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異なる関係 | 動いている世界に途中から乗り込む

 

 



一九九〇年代のアートは、理論的言説の欠落によって誤解に晒されている。

批評家の第一の仕事は、特定の時代に立ち上がる諸問題の「入りくんだ争点」を再構成し、提示されたさまざまな応答を仔細に検討することであり、過去の問題を列挙し解決策が得られなかったことを嘆くことではない。

いずれにせよ、アートというチェス盤上で最も活発な展開を見せているのは、相互的、交歓的 コンヴィヴィアル、関係的な局面なのである。

今日、コミュニケーションは〔効果的な広告手段として利用され〕、社会的なつながりを特定の商品の消費へと切り分けて管理する空間に、人々の接触を閉じ込めてしまう。一方で芸術活動は、ささやかなつながりを作り出し、閉ざされた通路を開き、隔てられた現実の諸次元をひとつにしようと務める。

今や市場価値を持たないものは消え去る運命にある。やがて、商業空間の外部では人間同士の関係は成り立たなくなってしまうだろう。

このように、全面的な商品化の傾向は、現在の人間関係の空間に強烈な打撃を加えている。

社会的紐帯は、標準化された人工物に形を変えられたのだ。分業化と超専門化、機械化と収益性が支配する世界では、人間関係を管理かつ反復可能な、単純な原理に従属させるように誘導することこそが、支配権力の最優先事項となる。

もはや人間関係は〈直接経験される〉ものではなくなり、〈人目を引く スペクタキュレール〉表象の中へ遠ざかって行くのである。ここに、今日のアートにおける最も切実な問題がある。


第一章 関係的な形式

芸術活動は、その形式、様相、機能が時代や社会的文脈に応じて変化するある種のゲームであり、そこには不変不動の本質など存在しない。

新しさはもはや価値判断基準ではない。

現在の芸術的実践を評価するための、より効果的な道具と、より妥当な基準を作り出すためには、今まさに社会的領野で生じている変化をーー既に変化したものと、今なお変化の途上にあるものとをーー把握する必要がある。

現代の芸術的実践とその文化的プロジェクト

啓蒙思想から生まれた近代政治思想は、個人と諸民族を解放しようとする意志によって動機付けられていた。

解放を目指した近代の計画は、数え切れないほどの哀しみをもたらしたのである。

我々は、近代の計画が前衛に先行して存在していたということ、前衛の企図とは多くの点で異なるものであったことを忘れてはならない。

死んだのは近代性そのものではなく、その理想主義的、目的論的ヴァージョンに過ぎないのだ。

歴史的近代の後流に自らの実践を位置づけるアーティストたちが望むのは、モダン・アートの形式や公準を反復することではないし、現在のアートに同じ役割を割り当てることでもない。

作品は、もはや空想的でユートピア的な現実を構築しようとするのではなく、アーティストがそれぞれの作品において選択する規模において、実在する世界の中で新たな存在様式や行為モデルを構成するのである。

アルチュセールによれば、我々はつねに動いている世界という列車を追いかけるのであり、ドゥルーズによれば、植物は根や先端から成長するのでさなく、「草は、……それ自身、中間から生える」。アーティストは、自身の生の文脈(アーティストが世界と織りなす知覚的もしくは概念的関係)を持続する宇宙に変えるために、現在によって与えられる状況に身を置くのである。アーティストは動いている世界に途中から乗り込む。

マウリツィオ・カテランの言葉を借りるならば、「甘いユートピア」の時代が到来したのだ……。

社会の間隙としての芸術作品

リレーショナル・アート(自律的かつ私的な象徴空間の確立ではなく、人間の相互作用とその社会的文脈を理論的地平とするアート)の可能性、それはモダン・アートが設定した美学的、文化的、政治的な目標の根源的変換を証言することにある。

とりわけ第二次世界大戦後に急速に広がった都市化は(交通網の整備、通信技術の発達、遠隔地の段階的開発、それに伴う個人のメンタリティの解放を通じて)、社会的交換を飛躍的に増大させ、個人の流動性を高めた。

作品の機能や展示形式の変化は、芸術的経験の都市化の過程を証言するものであると言えよう。

いまや作品は経験の持続として、無制限の議論への入口として提示されるのだ。都市は近接性の経験ーー社会という状態の具体的な象徴であり、歴史的枠組みでもあるーーを可能にし、そして一般化させた。

この集中的な出会いを可能にするシステムは、ひとたび文明の絶対的なルールになったとき、ついに対応する芸術的実践を生み出したーーそれは相互主観性を基盤とし、共存することや、観客と図像との〈出会い〉、そして意味の集合的構築を中心的主題とする芸術形式である。

アートは程度の差こそあれ、つねに関係的であったし、社会的行動の要因であり対話のきっかけとなるものであったのだ。ミシェル・マフェゾリの言葉を借りるなら、イメージは潜在的につなげる力をもっているーー旗、略号、アイコン、記号は、共感や分有を通じて、紐帯を生み出すのである。アート(絵画や彫刻から派生した、展覧会形式で公開されるさまざまな実践の総体)が近接性の文化にとりわけ適した表現行為であるのは間違いない。

関係の空間を緊密に編み直すからだ。展覧会では、たとえそれが不活性な形式であっても、即時的かつ無媒介的な議論が可能なのだーー我々は他者と同一の時間と空間を知覚し、語り、移動する。アートは固有の社会的行動を生産する場所なのである。

我々にとって芸術作品は、その商品性格や意味論的価値を越え、社会の間隙を表象するものである。カール・マルクスは、利潤法則を免れ、資本主義経済の枠組みから抜け落ちるような原始的な商業共同体ーー物々交換、ダンピング、自給自足などによって維持される共同体ーーを、間隙[interstice]と表現した。

