小動物とエクリ -2ページ目

主体性を分岐させるオペレーター

 

 

第六章 形式のボリティークヘ

共存 コアビタシオンーー関係性の美学の拡張可能性についてのノート

視覚システム

かつて我々はイコンーー神の存在をイメージとして物質化したものーーを仰ぎ見る定めにあった。
 ルネサンス期における一点透視図法の発明は、抽象的な観客を具体的存在としての個人に変えた。絵画的装置によって与えられた固有の場所によって、個人は他者から切り離され、独立した存在となった。

遠近法は単一の視点を象徴化し、観客の立場に社会的象徴としての意味を与えたのだ。
 モダン・アートはこの関係を見直し、複数視点から同時に見られることを受け入れた。いや、我々はそうした認識は輸入されたものであることを認めなければならない。

エリック・トロンシーは、構築された場の環境によって観客を包み込む、この空間的効果を、平面作品にのみ用いられる〈オール・オーヴァー〉効果に対して、〈オール・ラウンド〉効果と呼んだ。

イメージは瞬間である

ある知覚表象は現実の任意の瞬間Mに他ならない。すべてのイメージはある瞬間なのだーー空間における任意の点が空間yの反映であるのと同時に時間xの記憶でもあるように。それは固まったまま動かない時間なのだろうか、それとも潜在的な可能性を含む時間なのか。

アーティストが見せるもの

現実とは第三者と話し合うことができる何かのことであり、交渉の中で定義されるものである。現実から離れることが〈狂気〉なのだ。

想像力は、話し相手との間で、より多くのやり取りを引き出すために現実に加えられた補綴のようなものなのである。だからアートの目的は、我々の間の機械的なやりとりを減らすことにあるのだと言っていいだろう。アートは被知覚対象に関するア・プリオリな了解の解体を目指しているのである。
 同様に作品の意味は、アーティストと観客の間の相互作用の産物なのであり、何らかの権威によって裏づけられるのではない。

かつては絵画の作法が作品解釈の大枠を提供していたものだが、今や観客に与えられるのは意味の断片に留まる。もしも作品から何も感じないとすれば、それは作品への働きかけが不足しているということなのである。

個人の主体性の限界

フェリックス・ガタリの魅力は、我々が従属させられている画一化装置としての〈マスメディアの工場〉に抵抗するために、主体化の機械を生産し、あらゆる状況を特異化しようとする彼の決意にある。

支配的なイデオロギーは、アーティストが孤独な存在でいることを望んでいる。

アーティストに関するこうした通俗的なイメージは、まったく関連性のないふたつの観念を混同した結果なのである。つまり、アーティストによる現行の共同体的規範の拒絶と、集団であることそれ自体の拒絶とを区別できていないのだ。あらゆる共同体主義による強制を拒絶しなければならないとするなら、それはまさしく新たに創出される関係のネットワークによって置き換えられるのである。

人はただ一人で〈狂気〉に走ることはない、なぜなら、世界に中心があると仮定しない限り、一人で考えることは決してないのだから(ジョルジュ・バタイユ)。一人で書き、描き、創作するものなどない。そのように振る舞うことを強いられているにすぎないのだ。

工学的相互主観性

九〇年代には集合知や〈ネットワーク〉の形式が芸術生産に援用されるようになった。インターネットの普及、現在のテクノミュージックシーンに見られる集合的実践、成長し続ける文化・余暇産業といった状況が、展覧会の関係的アプローチを生み出したのである。◉我々の時代のアーティストたちは対話者を探し求めている。彼らは抽象的な存在としての観客ではなく、より具体的な存在である対話者を制作プロセス自体に取り入れようとしている。作品の意味は、アーティストが提示する諸記号の動的な結合だけでなく、展示空間における観客たちの共同作業員によって生み出されるのである(マルクスの言葉通り、結局のところ現実とは我々の共同作業の一時的な帰結に他ならないのだ)。

効果のないアート?

リレーショナル・アートは社会的対立や差別、疎外された社会空間におけるコミュニケーションの不可能性から目を背け、アートの領域の中だけで、現実離れしたエリート主義的な社会形式のモデルを生産しているだけではないか。

コンセプチャル・アートは、言語と意味の透明な関係を汚したとして非難されるだろうか。ことはそれほど単純ではない。リレーショナル・アートに対して向けられる主な批判の声は、それが薄っぺらな社会批判を演じているに過ぎない、というものである。

リレーショナル・アートは、社会的な疎外を表象せず、分業制や芸術形式に拡張しない時空間形式の構築を目的とするのである。展覧会は、蔓延する疎外の領域に穿たれた間隙
なのだ。

展覧会は現行の社会的関係を単に否定するのではなく、それを変形させ、アートの制度とアーティストによってコード化された時空間に投影する。

形式の政治的展開

我々の時代に欠けているのは政治的プロジェクトではない。

形式は意味に形と方向付けを与え、日常生活に反響させる。集会(ソヴィエト〔労働者代表会議〕、アゴラ〔古代ギリシャの人民集会〕)、座り込み、デモ行進、ストライキ、そしてそれらに伴う視覚表現(横断幕、アジビラ、ピケなど)、革命の文化はさまざまな社会的行動の型を創造し、普及させた。
 我々の時代が用意しようとしている形式は、一時停止の領域を探求するーー一九九五年十二月の、都市機能を麻痺させるほどの大規模ストライキのように、別の仕方で時間を組織する試み。

現代は、フリーズした機械や一時停止のイメージの中に政治的効果を見出すのである。

世界的な近代性の挫折は、人間関係の商品化、政治的選択肢の乏しさ、経済的価値に結びつかない仕事の軽視と、それに対して自由時間の価値付けがなされていないという事実に明らかに示されている。
 イデオロギーは孤独な創作者を賞賛し、あらゆる共同体的活動を嘲笑う。

偽りの多様性、それこそイデオロギーの究極の罠なのだ。衰弱する現実を覆い隠す記号ばかりが増殖する間に、我々の可能性は日々狭められているのである。

実験の復権

伝統、卓越した技術、歴史的慣習への配慮に基づく美的価値を復活させることが、有用であり有益であるなどと誰が信じるというのだろうか。

関係性の美学と状況の構築

シチャアシオニストの主要なコンセプトの一つである〈状況の構築〉は、芸術的表象を、日常的環境において、芸術的エネルギーの実験的具現化に置き換える試みであった。

ーースペクタクルが何よりもまず人間関係(「イメージによって媒介された諸個人の社会関係」)に打撃を加えるのだとすると、スペクタクルに対する考察と抵抗は、新しい社会関係の生産を通じてのみ可能である。
 実際のところ状況という概念は、必ずしも他者との共存を含意しない。〈状況の構築〉を私的に利用し、意図的に他者を排除することも可能なのだ。〈状況〉は、時間と場所と行為の統一体を、観客の存在を必要としない劇場へ追いやるのである。一方で芸術的実践は常に他者との関係を含むものであると同時に、世界との関係を作り上げるものである。状況の構築は、交換形態から練り上げられる関係的な世界に、必ずしも対応するものではないのだ。

厳密に区別するならば、労働の時間は〈交換可能な時間〉というより、賃金およびそれに類するものによって購買可能な時間と言うべきなのである。〈関係的な世界〉ーー社会的間隙ーーを作り出す作品はシチュアシオニスムを更新し、アートの世界との間に可能なかぎりの和解をもたらすのだ。

美的パラダイム(フェリックス・ガタリとアート)

ガタリによれば、ジャンルやカテゴリー以上に「大切なものは、作品が言表行為の突然変異的な生産に実効的な貢献を果たすのかどうかを見極めること」なのであり、そしてさまざまなタイプの言表をカテゴリー化しないことである。生産様式のアレンジメントの一方の極に精神[psyche]が、もう一方の極に社会体[socius]が構築される。

美に関する思想の欠乏状態にある現在、コンテンポラリー・アートにガタリの思想を接ぎ木しようとする試みは、それがいかに恣意的な操作だとしても、ますます有効性を増しつつ、豊かな可能性をはらむ〈多声的な織物〉を生み出すように思われるのだ。

導かれ、作られる主体

主体性を脱自然化する

主体性の概念は確かにガタリの探求の主脈となるものである。彼は自らの生涯を主体性の入り組んだメカニズムとネットワークの解体と再構築に、そしてその構成要素と出口の探求に捧げ、さらに彼は主体性を社会機構の要石とまで見なしていた。

生産されるものとしての主体性は、ガタリの概念装置の中軸をなす。認識と行為の諸形式はその周りに自由にぶら下がり、社会体の法則を追求するのだ。

フェティシズムを捨て去り、思考様式としての、そして「生の肯定の創出」(ニーチェ)としてのアートを確立すること。主体性の究極の目的は、勝ち取られるべき個体化にほかならない。芸術的実践は、この個体化のための特権的な領土を形成し、人間存在一般に対して、可能な個体化のモデルを供給するのである。この意味で、ガタリの思想は、主体性を脱自然化し、それを生産の場に展開させ、一般的な経済的交換の枠組みの中に位置付けるという一連の流れを理論化する、壮大な企てとして定義することができるだろう。主体性ほど自然状態から遠いものはない。それは作られ、加工され、入念に仕上げられるのだ。

重要なのは、イデオロギーやカテゴリー化された思考の温床である公的な生産設備の核心部分において、新しいアレンジメントを作り上げる我々の能力、芸術的実践と多くの共通点を見せる我々の創造力である。美学へのガタリの貢献は、主体性を脱自然化・脱領土化し、神聖にして不可侵の主体という保護された領域から引きずり出し、機械状アレンジメントや、形成過程にある実存的領域が増殖している不穏な岸辺に接岸させる、彼の労苦において明らかに示されている。主体性は不穏である。人文科学を厳密な篩いにかけた現象学的手法に反し、人間でないものが〔主体性の〕不可欠な部分を構成するのだから。主体性は増殖する。その時にこそ、資本主義のシステム全体が、主体性の観点から解読できるようになるのだから。主体性が支配的である場所では、それはますますシステムの網に強制的に絡め取られるようになり、資本主義の目先の利益のために囚われの身となるのである。「社会にかかわるさまざまな機械が公共設備という名の大項目に分類されうるのと同様、情報通信技術を結集した機械もまた人間的主体性の核心部分に作用」するのだから。したがって我々は、主体性を「獲得し、強化し、再発見する」ことを学ばなければならない。さもなければ主体性は柔軟さを失い、もっぱら権力に奉仕する設備の集合に作り変えられてしまうだろう。

主体性の位置付けとその機能

主体性は、現象学によって、乗り越えがたい究極の実在を象徴するものとしての烙印を押され、一方で構造主義によって、ある時は迷信、またある時は単なるイデオロギーの効果と見なされた。

ガタリの語る主体性は、構造主義が説いたような、日常の制度に覆い隠された安定的秩序を追い求めるのではなく、カオス的秩序によって規定されるのだーー「ポストモダン社会に顕著な自棄の態度に陥らないようにするためには、明らかに無視しがたい面をもつ構造主義の発見と、その実際的な管理運用とのあいだである程度の均衡を図ることが今後の課題となる」。

そのうち最も重要なのは、主体性を主体から遊離させること、つまり前者を後者に本来的に備わる属性として結びつけているつながりを解くことである。したがって、主体性の地図は個人の境界を大きく踏み越えて描かれなければならない。主体の領土を、社会的行動を規制する非人間的な諸機械にまで拡張することによって、ガタリは、伝統的なイデオロギーを乗り越え、その〈再特異化〉を要請する。

経済的疎外の考察をもって、マルクスが労働の世界の核心における人間の解放に取り組むことができたのと同じく、真の個体化は精神生態の循環装置を開発することによってこそ可能になるのだ。ガタリは、主体性がいかに疎外され、精神の上部構造に依存しているかについて我々に注意を促し、そして主体性の解放の可能性を示したのである。

主体性は異なる領土との出会いを通じてのみ、自らの〈領土〉を構成することができるーー主体性の発生的形成、主体性は差異に基づいて、すなわち他性の原理によって自らを構成するのである。

ガタリによれば、主体性は自律的に存在するのではなく、いかなる場合においても主体の実存の基礎となることはない。主体性は組み合わされた仕方でのみ存在するーー「人間集団、社会=経済的機械、情報機械」の連合。そこには閃光のごとき決定的直観がある。

ガタリは主体性を、個人と主体化を媒介するものーーそれが個別的か集合的か、もしくは人間か非人間かにかかわらずーーとの間に作り上げられる関係の総体と定義した。

特異化/個体化の過程とは、「身体や幻想、過ぎゆく時間、生と死の〈神秘〉などに対する」新しい関係を創出し、思考と行動の画一化に抵抗するための道具として、シニフィアンを個人の〈実存の領土〉と一体化させることである。

個人の主体性は、これら諸機械の生産物を加工して作り上げられるのだ。主体性は、不和の、逸脱の、距離を取る操作の成果であり、環境問題を生産関係の総体から切り離して議論することができないのとちょうど同じように、その生産の過程を社会関係の総体から切り離すことは出来ないのである。

ガタリの主体性の概念は、美学に操作的パラダイムを導入するものであり、その正当性は、ここ三十年間のアーティストたちの実践によって証明されているのである。

主体化の単位

カントは風景や自然の諸形態の美的対象として認めたが、周知のように、ヘーゲルはその範囲を精神の働きによって形成される特定の種類の事物に限定した。そしてロマン主義美学は、芸術作品を人間主体の生産物、主体の心的宇宙を表現するものとして定立した。我々はいまだにそこから抜け出せてはいないようだ。二十世紀を通じて数多くの芸術理論が、このロマン主義的創造概念に異議申し立てを行ってきたが、どれもその基盤を完全に覆すものではなかった。

主体性の生産過程は、集合的な視点から再定義されなければならないのだ。個人は主体性の占有権を持たない。

作者の役割をオペレーターとしての立場にまで切り詰める、創造的操作という〈横断性の〉概念だけが、現在進行中の〈変化〉を説明できるーーデュシャン、ラウシェンバーグ、ボイス、ウォーホルらは、社会的動向に伴って変化する交換様式に基いて作品を制作したのであり、彼らの作品は、ロマン主義のイデオロギーによってアーティストにあてがわれた、精神の〈象牙の塔〉という神話を解体するのである。二十世紀の全体を通して、芸術作品が労働の領域の核心に侵入しつつ、同時に脱物質化していったことは偶然ではない。主体性の交換メカニズムを芸術の経済(作品を商品に変え、流通させることに特化した形式)に封じ込めてしまう〔作者の〕署名は、主体の〈多声性〉を寸断したうえで滅菌し物象化するものであり、主体性の生の形式がもつ複数の声を失わせてしまうのである。

だから主体性はいかなる同質性にも依拠していないという事実を認めるだけで十分なのだ。それどこれか主体性は、統合された精神生活という幻想の切断、分割、解体を通じて展開するのである。

西洋近代のアーティストは、その署名が〈意識の状態を統合するもの〉として通用するような主体として定義されるのであり、自らの主体性とスタイルとを意図的に混同させるのである。

〈主体化の構成要素〉が統一されて見えるのは、ただ皆が共有する幻想ーーそれを守っているのが商品価値を保証する署名とスタイルであるーーの効果に過ぎないのだ。

ガタリは主体性の様態の同質化や画一化に抵抗すべく、存在を〈異質発生のプロセス〉に巻き込むことの必要性を説いた。複数の特異性の宇宙や希少な生き方を連結し、社会的存在へ移行する前に自己自身において差異を培養すること、これこそ精神のエゴゾフィーの第一原理なのである。主体性のエコロジーが根本的に変わらなければ、そして主体性が相互依存性に基礎付けられていることを自覚しなければ、主体の再特異化など不可能なのである。この点でガタリの思想は、メンタリティと社会構造を一度に変革しようとした、今世紀の前衛運動の多くに連なるものである。

