的な産物である。なぜならそれはすべての事実がーーいつかーー手に入るまでは、一切の判断を下さないように求めているのである。

質的な研究の研究者はもっともらしさという重荷を自分に課しているのだ。

経験的なもっともらしさとは、具体的に記述できる現象間の論理的な結びつきを示すことの問題なのだ。


『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦、高階悟訳/訳より抜粋し、引用。

 

空間詞

 

 

第0章 はじめに

0-4
文は入れ子構造をしている。

文 sentence : 大文字で始めピリオドで終える、文章の一区切り
節 clause : 文を構成する要素のうち、主述の構造を持つもの。
句 phrase : 文や節を構成する要素のうち、主述の構造をもたないもの。
語 word : スペースで区切られる文の単位。辞書の見出しになる。

◎「節」全体が品詞化し、より高次のレベルの「句」を構成する

「節」を組み上げるものは句である。

「一語から成る句を語と呼ぶ」

◎文の構成要素も、そのまま文に成りうる。

◎節と句の間には段差がある。

その段差を作るものが「構文」(syntax)です。

英語を身につけるということは、文の大きなブロックの構成に反応できる能力を獲得することに他なりません。

まとめ

・節は容易に句に含まれる。
・句は語である
(または語を寄せ集めたり、組み上げたりしたものである)。
・文は節である
(または節を寄せ集めたり、組み上げたりしたものである)。

0-5
「寄せ集める」と「組み上げる」は同じではない。

複数の語が「句」になるときも、「寄せ集め」と「組み入れ」の対照が見られます。

本書は、英語の構造をきちんと解明することを通して、英語という、日本語とは形の違う意味伝達の世界と交わることを目指します。

英語という言語は、自然界のより広範なコミュニケーションとどのように接続しているか。動物の意思伝達や夢における隠喩的な伝達と、どこが共通して、どこが決定的に分断しているのか。

I think therefore I am.(吾おもう、故に吾あり)

モノには属性がありますが、コトバは基本的に関係性の中でのみ機能する。

第1章
英語文は真実を綴るので、その窮屈さから逃げる方法がいろいろ用意されていること。

1-1
英語のYesは「はい」ではない。

You're not tired, are you?
疲れていません、よね?

No. I' m not.
はい、疲れてません。

英語のNo, はそもそも相手に対する「返事」ではないのです。相手の言ったことへの賛否ではなく、一つの否定的事実(negation)を知らせる言葉です。

Yes, (as a matter of fact,) I am.
いやあ(実際)疲れてるんで。

日本語の「はい」の役割は対人肯定。相手の意に従う、同意する、受け入れる。それ自体「よいお返事」なのです。

日本語が、相手の発言に合わせて「はい」と「いいえ」を使い分けるのは、そもそも日本語という言語が、相手との関係を最優先する言語だから。想像するに、古代からそういう形になっていて、漢語や西洋語との接触をものともせず、今もその形を保っている言語だからでしょう。
 一方、ある出来事が事実であるかないかを肯定否定で切り分ける英語は、相手との関係の保全より、まず事実の補捉を優先させる、
そのような暮らしと文化を絡みながら進化変転してきた言語の一つが英語であるといえます。

1-4
事実ではない想いは、直説法では語らない

仮想法を使いこなす近道は、実は直接法に親しむこと。直説法に「ゲンジツ感」を感じられるようになれば、ゲンジツ感を出してはまずいところは、仮想法で逃げるといいことに気づくでしょう。

1-5
助動詞は現実の不確かさに文を合わせる。

英語な場合、直接法による叙実文が命題と変わらぬ構造をしているうえに、SVで文を始めてしまうので、発話の意図を調節する機構が文尾にほとんど残されない。

英語はどうしても言い切りに走りがち。婉曲化の柵に乏しい言語であることはたしかでしょう。

1-6
willは現在形である。

willが「意図する」だとすると、shallは語源的に「負う(owe)」という意味です。

willを使ったIt will happen.が最も客観的に響く。

willを使うと話者の判断はこもらなくなって、未来に起こりうることを、あたかも出来事自体の動きに任せて言うことができる。そういう、いわば「出来事まかせの構え(心のモード)」を法助動詞willは醸し出すというわけてす。

 

 

第2章
英語は日本語とまるで違った相貌をしていること。

2-1
英語文は日本語文とつくりが違う

まず英語は、語順によって大きく意味を変える言語だということ。したがって統語の感覚を身につけることが、話す力・聞く力をつけるためにも重要です。

(Sは主語、Vは述語動詞で、Xは動詞を補う部分)

日本語で思考している私たちは、基本的な思いがSVXの構造を成して湧き上がってくる感覚に慣れていません。

文のパーツは生き物のように、分離統合が可能なのです。どういう形をしていればくっつくのか、その感覚を磨いていきましょう。

2-2
日本語に「人称代名詞」はない。

まとめ

・ 構文上の必要性がないからだ
・日本で「代名詞」と呼ばれるものは実は呼称なので、その選択に、私たちはしばしば気恥ずかしい思いをする。
・英語のyouは構文上必要とされる、単なる記号としての二人称代名詞であって、相手を指す呼び名ではない。

2-3
SVOは強い力でつながれている。

主語に立つときの形が「主格」、他動詞や前置詞の後に来るときの形が「目的格」でした。「目的」という語は紛らわしいのですが、objectとはsubject(主語)が向かい合う「対象」だと理解してください。

動詞を挟んで、主語と対象を向かい合わせる。その際に、日本語のように、つなぎの助詞のような言葉を入れない。この方式が、英語構文の核でありキモであると申し上げておきましょう。   

2-4
英語文は構造に収まりたがる。

顔の見えない人に対しての「(そこにいるの)だーれ?」はWho is it?です。見知らぬ人に面と向かって言うWho are you?とは大間違いです。

日本語は主語を「省略する」のではなく、述語だけで安定する言語なのです。

ああいやだ。 I hate it.
了解です。 I got it.
本当だって。 I mean it.
やってけない。 I can't go on.

2-5
日本語は、背骨を持つ代わりに根を下ろす。

英仏語はクリスマスツリー型
日本語は盆栽型

2-6
「ここはどこ?」は英語にならない。

英語の前置詞は、ほとんど空間的なイメージを表します。in, on, at, over, through, between…。

「空間詞」を日本語は活用しません。

これは日本語が客観的で平等主義的な空間を前提にしていないことと関係します。さし上げたり、へり下ったり、対人関係の上下にこだわり、〈内 うち〉を家や自分と同一視する言語は、どうしてもあっさりとした物理的に な空間になじみにくいのでしょう。

たとえば「ここはどこですか?」という日本語。これは英語で、Where am I?とか、Where are we?となります。"Where is here?"では英語になりません。

英語は、〈うち〉を抱えず、記号としてのIやyouが公的空間で行動し、反応するというモデルによっています。いわば「空間言語」。その特徴が、Where am I?という疑問文によく現れている。この空間に「ある」ものは、Iだろうと、youだろうと、すべて物理的に、きわめて平等に「ある」と見なすことができます。

『雪国』川端康成(1948)

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
The train came out of the long tunnel into the snow country.

読者は、作者の一人称に引き入れられ、その内側から世界を見ることになるので、「抜ける」の主語が「私」なのが「汽車」なのかは、問わない。強いて言えば作者の「一人称枠」がトンネルを抜けたのです。

池上嘉彦『英語の感覚・日本語の感覚』(2006)によれば、日本語では「〈自己〉は知覚の原点として知覚の対象にならず、したがって、発話の中で言語化されない」のです。

「日本語は虫の視点、英語は神の視点」
『英語にも主語はなかった』

日本語が一人称枠を移動させながら物を語るのに対し、英語は、高いところから下界を見下ろすようにして語る。そのパノラマの中に「私」も見えている。


「神の視点」とは、金谷氏の説明によると「言語化されようとしている状況から遠く身を引き離して、上空から見下ろしている、そしてスナップ写真のように、瞬間的に事態を把握する」。一方の「虫の視点」はその反対で、「状況そのものの中にあり(……)時間とともに移動する」。

2-7
英語のような日本語も、
結局英語に似ていない

〈誰がーどうした〉という文を作ろうとすると、日本語では余計なことをいっぱい言うハメになる。日本人が英語を訳すときに入り込んでくるたくさんの煩雑な表現は、シンプルな英語でのコミュニケーションでは、実際余計なものである。

ここまでのまとめ

・英語は空間言語である。英語の思考者は、誰にとっても対等な〈空間〉や〈方向〉を、空間詞(空間を詳述する前置詞や副詞)によっててきめ細かく追いながら、自分を含むあらゆる事物を、空間上に配したり動かしたりしている。

