小動物とエクリ -4ページ目

たんなる概念 = 可能なかぎりの取り消し ②

 


第六回講義 存在と無の概念
一九六五年一一月ニ五日

メモ書き

無限に延期された実践はもはや哲学に対する異議申し立ての審級ではない。◉ーーなぜそれが起こらなかったのかについての熟慮、それが哲学である。そこには社会についてのもっとも進んだ洞察が含まれている。枠組みではない。

哲学の同一性要求は、決定的なところ、実践への移行というところで、失敗したがゆえに、哲学は根本的な自己批判を必要とする。田舎臭さから離脱すること。

哲[学]は可能かということは、弁証法はなお可能かということ。

◉状況ーー思想は哲[学]へと引き戻される。さらに、こんにちでは、小休止を差し挟むことのみがその可能性を保持している。

世界が変革されたなかったのは、あまりに解釈されてこなかったからでもある。

◉存在と思考の同一性という要求は異議に曝された。仮に哲学と精神が同一であるなら、世界は有意味であることになるだろう。
 大局的には、世界が理性的で有意味なものとはもはや主張できなくなっているがゆえに、思想はそのもっとも深い内[奥]にいたるまで現実の現実の歴史に脅かされている。

(2)存在と無の同一性について説くために、存在は無規定なものとして、無規定性に、すなわち概念になる。これによって絶対精神の帰結が悪ふざけのように先取りされる。

哲学はうまくいかないし、哲学なしでもうまくいかない。しかし肝心なのは、哲学はそもそもなお正当に、事象に関わること、内容に関わること、したがって本質的なことについて、語ることができるのか、ということである。

講義録

自己批判としての哲学

理論が実践へ移行する見通しが裏切られたことによって、理論と実践のあいだの過程〔係争問題〕は、ある意味において、ふたたび理論のもとに差し戻されているのです。

非概念的なものの哲学について、束の間の「平穏さ」

弁証法とは、哲学と異質なもの、哲学にとっての他者ーー先取りして言ってよろしければーー非概念的なものを、哲学のなかに取り込もうとする試みを表わしています。それは、ヘーゲルの意味では、非同一的なものの同一化ですが、私がみなさんに示している問題設定の意味では、非概念的なものを取り込むというよりもむしろ、非概念的なものを非概念的なあり方で把握することにほかなりません。

思想は哲学へ引き戻される一方で、その哲学自体もまた疑わしくなっている、というのが現状です。

自然支配と社会的支配

『資本論』のはっきり述べられた一節によると、動物から剰余価値は発生しないとされています。この事実はおそらく、マルクスにおいて自然支配の原理が素朴に受け入れられていることを象徴的に示す、もっとも際立った例にすぎません。

思考と存在の同一性ではなく

思考と事物の同一性という命題を尺度にして思想を測るなら、まさに両者の不一致という歴史的経験によって、思想はそのもっとも深い内奥まで脅かされているのです。

したがって私たちは、理論的な思想の同一性はそれ自体誤りであること、そのような思想は不正に得られたものであることを、示すことができるわけです。そして私は、このような指摘、否定的であらざるをえないこのような指摘を、まずもってこんにちの哲学的批判の中心的な問題と見なしています。

ヘーゲルにおける無規定的なものと無規定性

「論理学」

「存在」の概念にとって概念としての「存在」と事象としての「存在」の区別は無関係である、ということを前提としていますが、この命題は何を語っているか、私たちは一度じっくり考えてみなければなりません。

ヘーゲルは、空虚な空間といった概念は抽象の結果であって、経験的には空しいものだ、と語っています。ちなみにヘーゲルは実際このことを存在概念にも認めていることになるでしょう。存在概念は『論理学』の行程においてそれ自体媒介されたものだからです。そして『論理学』の歩みそれ自体がーーこう言ってよろしければーー規定の歩みであって、そもそも存在概念といったものに到達するにいたるまで遂行されねばならない、抽象の詳細な段階なのです。したがってそのかぎりで、ヘーゲル『論理学』の前向きの動きは、その最初の一歩からしてすでに、同時にまた後向きの動きであるわけです。

「それら[すなわち、純粋な空間と時間、純粋な意識、純粋な存在といった思想]は抽象の結果であって、無規定的なものとしてはっきりと規定されている。この無規定的なものは、そのもっとも単純な形式に遡るなら、存在である」。

「しかしこの◉無規定性こそ、まさにそのものの」ーーすなわち存在のーー「規定性をなしているものである。というのも、無規定性は規定性に対立するものであるからである。したがって、無規定性はそれ自体、対立させられたものとして、規定されたものないしは否定的なものである。しかもそれは、純粋でまったく抽象的な否定的なものである。

こんにちの私たちなら「即自的に」と言うところです。即自的にもつということですーー「こうした無規定性もしくは抽象的な否定は、外的および内的な反省がそれ」ーーすなわち、存在ーー「を無と同一視し、空虚な思想の産物、無として説明することによって、語るところのものである」。

「無規定的なもの」のほうは実体性をそなえています。

いずれにせよ、無規定的なものは、区別のないあり方をそなえていることによって、まさしく両者を、すなわち概念と無規定的とされる事物を、含んでいます。

実体の表現である「無規定的なもの」から「無規定性」へのたんなる言葉の転換は、すでに概念への転換であるわけです。

そして、このようにして存在と同一視される概念の本質は、根本においてここですでに同一化という根源的な行為であって、この行為によって存在のうちの存在者、すなわち無規定性ではなくて無規定的なものである存在者は排除されるのです。ひとえにこの同一化の行為によって、ヘーゲルはただちに、この存在を、純粋に概念的なものとして、その純粋な概念性、つまりまさにこの無規定性と同一視することができるのだ、と私は申し上げます。

存在と無の同等性は、存在が無規定性として把握されることと固く結びついているということ、言い換えれば、存在が最初から概念の領域に現われることと固く結びついているということ

存在が相変わらず無規定的なものであるならば、存在と無を同一視することはできないでしょう。

◉無規定性は、実のところ、たんなる概念、純粋な概念にすぎず、まさにそのことによって無となるのです。

概念の自己批判、概念と非概念的なもの、形式的な哲学と内容に関わる哲学

ヘーゲル哲学全体は元来、非概念的なものをはじめから魔術的に消し去ることによってのみ、同一性に到達する、という性格をもつのです。これは哲学にとって最大の誘惑です。

芸術はまさしくこの問題と一種絶望に陥りながら繰り返し取り組んできました。それは、芸術家たちの本能的な神経がまさにこの箇所で何かを感じてきたことを示しているのかもしれません。

つまり、私たちは哲学において、概念によってまた概念について語らねばならないのです。

すなわち、◉哲学は自分がもっぱら概念のみを扱っているという過程を、それ自体概念によって反省し、この過程自体を概念にまで高めることによって、それを修正したり、まさに概念という手段によって可能なかぎりで取り消しするのだ、と。

哲学は本来その対象を、まさしく哲学がその出発点からして一般に抹殺してしまうところのもの、概念の残り滓、すなわちそれ自体は概念ではないものに有しているのだ、と。
 否定弁証法は可能かという問いは、こうした解きほぐしの過程を成功するかとどうか、すなわち、概念が自分の概念としての本質によって自分および自分の向かう対象の周囲に打ち立てている壁を、まさしくこの解きほぐしをつうじて打ち壊すことが概念の自己反省に可能かどうか、という問いです。

すなわち、こんにちのアカデミズムの現状において哲学は、一方で恣意的・偶然的なものへ、他方で形式的なものへと両極化しているだけではなく、これら両極のあいだには一種の機能連関が存在している、と。

これまで哲学者たちは普遍概念的なものを唯一実体的なものと同一視することで全員一致していますが、もちろん、こうした同一視から逃れることによってのみ、哲学は内容をもちかつ厳密なものであることができるのです。

 

 

第七講義「脱出の試み」
一九六五年一一月三〇日

メモ書き

ーーフロイトとの関連、すなわち現象界の残り滓との関連。ーーなおざりにされたもの、排除されたものとして媒介されている、概念を欠いたもの。ここに概念の〈先入主〉がある。
 ベルクソンもフッサールも、それを、つまり非概念的なものへの関心を、本能的に感知していた。
 ベ[ルクソン]は、概念的なものの下にある層において、無定形なイメージ〔イマージュ〕という形で。

