小動物とエクリ
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経緯 = 予備登記 ⑤

 

 

補遺
ヴィクトル・ファリアスの書
『ハイデガーとナチズム』について

一、

一九三三年以前のハイデガーを政治的な観点から規定しようとするのであれば、彼をただたんに「右に」位置づけるだけでなく、とりわけ強硬で攻撃的な、過激な国家-民主主義の潜在的信奉者の一人に数えなければならない。

二、

彼を隠遁に追いこむのは、彼の「急進主義」である。しかし隠遁は決裂を意味しない。

三、実際、多くの資料が、ハイデガーが一九三四年以後も体制のために「活動する」ことを止めていないことを立証している。

四、戦争が終わり敗北したのちもハイデガーは何一つ否認しなかった。

そして私が議論をもっていこうとしているのは、むろんこの点にかんしてではない。そうではなく、議論がはじまるのは、ナチズムを(ナチズムはしかし、純然たる錯乱のように無から生まれたのではない。それは「われわれ、善良なヨーロッパ人」から生まれたのだ」、ならびにその電撃的成功、その誘惑の力、その計画、もろもろの成功、等々をーーどう評価するかではなくーーどう思惟するかが問題になるときである。とくに、それが当時の「知識人たち」にとって何を意味することができたかを思惟することが問題となるときである。彼ら全員が愚かもので日和見主義者だったわけではない。それどころではないのだ。なぜ、二〇年代、三〇年代において、右派も左派も、デモクラシーをかくまで嫌悪し忌避したのだろうか。民族にたいするこの執着はなぜか。ドイツの窮乏(Not)についてのこの言説はなぜか。ハイデガーのみではない。それはドイツ的伝統を遠くまでさかのぼるのだ。ヨーロッパが破局にむかっているという、ドイツの内外を問わずみられる、この確信はなぜか。さらに、ヴァレリーとベルクソン、ブランショとフッサール、バタイユとハイデガー、ベンヤミンとマルローー若干の名しか引用しないとしてもーーが同じほど上手に(あるいは下手に)共有していたあの不安はなぜか。これらの問いーーだが、その他にもたくさんあるーーをファリアスの本は一度も取りあげていないが、しかし起こったことをーーそして、まちがいなく、いまなお起こりつつあることをーー多少なりとも理解しようとするなら、これらの問いを提起することは不可欠なのである。ナチズムの残虐性を既成事実としてとらえることは、これがもしこの残虐性を検討せぜにすむことを意味するのであれば、重大な過ちである。政治的にも哲学的にも。

ハイデガーのある種の言表を字義どおりに解釈し、遠回しの表現を疑い、存在論的な明証性の拒否によって要請されたレトリック(ハイデガーのレトリック)にたいして最大限の警戒心を失わずにいることは無駄ではないこと、あるいは健全であることを、私は認めてもいい。

国家 - 社会主義の国家においては、責任者はみな、通常、〈党〉に加入していなければならなかったことを考えていただきたい。同様に〈党〉が介入しないかぎり、〈党〉が監視し、指令をださないかぎり、多少とも秘密にされた報告書が配付されないかぎり、等々、何もおこないえなかったのである(大学における任命も、どんなささいな改革計画、どんな小さな出版もである)。ある意味ではこれが「全体主義」なのだ。

すなわち、ハイデガーもまた無から生まれたのではない。そしてたしかに、哲学的伝統のなかにのみ位置するのではないのだ(だから、彼はいつも伝記的なものを否定しているが、それにはそれなりの理由があったのである)。◉彼が受け入れた(あるいは彼が拒否しなかった)交友関係と雑多な集団が、彼に刻印を押していることは言うまでもない。そして、彼のもっとも自発的な共感がどこにあったのかを知ることは大切なことである。「きみがだれとつきあっているのかを私に言ってくれ〔そうすれば、きみがだれであるかを言ってやろう〕」という規則は悪くはない。ハイデガーを政治的「状況」のなかに位置づける必要があったのである。しかしながら、ハイデガーの言説を近隣の人々の言説に重ねあわせたり、彼自身の沈黙(とくに反ユダヤ主義にかんするもの)を他人の発言でみたしたり、三〇〇ページ以上にわたって、一種の汚染の法則ーーこの法則はついには、ハイデガーは結局、彼が言わなかったことすべてについて責任があるという印象を生みだすのであるーーを一貫して働かせる必要がほんとうにあったのだろうか。〔ハイデガーのテクストのもつ〕「権威」についての奇妙な考え方である。この権威が文字どおり錯覚を起こさせるほどのものになるのは、ハイデガーのテクストが、このようにもとの「文脈」のなかにしまいこまれたままで、もはやーー注釈をくわえられていない、と言うつもりはない(あまり要求しすぎてはならない)ーーたんに引用さえもおこなわれていないときである。

ハイデガーの「哲学」は、あるいはむしろ彼が思惟したものは、テクストのなかでないとすればどこにあるのだろう。いかなる「人類にたいする犯罪」も、私の知るかぎり例証されなかったにもかかわらずーーたとえ彼の沈黙による共犯が恐るべきものであるとしてもであるーー、「ハイデガーの場合」なるものが存在するのは「ハイデガーの思惟」が存在するからである。その政治的妥協は、これこれの党加入番号をもつそんじょそこらのただの教授の妥協ではない。さもなければ、五分といえども時間をさくことはないだろう。それは現代の最大の思想家の妥協なのだ。だから彼の政治的責任の問題が提起されるのは、彼の思惟においてである。実際上、ハイデガーの思惟を知らず、また彼のテクストを読まず、あるいはそのテクストを半分しか理解できず、だから結局はすべての事実を出頭させることはできなくても(問題なのは党員証番号ばかりではない。あるいは逸話ばかりでもない。すべてのテクストがある。そこには、実際、他人のテクストもふくまれている。しかしファリアスはそれらを比較しようとは、つまり区別しようとは一度も思わなかったのだろうか)、「国家- 社会主義全体を包括する源泉へのかぎりない加担」について語ることはできる。だが、それではあまりにも常軌を逸している。
もう一度くり返すが、私はハイデガーの政治的責任を、これまであまりにもしばしばおこなわれてきたように、矮小化することに賛成ではない。私は端的にただしくし公平さと正確さの意味においてーーあらねばならないと考えている。つまり、証拠にもとづいて判断しなければならない。そのためには、意義においても哲学的・政治的な重要性においても異質な種々の資料を「コラージュ」するだけでは明らかに不十分である。ハイデガーがナチズムに加担したこと、彼の立場が急進的であったこと、さらに「幻滅させ」られはしても、この幻滅はくもりのないはっきりした否認に彼を導くほど強くはなかったことーーこの事実に疑いの余地はない(これだけでもすでにかなり重大である、または「期待はずれ」である)。それでも、なぜ(そして何に)彼は加担し、何が彼を幻滅させ、何を彼は否認しなかったのかを正確に理解しなければならない。それに成功するのは、一九三四年以降のヒトラー主義を「反主流派的態度」と形容することによってではない。ハイデガーが一瞬たりとも受け入れることのできなかった、すなわち自分のものであると主張できなかったーーこのことは彼の著作全体が示しているーー発言、ものの見方(またはイデオロギー素)、思惟を、間接的にあるいは不法に彼のものだとすることによってでもない。人を狼狽させた戦後の沈黙についても同様である。いかなるタイプの連帯を、何との連帯を(体制?ドイツ?ヨーロッパ?)、彼は表明しているのだろうか。これらの問いにたいする答え、あるいは答えの開始が構成される何らかのチャンスがあるとすれば(それでも〔ハイデガーの〕「場合」はきわめてむずかしいのだ)、テクストの厳密な読解に身をまかせるときでしかない。

 「かぎりない加担」のテーゼで困ることは、それが細心綿密な歴史研究から発せられているようにみえることである。そしてこの歴史が、私たちと同時代人のほぼ全員に、いかなる権威をもったかは周知のとおりである。このテーゼの愚かさ加減、あるいは嘆かわしい単純さはーー私はこう確言しているがーー取るに足りない。ただしおそらくは、「反 - ハイデガー主義者」の軍勢にとっては話しは別である。彼らはいずれにしてもすでに確信にみち、ハイデガーの思惟を評価するたびにーーこの評価がどれほど用心深く、批判的で、あるいは慎重であろうともーーこれを「ファシスト」と形容するのにファリアスの登場を待つまでもなかったのである。ファリアスの書物が生みだす「メディアの」反響(仕事の質が質であるだけに、いかにも不釣りあいである)でさえも(あまり)心配はいらない。本物の仕事(この問題にかんして言えば、これまでもあったし、これからもあるだろう)は、最終的にはつねに、それが知られるべきところで知られるし、本物の問いも最終的にはつねに受け入れられることになるからである。
逆に心配なのは、この事件が少なくともしばらくは「解決済み」とみなされ、事態を了解したと判断するドクサ〔臆見〕が形成されることである。すでに「いまさらハイデガーなど読めるだろうか」という考えが流布している。もしこれがこの書物の結果(=効果)(読解、および問いかけを断念させること)であるならば、破局以外の何ものでもない。しかし私たちは読むという能力に絶望したいとは思わない……。

バークレー、一九八七年一一月

 

 

付録

伝記という虚構

ーー何ごとによらず大事なのははじまりだとは思いませんか。

ーーですから、思うに、作り話の作り手を監視することからはじめなければなりません。

というのも、今日、彼女たちが物語っているものの大半は、捨て去らなければならないからです。

ここで語っているのはソクラテスであり、ソクラテスに応答しているのはアディマントスである。

その後、ずっとあとになって、哲学がーーいくぶんかは自己自身の神話を産出しつつーー自らを誇示し、自ら自己自身を確信するようになったときには、国家から追放しなければならないのは、ようするに芸術全体であることがわかるだろう。国家においては、哲学することが根源にあり、これが統治するのである。

私がこの場面を想起したのは、それを私たちが哲学と名づけているものの開始を告げる場面、または開始を告げる場面の一つと考えているからではない。私が一五年以上も前から、倦まずたゆまず、あれやこれやの形式で、この場面の注釈をくり返しているということ、また、いま、私たちのいわゆる哲学が討議され判断されなければならないのは、この注釈ーーそれはここにのべているとおりのことだーーを起点にしてであることを、今日、ここで、私が自己自身にも、公的にも認めなければならないからでもない。
 そうではない。私がこの場面を想起したのは、まったく別の理由からである。それは、ある意味で、この場面を、私の根源的な場面あるいは私の母体となる場面ーーと言うことが可能だからである。少なくとも、これらのソクラテスの言葉のなかにーーそこでは、造形と虚構、
命令〔予(め) - 書(くこと)〕と予備登記〔予(め) - 記入(すること)〕の語彙全体を通じて、エートス〔性格〕の下には不可避的にデーモンが鳴りひびいていることを知っていたベンヤミンが言っているように、運命を性格〔活字〕(活字)に結びつける思惟が組織されているのであるがーー、つまりこれらいくつかの文のなかに、私は私に到来したある事柄を再認することができるからである。そしてそれは、"自己"にかんして、一切のいわゆる人称代名詞の形式を、括弧でーーこの括弧が目に見えるものであれ見えざるものであれ、耳に聞こえるものであれ聞こえざるものであれーーくくらないことを、私にたいし永遠に禁止しているのである。ニーチェ以来、周知のようにーーそして今日、これを言うのは私が最初でもなければ最後でもないし、少し以前にもなお"理論的"と呼ばれていた一切の仕事は、実際には自伝的である。私はこの規則に違反するつもりはない。教授のみなさん、みなさんがお読みくださるのは、私の誕生と幼年期にかんする羞恥心を捨てた物語なのだーー羞恥心を捨てたというのは、この物語をあらわにする誘惑に逆らえなかったからである。それは私よりもかぎりなく強いものであった。私がみなさんの前にあり、そしてみなさんに語りかけているのが、言表行為の(語彙の)法則よりもなおいっそう曖昧で情け容赦ない法則によって、私ではない他のだれか、その名と声が、以来、私の決定的に悲哀を帯びた記憶ーーそもそも記憶とはそういったものなのだーーのなかにしかもはや鳴りひびいていない他のだれかであるのは、この純然たる虚構の結果なのである。
このことは献辞にもあてはまる。

 私は哲学を志していたのではなかった。
だからといって、私に使命も命令も、あるいは虚構もなかったというのではない。逆である。
しかし虚構はーー子供のころから、私はこれが私にどんな効果をもたらすかを知っていたーー
まさしく虚構〔fiction のラテン語の語源 fictiōは「形作ること」「創造」を意味する〕であった。

そういうわけで、私は哲学を志していたのではなかった。
事実、哲学級では、哲学は私を幻滅させる。

グラネルはまさしく哲学者だった。彼の話を聞きながら、純然たる哲学することの演習に参加したからそういうのではなく(彼はハイデガーの射影のなかにあって、あまりに哲学の終焉を意識しすぎていた)、彼が信じがたい力でもって、哲学することの本質を明らかにしてくれたからである。彼はハイデガーの手ほどきをしただけではない。哲学することがかつては意味し、もはや意味することができなくなったのは何かを示し、その何かにーーそれでもなおーー執着するように要求した。彼はきびしく私たちを思惟することに導いた。

