Text or Nothing -262ページ目

I am that I am

血液型占いなるものが存在するのは日本だけらしい。
日本人は定義されるのが好きなのだろうか?
以前動物占いなどというものも流行った。

かくいう私も生年月日占い、姓名判断に加えて血液型占いを結構気にしてしまう。
部屋の片付けをしていたら、複数の占いサイトで得られた結果のプリントアウトに、互いの共通点と相違点を塗り分けたものが出て来た。出力した日付を見ると3年前。当時は暇人だったようだ。呆れる。

が、いつだって、私は私である以上のものではなかった。
どうなろうと私が私でなくなることは無い…これは不条理な思いをした時に、感得したこと。

さて。『リア王』1幕2場のエドマンドの科白は、戯曲としてはかなり好きなほう。
なかでも、天の動きに諸悪の根源を丸投げする父グロスターを批判するシーンの弁舌が面白い。

GLOUCESTER :
These late eclipses in the sun and moon portend
no good to us: though the wisdom of nature can
reason it thus and thus, yet nature finds itself
scourged by the sequent effects
[...]


グロスター:最近のあの日蝕や月蝕、あれはみんな不吉な前兆だ。いくら自然の学問がかくかくしかじかとその原因を説明して見せたところで、その結果が人の世の自然に禍いすることに変りはない。[略](岩波文庫の野島訳を拝借)

EDMUND :
This is the excellent foppery of the world, that,
when we are sick in fortune,--often the surfeit
of our own behavior,--we make guilty of our
disasters the sun, the moon, and the stars:
[...]
Tut, I should have been that I am,
had the maidenliest star in the firmament
twinkled on my bastardizing.


エドマンド:馬鹿もここまでくればあっぱれだ。運が向かなくなると、いや、大抵は自業自得にすぎないのに禍いを太陽や月のせいにする。[略]たとえこの庶子さまが孕まれたとき、天空に純潔無比のお星さまが瞬いていたとしても、おれはおれ今あるとおりのおれになっていたさ。(同上、野島訳をお借りした)

I should have been that I am
野島氏の註によるとこの表現は、『出エジプト記』3章にある I am that I am という神の科白を踏まえているとのこと。ヤーウェは「私は在る」と言ったのだから、在ること自体が強調されているのだろう… 揺るぎない今在るということ、それは舞台の上の絶対的かつ儚いプレザンスでもあるような…

それにしても、エドマンドのこの次の科白のほうがもっと好きだ。グッドタイミングで登場するエルガーに、喜劇のようなおあつらえ向きの出番だと、楽屋落ちっぽく言うところ。