展覧会は自由な空間と非日常的なリズムを刻む時間を作り出し、お仕着せの〈コミュニケーション・ゾーン〉とは別のしかたで個人間の取引を促すのだから。現代の社会は、そうした取引のための場所を作り出すどころか、人間同士の関係の可能性をますます制限しつつある。

かつて多くの交流、歓び、軋轢の場となっていた仕事を、機械が代行するのだ。

オロスコの写真作品(草原に置かれた寝袋や空っぽの靴箱)は、都市や半都市の日常のなかで起きる小さな革命の無言の記録であり、他者との関係が作り出す、もの言わぬ生命(〈静物〉、死せる自然)についての証言
なのだ。

アーティスト、作品の性質、提案もしくは表象する社会モデル、それら構成要素によって要求される観客参加の程度に応じ、展覧会はそれぞれに固有の〈交換の領域〉を生成する。

あらゆる表象(コンテンポラリー・アートは社会を再現=表象するのではなく、むしろモデル化するのであり、社会から着想を得るのではなく、むしろ社会構造に挿入されるのだが)は、社会的実践へと移調可能な価値を反響させるのである。アートは取引に基づく人間活動であり、倫理の対象であると同時にその主体でもあるのだから。

アートは他の人間活動と異なり、取引されること以外の機能を持たないのだ。
 アートとは出会い状態なのである。

関係性の美学と偶然の唯物論

関係性の美学は唯物論の伝統に連なるものである。唯物論的であるということは、自明な事実に固執するということではないし、純粋に経済的な観点から作品を解釈しようとするような偏狭な態度を意味するわけでもない。

この唯物論は、世界の偶然性を出発点としており、世界にはいかなる起源も、あらかじめ定められた意味も、目的を与える理性も存在しないとする。そして、人間の本質は純粋に個体を超越するものであり、それは、常に歴史的に形成される社会的形式の中で、諸個人を結びつける紐帯によって構成されるのだ(マルクスーー「人間の本質とは、……社会的諸関係の総体なのである」)。

ドゥボールは〈状況の構築〉を、日常生活の革命による〈アートの超克〉と見なしていたのだから。関係性の美学は、単一の起源や目的を記述する芸術理論ではなく、形式についての理論なのである。

形式とは一貫性を有するまとまり、世界の諸特性を現す構造(構成要素間の相互依存関係を内包する独立した対象)である。

芸術作品は実在する形式全体の一部にすぎないのである。

形式を生み出すのは〈偏り〉と、平行線を描いていた二つの要素の偶然の出会いなのだ。

〈形式は、持続する出会いとして定義される〉。

作品の誕生の瞬間にその意味を「保持」する全体を形成し、新たな〈生の肯定〉を生み出すとき、持続的であることを明示する。すべての作品は、持続する世界のモデルなのである。

ドゥルーズ=ガタリによる「芸術家が創造するのは、知覚されるもの[percepts]と情動[affects]のブロックである」という芸術家の定義は、まさにこのことを言っているのだ。アートとは、主体が特異な経験ーーセザンヌのリンゴであれビュレンヌのストライプであれーーに出会う瞬間を一つにまとめておくことなのである。言うまでもないが、世界を構築するために原子の出会いを持続させる結合材の組成は、歴史的文脈に依存する。

「世界」をブロンズのような物質的素材によって結びつけることが出来ない。ばらばらな要素の集合(たとえばインスタレーションのようなもの)として認識することを可能にするほど複雑化し、豊かになった。

芸術的な〈もの ショーズ〉は、時間的もしくは空間的に生じる〈出来事〉、あるいは出来事の集合として姿を現す場合があるが、それでもそのまとまり(出来事を形式に、つまり世界にするための)に疑いの余地はない。その枠組みは孤立した対象を越え、状況全体を包含するように拡大した。

現代の作品形式は、その物理的形態を越える広がりをもっている。形式とは諸要素の出会いを生み出すもの、力動的な凝集の原理なのである。芸術作品は[持続という]線上の点なのだ。

形式と他者のまなざし

セルジュ・ダネーの言葉通り、「いかなる〈形式〉も我々を見つめる顔である」とするならば、ひとたび対話の次元に入った時、形式はどのように変化するのだろうか。関係的な形式の本質とは何か。

ーー形式が我々を見つめるならば、我々はどう形式を見返すのか。
 一般的に形式は内容に対する輪郭として定義される。しかしモダニズムの美学は、形式と内容とのある種の融合(混合)、つまり両者を巧妙に一致させることで、〈形式美〉について語る。したがってモダニズムの美学において、作品は造形的な形態を通じて判断されることになる。一方で新たな芸術的実践に向けられるもっとも流布した批判は、その〈形式的な実効性〉をいっさい認めず、〈形式的解決〉の欠陥をあげつらうものである。現在の芸術的実践について考察するならば、我々は「形式」よりもむしろ《形成 フォルマシオン》について語るべきだろう。スタイルと署名によって閉じ込められた物理的対象としてのアートとは対照的に、現在のアートは次のことを明らかにするのであるーー形式は出会いのなかにのみ、つまりある芸術的命題と、それが芸術的であるか否かに関わらず、他のさまざまな形成されたものとの間で維持される、力動的な関係のなかにのみ存在する。
 形式は自然や野生状態には存在しない。それは我々のまなざしによって視覚的世界の深みから切り出され、形を与えられるのだから。形式は他の形式から発現する。

たとえ自分自身を客観視しているつもりでも、それは結局のところ他の主体との永続的な取引の結果として辿り着いた思考でしかないのだ。

我々が確信しているのは、形式は人間との相互作用的な関係によってのみ一貫性(と現実的な実在性)を獲得する、ということだ。芸術作品の形式は、我々と共有される認知可能なものとの交渉を通じて生み出されるのである。アーティストは形式を通じて対話する。したがって芸術的実践の本質は、主体間の相互関係を創出することにあると言える。つまりすべての芸術作品は、共に世界に住むための提案である。そしてアーティストの仕事は、異なる関係を無限に生成し続ける、世界との関係の束なのだ。