私が聴講する機会をえたグラネルの最初の講義のテーマは"詩と思性”だった。グラネルはこの講義で、ヴァレリーの「海辺の墓地」についてのアランとアレクサンドルの注釈を解説し、ボヌフォワの『アンプロバーブル』、および『言葉への途上で』にまとめられた講演の最初のものを解説した。『言葉への途上で』を彼はつぎつぎに、すらすらと翻訳していった。
 そしてとくにーーとくにであるーー私はすでにハイデガーを読んでいた。文体と思惟が運然一体となったこの比類なき声の、いわゆるショックを、あるいはその一撃を、すでにうけていた。そして、もちもろの偉大なテクストについての彼の解釈の権威 よく言われたこととは逆に、この権威は自分自身だけをよりどころとしているわけではないのだーーにすでに魅了されていた。また、彼の力に、さらには本質的なものに切りこんでいく彼の動きの実直さに。私はまったく理解していなかった。理解にははるかにおよばなかった。だが、端的に節回しの美しさが感じとられたほかに、私にとって印象的だったのは、彼の思惟の力強さ、および、当時、私が彼の"批評的徹底性"と呼ばなければならなかったもの、すなわち彼が哲学にたいして交える戦いの辛辣さであった。これこそが、彼が示しているように、哲学のあらゆる可能性が枯渇した時代にあってなおも哲学することであったとすれば、誘惑はほとんど抵抗不可能であった。そして実際、私は抵抗することに最大の困難を感じたし、いまもなお感じている。哲学全体にかんして、歴史にかんして(すなわち、私たちの時代にかんして)、そして何よりもまず真理にかんして、そこで公布される真理、それはーーおそらくはヘーゲルの時代にはヘーゲルの名において公布された真理がそうであったようにーーあまりもの高みから支配している。だが、だれもが知っているように、偉大な思想はただちに見分けがつくのである。たとえ、それが惹起する忘れがたき感動によってでしかないとしても。
 とはいえ、私は抵抗を試みた。これはーー私ははっきり自覚しているーー不謹慎なことである。だがある特定の状況においては、絶対に必要なことであった。こうした抵抗はフランスのハイデガー主義にたいしてはまったく必要なかった。そのハイデガー擁護論は端的に、言ってみれば、ちょっと単純(で、ときにきわめて疑わしいもの)であった。私は決してハイデガー派であったこともなければ反 - ハイデガー派であったこともない。私の抵抗はハイデガーそのものにたいして絶対に必要であったーー一九六三年、私は"批評的”(非難なしの)読みが可能であることを知った。この読みは排斥することではなく、逆に、その最後の結論にいたるまでハイデガーとともに歩むことであった。
 私の抵抗はつぎの二点にかかわっていた。
 まず、芸術と詩の問題のあつかい方。彼のうちにおいて、芸術と詩をまさしく問題にさせるもの(私をハイデガーに執着させたのは、まさしくこれである)のためではなく、彼の説教調の語り口(これは文体の問題である)、うぬぼれた敬虔さ、さらに明白な"イデオロギー的な"多元的決定のせいである。私はここでこんなことを、必要とされる慎重さもなく言っているが、問題なのは何と言っても過度にしるしを帯びだあるテクストだからである。そして私は、ハイデガーがいなかったら、今日、ヘルダーリンは読みえないだろうことは何の留保もなく認めるとしても、私が彼をもとにして読みえたヘルダーリンは、ハイデガーによるヘルダーリン解釈そのままではないのだ。
 抵抗の第二点、それはむろん政治的な問題であった。いまもなおそうである。みなさんは私がこの問題について説明を試みたテクストをお読みくださったのだから、いま、これについてくどくど言うのは無用であると思う。だがあえてくり返すがーー問題が私がやむをえず義務と呼ぼうと思っている事柄にかかわっているからであるーー〈殲滅〉ーーこの名を発することが許されるなら〈ショアー〉という歴史的かつ精神的なあの残虐行為(にかんする沈黙)との共犯は、私の目には極度の過ちと映ずるのである。哲学することは、そこにおいて決定的に陰ってしまったのである。

 つまりこれが、私が哲学という職業に入って以降、私のなかに住まってきた諸問題の先史である。結局、領域はーーこの学位論文の口頭審査が私の仕事の地平を占領してしまってからは、このことははっきり認識しているーーはじめから切り離されていたのだ。文学と哲学(これは詩と悪性ではかならずしもない。だがパライア・ティアフォラ〔古くからの不一致〕ではある)が、今日、よく言われるように、私の"問題”であった。この問題を政治的要求がつらぬいていたのである。そしてこの政治的要求はーーこれを隠す理由は少しもないーー、もし、私がハイデガーとともに考えているように、哲学が倫理学という名によって指示しているものが、哲学がその根本的可能性において枯渇したことによって枯渇してしまったのであれば(いずれにしてもこの事態は、私の目には明々白々である)、倫理的要求、いやおそらくは倫理的要求以上のものなのである。
 
◉経緯は、これが説明できるものならば、二つの出会いによって説明される。このことが意味するのは、この経織が偶然とは別な事柄だということである(これはつねに予(め)-記入(すること)〔予備登記〕の問題である)。

最初はジャン - リュック・ナンシーとの出会い。私がここに到着したときである。しかも完全に仕組まれた出会いだった。この出会いから、ほとんど即座に、ここ、つまり"地方"(そしてストラスブールーーこれはもちろん象徴的な都市であるーー)において可能な共同作業のアイデアが生まれた。ジャン - リュック・ナンシーがいなければ、彼の手本とささえがなかったら、端的に、友情もしくは兄弟愛がなければ、私が"哲学的"エクリチュールに手だしなどしなかったことを、私はたいへんよく知っている。ヘルダーリンのいわゆる"精神どうしのコミュニズム"、"友人どうしのプシュケー〔魂、鏡〕"、ブランシュのいう“終わりなき対話”がなければ、私が私なりに練りあげる機会をえたものを練りあげはできなかったことを、私は知っている。私たちのロマン主義にかんする仕事が自伝的に再度書きこんだのは、おそらくまさしくこのことなのだ。もし私たちの共同のプロジェクトのなかに、イエナの経験を反復し、位置ずらしをおこなおうとする意志があったということが真実であるならばである。だからと言って、私たちが"ロマン主義者"ごっこをしたというのではいささかもない。そうではなく、歴史的かつ精神的なある種の地平に自らを書きこもうという欲望が私たちに共通に存在していたということである。失われた伝統の糸を結びなおすためではない(この糸は決定的に断ち切られた。それを断ち切ったのはナチズムである)。必然的に空隙をもつある記憶から出発して、私たちのおそらくは明日をもたぬ未来のために救いえたものを救い、まちがいなく記憶をもたない私たちの現在のために再 - 刻印しなければならなかったものを刻印しようとする試みのためにである。
 もう一つの出会い、これも決定的であった。ミシェル・ドイチュとの出会いである。彼が私に演劇への手ほどきをしてくれた、ということもできるかもしれない。だが、それはただしくない。
 演劇は、あまりに露骨、あまりに厳しい芸術である。それはいかなる"アプローチ"をも許容しない。それは直接に、真理すなわち誠実さがこうむる試練である。私はヘルダーリンを読んだ。ミメーシスにかかりきりになった(これは"私の問題”の一部をなした)。しかしヘルダーリンを彼とともにソフォクレスをーー翻訳すること、彼にものを言わせること、空間と挙措を想像すること、事物を呼びだすこと、思惟させるべきことを思惟すること、美しさにもーーとくに感動にも譲歩しないこと、ただしくあること、これらのことは、授業ですら十分には教えてくれない勇気を必要とさせるのである。芸術家たち(私は画家、フランソワ・マルタンのことも念頭においている)との仕事は、私に誠実さというものを教えてくれた。これはいかなる点においても"美徳"ではない。これは思惟にとって必要なもの、または必要であろうものなのである。
そういうわけで、私が作成したのは博士論文ではない。◉ここに提示するものは断片化されている。限定された一つの主題、あるいは一人の著者にかんする書物をなしてはいない。それは、今日、よく言われるように、諸テクストなのである。これについて、少し説明させてもらえるだろうか。
そこには、考証学的研究にたいするいかなる拒否も、ためらいすらもない。博士論文は、その現代的形式においては、歴史的な対象を扱うべきだと思っているにもかかわらずである(私の仕事は、一時期、そう信じたのとは逆に、全面的に哲学史に属しているわけではない)。これはむしろ無能力のせいである。

そして、告白すれば、私は社会的需要の制度を自らに断つことができなかったのである。だが弁明させてもらいたい。私は、断片化、非作品化は、時代のなかに書きこまれた必然性の結果であると深く信じている。私はこれらの用語をモーリス・ブランショから借用しているが、私は彼と恒常的な近接ーー恒常的な〔彼〕からの - 隔りーーのなかで、つねに書くことを試みてきた。私にとって思惟すべきものとしてあたえられるもの、思惟を試みるべきものとしてあたえられるものはーー端的にーーエッセーの形式を呼びよせる。そして、これらのエッセーは、唯一の問いがそれらをささえているかぎりにおいて、エッセー集の形式を強要するのである。私はこのようなエッセー集を、みなさんの審判によろこんでゆだねる。
(大谷尚文訳)
一九八七年二月七日

 

 

ラクー ー ラバルト、自らを語る

Ph. ラクー ー ラバルト
(聞き手) 浅利 誠

哲学として私がおこなっていることは、むしろスタイルとしてはエッセーに属しています。

こういう言い方はあまり好みませんが、括弧付きの詩を書いてきたことになると思います。

政治的なものについての哲学的考察

ただ、こうした読み方をしていたものですから、ハイデガーがなぜナチに加担していたのか、その理由が私には分からなかったのです。だから、なぜハイデガーがなぜナチに賛同したのかという問いを立てることは不可欠であると思われました。

ーーというのは、彼のテクストを読めば、このことはやはり歴然としているからですがーーハイデガーがおこなっている芸術へのアプローチから、詩人の使命、民族の歴史的運命、ドイツの芸術的約束、そして現在では私としてはもっとさきまでいって、ドイツ神話の約束までふくめていますが、これらについてのきわめて重要な考察のすべてを切り離しているのです。ところが、これこそまさにハイデガーの真に政治的な言説であり、事実、彼はそこに自らの政治的立場の真理を見出したのです。そして、戦後になって、ご承知のように、彼はその立場をいちじるしく抑制したのでした。

ハイデガーとの対決

ハイデガーはヴァーグナーにかんしてはおそろしく慎重で、とくにニーチェにかんする講義の有名な一節では、ヴァーグナーをーー俗に言うようにーー完全にこき下ろしているのです。ですから、ハイデガーはナチだったと非難されるのをみると、ヴァーグナーについて彼のこうした発言があるだけに、私の目には非常識なものと映るのです。こう言ってよければ、彼には彼なりの保守革命の形態があります。この形態はヘルダーリンを通過していますが、一瞬たりともナチ神話と妥協していないのです。これを示すことができるのは、史的論証ではなく、テクストの読解なのです。

ハイデガーの言説の脱構築

政治的関心以外には、芸術と文学の側に私の関心があるわけですから、私がいささか探究を試みた、事実上唯一の哲学的領域とは芸術の問題でした。結局、まっさきにくるのは私自身の個人的関心です。つまり、文学と哲学の関係を検討することでした。ですからこうして、とくにニーチェについて、それに、当然、ドイツ・ロマン主義について仕事をするようになったのです。実際、ニーチェとドイツ・ロマン主義のなかには、文学と哲学の関係をあつかうためのすべての材料がありました。そして、この考察はつねにハイデガーの思惟によって養われました。こうした探究の進展の過程で、あるとき私はーーじつは、これがハイデガーとの最初の衝突だったのですがーーハイデガーのニーチェの解釈にぶつかりました。この解釈は、てっとり早く言えば、ニーチェの作家的側面を考慮することを拒んでいるのです。そして私にはそう思われたのですがーーこの挙措はもう一つの挙措と並行していました。そのもう一つの挙措によれば、ニーチェは言うなれば一つの形而上学なのです。私だって形而上学をこのようなものとしてあつかっていますし、ニーチェ氏、つまりニーチェという主体にかかわっているわけではありません。しかし、ニーチェにおいては、作家としてのニーチェが一貫して先行しているのです。

ーー私は主体の問題系をとらえ直そうとしました。とらえ直すとは言っても、もちろん心理学的主体としてでもなければ、哲学的主体としてでもありません。今日の用語でいえば"エクリチュールの主体"と呼ぶことができるものとしてです。主体の問題系については、私はバタイユとブランショ以外にも、たとえばジラールーー私は彼のものをずいぶん読みましたーーといった人たちの影響をうけています。さて、この問題系はもう一つの問題系と交差することになりました。後者は、私の意見では、西洋の美学の一貫した問題系、つまりミメーシスの問題系です。

この方向で仕事をつづけ、それを掘りさげながら、つまり芸術、主体にぶつかったのです。

ヘルダーリンについて彼が言ったことは、一九三五年のドイツ人にむかって発せられた言説であることに、突如、気づいたのです。

ハイデガーからうけた二重の衝撃

たしかハイデガーのテクストの美しさ、エクリチュールの美しさからうけたショックと第二のショックとは、ほぼ同時でした。つまり、ハイデガーがナチズムに加担していたことは、ハイデガーを読みはじめてすぐに知ったのです。
だから私のハイデガーにたいする関係はつねにむずかしいものになったわけです。

ヘルダーリン、あるいはハイデガーの政治的言説の所在

"ナチズムが私の興味を引いたのは、そして、言ってみれば、私がその方向に進みうると信じたのは、技術の問いによってである"と。しかし、私にはそうは思えないのです。技術の問いは戦後になって重要になったものです。多少ともユンガーの解釈と縁を切るのに、彼はながい時間をついやしていますし、このことにかんして、彼自身、興味深いことを語っています。いずれにしても、これはナチ時代の彼の主要な関心事ではありませんでした。たしかにこの時期、彼の関心事はテクネーにありましたが、それはギリシア的な意味でのテクネー、すなわち”芸術”だったのです。さて、そのようなわけで、興味をそそり、ハイデガーによって保証もされた仕事ーーここで私の念頭にあるのは、一五年ほど前にでたパルミエの仕事ですーーは、すべて"ハイデガーはナチズムを通して技術の問いを抱きかかえようとした"といった解釈にはまりこんでいるように思いますが、私にはこんな解釈はぜんぜん納得できないのです。

