Text or Nothing -263ページ目

Senghor - 「感じる」ということ

合理的観察眼からは決して得られることの無い「感じるということ」、そして感性を、われわれ(←まあ、人一般という意味…)は忘れてしまっているのではないだろうか。私自身、詰め込まれたワンパターンな価値観、刹那的で軽薄なこの世界との結びつきの中で生きている。もう少し感じることに重きがおかれれば、他人の痛みも、人の死も、生きることの意味も、生きることの儚さも、もっともっと身をもって分かるのかもしれない。

今「身をもって」という表現を用いたが、高橋康也氏がまさに昔の日本人は「身」に精神的なるものと肉体的なるものとのしっくりした合一(つまりは松果腺?)を見ていたというようなことを指摘しているように、身をもってしか、つまり対象に入り込まねば感じ取ることのできない感性的な次元を大切にしていけたら、そして若い世代に伝えて行けたらと思う。

セネガルの詩人レオポル・セダール・サンゴールから。
1930-40年代エメ・セゼールらとネグリチュード運動を牽引。
植民地主義を批判するとともに、アフリカ人がニグロ・アフリカンの言葉で語ることを訴える。
ここで強調されている「感じる」ということに、注目した。

LEOPOLD SEDAR SENGHOR (1906-2001)
Au contraire de l'Européen classique, le Négro-Africain ne se distingue pas de l'objet, il ne le tient pas à distance, il ne le regarde pas, il ne l'analyse pas [...] Il le touche, il le palpe, il le sent. (Au Congrès de l'Union natonale de la Jeunesse du Mali, Dakar, 1960)

元来のヨーロパ人とは反対に、ニグロ・アフリカン人は対象から身を切り離さず、対象に距離をおかず、対象を見ず、分析しない。[略]ニグロ・アフリカン人は対象に手を当て、触れ、感じる

感性が認知されるには、言葉がそれを表さなければ難しい。
ちょうど、昔ながらの日本人が持つ感触を、古きよき日本の言葉でしか表しがたいように。(ex. おかげさまで)

そこで次は「感覚」と同類の語「意味」について。
まさに sens という語は、「感覚・感じ取れるもの」という意味と、「意味」という意味との間に、心地よく収まっているように思う。

Le mot [dans les langues négro-africaines] est plus qu'image, il est image analogique sans même le secours de la métaphore ou comparaison. Il suffit de nommer la chose pour qu'apparaisse le sens sous le signe. Car tout est signe et sens en même temps pour les Négro-Africianes. (Ethiopiques, Postface, Seuil)

[ニグロ・アフリカンの諸言語では]言葉はイメージ以上のものである。メタファや比喩に頼ることなど無い、アナロジーのイメージである。意味記号が立ち現れるには、ものを名指すだけで十分である。というのも、ニグロ・アフリカンの人々にとってすべては記号であるとともに意味だからである。