さまざまな人間的要求のまとまりである〈美的パラダイム〉の庇護のもと、ガタリが支持した、〈三つのエコロジー〉(環境の、社会の、そして精神のエコロジー)は、モダン・アートが希求したユートピアの延長線上に位置付られるのである。

美的パラダイム

科学主義パラダイム批判

美は何よりもまず〈エコゾフィー〉の台座であり、主体の生産のモデルであり、精神医療= 精神分析の実践を受胎させるための触媒の役割を担うものなのである。

ガタリが〈精神分析の関係者たち〉を非難するのは、彼らがフロイトやラカンの諸概念を、それ以上はないほどの確信をもって操り、過去へ向かうからである。無意識それ自体が「一個の制度……公的な生産設備」なのだ……。

より一般的に言えば、ガタリは科学と技術の総体を〈美的パラダイム〉に基づいて再モデル化しようとしているのである。

「私が視野に入れているのは、人間諸科学と社会科学が、科学主義のパラダイムを捨て、倫理的- 美的パラダイムに移るよう働きかけることである」。

アーティストとしての精神分析家の肖像ーー「アーティストが先人や同時代人から自分にとって好都合な着想を借り受けるのと同じように、私の著作を読む者は好きなように私の概念を取り入れたり、拒絶したりしてくれればいい」。

リトルネロ、徴候、作品

〈リトルネロ〉概念について論じているページを除けば、彼の著作の中に、受容美学に対するいかなる配慮の痕跡も見出すことはできない。そこで彼はテレビの視聴行為を例として取り上げている。テレビのスイッチを入れることによって、視聴者の〈人格的同一性の感覚〉は一時的な分裂状態に追いやられ、テレビを見る人は、次のような複数の主体感が交差する地点に身を置くことになる。

ここでは、〈実存的テリトリー〉を構成する前段階として、複数の主体性が〈リトルネロ化〉され、見ている対象に〈引っかかった〉状態になっている。ここでもまた、形式の鑑賞 = 観想が問題となるが、しかしここでのそれは、おなじみの〈意思の宙吊り〉(ショーペンハウエル)状態を指しているのではなく、行為の〈動機 モチーフ〉に向けられる精神エネルギーの凝集と集積としての熱力学プロセスなのだ。アートはエネルギーを捉え、〈リトルネロ化〉し、日常へと転用するーー反響、そして連鎖反応……。ガタリにとってアートは、純粋な《意志と物質との衝突》として、世界のカオスのただなかでテキストを書き記す、徹頭徹尾ニーチェ的な行為に例えられうるーー言い換えればそれは〈解釈し、見極めること〉なのだ……。広い意味で美的鑑賞の対象として提供される〈実存のモチーフ〉は、さまざまな主体性の構成要素を取り込み、そして主体化へ導くーー芸術作品をめがけ、ちょうど複数のスポットライトが焦点を合わせて一本のビームになり、そして一点を照らし出すように、主体性の再構成が引き起こされるのである。アートが最良の具体例を提供しているこうした主体の凝集作用の対極には、流動性の〈リトルネロ〉が硬化し、強迫観念へと変化することによって発症する神経症があるーーしかし精神病もまた、主体性の〈部分的構成要素〉を「妄想や幻覚の線」上に放置することで、自我の内部崩壊を引き起こす場合もある。こうした現象は、対象それ自体が神経症的であることを我々に示唆するものである。

神経症は触れるものすべてを〈固体化する〉のである。実存の領土を商業化し、主体のエネルギーの流れを収益に変える統合された資本主義は、神経症的に機能する。それは、砂漠化した直接交換の領域に残された空き地に殺到し、〈主体性に巨大な空虚〉を、すなわち「機械化の孤独」を発生させるのだ。この空虚は、人間でないもの、機械、との新たな契約を結ぶことによってしか埋めることはできない。

資本主義の体制によって個人に加えられる同質化という名の暴力、それがもたらす悲惨な結果を〈治癒する〉ためには、主体化の素材が現れなければならない。同質化とは、個人の主体性の基礎をなす相違を抑圧することなのだ。いずれにせよ、アートと精神生活は同じアレンジメントの中で、折り重なるように共存している。ガタリは、心的メカニズムをより物質的に表現するために、アートについて非物質的な表現を用いて記述しているに過ぎない。芸術的行為と同様に、分析においても、「時間はただ与えられるものであることをやめる。それはこちらから能動的に動かし、方向付けることができる、質的変化の対象」なのだ。分析家の役割が「主体化を生じさせる変異性の焦点を創造すること」にあるのなら、アーティストに対しても同じ公式を容易に当てはめることができるだろう。

部分対象としての芸術作品

〈再現するだけの消極的なイメージ〉や、商品としての芸術作品は、ガタリの関心の対象ではない。作品は実存の領土を物質化する。

作品は「主体性を分岐させるオペレーター」なのだ。

こうした認識は、鑑賞の悦びを提供するものとしての芸術作品を否定することによって、初めて可能になる。ガタリは、ニーチェの生の哲学(「我々を自己超克へと駆り立てるのは美への問いである」」を、自ら好んで用いる心的 = エコロジー的な語彙に転調させつつ、このドイツ人哲学者の周辺を巡り歩く。そうすることでガタリは、美的鑑賞行為に〈主体化の転移〉の過程を見出すことになったのだ。

主体性の構成要素はさまざまに異なる〈実存の領土〉に、一時的にのみ引っかかることでその機能を遂行する。芸術作品は視線を拘束するのではなく、自らの周囲に主体性のさまざまな構成要素を結晶化させ、新たな消失点へ向けて再分配するという、審美的まなざしが引き金となる、幻惑と催眠のプロセスを生じさせるのである。作品は、完成作や自閉的な全体性を対象とする古典的な受容美学によって定義されたような留め金とは、まるで正反対の存在なのだ。

芸術作品を部分対象とみなすこの定義は、極めて肯定的に芸術形式の変化を受け入れるものである。

ここで我々は、ドゥルーズ = ガタリが『哲学とは何か』において示した芸術活動の定義ーー「知覚されるもの ペルセプトと情動 アフェクトの組み合わせによる世界の認識」ーーの限界に触れている……。なぜなら部分対象ーー主体性を構成する異質な諸成分が特異化したものーーという観念それ自体が、全体性の観念を誘発するのだから。

充実した芸術作品は、思考の全体的経験の枠内で知覚されるものと情動を機能させるために、概念を提示しなければならないのではないか。

したがガタリの記述に基づくより適切なアートの定義は次のようになるだろうーー世界の認識を目指し、知覚されるものと情動を通じて概念を構築すること……。

芸術的=エコゾフィー的実践のために

エコゾフィー的事象は、環境と社会と主体性の倫理 = 政治的な接合によって構成される。

「現代においては、有形無形の物質材・非物質材の生産が個人的・集団的な実存の領土の一貫性をそこなうかたちで激化するにともなって、主体性のなかに巨大な空洞を生じさせ、ますます不条理な、どうしようもない事態をまねこうとしている」。

エコゾフィーは「社会的なもの、私的なもの、市民的なものを恣意的にセクター化していた古びたイデオロギーに取って代わ」ることができるのかもしれない。こうした観点に立てば、アートは高度に組織されると同時に高い〈浸透性〉を有する〈内在平面〉を供給する限りにおいて、依然として主体化のための貴重な補助手段であることが明らかになる。

職業組合的な主体性は、例えば〈セクター化〉された思考を反映し、「そのすべてが何よりも技術的、文化的な狙いをもっていたことを示す洞窟壁画を美的対象とすること」へと我々を導こうとするのである。

「二十世紀美術におけるプリミティヴィズム」展は、「一方には部族的、種族的、神話的な、もう一方には文化的、歴史的、経済的な」文脈から引き離された作品のあいだの、「形態上の、形式主義的な、結局のところかなり表面敵な相関関係」を盲信的に受け入れるものであった。芸術的実践の根源は主体性の生産にあるーーそこでどのような生産様式が適用されるは大きな問題ではない。とはいえ、選択された言表行為のアレンジメントによって主体性の生産が規定されることは明らかである。

現在のアートの行動経済学

「どのようにクラス〔学級〕を、芸術作品のように生きさせるか」てガタリは問う……。

それは美の使用価値の問題を、すなわち資本主義経済によって隙間なく織り上げられた生地に美を挿入する方法を問うことである。十九世紀末以降、近代性を基礎付けているのは〈芸術作品としての生〉という思想であり、そう考えるには十分な理由がある。オスカー・ワイルドは、近代は「アートが人生を模倣するのではなく、人生がアートを模倣する」時代であると言った……。

三つの作用領域ーー学問、虚構、行動ーー〔ヘの隷属〕は人間存在をあらかじめ確立された機能別のカテゴリーに分類し、ばらばらにしてしまうのである。だからガタリのエコゾフィーは、バタイユと同じく、実存の全体性を主体性の生産の前提条件として定める。そこで主体性の生産は、マルクスにとっての労働、バタイユにとっての内的経験と同様に、失われた全体性を個別的、集合的に再構成するための中心的な役割を担うのである。ガタリは言う、「人間の活動が追求する目的で唯一容認できるのは、世界と関係しながら常に自己を豊かにしていくような主体性の生産である」。我々の同時代のアーティストたちの実践に適用される理想的な定義とは次のようなものであるーー従来のアートの領域を画定していた具体的な事物に代わって、時間を素材とし、制作方法や存在様態をも包含する、実存のための装置を創造し演出すること。事物よりも形相を、カテゴリーよりも流れをーー物質的素材による事物の生産よりも身振りの生産が優先される。今日の観客は、自らの参照世界に閉じこもる内在的対象を鑑賞するのではなく、〈触媒的時間のモジュール〉の臨界を乗り越えるよう導かれる。一方アーティストは、動き続ける主体化の宇宙に、あるいは自身の主体性のマネキン人形として自らを提示する。その時アーティストは、その作品を統合する原理としての特権的経験の領土に生成変化する。

芸術的対対象は、この行動経済学において見せかけのアウラを獲得する。それは芸術作品の商業的流通に抵抗するための、あるいはそれに擬態しながら寄生するためのエージェントである。
 造形的オートポイエーシス装置の中で消費され、再生産にされる、集団的生産物(大量生産品)としての〈レディ・メイド〉ーーそれが特権的モデルとなる心的宇宙において、ガタリの思考スキームは、現在のアートが経験している変化を考察する上で我々の助けとなる。しかし、アートの領域内で限定的に生じている事象などはガタリの主要な関心事ではない。彼にとって美はなによりもまず社会の変化に随伴し、その流れを変えるものでなければならないのだから……。「地平線上に現れつつある野蛮、精神の内部崩壊、カオスモーズ的な痙攣という試練」を乗り越え、「それらを不可知の豊かさと喜びに変え」る助けにならないのならば、主体化の宇宙を再構成する詩的機能には何の意味もないだろう……。

 

 

語彙解説

アーティスト

今日のアーティストは記号のオペレーターとして、二重のシニフィアンを供給するために、生産構造をモデル化する。彼らは起業家/政治家/映画監督なのだ。すべてのアーティストの最大共通分母は、彼らが何かを見せているということだ。

アート

一般的に美術史と呼び習わされる物語に登場する対象の総称。この物語は絵画、彫刻、建築の三つの部分集合を通じて批評の系譜学を確立し、それら対象の提起する諸問題を考察する場となってきた。

ーーアートは、記号、形式、身振りもしくは物理的対象を通じて世界との諸関係を不断に生産し続ける活動である。

アート(の終わり)

〈アートの終わり〉は観念的な歴史観の中にしか存在しない。

「アートは」それがスタイルになることを通じて、「我々にとって過去のものとなる」。だからこそ、我々は現在起きていることに対してなにものにも縛られることなく向き合わなければならない。それは常に、我々のア・プリオリな認識能力を超えるのだから。

アカデミスム

死んだ記号と形式に執着し、それらを美化しさえする態度

イメージ

作品の制作には展示方法を考案することが必然的に含まれる。これによって、すべてのイメージは行為と等価なものになる。

エキストラの社会的

我々はスペクタクルの消費者と見なされた後、最終的にそのエキストラになるよう勧告されるのである。

関係性(の美学)

ある芸術作品を、それが描き出し、生産し、生み出す人間関係〔諸個人間の社会関係〕に応じて批評する美の理論。

記号間旅行者 セミオノート

現在のアーティストは記号間旅行者である。彼らはさまざまな記号を遍歴し、その軌道を描き出すのである。

共存の基準

あらゆる芸術作品は、現実を置き換える、もしくは現実に翻訳可能な社会モデルを生産する。したがってどのような美的制作物を前にするときでも、我々には次のように問う権利があるーー〈私はこの作品と対話することを許されているのだろうか。私はこの作品が定める空間に存在することができるのだろうか。どうすればそこに存在することができるのだろうか〉。形式は程度の差こそあれ民主的なものである。念のため、全体主義体制下のアートが作り出す形式は独断的かつ自己完結的(それらはとりわけ対称性を強調していた)であり、観客に作品を補完する機会を与えていなかったことを忘れてはならない。

近代

近代性の理念は消滅したのではなく、現代に適応したのである。

形式

世界を模して作られる構造的統一体。芸術的実践とは、異質な諸々のものごとが出会う平面を作り出し、世界との関係を生産するために〈持続〉可能な形式を創造することである。

行動

一、すでに確立された二つのジャンルである事物の歴史と形式の歴史と並んで、行動の歴史を創出することが今後の課題である。

アーティストの最も短い伝記は、作品空間において実現される身振りにこそ属しているのだ。

二、時間のプロデューサーとしてのアーティスト。

すべての全体主義イデオロギーを特徴付けるのは、生きられる時間を支配しようとする意志であるーーそれは個人によって生きられ、創出される柔軟な時間を、社会全体の意味を見通すことができる時間の画一化と集団化を徹底しようと試みる。つまり何よりもまず行動を画一化し管理下に置くことを目的として、永遠という幻想を打ち立てようとするのだ。フーコーは正しくも、生の技芸は「すでに確立されたものであるにせよ、現れつつあるものであるにせよ、ファシズムのあらゆる形態」に抗うものであるという事実を強調した。

事実性

アートが開くのは、意志が宙吊りにされる世界(ショーペンバウアー)でも、偶然性を排除した世界(サルトル)でもなく、事実的なもの〔事実と見せかけたもの〕を一掃した空間である。

スタイル

作品の運動、その軌道。「思考のスタイル、それはその運動にある」(ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ)。

住むこと アビテ

かつて未来の建築とアートを生み出そうと思いを巡らせたアーティストたちは、今日、〔現在の世界に〕住むための方法を提案する。我々の時代の近代性はエコロジーの形で現れるのであり、既存の形式やイメージの〔再〕利用から逃れることは出来ないのである。

操作的リアリズム

作品は機能モデルであって縮尺模型ではない。言わば、スクリーンの大きさに応じて投影される画面の大きさが変化するデジタル・イメージと同様に、物理的な広がりについては考慮に入れられていないのである。スクリーンは額縁とは異なり、あらかじめ決められたサイズに作品を閉じ込めることなく、未知の広がりにおいて作品の潜在性を物質化するのである。

*美

人間と他の動物とを区別する観念。死者の埋葬、笑い、自殺などは、結局のところ、人間の生は美的、儀式的に作り上げられるという根源的直観から派生した振る舞いに他ならない。

*批判的唯物論

世界は物質材の偶然の出会いによって成立している(ルクレティウス、ホッブズ、マルクス、アリチュセール)。アートも同様に記号ま形式が偶然に、カオス的に結合することによって作られる。今やアーティストたちは、まず出会いの空間を作り出すのである。現在のアートは制作行為の成果を提示するのではない。アーティストが提示するのは制作行為そのものなのであり、来たるべき制作行為なのだ。

文脈

一、アートとは本来的に、それが見せられる空間に対する芸術的介入の形式である。これまでアーティストによる展示空間の考察は、その物理的側面に、つまり建築的要素に向けられていた。しかし一九九〇年代のアートでは、もう一つの可能性、すなわち展覧会全体の文脈ーー展覧会の制度的構造、展覧会を取り巻く社会的=経済的特性、展覧会の当事者たちーーについての考察が優勢となった。