(4)両者の観念論的な、それゆえ失敗した脱出の試み。両者の客観性は、たんなる主観的なものである。ーー脱出は行為としては不可能であり、ただ自己反省をつうじてのみ可能。
 ◉哲学は、やはり脱出することを課題としている。たとえどんなにわずかの信頼であろうとそれへの信頼なくしては、立ちゆかない。
 哲学は、語りえないものを語らねばならない。ヴィトゲンシュタインに抗して。この矛盾に哲学はとことん苦労しなければならない。

哲学それ自身の概念が矛盾に満ちており、それ自身において弁証法的。
 ◉認識のユートピアとは、概念を欠いたものを、概念と同一化することなく、概念によって開示すること。
 無限なものという理念の機能転換。
 哲[学]は「隈なく論じる」という態度をとってはならないし、対象を最小限の命題へ還元してもならない。

(5)哲学は、あらかじめ準備されたカテゴリーにもたらすことなしに、自分と異質なものを目指しいる。

講義録

形式主義と偶然性、ハイデガーの懐古的な性格

哲学の使命はーーこの点が哲学を文化についてのただのおしゃべりと区別するのですがーー、批判の対象自体を別の方向へ転じうること、すなわち、批判の対象自体をさらに必然性において理解することによってそれに運動をもたらすこと、にあるのです。

哲学は、実質的なものに踏み込む場合には、実質的なものへのこの移行それ自体を偶然的なものと見えないようにすることに当然ながら大いに腐心しますーー実際には、たとえばまさにその存在概念に何ら説得力がないことを見れば明らかなように、この移行は偶然的であらざるをえないのですが。

現在の存在論の潮流は、そもそも実質的領域は、移ろいゆくものが存在それ自身の一つのあり方として実体化されたものです。それは、移ろいゆくというあり方を存在の性質として認めることで、一方ではその移ろいと偶然性から逃れるとともに、他方ではやはり、歴史的なものや生成したものから具体性の色合いを借り受けるためです。

ヘーゲルの概念としての存在者、クルークのペンとフロイトの「現象界の残り滓」

哲学は、まさしくヘーゲルおよびヘーゲルとともにそもそもすべての伝統的哲学が関心を寄せないところ、すなわち概念を欠いたものにこそ、関心を寄せるのだ、と。

そのもっとも本質的なモティーフの一つに対して、すなわち概念を欠いたものを把握するという試みに対して、無力さをさらけ出す、ということです。

これは実際のところ、ア・プリオリな構えでは切り抜けることのできない一点なのだと思います。

つまり、私たちがそれをすでに知っているなら、それがすでに保証済みのものであるなら、それを初めて取りだそうとする哲学の努力や仕事など不要でしょう。

ある程度、先取りする理論的熟慮によってのみ予期されうるものなのです。

フロイトの心理学は、通常は見向きもされない現象、言い間違い、偶然の行為、錯誤行為等々といった、現象界のクズ、「現象界の残り滓」に目を向けました。これら一つ一つが何を意味しているかは、もちろん予期することはできません。

実際、フロイト心理学の三つの主要テーマ、すなわちまさしくこの偶然的な錯誤行為と夢と神経症を総じて特徴づけているのは、それらにおいては、◉私たちが言うところの概念を欠いていること、あるいはこんにち言われるところの不条理性、非合理性という契機が、概念に対する重要性、本質性と結びついている、ということです。

なおざりにされたものとしての概念を欠いたもの、ミクロロギーという方法について

フランスのシュールレアリズム運動は、歴史哲学的かつメタ心理学的意味において、そういうものに対する並はずれて鋭敏な本能を発揮しました。
 ◉概念を欠いたもの自体は、私たちがそれに着手する際、私たちがそもそもそれに初めて向き合う際、すでに否定的な意味で概念によって媒介されているーーつまり、なおざりにされたもの、排除されまものとして媒介されている、と言うことができます。概念がそれを自分のなかに迎え入れなかったというまさにその点に、概念の先入観、〈先入主〉、防御壁といったものを認めることができると言えるでしょう。

社会的抑圧といったものも実際に存在するのです。

◉実際、概念とは一般にその対象を拡大するものであって、対象のうちの他の対象と比較できるくらい十分大きなものしか目にとめません。そしてその際、網の目からこぼれ落ちるものこそまさに極小のものなのですが、そもそも哲学的解釈を待ち受けているものはたいていここに含まれているのです。

そして、その世代の人々の仕事で何らかの形で現代的なものという要求をともなって登場しうるものには、この欲求が刻印されているのです。

ベルクソンとフッサール

両者の出発点は、因果論的・機械論的思考およびそれにつきまとう欠陥ーー概念的に把握するという意図にとって因果論的・機械論で思考に必然的につきまとう欠陥ーーの全面支配に抵抗する、ということでした。
 ベルクソンは、まさにそういう分類的概念に対して概念を欠いたものをいっそう高次の真理と見なし、多少とも無定形なイメージ〔イマージュ〕の層にその真理を求めました。

それらは無意識のイメージの世界に位置づけられるのですから、フロイトの精神分析が繰り返し行き着くイメージとはおそらくそんなに異ならない世界です。それらのイメージは、抽象によって成立している整除された意識に対して、事物自身の直接的な知のようなものとされます。

フッサールが説いたのは、「本質的なもの」、したがって哲学的に重要なもの(もちろんそれは概念と呼ばれねばならないでしょう)は、そのつど個別的なものから直観によって取り出されうる、ということでした。したがって、◉本質的なものとは、経験されたもの、具体的なもの、個別的なものに対するある種の「態度」の所産であって、一般に想定されているように、比較にもとづく抽象によって生じるのではない、ということです。

◉つまり、概念は、その客観性のゆえに、そのつどの個別的なもののうちにすでに潜んでおり、主観による媒介的な整除によって初めて個別的なものから取り出されるものではない、とされるのです。

しかし両者において、彼らが哲学的な努力を集中させている概念を欠いたものは、それ自体精神的なもの、主観的なものにさえとどまっています。しかも実際のところ、概念を欠いたものにつねにすでに概念は潜んでいるのてす。

ベルクソンの「イメージ」、プルーストによるベルクソンの論証、フッサールの概念実在論

ベルクソンの場合、ある種恣意的に、認識の二重性が独断的に想定されています。一方にイメージから与えられるあの深遠な本質認識があり、他方に通常の分類的な科学の認識があって、これらは二つの可能性として、単純に二元論的に並列されたままです。

ベルクソンの全思考は、後期の著作『道徳と宗教の二源泉』にいたるまで、厳密に二元論的な性格を保ち続けたのです。その際彼が見落としているのは、主観における前概念的なものとしての客観性を有するとされる、直観的認識ないしイメージと呼ばれるものは、概念をつうじて以外そもそも表現されえない、ということです。

こうして、哲学が使命として自らに課していたものは、結局は詩に譲り渡され、詩の使命とされるのです。

実際のところ、そういう概念の存在論的正当化の試みのようなものでしかありません。フッサールのもとで個別的経験に与えられるもの、個別的経験に開示されるものを注視してみても、そこにあるのはたんになる抽象的なカテゴリーであって、通常の科学的思考のカテゴリーとも何一つ変わりません。

過去になされた脱出の試みの失敗、自己省察による脱出という課題

両者はともに、意識内在、「意識流」という概念をーー支配的な観念論的認識論のすべてて一致してーー認識の本来の基盤と見なすと同時に、自分たちが意識流それ自体に見出したあの主観的なものに、ある種の意志的な行為のみでもって、いっそう高次の客観性という称号や肩書きを授与できると信じていました。これによって彼らは、概念の領域からの脱出を遂行していると信じていたのです。

したがって、本質的なものの客観性と称されるものへ、あるいは超主観的と称されつつも主観のなかに何らかの形で設定されているあのイメージの世界へ、身を投じても無駄だ、ということです。

脱出といったことが可能だとしても、主観に固有でないものをそのように定立することによっては、つまり非我の定立によっては、脱出は成功しません。実際、非我の主観による定立こそが観念論の頂点だったということは、哲学史が私たちに教えるところです。そうではなく、そもそもそうした脱出の可能性がもし存在するのなら、そこに通じている道は、主観の領域を批判的に自己反省する道以外にはないでしょう。この反省において自己自身への洞察は、この主観的な領域がそれ自体たんに主観的なものではなく、主観が観念論的に初めて作り出すと思いこんでいる当のものとの関係を必然的に前提しているものだ、ということを認識します。