ド・デューヴによれば、すべての作品は歴史的および美学的〈判断の総体〉であり、それを具現化する行為として表明されるアーティストの陳述に他ならない。そして描くことは、造形的選択を通じて歴史の一部に自らを刻み込むことを意味する。ここに示されているのはアーティストに揺るぎない証拠としての美術史を突きつける検察官の美学なのだ。それは、歴史批評の手続きによって芸術的実践を抑圧する美学である。〈判決〉は、常に断定的であり最終的なものとして突きつけられる。それは対話ーーそれだけが形式を生産的な状態、出会いの状態にすることができるーーを否定するのだ。

レヴィナスにとって顔は倫理上の禁忌を表象するものである。彼に従えば、顔は「他人に仕えるように私に命令するもの」であり、「私たちに殺すことを禁じるもの」である。すべての〈間主観的関係〉は、我々が他者に対して負わされている責任の象徴としての顔を経由する。

「他者との絆はただ責任として結ばれる」
レヴィナス

「すべての〈形式〉は我々を見つめる顔である」

イメージが我々を「我々がいなかった場所」に置くとき、すなわち「他者の場所を奪う」とき、彼にとってそれは、「非道徳的」なものとなる。

ダネーによれば、イメージが生み出す形式は欲望の表象に他ならないーー形式を生産することは、出会いの可能性を作り出すことであり、形式を受け入れる〔=レシーヴする〕ことは、テニスの試合で相手のサーヴィスを打ち返すのと同じく、交換を開始するための条件である。

形式は観客との議論を可能にするために、アーティストの欲望する世界を提示してイメージに意味を与え、〔イメージに向けられる〕観客の欲望は形式によって打ち返されるのである。このやり取り エシャンジュは、誰かが誰かに何かを見せ、見せられた誰かは自分なりの流儀でそれに応答するという二項間の関係として要約することができる。

アーティストは我々に何かを見せるとき、自らの作品を「私を見よ」と「これを見よ」との間に位置づける、移行性の倫理を展開させる。ダネーは生前最後の文章で、イメージの民主化の本質を象徴する、この〈見せる/見る〉の対関係の終焉を嘆いている。それは結果として、テレビ的かつ権威主義的なもうひとつの対関係ーー〈広告/需要〉ーーの台頭と、〈ヴィジュアル〉の誕生を招いたのだ。ダネーの思想においては「すべての〈形式〉は我々を見つめる顔である」。なぜなら形式は私に対話を求めるのだから。形式は時間と空間に同時に、あるいはそれそれに順次、登記される力動的な存在である。ふたつの現実の平面が出会うことによってのみ形式は生み出される。なぜなら同質性が生み出すのはイメージではなくヴィジュアル、すなわち〈情報の円環運動〉なのだから。

 

 

第二章  一九九〇年代のアート

参加と移行性 トランジティヴイテ

〈スペクタクルの社会〉はエキストラの社会に移行し、そこでは誰もが、多かれ少なかれ断片化されたコミュニケーション回路の中で、相互作用的な民主主義のまぼろしを見るのである……。

 移行性は、芸術作品の具体性の根拠として、古くから知られるものである。それなしでは、作品は鑑賞行為に従属するだけの死せる客体でしかない。優れた絵画は、作品を目の当たりにした際の特別な記憶をよみがえらせるような、ある感情を凝縮しているーーすでにドラクロワは彼の日記にそう書き残している。この移行性という概念は、対話に内在する形式の乱れを美的領域に導入し、終わることのない言説作用と、満たされることのない散種 ディセミナシオンの欲望のために、明確に区分された〈芸術の場〉を否定するのである。ジャン=リュック・ゴダールもまた、あるイメージを生み出すには二つの要素が存在しなければならないと語り、芸術的実践に関する閉鎖的な概念に抵抗する。

イメージの構成過程を、初めから交渉と他者の存在を前提とするものと見なし、対話をその源泉に位置づけようとしていたのだ……。したがって、あらゆる芸術作品は、関係的な対象として、すなわち無数の取引相手や名宛人たちとの間で展開される交渉を、空間的にモデル化した場所として定義されるのである。

現在のアートは、個人もしくは集団としての観客相互の関係、アーティストと世界との関係、そして移行性により、観客と世界との関係を生産するのだ。ピエール・ブルデューは芸術の世界を、「もろもろの位置同士の客観的関係の織りなす空間」、言い換えれば、それを「保守したり変革したり」しようとする生産者相互の権力関係や闘争を通じて定義される小宇宙と見なした。

「アートを生み出すのはシステムとしてのアートであってアーティスト個人ではない」

なぜなら、芸術の世界の内部構造が描き出す〈可能性〉は確かに制限されているが、この構造は、構造内の関係を生産し承認する、外部の秩序〔=社会構造〕の変化に依存するのだから。端的に言えば〈アート〉は多孔性のネットワークなのであり、このネットワークとあらゆる生産の界との関係が、アートの変化を規定するのである。さらに、作品が〈創出する〉外部的な関係の本質を率直に問うことを通じて、美術史を世界との関係の生産史として記述することさえ可能なのだ。

アートは、模範的秩序としての自然ーーそれを理解することが神の意図に近づく道とされたーーと共に、人間社会とそれを支配していた不可視の力との間のインターフェイスの役割を果たしていた。しかしこの野心は次第に放棄されてゆき、アートは人間と世界との間の関係の探求へ向かうこととなった。 