二、批判哲学以後のアート

マルクスの教えに従うなら、真の批判とは現実そのものを変えるために、現に存在するものに向けられる批判に他ならない。なぜならアーティストが、彼自身の表象する世界から抜け出し、逃げ込むための精神の部屋など存在しないのだから。

身振り

心理状態を明らかにし、思考を表現しようとする身体の運動。

予告編

芸術作品は当初、出来事それ自体(古典的絵画)としと受容された。その後、出来事の図像的な記録(ジャクソン・ポロックの作品、パフォーマンスやアクションの記録写真)とみなされた時代を経て、今日では未来の、あるいはいつまでも先延ばしにされる出来事の、その予告編の役割を果たすようになった。

リレーショナル(・アート)

自律的かつ私的な空間よりも、あらゆる人間関係とその社会的文脈を理論上および実践上の出発点とする芸術的実践の総体。

レディ・メイド

映画の発明と同時代に生み出された芸術形態。これ以降、アーティストは主観カメラとして現実世界を逍遥する撮影者として定義されるようになったーーそして美術館は、その実践を記録するためのフィルムの役割を担うことになる。デュシャンによって初めて、アートは記号を通じて現実を翻訳するのではなく、現実をありのままに提示するようになったのだ(デュシャン、そしてリュミエール兄弟……)。

 

 

原註

第六章

(1)〔作品にとって〕偶然は重要だが、それは制作時に限られる。ひとたび展示されれば作品は事実性の世界を離れ、すべては解釈に属することになる。

訳註



(一)

彼にとって(物質的)「形式」に関する問題はグリーンバーグ的なモダニズムにおける自律した鑑賞対象の造形的構成を越えるものであり、主体的実践を含むものとして問われている。

(四)

ーーコンヴィヴィアルな社会とは生産手段が集団によって所有されるのではなく、個人によって一時的に利用される社会(非オイディプス的な欲望の社会)であり、生産手段の利用を最大化し、機械を小さくかつ多様化し、生産者と利用者=消費者の区別も知識の専門化や職業の独占も廃棄する社会を意味している。

(六)

ユートピアは「ウートピア(Vtopia)」と「エウトビア(Eutopia)」、すなわち「どこにもない場所(ou-topia)と良い場所(eu-topia)というギリシア語をもとに造語されたものである。

第一章

(一二)

ニーチェ自身によるまとまった記述はないが、関係性の美学との関連において要約すると、現存する世界とは別に理想の世界があるということを否定し、現に生きられた生の持続を(永遠回帰として)、完成にではなく、生成のうちに肯定する思想、ということになるだろう。

芸術作品の生成的、実践的側面を最重要視しながら、一方でその形式化の必要性を強調するブリオーの理想には、創作におけるデュオニソス的作用(流動化、全体化)とアポロ的作用(形態化、範例化)の対を二項対立的にではなく、前者を根底に置きながら、後者を通じて生成の世界を持続するものに転換するニーチェの芸術論の反響を聞き取ることができる。

(一六)

固有の価値やルール(差異化原理)を持ち、相対的に自律して運動する社会空間のこと。世界はさまな界によって構成され、それぞれの界は固有の原理にしたがって界の内部を構成しつつ他の界に影響を及ぼす。ブルデューは、この領域を導入することによって社会的課題と諸個人の問題を同一の地平で分析しようと試みた。ブリオーにとって「界」のモデルは芸術作品の社会的次元を考察し、記述するための好適なツールとなっているようだ。

(ニ一)

「我々を「我々がいなかった場所」に置くとき、すなわち「他者の場所を奪う」とき、イメージは「非道徳的」なものとはならないのである」。

(ニニ)

アンドレ・バザンは現実をありのままに提示することが、映画の美学の基礎であると考え、現実を組み替え、現実に意味を付け加えるモンタージュよりも、シークエンス・ショットを重要視した。

このリアリズムに基づく美学の特徴は、作品を創造する主体よりも撮影される被写体(客体)の存在が重視される点にある。

(ニ四)

ここで「ヴィジュアル」は、異質な欲望の往復運動の契機としての「イメージ」に対置される、同質性に基づく視覚表現として位置付けられている。そこから、「ヴィジュアル」は宣伝広告のような、製作者の意図に従い一義的な欲望を掻き立てる視覚表現とみなすことができる。

第ニ章

(ニ)

「芸術作品は移行的で、反響を引き起こす。ドラクロワからクラインに連なる芸術作品が有するこの性質は、作品の存在論的有限性に抵抗する。作品は常に未完成であり、『鑑賞者によって磨き上げられる』のだ」。

(一四)

ピエール・ブルデューは、アートの世界を象徴資本の流通によって成立する象徴経済の世界とみなした。

(一五)

さまざまな工業製品の組み合わせからなるこのシリーズは、鑑賞対象としての芸術作品を意図するものではなく、利用されることによって観客の行動を誘発することを意図するものである。

第三章

(三)「我々はもはや対立や衝突によっても、新しい組み合わせの創出や、独立したさまざまなまとまりのあいだに可能な関係を作り出し、さまざまなパートナーとの同盟を築くことによっても、進歩を求めることはないのである」。

第四章

(五)

ダントーは彼の論考「アートワールド」で次のように述べている。「あるものを芸術と見ることは、目が見分けることができないあるものを要求するーーそれは、芸術理論が作り出す雰囲気であり、美術史の知識である。つまりそれは、アートワールドである」。

第六章

(一)

ガタリにとって主体性とは芸術作品のように特異に造形され創造されるものでもある。一方でブリオーは、ガタリのいう「主体性の生産」や「主体化」の作用およびそのプロセスが、現代の美的対象の編成と類比的な関係にあると考えている。

(八)

「アレンジメント(agencement)」はフェリックス・ガタリ独自の概念。「フロイトのコンプレックスという概念を置き換える」もので、「生物学的、社会学的、機械的、認識形而上学的、想像的な異種混交的な諸要素」からなる、「構造、システム、形式、過程などよりもより幅広い概念」である(ガタリ『分子革命』語彙解説より)。

(一〇)

「物質的・記号的な流れは主体や対象に先だって存在する。したがって欲望や流れの経済は本来的に主体的なものでも表象的なものでもない」(ガタリ『分子革命』語彙解説)。芸術作品を集合的に生産されるものととらえるブリオーにとって、作品を特徴付けるような特定の要素は、作者を同定するスタイルに由来するものではなく、それに先行する「流れ」が生み出すものであるということだろう。

(ニ四)

「リトルネロとはテリトリーを示すものであり、領土性のアレンジメントだということ」。(ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『千のプラトー』)

リトルネロとはカオスの中にあってカオスに対抗する力であり、カオスから表現への以降(ブリオーはこれを芸術作品の意味の生産の契機ととらえている)を可能にする機能を果たすものである。

 

 

訳者あとがき

本書が執筆されるきっかけは、ブリオー自身の同世代(少し上の先行世代も含む)のアーティストたちによる、一定の傾向をもった昨非、つまり「リレーショナル・アート」の誕生である。本書に従えば、こうした作品が生み出された背景には、主に三つの要因があるようだ。一つは第二次世界大戦後に加速度的に進行した都市化である。これによって人間相互の出会い状態が恒常化される環境的条件が用意された。これは同時に、都市空間のスペクタクル化をもたらした。もう一つは技術的革新による(テレ)コミュニケーション回路の高速化と多様化が挙げられる。ヴィデオ機器、ケーブルテレビ、そしてインターネットに代表されるコンピューターネットワークなどにより、距離や時間的な隔たりを超えて人間のコミュニケーションの総量が爆発的に増加し、そして相互化していった。最後にこれらの二つと並行して高まってきた文化的対象への介入の欲望がある。承認欲求に基づくこの欲望によって、特に音楽やポップ/サブカルチャーのジャンルで先行して、既存の作品へのパロディやリミックス、二次創作などがアンダーグランドからメインストリームへ侵入していった。加えて、フルクサスやハプニングといった、観客の参加を取り込んだ先行する芸術的実践も、マルセル・デュシャンの「芸術係数」という、芸術作品の共同制作者として観客を位置付ける概念と融合する相互性の文化の一端と見なされる。こうした状況的要因によって、人間同士の(相互)関係が物理的に可視化され、それらを素材として使用する芸術的実践が可能になった。

「関係性の美学」は(形式の)理論であるので、単に「リレーショナル・アート」の解釈を提供するためのものではなく、「作品」の「形式」一般について適用されうるものでなければならない。そのためにブリオーは、美術史を様式史としてではなく、かなり簡略にではあるが、世界との関係の生産史に読み替え、その思想的ルーツを偶然の出会いによって世界が成立するとする「偶然の唯物論」や、マルクスの「形式論」に据える。
 また、芸術作品一般が有する関係的な形式的特徴として、「移行性」と「透明性」という二つの性質を取り上げている。これらは、芸術作品の形式が人間の主体的な行為と関わるものであることを示すものとされる。「移行性」は、対話を通じて想像力や欲望を喚起し、作品と観客との関係を観客と世界との関係にまで拡張するという。また「透明性」は、「作品が、人間の制作行為の成果であることを明示する」。

絵画や彫刻といったメディウム・スペシフィックなカテゴリーを退けるブリオーは、それを「間隙」と表現する。「間隙」とは、一九九〇年代の社会から次第に失われつつあった、人間同士の交換=取引を促す場として機能するという。リレーショナル・アートを準備したコミュニケーションの増殖と高速化は、人間関係の物象化を招き、コミュニケーションそれ自体の疎外(コミュニケーションやサーヴィス経済)に帰結していた。芸術作品は、こうした状況を迂回し、穴をあけるために「間隙」の空間を生み出す。余暇と労働という人間活動のカテゴリー的分割に抵抗し、疎外のコミュニケーションに直接的交換の熱を加えることで、芸術作品はその政治的なプロジェクトを展開しうるとブリオーは考えている。
 しかし、「移行的」で「透明性」を有する形式の輪郭とはどのように描かれ、間隙が現出する場の基本的な単位はどのように定められるのか。ブリオーはそれを、作品が観客によって見られる場、つまり展覧会として設定する。展覧会は、美学的、制度的、文化的、地理(地政)学的、経済的な側面から、「共存の基準」に基づいて解釈しうる集合体な行為を通じて形成され、時空間的に(展示期間にわたって)持続する形式を現出させる場となる。

主体性は、個人によって独占的に構成され、その中心に占有されるものではなく、他の主体性や様々な対象(機械や設備などと表現されるもの)との流動的な関係によって、つまり「人間集団、社会=経済的機械、情報機械」の連合として編成されるものだとされる。だからこそ我々は、支配的・統合的なシステム(資本主義が名指されている)に囚われてしまわないよう、主体性を創造的に「獲得し、強化し、再発明する」方法を学ばなければならないということになる。

こうした「美的パラダイム」の思想を介して、ブリオーは芸術作品もまた、芸術の領域というカテゴライズされた場や、アーティストという純粋な創造者に占有されるものではなく、中心を外れ、さまざまな領域や他の主体性が関わる集合的な生産によって生み出されるものとみなさそうとしたのだろう。

双方向的な環境の発展によるコミュニケーションの物象化・スペクタクル化の帰結としてブリオーが名指した「エキストラの社会」の到来は、SNS上に溢れる同質的なイメージと、それらを生産するインフルエンサーと視聴者との間の、宗教的といっても良いような固化された関係に十分に反映されているだろう(インフルエンサーたちはクリエイターと呼ばれてさえいるのだ)。

現代の芸術作品は、支配的なシステムとの間の、ますます増殖し続ける混沌とした野蛮なトラフィックの中から生み出される。ブリオーは世界のカオスの只中にあるアートの働きを、〈解釈し、見極めること〉と説く。現代に生み出される、とらえがたい作品たちを、我々はどのように評価し、また批判するのだろうか。

諸個人の行動が相互に、あるいはなんらかの素材と関係することによって美的対象としての形式が生み出されるというブリオーの理論は、「主体」と「客体」はそれぞれ自体として自律的に存在するのではなく、相互に関係することを通じて互いを動的に編成するものであるという思考に基づいている。主体と客体の動的編成、あるいは人間と対象(もの)の間の移行のイメージは、「関係性の美学」の後にもブリオーの主要な関心であり続けているようだ。

ニ〇ニ三年九月十九日
辻憲行

 

『関係性の美学』ニコラ・ブリオー/著、辻憲行/訳より抜粋し引用。

 

異なる関係 | 動いている世界に途中から乗り込む

 

 



一九九〇年代のアートは、理論的言説の欠落によって誤解に晒されている。

批評家の第一の仕事は、特定の時代に立ち上がる諸問題の「入りくんだ争点」を再構成し、提示されたさまざまな応答を仔細に検討することであり、過去の問題を列挙し解決策が得られなかったことを嘆くことではない。

いずれにせよ、アートというチェス盤上で最も活発な展開を見せているのは、相互的、交歓的 コンヴィヴィアル、関係的な局面なのである。

今日、コミュニケーションは〔効果的な広告手段として利用され〕、社会的なつながりを特定の商品の消費へと切り分けて管理する空間に、人々の接触を閉じ込めてしまう。一方で芸術活動は、ささやかなつながりを作り出し、閉ざされた通路を開き、隔てられた現実の諸次元をひとつにしようと務める。

今や市場価値を持たないものは消え去る運命にある。やがて、商業空間の外部では人間同士の関係は成り立たなくなってしまうだろう。

このように、全面的な商品化の傾向は、現在の人間関係の空間に強烈な打撃を加えている。

社会的紐帯は、標準化された人工物に形を変えられたのだ。分業化と超専門化、機械化と収益性が支配する世界では、人間関係を管理かつ反復可能な、単純な原理に従属させるように誘導することこそが、支配権力の最優先事項となる。

もはや人間関係は〈直接経験される〉ものではなくなり、〈人目を引く スペクタキュレール〉表象の中へ遠ざかって行くのである。ここに、今日のアートにおける最も切実な問題がある。


第一章 関係的な形式

芸術活動は、その形式、様相、機能が時代や社会的文脈に応じて変化するある種のゲームであり、そこには不変不動の本質など存在しない。

新しさはもはや価値判断基準ではない。

現在の芸術的実践を評価するための、より効果的な道具と、より妥当な基準を作り出すためには、今まさに社会的領野で生じている変化をーー既に変化したものと、今なお変化の途上にあるものとをーー把握する必要がある。

現代の芸術的実践とその文化的プロジェクト

啓蒙思想から生まれた近代政治思想は、個人と諸民族を解放しようとする意志によって動機付けられていた。

解放を目指した近代の計画は、数え切れないほどの哀しみをもたらしたのである。

我々は、近代の計画が前衛に先行して存在していたということ、前衛の企図とは多くの点で異なるものであったことを忘れてはならない。

死んだのは近代性そのものではなく、その理想主義的、目的論的ヴァージョンに過ぎないのだ。

歴史的近代の後流に自らの実践を位置づけるアーティストたちが望むのは、モダン・アートの形式や公準を反復することではないし、現在のアートに同じ役割を割り当てることでもない。

作品は、もはや空想的でユートピア的な現実を構築しようとするのではなく、アーティストがそれぞれの作品において選択する規模において、実在する世界の中で新たな存在様式や行為モデルを構成するのである。

アルチュセールによれば、我々はつねに動いている世界という列車を追いかけるのであり、ドゥルーズによれば、植物は根や先端から成長するのでさなく、「草は、……それ自身、中間から生える」。アーティストは、自身の生の文脈(アーティストが世界と織りなす知覚的もしくは概念的関係)を持続する宇宙に変えるために、現在によって与えられる状況に身を置くのである。アーティストは動いている世界に途中から乗り込む。

