小動物とエクリ
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メーメー鳴く嘆きに対する抵抗

 

 

第一〇講義 哲学と「深さ」
一九六五年一二月九日

メモ書き

真理要求がわれわれに立ち上がるのを求めるところでは、確かな地盤という幻影は退けられねばならない。本質と現象の区別は現実のものである。たとえば、主観的に直線的なものという仮象。とはいえ、この仮象は必然的である、すなわちイデオロギー。

哲[学]が抵抗の力となるのは、その本質的な関心を、たとえ否という答えによってであれ満たすのではなく、断念させようとするものに決して丸め込まれないことによってである。

抵抗としての哲[学]は展開を、媒介を必要とする。

(8)深さは弁証法の一契機であって、孤立した性質のものではない。

肯定は基準ではない。意味の概念について。
 同様に、深さは内面への撤退ではない。

深さとは、表層に満足しないこと、まさしくファサードを打ち破ることである。ーーそこには、どんなに深く見せかけるものであってもあらかじめ設定されているものには満足しない、ということも含まれいる。批[判]理論に関してもまた。
 抵抗とは、自分の法を所与の事実から唯々諾々と指示されない、ということである。そのかぎりで、この抵抗のあり方は、事実ときわめて密に接触しながら、対象を乗り越える。

深さの概念のうちには、本質と現象の差異が設定されている。

(9)たんなる存在者を越える思考の思弁的な過剰、それが思考の自由である。

すなわち、苦しみをして語らしめること。これがあらゆる深さの理由。「神は私に語る能力を授けた」。

 

 

講義録

本質と現象、思弁とイデオロギー

私たちが立ち上がることを真理要求が求めるところでは、言い換えれば、最後のもの、絶対的に確かなものと主張されているその当のもの自体が決して究極のものではなく、媒介されていて、したがって絶対に確かでないことが明らかになるところでは、確かな地盤と称されている幻影から立ち去る必要がある、ということです。絶対的な確実性を求めること自体、こう言ってよければ、その観念論的な誇張によってなされています。つまり、概念にそもそもそれが満たしえない絶対的な確実性を帰すことでそれはなされているのですが、私がそこから見て取るのは、反思弁的であることを自らの基準としつつも、その背後で絶対的な確実性という要請が密かに掲げられることによって、思考に口論が装着されている、ということです。この口論は、そのつど確かだと称されている事実が保証しているものを越えてさらに思考が先に進んでゆくのを妨げます。

それらの基準が正当か不当かを問う反省は、事実と所与という立場から素朴に見れば、思弁による反省と見えてしまうのです。

現代の社会における人間の主観的な振舞いは、それらが当の人間自身には思いもつかない規模で客観的な構造に依存しているかぎり、その構造のたんなる現象として理解されねばなりません。

私たちがさしあたりつねに関わりあわねばならない直接性という領域、それゆえに私たちが絶対的に確かなものと見なす傾向がある直接性の領域は、実際にはそれ自体において媒介されたもの、方向づけられたもの、仮象的なものであって、したがって不確かなものです。
 他方でしかし、この仮象はまた必然的です。すなわち、主観がとにかく抱いている意識内容を社会が産み出しているということ、そして、それらの意識内容においてたんに媒介されているもの、決定づけられているものを、自分の自由にもとづく行為ないし所有物、場合によっては絶対的なものと見なしていることに主観が盲目であるということ、この二つの事柄はともに社会の本質に属しています。

社会的に必然的な仮象としての人間の直接的な意識は、かなりの程度イデオロギーである、と。

いずれにしろ、私が思弁ということで理解しているもの、遠慮深く自分を固定するsich-festestellenのではない反イデオロギー的な態度は、事実確認的festellendな学問の習慣と際立った対象関係にあります。というのも、支配的な思考習慣では、当然ながら、思弁はイデオロギーと同一視されるからです。

 

 

[抵抗]としての哲学

ちょうど、元来は本質的に意味を創出するカテゴリーだった思弁という概念が、みなさんに説明したとおり、たんなる現存在が横領している意味の仮象を破壊するものとなることによって、本質的にその位置が変わるのと同様です。

哲学が抵抗の力であるのは、その本質的な関心を断念させようとするものに丸め込まれないことによってであり、さまざまな事実のデータに丸め込まれないようによってです。哲学は、たとえ確定的な「否」をつうじてであっても、つまりその達成不可能性が指示されるという形であっても、自らの本質的な欲求を満たせばならないのです。

マルクスは十分にヘーゲル主義者であって、本質の概念をつねに堅持していました。
 ともあれ、本質と現象の差異はこんにち否定されていますが、これを否定する人々が、現象の現われの背後には何も存在しないと言って、その現われをあるがままのものとして受け入れることを私たちに強いるかぎりは、本質と現象の差異を否定する試みは第一級のイデオロギーである、と私は見なします。そして、それらの現われを理論的に越えてゆくことがもはやできなくなる瞬間、それらの現われを理論的に受け入れざるをえない瞬間には、たとえ理論と実践の関係を確保したと思っていてもまさにそのときに、それらの現われを理論自体において乗り越えてゆく可能性は、根本においてもはや存在しないのです。

実際、抵抗というのは衝動に属するカテゴリー、直接的な振舞いに属するカテゴリーです。

この抵抗という契機が哲学の理念ないし衝動を差し出す一方で、その抵抗が非合理なもの、したがって一時的なもの、さらには虚偽のものにさえとどまりたくないのであれば、それはたんに反省されるのみならず、理論的な連関において展開されねばならない、と。そうでないかぎり、この抵抗は貧しい抽象的な決意主義、たんに恣意的な決断というあり方に行き着きます。

苦しみの弁神論、苦しみと幸福

ライプニッツまで遡るなら、深さという概念は弁神論という思想、すなわち苦しみの正当化という思想と独特の結びつきを経てきました。深さが苦しみと何らかの関係があること、深さとは苦しみを否定するのではなく直進する思考であるということ、このことは確かです。

悲劇的なものといった美学的なカテゴリーがそのまま現実や人間の共同生活や人間が相互に置かれている人倫的な関係に転用されているという点に、それだけですでにはなはだ疑わしいものがある、ということです。

悲劇の概念を決して認めないこと、すなわち、存在しているいっさいはその有限性のゆえに没落にも値するのであって、この没落が同時にその無限性の保証であるといった考えを決して認めない、ということだと思います。

実際にそれが自分の立場とし、形而上学的なものにまで高めようとしているものは、どのみち世のなりゆきにほかならないからです。

深さないし形而上学的内実の魔術的呼び出し

私たちは概して美学的には正反対のことを言うことができます。すなわち、その作品が形而上学的内容を客観的に保持していればいるほど、その形而上学的内容を説き伏せたり、自ら描いたりすることは少ないのです。

 

 

ハイデガー

その哲学は、深さという切実な要請、すなわちそのような理念を真剣に受けとめるという切実な要請によって元来課せられていたものから、ますます根本的に逸脱してゆくのです。

有意味なものの定立に抗して、「内面性」

したがって、深さの概念には本質的に、思想の執拗なこだわりによってありきたりな伝統的深さを否定するということが属している、と言うことができます。

思想の根源を決定するのはその成果ではありません。

思想の努力ないし抵抗はまさしく、そのようにたんに現存するものを有意味とする直接的なテーゼを拒むところに存在するのだ、と。
 同様に深さはまた内面性への一種の撤退でもありません。

たんなる内面性としての深さというこの偽りの概念が致命的な役割を演じています。その際この概念は、私たちがたんなる内面に引きこもったときに送ることになるはずの「質素な生活」というイメージと結びついています。

ここで扱われているのが深さではなく大量生産品だということを是非とも見抜いていただきく思います。田舎の静けさがもつこの深さは実際には、寸法に合わせて仕立てられたものであって、文化産業の生産する、標準化さ
れた既製品にすぎません。

 

 

メーメー鳴く嘆きに対する抵抗

深さはたんなる主観への沈潜を意味しているのではないという、ゲーテやヘーゲルの洞察が実際に、そしてあらゆる意味で、妥当します。主観は自分自身のうちへ引きこもるなら、自分のうちにたんに「空虚な深さ」を見いだすのであって、深さを外化の力から引き離すことなどとうてい不可能な話なのです。

これとまさしくぴったり符号しているのは、その当人がその際絶対的な対自的な対自存在としての自分のうちで見いだし受けとめている内容が、実際には彼に絶対的に固有のものではさらさらなく、集合的な残滓、一般的な意識の残り滓にすぎない、ということです。

したがって私は、こんにちの深さの尺度となるのは抵抗、しかもメーメーという嘆きに対する抵抗である、と思います。

深いとは実践に表層に満足しないこと、いやむしろ、ファサードを打ち破ることです。しかし、その抵抗にはまた、どんなに深く見せかけるものでもすでに与えている思想には満足しないということが含まれていますし、とりわけ自分の持ち札、自分のスローガン、自分がある種の集団に属していること真理の保証と見なすことなく、自分自身の思想に対しても仮借のない反省の力を行使する、といったことが含まれています。自分の思想であっても、あたかもいつまでも安全無事に用いることができるかのように、自分をそれに縛りつけてはならないのです。
 そのような態度、とりわけ集団との同一化が残っている場合、それらの態度はなお全体主義の痕跡を帯びていると言えるでしょう。

抵抗とは、そのつどの所与の事実と称されるものによって自分の法を唯々諾々と指定されない、ということです。そしてそのかぎりにおいて、この抵抗は、対象ときわめて密に接触しながら対象を乗り越えるのです。

 

 

苦悩の表現としての深さ

深さという概念のうちには、現象と本質の差異がつねに設定されています。

思弁なしには深さといったものは存在しないと思います。さもないと、実際に哲学はたんなる記述に退化するでしょう。
 たんに現状を形づくっているもの、たんに存在しているものを越える思考のこの思弁的な過剰、これこそが思考における自由という契機であり、それのみが自由を保証し、それが実際にそもそも私たちの所持している自由のわずかな断片であるがゆえにこそ、それはまた同時に思考の幸福でもあるのです。

表現に課せられているさまざまな限界を内側からこのように打ち破ることおよび私たちを取り巻いている生のファサードを打ち破ること、この二つの契機はおそらく同一のものなのかもしれません。

ゲオルグ・ジンメルが正当にもたいていの哲学者に欠けているのを嘆いていたもの、つまりまさしく、世界の苦しみ、世界の苦しさを言葉にすること、です。そして、苦悩のうちで人間が沈黙するときには神がその苦しみを口にする能力をその者に授けてくれる、というタッソーの格言は、実際のところ、詩作と哲学の一つの結びつき、一つの直接的な結びつきを示しているのです。

 

 

第一一回講義

(9)もっとも主観的なものである表現、まさしく苦しみをつうじての客観的媒介、その苦しみには世界過程の姿が含まれている。

哲[学]にとって自らの叙述は外的なものではなく、その理念に内在しているのだ。

実定的な契機、孤立させられた契機としては、表現は世界観に退化する。

表現は思考をつうじてその偶然性は免れる。たんなる直接性としての表現は悪しきもの。思考は表現においても拘束力を有する。

逆に表現は、そこに存在している主観を無視して厳密さが自立することで生じる、厳密さの物象化を矯正するものである。

(10)

ヘーゲルにおける主体と否定性の同一視ーー科学の実定性および個別的なものの偶然性に抗した同一視ーーは、経験という核をもつ。思考は、そのあらゆる特殊な内容に先立って、否定であり、抵抗である(だからこそ、努力という契機。これは思考を受容性から区別する。この点で、思考はその原像たる労働に等しい。労働もまた同時に否定的)。

(11)あらゆる論理的な操作、判断、推論には、それ自体批判的な萌芽が含まれている。論理形式の明確さは、論理形式によっては到達されないものの排除にある。

論理形式が〈ソレ自身トシテ〉主張している真理は、同一性の刻印を帯びていないものを、非真理として否定する。思考はア・プリオリに批判である。
 「暗黙の否定性」。すなわち、あるものがかくかくであるという判断は、主語と述語の関係がその判断におけるのとは別様に表現されることを、潜在的に拒絶している。

思考形式はア・プリオリに、たんにそこにあるもの、所与のもの以上を欲する。総合とは否定である。

哲[学]とは、この無意識的なものの意識である。

 

 

第一ニ回講義

(11)フッサールとベルクソンが試みながら果たせなかった、意識内在と体系からの脱出が、是非とも遂行されねばならない。
 
第二の反省をつうじて〈真ッ直グナ志向〔直行的志向=直観〕〉を取り戻すこと。というのも主観は、どのように規定された客観性であれ、客観性を前提しているからである。主観はこの客観性はもっぱら〈哲学ノ流儀ニヨッテ〉構成すべきなのである。ここで核となる議論を提示すること。自我〔我〕でありつつ、抽象。

(13)さまざまな概念の布置をつうじて概念を欠いたものを開示すること。

 

 

第一三回講義

(13)下から上への道、分析。「経験論の救出」。

経験から〈分離〉されないこと。

理論が前提とされ利用されるのは、その現在の形態が破棄されるためである。理論の消失という理想。

総合はもはや高次のものではない。「全体は真ならざるものである」。

強制的性格を無視するのではなく概念的に把握すること。

この関係性を徹底的に意識することをつうじてのみ、開かれたものを考えること。

(14)

哲学は絶対的主体として体系を産出できると思い込んでいるが、哲学は体系を客観から受け取るのである。

 

 

第一四回講義

(14)さまざまな体系のもつ、埋め合わせという目的。

体系においてはすでにその始まりが自らの不可能性と絡み合っている。それゆえ、一方が他方を食い尽くす。哲学の弁証法的歴史とは哲学自身の否定性の歴史である。

〈ラチオ〉は自らが把握しようとしているものを消失させてしまう。これが体系の二律背反である。杓子定規さはこの二律背反の傷跡である。

〔挿入12〕
質的なものについて
質的なものの量への還元ーー

しかし、まさしくこの過程は、抽象化の過程として、事象から遠のいてゆく。
それ自体において虚偽である。なぜなら、交換においては、さまざまな質的なものはたんに消失するのではなく、同時に保持されもするからである。
交換から解放された社会的な過程には、さまざまな質的なものが帰属する。
こんにちの質的なものに対する二重の態度。

それもまた社会的な仮象である。

把握されるべきもののなかの、概念の同一性を怖れて身を退けるもの、それが、隙間が何一つないことに疑いが生じないように、体系という滑稽なまでに過度の装備に概念を駆り立てるのである。

哲学はこの他者を理性のあらゆる狡知を用いて追いまわす。一方他者は、この追跡からますます遠く身を退けてゆく。

 

 

第一五回講義

(16)さまざまな体系のもつ奇矯さと杓子定規ぶりは、それらの体系について真理を告げている。すなわちそれらは、すっきり割り切れないことから生じる瘢痕なのだ。手はずを整えることで割り切りが強行される。あたかも、事物のなかの思考の手を逃れるものが、思考においてパロディ化され、思考自身の事物性として生じているかのよう。

さまざまな体系の崩壊は社会の発展と対位法的な関係にある。

体系に反対であることが、すでに当然至極となっている。
 現実はもはや構成されてはならない、とされる。なぜならその場合、現実はあまりに根本的な構成を必要とするからである。世界が抽象的になればなるほど、哲学はますます具体性を装うようになる。

体系は存在しないという言い方は、なお生が存在していると偽ろうとするものだ。体系を否定する者は誰でもなお、自由な、非アカデミックな思考の代弁者とも見える。

 

 

第一六回講義

(16)