つまり逆に非我こそが定立するのだといった証明をへずに、主観それ自身が一つの定立されたものである、あるいはいずれにしろ主観は一つの措定されたものでもあるということが、主観に対して証明されることになるのです。

しかし、出来合いの概念の領域からの脱出、この概念に本質的に属している非概念的なものへの脱出がそれでもやはり可能なのだ、という信頼なくしては、そもそも私たちは実際に哲学することはできなくなるでしょう。

したがって、明瞭に表現できないものについては沈黙すべきであるというヴィトゲンシュタインの命題は、反哲学的命題そのものと言えるでしょう。そうではなく、語りえないこと、すなわち、一つの個別的な命題もしくは複数の個別的な命題で直接的には語りえないこと、もっぱらある連関においてのみ語りうることを、何とか口にしようと努力すること、それこそが哲学なのです。そのかぎりではおそらく、哲学という概念自身がみずからの媒介をつうじて〈今此処デ〉直接的には口にしえないことを語るという矛盾に満ちた努力なのであって、そのかぎりで哲学はそれ自身の概念からして矛盾に満ちており、したがってそれ自身において弁証法的である、と言わねばならないでしょう。そしておそらくそもそもそも弁証法という手続きをもっと深いところで正当化してくれるのは、哲学それ自身がーーあらゆる特殊な内容とすべての特殊なテーゼに先立って、語りえないことを口にする試みとしてーー弁証法的に規定されている、ということでしょう。

認識のユートピアとは、概念を欠いたものを概念をもたない何らかの高次の方法と称されるものによって捉えることでは決してなく、概念を欠いたものを概念を媒介として、さまざまな概念の自己批判を媒介として、開示することである、ということになるでしょうーーその際、概念を欠いたもの、概念把握されるものは、それ自体暴力的に外部から概念と同一化されてはならないのです。

無限なるものの理念、「隈なく論じること」に抗して

とりわけ哲学における微積分計算〔字義どおりには「無限小の計算」〕の発明者であるライプニッツ以来、近代の哲学者たちは特別深くこの概念と関わり合ってきました。すなわち無限なるものという理念です。実際一般に哲学は、少なくとも近代哲学は、ある観点からすれば、無限なるものを思考する努力と同じである、と言うこともできるでしょう。

精神の可能性とは、一点に集中しうること、一点に集中的に沈潜しうることであって、量的に完全でありうることはできないということは、私には最初から明らかだったからです。

したがって哲学が目指しているのはーー

 

◉自分と異質なもの、自分自身でないものであって、存在するすべてのものを自分自身へ、自分の観念へもたらそうとする試みではないのです。したがって、哲学が目指しているのは、世界をあらかじめ加工されたカテゴリーの体系へ還元することではなく、まさにその反対に、経験において精神に差し出されるものに対して、ある一定の意味において自らを開かれたものにする試みである、ということです。

 

 

第八回講義 精神的経験という概念
一九六五念一二月二日

メモ書き

無限なものの概念の地位の変化、この概念は観念[論]においておしゃべりにまで堕落した。

観念[論]においては、乏しい有限なカテゴリーによって、無限な対象が所有されると主張される。これによって、哲学は有限なもの、完結したものとなる。それゆえの狭隘さ、片田舎のモデル。田舎臭さにさえ体系的理由がある。

哲[学]はもはや無限なものを意のままにすることはできない。

ーーそもそも哲学が所持しているのは有限なものだけ。

すなわち、数え上げることのできる定理の集積にもはや固定化されず、原理的に開かれたものとなる。

開かれていることにおいて規定されている。

哲学が自らを乗り越えてゆくとともに増大するのは、柔軟さではなく、哲学の規定性である。哲学はそれを対[象]から受け取る。
 哲学は自らの内実を、切り縮められることのない対象の多様性に探し求めねばならない。

哲学にうまく差出された個別的なもの、特殊的なものはすべて、繰り返し哲学の手をすり抜ける全体を、ただむしろ予定不調和に従って、それ自身において表象しているに違いない、という保証のない期待が原動力。

(6)

全体という幻影を用意するのではなく、哲学において真理が結晶すべき。

モデルは、哲学的解釈において芸術作品が展開されるということ。
 ◉抽象化の規則化された進行、あるいは概念への包摂といった習得することのできるものは、もっとも広い意味での技術だか(ベルクソンはこのことを知っていた)、〔既存のものに〕組み込まれるのでない哲学にとっては、どうでもいいものである。

講義録

観念論における無限なものという概念について

実際、無限なものという概念が元来登場したのは、ライプニッツがニュートンとは無関係に発明した微積分〔字義どおりには[無限小]〕の方法とおそらく本質的に関連してのことでした。

それはおそらく、哲学においてフィヒテ以来生じた、そしてまさしく自然哲学者シェリングにおいてもっとも顕著に生じた、数学と自然諸科学の分離が関連しているでしょう。

つまり、◉すべての有限な運動は有限なものとして自己自身を否定しなければならないことによって、有限な運動の総体はすでに積極的な無限性への歩みである、ということです。

すなわち有限なものの否定はそれ自体において無限性の成立を内実としてもっているということが、ある意味でヘーゲル哲学全体の一般テーゼと言えるでしょう。しかし他方において、やはりそのとき、数学的に規定された形態と比べると、無限性という概念の変容が生じていると思われます。それはそもそもこの概念の核心を蝕むものと言いたくなるほどの変化です。

カテゴリーの有限性、無限なものという主張に抗して
 このことによって、その後哲学を支配することになる空疎さという独特の特徴が、無限なものについての語りに登場しました。

この哲学はやはりそれ自体有限なものであって、自分が得意気にしやべりちらしている無限なものを支配できていないのではないかという深い疑念を、無限なものについての語りはかき消そうとしているのではないか。そのような印象を受けることもときおりあります。

この◉哲学の掲げる絶対的な同一性の要求、したがって、端的にすべてのものは哲学の諸規定に解消されるという要求は、当然ながら必然的に積極的な無限性を要求するものだからです。

「開かれたもの」の哲学について

死すべきもののもつ思考のカテゴリーにおいてのみ、不死なるものは捉えうるのであって、有限性のカテゴリー以外のもので超越を手に入れようとするすべての試みは、あらかじめ無効を宣言されているのだ、と。

哲学が無限なものをもつことを放棄することにおいてのみ、自分の有限性を素朴に実体化するもの以上であるという希望を哲学はもつことができる

すなわち、哲学の課題のこの変更をつうじて、ある意味で、哲学自体が無限なものとなるのだ、と。すなわち哲学は、たとえばカントの「原則の体系」に示されているような、数え上げることのできる定理の集積にもはや固定化されず、根本的に開かれたものとなるのです。

その際ただちに、とりわけ生の哲学が屈服した問題が生じます。

哲学のみごとな離れ技とは、すなわち、開かれて哲学するとともにやはり軟体動物のようではないこと、ありとあらゆる対象に好き勝手にくっついたりせず、自らの内的欲求に従って、客観から与えられる強制的な筋道を追求すること、です。

精神的経験という概念と演繹、新たなものの経験、〈第一哲学〉からのメタレベルでの批判的転換

◉哲学は自らの対象を鏡として用いて、そこにつねに自分自身を再認する、というのであってはなりません。

すなわち、ここでつねに原則として重要なのは実際、下から上への認識であって、上から下への認識ではありません。

必要なのはひとえにこの精神的経験の概念をしっかりと追求することです。

そのような経験の内容は決してカテゴリーの実例ではなく、まさしくそれらにおいてそのつど新たなものが生じることで、経験内容は重要な意義をもつのです。一方、通常の経験論すべての誤り、通常の経験概念すべての誤りは、これらの経験論の哲学が認識論として、まさしく他なるものの経験の可能性、原理的に新たなものの経験可能性を、自らのゲームの規則によって断ち切っているところにある、と私には思えます。