こうしてイタリア・ルネサンスによって切り開かれた関係的領域は、徐々に限られた対象に割り当てるようになっていったのである。
〈我々と物理世界との関係はいかなるものか〉という問いは、まず現実世界の全体に向けられ、その後に同じ現実世界の限られた領域へと振り向けられたのだ。

ーーつまり美術史は、ある種の対象や特定の実践によって媒介される、世界との関係の生産史なのである。

したがって、集会、待ち合わせ、デモ、さまざまな種類の共同作業、ゲーム、パーティ、多様な交歓性の場など、要するに今やあらゆる出会いの様態と関係の創出それ自体が美的対象として認められるのであり、ここにおいて絵画や彫刻は、形式の生産ーーそれは単純な美的消費者対象の生産に限定されるものではないーーの特殊事例に過ぎないと言えるだろう。

類型学

連絡と待ち合わせ

パフォーマンス・アートは、ほとんどの場合上演後には記録映像が残されるのだが、記録
と作品そのものとは厳然と区別されるのだから、非可用性のアートの最も典型的な例てあろう。

芸術作品はもはや〈永続的な〉時間の中で消費されるのでも、普遍一般の観客に向けて公開されるのでもなく、特定の出来事に関連する時間の中で、契約に基づいて召喚される観客のために展開されるのだ。要するに、作品は出会いを引き起こし、待ち合わせの約束をし、固有の時間を管理する。観客との出会いは必ずしも必要ではない。

交歓 コンヴィヴィアリテと出会い

作品は、偶発的な関係の生産装置として、すなわち個人的もしくは集団的な出会いを誘発すると同時に運用する機能しうる。

一九九〇年代のアーティストたちは、六〇年代と七〇年代には中心的な問題であったアートの定義という重荷から解放されたうえで、関係の問題系を引き継いでいるのである。もはや問題はアートの限界を広げることではなく、社会領域の全体においてアートによる抵抗の力を試すことにある。ユートピア的な社会や革命への期待は、日常のマイクロ・ユートピアと擬態戦略に道を譲った。どのような立場をとるにせよ、〈直接的〉な社会批判は、それが社会的な周縁といういまや幻想に過ぎない立場から行われるならば、無効であり退行的でさえある。

コラボレーションと契約

芸術作品を、(a)ある瞬間における社会関係
(b)社会関係を生産する対象
として提示するアーティストたちは、しばしば既存の関係を作品制作の原理として利用する。

アーティストは、自身に先行して存在し、誰にでも利用可能な素材、すなわち形式生産の宇宙と関わっている。

職業的関係ーー顧客たち

ここまでに取り上げた社会関係を探求するさまざまな実践では、アーティストが既存の関係に入り込み、そこから作品形式を抽出していた。これから取り上げる実践はそれらとは異なり、社会事業のモデルを再構成し、それぞれの事業に対応する生産手段を適用するーーアーティストたちは実際の商品生産やサーヴィス産業の現場で活動し、実践の空間の中で、自らが提示する事物の使用価値と美的価値との間に、ある種の両義性を導入するのである。

些細なサーヴィスを提供することによって、アーティストは社会的紐帯に生じた裂け目を埋めるーーその時作り出された形式は、まさに〈私を見つめる顔〉となるのである。

アートは取るに足りない身振りを通じて、辛抱強く関係の布地を縫い合わせる天使の計略、つまり現実の経済システムから離れ、ひそかに実行される一連の行為なのである。

異質な〈世界〉の条件に従いつつ、アートの世界の内部で活動すること。そのときアーティストたちは、顧客、発注、事業といった概念によって機能する関係的な宇宙を、アートの世界に導入するのだ。

いかにギャラリーを使いこなす オキュペ か

ギャラリーや美術館での社会的交換も、芸術制作の素材になり得る。

アーティストが展覧会のプロセス全体を〈使いこなす〉ようになるまで、そう長い時間はかからなかったのだ。

変更が加えられるたびに展覧会の文脈全体が更新される。展覧会そのものがアーティストの仕事によって〈形を与えられる〉、しなやかな素材になっていたのだ。

トリスタン・ツァラの言葉ーー「思想は口の中で作られる」ーーにならって言えば、アートはギャラリーで作られるのだから。 


第三章 交換の時空間

作品と交換

すべての優れた芸術作品は、単なる空間的な存在以上のものである。それはいまここで繰り広げられる時間的なプロセスとしての対話や議論、そしてマルセル・デュシャンが〈芸術係数〉と呼んだ人間的な交渉の形式に自らを開く。この交渉は、作品が、人間の制作行為の成果であることを明示する〈透明性〉に基づいて行われる。

ユベール・ダミッシュが指摘するように、ジャクソン・ポロックの絵画作品は、絵画の流れとアーティストの行動をカンヴァス上で極めて緊密に結びつけるのであり、カンヴァス上の絵画は彼の行動のイメージ、あるいは〈必然的な生産物 プロデュイ・ネセセール〉なのだ。アートはアーティストの行動によって始まる。

アートは最初から、交換とコミュニケーションーー〈取引 コメルス〉という語に含まれる二つの意味ーーの世界に身を捧げているということなのだ。

アートは価値のイメージそのものであるがゆえに、「究極の商品」を表象するのだ。

そもそもアートが表象するのは、いかなる通貨にも、いかなる〈共通の実体〉の規定にも従わない直接的交換である。それは野生状態における意味の分有であり、外在的規定によってではなく、交換される対象それ自体の形式によって規定される交換様式なのだ。アーティストの実践、すなわち制作者としての行動が、我々と作品との関係を規定する。アーティストが美的対象を通じて作り出すのは、なによりもまず人間と世界との関係なのである。

作品の主題

彼らの作品は社会的交換の諸様式を、美的経験を伴う観客との相互作用的な関係を、そして、さまざまなコミュニケーションを、個人と人間集団を結びつける具体的な道具の次元において作動させるのだ。

