小動物とエクリ
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主観性と主体化

 

 

1 三つのエコロジー

エコゾフィー
[ecologieとphilosophieを組み合わせた造語。環境のエコロジー、社会のエコロジー、精神のエコロジーを美的に統合しようという発想から、晩年のガタリが展開した思想で、本書や死の直前に刊行した『カオスモーズ』のなかに、そのエッセンスがこめられている。]

主体というのは自明の存在ではない。デカルトの言ったのとはちがい存在するためには考えるだけでは不十分である。

というのは、他のあらゆる存在の仕方は意識の外部ですえつけられるのであり、他方、思考が思考自体を把握しようとやっきになるとき、思考は狂った独楽のように回りはじめ、存在の現実的領土のかけらすら引きよせず、そのうえ実在の領土は陸地の表面下の地質プレートのように底のほうで違いに分離され流れ動いてしまうからである。

主観化(主体化)のヴェクトルは必ずしも個人を経由するものではない。個人というのは、現実には、人間集団、社会・経済的集合、情報機械などすべてを巻きこんだ過程の「端末」に位置するものである。つまり、内面性は、相対的に自立的で明瞭に和合しない場合もある多様な構成要素の交差点においてつくり出されるのである。

ーーとにかく主観性についての議論は評判が悪い。そして実践であれ理論においてであれ、主観性とかかわる者は、一般に、ピンセットをもって慎重きわまりないやり方でしかアプローチせず、主観性を熱力学、トポロジー、情報理論、システム理論、言語学といったようなハードサイエンスから好んで借用した疑似科学的パラダイムから決して切り離し過ぎないように配慮する。あたかも科学技術者として超自我が心的実体を物象化することを要求し、外在的座標を通してしか心的実体を把握しないように強制しているかのごとくに、すべてが進行するのである。

客体の把握と主体の把握とのあいだには一種の不確実性の関係が生じるものであり、そのためそれを有機的に分節化するには、参照基準となる神話やあらゆる種類の儀礼、科学的装いの記述といった横道を介しての擬-物語叙述的な迂回路なしにすますことはできない。そしてこういった横道は、すべて、その「二次的」結果として、言説としての理解を可能にするような配列的な自己演出をおこない、みずからの実体化をはかることを究極の目的にするところとなる。そこでは、パスカルのいう「幾何学的精神」と「微細の精神」との区別をもちだすなどということは論外である。この二つの理論様式ーー一方は概念によるもの、他方は感情や知覚によるものというわけだがーーは、まったく相補的なものだからである。それはともかく、この擬-物語叙述的な迂回路の核心は、無限の多様性をともなったリズムとリフレインをと通して存在の支柱の反復をくりひろげるということにほかならない。かくして言説あるいはいかなる言説的な連鎖も非言説(論証)性をになうところとなり、あたかもストロボ測定法の痕跡のように、内容ならびに表現形態いずれのレヴェルでも弁別的な対立のはたらきは消滅してしまう。個人的・集団的な歴史性の展開を、特異性をもつ出来事で区切るような非身体的な参照世界が発生し、再生するのは、このような条件のもとにおいてほかならない。

無意識が原始的な固着化に引っかかったままでいるのは、それを未来の方向に差し向ける拘束力がいっさいはたらかない場合だけである。この実在的緊張感は人間的かつ非人間的な時間性という間接的回路を通してる生じる。私が非人間的な時間性の回路と呼ぶのは、動物的、植物的、宇宙的な生成、ならびに技術的・情報的革命の加速化と相関関係にある機械的な生成の広がりのことである(たとえば、コンピュータを媒介とした主観性のおどろくばかりの傍聴が眼下に展開しているといったような事態を思いうかべてもらったらよい)。くわえていうなら、個人や人間集団の形成ならびに「遠隔操作」をつかさどる制度的次元と社会的に階級構成を忘れてはなるまい。

私がここでシステムや構造に対置して用いている過程というのは、みずからを形成し、みずからを定義し、そしてみずからを脱領土化していくといういとなみを同時進行的におこなっていくような存在の謂である。こうした「実在化」の過程は、全体化へむかってみずからをはめこんでいく動きと絶縁し、自らのためだけに機能し、かつみずからの参照体験を制御して、みずからを実在的な指標、自己成長的逃走線(漏出線)として顕現させることとを開始した表現的な部分集合にもっぱらかかわるものである。

エコロジー的実践は、それぞれの部分的な実在的根拠において、主観化(主体化)と特異化の潜在的ヴェクトルを見つけ出そうとつとめる。その場合、一般に、ものごとの「正常な」秩序を横切って走る何か、ある妨害的反復、強度をもった与件に注目することが必然化され、これが他の強度を呼びよせて別の実在的地形を構成していく。

詩のテクストは本質的に表現や内容の過剰性にもとづいて機能しながらも、同時にメッセージを伝達したり指向対象を明示したりしうるのである。 

三つのエコロジーに共通する原理は、三つのエコロジーを解してわれわれが直面する実在の領土というものが、みずからを閉ざした即自的なものとして与えられるものではないということである。そうではなくて、その実在の領土は、有限の、有限化された、あるいは特異な、特異化された、不安定な対自的存在として与えられるのであり、したがってそれは層状をなして死滅していく反復性の方向へ行くか、または何らかの人間的な企画によってみずからを「居住可能」なところにしうる実践を起点とした、自己成長的な開放へとむかうかの、分岐の可能性をはらんだものにほかならない。