体系とは、哲[学]がまずもって的確に判断すべき事柄について、先行決定すること。出発点の要請によって。

(17)観念論を支持するあらゆる議論に先立つ、観念論的な態度。

統一と一致とは同時に、もはや敵対的ではない宥和された状態が、支配をこととし専横に振る舞う思考の座標に、歪んで投影されたものである。

体系の二重の意味に対しては、ひとたび体系から解き放たれた思想の力を個別的な契機の規定へと移し入れる以外に、選択の余地はない。個別的なものは、私たちが所持していない全体を表わしている。

経験論が哲[学]である場合には、経験論は主観[的な]体系に向かいがち。

すなわち、カテゴリーに外からかぶせられる全体を考慮することなく、自らにおいてカテゴリーを反省すること。
 これが概念の内在的運動の意味である。
 その際もちろん体系は、そのときはじめて結晶するのではなく、舞台の裏につねにすでに存在していたのである。

諸現象のなかへの意識の、いわば意識なき沈潜。「自分自身を理解していない思想だけが真なるものである」ということで考えられているのは、このこと。自分自身を理解している思想はすでに自分を超えていて、そのかぎりで非真理。これによって弁証法は質的に変容する。
 体系的一致は崩壊するだろう。
 現象は潜在的にはもはや、当人の異議にもかかわらずへ[ーゲル]においてそうであり続けたもの、すなわち概念の例証ではないだろう。否定弁証法の課題はまずもって、この質的変容を展開すること。

思想が真に自己を外化するなら、客体自らが語りはじめるだろう。

 

 

第一七回講義

(18)

哲[学]とは何かは、現象の解釈にそくして学ばれる。
 認識論は認識の遂行から切り離しえないという、認識論に対するヘーゲルの批判(鍛冶屋は鉄を打つことで鍛冶屋となる)は、文字どおりに受け取られるべきである。

解き明かしえないものをこじ開けること。こじ開けるのは否定的、しかしヘーゲルにおけるように、反弁証法的な態度、否定の否定ではない。

思想は、自分を絶対的なものと考えているよりも、いっそう独立的になる。思想が自分を絶対的なものと考える場合には、専制的な態度と従順な態度が入り混じり、一方は他方に依存している。

(19)同一性への要求は対象を切り離すが、個別的な極への沈潜は、その契機として、対象から歩み出る自由をも必要とする。ここで求められているのはミクロロギー〔微視的探求〕だが、それが用いることのできるのは、もっぱらマクロロギー的な〔巨視的な〕手段である。
 確かに、個別的なものを実例として自分に帰属させる分離をこととする概念は、個別的なものを開示することはできない。しかし、構成をこととする思想が個別的なものに持ち寄るさまざまな概念の星座的布置(コンステラティオーン)には、それが可能。

哲学は自分自身のうちで対象をつねに動かす手立てを、対象の外部からも注入しなければならない。この点で自他を欺こうとするならば、哲学はライプニッツないしヘーゲルの予定調和の餌食となるだろう。ーー客観性が経験されるためには、主観が必要であって、主観の消去が必要なのではない。

 

 

第一八回講義

[挿入15a]どうして客観性の経験のために十全な主観が必要なのか。
主観的な性質の消去はたえず客観の還元に対応してもいる。反応のなかからますます多くのものが「たんなる主観的なもの」として脱落すればするほと、事象の質的な規定もまたそれだけ多く脱落してゆく。

主観の消去=量化。
個々の認識する主観、個人、それ自体が質的存在である。だからこそ主観が必要。
類似性という概念。類似したもののみが類似したものを認識しうるということ。
その際、偶然性という問題が残る。

しかし、この偶然性は、科学主義的な迷信が思い込んでいるほど絶対的ではない。なぜなら、特殊化それ自体のうちに、差異化〔Differenzierung 洗練化〕の進展という社会的に普遍的な原理が潜んでいるからである。ーーこの差異化はたんに主観的なものではなく、客観を捉えようと準備することで零れ落ちるものを、客観において知覚する能力である。この差異化はそれ自体客観の側から構成されている。それが目指しているのは、客観の〈原状ノ回復〉である。
その際、この差異化は誤りの可能性をもつ

それゆえこの差異化には修正が不可避。精神的経験の自己反省ということで考えられているのは、この修正である。
したがって、比喩的に表現するなら、水平的(抽象的・量化的)な客観化の過程ではなく、垂直的(時間的)な客観化の過程。

(19)それら[哲学の対象]それ自体において待ち受けているものは、自ら語りだすためには、介入(究極的には、実践的なもの)を必要としている。

外部から動因されたさまざまな力、最終的には理論を、その対象のうちで使い果たすことにある。
 哲学の理論は、自分自身の終焉を念頭に置いている。

 

 

第一九回講義

(20)

否定弁証法は公理学ではない。「支えになるものが何一つ存在しない」。

(b)足場の不動性。

(参照訳は恣意的な公理に基づいていてかまわないーー恣意と公理が相携えて進む。それに対して、自分を第一のものとして設定しないものだけが、恣意的である必要もない)。
参照枠をつうじていっさいが補足され、いっさいはそのなかに存在している。内在の意味。

ジンメルのように具体的なものについて哲学するのではなく、さまざまな概念が具体的なものの周りに集まることによって、具体的なものから哲学がなされるべき。

(21)少なくとも「一片の存在論」に対する普遍的な要求。

決定的なものはいちばん小さなものに潜んでいるということが真実なら、単純化は非真理である。

単純化は愚鈍を装うことに等しい。

 

 

第二〇回講義

(21)

否[定]弁[証法]のさまざまな認識は、動機づけられている。その位置から可能なかぎり思考すること。しかし、このことを実体化しないこと。

[挿入17a]相対主義にはそれ自体、個人主義という市民モデルがある。
「すべては相対的だ」というのは抽象的である。

特定の事象に立ち入るやいなや、その事象を専門的に扱うちに、相対主義は消えてゆく。相対主義が現われるのはいつももっぱら外部からである。

個人的と考えられている反応は、メーメーという羊の鳴き声のように、あらかじめ規定されている。

精神に対する適意は、理性という概念それ自身からのさまざまな帰結に対する防御。したがって相対主義は、教義としての絶対主義によって阻止されるのではなく、それ自身のテーゼを追求することによって解消される。

(21)それ〔すなわち、否定弁証法〕は、思考の自足性という幻想に抗して、思考を思考それ自体とは異なったものに結びつける。

真理は逃げ出しうるものだ。

 

 

第二一回講義

(a)概念は、尺度として固定されているかぎりでのみ、運動を行なう。したがって、さまざまな概念をきわめて厳密に受け取ること。概念の厳密さの要請。言葉の機能。
(b)概念は本質的にヘーゲルの「第二の自然」という形態を取る。

主観の自律性が批判的に制限されてゆけばゆくほど、客体に優位を見とめる責務はいっそう拘束力を増してゆく。この客観の優位が思想に固定的なものを与えるのであり、弁証法はそれをふたたび解消するのである。

弁証法に内在する契機として客観の優位を示すこと、それが否定弁証法の跳躍点である。

総合〔ジンテーゼ〕に対する批判。すなわち、総合は方法として主[観]と客[観]の同一性を目標に設定する。問題なのは、区別された諸契機を一緒に考えるという論理的な総合ではなく、哲[学]の最高の目標としての絶対的な総合である。

(24)ヘーゲルにおいては円環という形態がそのような総合として存在している。

したがって、必然的な総合から最高の総合という理想への自動的な進展に抗すること。

 

 

第二二回講義

ヘーゲルは確かに、多様性と統一性を相互に連関させることによって、カントに反対して総合の優位に制限をくわえている。

(25)とはいえ、思考は統一の抽象的な否定に固執してはならない。多様なものを直接的に入手できると思い込む者は、とりとめのないものをもたらす恐怖、神話にふたたび落ち込んでしまう。神話的なものとは区別なきものである。

統一は、抽象的に理解されるなら、宥和に対してと同様、さまざまな質的なものに対する抑圧にも、余地を与える。
 まさしくだからこそ統一は、その暴力を絶えず繰り返し人間にとって魅惑的なものに見せかけることができた。

主観に発する理念のもつ客観性の経験。すなわち、音楽の形式的類型。

 

 

第二三回講義

(25)総合が多なるものに加える暴力に対する、総合の自己省察。

同一性の契機において生存権を有するもの。すなわち、親和性という契機。この契機は、それによって抑圧されるとともに、それにおいて生き延びている。

(26)対象に身を委ねる思考は内容をそなえたものとなる。

哲学的努力は、すべての内容の向かい側にある形式的なものとしての主観からではなく、内容から規定されている。
 概念ならざるものはその概念と同一ではないということ、このことが、認識という実践においてその実践の内容化となる。

(27)

内容に関わる認識の可能性は、こんにち差し迫った認識論の問題である。

(28)

すなわち、哲学的経験は、この普遍的なものが現実的に、事実的に優位であることを知りながらめ、それを自分に存在原理として、したがって存在論的に与えることはできない。不安は社会的に普遍的なものであって、精神状態などではない。

弁証法は、その対象の否定性のゆえに、否定的なのだ。

(29)

思考は、強制と恣意の弁証法に気づくことによって、このような事態を乗り越える。

[30]

すなわち、社会的総体性としての全体を弁証法的に構成する原理と事象に盲目的に身を委ねる原理は、どちらにも解消されない形で進む。

 

 

第二四回講義

内容の優位は、必然的に、方法の不十分さとして示される。

哲学の理想とは、自分が行なうことについての釈明が、現にそれを行なうことによって余計になる、ということである。

[31]

客観性の諸契機はあらゆる決断のなかに浸透している。ーー最小限のものとしての決断。

 

 

第二五回講義

[31]決断はキルケゴールに由来している。彼において決断は信仰と関わっていて、信仰なしには決断は宙ぶらりんになる。

行為のための自由な事行という、フィヒテ的観念論への後退。

客観性に対する無頓着さ、すなわち政治的な状況における判断の素朴さ。政治的な状況は行為へのたんなるきっかけに過ぎない。
 この態度は非合理性へと運命づけられている。

実存主義は、すでにその名称において、人間のたんなる現存在を二重化している。
あたかも、実存するのとは別の選択肢を現存在が有しているかのような態度がその心情となる。
ーー意味は、その不在のゆえに、同語反復となる。

[33]〈現実存在スル〉exsistereという語の派生語をスローガンに掲げるものは、身体的な経験や自己経験といった現実、役割とは別の自己存在といったものを、疎外された個別科学に抗して、回復させようと願う。物象化に対する不安から、事象的なものから身が退けられる。

主[観]と客[観]の分離は、たんなる思考の行為によっては廃棄されえないし、人間に訴えることによっても断じて廃棄されえない。

概念に身を委ねるのを拒むものを、その概念のもとに包摂することで同化させたり、揮発させたりするのではなく、概念をつうじて非概念的なものに付き従うこと、それがなされねばならないだろう。

[34]私が考えている手続きの、遠い原像となっているのは、事象をカテゴリーで覆うのではない名前であるーーただし、その際名前は認識の機能を代償として失うのだが。
 切り縮められることのない認識は、それを断念するよう教え込まれてきたもの、名前がそれを所持することで暗く覆い隠してしまう当のものを、欲する。断念と幻惑はイデオロギー的に補完しあう。ーー「それを口にすること」ーー(何カモ知ラナイデソレヲ口ニスルコト〉
 叙述の重要性とは、語の選択に神経質なまでに厳密であろうとすることであるーーあたかもそれらの語が事象に名前を与えるべきであるかのように、それらの語が事象の名前であるかのように。その「このもの」はそれ自体において概念によって媒介されているのだから、言葉はこの媒介を手始めとすることができる。
 言葉はその不透明なものに近づく。

哲[学]は肯定的なものをある否定的なものから汲みだす。すなわち、哲学がそれに対して敗北を認め、観念論がそこから逃げ出すあの解きほぐしえないもの、それが「別様ではないかくかくのあり方」においてはまたしてもやはり一つの物神、撤回不可能な存在者という物神となる、という事態から、哲学は肯定的なものを汲みだす。
 この物神は、端的に「かくかくであって別様ではない」のではなく、さまざまな条件のもとでそのようになったのだ、と証明されることで解消される。
 この生成は事象のうちに内在しているのであって、概念に固定的に設定されたり、[35]結果から切り離されたり、忘却されたりしてはならない。
 この点に、観念論的弁証法と唯物論的弁証法のアナロジーが存在する。
 観念論にとって、直接的なものの内的な歴史は、そのつど直接的なものを正当化する。

さらなるメモ書き

[35]否定弁証法の力は、事象において実現されていないもののもつ力である。
 言葉に戻って。名前がその理念からすれば事象それ自体であるのに対して、語はしかし概念にとどまる。
 語と事象それ自身のあいだには空隙。
 これに対応して、語の選択にも叙述全般にも、相対性と恣意性の残滓が存在する。もっとも厳密な語であってもしかし、自分自身と同一ではない。

さまざまな概念のみが、当の概念が妨げていること、〈傷ヲ付ケテ癒スコト〉を実現することができる。

概念には規定可能な欠陥がそなわっている。
このことが、他のさまざまな概念による党の概念の修正にむかわせる。
名前のもつ希望は、諸概念からなる星座的布置に存している。この布置は、概念を訂正するために、一つ一つの概念を自分のまわりに取り集める。
限定的否定をつうじて哲[学]の言葉は名前に近づいてゆく。

[36]

論争もまた、新たな作用連関ではなく、一つの形式である。
 まさしくこの点に、根拠づけられた自発性の過剰さがある。

直接的なものと思い込まれている主観性。純粋な現在という理想は、時間のことを考慮すると、空間との関連で感覚を考慮することに対応している。

ベーコンとデカルトの類縁性。

[37]

伝統は記憶としての認識に明確に関与している。過ぎ去ったものの保持なくしては、いかなる認識も、形式論理的な認識でさえも、存在しない。カントの演繹。

時間内的に進行する、動機づけられた運動としての思考形態は、ミクロコスモスとして、マクロコスモス的な歴史の運動と等しい。
思考とは歴史の内面化である。

無時間性が意識の幻惑の頂点である。
これが、自律性というモティーフの真の限界である。

[38]
ーー他律性は自律性の抽象的な対立物である。

テクストにそくして哲[学]は伝統と通約可能となる。

哲学は象徴も象徴されているものも実体化してはならない。
真理とは立ち現われるものであり、それは聖なるテクストへの関係を世俗化すること。

哲学の最近の歴史のなかではこの本質はレトリックとして追放されている。

[39]

レトリックは叙述という要請のうちに生き延びている。叙述は、その形式には無頓着な、伝達のために固定された内容とは対照的である。

思考におけるミメーシスに対するタブーの規範は、形式論理学である。

哲[学]から言葉を廃棄しようとする傾向(すなわち哲学の数学化という傾向)に、哲学における言葉の努力は対抗する。ーー言葉による経験がたいていの哲学に欠如していることの指示。

言葉の傾斜にただただ従うのではなく、反省をつうじてそれに抵抗すること。
しまりのない言葉と学問的身振りは手を取り合って進む。

[40]哲[学]における言葉の廃棄は思考の脱神話化ではない。 
 言葉を放棄するとき、哲[学]は、たんなる記号作用とは異なった自らの対象に対する関係を有しているものを、放棄する。
もっぱら言葉としてのみ、類似したものは類似したものを認識することができる。

言葉は道具、慣習であるが、恣意的なものではなく、類似性という契機をふくんでいる。

言葉は、思想と事象のあいだで両者を分離させるものであるとともに、この分離に抗して動員されうるものでもある。
 これが言葉の分析(意味の分析)としての現象学の真理契機である。
 表現の正確さは、思考の欠陥と見えるもの、すなわち言葉との連[関]を、我がものとする。