ハイデガーとの内的な議論

結局、私はハイデガーを通して哲学を学びました。ときには、だれかを介して。さっきグラネルの話をしましたが、グラネルは私の先生でした。おおむね、私はハイデガーを出発点にしてーーかりにこんなことが言えるとすればですが一ー哲学していると言えると思います。たとえ私にとって、ほかに重要なものがあったとしてもです。もちろんベンヤミンは私にとってひじょうに重要でしたし、バタイユとブランショもそうです。ある程度はラカンについても研究しました。しかし、そもそもこのような理由から、私はデリダと関係を結ぶことになったのです。というのも、私はデリダのなかに自分と似たものがあることを認めたのです。彼はハイデガーを起点にして思惟している人間です。デリダの初期のテクストを読んだときからーーもちろん彼の立場は私とは同じではない、というか、とうてい同じだとはみえないにしても彼とは立場が類似していると感じました。だからこそ、私は彼の仕事にとても連帯的だったのです。つまり、ハイデガーを起点にして思索ないし思惟してはいても、ハイデガーとの対決が妨げられるわけではありません。ハイデガーのすべてが容認できるわけではないのです。極端な言い方をすれば、おそらく私は少しもハイデガー主義者ではありません。これはハイデガーの思惟を出発点にして思索することであって、もっとも決定的な点についてこの思惟と対決することとは別なことなのです。第一、さきほどのあなたのご指摘にもあったように、私の主たる問いが、おおよそのところ"ミメーシスとアレーティア"であるといった場合、ごく単純にいって、アレーティアをミメーシスでおきかえているわけです。これは、じつはハイデガーの思惟にたいする巨大な挙措なのです。これはテロ行為ですね。そういうわけで、私はハイデガー主義者にあまり好まれないのです。(笑い)もちろん私のなかにはハイデガーの読解からくる、あるタイプの言語がみられるわけですから、彼らは、歩みよりを可能にする何かがあるとは十分に感じています。しかし、私の志向するものがハイデガー主義的でないということも彼らには分かっています。以上が、言ってみればハイデガーにたいする私の関係です。ですから、あなたはむしろフーコーのほうにハイデガーの影響”がはっきりみられると言いましたが、私もそう思うのです。ええ、そうなんです。というのも、フーコーにとっては、それはもともと彼の領域ではないからです。フーコーはカンギレームの仕事、つまり生物学や医学といったいくつかの科学を出発点にして仕事をはじめた人で、のちに狂気の歴史、精神医学の歴史についての仕事をしながら、それと並行してハイデガーを読んだのですが、ハイデガーの感史観と歴史区分の体系にとても影響されたと私は思います。ハイデガーのなかにある、近代
のデカルトなどとは絶対に立場を異にする何ものかを、フーコーは文字通り受け入れたのです。

バタイユとブランショ

"経験〔体験〕"というモチーフにかんして、バタイユはハイデガーにたいしきわめて鋭い関係に身をおいています。彼は言っています。私が経験という場合には、それは笑いの経験であり、狂気の経験であり、エロティシズムの経験である”と。それは、ようするにーーたとえバタイユがそれに信をおいていないとしてもーーおそらく"詩”の経験であると言えるでしょう。

周知のように、ブランショはドイツ文学研究者なんです。ですから、ひじょうに早い時期からハイデガーを読んでいました。『NRE』誌で文芸欄を担当していたとき、彼はハイデガーについての一種の書評を書いていました。しかしそこでは、ハイデガーはまったく別のしかたで書き直されているのです。ブランショの文体で。つまり、ハイデガーはやはりひじょうに措定的で、"ヘルダーリンは神々の凋落を告げる詩人である"、"ヘルダーリンはああだこうだ"といった具合なのですが、ブラソショにおいてはそれが突如として目もくらむようなものになります。一種の謎、文学の謎になるのです。これにたいしては、ハイデガーはほとんど無感覚でした。それはそれとして、最近のブランショは、詩の問題についてハイデガーと真の議論を試みています。

バタイユがドイツ語のテクストを読む必要があったときは、クロソウスキーに頼んだのです。(笑い)ドイツ語をじかに読んだのではありません。ですから、彼が読んだハイデガーとは、例のコルバンの最初の選集です。彼は『形而上学とは何か』を読みましたが、これにとても驚かされたのです。無の経験、等々についてですが、彼はこれについてハイデガーと議論をしています。私にも同じ経験がある。だが同じものではない”と。

フランスの大学におけるドイツ哲学の受容の歴史

ドイツ哲学はいつもマージナルな人たちを通じて紹介されてきたのです。一九世紀のフランスにシェリングを紹介したのはアルザスの独学者でした。彼は二カ国語に通じた人で、それでシェリングを翻訳しました。一九世紀にヘーゲルを翻訳したのはイタリア人でした。イタリア人がヘーゲルをフランス語に翻訳したのです。大学でニーチェについて大きな仕事をしたのは、高等師範学校の司書でした。教授ではなかったのです。いつもマージナルな人たちなのです。これらの仕事に興味を示したのは哲学者ではなくーー彼らはすさまじい抵抗をしました作家でした。ヘーゲルを翻訳したイタリア人はマラルメの親友でした。シェリングとヴィクトル・クーザンの仲をとりもったアルザス人は、パリにきたときにはボードレールに会いにいくような人でした。彼はボードレールにシェリングの話をしました。だからボードレールのなかにはシェリングの痕跡があるのです。この痕跡はどこからきたのだろうと疑問に思われていますが、それはここからきているのです。このように、さまざまありますが、ドイツの大哲学、偉大な形而上学は、前衛的な芸術運動を通じてフランスに入ってきたのです。


ロシア人の亡命者であるコジェーヴ、彼は「エコール・プラティック・デ・オート・ゼチュード」で数時間の講義をあたえられ、これで食いぶちをえていました。彼はヘーゲルについてのセミナーをおこないましたが、このセミナーにはクロソウスキー、バタイユ、ラカン、クノーが出席します。彼らは同時にシュールレアリスムグループにも参加しているのです。ドイツ哲学はこのようにして入ってきたのです。大学がドイツ哲学にたいして門戸を開くのは、戦後になってからにすぎません。また、このことが、なぜ左派ハイデガー主義があるのかを説明しています。以上のような運動の継承者となったのは、左派の大学人なのです。デリダのような人たち…....、その一〇年後には、たとえば私のような人間です。

「哲学-政治的には、フランスにおける、サルトル、バタイユ、ラカン、フーコー、ドゥルーズを通って、リオタール、デリダにいたるハイデガーの読解は、ハイデガーの左派的な側面に相当する」と。 

ドイツでは、いずれにせよ大学的な哲学はしていないのです。そう、彼はただしいですよ。彼が語っているのは、フランスで支配的だったハイデガーの左派的読解についてです。しかしもう一方で、ハイデガーの紹介がつねにハイデガー主義者たちの監視のもとにおかれていたということ、つまりハイデガー御墨付の仲介者であるボーフレの解釈のもとにおかれていたということを忘れてはなりません。ボーフレをフェディエが引き継いだとはいうものの、状況に変化がみられたとは思えませんね。ですから、言ってみればーーそもそも、ことは複雑なのですがーーこれはハイデガーが許可した読解です。言いかえれば、校訂がまったくおこなわれないテクストにもとづいた読解なのです。ハイデガーが言ったことを心深くそのまま反復し、彼の文章の細大もらさぬ注解をおこなっている、これが真相です。それと同時に、彼らのほうからもハイデガーに、とくに晩年のハイデガーに、ある種の影響をあたえたと私は思っています。ボーフレはハイデガーの思惟のいくつかを屈折させたと思います。ル・トールでのセミナーの疑わしいテクストなどは明らかにそうだと私には思えるのです。疑わしいテクストだと言うのは、ハイデガーが書いたわけでもないテクストを、彼が書いたというようにハイデガーに言わせていることは明白だからです。ハイデガーは自分が書いたと言うことができたかもしれません。しかし、そのことによって課されるエクリチュールの責任をハイデガーがになうという形で彼が書いたとは、とても思えません。

レヴィナスは現象学によって教育された人で、ハイデガーを読み、戦前にはハイデガーの講義を聴講したことさえあります。ハイデガーの思惟に通暁していますが、実際には乱暴な言い方ですので、いくぶん表現をやわらげる必要はあるでしょうがーーハイデガーの思惟がいかに偉大なものであっても、行きつくところは一つしかない、それが反ユダヤ主義だと考えたのです。ですから、一つの倫理学ーー私に言わせれば、倫理学的存在論を基礎にして、すべてをやりなおそうとしました。「存在するとは別の仕方で」といったテーマ体系によってです。この視点からすれば、レヴィナスのブランショにたいする影響は大きなるのがありました。ブランショがハイデガーを非難するときは、ハイデガーの反ユダヤ主義を非難しているのですが、それはここからきているのです。

主体についての問いとラカン

哲学的な観点からすれば、Dasein 〔現存在〕の分析論を起点にしておこなわれた主体性の脱構築より以前の形而上学的な立場に逆もどりすることなしに、主体の問いを立て直すことが目的だったのです。さて、いまなお、そしていかなる条件で、主体についてーーこの主体が主体、つまり形而上学的主体であることなしに一ー語ることができたのか?たとえば、形而上学は意志の形而上学という形でニーチェで頂点に達する、云々とハイデガーが言うとき、ハイデガーが注意をむけていないものに注目することによって、ひょっとしたらニーチェのなかに何か別なものを見出すことができるのではないか?ラカンが私たちの手助けをしてくれるのは、まさしくここなのです。たとえ、ラカンのいう"分裂した主体"がーーもちろん、ことはそれほど単純ではありませんがーーまだ弁証法的なものにとどまっているように思われるとしてもです。

アラン・バデュとの議論、あるいはハイデガーにおける「詩」と「哲学」の縫合をめぐって

バデュと私は議論しています。これは議論のたぐいのものです。これは比較的最近のことです。数年前からのことで、そんなに昔からのことではありません。バデュの哲学的、政治的、等々の出発点が、私のとははなはだ異なったものだったからです。彼が毛沢東主義者だったころ、私はアナルコ・コンセイイストでした。

ただ、何年か前に彼はきわめつけの誠実な人だし、たいへんな読書家ですからーーいままでしてきたように、ハイデガーを迂回するわけにはいかないことに気づいたのです。このようにして、彼はハイデガーの問題に直面することになったのです。彼はきわめて厳密かつ強力な思考の持ち主ですから、たちまち、ハイデガーを乗り越えることは可能だと考え、実際にその乗り越えに取りかかりました。私たちが議論しているのは、この点についてなのです。この点についてというのは、彼が提唱しているようなプラトンの再興が思惟の未来だとは、私にはどうしても納得がいかないからです。でも、ごらんのように、これは現実的な議論なのです。
ーー バデュの批判は、ひとことで言えばこうなると思います。すなわち、ハイデガー以後の思惟の可能性をさぐるのであれば、ハイデガーにおける「哲学と詩の縫合」を批判し、それを乗り越えなければならないということです。彼はつぎのように言っています。「私たちは今日、哲学を脱縫合するためには、プラトンがおこなったような講素からの距離化を再 - 生産せざるをえない。そのためには、プラトンがすでに考えていたように、哲学の内部から、数学素による哲学の規定を激化させることを避けることはできない。これが、ハイデガー自身を通じて、詩素へのロマン主義的な隷属を永続化しているものから私たちを根こぎにする唯一の方途である。」
  
数学の問題で彼と交差することはありえません。それはまったく不可能です。政治的な問題では可能です。しかし………それを回避したとは言いませんが、私たちはこの政治的な問題を故意に政治的な倫理の問題に還元してしまいました。それでも、バデュがいくつかの誤りを認めた時点でーー私もそうですから、彼に教えをたれるつもりはありませんーー私たちは基本的なところで合意に達しました。そういうわけで、それ以来、私たちは議論する仲になったのですが、政治以外の分野で彼と交差するものがあるとすれば、それは詩にかんしてです。つまりバデュは、哲学が詩と縫合されていると考えているのです。というのも、ある意味では、さきほどのべた哲学が学校制度化された時期、この歴史上の時期にあっては、詩が哲学のもっとも興味深いもろもろの問いをうけついだからです。私自身は、哲学は神話と縫合されたと考えています。そして、このことはドイツ・ロマン主義のプログラムななかに、とくにシェリングのなかに、はっきりと記載されていると考えています。それに、ドイツ・ロマン主義の伝統、つまりシェリング、ニーチェ、ハイデガーにおける詩人についての哲学的注釈、これが詩について語る必然的に正当な方法だと考えてはいけないということです。ここにあるのは、むしろ神話への意志であり、まったく別なものなのです。ニーチェは『ツァラツストラ』を書き、シェリングは『世界の年輪』を書こうとし、ハイデガーは、あなたもご存じのテクスト、「方界」、「輪」といったあらゆる種類の素材について書きましたが、これは"神話素"に展するものなのです。というのもロマン主義以降、宗教の美学的理解というものがあるからです。もちん、ギリシア的モデルなどのせいなのですが。

彼はハイデガーのなかで、本質的に問題になっているのは詩であると考えています。しかし私はそうは思いません。

ラクー ー ラバルト、「ハイデガー問題」を語る

Ph. ラクー ー ラバルト
(聞き手) 浅利 誠

 

『政治という虚構――ハイデガー、芸術そして政治』フィリップ・ラクー=ラバルト /著浅利誠・大谷尚文 /訳

 

政治的システムとニヒリズム | 思椎=追想 ④

 