言表作用の構成要素というのは、ひとつの世界から別の世界に敷居をまたいで移行するときに共通の一貫性と持続力をおびる異種混交の要素から成っている。

情報が旧来の関係に取ってかわり、さらに自然自体が感覚に場所をゆずるとき、この二重の過程は経験というものの斬新的な減退を反映しているのである。これらの形態はすべて、おのおののやり方で、もっとも古くからあるコミュニケーションの形態のひとつである物語から離脱していく。物語は情報とは異なり出来事の純然たる即自性を伝達しようとするのではなくて、出来事をそれを語る者の生そのもののなかにくみこみ、語る者が聞く者に対して自分自身の経験として伝えようとするものである。

三つのエコロジーの作用領域は私が異質発生性と名づけたもの、すなわち再特異化の持続的過程に依存する。諸個人は他者に対して連帯的であると同時に、他者とますます異なった存在にならねばならない(学校や市役所や都市計画などの再特異化についても同じことがいえる)。
 主観性は、横断的な鍵を介して、環境世界や大きな社会的・制度的な動的編成のなかに同時に設置されていくが、それと対称的なかたちで、個人のもっとも奥深い部分に住みついている幻想や風景のなかに根をおろしていく。ある特別の領域のなかで一定レヴェルの創造的自主性を獲得すると、それは別の諸領域にも同様の現象を惹起していく。かくして、人類の人類自身に対する信頼の回復の触媒が、少しずつ、ときには微小このうえないような手段から形成されていくのである。
この私のエッセーもしかり、たとえほんのわずかでも、いま周囲にひろがる単調さと受動性に一石を投じようという試みにほかならない。


2 ポストメディア社会にむけて

人は互いに即自的なものとしてあたえられたある主観性の前にいるのではなくて、自立化の過程、フランシスコ・ヴァレーラの称える自己産出の過程にむかいあうかたちで存在しているということです。

かくして、私が主観性の定義のなかで喚起した主観性の生産の条件は、言語によって表示される間主観的な人間的審級、比較行動学の領域に属する暗示的もしくは自己同一化的な審級、コンピュータの補助をもとめる機械的装置、性質のちがうさまざまな制度、音楽や造形芸術の世界のような非身体的な参照世界といったようなものすべてを、同時に含みこむものなのです。

すなわち、主観性を客観化し、物象化し、「科学化」するか、あるいは逆に、主観性をその自己成長的な創造性のなかでとらえようとするか、ということです。カントは、嗜好による判断が主観性ならびに主観性の他者との関係をある「公平無私」の様態にひきいれることを強調しました。

「三つの基本的満足(快適なもの、美しいもの、善なるものに対する)のうち、美にたいする嗜好の満足だけがただひとつ公平無私で自由なものであるていうことができる。というのは、美に対する嗜好は、感覚や理性の同意をとりつけようという関心はいっさい持たないからである」。Emmanuel Kant

「孤立化や分離は物としての作品に関係するのではなく、作品の意味作用や内容に関係するのであり、意味作用や内容は、そうした場合、たいてい、自然の統一性とか存在の倫理的統一性といったようなものとの一定の必然的な関係から解き放たれるのである」。

詩にとって大切なのは、メッセージを伝達したり、自己同一化の支柱としてのイメージや模型化の手続きの支えとしての形式的パターンを供給したりすることではなくて、マスメディアのつくりだすカオスの渦中で一貫性や持続性を獲得できるように実在的作用因子を触発することです。
 書いたり、声を出したりする活動、あるいは音楽や造形のいとなみのただ中で作動しているこの詩的-実在的な触媒作用は、芸術作品の創造者、解釈者、愛好者の言表作用的な再結晶化をほとんど共時的にひきおこします。この触媒作用の効能は、それが、記号的に構造化された直示的な意味作用の織り物のなかに、能動的・自己成長的な切断をつくりだすことができるということにほかなりません。そして、そこから新しい参照世界が作動していくことになるのです。

人間活動の唯一受け入れ可能な合目的性は、世界との関係を持続的なやり方でおのずから豊かにしていく主観性の生産にあります。


3 エコゾフィーの展望

はじめに

エコゾフィーというのはエコロジーという環境の生態を考える学問の流れとフィロゾフィー、これはもちろん哲学と訳されますが、それを組み合わせた造語です。あえて訳せば「環境-生態学的哲学」とでもいえるかと思います。    

すべては言語として読解できるものだというかたちで構造主義はディスクールに至高の力を与えてしまったのですが、ガタリさんはそれに対して批判的な活動をしてこられたわけです。

実在的というのは現実をつくり出すということ、現実そのものではなく、現実を生産するとかあるいは主観性を生産するということです。

次に主観性という言葉ですが、われわれに馴染みやすい言葉でいえば主体性という言葉があります。しかしこれでは非常に狭い意味になってしまうので、私はあえて主観性と訳しております。