[41]可能性の意識であるユートピアは、歪められていないものに固執する。

一片の現存在である思考は、この可能的なものに仕える。

すなわち、唯一はじめて近いものであるような、もっとも遠いものという一点において。

補填
(1)[1]精神的経験の理論について

ヘーゲルの試みが失敗したあとでは、弁証法的な思考がどのようになされるべきか、釈明されねばならないだろう。

とはいえ、観念論は弁証法の特殊な形態だったのではない。むしろ弁証法は絶対的な主観の優位と結びついていて、その主観の力が概念のそのつどの個々の動きを、また総体としての弁証法的歩みを、否定的に引き起こすのである。

(2)端的に無規定的なものとしての存在が無と同一視されるのは、その無規定的なものが無規定性に置き換えられること、したがってすでにある概念的なものに置き換えられることによってなのである。ヘーゲルはこうしてあらかじめ概念の優先性を確保しておいて、そののちにこの優先性をあたかも作品総体の結果として生じさせるのである。これは彼がやる悪ふざけの一つである。

内容にそくしたヘーゲルの哲学が基盤とも帰結ともしていたのは、主観の優位、あるいはヘーゲル論理学の導入部での考察におけるよく知られた表現では、同一性と非同一性だった。一定の個別的なものが精神によって規定されるのは、その個別的なものの規定がまさしく精神だからである、とされる。

(3)ヘーゲルの強調とは反対に、観念論的な装置によっては言い表わすことのできないさまざまな経験を隠しているのかもしれない。

概念が[4]切実なものとなるのは、概念が到達しえないところにおいてであって、概念の抽象化のメカニズムが切り捨てるもの、最初から概念の実例であるのではないものに直面した場合である。

フッサールは確かに、本質に気づくというあり方を、一般化をこととする抽象化に対して鋭く際立たせた。

その一方で、その経験が向けられている本質は、(4)通常の普遍概念と何ら異ならなかった。本質直観の取り組みとその〈到達目標〉のあいだの非弁証法的な矛盾に、彼は陥ったのである。
 両者の脱出の試みが不十分であった原因は、両者が観念論を抜け出せなかったことにある。

概念の優位とは超越論的な〈自我〉の優位にほかならない。両者が空しく意図していたことが、両者に抗して固執されねばならないだろう。哲学において肝心なのは、ヴィトゲンシュタインとは反対に、語りえぬことを[5]口にすることなのである。

哲学的自己反省という作業はこのパラドクスに向けられている。

概念は自己自身を乗り越え、すなわちあらかじめ準備して切り捨てるという自らのあり方を乗り越え、そのことによって概念を超えたものを把握しうるということ、そのようなことが哲学にはなお可能だということ、このへんの信頼のどんなに疑わしい残余であれ、哲学にはそれが不可欠である。

しかし、概念の抽象的な領域を超えて、概念をつうじて真理として出会われるものは、さまざまな概念によって抑圧されたもの、投げ捨てられたもの、侮蔑されたもの以外を舞台とすることはできない。認識のユートピアとは、概念を用いて、概念に同一化することなく、概念を欠いたものを開示することだろう。

〔5)

むしろ哲学は、異質なものを既成の概念に組み込むのはなく、自分にとって異質なものに、見せかけではなく文字どおり、沈潜しようとするのである。哲学はその異質なものにできるだけ密着しようとする。

どこであれ哲学的内実を掴み取ることができるのは、それが哲学によって強要されることがないところにおいてである。哲学は本質を自らの有限な諸規定のうちに呪縛することができるなどという幻想は、捨て去られるべきなのである。

伝統的な哲学は自分の対象を無限なものとして保持していると信じ、そう信じることで哲学としては有限なもの、完結したものとなるのである。

あらゆる個別的なものや特殊的なものが、そのものとしては繰り返し哲学の手をすり抜けるあの全体を、ライプニッツのモナドのようにーーただし予定調和に従ってたが、それ自体のうちに映し出しているという、保証のない期待である。(6)

認識はその対象を何一つ丸ごと所持しているのではない。認識は全体という幻影を用意してはならないが、あくまで認識において真理は結晶するはずなのだ。したがって、作品と概念のあいだに同一性を作り出し、作品を概念のうちに取り込んでしまうことが[7]、芸術についての哲学的解釈の課題などではありえない。むしろ、作品は哲学的解釈のうちで自己を展開するのである。

原理的に哲学はつねに道に迷う可能性をもつのであって、だからこそ哲学は何かを獲得する可能性をもつのである。

概念が排除してきた事象の代弁、すなわちミメーシスという事象の代弁を概念が果たしうるとすれば、それは概念が自分自身の振る舞い方のなかにミメーシスのいくらかを獲得することによる以外にはありえない。

[7a]自分自身のうちで反省を行なう素朴でない思想は、自分がこの契機を完全に所持していないにもかかわらず、あたかも完全なるに所持しているかのようにつねに語らねばならない、ということをわきまえている。だからこそその思想は、遊戯的なものという特徴を帯びるのであって、思想はこの特徴を否定ることができない。

芸術の仕事において、直観が不気味な稲妻のように孤立した形でうえから不意打ちすることは、ほとんどない。直観は、見とおせない形で、作品の形式法則とともに育ってきたのである。直観を取り出して標本にしようとすれば、直観は限界値以上のものを提示することはないだろう。

芸術を模倣しようとする哲学、自ら芸術作品であろうとする哲学は、それだけで救いがたいものだろう。

芸術と哲学が共通点を有するのは、形式や形象化の手続きにおいてではなく、偽りの結晶体を禁じる振る舞いにおいてである。

哲学の使命とは、概念が何らかの形ですでに事象を所持しているという錯覚に譲歩することなく、概念をつうじて概念を乗り越えてゆこうとする努力することである。

ヘーゲルが見逃すことがなかったとおり、深さもまた弁証法の一契機であって、孤立した性質のものではないのだ。

神学的な〈到達目標〉はすりかえられる。あたかも、思想の尊厳を決定づけるのはその帰結、すなわち超越の確証であるかのように。あるいは、まるで世界からの撤退がただちに世界根拠の意識と一つであるとでもいうように、内面性への沈潜、つまりたんなる対自存在が、思想の尊厳を決定するかのように語られるのである。

このような幻影に対する抵抗こそが、深さの尺度であるだろう。現存のもののもつ力は意識を跳ね返すファザードを築き上げる。

(9)自分が手に入れることができるものを超えた、思想の思弁的な過剰さ、それこそが思想の自由である。この自由は、あらゆる真理の条件である主体の表現衝動に、すなわち苦しみを雄弁たらしめようとする欲求に、根ざしている。というのも、苦しみとは主観にくわえられる客観性の重圧だからである。自らの表現という、主観がもっとも主観的なものとして経験するものは、客観的に媒介されているのである。

すなわち、哲学に不可欠の表現契機、非概念的ミメーシス的契機が外化されるのは、叙述ーー言葉ーーをつうじてのみなのである。哲学の自由とは、自らの不自由さが言葉になるのを手助けする能力以外の何ものでもない。
表現契機がそれ以上のものと思い上がるなら、それは世界観へと堕落する。

受動的な直観の敵対者である思考という概念それ自体のうちには、努力ということが内包されているのであって、この努力はすでにして思考のもつ否定性であり、受動的に受け取るよう自分に求めてくるあらやる直接性に対する反抗である。

或るものがかくかくであるという判断は、主語と述語の関係がその判断[13]に表われていると違ったものであることを拒んでいる。これらの思考形式はたんに存在するもの、[所与のもの]以上のものを望んでいるのだ。

思考は自らの総合作用を行使しつつ対象に暴力をくわえながらも、同時に自らの向かい側に潜んでいる潜在的なものに付き添い、自分自身が打ち砕いてしまった断片に関して〈原状ノ回復〉という理念に無意識のうちに従っているのである。この無意識的なものが哲学によって意識化されるのだ。なぜなら、たんに存在するものに対する思考という行為の抵抗、主観のこの暴力的な自由は、客観のうちに存在している、まさしく客観へと整除されることで客観から失われてしまった当のもののことをも、考えているのだからである。

さまざまな概念のほうこそが、その星座的布置(コンステラティオーン)のうちに概念を欠いたものを開示するために(13)、取り集められねばならないのである。

現行の形態での理論を廃棄するためにこそ、理論は前提にされ利用される。理論の消失こそ、変容された理論の理想だろう。覆われていないものへの志向性は、開かれた弁証法、ないしは未完結の弁証法という志向によって示される。

開かれたものは、閉鎖された状態、転倒されたあり方を徹底して意識することをつうじてのみ、思考されうるのである。

丸川体系とは肯定的な主観ではなく[16]否定的な客観性なのである。

〈ラチオ〉は、体系として自己を貫くために、自分の関係するものの質的な諸規定を潜在的に取り除き、客観性と和解不可能な敵対関係に陥る。

もはや現実は構成されてはならない、なぜなら現実はあまりに根本的に構成されねばならないだろうから、というわけである。

存在するもの以上のものを現象のうちに認めるまなざし、しかもその現象がもっぱら存在することによってそのようなものを認めるまなざし、それこそが形而上学を世俗化させるのだ。哲学が最終的に行き着く断片という在り方が、観念論によって幻想的的に思い描かれているモナドをはじめてそれ本来のもの、すなわちそれ自体として表象しえない総体性の、特殊的なものにおける表象とするだろう。

[21]対象と一体化しているなどともはや欺きはしない。そのような思想は、自らを絶対的と思い描く場合よりも、いっそう独立的となるだろう。自己を絶対化する思想においては、専制的な態度と従順な態度が混ざり合い、一方は他方に依存しているからである。

対象自身のうちで待ち受けているものが語り出すためには、介入が必要なのだ。その介入の意図はあくまで、外部から動員された諸力が、最終的には現象に持ち寄られたすべての理論が、対象において自分を使い果たすことである。哲学の理論は、自分自身の終焉を念頭に置いているのである。

目眩を引き起こすものとは開かれたものが与える衝撃であって、覆われたもの、つねに同一のものにおいては、開かれたものはつねにそのような否定性、すなわち真ならざるものにとっての非真理として、必然的に現われるのである。

具体的なものについて哲学がなされるべきではなく、具体的なものの周りに概念が集まることによって、具体的なものから哲学がなされるべきなのである。

哲学は自分を種々のカテゴリーへと向かわせるのではなく、ある意味でまずもって自分を構成〔作曲〕しなければならない、ということになるだろう。

不動の根本原理を支えとするのではない思考は、総合という概念に鋭く対立する。

ヘーゲルの総合は徹頭徹尾、この運動のもつ不十分さへの洞察である。

ヘーゲルは、カントに抗して、総合の優先性に制限をくわえた。彼は多様性と統一を、一方なしには他方もありえない契機として認識した。両者の緊張は否定をつうじて生み出されるのである。

統一的思考の自己批判的な転回は、概念を、したがって総合を必要としているのであって、好き勝手に振る舞えるかの態度でそれらを中傷してはならないのだ。

統一を乗り越えるのは統一のみなのである。

開かれた認識は、統一化する主体は廃棄はしない。客体の経験においてそのような主体は消え去りはしないのだ。(26)主体自身の総合が欲しているのは、プラトンがよく心得ていたとおり、自分自身から総合を望んでいるものを、間接的に、すなわち概念を用いて、変容し、模倣することなのである。

非概念的なものはその概念と同一でないということが正当に評価されるのは、認識の実践によってであり、その認識が具体化されることをつうじてである。

とにかく存在論があるとすれば、すなわち一つの不変なものがあるとすれば、それは打ち続く敵対関係に関する否定的な存在論だろう。

「自分自身を理解していない思想だけが真なるものである」。

しかし、特殊的なものの救済は、特殊的なものから解き放たれた普遍性なしには、そもそもはじまることもないだろう。

内容の優位は、方法の必然的な不十分さとして現われるのである。哲学者たちの哲学を前にして無力に陥らないために、普遍的な反省という形態で方法として語らねばならないこと、それが正当化されるのはもっぱら遂行においてであって、このことによって方法はふたたび方法としては否定される。

主観と客観の分離はたんなる思考の行為によっては廃棄されえないし、まして人間への還元によっては到底廃棄されえない。

断念と幻惑はつねにイデオロギー的に補完しあうのだ。あたかも言葉が事象に名前を与えるべきだというように、認識を果たす語の選択に神経質なまでに厳密であること、それは、哲学にとって叙述が外的な媒体ではなく本質的なものであることの、きわめて重要な根拠である。

認識上の根拠は、〈個物〉自身の弁証法的本質、〈個物〉がそれ自身において概念によって媒介されていることにある。この媒介が、〈個物〉における非概念的なものを把握する、出発点なのである。
 存在しているもののうちに潜んでいる概念的なものに気づくことによって、認識は不透明なものに潜在的に到達する。

哲学の言葉は名前を否定することによってなまに近づくのである。

主観性の直接性と言われれるもののうちにあらゆる認識の基盤を見て取ろうとしはじめて以来、同様に現在を直接性とする呪縛のもとで、思想からその歴史的な次元を追い払おうとする努力がなされてきた。

客観化し静止状態に置くことによって対象を〈白紙〉にしたとたん、認識は対象を歪ませているのである。認識それ自体、すなわち内容から独立した形式としての認識でさえも、自覚されていない記憶としての伝統的さに関わっている。その問いのうちに過ぎ去ったものについての知が蓄えられたり、推し進められたりしているのでないなら、いかなる問いも問われることすらないだろう。

伝統への〈関与〉が果たされるのは、哲学が批判するテクストによってなのである。

思想が自分の基体を使い果たすところ、聖なるテクストの取り戻しようのない原像を世俗化するところ、そういう場所で解釈は真なるものを探すのである。

哲学と科学の同盟が潜在的には言葉の廃棄に行き着くのだとすれば、哲学が生き延びることができるかどうかは言葉にかかわる努力と密接に関係している。それは言葉の傾斜に盲目的に従うことによってではなく、それを反省することによって果たされる。

すなわち、もっぱら言葉として、類似したものは類似したものを認識しうるのである。

弁証法は、歴史的には思考の欠陥と見えたもの、何ものも完全に断ち切ることができない言葉との結びつきを、思想の力として我がものとするのである。どんなに素朴であれ、語の分析によって真理を確保しようとしたとき、現象学に魂を吹き込んでいたのは、このことだった。

論理的な契機が形式的な傾向に従うのに対して、弁証法においてレトリックという契機はら弁証法の内容に加担する。

だからこそ、現存のもののただなかでは可能的なものは抽象的に見える。消すことのできない色彩は存在しないものからやって来る。一片の現存在である思考は、この存在しないものに仕える。そのような思考は、どんなに否定的な仕方においてであれ、この非存在に到達するのである。(40)この理念において、もっとも遠いものを携えたすべての哲学は収斂してゆく。もっとも遠いものにしてはじめて近いものであるだろう。哲学は受容するプリズムである。

編者註

「というのも、事柄はその目的に尽きるのではなく、その遂行において存在しているのであって、結果は現実の総体ではなくその生成と一つだからである。それ自体として見るなら目的は生命を欠いた普遍的なものであって、それは傾向が自らの現実性をいまだ欠いたたんなる衝動であるのと同様である。そして剥き出しの結果とは、その傾向を背後に置き去りにした屍である」〔ヘーゲル『精神現象学』〕

アドルノの哲学を規定したいたのは「自然支配および自然支配をこととする理性への批判というモティーフ、自然との宥和というモティーフ、自然の一契機としての精神の自己組織というモティーフ」『キルケゴール』だった。

「自然を破棄することによって自然の強制を打破しようとするあらゆる試みは、ひとえにますます深く自然な強制のなかへはまり込んでゆく。ヨーロッパの文明の道筋はそのように歩んできた」『啓蒙の弁証法』

支配に対する批判は、アドルノが語ってきたすべての思想の動機である。支配がそもそも自然支配というモデルに従って形成されてきたとすれば、自然支配はつねに第一に人間自身の自然〔本性〕の支配を意味していた。自然支配の原理は、自己保存という原理から切り離すこともまったく不可能である。