メタレベルでの批判による〈第一哲学〉からの方向転換とは、無限なものについて得意気にしゃべりちらしながら、その手を逃れる無限なものを実際には無限なものとして尊重していない哲学の有限性から、方向転換することです。

哲学は全体という幻影を与えてはなりませんが、哲学において真理は結晶すべきなのです。

芸術作品と芸術の哲学の関係について

◉芸術作品はーーここでは私は暗黙のうちに真正の芸術作品についてのみ語っていますーーそれらが一方で、それ自身において有限なもの、輪郭をもったもの、空間ないし時間のうちに存在しているものでありながら、他方では、すぐにまったく開示されえないほどに無限の意味をそなえていて、まずもって分析を必要としているものであり、そういう意味において芸術作品は、積極的な無限性といったものを提示している、と。

この展開は芸術作品の哲学ーーもちろん分析をそなえた、しかもミクロロギー的な分析をそなえた、芸術作品の哲学ですーーをつうじてそもそも初めて可能となるのであり、また現実にもたらされるのだ、と言うことができます。◉精神的なものとして客観的に芸術作品に含まれているものが分析によって一歩ずつ確認されてゆくことによって、つまり、一歩ごとに作品の真理内容が確認されてゆく分析をつうじて、ある意味において芸術作品は生きるのです。

芸術作品が意味連関であるからこそ、芸術作品と波長を合わせることができるのだ、と。

芸術的は人為的なもの、人間の精神の産物であるがゆえにこそ、精神的である

啓蒙の弁証法、哲学が原理的に誤りうるものであること

思想がすでに反復の領域、たんなる再生産の領域に根を下ろした瞬間に、すでに哲学は自分の目標を見失ったことになるのです。

◉認識がそれ自体虚偽、非真理、時代遅れといったものになる危険に曝されているのは、すでに知られている知を乗り越えるからではなく、そのような認識それ自体が真ではない可能性をもつからだ、ということです。

真理内容自体が自らのうちに一つの時間の契機を宿しているのであって、真理内容は時代と無関係なものないし永遠のものという姿でたんに時間のなかに現われるのではない、ということです。
 そのかぎりで、懐疑主義とブラグマティズムは正しいのです。

その際の問題はひとえに、そのことによって本質的なものの認識であるという哲学の強調された意味での要求を放棄するのではなく、その要求自体を精神的経験に組み込む、ということなのです。

 

 

第九回講義 思弁的な契機
一九六五年一二月七日

メモ書き

方法の全体性に対して哲[学]は、本質的に遊戯という契機を有する。

哲学は真剣きまわりないものだが、かといってそれほど生真面目なわけでもない。

(7、挿入)哲[学]は芸術から借用するのではない。とりわけ直観を引き合いに出してはならない。

直観は一つの契機。思いつきなくして哲[学]はない。

それら[すなわち、直観]は無意識的な知の結晶である。
自ら芸術作品になろうとする哲[学]は、すでにそれだけで救いがたいだろう。そのような哲学は、あの統一性を、対象がすっかり自分のなかへ溶け込むということを、要請するだろうーーそのような同一性こそ、哲学の主題、しかも批判的な主題であるにもかかわらず。
芸術と哲[学]が共通点を有するのは、形式や形象化の手続きにおいてではなく、偽りの結晶化を禁じる振る舞いにおいてである。

哲[学]の理念とは、概念をつうじて概念を乗り越えてゆくこと。

(7)哲[学]は、観念論と訣別したあとも、思弁を欠くわけにはゆかない。

◉社会的過程の客観性と総体性は直接的な所与ではなく、事実から抽出されえないものである

◉自由とは意識をつうじて必然性を受け入れることである、というイメージを指示すること。

講義録

経験論に対する関係、精神的経験と精神化

経験概念はそれ自身のうちにまさにあの本質的に精神的な契機を有しているのであって、まさしく経験的潮流が否定するようなものとしてこそ、精神的経験であるのです。

精神的経験という方法には対象を精神化してしまう先入見がつきものであって、この先入見を自分自身のうちで繰り返し修正しなければならないのです。

真剣さと遊戯

「正しく」とは、まさに真剣きわまりないものと遊戯的なものに分類されるものの、独特の絡まり合いのもとで、ということであって、この絡まり合いがなければ、思想はともかく生きてゆくことができないのです。

馴致されないもの、非合理性、ミメーシス的契機ーー芸術と哲学の親和性について

思弁的〈ラチオ〉、すなわち、すでに所持している、所与の実定的なものの概念秩序を越え出る種類の〈ラチオ〉は、自分が確かなものとしてすでに所持しているものに違反するというまさにそのことによって、それ自身のうちに必然的に非合理性という契機をそなえているのだ、と。

すなわち、生物や意識が自分とは異なったものに直接的に同一化するという契機は、おそらく思考におけるこの契機を代表するものでしょう。

つまり◉哲学はもっぱら、精神と世界、精神と現実の非同一性を確認することをつうじて、真理に関与する、ということです。

◉哲学と芸術の関係は、事実の分類では満足しないという、まさしく〈テロス〉に存している

この〈テロス〉は両者においてまったく異なった道を辿ねばなりません。この〈テロス〉は確かに両者の領域の内容において収斂し合うのですが、芸術の方法を直接的にそのまま哲学に移行させようとすれば、その瞬間にこの〈テロス〉は腐敗し、台無しにされてしまいます。

直観、思いつき、連想

連想は、まるで閃光のように事象に降りかかる本来的に生産的な思いつきではなく、まさにその反対のものだ

つまり、直接的に事象のただなかで火花を発するのではなく、事象にたんにしがみつくことによって、かえって事象から逸脱してしまうものなのです。
 そして、思いつきを一つの契機として決して手放さない思考こそが、同時にまた思いつきに対する最高の批判であらねばならない

概念と概念を欠いたもの

いわゆる直観とはおそらく無意識的な知の結晶なのです。

思弁という概念、マルクスにおける思弁的な契機

本質は〈定義カラシテ〉一つの事実ではなく、感覚的経験の意味で直接指をあてがうことができるようなものではない

本質は、あらゆる事実とは対照的に、超越的なものを存立させるものです。

マルクスの理論構成の決定的な点に思弁的契機が存するのです。

生産力の形而上学

人間の生産力および技術におけるその拡張には、端的に絶対的な潜在能力が与えられているのです。

そもそもとことん究めようとする理論、つまり単純に理論を放棄せず、理論の概念に忠実であろうとする理論、そのような理論が思弁的な概念に向かわざるをえないところには、止むにやまれない欲求もまた存在しているのです。ただし、その際、その思弁的概念は、まさしくあの誤りうるという規定のもとに置かれているのです。

 

この誤りうることは哲学それ自体の本質と切り離すことができないのです。


『否定弁証法講義』T・W・アドルノ/著、細見和之・河原理・高安啓介/訳

 

全体性 = 概念把握の放棄 ①

 

 

第一回講義 矛盾という概念

一九六五年一一月九日 

メモ書き

否[定]弁[証]法ということで考えられているものーー同一性の弁証法ではなく、非同一性の弁証法。あまりに外面的な三段階の図式ではなく。とりわけ、いわゆる総合に強調点を置くのではないもの。弁[証]法は思考の繊維、内的な構造に関係づけられるのであって、建築術上の指示に関係づけられるのではない。
 根本構造ーー矛盾の構造、しかも二重の意味におけるそれ。
(1)概念の矛盾に満ちた性格、すなわち、それが表わしている事柄と矛盾しているという姿での概念(概念から抜け落ちているもの、および概念が概念以上のものである点、この二つを説明すること。矛盾=不一致。しかし、概念の強調された性質においてこれは矛盾となる。概念における矛盾であって、たんにさまざまな概念のあいだの矛盾ではない。
(2)現実の矛盾に満ちた性格。そのモデルは敵対的な社会(生命と破局を説明すること。こんにちでは社会は、自らを破壊するものをつうじて生き延びている)。
 この二重性格は世にも不思議なことではない。現実を敵対的なものとして作り上げている諸契機が、精神を、概念を、敵対的な関係に追いやっている。このことが示されねばならない。同一性へと精神化された、自然支配の原理。
 この点に、弁証法が恣意的に考え出されたものでも、世界観でもない理由が存する。弁証法による出発点が説得力のあるものであることを示すこと、それが私の課題だろう。