主観性には二面性があり、放っておけば外からの影響で画一的につくられてしまうが、しかし実は自分たちが自分たち自身の主観性を独自に生産していくということによってしか現代社会の矛盾をこえられない。こう意味で幅広い概念としてつかっています。

旧式の社会に対するとらえ方、社会の問題は社会の言葉だけでは解決しない、それは美的(感性的)な次元、つまり人間の内面にあるものがそこに絡まってこないと新しい展望がひらけないと主張しています。

ですから美的という言葉が出てきたら、そういう感受性的なものと考えてください。

あらゆる町や人々の心などを相互に似通ったものにしてしまう。

そういう現象に対するアンチテーゼとして、人間が個人的かつ集団的に異種としてまざり合う特異性=特異化のプロセスから新しい世界ヴィジョンが出てくるのではないかと考えているわけです。

ジレンマに立つ芸術家

芸術は社会全体のなかで骨格をつくられるけれども、みずからの力でもってしかみずからを支えることができない。つまり生産されたひとつひとつの作品は二重の宿命的目標をもっているのです。まずそれは社会の網状組織のなかに組み込まれ、社会はそれを取りこんだり打ち立てたりします。また他方でそれは、まさにいつ崩れ去るとも知しれぬ存在としての芸術の世界を顕揚しようとするのです。
 芸術にこの衰滅しながら永遠性を保つ力を持って付与するのは、社会のなかで陳腐に流布している形や意味作用と断絶するという芸術独自の機能にほかなりません。芸術家、もっと一般化していうなら芸術的知覚というものは、現実の断片を既成の文脈から引きはがして脱領土化し、それに部分的言表行為をつくり出す役割を演じさせるのです。芸術は知覚された世界の部分集合に意味と他(者)性の機能を付与します。こうした芸術作品のほとんどアニミズム的な言葉の獲得の仕方は、芸術家ならびにその「消費者」の主観性をつくりなおすという結果をもたらすのです。結局、芸術作品において肝要なことは、ともすると自己同一的な集列性のなかに没して、幼稚化し、無に帰着する傾向におちいりがちな言表行為を稀少化するということなのです。
芸術作品というものは、それを活用する者にとって、既成の枠づけをはずしたり、意味を切断したりする企て、あるいはイメージをバロック的に増幅させたり、逆にイメージを極度に稀少化したりするという企てにほかならず、それが主体を主体自身の再創造や再発明へとみちびいていくのです。芸術作品にあっては、ひとつの新しい実在的な支柱が、再領土化(リフレインの機能)と再特異化という二重の作用領域に応じてゆれ動くところとなります。芸術作品との出会いという出来事は、実在の流れに不可逆的なかたちで新しい区切りをつけ、日常性という「均衡のとれた世界」かけ離れた可能性の領野を触発的に生みだすのです。
 このように芸術を実在的機能という角度ーーすなわち意味作用や明示的意味との断絶という観点ーーからとらえたとき、通常の美的カテゴリーはその妥当性を大部分失っでしまいます。「具象」であるとか「抽象」であるとか、あるいは「概念主義」であるとかいったような分け方はほとんど無意味になってしまうのです。大切なことは、ある作品がひとつの突然変異的な言表行為の生産に実際に寄与しうるかどうかなのです。芸術的活動の焦点はつねに主観性の生み出す剰余価値であることに変わりはありません。あるいは、別の言葉でいいかえるなら、平凡な環境世界のなかにおいて負のエントロピーを明るみに出すということです。というのもの主観性の一貫性は、主観性が最小限の個人的もしくは集団的な再特異化という道を通してみずからを擦新することによってしか維持されないものだからです。

芸術作品の消費の飛躍的発展という現象をわれわれはここ数年目のあたりにしているのですが、しかし、この現象は都市化という文脈のなかにおける諸個人の生活の画一化の深化という現象と関係づけて考えでみなければならないでしょう。

それは画一化の方向とならんで、たとえば主観性の分岐を引き起こす作用因子としての役割を果たす方向にもむかいうるのです。

『時と永遠のあいだ』イリヤ・プリゴジンとイザベル・スタンジェール

主観性の再発明が課題

たとえばあなた方がこのような美的プロセスに個人的にでも集団的にでも結集していくことができるとすれば、そこにおいては何かが規制の文脈から身を引きはがして、その何かがそれ自身のために作用し始めるのです。
既成の文脈から身を引き離した美的プロセスが、その美的プロセスそのもの自身のためと同時にあなた方自身のために、この両方の意味において機能し始めるということになるのです。

現代における主観性というのは、たとえば自分自身の殻のなかに閉じこもってしまうとか、マスメディアによって非常に幼稚化してしまうとか、あるいは人間にかかわる領域のみならず宇宙との関係の領域においても、他者性とか異質性に無遠慮なまま取り止めもなく生き続けねばならないということを宿命づけられているわけではありません。ただ、主観性の生産様式というのは、創造的な目標がみずからの手に届く範囲にあらわれることがないかぎり、その資本主義的な同質化の包囲網から抜け出ることはできないのです。