・日本語は対人言語である。一人称は〈うち〉に留まり、自分に見えたことや感じたことを、二人称の相手との関係において適切な形に処理して発するための構造になっている。

2-8
日本語には〈内なるワタシ〉がいる。

『日本人の発想、日本語の表現』(1998)森田良行

相撲という格闘技が日本的空間のあり方をどのように表象しているかということが書いてあります。丸い土俵の中心を向いてにらみ合う両者が、互いを外へ押し出そうとする空間は、日本語に内在する私たちの、一人称中心の世界観をそのまま表しているという解釈です。

英語を学ぶにはまず、〈あちら〉のことばを〈うちら〉のことばで組み伏せるような、相撲タイプの学者をやめることです。英語を訪ね、英語のしくみにしたがって、〈うちら〉の心の縛りを解いていく。

日本語には〈うち〉なる私がいて、〈うち〉に湧く思いを、そのまま形容詞の類似で吐き出すようにできている。

これに対し、英語では私=meが〈オモテ〉に出ていて、さまざまな出来事の作用を受ける。その作用をSVOの形式で記述することにより心情を述べるというのが、英語のやり方なのです。

ほら、みっともないでしょ。
Hey, people are watching us.
これは気持ちいい。
This makes me feel great.
お恥ずかしいかぎりです。
It puts me to shame.
そんな……照れます。
You're flattering me.

まとめ

自分を〈うち〉におく日本語では、自発的な感覚を主語を付けずにそのまま出すような語り方を制度化している。これに対して、自分をつねに〈おもて〉の空間に出して考える英語では、対人関係的な感情や物事への関心は自発的に生じるというより、何らかの作用の決定として起こると見る。

2-9
英語空間は記号を動かすゲームのようだ。

ここまで観察した日本語像は、〈うち〉を居所とする者が、相手との関係を慮りながら、内面を表出させるような言葉を連ねるというものでした。

人称変化するのは、主語が三人称単数現在のときだけ。

〈SentenceSpace〉のデフォルト設定
S-V-O

2-10
SVOのどこに来るかで品詞が決まる。

モノと人の関係は、英語ではかなり「対称的」ですが、日本語ではむしろ「対照的」です。

double 「ダブる」
sabotage 「サボる」

 

 

第3章

5つの文型の背後に、2種類の結合が見えること。

3-2
WhereとWhatは大きく違う。

〈Where〉はトコロ、〈What〉はモノ。トコロは副詞、モノは名詞。

空間詞はまた、時間も表現します。というか、英語でも日本語でも、時間の観念は、空間を基盤として、その比喩の上に成り立っているのです。
名詞に空間詞を付ければトコロに転じ、「トコロ」は「状態」「様態」の比喩となる。

英語はそれぞれ分けて、空間の中(in)、面の上(on)、点(at)に振り分ける。

3-3
文は補語だけで自立する。

英語の発想には、発想の根本から[SVO]の形をしている系統と、[C]のみで発想し、あとから、都合に応じてSを付けて、形式動詞のis等で結ぶものがある。

3-4
am/are/isはbeとは違う。

文法は、言葉についての理解をすっきりさせるためにあるものですが、本当に基礎的なことは、語るのが難しいすぎる。というか、言葉で語れるようになっていません。

時間の外側にいるから、isは不変の真実を表すことができる。

3-5
beの領分とdoの領分がある。

象であれ虫であれ、命あるものは〈いる〉。自ら動いてこちらと「対面」できるのはいる。時間の中をうごめく者は〈いる〉。剥製や標本になって命ある世界から出てしまうと、〈ある〉に変わります。

「ある」に先立ってthe Creator(創造主体)の「する」があるわけです。新約聖書のヨハネ伝には「はじめに言葉ありき」と書かれています。

幽霊は「いる」としか言えません。

マッチング・アプリは「恋をなす」ためにあります。

 

 

第4章
文の形成を、名詞の発芽する動詞のはたらきに求めること。

4-1
英語の動詞は、自・他の間を行き来する。

We'll vacum the carpat.
絨毯に掃除機をかけるぞ。

このように英語の動詞は、他動詞のスポットに収まる ーー 1つより2つの名詞と結合するーーことを好む性質があります。
 自動詞と他動詞とで形が変わることは普通ありません。

4-2
1つの動詞が「文型」を横切って使われる。

行為や作用の「対象」ではなく、主語の様態にかかわる語を自動詞を介してつなぐ場合ーーそのような形容詞を、英文法で「補語」と呼んでしました。
 このSVCのパターンに慣れると表現が広がります。

growの基本イメージは、生成・生長・生成変化にあります。

実体に作用する他動詞growと、自動詞なのに自足せず、様態を接続する自動詞grow。文脈を見失わなければしっかりつくものです。

4-6
補語は主語を着脱する。

SVCをSVをカットすることで、Cを別の文に接続することができる。

4-7
文構造は生きている。

茎は葉を生じるもの。
葉はその生じる角度に芽を持つもの。
茎とはかつてその位置に芽があったところのもの。『精神と自然』

生き物を分析するときは、やはり生きた姿の観察から始めるべきでしょう。

もちろん、言語の展開は植物の発芽と生長とは違います。言語は文頭から文尾へ、ペラペラと高速で進むもの。言語の進行と植物の生長は、時間の尺度も、向きも、まるで違うのだから、なぞらえるのは無理ーー

ある「意」が言葉となって現れる際に、動詞句と名詞句に分かれて出てくる、その瞬間に何が起こるのか。

分岐は機械的なものではなく、動詞に宿る「発芽」の仕組みによるのではないか、とも思うに至ったのです。

4-8
部分から、また全体が生まれてくる。

部分だったものが1つの全体に展開するところ。センテンスの運動は、まさにそれではないか、と。

4-9
時のよどみを英語にする。

文の運動は「掛かる」と「ぶら下がる」を原則に、パーツがはっきり分かれる構築物のようでないことを目指しています。ですから、句読点もほとんどない。

第5章
英語に時制は2つだけ、3つの時相をマスターしよう。

5-1
出来事は時を進み、時から抜ける。

状況などを形容する語を様態詞と呼ぶとするなら、goingもgoneも動詞のイメージを内包しつつ様態詞になっている。であるからには当然[S(be)C]の形をとることになります。

「まだ」「いま」「もう」を〈時の三相〉として捉えると、テンス(時制)の考え方も変化しそうです。

テンス(時制)とアスペクト(時相)は別である

継続と完了のアスペクトを感じ取る。

継続相のない、その都度起こることを表す、learn(新たに知る)やlook(視線を向ける)などの動詞は、-ingを付け、learning, lookingの形で、それぞれ「学びが途中である」こと、「今そこを見ている」ことを示すわけです。

5-3
「いる」と「ある」がbeとhaveに対応する。

日本語の進行と完了は、「いる」と「ある」の対比によって表されているのです。

「いる」は「いま・ここに」いること。時間の中をうごめくこと。

「ある」は、動かなくなったものや、山河のように威風堂々と存在するものに使います。「書いてある」は、書いた結果が動かぬ形で「ある」ということ。時の動きの中にあるものは「いる」、時を制して動かぬものは「ある」。この使い分けが日本語の動詞のアスペクトを仕切っていると考えられます。

5-8
完了と継続以外にも、時相はあるのだろう。

もうすんだ。 I've done it. 完了
いましてる。 I'm doing it. 継続中
まだしてない(A) I haven't done it yet. 未 
まだしてない(B) I have yet to do it. 未
これからしよう。 I'm going to do it. 未

いまだ起きていない出来事は、"will come"と言うにせよ、"is to come"と言うにせよ、不定詞で語るしかないのではないか。不定詞はその本来の性質からして「未然」のアスペクトが読み取られるべき存在なのではないか、と考えるのです。

未然 I have do it. I have something to do.
完了 I have done it. I have something done.

haveの本意は「不動」「平定」にあります。動く世界を相手にするならbe動詞、I am doing it.となるわけです。

5-9
「To 不定詞」は未来を向く。

I want you to know... 君に知ってほしい
I tried to call you... 君に電話しようとした
I came here to listen... ここに聞きに来た

これからやること things to do
今やっていること things I'm doing
やり終わったこと things (that are) done

 

 