マウリツィオ・カテランの言葉を借りるならば、「甘いユートピア」の時代が到来したのだ……。

社会の間隙としての芸術作品

リレーショナル・アート(自律的かつ私的な象徴空間の確立ではなく、人間の相互作用とその社会的文脈を理論的地平とするアート)の可能性、それはモダン・アートが設定した美学的、文化的、政治的な目標の根源的変換を証言することにある。

とりわけ第二次世界大戦後に急速に広がった都市化は(交通網の整備、通信技術の発達、遠隔地の段階的開発、それに伴う個人のメンタリティの解放を通じて)、社会的交換を飛躍的に増大させ、個人の流動性を高めた。

作品の機能や展示形式の変化は、芸術的経験の都市化の過程を証言するものであると言えよう。

いまや作品は経験の持続として、無制限の議論への入口として提示されるのだ。都市は近接性の経験ーー社会という状態の具体的な象徴であり、歴史的枠組みでもあるーーを可能にし、そして一般化させた。

この集中的な出会いを可能にするシステムは、ひとたび文明の絶対的なルールになったとき、ついに対応する芸術的実践を生み出したーーそれは相互主観性を基盤とし、共存することや、観客と図像との〈出会い〉、そして意味の集合的構築を中心的主題とする芸術形式である。

アートは程度の差こそあれ、つねに関係的であったし、社会的行動の要因であり対話のきっかけとなるものであったのだ。ミシェル・マフェゾリの言葉を借りるなら、イメージは潜在的につなげる力をもっているーー旗、略号、アイコン、記号は、共感や分有を通じて、紐帯を生み出すのである。アート(絵画や彫刻から派生した、展覧会形式で公開されるさまざまな実践の総体)が近接性の文化にとりわけ適した表現行為であるのは間違いない。

関係の空間を緊密に編み直すからだ。展覧会では、たとえそれが不活性な形式であっても、即時的かつ無媒介的な議論が可能なのだーー我々は他者と同一の時間と空間を知覚し、語り、移動する。アートは固有の社会的行動を生産する場所なのである。

我々にとって芸術作品は、その商品性格や意味論的価値を越え、社会の間隙を表象するものである。カール・マルクスは、利潤法則を免れ、資本主義経済の枠組みから抜け落ちるような原始的な商業共同体ーー物々交換、ダンピング、自給自足などによって維持される共同体ーーを、間隙[interstice]と表現した。

展覧会は自由な空間と非日常的なリズムを刻む時間を作り出し、お仕着せの〈コミュニケーション・ゾーン〉とは別のしかたで個人間の取引を促すのだから。現代の社会は、そうした取引のための場所を作り出すどころか、人間同士の関係の可能性をますます制限しつつある。

かつて多くの交流、歓び、軋轢の場となっていた仕事を、機械が代行するのだ。

オロスコの写真作品(草原に置かれた寝袋や空っぽの靴箱)は、都市や半都市の日常のなかで起きる小さな革命の無言の記録であり、他者との関係が作り出す、もの言わぬ生命(〈静物〉、死せる自然)についての証言
なのだ。

アーティスト、作品の性質、提案もしくは表象する社会モデル、それら構成要素によって要求される観客参加の程度に応じ、展覧会はそれぞれに固有の〈交換の領域〉を生成する。

あらゆる表象(コンテンポラリー・アートは社会を再現=表象するのではなく、むしろモデル化するのであり、社会から着想を得るのではなく、むしろ社会構造に挿入されるのだが)は、社会的実践へと移調可能な価値を反響させるのである。アートは取引に基づく人間活動であり、倫理の対象であると同時にその主体でもあるのだから。

アートは他の人間活動と異なり、取引されること以外の機能を持たないのだ。
 アートとは出会い状態なのである。

関係性の美学と偶然の唯物論

関係性の美学は唯物論の伝統に連なるものである。唯物論的であるということは、自明な事実に固執するということではないし、純粋に経済的な観点から作品を解釈しようとするような偏狭な態度を意味するわけでもない。

この唯物論は、世界の偶然性を出発点としており、世界にはいかなる起源も、あらかじめ定められた意味も、目的を与える理性も存在しないとする。そして、人間の本質は純粋に個体を超越するものであり、それは、常に歴史的に形成される社会的形式の中で、諸個人を結びつける紐帯によって構成されるのだ(マルクスーー「人間の本質とは、……社会的諸関係の総体なのである」)。

ドゥボールは〈状況の構築〉を、日常生活の革命による〈アートの超克〉と見なしていたのだから。関係性の美学は、単一の起源や目的を記述する芸術理論ではなく、形式についての理論なのである。

形式とは一貫性を有するまとまり、世界の諸特性を現す構造(構成要素間の相互依存関係を内包する独立した対象)である。

芸術作品は実在する形式全体の一部にすぎないのである。

形式を生み出すのは〈偏り〉と、平行線を描いていた二つの要素の偶然の出会いなのだ。

〈形式は、持続する出会いとして定義される〉。

作品の誕生の瞬間にその意味を「保持」する全体を形成し、新たな〈生の肯定〉を生み出すとき、持続的であることを明示する。すべての作品は、持続する世界のモデルなのである。

ドゥルーズ=ガタリによる「芸術家が創造するのは、知覚されるもの[percepts]と情動[affects]のブロックである」という芸術家の定義は、まさにこのことを言っているのだ。アートとは、主体が特異な経験ーーセザンヌのリンゴであれビュレンヌのストライプであれーーに出会う瞬間を一つにまとめておくことなのである。言うまでもないが、世界を構築するために原子の出会いを持続させる結合材の組成は、歴史的文脈に依存する。

「世界」をブロンズのような物質的素材によって結びつけることが出来ない。ばらばらな要素の集合(たとえばインスタレーションのようなもの)として認識することを可能にするほど複雑化し、豊かになった。

芸術的な〈もの ショーズ〉は、時間的もしくは空間的に生じる〈出来事〉、あるいは出来事の集合として姿を現す場合があるが、それでもそのまとまり(出来事を形式に、つまり世界にするための)に疑いの余地はない。その枠組みは孤立した対象を越え、状況全体を包含するように拡大した。

現代の作品形式は、その物理的形態を越える広がりをもっている。形式とは諸要素の出会いを生み出すもの、力動的な凝集の原理なのである。芸術作品は[持続という]線上の点なのだ。

形式と他者のまなざし

セルジュ・ダネーの言葉通り、「いかなる〈形式〉も我々を見つめる顔である」とするならば、ひとたび対話の次元に入った時、形式はどのように変化するのだろうか。関係的な形式の本質とは何か。

ーー形式が我々を見つめるならば、我々はどう形式を見返すのか。
 一般的に形式は内容に対する輪郭として定義される。しかしモダニズムの美学は、形式と内容とのある種の融合(混合)、つまり両者を巧妙に一致させることで、〈形式美〉について語る。したがってモダニズムの美学において、作品は造形的な形態を通じて判断されることになる。一方で新たな芸術的実践に向けられるもっとも流布した批判は、その〈形式的な実効性〉をいっさい認めず、〈形式的解決〉の欠陥をあげつらうものである。現在の芸術的実践について考察するならば、我々は「形式」よりもむしろ《形成 フォルマシオン》について語るべきだろう。スタイルと署名によって閉じ込められた物理的対象としてのアートとは対照的に、現在のアートは次のことを明らかにするのであるーー形式は出会いのなかにのみ、つまりある芸術的命題と、それが芸術的であるか否かに関わらず、他のさまざまな形成されたものとの間で維持される、力動的な関係のなかにのみ存在する。
 形式は自然や野生状態には存在しない。それは我々のまなざしによって視覚的世界の深みから切り出され、形を与えられるのだから。形式は他の形式から発現する。

たとえ自分自身を客観視しているつもりでも、それは結局のところ他の主体との永続的な取引の結果として辿り着いた思考でしかないのだ。

我々が確信しているのは、形式は人間との相互作用的な関係によってのみ一貫性(と現実的な実在性)を獲得する、ということだ。芸術作品の形式は、我々と共有される認知可能なものとの交渉を通じて生み出されるのである。アーティストは形式を通じて対話する。したがって芸術的実践の本質は、主体間の相互関係を創出することにあると言える。つまりすべての芸術作品は、共に世界に住むための提案である。そしてアーティストの仕事は、異なる関係を無限に生成し続ける、世界との関係の束なのだ。

ド・デューヴによれば、すべての作品は歴史的および美学的〈判断の総体〉であり、それを具現化する行為として表明されるアーティストの陳述に他ならない。そして描くことは、造形的選択を通じて歴史の一部に自らを刻み込むことを意味する。ここに示されているのはアーティストに揺るぎない証拠としての美術史を突きつける検察官の美学なのだ。それは、歴史批評の手続きによって芸術的実践を抑圧する美学である。〈判決〉は、常に断定的であり最終的なものとして突きつけられる。それは対話ーーそれだけが形式を生産的な状態、出会いの状態にすることができるーーを否定するのだ。

レヴィナスにとって顔は倫理上の禁忌を表象するものである。彼に従えば、顔は「他人に仕えるように私に命令するもの」であり、「私たちに殺すことを禁じるもの」である。すべての〈間主観的関係〉は、我々が他者に対して負わされている責任の象徴としての顔を経由する。

「他者との絆はただ責任として結ばれる」
レヴィナス

「すべての〈形式〉は我々を見つめる顔である」

イメージが我々を「我々がいなかった場所」に置くとき、すなわち「他者の場所を奪う」とき、彼にとってそれは、「非道徳的」なものとなる。

ダネーによれば、イメージが生み出す形式は欲望の表象に他ならないーー形式を生産することは、出会いの可能性を作り出すことであり、形式を受け入れる〔=レシーヴする〕ことは、テニスの試合で相手のサーヴィスを打ち返すのと同じく、交換を開始するための条件である。

形式は観客との議論を可能にするために、アーティストの欲望する世界を提示してイメージに意味を与え、〔イメージに向けられる〕観客の欲望は形式によって打ち返されるのである。このやり取り エシャンジュは、誰かが誰かに何かを見せ、見せられた誰かは自分なりの流儀でそれに応答するという二項間の関係として要約することができる。

アーティストは我々に何かを見せるとき、自らの作品を「私を見よ」と「これを見よ」との間に位置づける、移行性の倫理を展開させる。ダネーは生前最後の文章で、イメージの民主化の本質を象徴する、この〈見せる/見る〉の対関係の終焉を嘆いている。それは結果として、テレビ的かつ権威主義的なもうひとつの対関係ーー〈広告/需要〉ーーの台頭と、〈ヴィジュアル〉の誕生を招いたのだ。ダネーの思想においては「すべての〈形式〉は我々を見つめる顔である」。なぜなら形式は私に対話を求めるのだから。形式は時間と空間に同時に、あるいはそれそれに順次、登記される力動的な存在である。ふたつの現実の平面が出会うことによってのみ形式は生み出される。なぜなら同質性が生み出すのはイメージではなくヴィジュアル、すなわち〈情報の円環運動〉なのだから。

 

 

第二章  一九九〇年代のアート

参加と移行性 トランジティヴイテ

〈スペクタクルの社会〉はエキストラの社会に移行し、そこでは誰もが、多かれ少なかれ断片化されたコミュニケーション回路の中で、相互作用的な民主主義のまぼろしを見るのである……。

 移行性は、芸術作品の具体性の根拠として、古くから知られるものである。それなしでは、作品は鑑賞行為に従属するだけの死せる客体でしかない。優れた絵画は、作品を目の当たりにした際の特別な記憶をよみがえらせるような、ある感情を凝縮しているーーすでにドラクロワは彼の日記にそう書き残している。この移行性という概念は、対話に内在する形式の乱れを美的領域に導入し、終わることのない言説作用と、満たされることのない散種 ディセミナシオンの欲望のために、明確に区分された〈芸術の場〉を否定するのである。ジャン=リュック・ゴダールもまた、あるイメージを生み出すには二つの要素が存在しなければならないと語り、芸術的実践に関する閉鎖的な概念に抵抗する。

イメージの構成過程を、初めから交渉と他者の存在を前提とするものと見なし、対話をその源泉に位置づけようとしていたのだ……。したがって、あらゆる芸術作品は、関係的な対象として、すなわち無数の取引相手や名宛人たちとの間で展開される交渉を、空間的にモデル化した場所として定義されるのである。

現在のアートは、個人もしくは集団としての観客相互の関係、アーティストと世界との関係、そして移行性により、観客と世界との関係を生産するのだ。ピエール・ブルデューは芸術の世界を、「もろもろの位置同士の客観的関係の織りなす空間」、言い換えれば、それを「保守したり変革したり」しようとする生産者相互の権力関係や闘争を通じて定義される小宇宙と見なした。

「アートを生み出すのはシステムとしてのアートであってアーティスト個人ではない」

なぜなら、芸術の世界の内部構造が描き出す〈可能性〉は確かに制限されているが、この構造は、構造内の関係を生産し承認する、外部の秩序〔=社会構造〕の変化に依存するのだから。端的に言えば〈アート〉は多孔性のネットワークなのであり、このネットワークとあらゆる生産の界との関係が、アートの変化を規定するのである。さらに、作品が〈創出する〉外部的な関係の本質を率直に問うことを通じて、美術史を世界との関係の生産史として記述することさえ可能なのだ。

アートは、模範的秩序としての自然ーーそれを理解することが神の意図に近づく道とされたーーと共に、人間社会とそれを支配していた不可視の力との間のインターフェイスの役割を果たしていた。しかしこの野心は次第に放棄されてゆき、アートは人間と世界との間の関係の探求へ向かうこととなった。 

こうしてイタリア・ルネサンスによって切り開かれた関係的領域は、徐々に限られた対象に割り当てるようになっていったのである。
〈我々と物理世界との関係はいかなるものか〉という問いは、まず現実世界の全体に向けられ、その後に同じ現実世界の限られた領域へと振り向けられたのだ。

ーーつまり美術史は、ある種の対象や特定の実践によって媒介される、世界との関係の生産史なのである。

したがって、集会、待ち合わせ、デモ、さまざまな種類の共同作業、ゲーム、パーティ、多様な交歓性の場など、要するに今やあらゆる出会いの様態と関係の創出それ自体が美的対象として認められるのであり、ここにおいて絵画や彫刻は、形式の生産ーーそれは単純な美的消費者対象の生産に限定されるものではないーーの特殊事例に過ぎないと言えるだろう。

類型学

連絡と待ち合わせ

パフォーマンス・アートは、ほとんどの場合上演後には記録映像が残されるのだが、記録
と作品そのものとは厳然と区別されるのだから、非可用性のアートの最も典型的な例てあろう。

芸術作品はもはや〈永続的な〉時間の中で消費されるのでも、普遍一般の観客に向けて公開されるのでもなく、特定の出来事に関連する時間の中で、契約に基づいて召喚される観客のために展開されるのだ。要するに、作品は出会いを引き起こし、待ち合わせの約束をし、固有の時間を管理する。観客との出会いは必ずしも必要ではない。

交歓 コンヴィヴィアリテと出会い

作品は、偶発的な関係の生産装置として、すなわち個人的もしくは集団的な出会いを誘発すると同時に運用する機能しうる。

一九九〇年代のアーティストたちは、六〇年代と七〇年代には中心的な問題であったアートの定義という重荷から解放されたうえで、関係の問題系を引き継いでいるのである。もはや問題はアートの限界を広げることではなく、社会領域の全体においてアートによる抵抗の力を試すことにある。ユートピア的な社会や革命への期待は、日常のマイクロ・ユートピアと擬態戦略に道を譲った。どのような立場をとるにせよ、〈直接的〉な社会批判は、それが社会的な周縁といういまや幻想に過ぎない立場から行われるならば、無効であり退行的でさえある。