第十章 千年の時

ある日、アドルノは「[ハイデガーの]哲学はそのもっとも内的な構成要素にいたるまでファシストである」と書くことができた。守勢に立たされたアドルノは、誇張する以外のことができなかった。だが、逆上そのもののなかにあって、彼がしばしば急所を衝いていたことは周知の事実である。この独断的(かつ断固たる)断言を問題にしてみよう。事実、ここにあるのは真の問題である。これはつぎのように言いあらわすことができあだろう。すなわち、三三年の入党、釈明のみすぼらしさおよび否認の不在、〈殲滅〉(およびドイツまたはヨーロッパの責任)にかんする沈黙は、ハイデガーの哲学ーーまたは思惟ーーといかなる関係にあるのか、と。

語らぬーーあるいはほとんど語らぬーーことによって、必然的に低俗で暴力的なものであった(あるいは、あったであろう)論争に参加することを拒否することによって、そのたびに、ひどい侮辱をうけつつ一種の尊厳のかまえを取ることによって、あるいは思惟の途方もない気高さをよそおうことによって、ハイデガーは結局は、自分自身の思惟について、つまり彼自身が思惟そのものと呼んだものについてもまた、おそるべき責任を負ったのであった。彼は端的にアドルノの告発を可能にさせたのである。そして「思惟の課題」への呼びかけが思惟上の汚れを隠しえなかった、あるいはうまく隠しえなかったことを嘲笑(あるいは憤慨)できるようにしむけたのである。しかしながら、彼は思惟にたいして大きな「歴史的な」責任ーーそもそもこれは、直接的な行動の領域におけるその無能力にたいして共外延的であるーーを要求した最初の人であった。

すなわち、「来たるべき思想家はたぶん、私が準備しようと試みているこの思惟を実際にひきらけるという課題の前に立たされるでしょうが、そのような思想家はハインリッヒ・フォン・クライストがいつか書いた言葉に甘んじて耳を傾けなければならないでしょう。その言葉はつぎのように言っています 私はまだここにいないだれかの前で姿を消す。そして、千年の時をへだてて、私はそのだれかの精神にたいして敬意を表する"と」。こうした物差しでものごとを測るとき、思惟における遺贈物または遺産にかんして、何が問題なのかは明らかである。少なくとも、沈黙とかーー「大きく思惟する者は、大きく誤らねばならない」といったたぐいのーー若干の漠然としたほのめかしから解放される可能性を期待することだけでも、かなりやっかいなことであることを知らなければならないだろう。
 以上のことをのべた上で、この告発が当をえたものであるためには、あるいはまた、その疑惑が容認されるためには、少なくとも二つの条件が必要である。
 一、ファシズムとはその本質において何であるかを知ること、
 二、告発された(あるいは疑惑の対象となった)「哲学」ーー同じくその本質における「哲学」ーー、が、このようにしてしっかりと境界を画定されたファシズムといかなる関係を結んでいるかを示すこと、である。
 第一の条件についていえば、アドルノがこの条件をみたすのにもっともよい位置にいたか否かはたしかではない。語の不当な操作でないとすれば、彼は「ファシズム」という語によって厳密には何を理解していたのか。ナチズムの経験的 - 歴史的な現実か。それではこの告発は一瞬たりとも、もちこたえられなかった。もっとも、ハイデガーをローゼンベルク(またはクリーク、ボイムラー、その他、群小の思想家たち)の上に一ー不誠実千万にも一ー重ねあわせたり、三〇年代初期の出版物(『形而上学入門』、『ニーチェ』)を楯に取ることによって、ハイデガーがはやくも一九三四年 - 三五年から体制とそのイデオロギーにたいして取った隔たりにかんする種々の明白な証言を一ー誠実さの一かけらもなくーー見誤ったりするのであれば話しは別だが。それともアドルノはファシズムの概念をーーファシズムの真理であって、なかんずく、はっきりしないところに、たとえば存在の思惟のようなところに、ファシズムを見破ることを可能にするファシズムの概念を所持していたのだろうか。だが、これこそがまさしく疑わしいことなのだ。というのも、ファシズムにたいするアドルノの「批判」は、マルクス主義的または疑似マルクス主義的諸前提から一度も抜けだしていないからであり、またそれゆえに、マルクス主義・ファシズム相互の敵意(事実、これは解消されがたい敵意であった)のはるか手前で、つまり「イデオロギー的」かつ「政治的」な乖離または対立のはるか手前で、それらマルクス主義とファシズムのーあるいはまた(「方法論的」な)別な次元で言えば、社会学主義と生物学主義の1存在論的-歴史的な相互1帰属が決定される場所に到達することへの無力をあらわにしたからである。アドルノは全力をつくして語ろうとしたが、ファシズムについては、彼が言ったことは、ハイデガーがその声明の言葉少なさそのもののなかで(または、ファシズムの時代に、彼が国家 - 社会主義革命の、失われたか台なしになった「真理」と「内的な偉大さ」がどこにあるのかを指摘したときの辛辣さのなかで)言ったことよりも、おそらくは少ないのである。政治闘争は、たとえ必要だとしても、分析をくもらせることがある。これについては、いかなる種類の証拠にもこと欠くことはない。だがこのことはいささかも、この場合で言えば、ファシズムにたいして、何かわけの分からない「名誉回復」とか「再評価」とかの操作に同意しなければならないということは意味しない。それが端的に意味しているのは、ファシズムを「病理学的」現象とみなすことは止めた方がいいということ(いかなる外 - 社会的立場からーーとフロイトは問うたーーこうした診断を下せるというのだろう)、そしてファシズムのうちに認めるべきは、その時代において(少なくとも可能であった、そして他の政治形態と同様、常軌を逸していたり不十分であったりするー一ー政治形態ばかりでなく、今日、私たちに、近代における政治的なものの本質を明らかにしてくれるのにもっともふさわしい政治形態だということである。だがこうしたことについては、もちろん、アドルノは耳を貸そうとはしなかった。こうしたアドルノの態度もまた、結局は理解可能なのである。
 第二の条件の方は、みたすことはなおいっそう困難である。それがまさしく第一の条件の充足にかかっているからである。ハイデガーにむけられた告発を最後までやり抜くには、ブルトンがバタイユにたいしておこなったように、アドルノは少なくとも「超ファシズム」の概念にも比すべき誇張した概念を動員すべきだったろう。ところで、私が知っているかぎりでは、彼はこうした概念、または類似したものを一度として生みだしたことはなかった。そしてたいていは反動的「美辞麗句」の摘発で満足した(他のものたちが、革命的 - 保守的、農民擁護的、等々のテーマ群の痕跡をつきとめることに憂き身をやつしていたように)。哲学的かつ政治的な分析を考慮に入れれば、これでは不十分なことは明白である。「超ファシズム」の概念自体にーーこれが概念だとしてーー問題がないということではない。にもかかわらず、それがもちいられた時代には、思惟(この場合にはバタイユの思惟)と現実のファシズムの差異を予想させるというメリットはあったのである。
 アドルノの無礼の下に隠れて、したがって真の問題はつねにつぎの問いのままにとどまっている。すなわち、基礎的存在論と Dasein 〔現存在]の分析論は、ファシズムへの加担の可能性をうちにひめていたのか、ということである。もしそうであれば、いかなる種類のファシズムへの加担であろうか。
 この角度からすれば、実際、何かわけの分からない実存的 - 英雄的なパトスからではなく、厳密な意味で哲学的な諸理由で、国家的で民来的な運動(ほんとうは国家 -民主主義と言いたいところだが、この語のフランス的コノテーションはまずい)への加担が可能であったことは、つねに示しうるだろう。ここでいう哲学的理由には二つある。Mitsein 〔共同存在〕の分析論の、まず第一に相対的な二次性、そして相対的な性急さである(『存在と時間』)。たとえ、共同存在と共同〈現〉存在が「世界- 内 - 存在 と根源を等しくする[……]Daseinの諸構造」としてはっきり定義されていようともである(有限性のしるしそのものとしての根源的に - いっしょに-あるは、愛と憎しみという大きな分割をふくまないーーだがこの分割がのしかかっていることには変わりない部分的な諸関係の内部をのぞけば、結局は問われぬままに残っているのである)。つぎに、この第二次化と共通の外延をもつ、民族(Volk)の概念ーーこれはいまだ問われずにいるーーによる歴史的 Dasein のある種の多元的決定である。この多元的決定は、歴史をあつかっているパラグラフにおいては疑いの余地はない。

ハイデガーの目には、Gemeinwesen [共同体]はつねに一民族のものであった。そして歴史性の分析は、こうした地平の外におけば、何の意味ももたなかった。
 逆に、同じ基礎的存在論または同じ Dasein の分析論が「社会主義」タイプの政治参加を招きよせえたことを示すことは、はるかにあぶなっかしいものになるだろう。「社会的」とでも形容できる固定観念は『存在と時間』のなかになくはない(ブルデューはこれらの固定観念を「分かりやすく翻訳する」ことは興味深いことだと言じていた。すなわち、この翻訳を通じて大げさで権威主義的な(自己)神聖化した美辞麗句に還元された基礎的存在論から、たんにそれらの固定観念を引っこ抜くことなのである)。しかしながら、三三年ーー三四年の声明の特定のものが展開しているーーつまり、すでに指摘したように、まさに厳密な意味で加担の時期であるーー労働の存在論のごときものを予示するものは何もない。しかも技術のモチーフがあらわれるのは、ご存じのように、「決裂」後、国家 - 社会主義とそのイデオロギーにたいする敵意が明示され表明されている文脈のなかでしかないのだ(『形而上学入門』の末尾)。
 そういうわけで、三三年の政治参加の以前に、ハイデガーの哲学が「そのもっとも内的な構成要素にいたるまでファシスト」であるとして告発することは、もしファシズムをドイツにおいては国家 - 社会主義だとして定義するならば、軽率だとも悪意だとも言われかねないだろう。ハイデガーの哲学は、事実、インターナショナリズム、合理主義(同じく非合理主義)、ヒューマニズム、進歩主義、等々、一切の理念に対立する。ハイデガーの哲学は Aufklarung〔啓蒙主義」に反して(だが有限性のカント的モチーフにしたかって)自らを止場する。だがそれはまた、いかに困難であろうと、最後の形而上学(この場合は、ニーチェの形而上学)の主観主義的 - 主意主義的存在論から自らを脱却させようとしている。この哲学を政治的に形容しようとするなら、それは英雄-悲劇的かつ革命的な「右翼の」哲学である。したがってこの哲学は、欲するも、欲せざるも(あるいはむしろ、若干の重大な、哲学的に重大な妥協を代償にして)、三三年の実際に革命的な状況のなかで、政治参加を、すなわちたんなる支持以上のものを可能にしたのであった。だが、こういった
たぐいの運動において「潜入工作」にたいして認められた何らかの可能性の幻想(不謹慎で素朴な)が消えてしまえば、この哲学のすべてがあるいは、ほとんどすべてがーーこの政治参加が持続することを妨げていた(支持については、かならずしもこのかぎりではない)。事実、ナチズムの形而上学的なもろもろの立場の主要な点については、決裂は不可避であった。
 だとすれば、一種の「原 - ファシズム」について語ることができるだろうか。いかにも、おそらくそのとおりである。だがこの場合にも二つの条件がある。

ー、ヒトラー的ファシズムにおけるファシズムの定義から、生物学主義と人種差別を排除すること(だが、これは比較的むずかしいようにみえる)。
二、「原-ファシズム」における原 アルシを、その形而上学的意味(現前、原理、命令、等々)で理解しないこと。この形而上学的意味は、私が他の場所で示そうとしたように、一〇カ月の学長職にかぎるならば適合しうるが、そのあと、つまりその後の段階には、もはやまったく適合しない。理由はごく簡単である。すなわち「決裂」(およびナチズムをナチズムの真理ーーつまりナチズムでは接近できない真理ーーへ充当したこと)が、まさしく基礎的存在論の放棄の時期と一致しているからである。つまりいつも忘れ去られているが、Kehre〔転回〕それ自体の時期と一致しているのだ。(認めようと認めまいと、ハイデガーの政治的な進路変更が、彼自身の思惟を、そもそもきわめて手ひどく危機に陥れたのである。)ハイデガーの芸術にかんする言説が、私が国家 - 唯美主義と呼んでいるものの真理をあくんでいるということはーー私はそう言えると思うがーー、ナチズムはこの言説のなかに自己を有認しえただろうとか、その高みまで上昇しえただろうとかいうことを一瞬たりとも意味するものではない。原理的に、つまりその定義自体(たとえば、その熱狂的な技術主義)に淵源する種々の理由から、ナチズムにはまさしくそうしたことは不可能であった(ハイデガーがナチズムに明確に通告したのが、この挫折なのである。)そしてこのことはまた、この言説によって、ハイデガーがファシズムの「よいイメージ」をあたえようとしたということを意味するものではない。ましてや「立て直」そうとしたのでもない。というのも、彼は「決裂」のときから(いや、おそらくそれ以前から一彼のあやまちはここにあるーー)、ファシズムはーーマルクス主義や「アメリカニズム」と同様ーーテクネーの本質にかんする、今度こそは根本的な誤解から生じることを知っていたからである。いわゆるファシズムというものにおいて、哲学的には何が問題なのかを思惟することを私たちに教えてくれたのが、もしもハイデガー自身でなかったならば、「原 - ファシズム」については語りえないであろう。

だれが、私たちの時代にあって、これほどまでに、これほどの「深さ」に達するまで、ファシズムについてーーしたがって私たちの「世界」についてーー語ったものがいるだろう。

 学問の諸領域はおたがいにたいへん遠く離れています。対象となるもののあつかい方は根本的に異なっています。これら分散した多数の学問分野を結集するには、今日では、諸大学、諸学部の技術的組織化をおいてありません。そして〔この技術的組織化が〕その意義を失わずにいるのは、これら学問分野そのものの実践的目的性のおかげをおいてありません。逆に、その本質的基礎への学問の定着は、まさしく死に絶えているのです。