弁証法の二つの形態ーー観念論の弁証法と唯物論の弁証法。
ところでなぜ否定弁証法なのか。

否定は弁証法の塩〔生気〕である『精神現象学』

思考それ自体がまずもって所与のものの端的な否定である。あらゆる弁証法は否定的である。

講義録

パウル・ティリヒの死について

他人の意識からできるかぎり客観性を発展させる能力、客観性を相手の意識と結びつける能力

講義の計画と意図

大学の伝統的な定義は研究と教育の統一を要請するもの

哲学とは、まさしく絶えず生成途上にある思想のことです。

過程と結果は同一のものでさえあるのです。

哲学的思想にとっては、確定的なものではなく、試みの契機、実験的なものという契機こそ特有のものであって、この思想のあり方が哲学を実証諸科学から区別するのだと私は考えますし、この点に立ち入ることは、私の講義の重要な内容の一つとなるでしょう。

否定弁証法と崩壊の論理

要するに、否定弁証法とは、同一での弁証法ではなく非同一性の弁証法であるべきものです

◉重要なのは、存在と思考の同一性という概念を前提にしたり、またこの概念において頂点に達するような哲学の企てではなく、概念と事柄、主体と客体が別々のものを指し示していること、両者が非和解的であることを、はっきりと口にする哲学を企てることです。

ありきたりな意味での〈テーゼ〉、〈アンチテーゼ〉、〈ジンテーゼ〉を考えないでください。ヘーゲルは最終的にはやはり、〈ジンテーゼ〉の体系としてあろうとする体系といったものを保持していたのですが、そのヘーゲル自身でさえすでに、決して図式主義的な意味でこの図式にだけ固執したりしていませんでした。

否定弁証法においては〈ジンテーゼ〉という概念が驚くほど後景に退いていることに気づかれるでしょう。

ーー哲学的思考は実際本質的に、自分自身の精神的経験につき従うことに存するのですから、◉自分がなぜこんなにも総合という概念に苛立ちを覚えるのかを、自分自身の背後にまわって見抜くこと、それがこのような否定弁証法の動機の一つなのです。もう一つの動機は、散逸してしまった、私のいちばん古い自立的な(すなわち、他人の哲学を解釈するのではない)哲学的著作が崩壊の論理に向けられていた、ということです。

私が念頭においているのは、思考の繊維、思考の内的な構造、すなわち、ヘーゲルとともに語るなら、◉概念が自分の反対物、非概念的なもののほうへと動いてゆく、その仕方です。その際、概念は一種の思考の建築術のほうへ自らを張り巡らしたりはしません。

概念における矛盾

Aであると言われるすべてのB は、つねにまた他なるものでもあって、つねにA以上のもの、述語的判断においてそれが帰属させられている概念以上のものでもあります。

この関係、概念は、それが包摂している当の諸要素よりも、つねに同時によりわずかでもあれば何時により以上でもある、というこの関係は、非合理なものでもなければ、偶然的なものでもありません。哲学的な理論、哲学的な批判は、この関係を、細部にいたるまで規定することができますし、規定しなければならないのです。

論理のもつ同一性への強制力

私たちの論理の諸形式が思考に行使するこの同一性の強制によって、この同一性の強制に従わないものは、必然的に矛盾という性格を帯びることになるのです。

すなわち、矛盾するものはすべて論理学から排除されているべきである、ということです。そしてその際、同一性の定立に適応しないものはすべて、まさにそれだけで矛盾したものとなるのです。したがって、◉根本において矛盾という概念のうえに、あるいは矛盾の拒絶のうえに、私たちの論理のすべてが、したがって私たちの思考もまた、打ち立てられているということ、このことがまずもって、このような弁証法〔否定弁証法〕のなかへ矛盾という概念を中心的な概念として組み込み、そこからその概念を分析しようとすることを、正当化するのです。

客体における矛盾、社会の敵対的な関係、自然支配

矛盾というカテゴリーが中心にあるという意味での弁証法的思考に向かわせるのは、概念の構造および事柄それ自身に対する概念の関係である

また他方でそのような弁証法的思考に向かわせるのは、客観的現実、客体の領域でもあります

ほんの一瞬でいいですから、単純素朴な立場にたって、客観性の領域といったものを、素朴な実在論がそう見なすように、思考から独立したものとして思い描いてみてください。その際のモデルとなるのは、私たちが暮らしているのは敵対的な社会である、ということです。

すなわち、社会はそれが抱える矛盾とともに、あるいはそれが抱える矛盾にもかかわらず生き延びているのではなく、それが抱える矛盾をつうじてこそ生き延びている、ということです。

社会を分裂させ、潜在的に引き裂いているこの動機はまた同時に、社会自身の生命を再生産する手立てそのものなのです。

こんにちすでに経済システムの総体がどのように自己を維持しているかを考えると、いわゆる資本主義国であれ、ロシア、中国の勢力圏にある国々である、どの国々においても、社会的生産の非常に大きな部分を絶え間なしに、絶滅の手段に、とりわけ核兵器とそれにまつわるものに費やすことによってのみ維持されているということは、十分ありえそうなことです。

この考察は、客観的な側面から見ても矛盾の概念に向かわざるをえないこと、しかも、二つの無関係な事柄のあいだの矛盾ではなく、内在的な矛盾、事柄それ事実のうちに存在している矛盾の概念に向かわざるをえないことを、さしあたりみなさんに十分示しているだろう、と私は思います。

この二重の性格、すなわち、一方には思想と概念に存する矛盾があり、他方では世界それ自体がまたその客観的な形態からして敵対的であるということ

すなわち、現実を敵対的な現実として浮き彫りにしている諸契機はまた、精神に、したがって概念に、内在的な矛盾を負わせている諸契機と同一のものである、ということです。言い換えれば、どちらにおいても肝心なのは支配の原理、自然支配の原理であって、この支配がさらに進展し、人間による人間の支配にまで推し進められ、この支配はその精神的な反映を同一性という原理に見いだすということです。この原理に従って、あらゆる精神には、自分に近寄らせられたり、こちらから突き当たったりする他なるものを、自分と同一化したり、それによって自分の支配圏に引き込んだりしようとする努力が内在しているのです。

観念論の弁証法、唯物論の弁証法、否定弁証法

さてすでに、弁証法が、したがってその器官および内容が本質的に矛盾である思考が、恣意的に考え出されたもの、いわゆる世界観ではない、ということがもちろんすでに含まれています。といいますのも、矛盾の不可避性が、みさなんに素描したように、実際に事柄の側からも、思想の側からも示されるとすれば、この事態を引き受ける思考は実際のところ、自らの対象から差し出されたものを遂行する、いわばもっぱら実行者であるからです。
それは外部から持ち込まれた立場では決してありません。

とはいえ、弁証法という出発点が説得力のあるものだということを、私はできるだけみさんに示す責任があるとも思います。

事柄における矛盾と概念自体における矛盾というこの意味での弁証法に、二つの大きな種類があること

すなわち、ある意味ではそもそも哲学的思弁の頂点と見なしうるような観念論的弁証法と、こんにち公的な世界観として(しかしそれによって自らの反対物へと退化して)世界の大きな部分を支配している唯物論的弁証法です。

ヘーゲルの『精神現象学』のよく知られた一節に記されているとおり、主観性それ自体が思考の動因として否定的な原理なのである、と。

主体として、したがって思考としての生き生きとした実体は、純粋で単一の否定性であって、まさしくそれによって、単一のものの分裂ないし対立した二重化であるが、その否定性はふたたび、この無関係な差異およびその対立の否定なのである、と。したがって言い換えれば、思考自身がーーそして思考は主観性と結びついているのですがーー否定性であって、そのかぎりでまさしく弁証法的思考はあらかじめ否定弁証法なのです。

 

 