彼らは皆、展覧会の構成における視覚的なものを排除するのではなく、それを相対化するような近接性に根差している。一九九〇年代の芸術作品は、観客を隣人に、つまり直接的な対話の相手に変えるのだ。

リレーショナル・アートは他のいかなる運動の〈再演〉でもなければ、既存のスタイルへの回帰でもなく、現在の世界の観察と芸術的実践の未来に関する考察から生まれたのだ。

新しい人類の時代も、未来を目指して発せられる宣言も、お膳立てされた、より良い世界への望みも、完全に過去のものであることは明らかだろう。今日のユートピアは個人的な日常の中に、つまり具体的かつ意図的に断片化された実験が行われる、現実の時間の中に存在しているのである。芸術作品はこうした
実験を行うための、新たな〈生の肯定〉を可能にする社会の間隙として現れる。今や隣人たちと可能な関係を築くことこそが、幸福な未来を歌い上げることよりも、より差し迫ったアートの課題であるように思われる。

いずれにせよリレーショナル・アートは、芸術理論における〈良識〉の復権とーー少なくともフランスではーー見なされていた抑圧的、権威主義的、反動的な思想に対する望まれていたオルタナティヴなのである。

モダニズムはジルベール・デュランの言う〈想像的対立〉に浸りきっており、分離と対立の手作きを経て、未来のために進んで過去を貶めるのである。モダニズムは対立をその基礎に置くが、我々の時代の想像力は交渉、連帯、共存に基づいている。

かくてアートはユートピアを描こうとすることを放棄し、むしろ具体的かつ現実的な空間の構築を試みるのだ。

一九九〇年代のアートの時空間

ポップ・カルチャーは〈ハイ・カルチャー〉との対比を通じてのみ存在するのであり、その分離を強調する形式に他ならないのである。
 いわゆる〈コンセプチュアル・アートへの回帰〉を巡る論争を終わらせるには、リレーショナル・アートが非物質性を祝福したことなど一切ないことを思い出してみればよい。彼らは誰一人として〈パフォーマンス〉やコンセプトに特権的な地位を与えてはいない。

一九九〇年代のアーティストたちが作り上げる世界の中では、事物は言語の不可欠な一部をなしており、どちらも他者との関係を媒介するものなのだ。

身振りと、それが生み出す形式との恣意的な分離、すなわち現代における疎外のイメージこそが問題なのである。

事物と制度、時間の使い方と作品は、人間関係に依存するものーー社会的労働が具体化されたものーーであると同時に、関係を生産するものーーさまざまな社会的様態を組織し、諸個人の出会いを制御するものーーなのである。


第四章 共存と可用性 ディスポニビリテーーフェリックス・ゴンザレス = トレスの理論的遺産

作品を変質させ、はては消滅にさえ至らせるようなプロセスとはいかなるものか。

それは構築(あるいは解体)のプロセスを見せようとしているのではなく、観客の中にその存在の形式を拡散させようとする作品なのだ。ゴンザレス = トレスが提起した交歓的な コンヴィヴィアルな贈与や芸術作品の可用性に関する問題系が、今やアートの本質的な問いになっていることは明らかである。

共存のパラダイムとしての同性愛

なぜなら彼の作品の強度は、形式を道具化する彼の技巧と、特定の共同体への同一化を回避して人間的経験の核心に触れる彼の能力の両方に由来するのだから。ゴンザレス = トレスにとっての同性愛とは、明確に区分された単一のコミュニティなどではなかった。それは、すべての人びとに共用可能な、誰しもが同一化できる生活のモデルだったのだ。

彼は〈ニ〉という数を示唆する作品をいくつも制作しているが、それが二項対立の意味で用いられたことは一度もなかった。

両者とも普遍的なものへ跳躍を望んだのであり、カテゴリー化など望まなかった。

孤独は〈一〉によって表現されるのではなく、〈ニ〉の不在として示される。

彼の作品の形式的構造は調和的な偶数性であり、他者を自己へと包摂することである。その構造は無限に衰えていくのだが、間違いなくそれが彼の実践の主要なパラダイムを構成しているのだ。

ゴンザレス = トレスが語るのは個人の物語ではなく、始めから終わりまで、カップルの、すなわち共存の物語なのだ。

他者の包摂は単に主題となるだけではない。それは作品形式を理解する上で本質的な重要性をもつ。

「あなたは現実の中で、私はどのように生きることができるのか」、あるいは「二つの現実の出会いは、それぞれの現実をどのように変えるのか」……。

つまり、芸術作品の構造は単一の意味作用に限定されないということなのだ。一方、ゴンザレス = トレスが好んで用いた簡潔な作品形式は、内容の悲劇性や攻撃性と強烈な対照をなしている。しかしその本質は、ゴンザレス = トレスが目指した融和の地平、すなわち美術史との関係さえも含む、調和と共存の希求にあるのだ。

モニュメントの現代的形式

我々が〈芸術作品〉とみなすすべての対象に共通しているのは、現実というカオスの中で、人間の実存の意味を生産する(可能な道筋を描きだす)力である。

意味とは、社会的交換や集合的な合意形成に先行して決定済みのものと考える彼らにとって、積み上げられた紙は優れた作品として受け入れることの出来ないものだろう。世界は人類が言葉と形式をもって対峙するカオスそのものであるということを、彼らは決して認めたくないのだ。

現在のアートは、長期的に持続する古典的〈モニュメント〉をうらやむものではない。コルネリウス・カストリアディスにならって言い換えるなら、それは、これまでになかったような仕方で「来るべきすべての人びとにむけた、破滅の淵にありながら意味作用を創造する可能性を証明すること」なのであり、まさに限定的かつ一時的であるがゆえに永遠に触れることができる形式的解決なのである。