アドルノによればこの本質は「もっとも洗練された姿」で、一見すると「純粋に論理的な同一性原理」と思われるものにまで、浸透している『啓蒙の弁証法』。

「精神それ自体が無化された自然的な生であって、神話に捕われているのである」『キルケゴール』

「生きている実体とは、真実には主体であるところの存在、あるいは同じことだが、それが自己自身を定立する運動、あるいは他となることを自分自身と媒介するものであるかぎりにおいてのみ、真の意味において現実的であるような存在である。生きている実体は、主体としては単純な否定性であり、まさにそのことによって単純なものの分裂であり、あるいは、この没交渉な区別とその対立をふたたび否定するところの、対立した二重化である。根源的な統一そのものや直接的な統一そのものではなく、このような自己を再興する同等性ないし他なる存在における自己自身への反省、それが真なるものである。『精神現象学』

「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」ヘーゲル『法哲学講義』

自由と理性はたがいに相手なくしては無意味である。

「言葉それ自体は、真なるものの指標ではないが、しかしやはり虚偽なるものの指標ではある」『三つのヘーゲル研究』

体系はつねに、新しいものに何の余地も残さないほど閉じたものであらねばならないのだろうか。

「存在するものを概念において把握すること、それが哲学の課題である。」ヘーゲル『法哲学講義』

「思考は実践に対して自己充足しているのです」。

「ヘーゲルの哲学は、あくまで哲学にとどまるためには、この自己意識に達することを断念しなければならなかったのだ」『三つのヘーゲル研究』

「思考は一つの行為であり、理論は実践の一形態である。純粋な思考というイデオロギーのみがこのことを欺くのだ。思考は二重の性格を有する。すなわち、内在的に規定され厳密であるとともに、現実のただなかで実際の行為様式の一つであるというあり方を避けがたく有しているのである」。

「論理を最終的に言葉に置き換えること」『認識論のメタクリティーク』

「むしろ自然支配を即自存在と取り違えるという科学のあやまりが、さまざまな思想の収斂という、科学の誤謬を訂正する経験を動機づけているのである」『否定弁証法』

「世界の客観的解釈が開示されるところまで、このようにして現実的なもののすべてに深く入り込むことが必要だという意味で、現実の世界はおそらく一つの課題なのだろう。このような沈潜が課題であることに照らせば、モナド論の思想家が微積分学の創始者であったことは、何ら謎めいたことではないと思われる」『ドイツ悲劇の根源(上)』

「ヒューマニティについて語るとき、われわれは、啓蒙の光が差し込んでいたあの市民の部屋の狭さを、忘れてはならないのだ」
〔ベンヤミン『ドイツの人びと』〕

アドルノが哲学的な意味で直観という概念について語る際、つねに本質的にベルクソンの直観概念が念頭に置かれている。

「記憶の機能は媒介的、記号的なものであって、記号なしで生じる認識という、ベルクソンが要請している意味での直観では決してない」。

一九世紀の科学哲学が忘れてしまった契機、認識のための規制されていない経験という契機を取り戻したベルクソンの功績は認めつつも、アドルノはやはり直観主義を強く批判した。

「このような経験を科学と区別するのは、より高次の原理や道具立てではない。この経験を科学から分かつもの、それは、それ自体として見れば何ら科学と異ならない道具、とりわけ概念という道具の使い方の違いであり、また客観性に対してとる態度の違いである。このような経験において、ベルクソンが直観と呼ぶところのものが否認されてはならないが、同様に実体化されてもならない。社会化され組織化された生活が拡大し、硬化してゆけばゆくほど、さまざまな概念や秩序づける形式と絡まり合った直観は、その正当性を高めてゆく。だがだからといって、この直観という行為が、存在論的深淵によって論証的思考から分け隔てられた、認識の絶対的な源泉を形づくるわけではないのである」
『認識論のメタクリティーク』

「理論家にとっては論理的矛盾にほかならないが、芸術家たちにとってはお馴染みのもの、そのようなものが芸術家たちの仕事において展開される。すなわち、芸術家はミメーシス的契機を自由に取り扱うのである。彼らの振る舞いは、この契機のもつ、恣意に抵抗するあり方を呼び集め、その効力を失わせ、救出する。恣意に抵抗するものにおいて恣意を発揮すること、それこそが芸術の生命の基本であって、これを果たしうるかどうかは、そのような運動が宿命的であることが露わに保たれていかぎりは、芸術の能力を判定する信頼に足る基準となる」『美の理論』

「すなわち、現在の状況においては、別様ではないかくかくのあり方の人間それ自体が、歴然とした倒錯したありさまにもかかわらず虚偽の生を永遠化させようとする、文字どおりイデオロギーであるのだ、と」

「われわれは、すべての人間の知の絶対的な第一原則、端的に無制約的な第一原則を、探求しなければならない。絶対的な第一原則であるべきだとすれば、この原則は証明されることも、規定されることもできない。この原則が表現すべきは事行であって、この事行は、われわれの意識のもつ経験的な規定のもとでは現われず、また現われることができない」

「自我は根源的に端的に自分自身の存在を定立する」

『フィヒテ全集 第四巻 初期知識学』

「[……]認識という道具をわれわれが最初に探求すべきだ、というのはもっともらしく思われる。それは、泳げるようになるまでは水に入りたがらなかった、〈学者先生〉が語る話である。認識を探求するとは認識を認識することだ。しかし、認識することなしに認識したいと望むなどと、言うことはできないのである」〔ヘーゲル『哲学史講義下巻』

暗示されているのは「相同性という古くからの原理であって、[……]、それによると、類似のものは類似のものによってのみ認識されうる。この原理は最初にバルメデスとエンペドクレスによって提されて以来、哲学から完全に消え去ることはなかった」『エンアデス』


ミメーシス的衝動はますます生き延びることが許されなくなっている。情動的な知性や神秘への近頃の関心には、この抑圧されたものが発言を求める動きが認められるが、その実現となると周辺的なもの、たんなる私的なものにとどまっていて、不透明な非合理主義へ逸脱している場合もしばしばである」

「普遍的なものを平均的なものとして示すのは、転倒した試みである。普遍的なものは理念なのである。それに対して、経験的なものがいっそう深く突きとめられるのは、それがいっそう厳密に極端なものと見なされうる場合である。概念はこの極端なものから現われる。

「あらゆる意識はあらかじめ利害関心によって条件づけられており、たんなる意見とされます。真理という理念自体は希薄化され、これらの意見から構成されるべき視点となります。そして、それもまた一つの意見、自由に浮遊する知識人の唱える意見にすぎない、という反論からこの立場を守るすべはないのです。このような普遍的な拡張をつうじて、批判的なイデオロギー概念はその意味を喪失します。親愛なる真理を讃えて、あらゆる真理はやはり意見にすぎないとされるのですから、真理という理念は意見に屈服します。社会は理論によってもはや批判的に分析されるのではなく、実際にますますそうなりつつあるもの、何の導きもない偶然的なイデアと力のカオスとして、是認されるのですーーそれらの盲目的な力は、全体を没落へと駆り立てているのですが」『介入』

ある意味においては実際にその外部にはもはや何一つ存在しないのでもあって、この全面的媒介と関わりのないものは何一つ存在しないのだ。それゆえ、この領域に捕われたものはそれ自身が自らの他者となる。これこそ観念論の根源的なあり方である。人間の直接性および人間関係の直接性のすべての契機を社会化の過程が容赦なく我が物としてゆけばゆくほど、張り巡らされたこの網が生成したものであることを想起することはますます困難になってゆき、これは自然なのだという仮象はますます抗しがたいものとなってゆく。人間の歴史が自然から遠ざかれば遠ざかるほどこの仮象は強化される一方で、自然は拘禁状態を示す抗しようのない比喩となる」『否定弁証法』

自然と歴史の関係ないしは神話と歴史の関係を批判的に規定すること、それがアドルノの哲学の中心的な意図となる。

人間の自由と呼びうるものが生じるのは、もっぱら自然の強制力を打破しようとする人間の試みにおいてのみなのである。この自然の強制力が黙殺されるなら、すなわち、世界が純粋な人間存在の織りなすたんなる形成物となるなら、歴史のそのような全面的な人間化のなかで自由は失われる。自由はもっぱら存在物からの抵抗において展開されるものだからである。

「志向の客体は彼[すなわち、サルトル]にとって原理的に意識の外部にある、つまり超越的である。超越的なものがたんなる現象的存在を有するにすぎず、内在的なものは絶対的な存在を有すること、このことをフッサールが強調しているのに対して、サルトルはあらゆる種類の内在主義に反感を抱いている。イメージ Bildは意識内容であることをやめる。それはもはや意識のうちにはない。イメージは意識の志向構造へと姿を変え、この構造は一つの超越的な客体に関係づけられる。いまやこの超越が意味しているのは、まさしく『外部にある』ということである。[……]これがサルトルである。

『認識とは、何ものかへ向けての爆発である』。

『結局のところ、すべては外部にある。すべてが、われわれ自身でさえも、外部に、世界のなかに、他のものとともに』

「無から始まる選択、無に抗する選択といった選択は何も選択しないことであって、選択としては消滅するだろう。存在するのは現象的な選択のみなのである」〔サルトル『存在と無 Ⅲ』

「存在は概念によって媒介されており、したがって主観によって媒介されているが、同様に主観もまた逆にそれが生きている社会によって媒介されている。だからこそ、その決断も無力でたんに内面的なものとなるのである。このような無力さのゆえに、事物めいた悪逆非道が主観に対して勝ちを占めることになるのだ」『否定弁証法』

『否定弁証法』の「認識とは〈傷ヲ付ケテ癒スコト」である」

『判断の意味の発生を明らかにするということは、いっそう詳しく言うと、明々白々な姿で存在している意味のうちに潜在的に含まれていたり、それに本質的に属していたりするさまざまな意味の契機を解きほぐす、ということにほかならない。何らかの〈構成〉や〈発生〉によって作られた生産物であり判断に関しては、その構成と発生について問うことができるし、また問わねばならない。まさしく以下のことは、それらの生産物の本質特性をなしているのである。すなわち、それが意味であるということ、しかもその意味は自らの発生という潜在的な意味の一種の歴史性として自らのうちに担っているということ、また、それらの生産物においては意味が段階をなしていて、根源的な意味とそれに属するノエマ的志向性を振り返って指差しているということ、したがってわれわれは、どんな意味形成体であっても、それにとって本質的な意味の歴史を問うことができる、ということである』。

「あらゆる判断はその意味からして自分自身の発生を自らのうちに保持している」というこのフッサールの思考の意義は、アドルノの思考にとって、いくら評価しても足りないほど大きなものなのである。


編集あとがき

「徳というものをその不変の要素、したがって抽象的なもの」に還元しようとする。

抽象化こそ、あらゆる方法、とりわけ概念形成が用いねばならない振る舞いである。そのつど扱われている特殊的なものを視野の外に置いて、それを操作可能なもの、すなわち支配可能なものにすること、である。方法に従う者や論理学者は、このようにして普遍的なものを特殊的なものの他者、有限なものの他者、現に存在しているものの他者として扱うことができると考えているが、それはあまりに不当なことである。数学は巨大な同語反復であって、「数学の全能の支配はやはり、数学がすでに準備したもの、数学自身が作り上げたものに対する支配に限られている」。それと同様に、方法がつねに関わっているのは自分自身であり、もっとも希薄なもの、抽象的なもの、いわば世界の残り滓である。

出発点において客観が主観に拠っているように、客観はそのようなあり方でしか存在せず、客観は依然として主観の支配に従属している、と観念論は主張した。

すなわち、彼がもとめている「方向転換」は「込み入った弁証法的な仕方で、経験論の救出もまた意図しているのです。つまり、ここでつねに原則として重要なのは実際、下から上への認識であって、上から下への認識ではありません。肝心なのは自分自身を対象に委ねることであって、演繹ではないのです。」

〈前モッテ感覚ノ内ニ内在シナイモノハ知性ノ内ニ存在シナイ、知性ソレ自身ヲ除イテハ〉。経験が精神的経験となるためには、精神は経験されたもののなかに浸透し、それを乗り越えなければならない。そういうわけにはいかないことをアドルノはヘルダーリンとともに心得ていた。

アドルノの否定弁証法をデリダの言う意味での「差異の哲学」になぞらえることはできない。

事象とその概念はもはや一致していず、後者を前者の内容だなどと言い立てることは不可能である。「事象それ自体」は否定弁証法にとって「断じて思考の産物」ではなく「むしろ同一性を潜り抜けた非同一的なもの」『否定弁証法』なのである。

「必要となるのは、意識がすでにカントの教えに従っていわば自動的に、無意識的に行なっている同一化よりも、いっそう持続的な影響をもった主観の反省である。

「認識のユートピアとは、概念を欠いたものを、概念に同一化することなく、さまざまな概念によって開示することであろう」『否定弁証法』

したがって、現実を確定的なものとして分類し静止させているさまざまなカテゴリーを、新たなもののためにふたたび開こうと試みるのである。

星座的に布置ないし配列する思考という思想は、アドルノがもっとも時間をかけて、もっとも集中的にもとめつづけた思想の一つである。

普遍的な概念は、認識されるべき存在者から最良のものを、すなわち、その個別者の特殊性をそのつど形づくっているものを、切り捨てる。道具として扱いうるように、概念はそれが扱っている事物から、それらが他の多数のものと共有している抽象的なものだけを残しておく。

アドルノの哲学の唯一の対象は「一回性」ないし「具体的な歴史的事実」だった。

星座的布置な体系ではない。すべてが固定されているのではないし、すべてがその布置に編入されているのでもない。それでいて、それぞれの契機は他の契機に光を投げかけていて、個々の契機が形づくる図像は明確な記号であって、読み取ることのできる文字なのである」『三つのヘーゲル研究』

二〇〇二年九月二四日

 

『アドルノ 否定弁証法講義』T・W・アドルノ/著、細見和之・河原理・高安啓介/訳より抜粋し引用。

 

 

対象を拡大するもの = 概念

 

 


第六回講義 存在と無の概念
一九六五年一一月ニ五日

メモ書き

無限に延期された実践はもはや哲学に対する異議申し立ての審級ではない。ーーなぜそれが起こらなかったのかについての熟慮、それが哲学である。そこには社会についてのもっとも進んだ洞察が含まれている。枠組みではない。

哲学の同一性要求は、決定的なところ、実践への移行というところで、失敗したがゆえに、哲学は根本的な自己批判を必要とする。田舎臭さから離脱すること。

哲[学]は可能かということは、弁証法はなお可能かということ。

状況ーー思想は哲[学]へと引き戻される。さらに、こんにちでは、小休止を差し挟むことのみがその可能性を保持している。

世界が変革されたなかったのは、あまりに解釈されてこなかったからでもある。

存在と思考の同一性という要求は異議に曝された。仮に哲学と精神が同一であるなら、世界は有意味であることになるだろう。
 大局的には、世界が理性的で有意味なものとはもはや主張できなくなっているがゆえに、思想はそのもっとも深い内[奥]にいたるまで現実の現実の歴史に脅かされている。

(2)存在と無の同一性について説くために、存在は無規定なものとして、無規定性に、すなわち概念になる。これによって絶対精神の帰結が悪ふざけのように先取りされる。

哲学はうまくいかないし、哲学なしでもうまくいかない。しかし肝心なのは、哲学はそもそもなお正当に、事象に関わること、内容に関わること、したがって本質的なことについて、語ることができるのか、ということである。

 

 