コラボレーションと契約

芸術作品を、(a)ある瞬間における社会関係
(b)社会関係を生産する対象
として提示するアーティストたちは、しばしば既存の関係を作品制作の原理として利用する。

アーティストは、自身に先行して存在し、誰にでも利用可能な素材、すなわち形式生産の宇宙と関わっている。

職業的関係ーー顧客たち

ここまでに取り上げた社会関係を探求するさまざまな実践では、アーティストが既存の関係に入り込み、そこから作品形式を抽出していた。これから取り上げる実践はそれらとは異なり、社会事業のモデルを再構成し、それぞれの事業に対応する生産手段を適用するーーアーティストたちは実際の商品生産やサーヴィス産業の現場で活動し、実践の空間の中で、自らが提示する事物の使用価値と美的価値との間に、ある種の両義性を導入するのである。

些細なサーヴィスを提供することによって、アーティストは社会的紐帯に生じた裂け目を埋めるーーその時作り出された形式は、まさに〈私を見つめる顔〉となるのである。

アートは取るに足りない身振りを通じて、辛抱強く関係の布地を縫い合わせる天使の計略、つまり現実の経済システムから離れ、ひそかに実行される一連の行為なのである。

異質な〈世界〉の条件に従いつつ、アートの世界の内部で活動すること。そのときアーティストたちは、顧客、発注、事業といった概念によって機能する関係的な宇宙を、アートの世界に導入するのだ。

いかにギャラリーを使いこなす オキュペ か

ギャラリーや美術館での社会的交換も、芸術制作の素材になり得る。

アーティストが展覧会のプロセス全体を〈使いこなす〉ようになるまで、そう長い時間はかからなかったのだ。

変更が加えられるたびに展覧会の文脈全体が更新される。展覧会そのものがアーティストの仕事によって〈形を与えられる〉、しなやかな素材になっていたのだ。

トリスタン・ツァラの言葉ーー「思想は口の中で作られる」ーーにならって言えば、アートはギャラリーで作られるのだから。 


第三章 交換の時空間

作品と交換

すべての優れた芸術作品は、単なる空間的な存在以上のものである。それはいまここで繰り広げられる時間的なプロセスとしての対話や議論、そしてマルセル・デュシャンが〈芸術係数〉と呼んだ人間的な交渉の形式に自らを開く。この交渉は、作品が、人間の制作行為の成果であることを明示する〈透明性〉に基づいて行われる。

ユベール・ダミッシュが指摘するように、ジャクソン・ポロックの絵画作品は、絵画の流れとアーティストの行動をカンヴァス上で極めて緊密に結びつけるのであり、カンヴァス上の絵画は彼の行動のイメージ、あるいは〈必然的な生産物 プロデュイ・ネセセール〉なのだ。アートはアーティストの行動によって始まる。

アートは最初から、交換とコミュニケーションーー〈取引 コメルス〉という語に含まれる二つの意味ーーの世界に身を捧げているということなのだ。

アートは価値のイメージそのものであるがゆえに、「究極の商品」を表象するのだ。

そもそもアートが表象するのは、いかなる通貨にも、いかなる〈共通の実体〉の規定にも従わない直接的交換である。それは野生状態における意味の分有であり、外在的規定によってではなく、交換される対象それ自体の形式によって規定される交換様式なのだ。アーティストの実践、すなわち制作者としての行動が、我々と作品との関係を規定する。アーティストが美的対象を通じて作り出すのは、なによりもまず人間と世界との関係なのである。

作品の主題

彼らの作品は社会的交換の諸様式を、美的経験を伴う観客との相互作用的な関係を、そして、さまざまなコミュニケーションを、個人と人間集団を結びつける具体的な道具の次元において作動させるのだ。

彼らは皆、展覧会の構成における視覚的なものを排除するのではなく、それを相対化するような近接性に根差している。一九九〇年代の芸術作品は、観客を隣人に、つまり直接的な対話の相手に変えるのだ。

リレーショナル・アートは他のいかなる運動の〈再演〉でもなければ、既存のスタイルへの回帰でもなく、現在の世界の観察と芸術的実践の未来に関する考察から生まれたのだ。

新しい人類の時代も、未来を目指して発せられる宣言も、お膳立てされた、より良い世界への望みも、完全に過去のものであることは明らかだろう。今日のユートピアは個人的な日常の中に、つまり具体的かつ意図的に断片化された実験が行われる、現実の時間の中に存在しているのである。芸術作品はこうした
実験を行うための、新たな〈生の肯定〉を可能にする社会の間隙として現れる。今や隣人たちと可能な関係を築くことこそが、幸福な未来を歌い上げることよりも、より差し迫ったアートの課題であるように思われる。

いずれにせよリレーショナル・アートは、芸術理論における〈良識〉の復権とーー少なくともフランスではーー見なされていた抑圧的、権威主義的、反動的な思想に対する望まれていたオルタナティヴなのである。

モダニズムはジルベール・デュランの言う〈想像的対立〉に浸りきっており、分離と対立の手作きを経て、未来のために進んで過去を貶めるのである。モダニズムは対立をその基礎に置くが、我々の時代の想像力は交渉、連帯、共存に基づいている。

かくてアートはユートピアを描こうとすることを放棄し、むしろ具体的かつ現実的な空間の構築を試みるのだ。

一九九〇年代のアートの時空間

ポップ・カルチャーは〈ハイ・カルチャー〉との対比を通じてのみ存在するのであり、その分離を強調する形式に他ならないのである。
 いわゆる〈コンセプチュアル・アートへの回帰〉を巡る論争を終わらせるには、リレーショナル・アートが非物質性を祝福したことなど一切ないことを思い出してみればよい。彼らは誰一人として〈パフォーマンス〉やコンセプトに特権的な地位を与えてはいない。

一九九〇年代のアーティストたちが作り上げる世界の中では、事物は言語の不可欠な一部をなしており、どちらも他者との関係を媒介するものなのだ。

身振りと、それが生み出す形式との恣意的な分離、すなわち現代における疎外のイメージこそが問題なのである。

事物と制度、時間の使い方と作品は、人間関係に依存するものーー社会的労働が具体化されたものーーであると同時に、関係を生産するものーーさまざまな社会的様態を組織し、諸個人の出会いを制御するものーーなのである。


第四章 共存と可用性 ディスポニビリテーーフェリックス・ゴンザレス = トレスの理論的遺産

作品を変質させ、はては消滅にさえ至らせるようなプロセスとはいかなるものか。

それは構築(あるいは解体)のプロセスを見せようとしているのではなく、観客の中にその存在の形式を拡散させようとする作品なのだ。ゴンザレス = トレスが提起した交歓的な コンヴィヴィアルな贈与や芸術作品の可用性に関する問題系が、今やアートの本質的な問いになっていることは明らかである。

共存のパラダイムとしての同性愛

なぜなら彼の作品の強度は、形式を道具化する彼の技巧と、特定の共同体への同一化を回避して人間的経験の核心に触れる彼の能力の両方に由来するのだから。ゴンザレス = トレスにとっての同性愛とは、明確に区分された単一のコミュニティなどではなかった。それは、すべての人びとに共用可能な、誰しもが同一化できる生活のモデルだったのだ。

彼は〈ニ〉という数を示唆する作品をいくつも制作しているが、それが二項対立の意味で用いられたことは一度もなかった。

両者とも普遍的なものへ跳躍を望んだのであり、カテゴリー化など望まなかった。

孤独は〈一〉によって表現されるのではなく、〈ニ〉の不在として示される。

彼の作品の形式的構造は調和的な偶数性であり、他者を自己へと包摂することである。その構造は無限に衰えていくのだが、間違いなくそれが彼の実践の主要なパラダイムを構成しているのだ。

ゴンザレス = トレスが語るのは個人の物語ではなく、始めから終わりまで、カップルの、すなわち共存の物語なのだ。

他者の包摂は単に主題となるだけではない。それは作品形式を理解する上で本質的な重要性をもつ。

「あなたは現実の中で、私はどのように生きることができるのか」、あるいは「二つの現実の出会いは、それぞれの現実をどのように変えるのか」……。

つまり、芸術作品の構造は単一の意味作用に限定されないということなのだ。一方、ゴンザレス = トレスが好んで用いた簡潔な作品形式は、内容の悲劇性や攻撃性と強烈な対照をなしている。しかしその本質は、ゴンザレス = トレスが目指した融和の地平、すなわち美術史との関係さえも含む、調和と共存の希求にあるのだ。

モニュメントの現代的形式

我々が〈芸術作品〉とみなすすべての対象に共通しているのは、現実というカオスの中で、人間の実存の意味を生産する(可能な道筋を描きだす)力である。

意味とは、社会的交換や集合的な合意形成に先行して決定済みのものと考える彼らにとって、積み上げられた紙は優れた作品として受け入れることの出来ないものだろう。世界は人類が言葉と形式をもって対峙するカオスそのものであるということを、彼らは決して認めたくないのだ。

現在のアートは、長期的に持続する古典的〈モニュメント〉をうらやむものではない。コルネリウス・カストリアディスにならって言い換えるなら、それは、これまでになかったような仕方で「来るべきすべての人びとにむけた、破滅の淵にありながら意味作用を創造する可能性を証明すること」なのであり、まさに限定的かつ一時的であるがゆえに永遠に触れることができる形式的解決なのである。

エイズによる死に先立ち、彼は自らの作品を、持続を求める意志に、すなわち感情という最もはかないものを生き延びさせようとする強い意志に結びつけたのだ。彼は生産様式への配慮を怠らず、交換と分有を実践の理論的支柱とした。

ゴンザレス = トレスは〔直接的な表現で〕観客にメッセージを届けるのではない。彼は暗号化されたメッセージや投瓶通信のように、出来事を形式に刻印 = 登記するのだ。ここにおいて記憶は、身体と同様に抽象化される。

(作品と個人の)共存の基準 クリテール

ゴンザレス = トレスの作品は交渉および共存関係の構築に重点を置いており、さらに観客の倫理をも包含する。その意味で彼の作品は特定の美術史ーー観客に周囲の状況を意識させる作品(ハプニング、六〇年代の「環境芸術」、サイト・スペシフィック・インスタレーション)の歴史ーーに属している。

山積みのキャンディは、一見取るに足りない外見を装いながら、倫理的な問題ーー観客と美術館の関係、観客に対する警備員の介入の仕方、観客の規範意識、観客と芸術作品との関係の本質ーーを規定するのだ。

今日の芸術的経験の前提は作品と観客とが同じ世界に共存していることーー象徴的にも、現実的にもーーである。

私が一貫して関心を寄せている今日の芸術作品は、間隙として、つまり観客を現に管理している経済を迂回する別の経済が行われる時空間として機能する。この世代のアーティストの仕事で最も印象的なのは、彼らの作品を導いている民主主義への配慮である。アートは日常的な関心事を超越するものではなく、世界との特異な関係を通じて、すなわちある虚構を通じて、我々を現実に向き合わせるのだから。権威主義的なアートが、現在の不寛容な社会とは異なる現実の可能性ーーそれが夢想的なものであれ、〔現実として〕受け入れられるものであれーーを観客に提示することなどあろうはずがない。

最近の例を挙げればアンジェラ・ブロック、カールステン・ヘラー、ガブリエル・オロスコ、ピエール・ユイグらの展覧会は、観客に対する制作者のア・プリオリな優位性(言い換えれば、制作者の神聖性)を築くことなく、開かれた関係において観客との交渉を可能にする形式を通じて、すべての観客に〈可能性を残しておく〉配慮によって組織されている。したがって観客の立場は、受け身な消費者と、目撃者、協力者、依頼人、招待客、共同制作者、主人公などさまざまな立場の間を揺れ動くのである。しかし注意深く見守らなければならない。我々は態度が形になることをすでに知っているが、今後は形式から社会モデルが導かれることになるのだから。

〔作品に用いられる〕事物の可用性 ディスポニビリテが、自動的に〔作品を〕通俗化
させるわけではない。ゴンザレス = トレスの山積みされたキャンディのように、形式とその消滅のプログラムの、視覚的な美しさと控えめな身振りの、イメージがもたらすシンプルな驚きと解釈の次元の複雑さの、それぞれの間には理想的な均衡が存在しうるのである。

作品のアウラは観客に移行した

ミニマル・アートの背景には現象学的態度があり、観客の存在が作品に不可欠な要素として見積もられてもいるのだ。そしてマイケル・フリードは、ミニマル・アートの作品経験における観客の視覚的〈参加〉を〈演劇性〉と名付け、そして告発したのだった。「リテラリズムの芸術〔=ミニマル・アート〕の経験は、状況を含む客体の経験であるーーそれは定義上、実質的に鑑賞者を含んでいるのである」。当時のミニマル・アートが、我々の知覚の条件を批判的に分析するためのツールの役割を果たしていたとして、《無題(アリーナ)》のような作品が単に視覚領域にのみ属するものでないことは明らかである。

ミニマル・アートの空間は、視線とその対象である作品を分離する距離によって生み出される。ゴンザレス = トレスの作品を規定している空間は、ミニマル・アートに類似した形式を通じて、相互主観性のうちに、すなわち作品経験に対する観客の感情的、能動的、歴史的応答のうちに生成される。作品との出会いが生み出すのは(ミニマル・アートとの出会いによって生み出されるような)、ある空間ではなく、ある持続である。操作する時間、受容の時間、意思決定の時間、それらは、見ることによって作品を〈補完する〉こと以上の意味をもっている。
 一九三五年にヴァルター・ベンヤミンが鮮やかに描出して見せたように、モダン・アートは芸術作品におけるアウラの消滅という現象を伴って現れ、それを克服しようとし、その進行を加速させたと言っていいだろう。

それと並行して近代は、解放をめざす動きの一貫として、個人に対する集団の優位を批判し、集合的な疎外の形式を体系的に批判してきた。

現代の個人主義に抵抗するための言葉が不足しているのだ。

二世紀にわたって続いた、特異性を擁護し、集合化の欲動に抵抗する戦いの後で、我々は数多くの作品に溢れかえる退行的ファンタジーを退けるために、新たな総合を起動させなければならない。近代性が育んだ現代の文化に多様性を再導入すること。それは、家族関係、テクノロジーが生み出す交歓のゲットー、そして我々が不可避に従属させられている現行の公的制度、それらを乗り越える多様な共存のモードと相互作用的諸形式の創出を意味する。近代を今なお有益なものとして延長するには、それが未解決のまま残した対立を乗り越えるほかに方法はない。今日のポスト工業化社会において最も差し迫った要請は、もはや個人の解放ではなく、個人間のコミュニケーションを解放することであり、実存における関係の次元を解放することなのである。
 媒介のためのさまざまな手段や移行対象[objects transitionnels]一般に対する、そしてその延長として観客に向けて個人の世界観を伝達する媒体とみなされる芸術作品に対しても、再検討が求められている。今やアーティストとその制作物との関係は、観客からのフィードバック領域を経由するものへと移行しつつある。その実例がここ数年来増加している、他者との関係のさまざまな可能性を探求する交歓的 コンヴィヴォ、祝祭的、集合的、そして参加型のアート・プロジェクトなのである。こうした動向を通じて、観客の存在はますます重要視されるようになった。それはまるで《ある遠さの一回的な現れ》である芸術作品のアウラが、今後は観客によって供給されるかのようであり、イメージの前で再編成される極小の共同体が、アウラーー作品の背後に現れる〈遠さ〉ーーの源泉になったかのようである。いまやアートのアウラは、作品に表象される背後世界[arrière-monde]や造形的形式それ自体にではなく、〔作品の前で〕作品展示の際に一時的に作り出される集合的形式に宿るのである。
 コンテンポラリー・アートにおける共同体の意味は、強硬な保守主義を擬装するために用いられるコーポラティズムにあるのではない(今やフェミニズム、反人種主義、そしてエコロジーは、構造的な問い直しに曝されることなく、しばしばロビー活動としてパワーゲームに取り込まれてしまっている)。

作品のアウラは観客の自由な連帯によって再構成されることになったのだ。しかし観客の存在を神話化してはならない。観客を[大衆」という観念に一元化することは、観客たちの一時的な集合的経験をファシストの美学ーーそれは観客たちをそれぞれの同一性に固執させるーーに結びつけてしまうのだ。観客たちを一時的に結びつけるのは、個人を同一性というトーテムの周囲に固着させる社会的しがらみなどではなく、アーティストがあらかじめ設定した契約条件に基づくつながりなのである。コンテンポラリー・アートのアウラは自由な連帯に宿るのだ。

美は答えか?