「潜入工作」の領域にーーあとになってからーー書き換えられると、この同じ主題はつぎのようになる。

 国家 - 社会主義と〈党〉が〈大学〉と学問の概念にたいし、いかなる精神的目的も充当しなかったと主張することは、事実に反しています。国家-社会主義と〈党〉はニーチェに準拠しつつ、あまりにも断定的なしかたでそれを定めることで満足したのです。ニーチェの学説によれば、真理は固有の基礎も内容もまったくもたず、ただ権カへの意志の一手段、つまりたんなる理念、主観的な表象にすぎません。この問題において、何がグロテスクであるかと言えば、「政治学」という概念が、その原理からしてマルクス主義と共産主義の「理念」および「イデオロギー」と一致するということでしたし、いまもなおそのままにとどまっています。

 必要な変更をほどこして、私たちはつねにこの地点にとどまっていることを確認せざるをえない。カントとフンボルト以来、ドイツでは周知のことであったようにーーそして当然のことだがいまやドイツではだれも知らないように(だが、これはどこにおいても同じである)ーー、「〈大学〉問題」は西洋社会における付随的あるいは周辺的な問題ではない。それは西洋社会の中心的な、第一位に位置する問題なのだーーもっとも、西洋が知とテクネーから、あるいはもっと正曜に言えば、テクネーとしての知から定義されることに同意すればであるが。(六八年五月に問題になったのは、マルクス主義化あるいはフロイト - マルクス主義化との混同はあったが、いくばくかはこのことであった。ファシズム化あるいはニーチェ - ファシズム化との混同はあったが、三三年のドイツにおいても、おそらくは同様であった。)こうした観点からすれば、ハイデガーが一九四五年に「西洋の責任」について語ることはー一九三三年の時点ではここでいう西洋をドイツだけに凝縮し、「大学の危機」すなわち学問の衰退にたいする対抗措置が〈思弁的観念論〉の「根本主義」への回帰にあるとしていたことを正当化するのにいささか苦労しているとはいえーー明らかにまちがってはいないのだ。

ある種の「国家的偏愛」(他にどう名づければいいのだろう。というのも、ハイデガーは「ナショナリズム」という語を執拗に拒否しているのだから)についてはこのかぎりではない。「原 - ファシズム」の痕跡をーーもっとも、前に進むにつれてますますファシスト的でなくなっていくのだがーー、それでもなお追求しなければならないと認めるとすれば、すべてが集合するのは明らかにここだからである。
 ハイデガーの用語で言えば、問題は、すでに指摘したようにつぎのとおりである。すなわち、なぜ歴史的なDasein は民族として決定されるのか。もっと平凡な政治的用語をもちいれば、これをつぎのように書き換えることもできるだろう。なぜハイデガーは〈国家革命〉の理念に加担〔=贅同〕したのか、そしてなぜこの加担〔=賛同]を一度も否認しなかったのか。
 私自身が上でのべたことではあるが、三三年に検討されたもろもろの政治的モチーフのなかで、その後も、そして最後まで維持されたものが一つあるが、それを〈大学〉のモチーフだということはかならずしも当たっていない。第二のものがある。このモチーフは、一見それほど直接的には政治的ではないが、ハイデガーの目には政治的なものの本質をなすもの、すなわち〈歴史〉にとって、決定的な重要性をもっている。はじまり(ギリシアの)と、はじまりにたいする関係のモチーフである。ここには、『学長就任演説』においてもその後においても、ドイツ的Daseinの歴史的使命の可能性の問題がかかわってくるのである。たしかに戦後ーーこれを指摘したのは私だけではないーー、よく言われるように「ドイツ的」というシニフィアン、あるいは「ドイツ」が、実際上、ハイデガー的語彙から袋を消す(「ヨーロッパ」ですら、たいていは「ヨーロッパ的 - 西洋的」といったたぐいの合成語の形で、かろうじてあらわれるにすぎない。そして「ドイツ」に取って変わるのは、一般に「西洋」である)。政治的に何を意味するのかは明白である。しかしながら、だからといって歴史性の図式が、いかなる形にであれ修正されたことを意味するものではない。ハイデガーがおこなった最後の講演の一つ、すなわち一九六七年のアテネでの講演(「芸術の起源と思椎の使命」)ーーここにはハイデガーのテクネーの本質についての熟慮の全体が力づよく集約されているーーに、つぎのような件りを読むことができる。これは、三三年にも(当時、テクネーは「学問〔科学〕」を意味していた)、その後にも(テクネーは何よりもまず「芸術」を意味した)聞くことができたはずのものであった。

この世界はたしかに、歴史家にとっては、過去のものです。しかし〈歴史〉にとっては、もし私たちがこの〈歴史〉を私たちに定められたものとして経験するならば、この世界は新しき現在としてつねにありますし、これからもつねにありつづけるでしょう。すなわち、私たちが思惟を通じてそれとの出会いに出発し、このことによって私たち自身の思惟と芸術的創造とを試すことを私たちに期待している何ものかとしてありつづけるでしょう。というのも、一つの運命のはじまりとは、この上なく偉大なものだからです。それはあらかじめ、その後にくるもののすべてを、その力のもとに包みこんでいるのです。

 三三年から六七年のあいだに、調子は明らかに変化している。決意のパトスの代わりにやってきたのは熟慮のパトスである。そしてそこには、〈国家革命〉への呼びかけは一切見当たらない(この言説は古代ギリシア人にむけられていた。そして「私たち」はここではヨーロッパ的-西洋的人間をさしていた)。しかし「メッセージ」は同じものであり、命令はーーいまやヴェールでおおわれているがーー同一である。つまり飛びあがり(起源への不法侵入と跳躍)はいまでは「後方への歩み」と呼ばれているが、問題なのはつねに西ヨーロッパの運命である。唯一ドイツだけの運命とはたしかに混同されてはいないが、それでもなお一民族の運命、ギリシアの民族の運命と結びつけられているのであるーーたとえこの民族が、民族としては「過去」のものではあっても。というのも、これはまたしても、ヘーゲルにたいして答える責務を負ったヘルダーリンなのだ。

(16)「必要なのは後方への歩みをおこなうことです。後方といっても、どこへなのでしょう?私たちが女神アテナに訴えたとき、私たちに告知されたはじまりへとむかう後方への歩みです。[著者註ーギリシア芸術の起源に到達するために。]しかし、この後方への歩みは、古代ギリシアの世界を何らかのしかたでもう一度生きなければならないとか、思惟はその避難所をソクラテス以前の哲学に求めなければならないとかいったことを意味するものではありません。/後方への歩みが意味するのは、思惟が世界文明を前にして後退し、世界文明を否定するのでは少しもないが、それにたいして距離を保ちながら、西洋の思惟のはじまりにあって、いまだ思惟されざるままにとどまっていたにちがいないもののなかへと、入っていくことです。しかしこの思惟されざるものは、そのはじまりにおいては、やはりすでに名づけられており、私たちの思惟にたいして、あらかじめそのようなものとして言われているのです。」
 だからこの後方への歩みは、『学長就任演説』のなかで展開されている(ギリシアのはじまりの偉大さの)反復の論理そのものにしたがっているのである。

今日、二五〇〇年を経て、かつてギリシアにおいて芸術が自らに課したと同じだけの要求に支えられた芸術は存在するでしょうか。さもなければ、いかなる地域から、近代芸術がそのあらゆる分野で答えようとしている要求はやってくるのでしょうか。その作品はもはや、民衆的なものと国民的なものの世界の境界から刻印を押されてほとばしりでることはありません。

それらは世界文明の普遍性に属しているのです。それらの構造・構成は、科学技術が投影し産出したものの一部分なのです。科学技術は人間が世界に滞在するその様式と諸可能性を決定しました。私たちが科学的世界に生きていることを確認すること、「学問」という呼称で理解されているのが自然科学、数理物理学であることを確認することは、あまりにも知られざるある一面を強調してくれます。
 この確認と関連づければ、今日、芸術が答える責務を負っている要求がやってくる地域は、科学的世界以外の何ものでもないことは容易に説明できることでしょう。
 私たちは同意をあたえることにためらいを感じます。私たちは困惑のなかにとどまっています......。
 つまりハイデガーは〈歴史〉(歴史性)の可能性を一民族または民族に結びつけようとすることを決して諦めなかったことになるだろう。このことは同時に、芸術(Dichtung 〔詩作〕)、言語、および神話(Sage、すなわち神々との関係)の可能性をつねに諦めていなかったことを意味している。アテネでの講演はつぎのピンダロスの詩句でしめくくられている。

そして言葉はもろもろの行為を越えて生きていく
もし〈恵み〉によって
言語がこころな深淵に汲おうとしさえすれば

これが「原 - ファシズム」のなかに数えられうるかどうかは分からない。私はそれは大いに疑わしいと思っている。たとえあらゆる種類のネオ - ファシズムが、見かけは克服できない困難もなく、このテーマ体系を占領したにもかかわらずである。逆に、はっきり見ることができるのは、
一、この国家的-民衆的立場はーナチズムへの慎重を期した加担と三〇年代の言説の革命的(国家的 - 革命的)急進主義とを同時に説明するものになっているがーハイデガーがファシズム(およびもろもろのファシズム)を告発したさいの起点となった立場である。この告発が、最終的にはマルクス主義(共産主義)と「アメリカニズム」の告発をもふくんでいることはまちがいない。地球上のすべての形而上学的 - 政治的システムはニヒリズムに属している。そしてそれらは、ニヒリズムのおそらくは決定的(あるいは不確定的な)定着の結果にしかすぎないのである。しかしファシズムにたいする告発は、ファシズムが〈国家革命〉を楯に取っていた(あるいは、それをよりどころにしていた)ために誤解を生じさせかねなかったがゆえに、いっそう急進的である。ハイデガーがファシズムをゆるさなかったのは、明らかにこのためである。
 二、彼の「ノスタルジックな」弱点、あるいはさらに厳密な意味での「反動的な」弱点がどれほどであろうともーー(近代世界の)技術にたいする非 - 敵対的な抗議は、ほんとうの意味ではこの弱点の埋め合わせになっていないーー、ハイデガーは、戦後の最初の二〇年間(反ファシズムで「合意」が成立していた二〇年間)のヨーロッパにおいて優勢を誇ったマルクスのウルガタ〔聖ヒエロニムスのラテン語訳標準聖書〕が決定的にすたれたものと考えた諸問題ーー今日では回避することが不可能であることがはっきり分かっている諸問題ーーを、ニーチェとロマン主義の足跡を踏襲しつつ哲学的に再開した。まさしくそれが諸民族(または諸国民)、言語、宗教にかんする問いなのである。ハイデガーがとくに言語の問題を起点にして、それらについて深化していった思索は、前世紀および今世紀の前半においてナショナリズムとインターナショナリズム(「右翼的」ロマン主義と「左翼的」ロマン主義)の闘争があばきだしたものとは、比べものにならないほどすぐれている。そもそもこれが理由の一つとなって、前世紀あるいは前々世紀をいまにもくり返さんとしているーーつまり、Kultur〔文化〕のヨーロッパ、または啓蒙主義のヨーロッパを再建しようとしているーー新しいウルガタ(ネオ- 何とか、ネオ - かんとか)に、これらの問いを放棄しないよう強制しているのであるーーハイデガーの問いかけの高みには絶対に上昇しえないだろうが。一九五六年と一九六八年のあいだに、世界の未来にかんして一〇〇年近く前にマルクスとニーチェが言ったことではどちらがただしかったかと問うためには、透視力のような特別な能力はまったく必要としなかった。それ以来、マルクス主義がその間、第三世界主義であれば何でも、端的に「ぞんざいに」(調べもせずに、そして、よく言われるように「問題なく」)正当化することに使用されるのをみて不安がるには、そのような能力はましてや必要としなかった。一方、「商品 - 形態」ーー今後は私たちの「世界」の唯一の形態ーーの分析はますます真実なものとなっている。いずれの場合においても、ハイデガー的問いーーこれは決して十分なものではなかったーーによって「導かれるがまま」では十分ではなかった。逆に、これらの問いを真剣にとらえ、こうした思惟をーーくり返しになるが、この時代でもっとも偉大であったばかりでなく、もっとも力づよいものでもあったこの思惟を果たして何が、三三年の「ファシスト」の立場から技術を問題視することにまで導くことができたのかを理解しようと試みなければならなかったのである。

(18)

だが根本的な不誠実さは言うまでもなく「読解」にあるー操作(結局は、たんなる「抱きこみ」の)はニーチェの哲学素(権力への意志、超人、アポロン的なものとディオニュソス的なもの、等々)を三〇年代のハイデガーの言説に(再)投影するという条件でしか不可能である。
だがニーチェはこれらの哲学素を画定しようと全力をつくしたのである。ようするに、ニーチェを読まないだけで十分である。そうすればファシスト・ハイデガーを手にいれることができるのだから。

こう言ったからといって、ハイデガーの「言い訳」をしようというのでは少しもないーーましてや彼をゆるそうというのでもない。最後にもう一度言えば、戦後の彼の沈黙〈殲滅〉にかんする彼の沈黙ーーは許容不可能である。ハイデガーがそう望んだときには、何かを言いえたのだから、なおいっそう許容不可能である。その証拠に、(彼の復職後の)一九五二年六月二〇日の講義の冒頭につぎのようなもったいぶった言葉がある。

 思椎、それは追想です。しかし追想は過去のつかのまの現実化とは別なものです。
 追想は、私たちに打撃をあたえるものを考察します。私たちはまだ、自由について考え、さらには自由について語るにふさわしい空間にはおりませんーー私たちがこの自由の圧殺についてもまた目を閉ざしているかぎりは。