第6章
コトバに上達するとは、意識を無意識へとつなぐこと。

6-1
見つめ合わず、一緒に同じ方を見る。

「英語やフランス語を話すとは、お互いと向かい合うことではなく、一緒に同じ世界を見ようとすること」

言語の基本ポジションとして、近代英語は事実志向性が強く、日本語は、大きな変化を遂げた後の現代も、話者の思いの吐露に適した形をしています。

両者の間に起こることを動詞で表す英語のやり方と、対人的な感情を表す語をそのまま吐き出すことができる日本語とでは、やはり作法がずいぶん違います。

I love you.の気持ちを表現できる形容詞が英語にはない。なぜでしょう。
[2-8]の内容に即して言えば、〈内なる私〉がいないから。互いを覗っていないから、と言っても同じでしょう。

誰にとっても同じに見える空間に物事を配して、ちゃんとSVOに思いを乗せる構えでいくことが結局近道になるーー

その中で重要なポイントが、否定文の作り方にあることにも触れました。否定文を肯定文から切り分ける技術は、簡単なようて、実は奥深い。

6-2
自然は否定を知らない。

ケネス・バーク(1897-1993)
「否定の発明者」

人間は否定を発明した。どういうことでしょう。

言語を獲得し、notを抱え持ったことで、人間は自然から浮き上がった存在になった。そういう、いわば「ねじれ者」としての人間像を、バークはアイロニカルに表現したわけです。
 人間はリンゴを前にして、ただ実を齧るだけでなく、その果実を名付け、シンボル化し、理想化もし、「リンゴらしいリンゴ」を欲し、「こんなのはリンゴではない」と現実を否定し、「もっと美味しいリンゴがあったら」と仮想し、よりよきリンゴをより多く手にする道具と手段を考案し、利益を生んで人の上に立ち、より完全な栽培者への道をひた走る。そういうことをゴリラはしません。

自然の営みを、自然の側から考えてみたとき、そこに否定がないことに気づきます。雲が出て日が隠れるのは、雲が日光を否定しながらではありません。雲も太陽も、何も「打ち消し」ていません。

「否定」は、私たち人間の側で、自然から得たイメージを言語というシンボルに変換する際に生じることーー少なくともバークはそう考えました。

動物にとってのコミュニケーションは常に現在進行形。いつも抜き差しならない緊張をはらんでいることが想像できます。
 人間たちも、関係の流れにとらわれているところは同様です。私たちの感情と生理とは、声高な口調や赤面や半ば無意識の身振りでもって、場の空気や個人の感情についての情報を伝え合っています。関係のゆらめきに応じて、次第に甘ったれた口調になったり、握りしめた拳が次第に震えてきたり、やがて悲しげな沈黙に埋もれたりします。

加えて、言語記号(意味するもの)とその意味とは別物です。「カナシイ」は悲しくありません。

逆に言うと、それ自体はちっとも悲しくない「カナシイ」を口にすることで、想像上の悲しみを伝えることが言語記号を持つ人間にはできるのです。

犬は悲しそうな鳴き声を立てることしかない。その悲しげな「ク〜ン」の発声は「悲しくある」ことの、切り離せない一部です。

6-3
コトバは夢にも根ざしている。

何を何と差異づけるかということには人々の暮らしと文化が作用します。一つの概念を囲いとる意味のフィールドは、それぞれの言語と文化によって大きくなったり小さくてなったりするものです。

6-4
叙実以前に感嘆がある。

山田孝男(1875-1958)

日本語には「もののあはれ」を表現する「換体」という形式があることを主張しようとしたのかもしれません。

コトバの進化を想像すれば、はじめに感嘆法(虚偽を生み出せない感嘆と信仰の心)があり、そこにnotが入り込んで、事実/虚偽から事実を選ぶ直説法の「叙実文」が成立したと考えるのが正しい順番でしょう。

6-5
日本語は、主観的な思いの積み上げを許容する。

対人言語である日本語は、事実を確定しようとする構造を欠いているーーいや、事実を確定せずなるべく相手の判断に委ねる構造を発達させてきたーーんだろうと思います。

日本語の述語は、いわば、その陳述を「真」とする確定機能を必要としないのです。

自分の得た感覚的な情報を相手に届ける、というあたりが妥当だろうか。

そして、ここが重要なのだが、関係の認識をコトバにしないまま文を終えることは日本語では不可能である(書き言葉でも、「です・ます調」「である調」などの選択から逃れられない)。日本語で敬語は大事な「文法カテゴリーー」なのだ。

6-7
隠喩は深い真実だ。

隠喩は言葉遣いというよりも、心の様態の問題です。単なるレトリックでも、言い回しでもありません。私たちの思考が本源的に未分化な無意識とつながっている限り、隠喩的な思考モードはつねに身近なところにあります。

隠喩から醒めるにしたがって、アイデンティティというものが生まれ、単語の意味がかたまり、直訳が可能になる。しかしそれは事後的な状況で、ことばの初めにあるのは隠喩の方です。

助動詞と本動詞にまたがって、所有と平定(コントロール)の他動詞として多大な支配力を発揮するに至ったhave。その用法の変化と拡張について考えることは、私たちの人間の文明について、生体学的な視野で考えることにも通じていくのではないでしょうか。

シェイクスピア
『テンペスト』

人間たちはいろいろと動き回って歴史を作っている気になっているが、実のところはそうやって織られていく夢にすぎない。そしてプロスペロはこう続けますーー

and our little life is rounded with sleep.

我々のちっぽけな命は眠りに囲まれている、明確な輪郭はない、一つの大きな眠りの海に浮いているのだ、と、直接法のis で堂々と言い切るのです。

6-8
隠喩法は言語研究を推進する。

コトバはモノではない。名詞的存在ではない。モノになぞらえるのは悪しき隠喩に染まることだ、とどうしても思ってしまうからです。

ところがコトバはパターンです。

句はつながって節を成し、説は関係詞によって句に丸め込まれる。これが言語のパターンです。

私たちに必要なのは「コトバと生きる」ための知恵です。

カメラを引いて遠ざかって、言葉のツリー全体を、その背景(文脈)と一緒に見るようにしないと、教育の現場に生かせるような知はなかなか生まれない。大つかみの感覚をシンプルかつキッチリと伝える説明は生まれません。
 言語は私たちより大きく、その客観的な姿を目の前にすることがそもそもできないのだと思います。

言語の構造は、私たちの思考や信念を織り上げている構造そのものである。その構造が日本語と英語でずいぶん違う。


『英文法を哲学する』佐藤良明/著より抜粋し引用。

 

主体性を分岐させるオペレーター

 

 

第六章 形式のボリティークヘ

共存 コアビタシオンーー関係性の美学の拡張可能性についてのノート

視覚システム

かつて我々はイコンーー神の存在をイメージとして物質化したものーーを仰ぎ見る定めにあった。
 ルネサンス期における一点透視図法の発明は、抽象的な観客を具体的存在としての個人に変えた。絵画的装置によって与えられた固有の場所によって、個人は他者から切り離され、独立した存在となった。

遠近法は単一の視点を象徴化し、観客の立場に社会的象徴としての意味を与えたのだ。
 モダン・アートはこの関係を見直し、複数視点から同時に見られることを受け入れた。いや、我々はそうした認識は輸入されたものであることを認めなければならない。

エリック・トロンシーは、構築された場の環境によって観客を包み込む、この空間的効果を、平面作品にのみ用いられる〈オール・オーヴァー〉効果に対して、〈オール・ラウンド〉効果と呼んだ。

イメージは瞬間である

ある知覚表象は現実の任意の瞬間Mに他ならない。すべてのイメージはある瞬間なのだーー空間における任意の点が空間yの反映であるのと同時に時間xの記憶でもあるように。それは固まったまま動かない時間なのだろうか、それとも潜在的な可能性を含む時間なのか。

アーティストが見せるもの

現実とは第三者と話し合うことができる何かのことであり、交渉の中で定義されるものである。現実から離れることが〈狂気〉なのだ。

想像力は、話し相手との間で、より多くのやり取りを引き出すために現実に加えられた補綴のようなものなのである。だからアートの目的は、我々の間の機械的なやりとりを減らすことにあるのだと言っていいだろう。アートは被知覚対象に関するア・プリオリな了解の解体を目指しているのである。
 同様に作品の意味は、アーティストと観客の間の相互作用の産物なのであり、何らかの権威によって裏づけられるのではない。

かつては絵画の作法が作品解釈の大枠を提供していたものだが、今や観客に与えられるのは意味の断片に留まる。もしも作品から何も感じないとすれば、それは作品への働きかけが不足しているということなのである。