たとえば、あらかじめすべては決まっていると考えるのか、あるいはすべてはやりなおしがきくーーすなわち世界は別の価値座標をもとにして再構築できるし、そのために別の実在の領土をつくり出さなければならないーーのだと考えるかに応じて、私たちの生き方は、機械仕掛けのような確かさによって刻印されるか、あるいは非常に不安定ながら創造的な要素をおびるかというちがいが生じてくるでしょう。

空気や水と同様に、主観性というのは自然的に与えられた条件ではありません。
 どのように主観性をキャッチするか。そしてどのように主観を豊かなものにするか。今活発に変異をとげつつある価値の座標と両立するかたちで、どのように主観性をたえず再発明していくかといったことが問われているのです。主観性の解放すなわち主観性の最特異化のために、どのように力を傾けることができるかを考えるなければならないのです。


訳者あとがき

横断性

平たく言えば、純然たる垂直関係と水平関係を臨界とした社会的人間関係の座標のなかに、いかなる欲望を負荷した横断的斜線を浮上させることは可能か、これが社会的諸関係の変革の鍵を握っているということである。そして、その場合、権力による上からの「横断性」の圧力に与するのではなく、あくまでも抑圧された集団的無意識の主体化を求めながら、下から権力や制度に向かって横断性のフィールドを拡張していくこと、これがのちに『分子革命』に結晶するガタリの革命思想の導きの糸にほかならない。

無意識というのは、まずもって社会的な動的編成であり、潜在的な集合的言表行為の動的編成なのです。言表のなかで、何があなたに帰着し、また何が私に帰着するかということが分離するのは、次の段階でしかないのです。

無意識は言表の私的所有も欲望の私的所有もともに知らないのです。

「主観性」なきところに「主体性」は生じないのであって、良くも悪くも「主観性」という訳語の方が原語の根源的な「含み」をよく体現していると言えるだろう。 

「主観性の生産」

⑴ 人々の身体や精神を外部からの直接的強制によって限定し支配する権力の様態
⑵ 経済的・技術的・科学的なプログラムに人々が内面から適合していく知の様態
⑶ 人々が自らの座標系を打ち立てようとする自己参照的な生成変化による自己創出の様態

つまり、「主観性」は、いわば工業製品のように造形され、受容され、消費されると同時に、一人一人(あるいは個々の集団)が自ら特異的に創造することもできる根源的な存在の混成体として想定されているのである。

「主観性とは、即自的なものでなければ、一定不変のものでもない。あれこれの主観性は、ある言表行為の動的編成がそれを生産するしかないかに応じで存在するのである(例を挙げるなら、近代化資本主義は、メディアや集合的装備(施設)を使って、新しいタイプの主観性を大規模に生産する)。したがって、個人化された主観性の背後に、現実的なら主観化(主体化)の過程がどうなっているかということを見極める努力をしなければならない」。

主観性の構成体は個人というひとつの「仕切られたもの」と符号するものではない、符号することはできない

主観性というのは、少なくとも、他者、もうひとつの自我(オルター・エゴ)、父親、母親、家族、カースト的諸関係、階級闘争といったようなものとの複雑な関係のなかで、いわば社会的相互作用の全次元にわたってしつらえられるものだということである。

 

物質的・記号的な流れは、主体や対象に先立つものである。したがって、欲望も流れの経済も、最初は主観的でもなければ表象的でもない。

 

『三つのエコロジー』

フェリックス・ガタリ/著、杉村昌昭/訳より抜粋し流用。

 

 

 

 

一つの観念的客体

 

1  歴史は流動するのであり、静止状態から激流が生まれるのである。

 

3  抽象的な観念は偏在的である。

 

生理学でいう近視法と遠視法は、主として測量的な要因にもとづく概念ではなく、どちらかといえば、二つの違った見方なのである。

 

12  近視法は対象を他から切り離し、分析し、きわだたせるーーつまり封建的である。

遠視法は諸対象を総合し、融合し、混然一体とするーーつまり民主的である。

遠視法において視点は概括的となり、ここに嵩の絵画は決定的に空洞の絵画に変わったのである。

 

13 印象主義

 

視点は多数的、近視法的なものから単一的、遠視的なものへ移行することによって、その可能なレパートリーを開発しつくしたかに見えるであろう。しかし、事実はそうではないのである。視点は主体へ向かってさらに後退することが可能であったのであり、それはこれから見るとおりである。視点の後退は1870年から今日にいたるまで継続的に行われており、しかも今日という段階は、その不条理で逆説的な性格によって、わたしが冒頭で言及した不吉な法則を確認しているのである。つまり、画家は、彼を取り巻く周囲世界から出現しながら、ついに自分自身の内部に引きこもってしまうのである。

 私は先にベラスケスの視線は対象に突き当たると、その対象を平面に変えてしまうといった。

 

ベラスケスは背景を直視する。

したがって、そこには、ベラスケスと彼の視界とのあいだに横たわる巨大な空気の量塊があるのである。

 