エイズによる死に先立ち、彼は自らの作品を、持続を求める意志に、すなわち感情という最もはかないものを生き延びさせようとする強い意志に結びつけたのだ。彼は生産様式への配慮を怠らず、交換と分有を実践の理論的支柱とした。

ゴンザレス = トレスは〔直接的な表現で〕観客にメッセージを届けるのではない。彼は暗号化されたメッセージや投瓶通信のように、出来事を形式に刻印 = 登記するのだ。ここにおいて記憶は、身体と同様に抽象化される。

(作品と個人の)共存の基準 クリテール

ゴンザレス = トレスの作品は交渉および共存関係の構築に重点を置いており、さらに観客の倫理をも包含する。その意味で彼の作品は特定の美術史ーー観客に周囲の状況を意識させる作品(ハプニング、六〇年代の「環境芸術」、サイト・スペシフィック・インスタレーション)の歴史ーーに属している。

山積みのキャンディは、一見取るに足りない外見を装いながら、倫理的な問題ーー観客と美術館の関係、観客に対する警備員の介入の仕方、観客の規範意識、観客と芸術作品との関係の本質ーーを規定するのだ。

今日の芸術的経験の前提は作品と観客とが同じ世界に共存していることーー象徴的にも、現実的にもーーである。

私が一貫して関心を寄せている今日の芸術作品は、間隙として、つまり観客を現に管理している経済を迂回する別の経済が行われる時空間として機能する。この世代のアーティストの仕事で最も印象的なのは、彼らの作品を導いている民主主義への配慮である。アートは日常的な関心事を超越するものではなく、世界との特異な関係を通じて、すなわちある虚構を通じて、我々を現実に向き合わせるのだから。権威主義的なアートが、現在の不寛容な社会とは異なる現実の可能性ーーそれが夢想的なものであれ、〔現実として〕受け入れられるものであれーーを観客に提示することなどあろうはずがない。

最近の例を挙げればアンジェラ・ブロック、カールステン・ヘラー、ガブリエル・オロスコ、ピエール・ユイグらの展覧会は、観客に対する制作者のア・プリオリな優位性(言い換えれば、制作者の神聖性)を築くことなく、開かれた関係において観客との交渉を可能にする形式を通じて、すべての観客に〈可能性を残しておく〉配慮によって組織されている。したがって観客の立場は、受け身な消費者と、目撃者、協力者、依頼人、招待客、共同制作者、主人公などさまざまな立場の間を揺れ動くのである。しかし注意深く見守らなければならない。我々は態度が形になることをすでに知っているが、今後は形式から社会モデルが導かれることになるのだから。

〔作品に用いられる〕事物の可用性 ディスポニビリテが、自動的に〔作品を〕通俗化
させるわけではない。ゴンザレス = トレスの山積みされたキャンディのように、形式とその消滅のプログラムの、視覚的な美しさと控えめな身振りの、イメージがもたらすシンプルな驚きと解釈の次元の複雑さの、それぞれの間には理想的な均衡が存在しうるのである。

作品のアウラは観客に移行した

ミニマル・アートの背景には現象学的態度があり、観客の存在が作品に不可欠な要素として見積もられてもいるのだ。そしてマイケル・フリードは、ミニマル・アートの作品経験における観客の視覚的〈参加〉を〈演劇性〉と名付け、そして告発したのだった。「リテラリズムの芸術〔=ミニマル・アート〕の経験は、状況を含む客体の経験であるーーそれは定義上、実質的に鑑賞者を含んでいるのである」。当時のミニマル・アートが、我々の知覚の条件を批判的に分析するためのツールの役割を果たしていたとして、《無題(アリーナ)》のような作品が単に視覚領域にのみ属するものでないことは明らかである。

ミニマル・アートの空間は、視線とその対象である作品を分離する距離によって生み出される。ゴンザレス = トレスの作品を規定している空間は、ミニマル・アートに類似した形式を通じて、相互主観性のうちに、すなわち作品経験に対する観客の感情的、能動的、歴史的応答のうちに生成される。作品との出会いが生み出すのは(ミニマル・アートとの出会いによって生み出されるような)、ある空間ではなく、ある持続である。操作する時間、受容の時間、意思決定の時間、それらは、見ることによって作品を〈補完する〉こと以上の意味をもっている。
 一九三五年にヴァルター・ベンヤミンが鮮やかに描出して見せたように、モダン・アートは芸術作品におけるアウラの消滅という現象を伴って現れ、それを克服しようとし、その進行を加速させたと言っていいだろう。

それと並行して近代は、解放をめざす動きの一貫として、個人に対する集団の優位を批判し、集合的な疎外の形式を体系的に批判してきた。

現代の個人主義に抵抗するための言葉が不足しているのだ。

二世紀にわたって続いた、特異性を擁護し、集合化の欲動に抵抗する戦いの後で、我々は数多くの作品に溢れかえる退行的ファンタジーを退けるために、新たな総合を起動させなければならない。近代性が育んだ現代の文化に多様性を再導入すること。それは、家族関係、テクノロジーが生み出す交歓のゲットー、そして我々が不可避に従属させられている現行の公的制度、それらを乗り越える多様な共存のモードと相互作用的諸形式の創出を意味する。近代を今なお有益なものとして延長するには、それが未解決のまま残した対立を乗り越えるほかに方法はない。今日のポスト工業化社会において最も差し迫った要請は、もはや個人の解放ではなく、個人間のコミュニケーションを解放することであり、実存における関係の次元を解放することなのである。
 媒介のためのさまざまな手段や移行対象[objects transitionnels]一般に対する、そしてその延長として観客に向けて個人の世界観を伝達する媒体とみなされる芸術作品に対しても、再検討が求められている。今やアーティストとその制作物との関係は、観客からのフィードバック領域を経由するものへと移行しつつある。その実例がここ数年来増加している、他者との関係のさまざまな可能性を探求する交歓的 コンヴィヴォ、祝祭的、集合的、そして参加型のアート・プロジェクトなのである。こうした動向を通じて、観客の存在はますます重要視されるようになった。それはまるで《ある遠さの一回的な現れ》である芸術作品のアウラが、今後は観客によって供給されるかのようであり、イメージの前で再編成される極小の共同体が、アウラーー作品の背後に現れる〈遠さ〉ーーの源泉になったかのようである。いまやアートのアウラは、作品に表象される背後世界[arrière-monde]や造形的形式それ自体にではなく、〔作品の前で〕作品展示の際に一時的に作り出される集合的形式に宿るのである。
 コンテンポラリー・アートにおける共同体の意味は、強硬な保守主義を擬装するために用いられるコーポラティズムにあるのではない(今やフェミニズム、反人種主義、そしてエコロジーは、構造的な問い直しに曝されることなく、しばしばロビー活動としてパワーゲームに取り込まれてしまっている)。