個人の主体性の限界

フェリックス・ガタリの魅力は、我々が従属させられている画一化装置としての〈マスメディアの工場〉に抵抗するために、主体化の機械を生産し、あらゆる状況を特異化しようとする彼の決意にある。

支配的なイデオロギーは、アーティストが孤独な存在でいることを望んでいる。

アーティストに関するこうした通俗的なイメージは、まったく関連性のないふたつの観念を混同した結果なのである。つまり、アーティストによる現行の共同体的規範の拒絶と、集団であることそれ自体の拒絶とを区別できていないのだ。あらゆる共同体主義による強制を拒絶しなければならないとするなら、それはまさしく新たに創出される関係のネットワークによって置き換えられるのである。

人はただ一人で〈狂気〉に走ることはない、なぜなら、世界に中心があると仮定しない限り、一人で考えることは決してないのだから(ジョルジュ・バタイユ)。一人で書き、描き、創作するものなどない。そのように振る舞うことを強いられているにすぎないのだ。

工学的相互主観性

九〇年代には集合知や〈ネットワーク〉の形式が芸術生産に援用されるようになった。インターネットの普及、現在のテクノミュージックシーンに見られる集合的実践、成長し続ける文化・余暇産業といった状況が、展覧会の関係的アプローチを生み出したのである。◉我々の時代のアーティストたちは対話者を探し求めている。彼らは抽象的な存在としての観客ではなく、より具体的な存在である対話者を制作プロセス自体に取り入れようとしている。作品の意味は、アーティストが提示する諸記号の動的な結合だけでなく、展示空間における観客たちの共同作業員によって生み出されるのである(マルクスの言葉通り、結局のところ現実とは我々の共同作業の一時的な帰結に他ならないのだ)。

効果のないアート?

リレーショナル・アートは社会的対立や差別、疎外された社会空間におけるコミュニケーションの不可能性から目を背け、アートの領域の中だけで、現実離れしたエリート主義的な社会形式のモデルを生産しているだけではないか。

コンセプチャル・アートは、言語と意味の透明な関係を汚したとして非難されるだろうか。ことはそれほど単純ではない。リレーショナル・アートに対して向けられる主な批判の声は、それが薄っぺらな社会批判を演じているに過ぎない、というものである。

リレーショナル・アートは、社会的な疎外を表象せず、分業制や芸術形式に拡張しない時空間形式の構築を目的とするのである。展覧会は、蔓延する疎外の領域に穿たれた間隙
なのだ。

展覧会は現行の社会的関係を単に否定するのではなく、それを変形させ、アートの制度とアーティストによってコード化された時空間に投影する。

形式の政治的展開

我々の時代に欠けているのは政治的プロジェクトではない。

形式は意味に形と方向付けを与え、日常生活に反響させる。集会(ソヴィエト〔労働者代表会議〕、アゴラ〔古代ギリシャの人民集会〕)、座り込み、デモ行進、ストライキ、そしてそれらに伴う視覚表現(横断幕、アジビラ、ピケなど)、革命の文化はさまざまな社会的行動の型を創造し、普及させた。
 我々の時代が用意しようとしている形式は、一時停止の領域を探求するーー一九九五年十二月の、都市機能を麻痺させるほどの大規模ストライキのように、別の仕方で時間を組織する試み。

現代は、フリーズした機械や一時停止のイメージの中に政治的効果を見出すのである。

世界的な近代性の挫折は、人間関係の商品化、政治的選択肢の乏しさ、経済的価値に結びつかない仕事の軽視と、それに対して自由時間の価値付けがなされていないという事実に明らかに示されている。
 イデオロギーは孤独な創作者を賞賛し、あらゆる共同体的活動を嘲笑う。

偽りの多様性、それこそイデオロギーの究極の罠なのだ。衰弱する現実を覆い隠す記号ばかりが増殖する間に、我々の可能性は日々狭められているのである。

実験の復権

伝統、卓越した技術、歴史的慣習への配慮に基づく美的価値を復活させることが、有用であり有益であるなどと誰が信じるというのだろうか。

関係性の美学と状況の構築

シチャアシオニストの主要なコンセプトの一つである〈状況の構築〉は、芸術的表象を、日常的環境において、芸術的エネルギーの実験的具現化に置き換える試みであった。

ーースペクタクルが何よりもまず人間関係(「イメージによって媒介された諸個人の社会関係」)に打撃を加えるのだとすると、スペクタクルに対する考察と抵抗は、新しい社会関係の生産を通じてのみ可能である。
 実際のところ状況という概念は、必ずしも他者との共存を含意しない。〈状況の構築〉を私的に利用し、意図的に他者を排除することも可能なのだ。〈状況〉は、時間と場所と行為の統一体を、観客の存在を必要としない劇場へ追いやるのである。一方で芸術的実践は常に他者との関係を含むものであると同時に、世界との関係を作り上げるものである。状況の構築は、交換形態から練り上げられる関係的な世界に、必ずしも対応するものではないのだ。

厳密に区別するならば、労働の時間は〈交換可能な時間〉というより、賃金およびそれに類するものによって購買可能な時間と言うべきなのである。〈関係的な世界〉ーー社会的間隙ーーを作り出す作品はシチュアシオニスムを更新し、アートの世界との間に可能なかぎりの和解をもたらすのだ。

美的パラダイム(フェリックス・ガタリとアート)

ガタリによれば、ジャンルやカテゴリー以上に「大切なものは、作品が言表行為の突然変異的な生産に実効的な貢献を果たすのかどうかを見極めること」なのであり、そしてさまざまなタイプの言表をカテゴリー化しないことである。生産様式のアレンジメントの一方の極に精神[psyche]が、もう一方の極に社会体[socius]が構築される。

美に関する思想の欠乏状態にある現在、コンテンポラリー・アートにガタリの思想を接ぎ木しようとする試みは、それがいかに恣意的な操作だとしても、ますます有効性を増しつつ、豊かな可能性をはらむ〈多声的な織物〉を生み出すように思われるのだ。

導かれ、作られる主体

主体性を脱自然化する

主体性の概念は確かにガタリの探求の主脈となるものである。彼は自らの生涯を主体性の入り組んだメカニズムとネットワークの解体と再構築に、そしてその構成要素と出口の探求に捧げ、さらに彼は主体性を社会機構の要石とまで見なしていた。

生産されるものとしての主体性は、ガタリの概念装置の中軸をなす。認識と行為の諸形式はその周りに自由にぶら下がり、社会体の法則を追求するのだ。

フェティシズムを捨て去り、思考様式としての、そして「生の肯定の創出」(ニーチェ)としてのアートを確立すること。主体性の究極の目的は、勝ち取られるべき個体化にほかならない。芸術的実践は、この個体化のための特権的な領土を形成し、人間存在一般に対して、可能な個体化のモデルを供給するのである。この意味で、ガタリの思想は、主体性を脱自然化し、それを生産の場に展開させ、一般的な経済的交換の枠組みの中に位置付けるという一連の流れを理論化する、壮大な企てとして定義することができるだろう。主体性ほど自然状態から遠いものはない。それは作られ、加工され、入念に仕上げられるのだ。

重要なのは、イデオロギーやカテゴリー化された思考の温床である公的な生産設備の核心部分において、新しいアレンジメントを作り上げる我々の能力、芸術的実践と多くの共通点を見せる我々の創造力である。美学へのガタリの貢献は、主体性を脱自然化・脱領土化し、神聖にして不可侵の主体という保護された領域から引きずり出し、機械状アレンジメントや、形成過程にある実存的領域が増殖している不穏な岸辺に接岸させる、彼の労苦において明らかに示されている。主体性は不穏である。人文科学を厳密な篩いにかけた現象学的手法に反し、人間でないものが〔主体性の〕不可欠な部分を構成するのだから。主体性は増殖する。その時にこそ、資本主義のシステム全体が、主体性の観点から解読できるようになるのだから。主体性が支配的である場所では、それはますますシステムの網に強制的に絡め取られるようになり、資本主義の目先の利益のために囚われの身となるのである。「社会にかかわるさまざまな機械が公共設備という名の大項目に分類されうるのと同様、情報通信技術を結集した機械もまた人間的主体性の核心部分に作用」するのだから。したがって我々は、主体性を「獲得し、強化し、再発見する」ことを学ばなければならない。さもなければ主体性は柔軟さを失い、もっぱら権力に奉仕する設備の集合に作り変えられてしまうだろう。

主体性の位置付けとその機能

主体性は、現象学によって、乗り越えがたい究極の実在を象徴するものとしての烙印を押され、一方で構造主義によって、ある時は迷信、またある時は単なるイデオロギーの効果と見なされた。