講義録

自己批判としての哲学

理論が実践へ移行する見通しが裏切られたことによって、理論と実践のあいだの過程〔係争問題〕は、ある意味において、ふたたび理論のもとに差し戻されているのです。

非概念的なものの哲学について、束の間の「平穏さ」

弁証法とは、哲学と異質なもの、哲学にとっての他者ーー先取りして言ってよろしければーー非概念的なものを、哲学のなかに取り込もうとする試みを表わしています。それは、ヘーゲルの意味では、非同一的なものの同一化ですが、私がみなさんに示している問題設定の意味では、非概念的なものを取り込むというよりもむしろ、非概念的なものを非概念的なあり方で把握することにほかなりません。

思想は哲学へ引き戻される一方で、その哲学自体もまた疑わしくなっている、というのが現状です。

 

 

自然支配と社会的支配

『資本論』のはっきり述べられた一節によると、動物から剰余価値は発生しないとされています。この事実はおそらく、マルクスにおいて自然支配の原理が素朴に受け入れられていることを象徴的に示す、もっとも際立った例にすぎません。

思考と存在の同一性ではなく

思考と事物の同一性という命題を尺度にして思想を測るなら、まさに両者の不一致という歴史的経験によって、思想はそのもっとも深い内奥まで脅かされているのです。

したがって私たちは、理論的な思想の同一性はそれ自体誤りであること、そのような思想は不正に得られたものであることを、示すことができるわけです。そして私は、このような指摘、否定的であらざるをえないこのような指摘を、まずもってこんにちの哲学的批判の中心的な問題と見なしています。

 

 

ヘーゲルにおける無規定的なものと無規定性

「論理学」

「存在」の概念にとって概念としての「存在」と事象としての「存在」の区別は無関係である、ということを前提としていますが、この命題は何を語っているか、私たちは一度じっくり考えてみなければなりません。

ヘーゲルは、空虚な空間といった概念は抽象の結果であって、経験的には空しいものだ、と語っています。ちなみにヘーゲルは実際このことを存在概念にも認めていることになるでしょう。存在概念は『論理学』の行程においてそれ自体媒介されたものだからです。そして『論理学』の歩みそれ自体がーーこう言ってよろしければーー規定の歩みであって、そもそも存在概念といったものに到達するにいたるまで遂行されねばならない、抽象の詳細な段階なのです。したがってそのかぎりで、ヘーゲル『論理学』の前向きの動きは、その最初の一歩からしてすでに、同時にまた後向きの動きであるわけです。

「それら[すなわち、純粋な空間と時間、純粋な意識、純粋な存在といった思想]は抽象の結果であって、無規定的なものとしてはっきりと規定されている。この無規定的なものは、そのもっとも単純な形式に遡るなら、存在である」。

「しかしこの無規定性こそ、まさにそのものの」ーーすなわち存在のーー「規定性をなしているものである。というのも、無規定性は規定性に対立するものであるからである。したがって、無規定性はそれ自体、対立させられたものとして、規定されたものないしは否定的なものである。しかもそれは、純粋でまったく抽象的な否定的なものである。

こんにちの私たちなら「即自的に」と言うところです。即自的にもつということですーー「こうした無規定性もしくは抽象的な否定は、外的および内的な反省がそれ」ーーすなわち、存在ーー「を無と同一視し、空虚な思想の産物、無として説明することによって、語るところのものである」。

「無規定的なもの」のほうは実体性をそなえています。

いずれにせよ、無規定的なものは、区別のないあり方をそなえていることによって、まさしく両者を、すなわち概念と無規定的とされる事物を、含んでいます。

実体の表現である「無規定的なもの」から「無規定性」へのたんなる言葉の転換は、すでに概念への転換であるわけです。

そして、このようにして存在と同一視される概念の本質は、根本においてここですでに同一化という根源的な行為であって、この行為によって存在のうちの存在者、すなわち無規定性ではなくて無規定的なものである存在者は排除されるのです。ひとえにこの同一化の行為によって、ヘーゲルはただちに、この存在を、純粋に概念的なものとして、その純粋な概念性、つまりまさにこの無規定性と同一視することができるのだ、と私は申し上げます。

存在と無の同等性は、存在が無規定性として把握されることと固く結びついているということ、言い換えれば、存在が最初から概念の領域に現われることと固く結びついているということ

存在が相変わらず無規定的なものであるならば、存在と無を同一視することはできないでしょう。

無規定性は、実のところ、たんなる概念、純粋な概念にすぎず、まさにそのことによって無となるのです。

 

 

概念の自己批判、概念と非概念的なもの、形式的な哲学と内容に関わる哲学

ヘーゲル哲学全体は元来、非概念的なものをはじめから魔術的に消し去ることによってのみ、同一性に到達する、という性格をもつのです。これは哲学にとって最大の誘惑です。

芸術はまさしくこの問題と一種絶望に陥りながら繰り返し取り組んできました。それは、芸術家たちの本能的な神経がまさにこの箇所で何かを感じてきたことを示しているのかもしれません。

つまり、私たちは哲学において、概念によってまた概念について語らねばならないのです。

すなわち、哲学は自分がもっぱら概念のみを扱っているという過程を、それ自体概念によって反省し、この過程自体を概念にまで高めることによって、それを修正したり、まさに概念という手段によって可能なかぎりで取り消しするのだ、と。

哲学は本来その対象を、まさしく哲学がその出発点からして一般に抹殺してしまうところのもの、概念の残り滓、すなわちそれ自体は概念ではないものに有しているのだ、と。
 否定弁証法は可能かという問いは、こうした解きほぐしの過程を成功するかとどうか、すなわち、概念が自分の概念としての本質によって自分および自分の向かう対象の周囲に打ち立てている壁を、まさしくこの解きほぐしをつうじて打ち壊すことが概念の自己反省に可能かどうか、という問いです。

すなわち、こんにちのアカデミズムの現状において哲学は、一方で恣意的・偶然的なものへ、他方で形式的なものへと両極化しているだけではなく、これら両極のあいだには一種の機能連関が存在している、と。

これまで哲学者たちは普遍概念的なものを唯一実体的なものと同一視することで全員一致していますが、もちろん、こうした同一視から逃れることによってのみ、哲学は内容をもちかつ厳密なものであることができるのです。

 

 

第七講義「脱出の試み」
一九六五年一一月三〇日

メモ書き

ーーフロイトとの関連、すなわち現象界の残り滓との関連。ーーなおざりにされたもの、排除されたものとして媒介されている、概念を欠いたもの。ここに概念の〈先入主〉がある。
 ベルクソンもフッサールも、それを、つまり非概念的なものへの関心を、本能的に感知していた。
 ベ[ルクソン]は、概念的なものの下にある層において、無定形なイメージ〔イマージュ〕という形で。

(4)両者の観念論的な、それゆえ失敗した脱出の試み。両者の客観性は、たんなる主観的なものである。ーー脱出は行為としては不可能であり、ただ自己反省をつうじてのみ可能。
 哲学は、やはり脱出することを課題としている。たとえどんなにわずかの信頼であろうとそれへの信頼なくしては、立ちゆかない。
 哲学は、語りえないものを語らねばならない。ヴィトゲンシュタインに抗して。この矛盾に哲学はとことん苦労しなければならない。

哲学それ自身の概念が矛盾に満ちており、それ自身において弁証法的。
 認識のユートピアとは、概念を欠いたものを、概念と同一化することなく、概念によって開示すること。
 無限なものという理念の機能転換。
 哲[学]は「隈なく論じる」という態度をとってはならないし、対象を最小限の命題へ還元してもならない。

(5)哲学は、あらかじめ準備されたカテゴリーにもたらすことなしに、自分と異質なものを目指している。

 

 

講義録

形式主義と偶然性、ハイデガーの懐古的な性格

哲学の使命はーーこの点が哲学を文化についてのただのおしゃべりと区別するのですがーー、批判の対象自体を別の方向へ転じうること、すなわち、批判の対象自体をさらに必然性において理解することによってそれに運動をもたらすこと、にあるのです。

哲学は、実質的なものに踏み込む場合には、実質的なものへのこの移行それ自体を偶然的なものと見えないようにすることに当然ながら大いに腐心しますーー実際には、たとえばまさにその存在概念に何ら説得力がないことを見れば明らかなように、この移行は偶然的であらざるをえないのですが。

現在の存在論の潮流は、そもそも実質的領域は、移ろいゆくものが存在それ自身の一つのあり方として実体化されたものです。それは、移ろいゆくというあり方を存在の性質として認めることで、一方ではその移ろいと偶然性から逃れるとともに、他方ではやはり、歴史的なものや生成したものから具体性の色合いを借り受けるためです。

ヘーゲルの概念としての存在者、クルークのペンとフロイトの「現象界の残り滓」

哲学は、まさしくヘーゲルおよびヘーゲルとともにそもそもすべての伝統的哲学が関心を寄せないところ、すなわち概念を欠いたものにこそ、関心を寄せるのだ、と。

そのもっとも本質的なモティーフの一つに対して、すなわち概念を欠いたものを把握するという試みに対して、無力さをさらけ出す、ということです。

これは実際のところ、ア・プリオリな構えでは切り抜けることのできない一点なのだと思います。

つまり、私たちがそれをすでに知っているなら、それがすでに保証済みのものであるなら、それを初めて取りだそうとする哲学の努力や仕事など不要でしょう。

ある程度、先取りする理論的熟慮によってのみ予期されうるものなのです。

フロイトの心理学は、通常は見向きもされない現象、言い間違い、偶然の行為、錯誤行為等々といった、現象界のクズ、「現象界の残り滓」に目を向けました。これら一つ一つが何を意味しているかは、もちろん予期することはできません。

実際、フロイト心理学の三つの主要テーマ、すなわちまさしくこの偶然的な錯誤行為と夢と神経症を総じて特徴づけているのは、それらにおいては、私たちが言うところの概念を欠いていること、あるいはこんにち言われるところの不条理性、非合理性という契機が、概念に対する重要性、本質性と結びついている、ということです。

なおざりにされたものとしての概念を欠いたもの、ミクロロギーという方法について

フランスのシュールレアリズム運動は、歴史哲学的かつメタ心理学的意味において、そういうものに対する並はずれて鋭敏な本能を発揮しました。
 概念を欠いたもの自体は、私たちがそれに着手する際、私たちがそもそもそれに初めて向き合う際、すでに否定的な意味で概念によって媒介されているーーつまり、なおざりにされたもの、排除されまものとして媒介されている、と言うことができます。概念がそれを自分のなかに迎え入れなかったというまさにその点に、概念の先入観、〈先入主〉、防御壁といったものを認めることができると言えるでしょう。

社会的抑圧といったものも実際に存在するのです。

実際、概念とは一般にその対象を拡大するものであって、対象のうちの他の対象と比較できるくらい十分大きなものしか目にとめません。そしてその際、網の目からこぼれ落ちるものこそまさに極小のものなのですが、そもそも哲学的解釈を待ち受けているものはたいていここに含まれているのです。

そして、その世代の人々の仕事で何らかの形で現代的なものという要求をともなって登場しうるものには、この欲求が刻印されているのです。

 

 

ベルクソンとフッサール

両者の出発点は、因果論的・機械論的思考およびそれにつきまとう欠陥ーー概念的に把握するという意図にとって因果論的・機械論で思考に必然的につきまとう欠陥ーーの全面支配に抵抗する、ということでした。
 ベルクソンは、まさにそういう分類的概念に対して概念を欠いたものをいっそう高次の真理と見なし、多少とも無定形なイメージ〔イマージュ〕の層にその真理を求めました。

それらは無意識のイメージの世界に位置づけられるのですから、フロイトの精神分析が繰り返し行き着くイメージとはおそらくそんなに異ならない世界です。それらのイメージは、抽象によって成立している整除された意識に対して、事物自身の直接的な知のようなものとされます。

フッサールが説いたのは、「本質的なもの」、したがって哲学的に重要なもの(もちろんそれは概念と呼ばれねばならないでしょう)は、そのつど個別的なものから直観によって取り出されうる、ということでした。したがって、本質的なものとは、経験されたもの、具体的なもの、個別的なものに対するある種の「態度」の所産であって、一般に想定されているように、比較にもとづく抽象によって生じるのではない、ということです。

つまり、概念は、その客観性のゆえに、そのつどの個別的なもののうちにすでに潜んでおり、主観による媒介的な整除によって初めて個別的なものから取り出されるものではない、とされるのです。

しかし両者において、彼らが哲学的な努力を集中させている概念を欠いたものは、それ自体精神的なもの、主観的なものにさえとどまっています。しかも実際のところ、概念を欠いたものにつねにすでに概念は潜んでいるのてす。

 

 

ベルクソンの「イメージ」、プルーストによるベルクソンの論証、フッサールの概念実在論

ベルクソンの場合、ある種恣意的に、認識の二重性が独断的に想定されています。一方にイメージから与えられるあの深遠な本質認識があり、他方に通常の分類的な科学の認識があって、これらは二つの可能性として、単純に二元論的に並列されたままです。

ベルクソンの全思考は、後期の著作『道徳と宗教の二源泉』にいたるまで、厳密に二元論的な性格を保ち続けたのです。その際彼が見落としているのは、主観における前概念的なものとしての客観性を有するとされる、直観的認識ないしイメージと呼ばれるものは、概念をつうじて以外そもそも表現されえない、ということです。

こうして、哲学が使命として自らに課していたものは、結局は詩に譲り渡され、詩の使命とされるのです。

実際のところ、そういう概念の存在論的正当化の試みのようなものでしかありません。フッサールのもとで個別的経験に与えられるもの、個別的経験に開示されるものを注視してみても、そこにあるのはたんになる抽象的なカテゴリーであって、通常の科学的思考のカテゴリーとも何一つ変わりません。

 

 

過去になされた脱出の試みの失敗、自己省察による脱出という課題

両者はともに、意識内在、「意識流」という概念をーー支配的な観念論的認識論のすべてて一致してーー認識の本来の基盤と見なすと同時に、自分たちが意識流それ自体に見出したあの主観的なものに、ある種の意志的な行為のみでもって、いっそう高次の客観性という称号や肩書きを授与できると信じていました。これによって彼らは、概念の領域からの脱出を遂行していると信じていたのです。

したがって、本質的なものの客観性と称されるものへ、あるいは超主観的と称されつつも主観のなかに何らかの形で設定されているあのイメージの世界へ、身を投じても無駄だ、ということです。

脱出といったことが可能だとしても、主観に固有でないものをそのように定立することによっては、つまり非我の定立によっては、脱出は成功しません。実際、非我の主観による定立こそが観念論の頂点だったということは、哲学史が私たちに教えるところです。そうではなく、そもそもそうした脱出の可能性がもし存在するのなら、そこに通じている道は、主観の領域を批判的に自己反省する道以外にはないでしょう。この反省において自己自身への洞察は、この主観的な領域がそれ自体たんに主観的なものではなく、主観が観念論的に初めて作り出すと思いこんでいる当のものとの関係を必然的に前提しているものだ、ということを認識します。

つまり逆に非我こそが定立するのだといった証明をへずに、主観それ自身が一つの定立されたものである、あるいはいずれにしろ主観は一つの措定されたものでもあるということが、主観に対して証明されることになるのです。

しかし、出来合いの概念の領域からの脱出、この概念に本質的に属している非概念的なものへの脱出がそれでもやはり可能なのだ、という信頼なくしては、そもそも私たちは実際に哲学することはできなくなるでしょう。

したがって、明瞭に表現できないものについては沈黙すべきであるというヴィトゲンシュタインの命題は、反哲学的命題そのものと言えるでしょう。そうではなく、語りえないこと、すなわち、一つの個別的な命題もしくは複数の個別的な命題で直接的には語りえないこと、もっぱらある連関においてのみ語りうることを、何とか口にしようと努力すること、それこそが哲学なのです。そのかぎりではおそらく、哲学という概念自身がみずからの媒介をつうじて〈今此処デ〉直接的には口にしえないことを語るという矛盾に満ちた努力なのであって、そのかぎりで哲学はそれ自身の概念からして矛盾に満ちており、したがってそれ自身において弁証法的である、と言わねばならないでしょう。そしておそらくそもそもそも弁証法という手続きをもっと深いところで正当化してくれるのは、哲学それ自身がーーあらゆる特殊な内容とすべての特殊なテーゼに先立って、語りえないことを口にする試みとしてーー弁証法的に規定されている、ということでしょう。