画家は、対象を見たままに描くかわりに、観るという行為そのものを描くようになったのである。

対象ではなく印象、つまり知覚の総計である。絵画は、かくして完全に周囲世界から身を引き、主体の活動に奉仕し始めたのである。こうした感覚は、すでに、如何なる意味においても物ではなく、それは主観的状態であり、それらを通して、それらを仲介として、物がわれわれに現われてくるに過ぎないのである。

 

一見したところでは、視点が、角膜に最も近い対象を求めて、可能な限り主体に近い地点、事物から可能な限り遠い地点にすでに到達してしまったのだ、というふうに見えよう。しかし、それは誤りである。

視点は、さらに、かたくなに、その後退を続けてゆくのである。視点は、角膜のところでも立ちどまらず、この最後の境界線を越え、視線そのもの、つまり、主体そのものの内部に侵入して行くのである。

 

14 キュービズム

 

セザンヌは、印象派的な伝統のさなかにあって、量を発見した。

彼のキャンヴァスには、立方体や円筒体や円錐体が現われ始める。

 

印象主義のテーマであった感覚は、主観的状態であり、したがって、現実、つまり、主体の現実的な改変であった。

しかし、主体にさらに深くはいり込めば、そこには観念がある。これら観念もまた個人の魂に生起する現実であるが、その内容ーー考え出されたものーーが非現実的であり、時にはありえない事柄でさえありうるという点で、感覚とは異なっている。

 

セザンヌ以降、絵画は観念しか描かなくなった。観念もまたたしかに対象であるが、しかしそれは、主体に内在的で観念的な対象というか、主観内的 intrasubjetivo 対象なのである。

 

目は、諸物を吸収する代わりに、自己の内的な風景や動物図鑑を投映する器官と化した。

かつては現実世界の吸水口であった目は、いまや、非現実世界の噴出口となったのである。

 今日の美術が美的価値をほとんど持っていないということは確かかもしれない。

しかし現代美術を単なる気まぐれとしか見ない人は、新しい美術のみならず古い美術も理解していないことだけは確かである。発展の法則が絵画ーーそして芸術一般ーーを、不可避的、宿命的に今日の姿に導いてきたのである。

 

15  画家は最初に物体を描き、次に感覚を描き、そして最後に観念を描くようになった。

このことは、画家の注目は、まず外在的現実に向けられ、次に主観的なものに、そして最後に主観内的なものに順次向けられるようになってきたことを意味する。これら三つの宿場は、同一線上にある三つの点である。

 

堅牢で個別的な個体の画家ジョットーの時代の哲学は、究極的にして決定的な現実は、個としての実体であると考えていた。

 

ベラスケスにとって現実は空洞であったように、デカルトにとって現実は空洞となったのである。

 

デカルトの後に、複数実体論はライプニッツにおいて再び一時的に現われた。

しかしその実体はもはや固体的原理ではなく、全くその逆のものであった。つまり単子が主体となったのであり、それら単子一つ一つの役割はーー奇妙な兆候と言わねばならないーーひとつの視点 point de vue を示すことにほかならないのである。

 

単子は、そうした視覚統一のための形而上学的な一つの場を提供するものにほかならないのである。

  

「意識の内容」と呼ばれてきたものーー主観内的なもの

 

美術における視点について(1924年)『オルテガ著作集 新装 3 芸術論』

ホセ・オルテガ・イ・ガセット/著、神吉敬三/編訳より抜粋し流用。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

非人間性と非現実化

 

 

新芸術の不評

 

「社会学的観点から見た」新芸術の特徴は、社会を、新芸術を理解できる人間と理解できない人間の二つの階層に分けるところにある、と私は考える。

 

新芸術は、ロマン主義芸術のようにすべての人を対象としたものではなく、特に才能を持っている少数者に向けられた芸術なのである。ここに大衆が新芸術に対して憤りを感ずる原因があるのである。

 

政治から芸術の分野にいたるまで、社会は、当然あるべき二つの階層というか階級、つまり、すぐれた人間の層と凡俗な人間の層に再構成される時が近づいているのである。

 

今日の生のあらゆる局面の根底には、腹だたしい不正が息づいている。つまり、人間は完全に平等であるというあの誤った仮説がそれである。われわれが人びとの間に分け入り、足を一歩踏み出すごとにその反対の事実があまりにも明白になるので、一歩一歩が苦痛に感じられるほどである。

 

 

芸術のための芸術

 

新芸術がだれにでも理解しうるものでないとすれば、それはその手段が総括的に人間的なものではないことを意味している。そうした新芸術は一般向きではなく、一般人よりすぐれているとはいえないかもしれないが、しかし一般人とは明らかに異なっている特殊な階層向きの芸術なのである。

 

彼らにとって芸術とは、興味深い人間的な事象との接触を可能にしてくれる諸手段の総体なのである。

真に芸術的なフォルムや非現実性や想像力の介入も、彼らが人間の姿とその有為転変を明確に感じとる上に妨げにならない範囲内でのみ認めるわけである。

 

こうしたかかわり方の可能性を提供しない芸術作品は、彼らが役割を演ずる余地を与えないのである。

 