ガタリの語る主体性は、構造主義が説いたような、日常の制度に覆い隠された安定的秩序を追い求めるのではなく、カオス的秩序によって規定されるのだーー「ポストモダン社会に顕著な自棄の態度に陥らないようにするためには、明らかに無視しがたい面をもつ構造主義の発見と、その実際的な管理運用とのあいだである程度の均衡を図ることが今後の課題となる」。

そのうち最も重要なのは、主体性を主体から遊離させること、つまり前者を後者に本来的に備わる属性として結びつけているつながりを解くことである。したがって、主体性の地図は個人の境界を大きく踏み越えて描かれなければならない。主体の領土を、社会的行動を規制する非人間的な諸機械にまで拡張することによって、ガタリは、伝統的なイデオロギーを乗り越え、その〈再特異化〉を要請する。

経済的疎外の考察をもって、マルクスが労働の世界の核心における人間の解放に取り組むことができたのと同じく、真の個体化は精神生態の循環装置を開発することによってこそ可能になるのだ。ガタリは、主体性がいかに疎外され、精神の上部構造に依存しているかについて我々に注意を促し、そして主体性の解放の可能性を示したのである。

主体性は異なる領土との出会いを通じてのみ、自らの〈領土〉を構成することができるーー主体性の発生的形成、主体性は差異に基づいて、すなわち他性の原理によって自らを構成するのである。

ガタリによれば、主体性は自律的に存在するのではなく、いかなる場合においても主体の実存の基礎となることはない。主体性は組み合わされた仕方でのみ存在するーー「人間集団、社会=経済的機械、情報機械」の連合。そこには閃光のごとき決定的直観がある。

ガタリは主体性を、個人と主体化を媒介するものーーそれが個別的か集合的か、もしくは人間か非人間かにかかわらずーーとの間に作り上げられる関係の総体と定義した。

特異化/個体化の過程とは、「身体や幻想、過ぎゆく時間、生と死の〈神秘〉などに対する」新しい関係を創出し、思考と行動の画一化に抵抗するための道具として、シニフィアンを個人の〈実存の領土〉と一体化させることである。

個人の主体性は、これら諸機械の生産物を加工して作り上げられるのだ。主体性は、不和の、逸脱の、距離を取る操作の成果であり、環境問題を生産関係の総体から切り離して議論することができないのとちょうど同じように、その生産の過程を社会関係の総体から切り離すことは出来ないのである。

ガタリの主体性の概念は、美学に操作的パラダイムを導入するものであり、その正当性は、ここ三十年間のアーティストたちの実践によって証明されているのである。

主体化の単位

カントは風景や自然の諸形態の美的対象として認めたが、周知のように、ヘーゲルはその範囲を精神の働きによって形成される特定の種類の事物に限定した。そしてロマン主義美学は、芸術作品を人間主体の生産物、主体の心的宇宙を表現するものとして定立した。我々はいまだにそこから抜け出せてはいないようだ。二十世紀を通じて数多くの芸術理論が、このロマン主義的創造概念に異議申し立てを行ってきたが、どれもその基盤を完全に覆すものではなかった。

主体性の生産過程は、集合的な視点から再定義されなければならないのだ。個人は主体性の占有権を持たない。

作者の役割をオペレーターとしての立場にまで切り詰める、創造的操作という〈横断性の〉概念だけが、現在進行中の〈変化〉を説明できるーーデュシャン、ラウシェンバーグ、ボイス、ウォーホルらは、社会的動向に伴って変化する交換様式に基いて作品を制作したのであり、彼らの作品は、ロマン主義のイデオロギーによってアーティストにあてがわれた、精神の〈象牙の塔〉という神話を解体するのである。二十世紀の全体を通して、芸術作品が労働の領域の核心に侵入しつつ、同時に脱物質化していったことは偶然ではない。主体性の交換メカニズムを芸術の経済(作品を商品に変え、流通させることに特化した形式)に封じ込めてしまう〔作者の〕署名は、主体の〈多声性〉を寸断したうえで滅菌し物象化するものであり、主体性の生の形式がもつ複数の声を失わせてしまうのである。

だから主体性はいかなる同質性にも依拠していないという事実を認めるだけで十分なのだ。それどこれか主体性は、統合された精神生活という幻想の切断、分割、解体を通じて展開するのである。

西洋近代のアーティストは、その署名が〈意識の状態を統合するもの〉として通用するような主体として定義されるのであり、自らの主体性とスタイルとを意図的に混同させるのである。

〈主体化の構成要素〉が統一されて見えるのは、ただ皆が共有する幻想ーーそれを守っているのが商品価値を保証する署名とスタイルであるーーの効果に過ぎないのだ。

ガタリは主体性の様態の同質化や画一化に抵抗すべく、存在を〈異質発生のプロセス〉に巻き込むことの必要性を説いた。複数の特異性の宇宙や希少な生き方を連結し、社会的存在へ移行する前に自己自身において差異を培養すること、これこそ精神のエゴゾフィーの第一原理なのである。主体性のエコロジーが根本的に変わらなければ、そして主体性が相互依存性に基礎付けられていることを自覚しなければ、主体の再特異化など不可能なのである。この点でガタリの思想は、メンタリティと社会構造を一度に変革しようとした、今世紀の前衛運動の多くに連なるものである。

さまざまな人間的要求のまとまりである〈美的パラダイム〉の庇護のもと、ガタリが支持した、〈三つのエコロジー〉(環境の、社会の、そして精神のエコロジー)は、モダン・アートが希求したユートピアの延長線上に位置付られるのである。

美的パラダイム

科学主義パラダイム批判

美は何よりもまず〈エコゾフィー〉の台座であり、主体の生産のモデルであり、精神医療= 精神分析の実践を受胎させるための触媒の役割を担うものなのである。

ガタリが〈精神分析の関係者たち〉を非難するのは、彼らがフロイトやラカンの諸概念を、それ以上はないほどの確信をもって操り、過去へ向かうからである。無意識それ自体が「一個の制度……公的な生産設備」なのだ……。

より一般的に言えば、ガタリは科学と技術の総体を〈美的パラダイム〉に基づいて再モデル化しようとしているのである。

「私が視野に入れているのは、人間諸科学と社会科学が、科学主義のパラダイムを捨て、倫理的- 美的パラダイムに移るよう働きかけることである」。

アーティストとしての精神分析家の肖像ーー「アーティストが先人や同時代人から自分にとって好都合な着想を借り受けるのと同じように、私の著作を読む者は好きなように私の概念を取り入れたり、拒絶したりしてくれればいい」。

リトルネロ、徴候、作品

〈リトルネロ〉概念について論じているページを除けば、彼の著作の中に、受容美学に対するいかなる配慮の痕跡も見出すことはできない。そこで彼はテレビの視聴行為を例として取り上げている。テレビのスイッチを入れることによって、視聴者の〈人格的同一性の感覚〉は一時的な分裂状態に追いやられ、テレビを見る人は、次のような複数の主体感が交差する地点に身を置くことになる。

ここでは、〈実存的テリトリー〉を構成する前段階として、複数の主体性が〈リトルネロ化〉され、見ている対象に〈引っかかった〉状態になっている。ここでもまた、形式の鑑賞 = 観想が問題となるが、しかしここでのそれは、おなじみの〈意思の宙吊り〉(ショーペンハウエル)状態を指しているのではなく、行為の〈動機 モチーフ〉に向けられる精神エネルギーの凝集と集積としての熱力学プロセスなのだ。アートはエネルギーを捉え、〈リトルネロ化〉し、日常へと転用するーー反響、そして連鎖反応……。ガタリにとってアートは、純粋な《意志と物質との衝突》として、世界のカオスのただなかでテキストを書き記す、徹頭徹尾ニーチェ的な行為に例えられうるーー言い換えればそれは〈解釈し、見極めること〉なのだ……。広い意味で美的鑑賞の対象として提供される〈実存のモチーフ〉は、さまざまな主体性の構成要素を取り込み、そして主体化へ導くーー芸術作品をめがけ、ちょうど複数のスポットライトが焦点を合わせて一本のビームになり、そして一点を照らし出すように、主体性の再構成が引き起こされるのである。アートが最良の具体例を提供しているこうした主体の凝集作用の対極には、流動性の〈リトルネロ〉が硬化し、強迫観念へと変化することによって発症する神経症があるーーしかし精神病もまた、主体性の〈部分的構成要素〉を「妄想や幻覚の線」上に放置することで、自我の内部崩壊を引き起こす場合もある。こうした現象は、対象それ自体が神経症的であることを我々に示唆するものである。