 これがすべてだったのだ。災厄については、ドイツのことだけを(いやむしろ、〔理念としての〕「ドイツ」のことだけを)嘆くこの言葉だけだったのだ。そしてこのことが、〔だいいち〕ひじょうに言葉少なな後悔の証言にたいして、阻止しようもなく疑念を抱かせているのである。彼の有利になるように引きあいにだすこともできたであろうような後悔の証言にたいして。(だから、Unhei〔災厄〕について語ったとき、彼が考えていたのは、正には何についてか、だれについてか。)問題はーーしばしば、こうした問いが提起されるのを耳にするが一ー彼が何を言いえたか、どんな言葉、どんな文章であれば、こうした出来事〔殲滅〕のあやまりを明らかにすることができたかではない。いかなる言葉も、いかなる文章もそれをなしえなかったとしても、それを言うことは単純なことだったーーだが、おそらくこの質素な人の思惟(Denken)と追想(Andenken)にとってはあまりにも単純なことだったのだ。問題はなぜ彼が何も言わなかったかでもない。彼が何をおいてもドイツの無罪を明らかにしようとしていること、彼が結局、何も、ほとんど何も否認しなかったことは、あまりにも明白なのだ。そうではなく、問題は、沈黙はーードイツの「擁護」はーー思惟そのものにとって、犯罪との共犯の告白(無告白)とうけとられる危険にあたいしたのか、ということである。
 来たるべき「千年の時」にわたって(この歴史的計算の現実性のことも思い出していただきたい)、この思想家の思惟が開いているのがこの問いなのである。最後のパラドックスとは、この問いが一人のユダヤ人の詩人の詩のなかに、記念碑のように保存されていることである。この詩は、思い出していただけようがーーそして、これは記憶にとどめなければならないーーつぎのように題されている。「トートナウベルク」と。

 

『政治という虚構――ハイデガー、芸術そして政治』フィリップ・ラクー=ラバルト /著浅利誠・大谷尚文 /訳

 

解釈の修正|カリカチュア = テクネー ③

 

 

第八章 模倣論

 

国家 – 社会主義は私たちの社会におけるーー保留されていると同時に差し迫ったーー永遠に潜在的な「可能性」として、現代人の意識に絶えずつきまとっているのである。それは国家 – 社会主義が、いついかなるときにも明確に規定された政策としてあらわれることがなかったからであるしたとえ、その「イデオロギー」の方はあますところなく明確化されていたとしても。このことを鮮やかに示したのは、ハンナ・アレントであるーー国家 – 社会主義が自らの姿をあらわすのは、政治的なものの真理としてである。だからこそ国家 – 社会主義は、いかなる「政治学」も、いや政治哲学でさえ到達できない政治的なものの非政治的本質を、白日のもとにーーたちまち陰ってしまうがーーさらけだすのである。ところが、政治的なもののこういった本質を求めるべきところは芸術の側だとしても、いかなる美学も芸術哲学もまた、芸術と政治的なものとの切っても切れないきずなをときほぐすことはできないのだ。というのも、その諸カテゴリーー実際上、すべてがプラトン哲学から派生しているーーの出発点には、政治的なもの(「宗教」)こそが芸術の真理だという、その伝統全体を支配している前提があるからである。ハイデガーが一ー彼の三〇年代の計画が明らかに美学の「克服」であるという点で国家 – 社会主義が隠蔽すると同時にあばきだす政治的なものの本質にたいする特権的な接近、おそらくは唯一可能な接近に道を開くのはそれゆえである。この点にかんしては、とにもかくにもハイデガーを読まなければならない。ただし彼が語りえないでいるもののなかに、あるいはもっと厳密に言えば、彼が言わんとしていることからーー絶えずそこにその痕跡を残し刻印を押しながらーー倦むことなく逃れ去っていくものの中に読みとらねばならない。それには二つの理由がある。一つは、三四年の「決裂」はあるにしても、国家 – 社会主義へのハイデガーの連座であるーーその背景には本質的に、(歴史の)主体を復権させようとする、民族を対象にした一種の「先験的仮象」がある。ところが、そこでは脱 – 自的なDasein 〔現存在〕と(「根源的な脱自」としての時間性の)有限性とにかんする思惟は、Mitsein〔共同存在〕と、交感的本質、あるいは、たんに本質存在(民族ーーギリシア民族であろうとドイツ民族であろうとーーつまり言語)とを混同することを禁止しなければならなかったはずなのである。もう一つは、最初のものよりはるかに理解しがたいが、(あいも変わらず〔同一性〕と〔一致〕としての真理の規定に関係づけられた)ミメーシスにたいする哲学的な、つまり、この場合はプラトン的な断罪への、ハイデガーのきわめて謎めいた追従である。ところが、テクネーの思催は、厳密にアリストテレス的なしかたで、根本的な模倣論から発しているのである。
 以上のような条件において、ハイデガーは何をかいまみせてくれるのだろうか。
 ある程度の明証性をもって、まず第一に言えるのは、国家 – 社会主義は、ドイツの闘争の歴史ーー『反時代的考察』第二編のニーチェのなかに、ドイツが最終的にそのもっとも広汎に流布したテーマ設定を見出したようなものとしての闘争の歴史ーーのなかに位置しているということである。

(3)

人間の本質 はここでは、人間に存在を開示する関係としてあらわれる。人間存在は、把握と沈思の必然性であるがゆえに、テクネーー知を通しての存在の作品化ーーを引きうける自由への参加の必然性(Nötigung〔強制〕)である。かくして歴史は存在するのである。」

(4)

教会は普遍的なものとして自らの起源をローマにもっているが、その教会がローマ人の言語そのものを現在にいたるまで保持してきたのである。その教育の源泉は、ラテン福音書の側にあっては教父であった。私たちの法律もまた光栄にも、ローマ法から自らの方向づけを導きだしている。重苦しいゲルマン的堅牢さにとって、ローマから私たちのもとに到来した教会と法の峻厳な義務をうけいれ、その規律のなかに自ら維持されることは必要なことであった。このことによってはじめて、ヨーロッパ的性格は和らぎを得、自由への適性を獲得したのであった。かくしてヨーロッパの人間性はついに自己を自己のもとにおいて見出し、現在へと目を投ずるにいたり、こうして異邦よりもたらされた歴史的な要は放棄されることになったのである。そのときから、人間は自己の祖国にあることになった。この状態を享受するために、ギリシア人へとむかうことになった。ラテン語とローマ的性格は数会と法律学にまかせておこう。いっそう高慢かつ自由な学問(哲学)、ならびに私たちの芸術の自由な美しさは、知ってのようにそれらへの嗜好と愛と同様、ギリシア的生に根ざしている。哲学も芸術もギリシア的生の精神を汲んだのである。もしノスタルジーを抱くことがゆるされるならば、それは、こうした国、こうした存在にたいしてであろう。
 ここで前もって指摘しておくが、ヘーゲルはさらにこの「故郷」というモチーフを原地性 にきわめて厳密なしかたで結びつけている。

もちろんギリシア人とドイツ人の深い類似性の説明にもなっている。「自己のもとにおいて」という比喩表現が、そうした類似性の手掛かりである。そしてこの比喩表現は当然、哲学のなかにその安らぎを見出す。

私たちは共通の精神、ある祖国への帰属精神によって結ばれているのである。日常生活において、私たちは自己のもとでくつろぎを感じている人たちのもとや家族のなかにあってくつろぐ。彼らが自己の満足を見出すのは自己自身のうちであって、外部や彼方にではない。
 
 ギリシア人が真に自己のもとにあるのと同様、哲学とはまさしくこのこと、すなわち真に自己のもとにあることなのであるーー人間は故郷にある自己のもとにおける自己の精神のなかにあらんことを。
 ヘーゲルは原地性のテーマを思弁的に再推敲するのと同じくして、(精神の)普遍性すなわち「一切の特殊性からの自由」のために、最終的な撞着語法 を切り捨てる(「自己のーもとに」は精神以外の場所をもたないのだ)ーー有限性の思惟には、もちろんこうしたことはなしえないだろう。それでも、このような「自己のーもとに」の認識がギリシア-ドイツに特有なものであることに変わりはない。フィヒテはすでにこのことを声高に主張していた。そしてハイデガーはその記憶によみがえってくること以上のことをするだろう。

ようするにドイツは、歴史的存在に接近しようとする試みにおいて、また民族または国民として「世界史のなかで特徴づけられ」ようとする試みにおいて、端的に精髄を希求したのである。しかし精髄は定義からして模倣不可能である。そしてドイツがある種の精神的 – 歴史的な精神障害とか分裂病に屈してーーヘルダーリンからニーチェにいたるまでの、そのもっとも威光にみちた天才たちの何人かは、その前駆的徴候(であり犠牲者)であったーー、文字通り疲弊しつくしてしまうのもまた、この精髄の模倣の不可能性ゆえなのである。しかも、分裂病的論理のみが、唯一、〈殲滅)という考えられないことを可能にすることができたのであった。そして現在のドイツの分割はこのプロセスを象徴的に示しているのである。ドイツはいまだに存在しないのだ。存在しないという苦しみのなか以外には。
 政治的なもの、いずれにしても近代における政治的なものにかんして言えば、このドイツの運命が明らかにしているのは、そのプロセスの本質的な部分とは国家的同一化のプロセスであったということ、そしておそらく、いまなおそうであるということである。これこそがニーチェの直観、しかも、それ自体は非「国家主義的」直観であった。社会主義とアメリカにたいして不安を抱いていたニーチェは、労働とか生産が、いや人間の自己 – 生産ですら、政治や歴史にかんしては決定的なものだという考えには与しなかった。彼にとって決定的なのは、諸民族が自らの芸術的能力によって自己 – 形成をすることであった。とはいえ、私がつねにフロイトから「同一化」という語を借用しているのは、それが結局は、模倣のプロセスの争点を指示するために私たちが自由にできる唯一の語であるからだし、またとくに、その美学 – 心理学的文脈と縁を切ればーーそもそもこの語には、こうした文脈においては疑問の余地があるーー、固有と専有、 固有化と非固有化または非専有等々という、この文脈よりももっと強い網の目に引きつけられるからである。過度に図式化して言えば、少なくともプラトン以来、政治的な教育もしくは育成、政治的は模倣のプロセスを起点にして考えられている。ところが、プラトンはまさしく政治的なものの(哲学的)自己 – 確立を夢見て、言いかえれば、模倣論的ダブル・バインドのなかにあって、実際、イデアのそれ自体、範例的な(またそれゆえ模倣論理の領域に展している)理念と明確な対照をなしつつ、模倣のプロセスをしりぞけているのである。逆に、哲学的なものの完成ーーおよび、これは出発点においては不可分であるが、プラトン哲学の転倒ーーの領域では、シラーの表現にしたがえば、人類の「美的教育」のプログラムが形をなしてくる。ここでは価値の「逆転」は重要でない。 〈洞窟〉の「神話」ーー一切の「神話的」起源をもたない、自己 – 形成され、自己 – 確立された神話ーがプラトンの政治的計画の基礎づけになっていることは偶然ではない。モデル(手本)が固有化のつねに逆説的な命令ーーきみがきみであるためには私を模倣しなさいーーであるならば、同一化、もしくは専有ーー〈自己〉の自己に – なることーーはつねに、モデルの専有として、言いかえれば専有の手段の専有として考えられただろう。こうした事態がどのように機能するかは、このプロセスの経験論的 – 人類学的記述のなかに苦もなくみることができる。事実、ジラールは、実際は『精神現象学』における欲望の弁証法についてのコジェーヴの解釈を下敷きにしながら(だが、弁証法とはまさしく、ダブル・バインドの解決、言いかえれば模倣の逆説性の止場にたいして抱きつづけられた希望ではないだろうか)、このことをあますところなく明示している。それでも、いかにして、そしてとくに、なぜ、同一性(固有性もしくは固有で – あること)が模倣における専有から生じるかの問いは、そのまま残されているのである。
 自己との同一性が他者を前提とすることは自明ではない。というのも他者もまた、端的に、同一なるものを前提とするからである。弁証法の原理のヘーゲル的公式、つまり同一性とは同一性と差異との同一性であるという公式は、実際には、起源における同一性の贈与を前提としているのである。思弁的弁証法は同一なるものの終末論である。そしてこの論理が、多少とも明示的に、ミメーシスの解釈の基礎に存するかぎりにおいて、同じものから他なるものへとーー同じものの権威のもとでーー際限なく循環することしかできないだろう。しかしながらもっと厳密に考えれば、模倣論理はこの図式をもつれさせ、ぐらつかせる。模倣の弁証法化には、主体が、たとえ潜在的にではあっても、前提となるからである。だが模倣は、定義からしてこうした前提をゆるさない。ディドロがきわめて強固に確証したのがこのことである。すなわち、潜在的に自己に同一の、もしくは自己に関係づけられたいかなる主体も、模倣のプロセスより先にーーこのプロセスを不可能にするのでなければーー存在することはできないのである。何ものかが生存するとしても、それはプラトンが信じているような実体、すなわち、モデルがやってきて自らの「類型」を刻印したり、自らの、形を刻みこんだりするような、まったき柔軟性、あるいは可塑性をもった実体ではない。こうした実体は実際にはすでに一個の主体なのである。そしてエイドス〔形相〕ーー広くは形的なものーーが同一なるものの前提そのものだとしても、模倣のプロセスを検討することができる可能性をあたえる出発点は形相的なものではない。しかも一つの伝統全体(これはナチズムで頂点に達する)が政治的なものは個人と共同体の虚構性に依存すると考えたのは、プラトンからニーチェとヴァーグナー、さらにはユンガーにいたるまでーーいや、ハイデガー、いずれにしてもトラークルの読者としてのハイデガーにいたるまで(だが、このことを私たちに教えてくれたのは彼なのだ)ーー、こうした形相的なものが、私が存在 – 類型学と呼ぶことができると考えたものの形で模倣論の基礎に横たわっているからである。