今日の文化を揺り動かしている反動的動向のなかで、もっとも目に付くのは美の観念の地位を回復させようとする企みである。

ヒッキーが美と呼ぶアレンジメントは、〈本来的に〉極めて相対的なものなのだ。

絶え間なく続く芸術の領地を確定するための争いには、アーティストの〈野生の〉実践から支配的なイデオロギーにいたるまで、数多くの〔異質な〕アクターが関わっているのだ。

ゴンザレス = トレスの作品は、無意識の情動を包み込んでいる。

「スタックス」の厳格にして簡素な外観は、その存在の脆さと不安定さによって均衡を保っているのだ。

 

 

第五章 関係的なスクリーン

今日のアートとテクノロジー

テクノロジーがもたらす解放の力に対する我々の楽観的展望は急激にかすみつつあり、今や情報理論、イメージ・テクノロジー、原子力などは、我々の生活を向上させると同時に、生命を脅かし、人間を奴隷化する道具でもあることを我々は知っている。

さて、写真の発明と最近の展覧会におけるスクリーンの増殖との間には、〔テクノロジーかアートに与える影響という観点において〕平行関係が存在するのだろうか。我々が生きているのは、まさにスクリーンの時代なのだから。
 ことさら興味深いのは、(映画の)光が投影される面と情報を表示するインターフェイスの両方が、同じスクリーンという名で呼ばれているという事実である。

新しい視覚経験に呼応して我々の精神装置の内部に現れるこうした反応を見過ごした結果が、最近の美術史に見られる機械論的分析なのである。

アートと資本材

脱領域化の法則

美術史家は二つの大きな陥穽(かんせい)にはまる。ひとつは、アートを特定の諸法則によって排他的に規定される、自律した領域とみなす観念論的歴史観である。

もうひとつは、前者とは正反対の機械論的歴史観である。これは思考様式の変化を、新しいテクノロジーの誕生から体系的に演繹する立場である。

近代絵画は機械的記録に還元することのできない絵画の問題(抽象絵画の可能性を開いた絵画の物質性や身振りの痕跡)に集中して取り組むこととなった。

そのなかで最も大きな成果をもたらしたのは、新しい道具がもたらした可能性を技術そのものとして表現するのではなく、批評意識を持ちながら制作に活かしたアーティストたちだった。

アートは、それぞれの時代の技術によって実現される生産様式、および人間関係を我々に認識させ、また技術を転用することによってそれをより可視化し、技術が日常生活に及ぼす影響について考慮するよう促すのだ。テクノロジーは、イデオロギーの道具としてではなく、その影響が我々の視野に現れる限りにおいてのみ、アーティストの関心を引きつけるのである。
 我々はこれを脱領域化の法則と呼ぶ。アートは技術の賭金を転用することによって、その本分である技術に対する批判的役割を果たす。従ってコンピューターの革新がもたらした本質的影響は、むしろコンピューターを使わないアーティストたちの実践にこそ認められるのである。

こうして行動様式の次元においても再現表象は機能するのである。

こうしてアート/技術の関係は、操作的リアリズムの格好の主題となる。

技術的な条件を明らかにしようとするアーティストたちが出会うすべての困難は、ありふれた言い方だが、本質的に変わりやすい一般的な消費財と同じ生産条件のもとで、持続が可能なものを作り出そうとすることに由来する。つまり近代性は〈一過性のものから永遠を引き出すこと〉に挑み続けてきたのだった。それに加えて、そして何よりも重要なのは、同時代の生産様式に照らして一貫性があり、かつ公正な制作方法を考案することなのである。

イデオロギー・モデルとしてのテクノロジー(痕跡からプログラムへ)

写真はある意味でヨーロッパ社会の経済発展の一段階(植民地の拡大と労働過程の合理化によって特徴づけられる)に、すなわちその発明が必要とされる社会の発展段階に対応するものであった。

アートの役割は思考、生活、視覚の諸様式を〔新たに〕作り出すために、技術がふるう権力を反転させることにある。

現代の文化を支配しているテクノロジーは言うまでもなくコンピューターであるが、その影響は主に二つに分けられる。一方はコンピューターそのものがもたらした我々自身の知覚や情報の取り扱い方の変化である。もう一方はミニテルやインターネット、そしてタッチ・スクリーンやヴィデオ・ゲームなど交歓を促進するテクノロジーの急速な進化である。前者は、我々とイメージの関係に影響を及ぼすものであり、我々のメンタリティの変化に大きく関与している。

なぜなら「写真は物理的な効果を記録したもの」てあるのに対し、「デジタル・イメージは身体の動作によってではなく、演算によって得られるものなのだ」。

それはもはや痕跡(遡及性)ではなくプログラム(進行性)なのである。コンテンポラリー・アートに最も効果的な着想を与えているのは、デジタル・イメージのこうした特性なのだ。

インタラクティヴ・テクノロジーが急速に発展した一九九〇年代に入ると、アーティストたちは、社交性と相互作用的な関係をより深く追求するようになり、その理論的、実践的地平を人間関係の領域に定めたのだ。

彼らにとって主要な課題は、社会体に穿たれたマイクロ・ユートピア、すなわち間隙を創り出すことなのである。

彼らの作品は模型ではなく、機能をモデル化したものなのである。言い換えれば、彼らの作品はスクリーンに合わせてその寸法 デイモンシオンが変化するデジタル・イメージとまったく同様に、大きさの概念をもたないのだ。◉額縁とは異なり、スクリーンはあらかじめ決められたフォーマットに作品を閉じ込めることなく、未知の次元 デイモンシオンで作品の潜在力を具現化するのである。今日のアーティストたちのプロジェクトは、彼らが間接的に影響を受けたテクノロジーと同様の両義性を抱えている。一方でそれは映画と同じように現実に寄り添っているように見えながら、現実であることを主張しない。他方、それはデジタル・イメージのような応用可能性も、あらかじめ設計されたフォーマットから異なるフォーマットへの変換も保証されない。つまり、テクノロジーは、現実と想像の間に引かれた境界線においてのみ同時代のアートに影響を及ぼすのである。
 コンピューターとカメラは、生産能力の限界ーーそれ自体、社会的生産の一般的条件に依存するーーと可能な社会関係を具体的に定める。アーティストはこうした状況から出発し、生き方を創造し、社会的行動様式の生産に作用する諸力を明らかにし、我々の文明の未来に関する想像力を解放するのだ。

カメラと展覧会

展覧会=舞台装置

「作品は眼差しによってすべてを走査できる空間の全体性〔として提供されるの〕ではなく、あるシークエンスから別のシークエンスへと観客が自ら移動することによって進行する持続、つまり静止した短編映画なのだ」。

映画は持続の扱い方を通じて、つまり映画が生み出す「運動イメージ」(ドゥルーズ)を通じてアートの形式に変化をもたらす。フィリップ・パレーノによれば、そのときアートは「事物、イメージ、そして展示が、瞬間の持続として、すなわち、再演可能なシナリオの構成要素として存在する空間」となるのである。

エキストラたち

展覧会が舞台装置に変わったのだとしたら、そこで演じられるのは誰だろうか。

どのような人の流れが、どのような仕方で組織され、芸術形式として舞台に登場するのだろうか。

ヴォルター・ベンヤミンは、「映画スタジオにおける撮影の特異なところは、観客のいるべき位置に、機械装置が置かれることだ」と指摘した。そしてそれによって俳優たちの身体は希薄化されるのである。一方ヴィデオは、職業俳優と通りすがりの人びととの間の差異を消し去ろうとしている。

ヴィデオの映像はあまりに扱いやすいため、存在を物象化し、その代用とするために利用されることもある。

ヴィデオ装置以後のアート

巻き戻し/再生/早送り

いずれにせよ作品は、展覧会のたびに更新され再演される物質的持続なのである。作品は、それを生み出している身振りや形式の流れから切断されることのない静止画、すなわち凝結した一瞬の持続になる。

アートにおいても、ヴィデオはある実践が具体的に存在していたことを証明する。それは傲慢で断片的すぎる実践を、直接把握可能な対象に変えるのである。ヴィデオ映像を芸術的実践に活用するアーティストたちは突然現れたわけではない。コンセプチャル・アートの美学は、すでに述定的[constrative]で事実に基づく ファクチュアル、すなわち実証に根差した美学だったのだ。コンセプチャル・アートは我々の暮らす「完全に管理された世界」(アドルノ)を、分析的で脱構築的なアプローチによって表現したが、近年の実践は同じ世界を、ヴィデオを用いて無遠慮にありのままに示しているのである。

視点の民主化?

ヴィデオ装置はイメージ生産の民主化の一翼を担っているが(それは写真が果たしていた役割を必然的に受けついだのだ)、一方でヴィデオカメラによる遠隔監視の普及を通じて、我々の日常生活に影響を及ぼしてもいる。それはホームヴィデオ上映会の対極にある、セキリュティ対策としてのヴィデオ装置の利用法である。

街を歩けば我々は常に監視の目にさらされ、我々の文化的生産物は常に再解釈/再利用の素材として差し出される。

昆虫のように捉えられた観客は、カメラを通じてイメージに変換され、アーティストの観察対象 シュジェになるのだ。

今やヴィデオの被写体 シュジェに自由はほとんどないと言っていい。ヴィデオは、今まさにあらゆる権力関係が積極的に取り組んでいる、個人、性、民族に関する大がかりな視覚的調査に協力しているのだ。

どのような技術もアートの主題ではない。テクノロジーを、それを生産様式の文脈において考察すること、すなわちテクノロジーとその利用を強制する態度を支えている上部構造との関係を分析することによってこそ、近代が目指した世界との関係のモデルを作り上げることが可能になるのである。


『関係性の美学』ニコラ・ブリオー/著、辻憲行/訳より抜粋し引用。

 

脱文脈化と再文脈化

 

 

第8章 グローバル・コンセプチュアリズム

コンセプチュアリズム以後、もはやわれわれは芸術を、レディメイドの事物でさえ、まず個別の事物の展示や制作とみなすことはできなくなった。

コンセプチュアル・アーティストは個別のものから空間と時間におけるそれらの関係へと注意を移行させた。これらの関係性は純粋に空間的、時間的なものであるが、また論理的なものにも政治的なものにもなりうる。それらは事物、テキスト、写真による記録の間の関係性になりうるが、またパフォーマンス、ハプニング、フイルムやヴィデオといった、同じインスタレーション空間の内部で展示すれる全てのものを含む。いいかえれば、コンセプチュアル・アートは基本的にはインスタレーション・アートとして特徴づけられ、個別の無関係なものを提示する展示空間から、それらのものの関係が第一に展示される、空間を包括的に理解することに基づいたものへの移行として特徴付けられる。
 個々の名詞や動詞が文によって組織されるのと同じ方法で、ものと出来事はインスタレーション空間によって組織されるということができる。

いまやコンセプチュアル・アートの画期的な功績は明らかである。それは言葉とイメージ、言葉の秩序と事物の秩序、言語の文法と視覚的空間の文法が等価であること、もしくは少なくとも並行関係にあることを示したのである。

コンセプチュアル・アートは、美学と反美学の伝統的な二分法、感覚的な快と感覚的なショックを超えた実践を確立した。

コンセプチュアル・アートの文脈において、形式への関心は、伝統的な美学の点からというよりも、むしろ詩もしくは修辞の点で示される。

この形式化は、適切で説得力ある言語学的もしくは視覚的表象を、理念が見出すのを手助けすることをまさに意味する。

コンセプチュアル・アートは形式の問題に興味を持つが、詩や修辞の観点からであって、伝統的な美学の観点からではない。

美学的態度とは基本的に鑑賞者の態度である。

鑑賞者はいわゆる美的な経験を芸術に期待する。美的な経験は、美もしくは崇高の経験であるということをわれわれはカントから知っている。それは感覚的な快の経験となる。しかしそれはまた、「肯定的」な美学てあれば備わっていることが期待されるあらゆる質を欠いた芸術作品によって引き起こされるフラストレーションや、不快さの「反美学的」な経験にもなりうる。

もしくは美は何らかの違った方法で美を作るための、鑑賞者の視野を再形成する感覚可能なものの再配分となる。

いいかえれば、美学に関する態度は芸術政策が芸術消費に従属していることを前提としており、同様に、芸術の理論と実践が社会学的な観点に従属していることを前提としている。

今日では、芸術家は公衆の利益というトピックを扱うことを要求される。

芸術の政治化はしばしば、芸術に単に美しくあることを要求するような純粋な美的態度に対する解毒剤とみなされる。

実際には美学的な態度は芸術を必要とせず、芸術がなければはるかにうまく機能する。

現実の世界は、科学的な態度や倫理的な態度と同じように、美学的な態度の正当な対象であり、芸術の正当な対象ではない。

美学的な観点から見ると、芸術は何か克服されなければならず、克服できるものとして現れる。全てのものは美学的な観点から見ることができる。

むしろ芸術は美的態度の所有者と世界の間に位置する何かである。

美学的な言説は、もし芸術を正当化するために用いられるならば、事実上それを弱める。

芸術家は視覚や他の感覚の学校だった。芸術家と鑑賞者の区別ははっきりとしていて、社会的に堅固に確立されたものだった。

しかしニ〇世紀の初頭から、この単純な二分法は壊れ始める。

今日コンセプチュアル・アートは、インスタレーションを通して大衆文化の実践となった。

しかし、世界中の何十万もの人々を含む、インターネット上でのセルフ・プレゼンテーションを芸術実践として特徴づけるのは正しいのだろうか?
 コンセプチュアル・アートはまた、永遠に「何が芸術なのか?」という問いを投げかける芸術として特徴づけることがてきる。

われわれは何を芸術として同定するつもりなのか。そしてそれはどのような条件のもとでなのか。どのような種類のものをわれわれは芸術作品として認識し、どのような種類の空間を芸術空間と認識するのか?

積極的に芸術に参加するようになることは何を意味するのか?いいかえれば、芸術家になるとは何を意味するのか?

『精神現象学』においてヘーゲルは、自意識は受動的な自己観察の結果としては現れないと指摘する。死にも通じる実存的なリスクを引き受ける状況や、対立における闘争を通して、われわれが他の主体によって危険にさらされるとき、われわれは自分自身の存在、自分自身の主体性に自覚的になる。こうして「美的自意識」について比喩的に言うことができる。それは、他者が住む世界を美学的に見るときではなく、われわれ自身を他者の眼差しにさらし始めるときに現れる。芸術、詩、修辞の実践は眼差しに対するセルフ・プレゼンテーションに他ならない。それは危機、対立、そして失敗のリスクを前提としている。

われわれは皆、コミュニケーションし、活動を始めるためには、ヴァーチャルな「アバター」、つまり人工的な生き写しを作らなければならない。

公の場に行き、今日の国際的な政治のアゴラで活動を開始することを欲するものは誰でも、個別の公的なペルソナを作らなければならない。

公の人間もまた商品であり、公の場に行くことに向けてのあらゆる身振りが、無数の利益享受者と潜在的な株主の利益に役立つことは疑いない。

美学的な自意識と自己生成的なセルフ・プレゼンテーションが出現するのは、そもそも他者、社会、権力がわれわれから作ったイメージに反対する反応、必然的に論争的で政治的な反応である。

明らかに、プロの芸術家は最初から自己開示のプロである。しかし今日では一般的な人々もまた、いっそう美的に自分に対して意識的になりつつあり、いっそうこの自己生成の実践に巻き込まれている。
 われわれの現代の性質はしばしば「生活の美学化」という曖昧な見解で記述され、定義されている。この見解が常に適用されることは多くの点において問題である。

しかし、誰がこの態度の主体なのか?誰がこのスペクタクル社会の鑑賞者なのか?