神経症は触れるものすべてを〈固体化する〉のである。実存の領土を商業化し、主体のエネルギーの流れを収益に変える統合された資本主義は、神経症的に機能する。それは、砂漠化した直接交換の領域に残された空き地に殺到し、〈主体性に巨大な空虚〉を、すなわち「機械化の孤独」を発生させるのだ。この空虚は、人間でないもの、機械、との新たな契約を結ぶことによってしか埋めることはできない。

資本主義の体制によって個人に加えられる同質化という名の暴力、それがもたらす悲惨な結果を〈治癒する〉ためには、主体化の素材が現れなければならない。同質化とは、個人の主体性の基礎をなす相違を抑圧することなのだ。いずれにせよ、アートと精神生活は同じアレンジメントの中で、折り重なるように共存している。ガタリは、心的メカニズムをより物質的に表現するために、アートについて非物質的な表現を用いて記述しているに過ぎない。芸術的行為と同様に、分析においても、「時間はただ与えられるものであることをやめる。それはこちらから能動的に動かし、方向付けることができる、質的変化の対象」なのだ。分析家の役割が「主体化を生じさせる変異性の焦点を創造すること」にあるのなら、アーティストに対しても同じ公式を容易に当てはめることができるだろう。

部分対象としての芸術作品

〈再現するだけの消極的なイメージ〉や、商品としての芸術作品は、ガタリの関心の対象ではない。作品は実存の領土を物質化する。

作品は「主体性を分岐させるオペレーター」なのだ。

こうした認識は、鑑賞の悦びを提供するものとしての芸術作品を否定することによって、初めて可能になる。ガタリは、ニーチェの生の哲学(「我々を自己超克へと駆り立てるのは美への問いである」」を、自ら好んで用いる心的 = エコロジー的な語彙に転調させつつ、このドイツ人哲学者の周辺を巡り歩く。そうすることでガタリは、美的鑑賞行為に〈主体化の転移〉の過程を見出すことになったのだ。

主体性の構成要素はさまざまに異なる〈実存の領土〉に、一時的にのみ引っかかることでその機能を遂行する。芸術作品は視線を拘束するのではなく、自らの周囲に主体性のさまざまな構成要素を結晶化させ、新たな消失点へ向けて再分配するという、審美的まなざしが引き金となる、幻惑と催眠のプロセスを生じさせるのである。作品は、完成作や自閉的な全体性を対象とする古典的な受容美学によって定義されたような留め金とは、まるで正反対の存在なのだ。

芸術作品を部分対象とみなすこの定義は、極めて肯定的に芸術形式の変化を受け入れるものである。

ここで我々は、ドゥルーズ = ガタリが『哲学とは何か』において示した芸術活動の定義ーー「知覚されるもの ペルセプトと情動 アフェクトの組み合わせによる世界の認識」ーーの限界に触れている……。なぜなら部分対象ーー主体性を構成する異質な諸成分が特異化したものーーという観念それ自体が、全体性の観念を誘発するのだから。

充実した芸術作品は、思考の全体的経験の枠内で知覚されるものと情動を機能させるために、概念を提示しなければならないのではないか。

したがガタリの記述に基づくより適切なアートの定義は次のようになるだろうーー世界の認識を目指し、知覚されるものと情動を通じて概念を構築すること……。

芸術的=エコゾフィー的実践のために

エコゾフィー的事象は、環境と社会と主体性の倫理 = 政治的な接合によって構成される。

「現代においては、有形無形の物質材・非物質材の生産が個人的・集団的な実存の領土の一貫性をそこなうかたちで激化するにともなって、主体性のなかに巨大な空洞を生じさせ、ますます不条理な、どうしようもない事態をまねこうとしている」。

エコゾフィーは「社会的なもの、私的なもの、市民的なものを恣意的にセクター化していた古びたイデオロギーに取って代わ」ることができるのかもしれない。こうした観点に立てば、アートは高度に組織されると同時に高い〈浸透性〉を有する〈内在平面〉を供給する限りにおいて、依然として主体化のための貴重な補助手段であることが明らかになる。

職業組合的な主体性は、例えば〈セクター化〉された思考を反映し、「そのすべてが何よりも技術的、文化的な狙いをもっていたことを示す洞窟壁画を美的対象とすること」へと我々を導こうとするのである。

「二十世紀美術におけるプリミティヴィズム」展は、「一方には部族的、種族的、神話的な、もう一方には文化的、歴史的、経済的な」文脈から引き離された作品のあいだの、「形態上の、形式主義的な、結局のところかなり表面敵な相関関係」を盲信的に受け入れるものであった。芸術的実践の根源は主体性の生産にあるーーそこでどのような生産様式が適用されるは大きな問題ではない。とはいえ、選択された言表行為のアレンジメントによって主体性の生産が規定されることは明らかである。

現在のアートの行動経済学

「どのようにクラス〔学級〕を、芸術作品のように生きさせるか」てガタリは問う……。

それは美の使用価値の問題を、すなわち資本主義経済によって隙間なく織り上げられた生地に美を挿入する方法を問うことである。十九世紀末以降、近代性を基礎付けているのは〈芸術作品としての生〉という思想であり、そう考えるには十分な理由がある。オスカー・ワイルドは、近代は「アートが人生を模倣するのではなく、人生がアートを模倣する」時代であると言った……。

三つの作用領域ーー学問、虚構、行動ーー〔ヘの隷属〕は人間存在をあらかじめ確立された機能別のカテゴリーに分類し、ばらばらにしてしまうのである。だからガタリのエコゾフィーは、バタイユと同じく、実存の全体性を主体性の生産の前提条件として定める。そこで主体性の生産は、マルクスにとっての労働、バタイユにとっての内的経験と同様に、失われた全体性を個別的、集合的に再構成するための中心的な役割を担うのである。ガタリは言う、「人間の活動が追求する目的で唯一容認できるのは、世界と関係しながら常に自己を豊かにしていくような主体性の生産である」。我々の同時代のアーティストたちの実践に適用される理想的な定義とは次のようなものであるーー従来のアートの領域を画定していた具体的な事物に代わって、時間を素材とし、制作方法や存在様態をも包含する、実存のための装置を創造し演出すること。事物よりも形相を、カテゴリーよりも流れをーー物質的素材による事物の生産よりも身振りの生産が優先される。今日の観客は、自らの参照世界に閉じこもる内在的対象を鑑賞するのではなく、〈触媒的時間のモジュール〉の臨界を乗り越えるよう導かれる。一方アーティストは、動き続ける主体化の宇宙に、あるいは自身の主体性のマネキン人形として自らを提示する。その時アーティストは、その作品を統合する原理としての特権的経験の領土に生成変化する。

芸術的対対象は、この行動経済学において見せかけのアウラを獲得する。それは芸術作品の商業的流通に抵抗するための、あるいはそれに擬態しながら寄生するためのエージェントである。
 造形的オートポイエーシス装置の中で消費され、再生産にされる、集団的生産物(大量生産品)としての〈レディ・メイド〉ーーそれが特権的モデルとなる心的宇宙において、ガタリの思考スキームは、現在のアートが経験している変化を考察する上で我々の助けとなる。しかし、アートの領域内で限定的に生じている事象などはガタリの主要な関心事ではない。彼にとって美はなによりもまず社会の変化に随伴し、その流れを変えるものでなければならないのだから……。「地平線上に現れつつある野蛮、精神の内部崩壊、カオスモーズ的な痙攣という試練」を乗り越え、「それらを不可知の豊かさと喜びに変え」る助けにならないのならば、主体化の宇宙を再構成する詩的機能には何の意味もないだろう……。

 

 

語彙解説

アーティスト

今日のアーティストは記号のオペレーターとして、二重のシニフィアンを供給するために、生産構造をモデル化する。彼らは起業家/政治家/映画監督なのだ。すべてのアーティストの最大共通分母は、彼らが何かを見せているということだ。

アート

一般的に美術史と呼び習わされる物語に登場する対象の総称。この物語は絵画、彫刻、建築の三つの部分集合を通じて批評の系譜学を確立し、それら対象の提起する諸問題を考察する場となってきた。

ーーアートは、記号、形式、身振りもしくは物理的対象を通じて世界との諸関係を不断に生産し続ける活動である。

アート(の終わり)

〈アートの終わり〉は観念的な歴史観の中にしか存在しない。

「アートは」それがスタイルになることを通じて、「我々にとって過去のものとなる」。だからこそ、我々は現在起きていることに対してなにものにも縛られることなく向き合わなければならない。それは常に、我々のア・プリオリな認識能力を超えるのだから。