 ー、模倣の主体(主格的属格)ーー模倣者と言ってもいいーーがそれ自体として何ものでもないこと、あるいはディドロにしたがえば「固有のものとして何ものも」もたないことである。つまり、あらかじめ主体であってはならない。このことは生来の非特性、「すべての役割への適性」を前提とするーーただし、この非特性なり適性なりが、今度はそれ自体が主体や実体とみなされないという条件においてである。(これはー一否定神学的意味での一存在 – 類型学の「否定的」ヴァリアントである。)
 二、したがって「横倣の主体」は根源的に……にたいして開かれた、あるいは根源的に「自己の外にある」ーー脱 – 自的な「存在」(存在者という意味での)でなければならない。これはまさしくハイデガー的 Da-sein 〔現-存在〕「である」ところのものである。しかしこの脱自的 エクスタティックな(脱)構成 コンスティテュシオン はーー有限性について密な考え方をすればーーそれ自体、欠陥もしくは不十分さと考えなければならない。主体とは起源においては主体の障害なのである。そしてこの障害は主体の、果実のように裂開した内密性そのものなのだ。あるいはこれを言いかえれば、差延 differance が主体の根源にあって、主体に主体(つまり、第一に安定した存在者)たることを永遠に禁じ、それを本質的に死すべきものとして決定しているのである。ジャック・デリダはこの生来の障害を欠在 desistanseと呼ぶよう私に示唆している。この欠在がなければまた、いかなる(自己もしくは他者への)関係も成立しえないだろうし意識も社会性も存在しないのである。
 「主体」は欠在する。それゆえ、主体は根源的に虚構可能であり、それに先立つあるモデル、あるいは諸モデルの代補によってしか自己自身にしいつか自己自身に接近できるとしてーー接近できない。このプロセスの弁証法的記述はつねに可能である。というのも、このプロセスは結局は根源的な媒介にもとづいているからである。だが、その弁証法的記述が可能なのは、欠在を、たとえ最初の契機だとしても、一契機として指定することに帰着する自己同一性の目的論を犠牲にしているからである。ところで極度に困難なのはおそらく、欠在が抵抗するということ、言いかえれば逆説的に構成的だということである。これがまさしく、ラカンが「言語への予め – 記入べすること)〔予備登記〕」について語るさいに指摘したことであるーーたとえ「未成熟」のモチーフ、鏡像段階、あるいは「神経症患者の個人的神話」の記述が、ある種の弁証法的図式を呼びよせる原因になっているとはいえ(ラカンは「欲望の弁証法」については軽々には語っていない)。じつは、模倣をイミタティオについての古典主義的思惟から奪い取らなければならない。そしてそれを厳密な模倣論の光でもって思惟しなおさなければならないのだ。
 根源的な代補の構造は、テクネーとピュシスの関係の構造そのものである。フィロストラトス(三世紀)の『絵画論』Tableauxのなかに、つぎのような奇妙な命題が見出される。

自然そのものと同じ年齢をもつ発明なのである。

 テクネーとピュシスの関係は、したがってともなる誕生の関係である。つまり、テクネーとピュンスは共 – 起源的なのである。このことはどう理解すべきだろうかーーハイデガーが絶えず考えるようにうながしていることを起点にしないとすれば。すなわち、テクネーとはピュシスの本質的「好隠性」 によって、あるいは、結局は同じことになるが、アレーティア〔真理〕を構成するレーテー〔忘却〕によって要請される代替物だということである。それゆえ、テクネー(ミメーシス)とは、二次的な鏡映像的な表象、あるいは再現的・複写的表象という意味での表現なのではない。そうではなく、それはフランス語においてこの語がもっている十全な意味での、すなわち現前化させるという意味での表現なのだ。困難なのは、あいかわらず、根源的二次性を考えることーーあるいはむしろ、起源が二次的であり、はじめから分割され延べ送りされているということ、つまり差延においてあるということを考えることである。換言すれば、困難は、同一性の論理にしたがわせることなく、〔それ自身のなかで異なっていること〕を、〈同じもの〉を考えることである。しかしまさしくこのヘラクレイトスの警句が、ヘルダーリンにとっては美の(芸術の)本質を指し示していた。彼が模倣の逆説性を考えたのは、この警句を起点にしてである。この逆説性の論理、あるいは私がやむをえず誇張論理(これは無限の循環と「調和的」緊張の論理である)と呼んでいるものは、見かけはどうあろうとも、ホンブルク時代の偉大なエッセーからしてすでに、弁証法的論理の裏をかき、言うなればあらかじめそれをぐらつかせているのである。
 純粋な生命においては、自然と芸術はたんに調和的に対立しているだけである。芸術は自然の開花・完成である。自然は芸術ーー異なってはいるが調和的な種に属している芸術ーーとのきずなによってしか神的なものにならない。そのとき両者のそれぞれは、あますところなくそれであることができるところのものであり、一方が他方の欠如ーーそれぞれが個別的なものとしてあますところなくあることができるためには、必然的にもたなければならない欠如ーーを補いつつ結びついているのである。これこそが完成である。

 ところで、言うことができるのは、このことをハイデガーは、はじめから(つまり、ナチズムとの「決裂」のときからすでに)きわめてはっきりみていたということ、そして、これが晩年の技術の本質と言語にかんする省察にいたるまで彼の思惟を導いていくということである。そして同時に、何ものかが彼の目に隠されているということであるーーあたかも彼が唐突にミメーシスを排除したことが、知らず知らずに彼を、結局は伝統的なーーつまりプラトン的なーー模倣論、テクネーを虚構に連れもどす模倣論のなかに閉じこめてしまったかのように。これについて、私は二つの手掛かりをみる。
 第一にハイデガーは、最初は芸術作品にかんして、〔立て集め〕という語に飛びつき、これに〔立てる〕のあらゆる様式一ー芸術にかんしては(作りだす)、(表現する)、(確立する、構成する)ーーの集合を意味させている。これを通じて彼は、真理が形態のなかに構成されていることとしてのその本質において、作品の規定を確立しようとしているのである。

『学長就任演説』(あるいは『根拠の本質について』)の存在-類型学的モチーフと共鳴しあい、作品の「創造者」と「守護者」との分担を、すなわち芸術の「使命」の構成的分担を、配分していることにかわりはない。つづいて、ハイデガーが、ほぼ二〇年前には(だがその間、おそらくは先例のない歴史の「急変」が起こっていた)芸術作品にはあてはまっていた事柄を近代技術にふりむけたこと、またそれと並行して、言語にかんして線の問題をふたたび取りあげたことは、ナチズムをその「真理」においてあばきだすまでに、思惟がいかなる「政治的」行程をたどらなければならなかったかを十分に明らかに示している。
 他方、第二の手掛かりについては、ハイデガーが結局は存在 – 類型学を告発し、神の死と主体の無限化(超越性にたいする「逆超越性」)の精神的 – 歴史的領域において、形または形態、押し型そして刻印という存在 – 類型学的なテーマ群をプラトン哲学のたんなる転倒だとしてしりぞけるにはーーしかし、このテーマ群は一九三三年以来、一貫して彼のものだったー一一九五五年とユンガー宛の書簡(『存在の問いへ(の寄与)』)を待たなければならないだろう。このことは結局、ハイデガーがつぎの事実を決定的にあばきだしたのは、〈第三帝国〉の崩壊後、一〇年を経過してからでしかないということである。すなわち、国家 – 社会主義(唯美主義)とはプラトニズムの転倒の真理、あるいはプラトンが戦ったものーーもっとも、彼自身は専制政治に譲歩していたがーーの復活の真理、言いかえれば虚構としての技術、および虚構としての政治的なものにかんする思惟の真理であった、ということである。それは西洋の「神話化」の最後の試みであった。いや、そんなことはない。それはおそらく政治の最後の唯美化であった。

 

第九章 神話

 

私の仮説は、ハイデガーが断絶したものとは、ドイツ神話の政治 – 虚構ーーすなわち、ナチ神話として定義できるようなものと、いずれにしても(存在の思惟との底知れぬほどの非通約性にもかかわらず)ひじょうに近いものーー以外の何ものでもない、ということである。
 「ナチ神話」という表現を、ナチズムがそのイデオロギーやプロパガンダのプログラムに入れていたらしい、何らかの(ゲルマン的、インド – ヨーロッパ的、等々の)神話の再活性化とか、クリークやボイムラーの「思想」の核心をなしていたミュトス(ロゴスまたはラティオ〔理性〕に対立するものとしての)の宣揚の意味にうけとってはならない。こうした神話の再評価はナチ神話の構築と無縁ではない(この再評価はハイデガーのなかにもないわけではない)。しかしそれはナチ神話構築の一つの帰結にすぎない。言いかえれば、ナチズムの神話への意志、つまりナチズムにとって、自己自身(運動、つぎに国家)を神話 として、あるいはある神話の実現 effectuationーー作品化 ミーズ・アン・ウーヴルと活性化運動 アニマシオンーーとして提示したいという意志の一帰結にすぎないのだ。この意味でーそして、このことはローゼンベルクのなかに完全に読み取ることができるーーこの神話は「神話学的なもの」とはまったく異なっている。それは、「力 ピュイサンス」、一個人・一民族がもつ根本的な諸力と方向性を結集した力そのもの、すなわち受肉した具体的で深い同一性がもつ力なのだ。この力を、ローゼンベルクは夢の力、直接的な全面的賛同によって自己が同一化されるあるイメージの投影の力として解釈している。このようなイメージは、通常、神話がそこに還元される「寓話化 ファビュラシオン」には似ても似つかない。それはある類型ーー同一性のモデルであるとともに実現され形になったこの同一性として考えられた類型ーーの具象化なのである。そして今度はこの類型が夢に「人間をそっくりそのまま」とらえることを可能にさせるという意味で、夢にその真理をあたえる。