芸術作品の人間的な側面にのみとらわれるということは、厳密な意味での美的快感とは、相入れないものなのである。

 

何ものかを見ようとする場合、われわれは視覚機関をある特定の方法で調節しなければならない。

この調節が適切でない場合は、ものは見えないか、見えたとしてもぼやけてしまう。

窓のガラス越しに庭を眺めている姿を思い描いていただきたい。

 

このように、庭を見るということと窓のガラスを見るということは両立しえない二つの操作であり、一方が他を排除するとともに、それぞれ異なった視覚調節を必要とするのである。

 

芸術作品は、それが非現実的である程度においてのみ芸術的なのである。

 

ところで、大多数の人びとは、芸術作品というガラスに、彼らの注目の焦点を合わせることができない。

そこをきづかずに素通りしてしまい、作品に暗示されている人間的現実に執着し熱狂するのである。

 

事実、そこには人間的事象はなく、芸術的に透明なもの、純粋に潜在的な力があるだけだからである。

 

新芸術は芸術的な芸術なのである。

 

 

現象学の数滴

 

つまり、一つの現実も、これを相異なる視点から眺めた場合、多くの相異なった現実に分割されるのである。そこで次のような疑問が生じる。これを無数に分割された現実のうち、どれが真正な現実なのか。われわれが、どれをとったとしても、それは恣意的たらざるをえない。われわれがどれかを選択するとすれば、その選択は気まぐれ以外の根拠を持ちえないのである。これらの現実はすべて等価値なのであり、それぞれの現実はそれに相応する視点に立った場合には真正なのである。われわれがなしうることをいえば、こうした観点を分類し、その中から実際的にいっていちばん正常で自然だと思えるものを選び出す以外にない。そうすることによってわれわれは、絶対的というにはほど遠いが、少なくとも現実に対する実際的で標準的な概念をうることができるのである。

 

われわれがあるものを現実に見ることができるためには、つまり、ある事実がわれわれが眺める対象となるためには、その事実をわれわれから引き離し、われわれの存在の生きた一部であることを止めさせねばならない。

 

われわれがその尺度の一方の端に位置した場合には、この世界ーー人間、事物、情況ーーの一つの様相、つまり「生きられた」現実を見出し、反対の端からはすべてをその「眺められた」現実の様相において見ることになるのである。

 

ここでわれわれは、美学にとって本質的なことを指摘しなければならない。

 

つまり、先のような相異なった視点に相応する現実の様相の中に、それ以外のすべての様相がそこから派生し、すべての様相の前提となっている一つの様相があるという事実である。現実の様相のうち生きられた様相がそれである。

 

観念は、それによって事物を思考するとき、われわれは観念を「人間的に」用いているといえるのである。

 

 

芸術の非人間化始まる

 

新芸術は、目まぐるしい速さで、種々様々な方向と試みへとむかって自己分解してきた。それらの生み出した作品の相違を強調することはきわめて容易である。しかし、それ以前にまず、すべての作品にみられる共通の基盤ーーそれは相異なる形で、また時には相矛盾する形で表われるーーを限定すべきで、それをせずに、差異性、個別的な特殊性を強調することは無意味であろう。

 

1860年の画家が、それ以上の多くの複雑な美的意図を持っていたことも考えられるが、しかし重要なことは、まずはっきりと似せるというところに出発点があったことである。

 

ところが最近の絵画では事情は逆で、われわれはそうしたものを見分けるのに苦労する。

 

最近の絵画では、これとは全く逆のことが起こるのである。

つまり、画家が失敗するとか、脇道にそれてしまって実物(自然的=人間的)に到達しないというのではなく、彼らの方向は、われわれを人間的な対象に導く道とは全く逆の道を指し示しているからなのである。 

 おぼつかない足どりで現実を目ざして歩いてゆくのとは反対に、画家は大胆にも現実に反抗しているのである。

画家は大胆にも現実をデフォルメし、現実の持つ人間的様相を破壊し、現実を非人間化しようともくろんでいるのである。

われわれは伝統絵画の中に描かれている事物となら、幻覚のうちに共存することができる。  

 

画家はわれわれを一つの抽象的な世界にとじ込められたままに放置し、われわれに、人間的に接触することが不可能な対象との接触を余儀なくするのである。

 

俗人は現実から逃避することはたやすいことだと考えるが、実はこの世で最もむつかしいことなのである。

 

「現実」は、芸術家の逃亡を防ごうとして常時待ち伏せている。

それをまいてみごとに逃げきるには、芸術家側にどれほどの抜け目なさを必要とすることだろうか。

 

 

理解への招待

 

ところで、様式化するということは現実を変形することであり、非現実化することである。

つまり様式化は非人間化を意味するのである。

 

 

芸術の非人間化は進む

 

生きられた現実は、われわれを強く補えずにはおかず、われわれをその現実に感情的に参加させ、その結果、それら現実をその客観的な純粋さにおいて眺めることを不可能にしてしまうのである。

 

見るという行為は距離を必要とする。美術というものはすべて、それぞれの幻燈機を持ち、事物を遠ざけ、変形してみせる。

 