アカデミスム

死んだ記号と形式に執着し、それらを美化しさえする態度

イメージ

作品の制作には展示方法を考案することが必然的に含まれる。これによって、すべてのイメージは行為と等価なものになる。

エキストラの社会的

我々はスペクタクルの消費者と見なされた後、最終的にそのエキストラになるよう勧告されるのである。

関係性(の美学)

ある芸術作品を、それが描き出し、生産し、生み出す人間関係〔諸個人間の社会関係〕に応じて批評する美の理論。

記号間旅行者 セミオノート

現在のアーティストは記号間旅行者である。彼らはさまざまな記号を遍歴し、その軌道を描き出すのである。

共存の基準

あらゆる芸術作品は、現実を置き換える、もしくは現実に翻訳可能な社会モデルを生産する。したがってどのような美的制作物を前にするときでも、我々には次のように問う権利があるーー〈私はこの作品と対話することを許されているのだろうか。私はこの作品が定める空間に存在することができるのだろうか。どうすればそこに存在することができるのだろうか〉。形式は程度の差こそあれ民主的なものである。念のため、全体主義体制下のアートが作り出す形式は独断的かつ自己完結的(それらはとりわけ対称性を強調していた)であり、観客に作品を補完する機会を与えていなかったことを忘れてはならない。

近代

近代性の理念は消滅したのではなく、現代に適応したのである。

形式

世界を模して作られる構造的統一体。芸術的実践とは、異質な諸々のものごとが出会う平面を作り出し、世界との関係を生産するために〈持続〉可能な形式を創造することである。

行動

一、すでに確立された二つのジャンルである事物の歴史と形式の歴史と並んで、行動の歴史を創出することが今後の課題である。

アーティストの最も短い伝記は、作品空間において実現される身振りにこそ属しているのだ。

二、時間のプロデューサーとしてのアーティスト。

すべての全体主義イデオロギーを特徴付けるのは、生きられる時間を支配しようとする意志であるーーそれは個人によって生きられ、創出される柔軟な時間を、社会全体の意味を見通すことができる時間の画一化と集団化を徹底しようと試みる。つまり何よりもまず行動を画一化し管理下に置くことを目的として、永遠という幻想を打ち立てようとするのだ。フーコーは正しくも、生の技芸は「すでに確立されたものであるにせよ、現れつつあるものであるにせよ、ファシズムのあらゆる形態」に抗うものであるという事実を強調した。

事実性

アートが開くのは、意志が宙吊りにされる世界(ショーペンバウアー)でも、偶然性を排除した世界(サルトル)でもなく、事実的なもの〔事実と見せかけたもの〕を一掃した空間である。

スタイル

作品の運動、その軌道。「思考のスタイル、それはその運動にある」(ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ)。

住むこと アビテ

かつて未来の建築とアートを生み出そうと思いを巡らせたアーティストたちは、今日、〔現在の世界に〕住むための方法を提案する。我々の時代の近代性はエコロジーの形で現れるのであり、既存の形式やイメージの〔再〕利用から逃れることは出来ないのである。

操作的リアリズム

作品は機能モデルであって縮尺模型ではない。言わば、スクリーンの大きさに応じて投影される画面の大きさが変化するデジタル・イメージと同様に、物理的な広がりについては考慮に入れられていないのである。スクリーンは額縁とは異なり、あらかじめ決められたサイズに作品を閉じ込めることなく、未知の広がりにおいて作品の潜在性を物質化するのである。

*美

人間と他の動物とを区別する観念。死者の埋葬、笑い、自殺などは、結局のところ、人間の生は美的、儀式的に作り上げられるという根源的直観から派生した振る舞いに他ならない。

*批判的唯物論

世界は物質材の偶然の出会いによって成立している(ルクレティウス、ホッブズ、マルクス、アリチュセール)。アートも同様に記号ま形式が偶然に、カオス的に結合することによって作られる。今やアーティストたちは、まず出会いの空間を作り出すのである。現在のアートは制作行為の成果を提示するのではない。アーティストが提示するのは制作行為そのものなのであり、来たるべき制作行為なのだ。

文脈

一、アートとは本来的に、それが見せられる空間に対する芸術的介入の形式である。これまでアーティストによる展示空間の考察は、その物理的側面に、つまり建築的要素に向けられていた。しかし一九九〇年代のアートでは、もう一つの可能性、すなわち展覧会全体の文脈ーー展覧会の制度的構造、展覧会を取り巻く社会的=経済的特性、展覧会の当事者たちーーについての考察が優勢となった。

二、批判哲学以後のアート

マルクスの教えに従うなら、真の批判とは現実そのものを変えるために、現に存在するものに向けられる批判に他ならない。なぜならアーティストが、彼自身の表象する世界から抜け出し、逃げ込むための精神の部屋など存在しないのだから。

身振り

心理状態を明らかにし、思考を表現しようとする身体の運動。

予告編

芸術作品は当初、出来事それ自体(古典的絵画)としと受容された。その後、出来事の図像的な記録(ジャクソン・ポロックの作品、パフォーマンスやアクションの記録写真)とみなされた時代を経て、今日では未来の、あるいはいつまでも先延ばしにされる出来事の、その予告編の役割を果たすようになった。

リレーショナル(・アート)

自律的かつ私的な空間よりも、あらゆる人間関係とその社会的文脈を理論上および実践上の出発点とする芸術的実践の総体。

レディ・メイド

映画の発明と同時代に生み出された芸術形態。これ以降、アーティストは主観カメラとして現実世界を逍遥する撮影者として定義されるようになったーーそして美術館は、その実践を記録するためのフィルムの役割を担うことになる。デュシャンによって初めて、アートは記号を通じて現実を翻訳するのではなく、現実をありのままに提示するようになったのだ(デュシャン、そしてリュミエール兄弟……)。

 

 

原註

第六章

(1)〔作品にとって〕偶然は重要だが、それは制作時に限られる。ひとたび展示されれば作品は事実性の世界を離れ、すべては解釈に属することになる。

訳註



(一)

彼にとって(物質的)「形式」に関する問題はグリーンバーグ的なモダニズムにおける自律した鑑賞対象の造形的構成を越えるものであり、主体的実践を含むものとして問われている。

(四)

ーーコンヴィヴィアルな社会とは生産手段が集団によって所有されるのではなく、個人によって一時的に利用される社会(非オイディプス的な欲望の社会)であり、生産手段の利用を最大化し、機械を小さくかつ多様化し、生産者と利用者=消費者の区別も知識の専門化や職業の独占も廃棄する社会を意味している。

(六)

ユートピアは「ウートピア(Vtopia)」と「エウトビア(Eutopia)」、すなわち「どこにもない場所(ou-topia)と良い場所(eu-topia)というギリシア語をもとに造語されたものである。

第一章

(一二)

ニーチェ自身によるまとまった記述はないが、関係性の美学との関連において要約すると、現存する世界とは別に理想の世界があるということを否定し、現に生きられた生の持続を(永遠回帰として)、完成にではなく、生成のうちに肯定する思想、ということになるだろう。

芸術作品の生成的、実践的側面を最重要視しながら、一方でその形式化の必要性を強調するブリオーの理想には、創作におけるデュオニソス的作用(流動化、全体化)とアポロ的作用(形態化、範例化)の対を二項対立的にではなく、前者を根底に置きながら、後者を通じて生成の世界を持続するものに転換するニーチェの芸術論の反響を聞き取ることができる。

(一六)

固有の価値やルール(差異化原理)を持ち、相対的に自律して運動する社会空間のこと。世界はさまな界によって構成され、それぞれの界は固有の原理にしたがって界の内部を構成しつつ他の界に影響を及ぼす。ブルデューは、この領域を導入することによって社会的課題と諸個人の問題を同一の地平で分析しようと試みた。ブリオーにとって「界」のモデルは芸術作品の社会的次元を考察し、記述するための好適なツールとなっているようだ。

(ニ一)

「我々を「我々がいなかった場所」に置くとき、すなわち「他者の場所を奪う」とき、イメージは「非道徳的」なものとはならないのである」。

(ニニ)

アンドレ・バザンは現実をありのままに提示することが、映画の美学の基礎であると考え、現実を組み替え、現実に意味を付け加えるモンタージュよりも、シークエンス・ショットを重要視した。

このリアリズムに基づく美学の特徴は、作品を創造する主体よりも撮影される被写体(客体)の存在が重視される点にある。

(ニ四)