このゲルマン的魂がギリシア的魂ーーこれもまたアーリア的であるーーにならって、政治的なもの(名誉と国家)をFormwillen すなわち形成することへの意志、および形式または Gestaltung 〔形態化〕への意志として、つまり作品として夢見ているかぎりにおいてである。
 もちろん、この神話の存在 – 類型学的解釈は、ある種の人種主義と一致する。というのも、ゲルマン的魂とはここでは、血と大地への帰国によってのみ人種として成り立つ人種の魂だからである。そして私たちは、このギリシア的原地性の熱狂的(および「科学的」)
反復が、唯一の父からの生誕という夢の必然的な到達点であることはうすうす知っているのである。しかし人種主義は存在 – 類型学の帰結であって、その逆ではない。「魂の自由はーーとローゼンベルクは説明するGestalt 〔形態〕である。Gestalt は造形的につねに制限されている。この制限[これが形を切り離し、類型の輪郭の線を引く]は人種によって条件付けられている。だがこの人種は、ある限定されたの外形なのである」。人種ーー言いかえれば(そして、これがまさしく神話の内容である。神話とは人種の神話なのだ)、それは形成する力、類型、すなわち神話の所持者の同一性である。この完全な循環性 シルキュラリテここには、シェリングがコールリッジから借用したトーゴリーが認められるーーは、つぎのこと以外の何ものも意味していない。すなわち、神話(人種の)とは神話の神話、あるいは、もろもろの神話を形成する力の神話なのである。美学 – 政治的内在主義の論理そのものによる「神話創造 ミトボイエーシス」それ自体ーーそこには類型もふくめられるーーの神話は、虚構を形成しかつ虚構として形成される。だからこそ、自己自身以外の何ものをも意味しない神話は、純然たる自己 – 形成の領域に属し、自らの類型による民族の(あるいは人種のーーなぜなら völkischは決定不能なものだからであるーー)自己 – 確立であることが明らかになる、またはそのようなものとして実証されるのである。したがって、以上のようにして帰結された存在-類型学のなかでたまたま完成することになるのは、主体性の(意志の意志の)存在論である。ナチズムとはナチ神話、すなわち絶対的主体としての、自己自身であらんとする(自己の)純然たる意志としての、アーリア的類型なのである。
 このことからいくつもの帰結を導きだすことができる。
 一、「イデオロギー」は、多様な融合的パフォーマンスと同様、たとえば「プロパガンダの技術」のような手段などではまったくない。アーリア神話の自己 – 生産は、それ自体として目的である。民族または人種の自己同一性の、受肉した直接的な(体験されたーーとローゼンベルクは言っている。彼は Erlebnis〔体験〕という用語をいつも使っているーー)内在的実現としての目的である。その目的とはここでは、神話と類型への純粋な贅同、全面的な関与である。ローゼンベルクはつぎのように書いている。「一つの人種の生命とは[……]神秘的総合の形成である。」ファシズムは一般に大衆操作の技術に還元されるが、これはまちがいである。ファシズムとはむしろ、大衆がそのなかで同一性を見出す感動の作品化なのだ。
 二、神話の力の覚醒ーー自己 – 創造的な挙措ーーは、理性のもろもろの抽象的普遍概念
の論理的矛盾が明らかになったときから、また近代人のもろもろの信仰(キリスト教および人類それ自体への信仰)ーーこれは結局、活力を失った神話にほかならないーーが崩壊したときから、一つの必然である。だがここでも思いちがいをしてはならない。ナチズムは、それが、その目には他の何ものよりもいっそう力強い、つまりいっそう効果的なファ二タス〔人間性〕の規定にもとづいているかぎりにおいて、ヒューマニズムなのである。絶対的自己 – 創造の主体は、たとえ、直接的に自然的な立場(人種の特殊性)において近代的主体のあらゆる規定を超越しているとしても、同じこれらの規定を集めて具体化し(スターリニズムが絶対的自己 – 生産の主体によってそうしたように)、一般的な言い方をすれば、主体そのものとして自己を確立する。この主体に普遍性ーーおそらくこの普遍性がヒューマニズムにおけるフマニタスを一般に受け入れられた意味で定義するーーが欠けているとしても、だからといってナチズムが反ーヒューマニズムだというわけではない。
ナチズムはそれを端的に、もろもろの「夢想」の実現と具体的に – なるの論理ーーこの論理には他に多くの例があるだろうがのなかに組み入れるのである。
 三、ユダヤ人はこのように定義されたフマニタスに属していない。というのも、彼らは夢も神話ももたないからである。モーリス・ブランショはただしくつぎのように書いている。「ユダヤ人は、[……]神話の拒絶、偶像の放棄、掟の尊重によって示されるある倫理的秩序の承認を[……]体現している。ユダヤ人のなかで、”ユダヤ人の神話”のなかで、ヒトラーが一掃しようとするのは、まさしく神話から解放された人間なのだ。」この「神話の拒絶」こそがまさしく、ユダヤ人が一つの類型も構成しない理由である。彼らは一ーとローゼンベルクは言っているSeelengestalt〔霊魂の形態〕をもたない。したがってRaBengestalt 〔人種形態〕をもたない。それは形をもたない非-美的な「民族」であり、定義からして自己-虚構化 オトーフィクシオヌマンのプロセスのなかに入りえず、一個の主体をなしえない。すなわち、固有-存在〔固有 – である〕 エートル – プロブルをなしえない。ユダヤ人をーーとローゼンベルクはさらに言うーーゲルマン人の「正反対」ーー反 – 類型ーーではなく、ゲルマン人と矛盾するものーー類型の不在そのものーーにするのは、ユダヤ人の定めえない(恐るべき)非固有性である。ここから彼らはいかなる文化、いかなる国家にでも入りこむという特有の能力を引きだす。彼らはKulturbegrinder 〔文化創始者〕でもKulturschopfer〔文化創造者〕でもない。たんなるKulturträger、文明の運搬者一ー彼らが寄生して絶えず堕落させる危険のある、文明の運搬者なのだ。ようするに、ユダヤ人はかぎりなく模倣的な存在である。言いかえれば、いかなる芸術も産出せず、いかなる専有にも到達しない際限がないと同時に非有機的なーー果てしないミメーシスなのである。不安定化そのものなのである。
 これはナチスの存在- 類型学の一例、そっけないまでに要約された一例にすぎない。
もろもろの特徴からただちに見ることができることであるが、この図式を、同じ時代にユンガーが、〈労働者〉のGestalt 〔形態〕についておこなっている言説の上に、いわんや、ハイデガーが芸術作品、Dichtung 〔詩作〕、民族、歴史についておこなっている言説の上にはーーそもそも彼はローゼンベルクにたいする軽蔑を決して隠したことがなかったーー重ね合わせることは絶対にできない。このような紹介では哲学的な一貫性と論理がローゼンベルクに備わっているように見えるかもしれないが、彼にはそうしたものが全面的に欠如しているのだから、それはなおさら不可能である。『二〇世紀の神話』は仲間うちにしか通じない、くり返しだらけの、読む意欲を喪失させるような雑駁たる代物で、当時の「スタイル」をなしていた、騒々しい紋切り型の断定だけでできている、例の権威主義的で主意主義的な饒舌に属しているのである。どうしても混同するわけにはいかない。いずれにしても、ユダヤ人排斥論は乗り越えがたい差異をなしているのだ。
 それでも、ある程度の高さからすれば、すなわち歴史のなかでの私たちの立場なき立場、および一九六八年五月、当時、不可避的に(タカ派的な革命的形式でもって、またーー再興するなら再興させておいた方がよかったのだーー陳腐なそしてそれに劣らず不可避的な妥協ーー妥協こそがかろうじて我慢できる唯一の政治的現実であって、これが西洋の政治的企ての破局的完成にかたくなに抵抗したのだったーーでもって)再構築されようとしていた原 – 政治 アルケオーポリティック がはっきりした見通しのもとに放棄されたという事実ーーこれは一種の政治的実験であったが、その政治的であるにとどまらない諸帰結は、いまだにすべてが感得されているわけではないーーが、今日、私たちにあたえているある程度の高さからすれば、根本的に言わんとしていることは、どちらも同じことなのである。

「われわれは単純さのなかに美を耕す。そして堅固さに欠けていないわけではない精神のことがらを。」

「耕す」という語は、このテクストにはまったく無縁のラテン的なひびきをもっている。ハンナ・アレントは逆に、きわめて大胆な解釈を取っている。「われわれは政治的判断の内部において美を愛する[エウテレイアは、ねらいのただしさと解された場合、政治的な”美徳”そのものとなるだろう]。そしてわれわれは脆弱さという蛮族的悪徳なしに哲学する。」コルネリウス・カストリアディスについて言えば、彼はこの政治的判断への言及を「ありそうもない」と判断し、つぎのように敷衍して訳している。「われわれは美と知恵への愛、およびこの愛が惹起する行動になかに、その愛と行動によって在る。われわれは美と知恵によって、美と知恵とともに、美と知恵をとおして生きているーーだが常軌を逸した言動と脆弱さから逃れつつである。」
 私は字義的解釈を取ることにしよう。すなわち、「われわれは質素さをともなった美、および脆弱さをもたない知を愛する」。「質素さ」はここでは経済的なカテゴリーである。つまりエウテレイアが意味したのは、政治的であろうとなかろうと判断の「ただしいねらい」では決してなく、使用される手段の単純さであった。それは豪奢、華美の不在ーーそして何よりもまず出費の不在である。言いかえれば、厳格さ、さらには簡素さである。逆に、マラキアはまさしく脆弱さを意味する。事実、これは典型的な蛮族的悪徳、すなわち東洋的悪徳である。(トゥキュディデスの)ペリクレスの文は、逆境と資源の不在に直面して鍛えあげられた、このーーニーチェが言うように「尊大な小民族」の芸術と思惟が結合した実践ーーペリクレスはこれを凌駕できないまでの高さにもちあげるすべを知っていたーーのなかにあるヒロイズムーー品位ーーを称賛している。苦境 Not にさらされ、と、ドイツとギリシアを同一視しつつ三〇年代のハイデガーは言うだろう。テクネー(芸術と知)の総力をあげて、存在者のおおわれて – あること エートル・ヴォワレ の圧倒する力にたいして蜂起せよと呼びかけながら。
 だとすれば、ポリス・アテネの固有性をなすものと英雄的単独性を言うために芸術と哲学を結びつけているこの文のなかにあるのは、私たちの「デモクラシー」の創設憲章なのではなく、恐怖のなかで成就したプログラム、私たちがそのーー言うなればーー決定的に句切られた相続人であるプログラムであると言って、どうしていけないことがあるだろうか。

 


後記 3

すなわち、国家 – 社会主義のイデオロギーにおいては、いやさらにしもっと広くはーー多くの点から、ドイツ・イデオロギーと呼ぶことのできるものにおいては、ユダヤ教は(ときとして、キリスト教と結合したものでさえ)ヨーロッパ文化にたいして、つまり根源的にはギリシアまたはギリシアーローマ文化にたいして「異物 コール・エトランジェ」であるという事実である。

私が分析的にのべていることを、私の考えであるとは思わないでいただきたい。私が「ハイデガー主義」であるからといって、なかんずく存在の〈歴史〉のなかには少なくともハイデガーが指摘した時代区分以外にも時代区分があり、哲学的なものの構成のなかには、ヘーゲルのつぎにハイデガーが再 – 刻印〔指摘〕している行程以外にも行程があると考えていけないことにはまったくならない。じつはーーこの点についても、私は自明のことだと思っていたーー、私が問題視しているのは有機性の理念であり、その背後にある固有性の理念である。つまり私は芸術作品としての民族という虚構を信じないのと同じく、ヨーロッパの「固有体」の幻想に与していない。
 しかし私が拒絶するものを私の考えであるとみなされるのと同様、私が意図していないことを私の意因だとされることがある。たとえばーーだがこれは一例という以上のものだーーナチズムの成立過程をたどりなおすというのではないが(ご承知のように、私の論の進め方は歴史家のそれではない)、にもかかわらずナチズムの起源を探求し、あるいはそれの説明的図式を提示しようという意図である。そしてその上で、労働と社会管理の技術的変化の問題の方が反ユダヤ主義の問題よりも決定的であるとか、あるいはまた、反ユダヤ主義の現象は、(ナチの指導者の養成のなかにまでみることのできる)何世紀にもわたるルター派の教育やイエズス会の影響のもとにあったヨーロッパの宗教史から切り離したら説明できはしないとかいって反対するーーその場合には、ここでもまただが、〈殲滅〉の供機の論理が私には理解できていないことになるのである。その結果、私の「ギリシア的モデル」(少々、アカデミズム臭がする)と私の芸術にかんする問い(これが唯美主義のにおいがするとでもいうのだろうか)によって、私はナチズムの純粋に哲学的な一種の釈明をおこなおうとしたことになる。そしてこの釈明たるや、完全にスキャンダラスでないときには、言うまでもなく極端に有用のおけないものであり客観性を欠いたものなのだ(私はペリクレスからヒトラーに真っ直ぐな線を引き、あたかも私の隠された意図とはキリスト数の無実を証明することでもあるかのように、アテネをーーにもかかわらずデモクラシーの誕生の地であるアテネをー一押しつぶしているのである)。

私は一つの文を、ただ一つの文だけを切り離している。そのエコーは、思うに、二〇〇〇年以上の歳月を経て、ある種のドイツ思想のなかに、すなわち強迫観念となるまでに「ギリシア的モデル」に取りつかれ、国家社会主義のなかで展開されたものとーーいやむしろ、大半は展開され損なったものと無縁でないある種のドイツ思想のなかに反響している。私が語っているのはまさしく「綱領」についてである。実際、私は一種の「イデオロギー的綱領」のことを考えているのだ。しかじかの「思想の巨匠」がナチ・イデオロギーの責任者であると言っているのではない。そうではなく、ナチズムは「哲学的な」遺産を、いかに変形され堕落していようとも受けついでいるのだ。そして、その遺産の重要さあるいは重さは、思うに、あまりにも過小評価されてきた。

〈第三帝国〉における芸術、都市計画、建築、礼儀作法ーーあるいは反対推論により、教会にたいする確固たる敵意ーーが示しているように、一〇〇年以上も前から学校・大学制度のプログラムに組みこまれていた「ギリシアへの夢想」は、三〇年代のドイツにおいて極度の高まりをみせているのである。
 そう仮定すれば、私の「ギリシア的モデル」(そもそもこれは、どちらかといえばペリクレス以前、デモクラシーの出現以前のギリシアをモデルにしたものである)は、ナチズムと反ユダヤ主義の「釈明」などではない。それは、ナチズムたいするハイデガーの批判的言説が明らかにしているように、ナチズムの埋もれた顕現せざる(または、不完全にしか顕現しなかった)真理であって、まさにそのようなものとして、まちがいなく影響力をもちつづけてきたのである。私が国家- 社会主義の下に国家 – 唯美主義をあばきだすことができると考えるのはそれゆえである(そもそも私はーーそう言ったということにされはしたがーー国家 – 唯美主義をハイデガーのせいだなどとは一度も言っていない。ハイデガーはまさしく、「決裂」の翌日にしてすでに、美学つまり西洋の芸術哲学全体に挑戦し、芸術の問題をまったく別の土台に立脚させようとした最初の人なのだ)。この国家 – 唯美主義が、たとえそれにぎっしりつめこまれている「科学的」ながらくたから解放されていなくても(だが、結局はこれもまたハイデガーが示していることだがーーニーチェにおいては、唯美主義と生物学とはどうしようもなく混じりあっているのである)、反ユダヤ主義のヒトラー的ヴァリアントのなかに決定的なしかたで入りこんでいるということーー私が主張しているのはこのことである。だからと言って、これが反ユダヤ主義という大衆的現象の「釈明」になっているとは思わない。こう言ってよければ、問題なのは原因ではまったくない。私がやむをえず本質という表現で語っているのは、それゆえである。
 つまり、本質について言えば、私の直観とは、模倣(言いかえれば、形而上学がこの語のもとに理解しているもの)が近代政治の形成において決定的であるということである。だが、そこにおいて問題になっているのは、おそらくアルカイズム、つまりプルタルコスのうちから残存したものであって、だからおそらくは、厳密な意味での近代政治は存在しないということである。これがハイデガーがかいまみた困難であると私は思う。そこから「ギリシアのはじまり」にかんする彼の錯綜した戦略(にもかかわらず私は、この戦略は模倣的論理を免れているとは思っていない)、また六六年の『シュピーゲル』誌上での〈対談〉における彼の幻滅させるような指摘ーーそこで彼は、デモクラシーが技術時代に対応するにもっともふさわしい政治形態だとは確信できないと言っているーーがやってくるのである。大多数の私の同時代人にとっては、デモクラシーは決して譲ることのできない最後の言葉となっているが、私はそうした人たちとは逆に、困難は残存しており、いまなお私たちの眼前にあるとじている。そして私が、デモクラシーは恐怖と隷属の制度を前提としないまったく別の「モデル」がない以上ーー今日、「かろうじて我慢できる唯一の政治的現実」であると考えているとしても、私たちの背後に(あまり多く)警官はいないということを口実にして、また私たちの労働が(あまり多く)搾取されていないことをロ実にして、デモクラシーを疑問視することをやめるようなことがあってはならないと、私が確信していけないということにはならないのだ。

 

『政治という虚構――ハイデガー、芸術そして政治』フィリップ・ラクー=ラバルト /著浅利誠・大谷尚文 /訳
 

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