詩人は、それ自体としてらすでに存在している現実に、一つの非現実的な大陸を加えることによって、世界を拡大する。

作家autorの語源はauctorつまり、増大させる者である。

 

どちらを見てもわれわれが遭遇するのは以上と同一のこと、つまり、人間からの逃亡である。

非人間化の方法自体は数多くある。

 

しかしながら、今日の音楽がドビュッシーに始まった歴史の一章に属しているのと同じように、すべての新しい詩はマラルメが指し示した方向へと進んでいるのである。個々の芸術家の着想によって画された諸々の小さな事で印から目を上げ、新様式の基本線を探し出そうとするならば、この二人の芸術家を結びつけることが肝要であると私は考える。

 

 

タブーと隠喩

 

われわれができる最高のことといえば、ある事物にほかの事物を加えたり、差し引いたりすることくらいである。

そうした中にあって隠喩のみが、現実からの脱出を可能とし、現実の事物の中に空想の岩礁をつくり出し、軽やかな浮き島を出現させることを可能にしてくれるのである。

 

隠喩は、ある対象を、その上を他のものの相貌で覆うことによって、掻き消してしまう。われわれとしては、こうした隠喩の背後に、現実を避けようとする人間のある種の本能の働きを認めないわけにはいかないのである。

 

最近、ある心理学者が隠喩の起源を研究し、その根源の一つが「タブー」の心理にあることを発見して驚いた。

 

詩の武器は、自然の事物に反逆し、それを傷つけあるいは殺しているのである。

 

 

超現実主義と下部現実主義 

 

隠喩は非人間化のための最も基本的な手段ではあるが、しかし唯一の手段ではない。

それぞれ効果を異にする様々な手段があるのである。

 その中でも最も単純な手段として、慣習的な遠近感に変化を与えるという方法がある。人間的な観点に立った場合、事物には特定の順位というか、序列がある。ある事物は、われわれにとって非常に重要なものに思えるのに対して、他の事物はそれほど重要とも思えないし、まったく無意味にさえ思える事物もある。したがって、非人間化の願望を満足させるためには、事物の本来の形を変形させなければならない。つまり、事物の序列を逆転させ、生における最も些細な出来事が記念碑的な雰囲気のうちに前景に浮き出るような芸術を作ればよいわけである。

 

隠喩による超自然主義と下部現実主義とも呼びうる手法によって、現実の回避と現実からの逃亡という同一の心理が満足させられるのである。

 

 

反転法

 

観念とは、われわれが世界を眺める望楼のようなものである。

 

われわれは観念によって事物を見るのであり、精神が事前に活動している場合には、目がものを見るときに目自体は見えないのと同様に、われわれも観念そのものには気づかないのである。別のいいかたをするならば、考えるということは、観念をとおして現実を把握したいという願望であり、精神の自然な動きは、観念から世界に向かう方向をとるのである。

 しかしながら、観念と事物との間には、つねに絶対的な距離がある。現実は、つねに、その現実を内包しようとする観念から溢れ出てしまう。事物は、つねに、その観念の中で考えられた以上のものであり、別の様態をしているものである。観念はまたつねに、一つのあわれな図式のようなもの、われわれが現実に近づこうとして組み立てる足場のようなものに過ぎない。しかしながら、一般的には、現実とはすなわちその現実についてわれわれが考えたことであるとする傾向があり、現実と観念を混同し、観念を事物そのものと看做してしまう。要するに、われわれの生に根ざすリアリズムへの熱望が、現実の無邪気な理想化という方向にわれわれをおとしいれるのである。これがわれわれの生得的、「人間的」な傾向なのである。

 

なぜならば、観念は、事実上、非現実的なものであり、それを現実と看做すことは、とりもなおさず理想化することであり、邪気なく偽造することだからである。観念にその非現実そのものの状態において生命を与えることは、いうなれば、非現実を非現実として現実化することなのである。この場合、われわれは精神から世界へという動きはとらず、その逆に、図式、つまり、内在的、主観的なものに成形力を与え、客観化し、世界化するのである。

 

一枚の肖像画を描く画家は、モデルとなっている人物の現実を把握しえたかのようにふるまうものだが、実際には、その現実の人間を構成している無限の要素の中から、画家が自分の頭で図式的に選択したものしか画面にとどめていないのである。

 

現実と張り合うことを断念することによって、その絵は、真にそうあるべきもの、つまり、一枚の絵=一つの非現実に代わるのである。

 

画家は、事物を描くことから観念を描くことへ移った。

芸術家は、外部の世界に対して目を閉じ、彼の内部にある主観的な景観に瞳をこらすようになったのである。

 

 

偶像破壊

 

今日の芸術は、なぜ、生命ある形体の柔らかな線に従うことにかくも嫌悪を感じ、それを幾何学的な図式に置き換えてしまうのであろうか。

 

宗教と芸術の歴史においてしばしば爆発を繰り返しているこの偶像破壊という現象を徹底的に研究してみることは、非常に有益なことであろう。新しい芸術に、こうした偶像破壊を望む奇妙な感情が作用していることは明らかである。

 

 

過去の否定的な影響

 