しかし美的な自意識の見解と、詩的、芸術的実践は、世俗化され、神学的含意を取り除かなければならない。美学化の行為にも作者がいる。われわれは常に「誰が何の目的で美学化するのか」という質問を問うことができるし、問うべきである。美学の分野は平和な思索の空間ではなく、異なった眼差しがぶつかり、戦う戦場である。

コンセプチュアル・アートはわれわれに鑑賞の対象としてよりも、コミュニケーションの詩的な道具として形式を見ることを教えた。
 芸術作品において、そして芸術作品を通して、創設され、伝達されるものとは何なのか?

それは芸術においては、自己提示を通じて自意識に達し、それ自身と意思疎通をする主体性である。

もちろん、われわれの文化は神という観察者の喪失を埋め合わせる多大な努力をしてきた。しかしこの埋め合わせは単に部分的なものにとどまっている。

社会政治的空間で働く主体は、自分のプライヴァシーの権利、つまり自分の身体を隠したままにするために絶え間なく戦っている。

われわれのアイデンティティを登録する官僚的な形式は、興味深い主体性を生み出すにはあまりにも素朴である。したがって、われわれは単に部分的に主体化されているだけにとどまっている。

現代美術は、いっそう多くの、そして微妙な自己主題化の戦略にわれわれを直面させる。

そこには現代の政治の領域の中にアーティストが自分を位置付けることも含まれる。これらの戦略は、様々な政治参加の形式だけではなく、あらゆる私的なためらい、不確かさ、そして普段は権威ある政治主導者の公的な人格の下に隠されている失望を表明する可能性を含んでいる。ここでは芸術家の社会的役割に対する信念は、その役割の有効性に対する深い疑いと結びついている。

芸術家の主体性とアイデンティティは芸術実践に先行しない。それらは結果であり、この実践の成果である。

むしろ、それは多くの要因に依拠しており、公衆の期待はその要因の一つである。

公衆が芸術家に徹底された可視性と自己透明化を生み出すことを期待するのはこのためである。

芸術家は最初から、すでに存在する公衆に対しての自分の透明化を考慮に入れなければならない。

セルフ・プレゼンテーションの主要なメディウムとしてのインターネットの出現は、われわれはもはや芸術を生み出す「リアルな」芸術空間を必要としない結論へとわれわれを導くかもしれない。

インターネットもまた、(初期にはしばしばそのようなものとして賞賛されたものだが)個人の自由の空間ではなく、何よりも企業の利益によってコントロールされる空間であることを忘れるべきではない。

インターネットが、ある理論的思考において、非物質的な作品という夢のような考え、ポスト・フォード主義の条件などを生み出してきたのはこのためである。これらの考え全てはソフトウェアに関する見解である。インターネットのリアリティはそのハードウェアの中にある。
 伝統的なインスタレーションの空間は、普通にインターネットを使用している間はいつも見過ごされているハードウェアを見せるのにきわめて適切な舞台を提供する。

人は、コンピューター・ユーザーとして媒体との単独のコミュニケーションに没頭する。自己忘却、自己自身の身体に対して無自覚な状態へとおちいる。

展示空間の内部で鑑賞者によって遂行される旅程は、インターネット・ユーザーの伝統的な孤立を弱める。

さらに重要なのは、他の訪問者が鑑賞者の視野に迷い込むことである。このようにして訪問者は自分もまた他人に観察されていることに自覚的になる。

しかし、失敗、不確かさ、不満足はアーティストだけの権利ではない。プロの政治家とアクティビストは不満足と不確かさを自分の公的な人格の陰に隠すことである。

なぜならば失敗は、成功した時よりもはるかによく行動の背後で遂行する主体を明らかにするからだ。


第9章 近代と同時性ーー機械複製とデジタル複製

われわれの時代はまずそれ自体に興味を持つ。世界中で現代美術館が急増していることは、このように今ここに鋭い関心が持たれていることの唯一の、しかし極めて明確な兆候である。同時にそれはまた、われわれは自分自身の同時性について知らないという、広く行き渡った感情の兆候でもある。そして実際、グローバリゼーションのプロセスと、世界のあらゆる場所で起こっている出来事をリアルタイムで知らせる情報網の発達は、異なったローカルな歴史のシンクロナイゼーションをもたらす。われわれの同時代性はこのシンクロナイゼーショーの効果であり、その効果は繰り返し驚きの感情を引き起こす。われわれを驚かせるのは未来ではない。われわれは自分自身の時代にほとんど驚いている。それはいくらか異常で不可思議に感じられる。それは、現代美術館の中に入り、極端に異質なメッセージ、形態、態度に直面するときに経験する驚きの感情と同じである。

近代と現代の違いを記述し解釈するにはさまな方法があるが、私はこの違いを二つの複製のモードの対比として分析したい。つまり、機械による複製とデジタルによる複製である。ヴォルター・ベンヤミンによると、オリジナルなものとは単に現在が存在していることーー今ここで起こる何かーーの別の名前に過ぎない。したがって、オリジナルを複製するわれわれの異なったモードを分析することは、現在つまり同時代性を経験するわれわれの異なったモード、時間の流れと共存する異なったモード、時代の中でオリジナルな時代の出来事と共存する異なったモードを分析すること、そしてこの共存を生み出すために用いる技術を分析することを意味する。

 

 

機械による複製

『複製芸術時代の芸術作品』の中でベンヤミンが完璧な複製の可能性、オリジナルとそのコピーを視覚的に区別することをもはや不可能にする複製を想定しているのは有名である。

彼が提起した疑問は「オリジナルとコピーの視覚上の区別が消滅することは、この区別自体の消滅を意味するのではないか?」というものである。

どんなに完璧な複製においても、欠けているものがひとつある。芸術作品の持つ〈いま-ここ〉的性質ーーそれが存在する場所に、一回的に在るという性質である。

この見方に従えば、複製技術の時代は何かオリジナルなものを生み出すことはできない。それは過去の時代から受け継いだ、オリジナルなもののオリジナリティを消去することができるだけである。

オリジナリティのアウラは、複製のための技術的手段によって自然を大量に侵食することに対する抵抗の契機として機能する。

グリーンバーグはアヴァンギャルドを究極的には模倣的であると定義している。つまり、もし古典的な芸術が自然の模倣ならば、アヴァンギャルド芸術はこの模倣の模倣であるからだ。

アドルノもまた、「破壊された自然」の中と、人間と自然との調和がとれた真のオリジナルな統合へのノスタルジーの中に正当な芸術の起源を見つけることができると信じている。もっとも彼は同時に、そのような統合は幻想的なものでしかありえず、統合へのノスタルジーは必然に誤解を招くことを主張するのだが。

芸術のアヴァンギャルドにとっては、オリジナルであることは自然と関わることを意味しない。

事実、新しいものの生産は最初から、それがのちに複製されることを前提としている。これが、とりわけアヴァンギャルドの歴史が、誰が最初か、誰が何がオリジナルなものを創造したか、そして誰がただの模倣者かについての際限のない口論の歴史である理由である。

むしろアヴァンギャルドは新しい工業の世界の名に下に自然のミメーシスと決別することを望んだ。

還元はもっとも効果的な再生産の展望を開く。複雑なものよりも簡素なものを生産する方が常に容易である。
 機械による複製によって定義される近代のパラダイムの中では、現在の存在は、ある瞬間、つまり革命の瞬間、アウラ的な還元の瞬間にのみ経験することができる。この瞬間はこの還元の結果を革命後に複製する道を開く。これが、近代が永遠に革命を切望する時代である理由である。


デジタルによる複製

楽譜は開くことができず沈黙している。聴かれることで音楽は演奏される。デジタル化は視覚芸術をパフォーミングアーツに変えるといえる。

デジタルデータの視覚化は常にインターネット・ユーザーによる解釈の行為である。

機械による複製の場合には、オリジナルは目に見え、コピーと比較できる。そしてコピーは修正され、オリジナルの形式を歪める可能性は減る。だがオリジナルがもし目に見えないならば、そのような比較は不可能である。

デジタル化されたイメージは、われわれユーザーがそれらに特定の「いまここ」を与えない限り存在しない。

こうして、オリジナルとコピーの関係はデジタル化によって根本的に変化した。そしてこの変化は近代性と現代性の裂け目の契機として記述されうる。

そして手で作り出されたコピーは、他の全ての手で作り出されたコピーとは必然的に視覚的に異なったものになるが、機械による複製は差異を消去することを運命づけられている。

デジタルによるコピーを作ることで、私は自分自身のコピーを提供している。私の個人用のコンピュータのスクリーンの背後にかくれた、目に見えない鑑賞者にこのコピーを提供している。

われわれの現代性の経験は、観察者としてのわれわれに対して事物が現前することとして定義されるのではなく、むしろ隠された観察者の眼差しに対してわれわれ個人の亡霊が現前することとして定義されるのである。

 

 

第10条 グーグルーー文法を超えた単語

人間の生は世界との引き延ばされた対話として記述することができる。人間は世界に問いかけ、世界から問いかけられる。

われわれの世界との対話は、その媒体と修辞の形式を規定する特定の哲学的前提に常に基づいている。
 今日われわれは第一にインターネットを通して世界との対話を実践する。

真の知識そのものは、人類が最近扱った、全ての言語、全ての単語が出現した総計として理解される。
 このようにして、グーグルは言語を個別の一連の単語へと徹底的に分解することを前提とし、それを成分化する。グーグルは通常の言語のルールや、文法への従属から自由になった単語を通してオペレーションを行う。

グーグルを通して問うことは、脱文法的な一連の単語の集合体、検索された単語が現われる単語の集合体を回答として前提としている。

グーグルはトポロジー空間としての言語という同じ理解に基づいている。

グーグルは、可能性としては無限だが、想像上のものでしかない文脈の激増を有限のサーチエンジンに置き換えることで、徹底的に脱構築へと変える、と言うことができる。このサーチエンジンは、単語の意味の無限の可能性を検索するのではなく、それを通して意味が決定される。

事実、想像の無限の遊戯は、あらゆる単語があらゆる文脈において生じる状況の範囲内にそれ自身の限界を持つ。そのような状況においては、すべての単語は意味において同一となる。それらは皆意味を持たずに一つの漂うシニフィアンの中へと崩壊する。グーグルは、実際に存在しており、すでに表示された文脈に検索を限定することによって、このような結果を防ぐ。異なった単語の経路は有限のままであり、したがって異なっている。

そしてこれらの収集されたものは、「リアル」、つまり素材であり、また多様なものである。
 グーグル検索の文脈では、インターネット・ユーザーはメタ言語学的な場に自分自身を見出す。

言語の家は単語の集合体に変わる。人間は言語学上のホームレスとなる。

このようにしてわれわれは伝統的な意味での単語について語るのをやめる。その代わりに、様々な文脈、完全に沈黙し、純粋に操作的な、脱言語学的もしくはメタ言語学的な実践のモードで単語を出現させたり、消滅させたりする。
 この言語使用の根本的な移行は、肯定的な文脈と否定的な文脈がますます等価になることによく反映されている。

こうして、肯定と否定の基本的な言語学的オペレーションは取るに足らないものとなり、特定の語が特定の文脈に含まれるか含まれないかという脱言語学的なオペレーションに取って代わる。それはまさにキュレーターシップの定義である。「キュレーター」という単語は、単語の集合体としてテキストを扱う者を表す。

文法から単語が解放される初期の別の歩みを、フロイトの言語の使用に見出すことができる。ここでは個々の単語は、ほとんどインターネットのリンクのように機能する。それらは文法上の位置から自分自身を解放し、他の無意識の文脈との繋がりとして機能し始める。

一九六〇年と一九七〇年のコンセプチュアル・アートは、単語の文脈および単語の集合知としてインスタレーション空間を生み出した。アヴァンギャルドの芸術もまた、文法的に確立された言葉の形式に従属することから、音の断片と個別の文字を解放することを試みた。

言葉を解放する努力はまた、言葉の平等性を求める努力でもある。文法によって規定されるヒエラルキー的構造から解放されるとき、単語の根本的な平等性は、政治の民主主義と呼応する一瞬の完璧な言葉の民主主義として言語を表明する。

言語がすでに単語の集合体へと変化している限りにおいて、あらゆる個別の単語の象徴的資本に関する問いが投げかけられるだろう。


第11章 ウィキリークスーー知識人の抵抗、もしくは陰媒としての普遍性

われわれは、普遍主義的なプロジェクトのみが現実の政治的変化をもたらすことを歴史から知っている。

ウィキリークスのエートスとは、グローバル化され普遍化された、市民の行政サービスのエートスである。

インターネットはもともと、国家の官僚制の権力を超越し、衰退させる契機として迎え入れられた。

おそらく、新たなインターネット普遍は、情報および技術に関しては統合されたものになっても、精神、イデオロギー、文化、政治に関しては人類を分断されたままにしておく。しかし物事はそんなに単純ではない。歴史的に知られた普遍主義のプロジェクトは、個人の見方を超越し、誰にとっても開かれていない誰にとってもあてはまる、普遍的な見方に到達したいという伝統的な信仰と哲学的な欲望から生まれた。そのような超越的行為の可能性に対する深い不信のために、二〇世紀の間、普遍主義は信用されてこなかった。しかし、普遍的な視点は何も開かず、超越することなしに、自分特有の見方を拒絶することはいまだに可能である。超越の行為はラディカルな還元の行為に取って代わられる。

しかし、何の個人的なメッセージも世界観も持たない主体性の可能性、オリジナルで個別的な意味や意見を全く生み出さない中立的で匿名の主体性の可能性を存在する。

それは、自分自身の考えや洞察、欲望を表明することを望まず、単に他の主体がアイディアや意見、世界観、欲望を表現するための条件と可能性を創造することを望む主体の主体性である。

それらが普遍的な主体であるのは、普遍的な視点に対する自分の特定の視点を超越しているからではなく、ただ自己還元という特異な行為を通して、あらゆる私的で、個人的で、特異なものをただ消滅させるからである。

彼らは中立的で匿名の主体であって、古典的な神学もしくは形而上学のメタ主体ではなく、むしろいわば、現代生活のインフラを広めるインフラ主体なのである。

ウィキリークスは自身のメッセージを伝えることを目的とするのではなく、たとえメッセージを生み出した者の意思に反してはるかに遠くまでそれらのメッセージを運ぶとしても、他者のメッセージのみを伝えることを目的としているからである。

自分の見方を表明する代わりに、クラークは他者が自分の見方を表明する状況を作り出す。しかしながらこの行動は決して純粋ではない。

コミュニケーションを統御することは主観的な幻想であることが現代のメディア理論によって明らかにされている。この主体がメディアを通してメッセージを発し、安定したものにし、伝達することの不可能性は、しばしば「主体の死」として特徴づけられる。

インフォーメーションの流れは、全ての個人のメッセージを多かれ少なかれ偶然的な漂うシニフィアンの集合体へと変えることによって、それらすべてを消滅させ、移行させ、覆す。

私たちは世界をより適切にするよう世界に対して影響を及ぼす行為を生み出すために、情報を使いたいのかどうか?どの情報がそれに役立つのか?