作品のアウラは観客の自由な連帯によって再構成されることになったのだ。しかし観客の存在を神話化してはならない。観客を[大衆」という観念に一元化することは、観客たちの一時的な集合的経験をファシストの美学ーーそれは観客たちをそれぞれの同一性に固執させるーーに結びつけてしまうのだ。観客たちを一時的に結びつけるのは、個人を同一性というトーテムの周囲に固着させる社会的しがらみなどではなく、アーティストがあらかじめ設定した契約条件に基づくつながりなのである。コンテンポラリー・アートのアウラは自由な連帯に宿るのだ。

美は答えか?

今日の文化を揺り動かしている反動的動向のなかで、もっとも目に付くのは美の観念の地位を回復させようとする企みである。

ヒッキーが美と呼ぶアレンジメントは、〈本来的に〉極めて相対的なものなのだ。

絶え間なく続く芸術の領地を確定するための争いには、アーティストの〈野生の〉実践から支配的なイデオロギーにいたるまで、数多くの〔異質な〕アクターが関わっているのだ。

ゴンザレス = トレスの作品は、無意識の情動を包み込んでいる。

「スタックス」の厳格にして簡素な外観は、その存在の脆さと不安定さによって均衡を保っているのだ。

 

 

第五章 関係的なスクリーン

今日のアートとテクノロジー

テクノロジーがもたらす解放の力に対する我々の楽観的展望は急激にかすみつつあり、今や情報理論、イメージ・テクノロジー、原子力などは、我々の生活を向上させると同時に、生命を脅かし、人間を奴隷化する道具でもあることを我々は知っている。

さて、写真の発明と最近の展覧会におけるスクリーンの増殖との間には、〔テクノロジーかアートに与える影響という観点において〕平行関係が存在するのだろうか。我々が生きているのは、まさにスクリーンの時代なのだから。
 ことさら興味深いのは、(映画の)光が投影される面と情報を表示するインターフェイスの両方が、同じスクリーンという名で呼ばれているという事実である。

新しい視覚経験に呼応して我々の精神装置の内部に現れるこうした反応を見過ごした結果が、最近の美術史に見られる機械論的分析なのである。

アートと資本材

脱領域化の法則

美術史家は二つの大きな陥穽(かんせい)にはまる。ひとつは、アートを特定の諸法則によって排他的に規定される、自律した領域とみなす観念論的歴史観である。

もうひとつは、前者とは正反対の機械論的歴史観である。これは思考様式の変化を、新しいテクノロジーの誕生から体系的に演繹する立場である。

近代絵画は機械的記録に還元することのできない絵画の問題(抽象絵画の可能性を開いた絵画の物質性や身振りの痕跡)に集中して取り組むこととなった。

そのなかで最も大きな成果をもたらしたのは、新しい道具がもたらした可能性を技術そのものとして表現するのではなく、批評意識を持ちながら制作に活かしたアーティストたちだった。

アートは、それぞれの時代の技術によって実現される生産様式、および人間関係を我々に認識させ、また技術を転用することによってそれをより可視化し、技術が日常生活に及ぼす影響について考慮するよう促すのだ。テクノロジーは、イデオロギーの道具としてではなく、その影響が我々の視野に現れる限りにおいてのみ、アーティストの関心を引きつけるのである。
 我々はこれを脱領域化の法則と呼ぶ。アートは技術の賭金を転用することによって、その本分である技術に対する批判的役割を果たす。従ってコンピューターの革新がもたらした本質的影響は、むしろコンピューターを使わないアーティストたちの実践にこそ認められるのである。

こうして行動様式の次元においても再現表象は機能するのである。

こうしてアート/技術の関係は、操作的リアリズムの格好の主題となる。

技術的な条件を明らかにしようとするアーティストたちが出会うすべての困難は、ありふれた言い方だが、本質的に変わりやすい一般的な消費財と同じ生産条件のもとで、持続が可能なものを作り出そうとすることに由来する。つまり近代性は〈一過性のものから永遠を引き出すこと〉に挑み続けてきたのだった。それに加えて、そして何よりも重要なのは、同時代の生産様式に照らして一貫性があり、かつ公正な制作方法を考案することなのである。

イデオロギー・モデルとしてのテクノロジー(痕跡からプログラムへ)

写真はある意味でヨーロッパ社会の経済発展の一段階(植民地の拡大と労働過程の合理化によって特徴づけられる)に、すなわちその発明が必要とされる社会の発展段階に対応するものであった。