認識のユートピアとは、概念を欠いたものを概念をもたない何らかの高次の方法と称されるものによって捉えることでは決してなく、概念を欠いたものを概念を媒介として、さまざまな概念の自己批判を媒介として、開示することである、ということになるでしょうーーその際、概念を欠いたもの、概念把握されるものは、それ自体暴力的に外部から概念と同一化されてはならないのです。

 

 

無限なるものの理念、「隈なく論じること」に抗して

とりわけ哲学における微積分計算〔字義どおりには「無限小の計算」〕の発明者であるライプニッツ以来、近代の哲学者たちは特別深くこの概念と関わり合ってきました。すなわち無限なるものという理念です。実際一般に哲学は、少なくとも近代哲学は、ある観点からすれば、無限なるものを思考する努力と同じである、と言うこともできるでしょう。

精神の可能性とは、一点に集中しうること、一点に集中的に沈潜しうることであって、量的に完全でありうることはできないということは、私には最初から明らかだったからです。

したがって哲学が目指しているのはーー自分と異質なもの、自分自身でないものであって、存在するすべてのものを自分自身へ、自分の観念へもたらそうとする試みではないのです。したがって、哲学が目指しているのは、世界をあらかじめ加工されたカテゴリーの体系へ還元することではなく、まさにその反対に、経験において精神に差し出されるものに対して、ある一定の意味において自らを開かれたものにする試みである、ということです。

 

 

第八回講義 精神的経験という概念
一九六五念一二月二日

メモ書き

無限なものの概念の地位の変化、この概念は観念[論]においておしゃべりにまで堕落した。

観念[論]においては、乏しい有限なカテゴリーによって、無限な対象が所有されると主張される。これによって、哲学は有限なもの、完結したものとなる。それゆえの狭隘さ、片田舎のモデル。田舎臭さにさえ体系的理由がある。

哲[学]はもはや無限なものを意のままにすることはできない。

ーーそもそも哲学が所持しているのは有限なものだけ。

すなわち、数え上げることのできる定理の集積にもはや固定化されず、原理的に開かれたものとなる。

開かれていることにおいて規定されている。

哲学が自らを乗り越えてゆくとともに増大するのは、柔軟さではなく、哲学の規定性である。哲学はそれを対[象]から受け取る。
 哲学は自らの内実を、切り縮められることのない対象の多様性に探し求めねばならない。

哲学にうまく差出された個別的なもの、特殊的なものはすべて、繰り返し哲学の手をすり抜ける全体を、ただむしろ予定不調和に従って、それ自身において表象しているに違いない、という保証のない期待が原動力。

(6)

全体という幻影を用意するのではなく、哲学において真理が結晶すべき。

モデルは、哲学的解釈において芸術作品が展開されるということ。
 抽象化の規則化された進行、あるいは概念への包摂といった習得することのできるものは、もっとも広い意味での技術だか(ベルクソンはこのことを知っていた)、〔既存のものに〕組み込まれるのでない哲学にとっては、どうでもいいものである。

 

 

講義録

観念論における無限なものという概念について

実際、無限なものという概念が元来登場したのは、ライプニッツがニュートンとは無関係に発明した微積分〔字義どおりには[無限小]〕の方法とおそらく本質的に関連してのことでした。

それはおそらく、哲学においてフィヒテ以来生じた、そしてまさしく自然哲学者シェリングにおいてもっとも顕著に生じた、数学と自然諸科学の分離が関連しているでしょう。

つまり、すべての有限な運動は有限なものとして自己自身を否定しなければならないことによって、有限な運動の総体はすでに積極的な無限性への歩みである、ということです。

すなわち有限なものの否定はそれ自体において無限性の成立を内実としてもっているということが、ある意味でヘーゲル哲学全体の一般テーゼと言えるでしょう。しかし他方において、やはりそのとき、数学的に規定された形態と比べると、無限性という概念の変容が生じていると思われます。それはそもそもこの概念の核心を蝕むものと言いたくなるほどの変化です。

カテゴリーの有限性、無限なものという主張に抗して
 このことによって、その後哲学を支配することになる空疎さという独特の特徴が、無限なものについての語りに登場しました。

この哲学はやはりそれ自体有限なものであって、自分が得意気にしやべりちらしている無限なものを支配できていないのではないかという深い疑念を、無限なものについての語りはかき消そうとしているのではないか。そのような印象を受けることもときおりあります。

この哲学の掲げる絶対的な同一性の要求、したがって、端的にすべてのものは哲学の諸規定に解消されるという要求は、当然ながら必然的に積極的な無限性を要求するものだからです。

「開かれたもの」の哲学について

死すべきもののもつ思考のカテゴリーにおいてのみ、不死なるものは捉えうるのであって、有限性のカテゴリー以外のもので超越を手に入れようとするすべての試みは、あらかじめ無効を宣言されているのだ、と。

哲学が無限なものをもつことを放棄することにおいてのみ、自分の有限性を素朴に実体化するもの以上であるという希望を哲学はもつことができる

すなわち、哲学の課題のこの変更をつうじて、ある意味で、哲学自体が無限なものとなるのだ、と。すなわち哲学は、たとえばカントの「原則の体系」に示されているような、数え上げることのできる定理の集積にもはや固定化されず、根本的に開かれたものとなるのです。

その際ただちに、とりわけ生の哲学が屈服した問題が生じます。

哲学のみごとな離れ技とは、すなわち、開かれて哲学するとともにやはり軟体動物のようではないこと、ありとあらゆる対象に好き勝手にくっついたりせず、自らの内的欲求に従って、客観から与えられる強制的な筋道を追求すること、です。

精神的経験という概念と演繹、新たなものの経験、〈第一哲学〉からのメタレベルでの批判的転換

哲学は自らの対象を鏡として用いて、そこにつねに自分自身を再認する、というのであってはなりません。

すなわち、ここでつねに原則として重要なのは実際、下から上への認識であって、上から下への認識ではありません。

必要なのはひとえにこの精神的経験の概念をしっかりと追求することです。

そのような経験の内容は決してカテゴリーの実例ではなく、まさしくそれらにおいてそのつど新たなものが生じることで、経験内容は重要な意義をもつのです。一方、通常の経験論すべての誤り、通常の経験概念すべての誤りは、これらの経験論の哲学が認識論として、まさしく他なるものの経験の可能性、原理的に新たなものの経験可能性を、自らのゲームの規則によって断ち切っているところにある、と私には思えます。

メタレベルでの批判による〈第一哲学〉からの方向転換とは、無限なものについて得意気にしゃべりちらしながら、その手を逃れる無限なものを実際には無限なものとして尊重していない哲学の有限性から、方向転換することです。

哲学は全体という幻影を与えてはなりませんが、哲学において真理は結晶すべきなのです。

 

 

芸術作品と芸術の哲学の関係について

芸術作品はーーここでは私は暗黙のうちに真正の芸術作品についてのみ語っていますーーそれらが一方で、それ自身において有限なもの、輪郭をもったもの、空間ないし時間のうちに存在しているものでありながら、他方では、すぐにまったく開示されえないほどに無限の意味をそなえていて、まずもって分析を必要としているものであり、そういう意味において芸術作品は、積極的な無限性といったものを提示している、と。

この展開は芸術作品の哲学ーーもちろん分析をそなえた、しかもミクロロギー的な分析をそなえた、芸術作品の哲学ですーーをつうじてそもそも初めて可能となるのであり、また現実にもたらされるのだ、と言うことができます。精神的なものとして客観的に芸術作品に含まれているものが分析によって一歩ずつ確認されてゆくことによって、つまり、一歩ごとに作品の真理内容が確認されてゆく分析をつうじて、ある意味において芸術作品は生きるのです。

芸術作品が意味連関であるからこそ、芸術作品と波長を合わせることができるのだ、と。

 

 

芸術的は人為的なもの、人間の精神の産物であるがゆえにこそ、精神的である

啓蒙の弁証法、哲学が原理的に誤りうるものであること

思想がすでに反復の領域、たんなる再生産の領域に根を下ろした瞬間に、すでに哲学は自分の目標を見失ったことになるのです。

認識がそれ自体虚偽、非真理、時代遅れといったものになる危険に曝されているのは、すでに知られている知を乗り越えるからではなく、そのような認識それ自体が真ではない可能性をもつからだ、ということです。

真理内容自体が自らのうちに一つの時間の契機を宿しているのであって、真理内容は時代と無関係なものないし永遠のものという姿でたんに時間のなかに現われるのではない、ということです。
 そのかぎりで、懐疑主義とブラグマティズムは正しいのです。

その際の問題はひとえに、そのことによって本質的なものの認識であるという哲学の強調された意味での要求を放棄するのではなく、その要求自体を精神的経験に組み込む、ということなのです。

 

 

第九回講義 思弁的な契機
一九六五年一二月七日

メモ書き

方法の全体性に対して哲[学]は、本質的に遊戯という契機を有する。

哲学は真剣きまわりないものだが、かといってそれほど生真面目なわけでもない。

(7、挿入)哲[学]は芸術から借用するのではない。とりわけ直観を引き合いに出してはならない。

直観は一つの契機。思いつきなくして哲[学]はない。

それら[すなわち、直観]は無意識的な知の結晶である。
自ら芸術作品になろうとする哲[学]は、すでにそれだけで救いがたいだろう。そのような哲学は、あの統一性を、対象がすっかり自分のなかへ溶け込むということを、要請するだろうーーそのような同一性こそ、哲学の主題、しかも批判的な主題であるにもかかわらず。
芸術と哲[学]が共通点を有するのは、形式や形象化の手続きにおいてではなく、偽りの結晶化を禁じる振る舞いにおいてである。

哲[学]の理念とは、概念をつうじて概念を乗り越えてゆくこと。

(7)哲[学]は、観念論と訣別したあとも、思弁を欠くわけにはゆかない。

①社会的過程の客観性と総体性は直接的な所与ではなく、事実から抽出されえないものである

自由とは意識をつうじて必然性を受け入れることである、というイメージを指示すること。

 

 

講義録

経験論に対する関係、精神的経験と精神化

経験概念はそれ自身のうちにまさにあの本質的に精神的な契機を有しているのであって、まさしく経験的潮流が否定するようなものとしてこそ、精神的経験であるのです。

精神的経験という方法には対象を精神化してしまう先入見がつきものであって、この先入見を自分自身のうちで繰り返し修正しなければならないのです。

 

 

真剣さと遊戯

「正しく」とは、まさに真剣きわまりないものと遊戯的なものに分類されるものの、独特の絡まり合いのもとで、ということであって、この絡まり合いがなければ、思想はともかく生きてゆくことができないのです。

馴致されないもの、非合理性、ミメーシス的契機ーー芸術と哲学の親和性について

思弁的〈ラチオ〉、すなわち、すでに所持している、所与の実定的なものの概念秩序を越え出る種類の〈ラチオ〉は、自分が確かなものとしてすでに所持しているものに違反するというまさにそのことによって、それ自身のうちに必然的に非合理性という契機をそなえているのだ、と。

すなわち、生物や意識が自分とは異なったものに直接的に同一化するという契機は、おそらく思考におけるこの契機を代表するものでしょう。

つまり哲学はもっぱら、精神と世界、精神と現実の非同一性を確認することをつうじて、真理に関与する、ということです。

哲学と芸術の関係は、事実の分類では満足しないという、まさしく〈テロス〉に存している

この〈テロス〉は両者においてまったく異なった道を辿ねばなりません。この〈テロス〉は確かに両者の領域の内容において収斂し合うのですが、芸術の方法を直接的にそのまま哲学に移行させようとすれば、その瞬間にこの〈テロス〉は腐敗し、台無しにされてしまいます。

 

 

直観、思いつき、連想

連想は、まるで閃光のように事象に降りかかる本来的に生産的な思いつきではなく、まさにその反対のものだ

つまり、直接的に事象のただなかで火花を発するのではなく、事象にたんにしがみつくことによって、かえって事象から逸脱してしまうものなのです。
 そして、思いつきを一つの契機として決して手放さない思考こそが、同時にまた思いつきに対する最高の批判であらねばならない

 

 

概念と概念を欠いたもの

いわゆる直観とはおそらく無意識的な知の結晶なのです。

思弁という概念、マルクスにおける思弁的な契機

本質は〈定義カラシテ〉一つの事実ではなく、感覚的経験の意味で直接指をあてがうことができるようなものではない

本質は、あらゆる事実とは対照的に、超越的なものを存立させるものです。

マルクスの理論構成の決定的な点に思弁的契機が存するのです。

 

 

生産力の形而上学

人間の生産力および技術におけるその拡張には、端的に絶対的な潜在能力が与えられているのです。

そもそもとことん究めようとする理論、つまり単純に理論を放棄せず、理論の概念に忠実であろうとする理論、そのような理論が思弁的な概念に向かわざるをえないところには、止むにやまれない欲求もまた存在しているのです。ただし、その際、その思弁的概念は、まさしくあの誤りうるという規定のもとに置かれているのです。

この誤りうることは哲学それ自体の本質と切り離すことができないのです。

 

『アドルノ 否定弁証法講義』T・W・アドルノ/著、細見和之・河原理・高安啓介/訳より抜粋し引用。

 

現実的なるものは理性的ではない

 

 

第一回講義 矛盾という概念

一九六五年一一九日 

メモ書き

否[定]弁[証]法ということで考えられているものーー同一性の弁証法ではなく、非同一性の弁証法。あまりに外面的な三段階の図式ではなく。とりわけ、いわゆる総合に強調点を置くのではないもの。弁[証]法は思考の繊維、内的な構造に関係づけられるのであって、建築術上の指示に関係づけられるのではない。
 根本構造ーー矛盾の構造、しかも二重の意味におけるそれ。
(1)概念の矛盾に満ちた性格、すなわち、それが表わしている事柄と矛盾しているという姿での概念(概念から抜け落ちているもの、および概念が概念以上のものである点、この二つを説明すること。矛盾=不一致。しかし、概念の強調された性質においてこれは矛盾となる。概念における矛盾であって、たんにさまざまな概念のあいだの矛盾ではない。
(2)現実の矛盾に満ちた性格。そのモデルは敵対的な社会(生命と破局を説明すること。こんにちでは社会は、自らを破壊するものをつうじて生き延びている)。
 この二重性格は世にも不思議なことではない。現実を敵対的なものとして作り上げている諸契機が、精神を、概念を、敵対的な関係に追いやっている。このことが示されねばならない。同一性へと精神化された、自然支配の原理。
 この点に、弁証法が恣意的に考え出されたものでも、世界観でもない理由が存する。弁証法による出発点が説得力のあるものであることを示すこと、それが私の課題だろう。

弁証法の二つの形態ーー観念論の弁証法と唯物論の弁証法。
ところでなぜ否定弁証法なのか。

 

否定は弁証法の塩〔生気〕である『精神現象学』

思考それ自体がまずもって所与のものの端的な否定である。あらゆる弁証法は否定的である。

 

 

講義録

パウル・ティリヒの死について

他人の意識からできるかぎり客観性を発展させる能力、客観性を相手の意識と結びつける能力

 

 

講義の計画と意図

 

大学の伝統的な定義は研究と教育の統一を要請するもの

哲学とは、まさしく絶えず生成途上にある思想のことです。

過程と結果は同一のものでさえあるのです。

哲学的思想にとっては、確定的なものではなく、試みの契機、実験的なものという契機こそ特有のものであって、この思想のあり方が哲学を実証諸科学から区別するのだと私は考えますし、この点に立ち入ることは、私の講義の重要な内容の一つとなるでしょう。