この巨大な領域の中の情報のいくつかは、もしそれを注意深く見るならば、かすかに光を放っています。そして何がそれを光らせているかというと、それを抑圧するよう強制された仕事の総計なのです。

つまり、透明化されるべきかどうか見分けるに値することがあり、検閲は強さではなく弱さを表明しているのです。

記号の流れを人為的に中断する検閲は、普遍的な知識の風景という崇高なヴィジョンを歪める試みとして受け止められる。特定の利害関係者は自分たちが不適切で時代遅れだとみなされると、このヴィジョンを損なおうとする。

ハッカーは、特権的なアクセスの領域として理解される個人の主体性の境界を克服し、その秘密を発見し、メッセージを解釈する代わりに流用し、そしてこのメッセージを解放してメディア・ネットワークに分解させる。 

伝統的なメディアは、セレブリティたちを追跡して彼らの個人的な生活を暴露する以外は何も実践しない。

結局根本的な妥協なき普遍性は可能なのか?答えはある条件のもとではイエスである。それは普遍的なものは、孤立せねばならず、絶えずそれを破壊する個別のものの世界からは保護されているという条件である。

もしくは、いいかえれば。われわれの特殊性の世界においては、普遍性は陰謀という形でのみ、そして完璧なアクセス不可能性、不透明性、不明瞭さという条件のもとでのみ機能しうる。

普遍的な真理は、アイデンティティの複数性と、いかなる根本的な対立も引き起こさないような視点に取って代わる。

むしろわれわれの意志は権力についての極めて特別な考えから来ているのです。それはある巧妙な数学的処理によって極めて簡単にーー抽象的には複雑に感じられますが、コンピューターによってできるという意味で簡単ーー極めて強力な国家に対してある個人がノーと言うことを可能にするという考えです。

すると国家は、単に国家がそれをすることができないという理由で、個人が何かをすることを望むことがあります。この意味で、数学的処理と個人は超大国よりも強いのです。


第12章 インターネット上のアート

明らかに多くの文化に携わる人々が、このインターネットへの移行を自由化として経験している。なぜならばインターネットは選択的でないからである。

たしかに、過去の時代の芸術家と作家を悩ませていた疑問は「選択の基準は何か」というものだった。なぜある芸術作品が美術館に入り、その一方でほかの芸術作品は入らないのか。

作品は優れており、美しく、感性を触発し、オリジナルで、創造的で、力強く、表現豊かで、歴史的に重要でなければならない等、同様の基準を何百も挙げることができる。しかしこれらの理論は崩壊した。なぜならば、なぜあらゆる芸術作品が残りのものよりも美しくオリジナルであることを、誰も説得的に説明できないからだ。

美術館の訪問者は、芸術鑑賞に精神的に没頭するためには美術館を忘れなければならない。いいかえれば、フィクションがフィクションとして機能するための前提とは、このフィクションを可能にする物質的、技術的、制度的な枠組みを隠すことなのだ。

ハイデッガーは、芸術のみが隠された枠組みを明らかにすることができ、われわれの世界についてのイメージの、フィクション的でイリュージョン的な性質を示すことができると信じた。

アヴァンギャルドは決してリアルなものの探求に完全に成功したわけではなかった。なぜならば芸術の現実性、アヴァンギャルドが明らかにしようとした芸術の物質的な側面は、芸術表象の標準的な条件のもとに置かれることで、再フィクション化されたからである。

インターネットは、オフラインの現実の中に参照点を持つという、ノンフィクション的な性質の前提のもとで機能する。インターネットは情報の媒体であるが、情報は常に何かについての情報である。そしてこの何かは常にインターネットの外部、つまりオフラインに位置している。

最も重要なことは、インターネット上では芸術と文学は、アナログに支配された世界で働いていた、固定された制度的枠組みを持たないことである。

芸術はインターネット上では制作過程として、もしくはオフラインの世界の現実で生じる生の過程という特別な種類の現実として提示される。これはインターネット上でのデータの提示に関して美学的基準が何の役割も果たさないということを意味するわけではない。しかしながらこの場合には、われわれは芸術ではなくデータのデザインを扱っている。つまり現実のアート・イベントについてのドキュメンテーションの美学的な提示を扱っているのであり、フィクションの生産を扱っているのではない。

ここ数十年アート・ドキュメンテーションが伝統的な芸術作品と並んで美術展や美術館に急速に含まれるようになった。しかしこの近似性は常に極めて問題であるように思われる。

芸術作品はまたフィクションである。それらは証拠として法廷で使用されることはあり得ない。それらは証拠として法廷で使用されることはあり得ない。

アート・ドキュメンテーションはアートを示すが、アートではない。

そして芸術作品の形式は制度によって保証されている。なぜならば、形式のみが、これは芸術作品であるというフィクションのアイデンティティと複数可能性を保証するからである。対照的に、ドキュメンテーションは思うままに変えられる。なぜならばドキュメンテーションのアイデンティティと複数可能性は、それ自身の形式ではなく、その「現実」の形式、外部の指示対象によって保証されているからである。

インターネットを導入することによってのみアート・ドキュメンテーションにその正当な場が与えられたのである。

インターネットは、作者が自分のアートを世界中のほとんど誰にでもアクセス可能にし、同時に個人のアートのアーカイヴを作ることを可能にする。

この作者としての主体はすでに脱構築され何度も死を宣告された。

これらの活動はすべて同じ統合された空間の中で起こり、それら全ては他のインターネット・ユーザーにとっても潜在的にアクセス可能である。

今日では主体は技術的な構築物となった。

インターネットは透明で観察可能なものとして主体が元来構築される空間であり、後になっていた秘密を隠す。

今日では解釈学者はハッカーである。現代のインターネットはサイバー戦争の場であり、そこでは秘密が戦利品である。

しかしそれらの戦争は、インターネットはそもそもそも透明で参照可能な場であるがゆえに生じる。

たしかにインターネットは巨大なゴミ捨て場としても機能する。そこではあらゆるものが出現するよりもむしろ消失し、ほとんどのインターネットの制作物は(そして個人も)、作者が達成したいと望んだほど広い注目を得ることは決してない。結局、皆自分自身の友人や知り合いに何が起こったかという情報のためにインターネットを検索する。

作家であれ芸術家であれ、伝統的には作者の名声はローカルなものからグローバルなものへと移行した。後にグローバルな名声を確立するためには、まずはローカルに知られなければならない。今日では、自己グローバル化から始まる。自分自身の文章や芸術作品をインターネット上に置くことは、ローカルな仲介を避けて直接グローバルな観客に向かうことを意味する。ここでは、個人はグローバルになり、グローバルなものは個人的になる。同時に、インターネットは作者のグローバルな成功を数量化する手段を提供する。なぜならば、インターネットは読者も等価にする巨大な機械だからである。

現代文化の中で生き延びるためには、ローカルなオフラインの観客の注意を自分のグローバルな可視化にひきつけなければならない。グローバルに存在感があるのみならず、ローカルも親しみやすくならなければならない。

非常にしばしばわれわれはインターネットを個人のコントロールの限界を超越した無限のデータの流れとして考える。しかし実際は、インターネットはデータの流れの場ではなく、データの流れを止め、遡る機械である。インターネットの媒体は電力であり、電力供給は有限である。それゆえインターネットは無限のデータを流れを支えることはできない。

インターネットの読者の眼差しはアルゴリズムの眼差しである。

インターネットの出現は芸術の制作と展示の間の違いを消去した。

監視の結果はインターネットを支配する会社によって販売される。

インターネットは私的に所有されていることを忘れるべきではない。

作品の背後の作者を探求する古典的な解釈学は、構造主義やクロース・リーディングなどの理論家たちによって批判された。彼らは定義によって到達することのできない存在論的な秘密を探求することは意味がないと考えた。

そしてインターネット企業によって接収される剰余価値は解釈学的な価値なのである。つまり主体はインターネット上で何かを行い生産するのみならず、特定の関心、欲望、ニーズを持った人間として自分自身を明るみにだす。

今や一見したところ、この永遠の可視化は芸術家にとっては否定すべきよりも肯定すべきものであるように思われる。

芸術を制作する過程のドキュメンテーションがすでに芸術作品である。

われわれは他者の眼差しの中に、われわれがその戦いに負けたこと、われわれが社会によって決められたアイデンティティの囚人のままであることを見て取る。

創造的な仕事は、公的なコントロールを超えた場所で、あるいは作者の意識のコントロールすら超えて行われるからこそ創造的なのである。この不在の期間は数日、数ヶ月、数年、もしくは生涯にわたって続くことがある。その終わりになって初めて作者は作品を公開することが期待される。


創造的な仕事は隔離中の並行する時間に、隔離されて行われる。それゆえ、制作者の時間が鑑賞者の時間と再び同期する時に驚きの効果が生じる。これが、芸術実践者が伝統的に隠れ、不可視になることを望んだ理由である。

われわれが何らかの秘密を持っていることを否定するとき、そしてそれが見て書き留めるものへとわれわれを矮小化するときに、邪悪な目として経験される。

芸術実践はしばしば個別的で個人的であると考えられている。

しかし重要なのは、ある人が他者とは異なっていることではなく、当人が自分自身とは異なっていること、アイデンティティフィケーションの一般的基準にしたがって区別されることを当人が拒絶することである。実際、社会的に定められた名ばかりのわれわれのアイデンティティを定義するパラメーターは、われわれにとっては完全に異質である。

モダンアートは「真の自己」の探求だった。

アイデンティティに関する問いとなるのは、社会か私か、誰が私自身のアイデンティティに対して権力を及ぼしているのかという、真実ではなく権力についての問いである。

それは、アイデンティティフィケーションの支配的なメカニズム、つまりあらゆる区分とヒエラルキーを伴った支配的な社会的分類学に反するからである。これが、近代の芸術家が常に私を見るなと言った理由である。私がしていることを見ろ、それが真の自身である。

いいかえれば、真の自分自身を探す個人のプロジェクトが政治的な次元を獲得するのである。

われわれはふたたび美術館のカタログで、名前、生まれた日付と場所、国籍といった、芸術家たちが逃れようとした分類上の印を読む。これは、モダンアートが美術館を破壊することを目指し、国境と管理を超えて循環し始めた理由である。

ポストモダニティは主体の名義上のアイデンティティに抗して戦うことを諦めなかった。

ポストモダニティは独自のユートピアを持った。それは無限で匿名の、エネルギー、欲望もしくはシニフィアンの戯れの流れの中へと、主体を自分自身で溶解させるユートピアである。芸術制作を通して真の自己を見つけることで、名義上の社会的自己を消滅させる代わりに、ポストモダンの芸術理論は、再生産の過程を通して完全にアイデンティティをなくすことに希望を託した。

複製技術によって、ポストモダニズムの芸術はそのアウラを取り除かれている。創造する主体という神話は、既存のイメージをそのまま取りあげ、引用し、抜粋し、積み重ね、競合させる活動に道をゆずることになる。独自性や正当性や現前性といった、美術館の秩序づけられた言説にとって基本的な概念は、葬り去られるのである。

複製の流れは美術館から溢れ出し、個人のアイデンティティはこの流れのなかで溺れる。

しかしインターネット上では、思索の行為は痕跡を残す。そしてこれは主体の存在論的自立を最終的に破棄する最後の一撃なのである。ユーザもしくはコンテンツ提供者はインターネットの文脈での人間であり、行為し、「非物質的な」主体ではなく経験的な人物して知覚される。

アーカイヴはある方法で自分の現代性を生き延びさせ、将来において真の自己を明らかにする望みを主体に与える。なぜならばアーカイヴはその主体の文章と芸術作品を死後も保ちアクセス可能にすることを約束するからである。

実際アーカイヴは、同時にそして第一に、現在を未来へと移行させる機械である。

現在の政治の目的は廃れること、そして未来の政治へと場所をゆずることである。

政治は消滅することによって未来を形作る。芸術は延長された現在によって未来を形作る。それは芸術と政治の間の隔たりを生み出す。

個別の事象の歴史的な再文脈化よりも、それらの過去からの脱文脈化と再活性化に、より興味が持たれている。

おそらくアーカイヴとしてのインターネットの最も興味深い側面は、まさに、インターネットがユーザーへと提供するカットアンドペーストの操作を通した、脱文脈化と再文脈化の可能性にある。

その可能性は、どのような方法で構築されていようと、どのアーカイヴにも継承されてる。

 

 

訳者解題

美術館にとっては、もはや保管庫としてのかつての役割は重要ではなくなり、現代美術館は一時的な特別展やパフォーマンス、レクチャーや上映会が開催される場となっている。

こうして現代美術館や現代美術の作品は、時間の流れに抵抗するというかつての役割とは真逆に、時間の流れの中に入り、その一部となる。

グロイスは芸術作品をそもそも不条理なものとして捉えている。かつて芸術は、聖書のエピソードやキリストの逸話を物語るためのものとして教会によって保護された。あるいは権力を誇示する富の一つとして王侯貴族に愛好されていた(このような何らかの外部の目的に役立つ芸術をグロイスは「デザイン」と捉えている)。だがフランス革命以後、かつての宮廷の富は美術館に収められ、公衆のために一般公開されるようになった。このように世間とは切り離され、美術館の中で芸術作品として観賞されるようになると、芸術作品は他の目的のためには役に立たないものとなった。だが逆説的にも、他の目的には役に立たないがゆえに、芸術作品はそれ自体価値を帯びるのである。そしてこの価値を保証し、芸術作品としての成立を支えているのが美術館を中心とする美術を取り巻く制度であると、グロイスは考える。美術館の実体とは、人間の生から引き離された芸術作品が実際的な役に立たない死んだ事物として展示される、霊廟(マウゾリウム)である。

ダダイズムやシュルレアリストといったアヴァンギャルドや、一九六〇年代のポップアートの芸術家は、日用品を作品として美術館の中に持ち込んだ。彼らは事物を創造するのではなく、既存の物を変形し、移動し、その文脈を変更することを創作と考えた。

そして、その場に展示する主権を持っているという点でキュレーターは芸術家に匹敵する役割を果たす。
 さらに、芸術作品と非芸術作品を区別する基準が判然としなくなるのみならず、インターネット時代には誰が芸術家であるのかも、もはや明確ではなくなる。

インターネット時代においては、世界中の人々が自分の制作物をアクティヴに発信する。芸術家と鑑賞者の区別のみならす、余暇と労働の区別さえ曖昧になっているとグロイスは考える。

グロイスはしばしば、現代美術作品においては、文法に従って単語を組み合わせ、文章を構築するかのように既存の事物やイメージが組み合わされていることを指摘し、現代美術においては「言語論的転換」が生じていることを論じている。グロイスにとっては、メディウムとしての言葉および言語のシステムが、芸術および社会体制の両方を論じるための共通のテーマとなっている。

『共産主義のポストスクリプト』においてグロイスは、そもそも共産主義の理論的基盤である弁証法的唯物論は、アンチテーゼを保ちながら同時にテーゼを形成するものであり、したがって内部に矛盾を抱えた生を肯定するとする。ソヴィエトの社会主義は、矛盾を否定するのではなく、受け入れ、包摂し、結果として矛盾を存在しないかのように扱うがゆえに全体主義的なのである。
 そして、グロイスはこの点で「全体性」は「普遍性」とは対立関係にあるとする。◉矛盾を孕んだ「全体性」とは逆に、普遍的であることは、論理が一貫しており、一般的に該当することを意味する。『反哲学入門』(初出ドイツ語、ニ〇〇九年)では、哲学は伝統的に、ローカルな文化の限界を超え、普遍的な自明性や普遍的なメタ言説を追求してきたが、日常的な実践の中に普遍的で哲学的な価値を見出そうとする、「反哲学」の系譜が存在することを論じている。このような「反哲学」として、マルクスやニーチェ、キルケゴールやハイデッガーを論じるのだが、グロイスはこれらの「反哲学」を「レディメイド哲学」とも呼んでいる。レディメイドの芸術作品は日用品のオブジェを選択して展示することにより、それらを芸術作品へと格上げする。さらにこのような芸術行為を通して既存の芸術作品のあり方を批判する「反芸術」ともなる。グロイスは日常的な実践や経験の中に普遍的価値を見出し、かつての哲学が提示した概念の捉え直しや組み合わせ、一般的な普及を実践し、それによって既存の哲学を覆す点で、「反哲学」の実践とレディメイドの芸術実践とが平行関係にあることを見出している。

グロイスの論考は、ポスト冷戦期から情報技術の興隆という時代の流れにわれわれが必然的に巻き込まれてゆくさまを、芸術を通して見定めているように思われる。

 

『流れの中で インターネット時代のアート』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳より抜粋し引用。