第二回講義 否定の否定について
一九六五年一一月一一日

メモ書き
(1)ヘーゲルにおいて弁証法は肯定的positivである。マイナス掛けるマイナスはプラスであることを想起。否定の否定は肯定だとされている。

[挿入ーー]否定の否定から帰結する肯定的なものはそれ自体若きヘーゲルが批判した実定性〔肯定性〕、直接性としての否定的なものである。
〈社会的強制〉
制度が抽象的な主観性に対して批判を行なうのは正当である。すなわち、制度は不可欠であり、しかもまさしく自己保存としての主体にとって不可欠である。制度は主体が即時存在であるという見かけを破壊する。このこと自体は社会的客観性という契機である。ーーとはいえ、◉制度は主体に対していっそう高次なのではなく、こんにちにいたるまで主体に対して外的であり、強制的に集団的なものであって、抑圧的なものであり続けている。
「ケストナー氏」。
以前に存在していた実体的なものすべてが消え去るとともに、あらゆるイデオロギーはますます薄っぺらなものに、抽象的なものになってゆく。

すなわち、何が肯定されているのかは問われない。まさしくそれゆえに、この肯定性は否定的なもの、つまり批判されるべきものである。

すなわち、あらゆる否定の総体は肯定性となる。「あらゆる現実的なものは理性的である」。
 これには撤回が確定済み。意味の肯定的な想定が嘘なしにはもはや不可能であるように

(2)弁証性はしたがって本質的に批判的である。それはさまざまな意味においてだ。
(a)概念と事柄の同一性という主張に対する批判として
(b)そこに想定されている精神の実体化に対する批判(イデオロギー批判)として。
(c)敵対的な現実、潜在的に自らの絶滅への傾向をもつ現実に対する批判として。

講義録

抽象的な主観性と社会的な客観性

ヘーゲルには実際、決して偶然ではなく客観的観念論という名称が与えられてきたのですが、彼の理論は主観性としての否定性という概念に刃向かうのです。

否定の否定は肯定、肯定的なもの、是認的なものである、ということです。これは、実在、ヘーゲル哲学の根底に存在している想定の一つです。

抽象的な主観性のモデルはたとえばカントの純粋な実践理性の主体ですが、ある程度はまた自由な事行というフィヒテの主観性でもあります。この主観性は、自分自身の実体、形態、あり方を、社会の客観的な形態と客観的なあり方に負っている、ということを理解しないのです。そして、この主観性がそもそも見えるさまざまな制度を、自分と同一のものと理解すること、それらの制度自体を主観性として理解すること、それらの制度をその必然性において理解することによってのみなのです。

すなわち、たんなる対自存在としての主観性、つまり批判的に考える、抽象的で否定的な主観性ーーここに否定性の概念が本質的に登場するのですがーーが自分自身を否定し、自分自身の制限されたあり方を自覚しなければならない、ということです。こうして、自らの否定によって得られる肯定性[実定性]において、つまり社会や国家、客観的な精神、最終的には絶対的な精神の諸制度において、そのような主観性は自己自身を止揚するのです。

定立としての否定の否定、ヘーゲルによる実定性批判

すなわち、彼の哲学は極度にダイナミックな思考であり、カテゴリーは固定的なものと受け取らず、生成したものとして、したがってまた変容してゆくものと受けとめているのですが、それでいて実際には、それ自身のうちに、自分が認めているよりも遥かに多くの不変の概念構造、比較を絶するほど多くの変化しないものを抱えている、ということです。 

この実定性において主体は自己自身のもとには存在せず、実定性は主体に対して疎遠なもの、物象化されたものである、とされています。

ちなみにこの考えをヘーゲルはのちになって決して放棄も否定もしていず、もっぱら解釈しなおしたのです。

ヘーゲルによる制度の正当化に対する批判

さてヘーゲルが正当にも示したのは、制度とは批判的抽象的な主観性に対する批判であること、すなわち、制度は不可欠であるということ、しかも主体がそもそも自己保存を行うためにも不可欠である、ということです。たんなる対自存在、自分が自立的に存在していると信じている主体の直接性は、実際のところたんなる欺瞞です。

実際に〈社会的動物〉なのであって、そのうえでそれらの装置に対して人間は自律的で批判的な主観性として自己を対置させるのです。

こうして彼は、主体の即自存在という仮象を打ち砕き、それ自体が社会的客観性の契機であることを示した、と言うことができます。さらに彼は、この抽象的な主観性に対して社会的な契機がいっそう強力なものとして貫徹される必然性を、導き出したのです。

つまり、これはたんに、いっそう勝ちを収めるもの、自己を貫徹するもの、一般的に受け入れられるもののほうが、弁証法を手助けにして、そんなものの仮象性を見抜く意識よりも、真理といういっそう高次な立場を占めるのだ、ということを意味しているでしょう。

肯定性それ自体の物神化に抗して

否定の否定は肯定性に帰結するのではありません。

こんにち人々は自分が置かれている状況を、一方で秘かにすべて疑わしいと感じていますが、他方ではその状況がとても強固なので、それに対抗することは何一つできないと考えています。

意識にあらかじめ与えられていた実際的な内容のすべてが消失してゆけばゆくほど、したがって、さまざまなイデオロギーがいわば糧としているものがますます乏しくなってゆけばゆくほど、あらゆるイデオロギーは必然的に抽象的になってゆきます。

つまり、一方で肯定的〔実定的〕とは、たとえばデータに依存する哲学としての実証主義Positivimusについて語られるように、所与のもの、定立されているもの、現に存在するものです。

肯定そのものをそれ自体で価値へと高めるのではなく、まさしく、何が肯定されているのか、何が肯定されるべきで何が肯定されてはならないのかが、問わねばならないのです。

現実的なるものは理性的ではない

肯定的とされるこの全体がまさにそれ自体において無限に媒介されている、ということを理解していませんでした。

現実的なものは理性的である、すなわち、存在するものには意味がある、という肯定的な想定は、もはや不可能です。

あらゆる否定的なものの総体として肯定性を理論的に構成するのは、哲学が世界疎外の悪しき呼びかけを実際に誉め称えるのでないかぎり、もはや不可能である、と私は考えます。
哲学が世界と各別親しげな足取りで姿を見せ、この世界に肯定的な意味といったものを付与しようとするときには、いつでも哲学はたいていそのような世界疎外の呼びかけに奉仕しているのです。

「批判理論」と「否定弁証法」、精神的なものの実体化に対する哲学的批判

批判理論は実際のところ思考の主観的な側面、したがってまさしく理論のあり方のみを特徴づけているのに対して、否定弁証法はこの契機だけを語るのではなく、それが出会う現実をも示している、という違いがあります。

この契機には、精神の実体化に対する本来の哲学的批判がなされるべき理由が存在している、と私は思います。といいますのも哲学は、精神をその本来の媒体とし、哲学自体つねにもっぱら精神という姿で活動するのであって、この精神の実体化は哲学にとって抵抗しがたいものだからです。

◉思考は概念において遂行されるというまさにそのことによって概念の器官、すなわち意識は、最初からすでに一種優位な立場に身を置いているのです。

 

 

第三回講義 否定弁証法は可能か
一九六五年一一月一六日

メモ書き

(3)こんにち肯定性という概念はイデオロギーに、しかも「抽象的」にイデオロギーとなった。批判それ自体が疑惑を呼んでいる、という主張。
 これに対して否定的なものという概念は、その抽象性において、抵抗として正当性を有しているーー

肯定的なものは否定されているもののうちに潜んでいる。
 しかし、肝心なのは限定的否定、すなわち、概念を対象と、また逆に対象を概念と突き合わせる、内在的な批判である。

(1)否定弁証法はそもそも可能なのか?すなわち、弁証法に伴う肯定的な定立を行なうことなしに、否定の規定性はどこに由来するのか。

〈偽ナルモノノ指標〉。ーー総合という概念に対するもっとも重大な留保。ちなみに[ヘーゲル]においていわ[ゆる]総合〔ジンテーゼ〕(これはテクストにおいては驚くほどわずかの役割しか果たしていないのだが)とは、たんによりよきもの、いっそう高次のものではなく、アンチテーゼにおいて効力を発揮しているテーゼであり、非同一性の表現である。

(2)体系なき弁証法は存在するのかーーこれは同じことの言い換え。

講義録

肯定的なものというイデオロギー、物象化された思考

肯定性という概念それ自体がこんにち「抽象的な姿」でイデオロギーとなったということ、そして一方批判それ自体が、その内容に関わりなく、こんにちすでに疑わしいとされているということについて