アートの役割は思考、生活、視覚の諸様式を〔新たに〕作り出すために、技術がふるう権力を反転させることにある。

現代の文化を支配しているテクノロジーは言うまでもなくコンピューターであるが、その影響は主に二つに分けられる。一方はコンピューターそのものがもたらした我々自身の知覚や情報の取り扱い方の変化である。もう一方はミニテルやインターネット、そしてタッチ・スクリーンやヴィデオ・ゲームなど交歓を促進するテクノロジーの急速な進化である。前者は、我々とイメージの関係に影響を及ぼすものであり、我々のメンタリティの変化に大きく関与している。

なぜなら「写真は物理的な効果を記録したもの」てあるのに対し、「デジタル・イメージは身体の動作によってではなく、演算によって得られるものなのだ」。

それはもはや痕跡(遡及性)ではなくプログラム(進行性)なのである。コンテンポラリー・アートに最も効果的な着想を与えているのは、デジタル・イメージのこうした特性なのだ。

インタラクティヴ・テクノロジーが急速に発展した一九九〇年代に入ると、アーティストたちは、社交性と相互作用的な関係をより深く追求するようになり、その理論的、実践的地平を人間関係の領域に定めたのだ。

彼らにとって主要な課題は、社会体に穿たれたマイクロ・ユートピア、すなわち間隙を創り出すことなのである。

彼らの作品は模型ではなく、機能をモデル化したものなのである。言い換えれば、彼らの作品はスクリーンに合わせてその寸法 デイモンシオンが変化するデジタル・イメージとまったく同様に、大きさの概念をもたないのだ。◉額縁とは異なり、スクリーンはあらかじめ決められたフォーマットに作品を閉じ込めることなく、未知の次元 デイモンシオンで作品の潜在力を具現化するのである。今日のアーティストたちのプロジェクトは、彼らが間接的に影響を受けたテクノロジーと同様の両義性を抱えている。一方でそれは映画と同じように現実に寄り添っているように見えながら、現実であることを主張しない。他方、それはデジタル・イメージのような応用可能性も、あらかじめ設計されたフォーマットから異なるフォーマットへの変換も保証されない。つまり、テクノロジーは、現実と想像の間に引かれた境界線においてのみ同時代のアートに影響を及ぼすのである。
 コンピューターとカメラは、生産能力の限界ーーそれ自体、社会的生産の一般的条件に依存するーーと可能な社会関係を具体的に定める。アーティストはこうした状況から出発し、生き方を創造し、社会的行動様式の生産に作用する諸力を明らかにし、我々の文明の未来に関する想像力を解放するのだ。

カメラと展覧会

展覧会=舞台装置

「作品は眼差しによってすべてを走査できる空間の全体性〔として提供されるの〕ではなく、あるシークエンスから別のシークエンスへと観客が自ら移動することによって進行する持続、つまり静止した短編映画なのだ」。

映画は持続の扱い方を通じて、つまり映画が生み出す「運動イメージ」(ドゥルーズ)を通じてアートの形式に変化をもたらす。フィリップ・パレーノによれば、そのときアートは「事物、イメージ、そして展示が、瞬間の持続として、すなわち、再演可能なシナリオの構成要素として存在する空間」となるのである。

エキストラたち

展覧会が舞台装置に変わったのだとしたら、そこで演じられるのは誰だろうか。

どのような人の流れが、どのような仕方で組織され、芸術形式として舞台に登場するのだろうか。

ヴォルター・ベンヤミンは、「映画スタジオにおける撮影の特異なところは、観客のいるべき位置に、機械装置が置かれることだ」と指摘した。そしてそれによって俳優たちの身体は希薄化されるのである。一方ヴィデオは、職業俳優と通りすがりの人びととの間の差異を消し去ろうとしている。

ヴィデオの映像はあまりに扱いやすいため、存在を物象化し、その代用とするために利用されることもある。

ヴィデオ装置以後のアート

巻き戻し/再生/早送り

いずれにせよ作品は、展覧会のたびに更新され再演される物質的持続なのである。作品は、それを生み出している身振りや形式の流れから切断されることのない静止画、すなわち凝結した一瞬の持続になる。

アートにおいても、ヴィデオはある実践が具体的に存在していたことを証明する。それは傲慢で断片的すぎる実践を、直接把握可能な対象に変えるのである。ヴィデオ映像を芸術的実践に活用するアーティストたちは突然現れたわけではない。コンセプチャル・アートの美学は、すでに述定的[constrative]で事実に基づく ファクチュアル、すなわち実証に根差した美学だったのだ。コンセプチャル・アートは我々の暮らす「完全に管理された世界」(アドルノ)を、分析的で脱構築的なアプローチによって表現したが、近年の実践は同じ世界を、ヴィデオを用いて無遠慮にありのままに示しているのである。

視点の民主化?

ヴィデオ装置はイメージ生産の民主化の一翼を担っているが(それは写真が果たしていた役割を必然的に受けついだのだ)、一方でヴィデオカメラによる遠隔監視の普及を通じて、我々の日常生活に影響を及ぼしてもいる。それはホームヴィデオ上映会の対極にある、セキリュティ対策としてのヴィデオ装置の利用法である。

街を歩けば我々は常に監視の目にさらされ、我々の文化的生産物は常に再解釈/再利用の素材として差し出される。

昆虫のように捉えられた観客は、カメラを通じてイメージに変換され、アーティストの観察対象 シュジェになるのだ。

今やヴィデオの被写体 シュジェに自由はほとんどないと言っていい。ヴィデオは、今まさにあらゆる権力関係が積極的に取り組んでいる、個人、性、民族に関する大がかりな視覚的調査に協力しているのだ。

どのような技術もアートの主題ではない。テクノロジーを、それを生産様式の文脈において考察すること、すなわちテクノロジーとその利用を強制する態度を支えている上部構造との関係を分析することによってこそ、近代が目指した世界との関係のモデルを作り上げることが可能になるのである。


『関係性の美学』ニコラ・ブリオー/著、辻憲行/訳より抜粋し引用。