ここで「ヴィジュアル」は、異質な欲望の往復運動の契機としての「イメージ」に対置される、同質性に基づく視覚表現として位置付けられている。そこから、「ヴィジュアル」は宣伝広告のような、製作者の意図に従い一義的な欲望を掻き立てる視覚表現とみなすことができる。

第ニ章

(ニ)

「芸術作品は移行的で、反響を引き起こす。ドラクロワからクラインに連なる芸術作品が有するこの性質は、作品の存在論的有限性に抵抗する。作品は常に未完成であり、『鑑賞者によって磨き上げられる』のだ」。

(一四)

ピエール・ブルデューは、アートの世界を象徴資本の流通によって成立する象徴経済の世界とみなした。

(一五)

さまざまな工業製品の組み合わせからなるこのシリーズは、鑑賞対象としての芸術作品を意図するものではなく、利用されることによって観客の行動を誘発することを意図するものである。

第三章

(三)「我々はもはや対立や衝突によっても、新しい組み合わせの創出や、独立したさまざまなまとまりのあいだに可能な関係を作り出し、さまざまなパートナーとの同盟を築くことによっても、進歩を求めることはないのである」。

第四章

(五)

ダントーは彼の論考「アートワールド」で次のように述べている。「あるものを芸術と見ることは、目が見分けることができないあるものを要求するーーそれは、芸術理論が作り出す雰囲気であり、美術史の知識である。つまりそれは、アートワールドである」。

第六章

(一)

ガタリにとって主体性とは芸術作品のように特異に造形され創造されるものでもある。一方でブリオーは、ガタリのいう「主体性の生産」や「主体化」の作用およびそのプロセスが、現代の美的対象の編成と類比的な関係にあると考えている。

(八)

「アレンジメント(agencement)」はフェリックス・ガタリ独自の概念。「フロイトのコンプレックスという概念を置き換える」もので、「生物学的、社会学的、機械的、認識形而上学的、想像的な異種混交的な諸要素」からなる、「構造、システム、形式、過程などよりもより幅広い概念」である(ガタリ『分子革命』語彙解説より)。

(一〇)

「物質的・記号的な流れは主体や対象に先だって存在する。したがって欲望や流れの経済は本来的に主体的なものでも表象的なものでもない」(ガタリ『分子革命』語彙解説)。芸術作品を集合的に生産されるものととらえるブリオーにとって、作品を特徴付けるような特定の要素は、作者を同定するスタイルに由来するものではなく、それに先行する「流れ」が生み出すものであるということだろう。

(ニ四)

「リトルネロとはテリトリーを示すものであり、領土性のアレンジメントだということ」。(ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『千のプラトー』)

リトルネロとはカオスの中にあってカオスに対抗する力であり、カオスから表現への以降(ブリオーはこれを芸術作品の意味の生産の契機ととらえている)を可能にする機能を果たすものである。

 

 

訳者あとがき

本書が執筆されるきっかけは、ブリオー自身の同世代(少し上の先行世代も含む)のアーティストたちによる、一定の傾向をもった昨非、つまり「リレーショナル・アート」の誕生である。本書に従えば、こうした作品が生み出された背景には、主に三つの要因があるようだ。一つは第二次世界大戦後に加速度的に進行した都市化である。これによって人間相互の出会い状態が恒常化される環境的条件が用意された。これは同時に、都市空間のスペクタクル化をもたらした。もう一つは技術的革新による(テレ)コミュニケーション回路の高速化と多様化が挙げられる。ヴィデオ機器、ケーブルテレビ、そしてインターネットに代表されるコンピューターネットワークなどにより、距離や時間的な隔たりを超えて人間のコミュニケーションの総量が爆発的に増加し、そして相互化していった。最後にこれらの二つと並行して高まってきた文化的対象への介入の欲望がある。承認欲求に基づくこの欲望によって、特に音楽やポップ/サブカルチャーのジャンルで先行して、既存の作品へのパロディやリミックス、二次創作などがアンダーグランドからメインストリームへ侵入していった。加えて、フルクサスやハプニングといった、観客の参加を取り込んだ先行する芸術的実践も、マルセル・デュシャンの「芸術係数」という、芸術作品の共同制作者として観客を位置付ける概念と融合する相互性の文化の一端と見なされる。こうした状況的要因によって、人間同士の(相互)関係が物理的に可視化され、それらを素材として使用する芸術的実践が可能になった。

「関係性の美学」は(形式の)理論であるので、単に「リレーショナル・アート」の解釈を提供するためのものではなく、「作品」の「形式」一般について適用されうるものでなければならない。そのためにブリオーは、美術史を様式史としてではなく、かなり簡略にではあるが、世界との関係の生産史に読み替え、その思想的ルーツを偶然の出会いによって世界が成立するとする「偶然の唯物論」や、マルクスの「形式論」に据える。
 また、芸術作品一般が有する関係的な形式的特徴として、「移行性」と「透明性」という二つの性質を取り上げている。これらは、芸術作品の形式が人間の主体的な行為と関わるものであることを示すものとされる。「移行性」は、対話を通じて想像力や欲望を喚起し、作品と観客との関係を観客と世界との関係にまで拡張するという。また「透明性」は、「作品が、人間の制作行為の成果であることを明示する」。

絵画や彫刻といったメディウム・スペシフィックなカテゴリーを退けるブリオーは、それを「間隙」と表現する。「間隙」とは、一九九〇年代の社会から次第に失われつつあった、人間同士の交換=取引を促す場として機能するという。リレーショナル・アートを準備したコミュニケーションの増殖と高速化は、人間関係の物象化を招き、コミュニケーションそれ自体の疎外(コミュニケーションやサーヴィス経済)に帰結していた。芸術作品は、こうした状況を迂回し、穴をあけるために「間隙」の空間を生み出す。余暇と労働という人間活動のカテゴリー的分割に抵抗し、疎外のコミュニケーションに直接的交換の熱を加えることで、芸術作品はその政治的なプロジェクトを展開しうるとブリオーは考えている。
 しかし、「移行的」で「透明性」を有する形式の輪郭とはどのように描かれ、間隙が現出する場の基本的な単位はどのように定められるのか。ブリオーはそれを、作品が観客によって見られる場、つまり展覧会として設定する。展覧会は、美学的、制度的、文化的、地理(地政)学的、経済的な側面から、「共存の基準」に基づいて解釈しうる集合体な行為を通じて形成され、時空間的に(展示期間にわたって)持続する形式を現出させる場となる。

主体性は、個人によって独占的に構成され、その中心に占有されるものではなく、他の主体性や様々な対象(機械や設備などと表現されるもの)との流動的な関係によって、つまり「人間集団、社会=経済的機械、情報機械」の連合として編成されるものだとされる。だからこそ我々は、支配的・統合的なシステム(資本主義が名指されている)に囚われてしまわないよう、主体性を創造的に「獲得し、強化し、再発明する」方法を学ばなければならないということになる。

こうした「美的パラダイム」の思想を介して、ブリオーは芸術作品もまた、芸術の領域というカテゴライズされた場や、アーティストという純粋な創造者に占有されるものではなく、中心を外れ、さまざまな領域や他の主体性が関わる集合的な生産によって生み出されるものとみなさそうとしたのだろう。

双方向的な環境の発展によるコミュニケーションの物象化・スペクタクル化の帰結としてブリオーが名指した「エキストラの社会」の到来は、SNS上に溢れる同質的なイメージと、それらを生産するインフルエンサーと視聴者との間の、宗教的といっても良いような固化された関係に十分に反映されているだろう(インフルエンサーたちはクリエイターと呼ばれてさえいるのだ)。

現代の芸術作品は、支配的なシステムとの間の、ますます増殖し続ける混沌とした野蛮なトラフィックの中から生み出される。ブリオーは世界のカオスの只中にあるアートの働きを、〈解釈し、見極めること〉と説く。現代に生み出される、とらえがたい作品たちを、我々はどのように評価し、また批判するのだろうか。

諸個人の行動が相互に、あるいはなんらかの素材と関係することによって美的対象としての形式が生み出されるというブリオーの理論は、「主体」と「客体」はそれぞれ自体として自律的に存在するのではなく、相互に関係することを通じて互いを動的に編成するものであるという思考に基づいている。主体と客体の動的編成、あるいは人間と対象(もの)の間の移行のイメージは、「関係性の美学」の後にもブリオーの主要な関心であり続けているようだ。

ニ〇ニ三年九月十九日
辻憲行

 

『関係性の美学』ニコラ・ブリオー/著、辻憲行/訳より抜粋し引用。