過去の現在に及ぼす影響を論ずる場合、以上のことが忘れられているのが普通である。一つの時代の作品には、そのまえの時代の作品に大なり小なり似せようとする意志があるのだ、となんの疑問もなく認めできたのが従来の立場であった。つまり、過去の及ぼす否定的な影響を認め、新しい様式は、多くの場合、伝統様式に対する快楽さえ伴う意識的な否定によって形成されているのだ、ということを認めるのは、ほとんどの人にとってかなりむつかしいことらしいのである。

 ところがロマン主義から今日にいたるまでの芸術の起動は、過去の芸術を否定し、攻撃し、嘲笑するという気質を美的快感の一要素と看做さない限り、理解することはできない。

 

実のところ、新しい感受性が原始美術にひかれるのは、作品そのものにひかれるというよりも、その純真さ、すなわち、伝統の不在、まだ伝統が形成されてはいない芸術だという理由である。

 

今日あまりにも一般化されているのは過去の芸術を攻撃するという態度は、つまるところ、芸術そのものに反逆することを意味するからである。なぜならば、芸術とは、具体的にいって、今日にいたるまでの間に作り上げられたものにほかならないからである。

 

芸術に対する憎しみは、科学に対する憎しみ、国家に対する憎しみ、要するに文化全般に対する憎しみが芽ばえているところでなければ、生まれないのである。

 

過去の芸術が未来の芸術に否定的に作用する際の心理的メカニズムを分析してみるのは興味のあることである。さしあたっては、とにかく一つきわめて明白なものがある。倦怠がそれである。一つの様式の単純な繰り返しは、感受性をにぶらせ疲れさせる。ヴェルフリンは、『美術史の基礎概念』において、この倦怠がしばしば美術を動かし、変形を余儀なくせしめたことを証明している。

 

 

アイロニックな運命

 

芸術が自分自身の中には引きこもった事実がもたらす最初の結果は、いっさいの感傷性の追放であった。

「人間性」で覆いつくされていたときの芸術には、生に附属した重々しさが反映されていた。

 

新しい発想はすべて、喜劇的というただ一本の弦をかなでている。

 

しかし作品の内容が喜劇的なのではない。もしそうならば、「人間的」様式の一つに逆戻りしたことになるであろう。

 

つまり、芸術そのものに向かってゆくのは、まさに芸術を笑劇と看做しているからである。

 

しかし今日の芸術家は、われわれが、冗談である芸術、まさに自嘲そのものである芸術を眺めるように仕向ける。

実は自嘲こそ、新しいインスピレーションの喜劇性があるのである。新芸術は、特定のだれかとか特定の何かとを嘲笑する代わりに、芸術そのものを嘲笑するのである。

 

芸術は、こうした自嘲において以上に、その魔術的な資質を最高に発揮することはないのである。

というのは、芸術は自殺行為を行ないながらも芸術であり続けるのであり、自己否定は驚異的な弁証法によって、自己保存となり勝利となるからである。

 

芸術の使命は、現実には存在しない地平線を出現させることにある。その使命を達成するためには、われわれの現実を否定し、そうすることによって、われわれをその現実の上に引き上げなければならない。つまり、芸術家であるということは、われわれが芸術家でない限りそうであるようにきわめて真面目な人間を真面目にとりあげないことである。

 

 

芸術、この重要たらざるもの

 

今日の芸術は、雰囲気が厳粛さを失いはじめ、事物がいっさいの形式から自由になった軽々と跳びはじめるのに気がついたときはじめて、そこに芸術の成果を感じはじめるのである。

 

芸術が人間を救うことがあるとすれば、それは人間を生の厳粛さから開放し、思っても見なかった幼年時代に帰してくれるからに過ぎないのである。

 

歴史は、長大な生物的リズムによって動いているのである。

 

歴史はこの両極の間をリズミカルに往復しており、ある時代には男性的資質が、そして他の時代には女性的資質が支配的になり、またある時代には青年的特質が、そして他の時代には円熟味という老人的特質が称揚されてきたのである。

 

芸術は外見的にはその属性をなんら失ってはいないが、より遠く、より軽い、二次的なものとなってしまったのである。

 純粋芸術的をあこがれることは、一般に信じられているように傲慢な態度ではなく、その逆に非常に謙遜な態度なのである。人間的感傷を拭い去った芸術は、重要さというものを全く持たず、芸術たること以外を望まない芸術そのものと化すのである。

 

 

結語

 

現実の構成要素、現実のもつ相貌は無数なのである。

 

そして対象としている現実が生まれたばかりで、これから生の軌道を描き始めようとしている場合には、なおさらのこと、その偶然に出会う可能性は少なくなるのである。

 

芸術は、つねに伝統の枠内に存続しうるのだ、と叫ぶことはきわめて簡単である。しかしながら、この快適な言葉は、絵筆やペンを片手に、具体的なインスピレーションの到来を持っている芸術家には、何の役にもたたないのである。

 

 

芸術の非人間化(1925年)『オルテガ著作集 新装 3 芸術論』

ホセ・オルテガ・イ・ガセット/著、神吉敬三/編訳より抜粋し流用。

 

 

 

 

 

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