◉概念は静止状態に置かれ、概念に対して一つの態度が取られても、その概念が関係している真理内容についてはそもそも問われません。たとえば「肯定的」という概念は実際、本質的に関係概念であって、それ自体で妥当するのではまったくなく、そのつど是認もしくは否定されるべきものとつねに関わっています。にもかかわらず、この「肯定的」という概念は、それがもっぱら獲得した感情的な価値、それが吸い寄せた情動のゆえに、そもそもそれに意味を与えている諸関係から引き離され、自立的なもの、絶対的なものとして受け入れられ、あらゆる事柄の尺度となっているのです。

すなわち、知性とは、そもそも精神的なものを適切に知覚する、深い意味における器官ではないのか、といった問いです。

そこで私は思うのですが、◉哲学の仕事はいまや何かを否定することそれ自体に存するものではなくーー

◉まずもって、ひとりひとりが自分自身の思考のあり方を可能なかぎり検証し、自分自身の思考に対して可能なかぎり批判的に向き合い、それによって物象化された思考のこのあり方に抵抗することに存するのです。

否定弁証法はみなさんがこの傾向を意識化することを促すものであり、みなさんに意識化を促すことによって、この傾向にみなさんが従ったり、追随したりすることを阻止しようとするものだ、と。

物象化に対する抵抗、限定的否定、内在的な批判

否定性それ自体のこの虚偽性は、ある種の態度、まさしく私たちが若いときに、つまり個々の専門分野にまだすっかり身を委ねていない段階で、易々と向かいがちな虚栄に満ちた態度に、ありありと現われます。

抽象的な否定性、すなわち、現象の欠陥をただちに、いわば外側から嗅ぎつけ、それでもって自分自身をその現象を超えた位置に設定するという態度は、かなりナルシスティックな知的満足に奉仕するだけであって、そのかぎりで最初から悪用の可能性に曝されています。この誘惑に抵抗することは、弁証法的思考という専門分野において、最大限強調して想起されるべき最初の要請の一つです。もっともこの誘惑それ自体には生産的なものも潜んでいます。すなわち、自分にあてがわれたものに満足しないこと、自分に目隠しをするペテンより自分はもっとよいものだと感じる、ということです。

しかし、にもかかわらず、このような態度にとどまるべきではありません。限定的否定という要請に存在しているのは、まさしくこのことです。

契機としての肯定的なもの
 しかしそこにはまた、そのような思考は当然ながら絶え間ない自己反省を責務としている、ということも含まれています。

では彼は自分の否定性を自分自身の考えにむけているのか、と。

結局のところ、限定的否定という関連においてのみ構成されている私の考えを、一般的に虚偽ないし非真理と私が見なしているなら、そもそも私はそれらの考えをそもそも口にしないでしょう。私がそれらを口にしていること、それらを語ったいることには、根本においてすでに、可能なかぎり自己反省がそれらの考えに組み込まれている、ということも含まれているのです。

◉私はいわば素朴な民衆のひとりとして、世の中に肯定性がひたすら溢れ返っていることを知っています。そして、こんなに溢れていると、この肯定性それ自体が否定的なものとして示されることになります。この否定的なものに対してはやはりまずもって、まさしく否定弁証法という概念で特徴づけられる態度を取ることがふさわしいのです。

円環としてのヘーゲル哲学、〈偽ナルモノハ偽ナルモノト真ナルモノノ指標デアル〉

結局のところ、あらゆる否定の総括である全体は肯定的なものであって、意味、理性であるのです。

すなわち、ヘーゲル哲学の総体は、正しく理解されるなら、唯一つの巨大な同語反復である、と。

否定の否定はまさしく端的にsclechthin 肯定的なものではなく、肯定性をそなえるとともに、それ自身の欠陥や弱点をそなえたもの、したがって悪しきschlencht肯定性であるのだ、と。

すなわち真なるものからはそれ自身の真理性と虚偽のものを直接読み取ることができるというあの命題、あれは確かに妥当しませんが、それ自身が主張しているのとは異なった虚偽のものは事実上自らの虚偽性を示す指標なのです。虚偽のものはまずもってそれ自身とは異なっています。

この虚偽のものの直接性に照らせば、この〈偽ナルモノハソレ自身ト真ナルモノノ指標デアル〉と言うことができます。

総合の批判

いずれにしろ私は、総合という概念に対して、早くから強いアレルギーを感じてきました。

三段階の弁証法

存在、無、生成

このいわゆる総合が元来は一つの運動のようなものであること、思考の運動、概念の運動のようなものであること

ヘーゲルの総合の本質はつねに、アンチテーゼがひとたび定立されたあとにも、そのアンチテーゼにおいてテーゼがふたたび効力を発揮している、ということに存しますーー

なるほど、それは確かに同一であるのであって、私がその同一性をもたらしたのだ。したがって、存在はまったく無規定なものとしては同時に無である。しかしそれは、私がまったく素朴に表現するかぎりでのことである。

そもそも両者はやはり完全に同一のものなのではないのだ、と。

一方でさまざまなカテゴリーが生成するもの、変容するものと絶えず規定されながら、にもかかわらず他方ではカテゴリーが、論理学のカテゴリーとして、何らかの伝統的な論理学や認識論におけるのと同様に端的に妥当すべきものとされている、ということがあります。

その理由はまさに、前方へ向かう運転それ自体に設定されているこの逆行的な傾向によって、先へ進んだものがつねに同時に静止にもたらされる、ということに存するのです。こうしてその結果、生成と存在はこの意味においても(いずれにしろこれがヘーゲルの弁証法の意図です)たがいに同一であるとされます。

したがって、総合がまさしくテーゼとアンチテーゼの非同一性の表現であるならば、そのような非同一性の表現は、私が否定弁証法という概念で考えているものと、絶対的に異なったもの、遠くかけ離れたものではないでしょうーー

ヘーゲルにおける総合概念の理解と私が苦労している限定的否定の概念の理解といったような、最小限のニュアンスの違い、まさしくそのような微妙な違いに差異は潜んでいるのです。そして、哲学的に考えるという能力は本質的に、全体に関する差異を元来つねにこれらの最小限の差異に、もっとも小さなものをめぐる差異のうちに、経験する能力にほかたらないのです。

体系の概念について(Ⅰ)

哲学的体系という概念は久しく不信をまねいています。

体系をもたず、存在論をもたず、それていて拘束力をそなえた意味を有する哲学の可能性

微視的(ミクロロギー)研究者として評価の高いベンヤミンのような思想家が、現在では『証言』に掲載されている論考において、体系なしに哲学は不可能であるという見解を、きわめてはっきりと唱えているということ

体系なき哲学の可能性という問い

ーー哲学の体系は可能ではあるまいというありきたりの常識と逆に、それをまさしく反転させた問い、哲学の体系なき可能性の問いに、私たちは取り組まなければならないでしょう。

 


第四回講義 体系なき哲学は可能か
一九六五年一一月一八日

メモ書き

[挿入3a]
体系についての悪評一般、より重要なのはその必要を理解すること。

体系は一つの原理からの事象の展開であって、
力動的かつ全体的、「その外部に何も残さないようにする」というあり方。原形はフィヒテ。

◉すべての事実が前もって事実から抽出された秩序図式のうちにその定位置を見いだすこと、これが説明と見なされる。

◉全体性は概念把握の放棄と結びついている。
しかし、体系の潜伏によって、体系への衝動は変化している。その衝動は、もはやかつてと同じ衝動ではない。
否定的弁証法は、この観点のもとで、体系の変化を意識するものである。

思想はいわば自分に抵抗するものに準拠する。体系のかわりに、事象からの強制。

二重の意味での批判ーー一つは概念の批判、もう一[つ]は事象の批判!なお議論の必要あり。

体系に関して救出されるべきことーーさまざまな現象は客観的に一つの連関を形成しているのであって、分類されることによってはじめて連関を形成するのではない、ということ。ただし、そうした体系を実体化してはならないし、外から現象にあてがってもならない。体系は、現象自体において、そのもっとも内的な規定において見いだされるものである。そのための方法が否[定]弁[証法]でなければならない。

修正は実現されていず、哲学の無効さを証明するはずの一点も達成されていない。

講義録

体系の概念について(Ⅱ)

背景にあるのは、プラトンからドイツ観念論にいたるまで、伝統的な哲学概念が、世界全体を説明すること、あるいは少なくとも、そこから全体を生み出すことができる世界の根拠について説明することを目指すものであった、ということです。そしてその際体系は、そうした全体をもたらすことのできる形式、したがって、いわばその外部に何も残さないような形式のことを意味しています。