 

 

否定弁証法と崩壊の論理

要するに、否定弁証法とは、同一での弁証法ではなく非同一性の弁証法であるべきものです

重要なのは、存在と思考の同一性という概念を前提にしたり、またこの概念において頂点に達するような哲学の企てではなく、概念と事柄、主体と客体が別々のものを指し示していること、両者が非和解的であることを、はっきりと口にする哲学を企てることです。

ありきたりな意味での〈テーゼ〉、〈アンチテーゼ〉、〈ジンテーゼ〉を考えないでください。ヘーゲルは最終的にはやはり、〈ジンテーゼ〉の体系としてあろうとする体系といったものを保持していたのですが、そのヘーゲル自身でさえすでに、決して図式主義的な意味でこの図式にだけ固執したりしていませんでした。

否定弁証法においては〈ジンテーゼ〉という概念が驚くほど後景に退いていることに気づかれるでしょう。

ーー哲学的思考は実際本質的に、自分自身の精神的経験につき従うことに存するのですから、自分がなぜこんなにも総合という概念に苛立ちを覚えるのかを、自分自身の背後にまわって見抜くこと、それがこのような否定弁証法の動機の一つなのです。もう一つの動機は、散逸してしまった、私のいちばん古い自立的な(すなわち、他人の哲学を解釈するのではない)哲学的著作が崩壊の論理に向けられていた、ということです。

私が念頭においているのは、思考の繊維、思考の内的な構造、すなわち、ヘーゲルとともに語るなら、◉概念が自分の反対物、非概念的なもののほうへと動いてゆく、その仕方です。その際、概念は一種の思考の建築術のほうへ自らを張り巡らしたりはしません。

 

 

概念における矛盾

Aであると言われるすべてのB は、つねにまた他なるものでもあって、つねにA以上のもの、述語的判断においてそれが帰属させられている概念以上のものでもあります。

この関係、概念は、それが包摂している当の諸要素よりも、つねに同時によりわずかでもあれば何時により以上でもある、というこの関係は、非合理なものでもなければ、偶然的なものでもありません。哲学的な理論、哲学的な批判は、この関係を、細部にいたるまで規定することができますし、規定しなければならないのです。

 

 

論理のもつ同一性への強制力

私たちの論理の諸形式が思考に行使するこの同一性の強制によって、この同一性の強制に従わないものは、必然的に矛盾という性格を帯びることになるのです。

すなわち、矛盾するものはすべて論理学から排除されているべきである、ということです。そしてその際、同一性の定立に適応しないものはすべて、まさにそれだけで矛盾したものとなるのです。したがって、根本において矛盾という概念のうえに、あるいは矛盾の拒絶のうえに、私たちの論理のすべてが、したがって私たちの思考もまた、打ち立てられているということ、このことがまずもって、このような弁証法〔否定弁証法〕のなかへ矛盾という概念を中心的な概念として組み込み、そこからその概念を分析しようとすることを、正当化するのです。

 

 

客体における矛盾、社会の敵対的な関係、自然支配

矛盾というカテゴリーが中心にあるという意味での弁証法的思考に向かわせるのは、概念の構造および事柄それ自身に対する概念の関係である

また他方でそのような弁証法的思考に向かわせるのは、客観的現実、客体の領域でもあります

ほんの一瞬でいいですから、単純素朴な立場にたって、客観性の領域といったものを、素朴な実在論がそう見なすように、思考から独立したものとして思い描いてみてください。その際のモデルとなるのは、私たちが暮らしているのは敵対的な社会である、ということです。

すなわち、社会はそれが抱える矛盾とともに、あるいはそれが抱える矛盾にもかかわらず生き延びているのではなく、それが抱える矛盾をつうじてこそ生き延びている、ということです。

社会を分裂させ、潜在的に引き裂いているこの動機はまた同時に、社会自身の生命を再生産する手立てそのものなのです。

こんにちすでに経済システムの総体がどのように自己を維持しているかを考えると、いわゆる資本主義国であれ、ロシア、中国の勢力圏にある国々である、どの国々においても、社会的生産の非常に大きな部分を絶え間なしに、絶滅の手段に、とりわけ核兵器とそれにまつわるものに費やすことによってのみ維持されているということは、十分ありえそうなことです。

この考察は、客観的な側面から見ても矛盾の概念に向かわざるをえないこと、しかも、二つの無関係な事柄のあいだの矛盾ではなく、内在的な矛盾、事柄それ事実のうちに存在している矛盾の概念に向かわざるをえないことを、さしあたりみなさんに十分示しているだろう、と私は思います。

この二重の性格、すなわち、一方には思想と概念に存する矛盾があり、他方では世界それ自体がまたその客観的な形態からして敵対的であるということ

すなわち、現実を敵対的な現実として浮き彫りにしている諸契機はまた、精神に、したがって概念に、内在的な矛盾を負わせている諸契機と同一のものである、ということです。言い換えれば、どちらにおいても肝心なのは支配の原理、自然支配の原理であって、この支配がさらに進展し、人間による人間の支配にまで推し進められ、この支配はその精神的な反映を同一性という原理に見いだすということです。この原理に従って、あらゆる精神には、自分に近寄らせられたり、こちらから突き当たったりする他なるものを、自分と同一化したり、それによって自分の支配圏に引き込んだりしようとする努力が内在しているのです。

 

 

観念論の弁証法、唯物論の弁証法、否定弁証法

さてすでに、弁証法が、したがってその器官および内容が本質的に矛盾である思考が、恣意的に考え出されたもの、いわゆる世界観ではない、ということがもちろんすでに含まれています。といいますのも、矛盾の不可避性が、みさなんに素描したように、実際に事柄の側からも、思想の側からも示されるとすれば、この事態を引き受ける思考は実際のところ、自らの対象から差し出されたものを遂行する、いわばもっぱら実行者であるからです。
それは外部から持ち込まれた立場では決してありません。

とはいえ、弁証法という出発点が説得力のあるものだということを、私はできるだけみさんに示す責任があるとも思います。

事柄における矛盾と概念自体における矛盾というこの意味での弁証法に、二つの大きな種類があること

すなわち、ある意味ではそもそも哲学的思弁の頂点と見なしうるような観念論的弁証法と、こんにち公的な世界観として(しかしそれによって自らの反対物へと退化して)世界の大きな部分を支配している唯物論的弁証法です。

ヘーゲルの『精神現象学』のよく知られた一節に記されているとおり、主観性それ自体が思考の動因として否定的な原理なのである、と。

主体として、したがって思考としての生き生きとした実体は、純粋で単一の否定性であって、まさしくそれによって、単一のものの分裂ないし対立した二重化であるが、その否定性はふたたび、この無関係な差異およびその対立の否定なのである、と。したがって言い換えれば、思考自身がーーそして思考は主観性と結びついているのですがーー否定性であって、そのかぎりでまさしく弁証法的思考はあらかじめ否定弁証法なのです。

 

 

第二回講義 否定の否定について
一九六五年一一月一一日

メモ書き

 

(1)ヘーゲルにおいて弁証法は肯定的positivである。マイナス掛けるマイナスはプラスであることを想起。否定の否定は肯定だとされている。

[挿入ーー]否定の否定から帰結する肯定的なものはそれ自体若きヘーゲルが批判した実定性〔肯定性〕、直接性としての否定的なものである。
〈社会的強制〉
制度が抽象的な主観性に対して批判を行なうのは正当である。すなわち、制度は不可欠であり、しかもまさしく自己保存としての主体にとって不可欠である。制度は主体が即時存在であるという見かけを破壊する。このこと自体は社会的客観性という契機である。ーーとはいえ、◉制度は主体に対していっそう高次なのではなく、こんにちにいたるまで主体に対して外的であり、強制的に集団的なものであって、抑圧的なものであり続けている。
「ケストナー氏」。
以前に存在していた実体的なものすべてが消え去るとともに、あらゆるイデオロギーはますます薄っぺらなものに、抽象的なものになってゆく。

すなわち、何が肯定されているのかは問われない。まさしくそれゆえに、この肯定性は否定的なもの、つまり批判されるべきものである。

すなわち、あらゆる否定の総体は肯定性となる。「あらゆる現実的なものは理性的である」。
 これには撤回が確定済み。意味の肯定的な想定が嘘なしにはもはや不可能であるように

(2)弁証性はしたがって本質的に批判的である。それはさまざまな意味においてだ。
(a)概念と事柄の同一性という主張に対する批判として
(b)そこに想定されている精神の実体化に対する批判(イデオロギー批判)として。
(c)敵対的な現実、潜在的に自らの絶滅への傾向をもつ現実に対する批判として。

 

 

講義録

抽象的な主観性と社会的な客観性

ヘーゲルには実際、決して偶然ではなく客観的観念論という名称が与えられてきたのですが、彼の理論は主観性としての否定性という概念に刃向かうのです。

否定の否定は肯定、肯定的なもの、是認的なものである、ということです。これは、実在、ヘーゲル哲学の根底に存在している想定の一つです。

抽象的な主観性のモデルはたとえばカントの純粋な実践理性の主体ですが、ある程度はまた自由な事行というフィヒテの主観性でもあります。この主観性は、自分自身の実体、形態、あり方を、社会の客観的な形態と客観的なあり方に負っている、ということを理解しないのです。そして、この主観性がそもそも見えるさまざまな制度を、自分と同一のものと理解すること、それらの制度自体を主観性として理解すること、それらの制度をその必然性において理解することによってのみなのです。

すなわち、たんなる対自存在としての主観性、つまり批判的に考える、抽象的で否定的な主観性ーーここに否定性の概念が本質的に登場するのですがーーが自分自身を否定し、自分自身の制限されたあり方を自覚しなければならない、ということです。こうして、自らの否定によって得られる肯定性[実定性]において、つまり社会や国家、客観的な精神、最終的には絶対的な精神の諸制度において、そのような主観性は自己自身を止揚するのです。

 

 

定立としての否定の否定、ヘーゲルによる実定性批判

すなわち、彼の哲学は極度にダイナミックな思考であり、カテゴリーは固定的なものと受け取らず、生成したものとして、したがってまた変容してゆくものと受けとめているのですが、それでいて実際には、それ自身のうちに、自分が認めているよりも遥かに多くの不変の概念構造、比較を絶するほど多くの変化しないものを抱えている、ということです。 

この実定性において主体は自己自身のもとには存在せず、実定性は主体に対して疎遠なもの、物象化されたものである、とされています。

ちなみにこの考えをヘーゲルはのちになって決して放棄も否定もしていず、もっぱら解釈しなおしたのです。

 

 

ヘーゲルによる制度の正当化に対する批判

さてヘーゲルが正当にも示したのは、制度とは批判的抽象的な主観性に対する批判であること、すなわち、制度は不可欠であるということ、しかも主体がそもそも自己保存を行うためにも不可欠である、ということです。たんなる対自存在、自分が自立的に存在していると信じている主体の直接性は、実際のところたんなる欺瞞です。

実際に〈社会的動物〉なのであって、そのうえでそれらの装置に対して人間は自律的で批判的な主観性として自己を対置させるのです。

こうして彼は、主体の即自存在という仮象を打ち砕き、それ自体が社会的客観性の契機であることを示した、と言うことができます。さらに彼は、この抽象的な主観性に対して社会的な契機がいっそう強力なものとして貫徹される必然性を、導き出したのです。

つまり、これはたんに、いっそう勝ちを収めるもの、自己を貫徹するもの、一般的に受け入れられるもののほうが、弁証法を手助けにして、そんなものの仮象性を見抜く意識よりも、真理といういっそう高次な立場を占めるのだ、ということを意味しているでしょう。

 

 

肯定性それ自体の物神化に抗して

否定の否定は肯定性に帰結するのではありません。

こんにち人々は自分が置かれている状況を、一方で秘かにすべて疑わしいと感じていますが、他方ではその状況がとても強固なので、それに対抗することは何一つできないと考えています。

意識にあらかじめ与えられていた実際的な内容のすべてが消失してゆけばゆくほど、したがって、さまざまなイデオロギーがいわば糧としているものがますます乏しくなってゆけばゆくほど、あらゆるイデオロギーは必然的に抽象的になってゆきます。

つまり、一方で肯定的〔実定的〕とは、たとえばデータに依存する哲学としての実証主義Positivimusについて語られるように、所与のもの、定立されているもの、現に存在するものです。

肯定そのものをそれ自体で価値へと高めるのではなく、まさしく、何が肯定されているのか、何が肯定されるべきで何が肯定されてはならないのかが、問わねばならないのです。

現実的なるものは理性的ではない

肯定的とされるこの全体がまさにそれ自体において無限に媒介されている、ということを理解していませんでした。

現実的なものは理性的である、すなわち、存在するものには意味がある、という肯定的な想定は、もはや不可能です。

あらゆる否定的なものの総体として肯定性を理論的に構成するのは、哲学が世界疎外の悪しき呼びかけを実際に誉め称えるのでないかぎり、もはや不可能である、と私は考えます。
哲学が世界と各別親しげな足取りで姿を見せ、この世界に肯定的な意味といったものを付与しようとするときには、いつでも哲学はたいていそのような世界疎外の呼びかけに奉仕しているのです。

「批判理論」と「否定弁証法」、精神的なものの実体化に対する哲学的批判

批判理論は実際のところ思考の主観的な側面、したがってまさしく理論のあり方のみを特徴づけているのに対して、否定弁証法はこの契機だけを語るのではなく、それが出会う現実をも示している、という違いがあります。

この契機には、精神の実体化に対する本来の哲学的批判がなされるべき理由が存在している、と私は思います。といいますのも哲学は、精神をその本来の媒体とし、哲学自体つねにもっぱら精神という姿で活動するのであって、この精神の実体化は哲学にとって抵抗しがたいものだからです。

思考は概念において遂行されるというまさにそのことによって概念の器官、すなわち意識は、最初からすでに一種優位な立場に身を置いているのです。

 

 

第三回講義 否定弁証法は可能か
一九六五年一一月一六日

メモ書き

(3)こんにち肯定性という概念はイデオロギーに、しかも「抽象的」にイデオロギーとなった。批判それ自体が疑惑を呼んでいる、という主張。
 これに対して否定的なものという概念は、その抽象性において、抵抗として正当性を有しているーー

肯定的なものは否定されているもののうちに潜んでいる。
 しかし、肝心なのは限定的否定、すなわち、概念を対象と、また逆に対象を概念と突き合わせる、内在的な批判である。

(1)否定弁証法はそもそも可能なのか?すなわち、弁証法に伴う肯定的な定立を行なうことなしに、否定の規定性はどこに由来するのか。

〈偽ナルモノノ指標〉。ーー総合という概念に対するもっとも重大な留保。ちなみに[ヘーゲル]においていわ[ゆる]総合〔ジンテーゼ〕(これはテクストにおいては驚くほどわずかの役割しか果たしていないのだが)とは、たんによりよきもの、いっそう高次のものではなく、アンチテーゼにおいて効力を発揮しているテーゼであり、非同一性の表現である。

(2)体系なき弁証法は存在するのかーーこれは同じことの言い換え。

 

 

講義録

肯定的なものというイデオロギー、物象化された思考

肯定性という概念それ自体がこんにち「抽象的な姿」でイデオロギーとなったということ、そして一方批判それ自体が、その内容に関わりなく、こんにちすでに疑わしいとされているということについて