体系と体系学

体系学という概念が主観的理性の秩序図式であり、分類のための枠として構想されるものであるのに対して、強調された意味での体系、もともとの哲学上の意味での体系とは、ある一つの原理からの事象それ自体の展開であって、いわば力動的なものと言えるでしょう。

ハイデガーの潜在的な体系

ハイデガーにおいては逆説的にも、非合理的になった哲学体系について語ることができるわけです。すなわち、この体系は、総体性の要求を概念把握の放棄と、あるいはハイデガー自身が多くの箇所で、少なくとも『存在と時間』ではなお語っているところでは、全体性Ganzheitの要求を概念把握の放棄と結びつけるのです。

カントは超越論的観念論の体系という理念をきわめて強く擁護し、積極的に作り上げられたそうした体系によって三つの「批判」を補う計画をもっていましたが、カントは同時にまた対象を「内側から」概念把握するという考えを、ライプニッツ的・知性主義的なものとして拒否してもいました。

体系の世俗化としての否定弁証法

私がハイデガー哲学を偽装した観念論と思っていることを、私は否定するつもりはありません。大切なのはここで生じていることです。すなわち、体系概念はもはやそれ自体として現われてくることはなく、先に指摘したとおり、それは潜在的になっています。

このことがまさにその際、体系概念自体を質的に変化させるのです。

肯定的なものの統一的契機と抵抗、個別的なものの分析と体系の力

思想の構造は、その思想の圏内にある、歴史的に現に存在している思考の形態によって作り出されるのです。もちろんこれは新しいことではなく、哲学の歴史を通しておそらくつねにそうであったことです。
 この意味において、思考の統一は、もともとつねに、自らが置かれている歴史的位置、それが置かれている特定の状況のなかでその思考が否定している当のものに根ざしている、と言えるかもしれません。そしてこれは「哲学はその時代を思想の形で捉えたものである」というヘーゲルの命題が告げていることでもあります。

◉思想は、体系なしに拘束力をもとうとするなら、自分に対立して現われてくる抵抗に準拠するのであって、それゆえ、統一的契機から思想自体の「自由な事行」ではなく、事象が思想におよぼす強制力に由来するのである、と。

まず要請されるのは、体系のそなえていた力、かつて思考の形成物の統一性が全体として保持していた力を、個別的なものに対する批判の力、個々の現象にたいする批判の力へと転換する、ということでしょう。もちろんその際、批判は二重のことを意味しています。

すなわち、現象が客観的にーーつまり、認識主体が現象に分類図式をあてがうことによってはじめてではなくーー一つの連関をなしている、ということです。

この連関は、あくまで事象それ自体において、その内的な規定において見出さねばなりません。

田舎臭さへの強制

こんにちでは、哲学それ自体のなかに田舎臭さという契機が含まれている、と言えるかもしれません。ちなみに、どんな指令にも屈せず、時代の一般的な潮流ーーたとえそれがいっそう進んだ進歩的な性質のものであったとしてもーーに対してはつねに抵抗するといった態度が、ある種の無邪気さや時代遅れの感覚といった田舎臭さの契機をそれ自体のうちに含んでいるということ、このこともまた現代の特徴です。

こんにちにおける第一一テーゼ
 
哲学の理想を最終的に実現すること、とりわけ、人間にとって異質な制度からの人間の解放を実現することによって、それ自体やはり抽象的で、孤立した、たんに精神的な反省形式にすぎないものとしての哲学は不要になる、ということです。

 

 

第五回講義 理論と実践について

一九六五年一一月ニ三日

メモ書き

理[論]と実践の二分法ではない。

(1)時代の傾向から実現のときが迫っているなどと考えてはならない。

(2)実践の立場から思考の制約を導き出してはならない。ブレヒトと観念論。

(3)◉解[釈]Interpretierenとは、判断することdeutenであって、必ずしも承認することではない。私のテーゼーー解釈とは批判である。この意味での[解]なくして、真の実践はない。

講義録

実践への移行は歴史的に失敗した

◉ヘーゲルにおいて告知されていたような哲学それ自身の同一性要求〔主観と客観の同一性の要求〕は、その後、決定的な場、すなわち実践への移行の地点で挫折しました。それは、マルクスの教えによれば、自由の王国と必然の王国が実際に一致するはずの場所でした。この挫折によって、哲学はきわめて根本的な自己批判を必要としているのであって、なぜそういったことすべてが成功しなかったのか、哲学は省察しなければなりません。

マルクスの科学概念、哲学の定義について

理論と実践の単純な二分法は存在しない

ーー哲学は実際、芸術的などとは違って、自分のうちで安らいでいる自律的な形成物ではなく、つねに何らかの事象的なもの、自らの外部、自らの思想の外部にある現実と関わるものだからです。そもそも、思想とそれ自体としてはやはり思想でないものとのこの関係こそ、哲学の中心主題であると言えるでしょう。とはいえ、哲学がそもそも現実とたびたび関わりをもたねばならないとき、この現実とのたんに観想的な関わり、自己充足的な関わり、したがって実践を目指すことのない関わりは、無意味であることが明らかになります。なぜなら、現実についての思考の行為それ自体がすでにーーたとえその思考自身にはそうした自覚がなくともーー実践的行為であるからです。

生産力と生産関係の対立

正しい実践の出発点となりうるのは、社会は一体どのようにすれば正しいものにいたりうるのかということを、とにかくいま新たに考え抜くことだと思います。社会は、凝固した諸関係およびその諸関係に従って形成された意識という側面から見ると、確かに停滞したものとなる恐れがあります。

大事なのは、細かな思考です。

状況をあてにした実践がすべて無力さを思い知らされるほかないのは歴然としています。
結局のところ、理論と実践の関係がきわめて真剣に受け取られるところ、そこにおいてこそ、本質的な課題の一つが存するのです。

実践主義に抗して

こんにちの生産関係やそもそもそれに適合した社会形態においては、それに介入しようとする政治的実践にはとてつもなく大きな制約が待ち受けています。

批判としての解釈、哲学と革命、科学が哲学へ差し戻されていること

ーーそもそも本質的に、解釈とはそれ自体、批判と同義だ、ということです。

科学問題と呼ばれてきたものは、避けようもなく、科学の自己反省の問題、科学批判の問題、科学の自己理解の問題となっています。したがって言い換えると、科学をめぐる問題はもともと哲学から奪い取られてきたものであるのに、それらの問題は哲学に立ち戻るように命じられている、ということです。科学が自己反省の力によって哲学に立ち戻っていくこの過程こそまさしく、私がここで掲げてきた哲学のアクチュアリティの要請ととにかく深く関係しているように思われます。

ヘーゲル左派と行動様式としての思考

思考は、それが行なうあらゆる総合をつうじて、物事を変化させます。

これまで十分何度も示唆してきた理由から、思考自体が麻痺しているために、無力で行き当たりばったりの実践が、いとも簡単に、起こってくれないことの一種の代用となっています。そもそもそれが真の実践ではないことを深く知れば知るほど、ますます躍起になって、意識はそうした実践にしがみつくのです。

正しい実践が可能となるためにはまずもって、実践自体が歪められていることを十全にかつ余すところなく自覚することが前提となる

思想の価値がただちにその実現の可能性を尺度にして測られるなら、思考の生産力には足かせがかけられてしまいます。

実践になりうる思想とはおそらく、そのような実践によって前もって制約されていない思想のみなのです。


『否定弁証法講義』T・W・アドルノ/著、細見和之・河原理・高安啓介/訳

 

幽霊なのか亡霊なのか

 

 

 “見えないものが見えるとき"、その端的な現われは視覚性〈触覚的〉過剰からの離反、その反省的な〜が思い描く鏡像の反映ではないか?!
 
 不在とは認識レベルの非在…。「わたしをあらわすわたしたち」であって「わたしたちをうつすわたし」という可能性を孕む。
 
 そもそも可能性とは潜在的にが顕在化される瞬間、その一瞬を指す。
 
 わたし自身を持ってしまったがゆえの還元もされぬ"わたしをうつしだすわたし"は、自我的な〜の化身、届け先へ届かぬ消印なのかもしれない。