概念は静止状態に置かれ、概念に対して一つの態度が取られても、その概念が関係している真理内容についてはそもそも問われません。たとえば「肯定的」という概念は実際、本質的に関係概念であって、それ自体で妥当するのではまったくなく、そのつど是認もしくは否定されるべきものとつねに関わっています。にもかかわらず、この「肯定的」という概念は、それがもっぱら獲得した感情的な価値、それが吸い寄せた情動のゆえに、そもそもそれに意味を与えている諸関係から引き離され、自立的なもの、絶対的なものとして受け入れられ、あらゆる事柄の尺度となっているのです。

すなわち、知性とは、そもそも精神的なものを適切に知覚する、深い意味における器官ではないのか、といった問いです。

そこで私は思うのですが、哲学の仕事はいまや何かを否定することそれ自体に存するものではなくーー

まずもって、ひとりひとりが自分自身の思考のあり方を可能なかぎり検証し、自分自身の思考に対して可能なかぎり批判的に向き合い、それによって物象化された思考のこのあり方に抵抗することに存するのです。

否定弁証法はみなさんがこの傾向を意識化することを促すものであり、みなさんに意識化を促すことによって、この傾向にみなさんが従ったり、追随したりすることを阻止しようとするものだ、と。

 

 

物象化に対する抵抗、限定的否定、内在的な批判

否定性それ自体のこの虚偽性は、ある種の態度、まさしく私たちが若いときに、つまり個々の専門分野にまだすっかり身を委ねていない段階で、易々と向かいがちな虚栄に満ちた態度に、ありありと現われます。

抽象的な否定性、すなわち、現象の欠陥をただちに、いわば外側から嗅ぎつけ、それでもって自分自身をその現象を超えた位置に設定するという態度は、かなりナルシスティックな知的満足に奉仕するだけであって、そのかぎりで最初から悪用の可能性に曝されています。この誘惑に抵抗することは、弁証法的思考という専門分野において、最大限強調して想起されるべき最初の要請の一つです。もっともこの誘惑それ自体には生産的なものも潜んでいます。すなわち、自分にあてがわれたものに満足しないこと、自分に目隠しをするペテンより自分はもっとよいものだと感じる、ということです。

しかし、にもかかわらず、このような態度にとどまるべきではありません。限定的否定という要請に存在しているのは、まさしくこのことです。

契機としての肯定的なもの
 しかしそこにはまた、そのような思考は当然ながら絶え間ない自己反省を責務としている、ということも含まれています。

では彼は自分の否定性を自分自身の考えにむけているのか、と。

結局のところ、限定的否定という関連においてのみ構成されている私の考えを、一般的に虚偽ないし非真理と私が見なしているなら、そもそも私はそれらの考えをそもそも口にしないでしょう。私がそれらを口にしていること、それらを語ったいることには、根本においてすでに、可能なかぎり自己反省がそれらの考えに組み込まれている、ということも含まれているのです。

私はいわば素朴な民衆のひとりとして、世の中に肯定性がひたすら溢れ返っていることを知っています。そして、こんなに溢れていると、この肯定性それ自体が否定的なものとして示されることになります。この否定的なものに対してはやはりまずもって、まさしく否定弁証法という概念で特徴づけられる態度を取ることがふさわしいのです。

 

 

円環としてのヘーゲル哲学、〈偽ナルモノハ偽ナルモノト真ナルモノノ指標デアル〉

結局のところ、あらゆる否定の総括である全体は肯定的なものであって、意味、理性であるのです。

すなわち、ヘーゲル哲学の総体は、正しく理解されるなら、唯一つの巨大な同語反復である、と。

否定の否定はまさしく端的にsclechthin 肯定的なものではなく、肯定性をそなえるとともに、それ自身の欠陥や弱点をそなえたもの、したがって悪しきschlencht肯定性であるのだ、と。

すなわち真なるものからはそれ自身の真理性と虚偽のものを直接読み取ることができるというあの命題、あれは確かに妥当しませんが、それ自身が主張しているのとは異なった虚偽のものは事実上自らの虚偽性を示す指標なのです。虚偽のものはまずもってそれ自身とは異なっています。

この虚偽のものの直接性に照らせば、この〈偽ナルモノハソレ自身ト真ナルモノノ指標デアル〉と言うことができます。

 

 

総合の批判

いずれにしろ私は、総合という概念に対して、早くから強いアレルギーを感じてきました。

三段階の弁証法

存在、無、生成

このいわゆる総合が元来は一つの運動のようなものであること、思考の運動、概念の運動のようなものであること

ヘーゲルの総合の本質はつねに、アンチテーゼがひとたび定立されたあとにも、そのアンチテーゼにおいてテーゼがふたたび効力を発揮している、ということに存しますーー

なるほど、それは確かに同一であるのであって、私がその同一性をもたらしたのだ。したがって、存在はまったく無規定なものとしては同時に無である。しかしそれは、私がまったく素朴に表現するかぎりでのことである。

そもそも両者はやはり完全に同一のものなのではないのだ、と。

一方でさまざまなカテゴリーが生成するもの、変容するものと絶えず規定されながら、にもかかわらず他方ではカテゴリーが、論理学のカテゴリーとして、何らかの伝統的な論理学や認識論におけるのと同様に端的に妥当すべきものとされている、ということがあります。

その理由はまさに、前方へ向かう運転それ自体に設定されているこの逆行的な傾向によって、先へ進んだものがつねに同時に静止にもたらされる、ということに存するのです。こうしてその結果、生成と存在はこの意味においても(いずれにしろこれがヘーゲルの弁証法の意図です)たがいに同一であるとされます。

したがって、総合がまさしくテーゼとアンチテーゼの非同一性の表現であるならば、そのような非同一性の表現は、私が否定弁証法という概念で考えているものと、絶対的に異なったもの、遠くかけ離れたものではないでしょうーー

ヘーゲルにおける総合概念の理解と私が苦労している限定的否定の概念の理解といったような、最小限のニュアンスの違い、まさしくそのような微妙な違いに差異は潜んでいるのです。そして、哲学的に考えるという能力は本質的に、全体に関する差異を元来つねにこれらの最小限の差異に、もっとも小さなものをめぐる差異のうちに、経験する能力にほかたらないのです。

 

 

体系の概念について(Ⅰ)

哲学的体系という概念は久しく不信をまねいています。

体系をもたず、存在論をもたず、それていて拘束力をそなえた意味を有する哲学の可能性

微視的(ミクロロギー)研究者として評価の高いベンヤミンのような思想家が、現在では『証言』に掲載されている論考において、体系なしに哲学は不可能であるという見解を、きわめてはっきりと唱えているということ

体系なき哲学の可能性という問い

ーー哲学の体系は可能ではあるまいというありきたりの常識と逆に、それをまさしく反転させた問い、哲学の体系なき可能性の問いに、私たちは取り組まなければならないでしょう。


第四回講義 体系なき哲学は可能か
一九六五年一一月一八日

メモ書き

[挿入3a]
体系についての悪評一般、より重要なのはその必要を理解すること。

体系は一つの原理からの事象の展開であって、
力動的かつ全体的、「その外部に何も残さないようにする」というあり方。原形はフィヒテ。

すべての事実が前もって事実から抽出された秩序図式のうちにその定位置を見いだすこと、これが説明と見なされる。

全体性は概念把握の放棄と結びついている。
しかし、体系の潜伏によって、体系への衝動は変化している。その衝動は、もはやかつてと同じ衝動ではない。
否定的弁証法は、この観点のもとで、体系の変化を意識するものである。

思想はいわば自分に抵抗するものに準拠する。体系のかわりに、事象からの強制。

二重の意味での批判ーー一つは概念の批判、もう一[つ]は事象の批判!なお議論の必要あり。

体系に関して救出されるべきことーーさまざまな現象は客観的に一つの連関を形成しているのであって、分類されることによってはじめて連関を形成するのではない、ということ。ただし、そうした体系を実体化してはならないし、外から現象にあてがってもならない。体系は、現象自体において、そのもっとも内的な規定において見いだされるものである。そのための方法が否[定]弁[証法]でなければならない。

修正は実現されていず、哲学の無効さを証明するはずの一点も達成されていない。

 

 

講義録

体系の概念について(Ⅱ)

背景にあるのは、プラトンからドイツ観念論にいたるまで、伝統的な哲学概念が、世界全体を説明すること、あるいは少なくとも、そこから全体を生み出すことができる世界の根拠について説明することを目指すものであった、ということです。そしてその際体系は、そうした全体をもたらすことのできる形式、したがって、いわばその外部に何も残さないような形式のことを意味しています。

 

 

体系と体系学

体系学という概念が主観的理性の秩序図式であり、分類のための枠として構想されるものであるのに対して、強調された意味での体系、もともとの哲学上の意味での体系とは、ある一つの原理からの事象それ自体の展開であって、いわば力動的なものと言えるでしょう。

 

 

ハイデガーの潜在的な体系

ハイデガーにおいては逆説的にも、非合理的になった哲学体系について語ることができるわけです。すなわち、この体系は、総体性の要求を概念把握の放棄と、あるいはハイデガー自身が多くの箇所で、少なくとも『存在と時間』ではなお語っているところでは、全体性Ganzheitの要求を概念把握の放棄と結びつけるのです。

カントは超越論的観念論の体系という理念をきわめて強く擁護し、積極的に作り上げられたそうした体系によって三つの「批判」を補う計画をもっていましたが、カントは同時にまた対象を「内側から」概念把握するという考えを、ライプニッツ的・知性主義的なものとして拒否してもいました。

 

 

体系の世俗化としての否定弁証法

私がハイデガー哲学を偽装した観念論と思っていることを、私は否定するつもりはありません。大切なのはここで生じていることです。すなわち、体系概念はもはやそれ自体として現われてくることはなく、先に指摘したとおり、それは潜在的になっています。

このことがまさにその際、体系概念自体を質的に変化させるのです。

 

 

肯定的なものの統一的契機と抵抗、個別的なものの分析と体系の力

思想の構造は、その思想の圏内にある、歴史的に現に存在している思考の形態によって作り出されるのです。もちろんこれは新しいことではなく、哲学の歴史を通しておそらくつねにそうであったことです。
 この意味において、思考の統一は、もともとつねに、自らが置かれている歴史的位置、それが置かれている特定の状況のなかでその思考が否定している当のものに根ざしている、と言えるかもしれません。そしてこれは「哲学はその時代を思想の形で捉えたものである」というヘーゲルの命題が告げていることでもあります。

思想は、体系なしに拘束力をもとうとするなら、自分に対立して現われてくる抵抗に準拠するのであって、それゆえ、統一的契機はら思想自体の「自由な事行」ではなく、事象が思想におよぼす強制力に由来するのである、と。

まず要請されるのは、体系のそなえていた力、かつて思考の形成物の統一性が全体として保持していた力を、個別的なものに対する批判の力、個々の現象にたいする批判の力へと転換する、ということでしょう。もちろんその際、批判は二重のことを意味しています。

すなわち、現象が客観的にーーつまり、認識主体が現象に分類図式をあてがうことによってはじめてではなくーー一つの連関をなしている、ということです。

この連関は、あくまで事象それ自体において、その内的な規定において見出さねばなりません。

 

 

田舎臭さへの強制

こんにちでは、哲学それ自体のなかに田舎臭さという契機が含まれている、と言えるかもしれません。ちなみに、どんな指令にも屈せず、時代の一般的な潮流ーーたとえそれがいっそう進んだ進歩的な性質のものであったとしてもーーに対してはつねに抵抗するといった態度が、ある種の無邪気さや時代遅れの感覚といった田舎臭さの契機をそれ自体のうちに含んでいるということ、このこともまた現代の特徴です。

 

 

こんにちにおける第一一テーゼ
 
哲学の理想を最終的に実現すること、とりわけ、人間にとって異質な制度からの人間の解放を実現することによって、それ自体やはり抽象的で、孤立した、たんに精神的な反省形式にすぎないものとしての哲学は不要になる、ということです。

 

 

第五回講義 理論と実践について

一九六五年一一月ニ三日

メモ書き

理[論]と実践の二分法ではない。

(1)時代の傾向から実現のときが迫っているなどと考えてはならない。

(2)実践の立場から思考の制約を導き出してはならない。ブレヒトと観念論。

(3)解[釈]Interpretierenとは、判断することdeutenであって、必ずしも承認することではない。私のテーゼーー解釈とは批判である。この意味での[解]なくして、真の実践はない。

 

 

講義録

実践への移行は歴史的に失敗した

ヘーゲルにおいて告知されていたような哲学それ自身の同一性要求〔主観と客観の同一性の要求〕は、その後、決定的な場、すなわち実践への移行の地点で挫折しました。それは、マルクスの教えによれば、自由の王国と必然の王国が実際に一致するはずの場所でした。この挫折によって、哲学はきわめて根本的な自己批判を必要としているのであって、なぜそういったことすべてが成功しなかったのか、哲学は省察しなければなりません。

 

 

マルクスの科学概念、哲学の定義について

理論と実践の単純な二分法は存在しない

ーー哲学は実際、芸術的などとは違って、自分のうちで安らいでいる自律的な形成物ではなく、つねに何らかの事象的なもの、自らの外部、自らの思想の外部にある現実と関わるものだからです。そもそも、思想とそれ自体としてはやはり思想でないものとのこの関係こそ、哲学の中心主題であると言えるでしょう。とはいえ、哲学がそもそも現実とたびたび関わりをもたねばならないとき、この現実とのたんに観想的な関わり、自己充足的な関わり、したがって実践を目指すことのない関わりは、無意味であることが明らかになります。なぜなら、現実についての思考の行為それ自体がすでにーーたとえその思考自身にはそうした自覚がなくともーー実践的行為であるからです。

 

 

生産力と生産関係の対立

正しい実践の出発点となりうるのは、社会は一体どのようにすれば正しいものにいたりうるのかということを、とにかくいま新たに考え抜くことだと思います。社会は、凝固した諸関係およびその諸関係に従って形成された意識という側面から見ると、確かに停滞したものとなる恐れがあります。

大事なのは、細かな思考です。

状況をあてにした実践がすべて無力さを思い知らされるほかないのは歴然としています。
結局のところ、理論と実践の関係がきわめて真剣に受け取られるところ、そこにおいてこそ、本質的な課題の一つが存するのです。

 

 

実践主義に抗して

こんにちの生産関係やそもそもそれに適合した社会形態においては、それに介入しようとする政治的実践にはとてつもなく大きな制約が待ち受けています。

批判としての解釈、哲学と革命、科学が哲学へ差し戻されていること

ーーそもそも本質的に、解釈とはそれ自体、批判と同義だ、ということです。

科学問題と呼ばれてきたものは、避けようもなく、科学の自己反省の問題、科学批判の問題、科学の自己理解の問題となっています。したがって言い換えると、科学をめぐる問題はもともと哲学から奪い取られてきたものであるのに、それらの問題は哲学に立ち戻るように命じられている、ということです。科学が自己反省の力によって哲学に立ち戻っていくこの過程こそまさしく、私がここで掲げてきた哲学のアクチュアリティの要請ととにかく深く関係しているように思われます。

 

 

ヘーゲル左派と行動様式としての思考

思考は、それが行なうあらゆる総合をつうじて、物事を変化させます。

これまで十分何度も示唆してきた理由から、思考自体が麻痺しているために、無力で行き当たりばったりの実践が、いとも簡単に、起こってくれないことの一種の代用となっています。そもそもそれが真の実践ではないことを深く知れば知るほど、ますます躍起になって、意識はそうした実践にしがみつくのです。

正しい実践が可能となるためにはまずもって、実践自体が歪められていることを十全にかつ余すところなく自覚することが前提となる

思想の価値がただちにその実現の可能性を尺度にして測られるなら、思考の生産力には足かせがかけられてしまいます。

実践になりうる思想とはおそらく、そのような実践によって前もって制約されていない思想のみなのです。

 

『アドルノ 否定弁証法講義』T・W・アドルノ/著、細見和之・河原理・高安啓介/訳より抜粋し引用。

 

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