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表記に頼った記憶の再生

先ほどテレビドラマに、見覚えのある女優さんが出演していた。
顔は分かるのに、名前が出てこない。
名前を思い出せないのは気分が悪いので、あ・い・う・え・お……と、五十音順に名前の頭文字を確かめてみた。
か・き…に達した頃、「か」か「き」から始まる名前だったような気がして、
なんとも言葉にできない「名前のイメージ」と昔のその女優さんのイメージとが怒濤のようにおしよせてきた。

次の瞬間、ファーストネームは平仮名であったことに気づいた。

そしてさらには、「ず」という音に「づ」という表記を当てた旧式の仮名遣いであることに気づいた。

その仮名遣いのイメージのおかげで、ファーストネーム、そしてファミリーネームを思い出すことに成功! 事なきを得た。なんとも晴れ晴れとした気分。

それにしても、表記から人名を思い出したことに、いい知れぬ感動を覚えた。
ファーストネームが仮名書きで、途中に旧仮名遣いが入っていることをなぜ覚えていたのかは分からない。だが、そのことがひらめいた途端、眠っていた記憶の底からその方の名前が浮かび上がってきた。

こうした記憶の再生プロセスは、幼い頃から日本語表記に慣れ親しんでいる者に固有のワザかも知れない。

たしかに、きょうはとても感動したが、これまでにも人名をイメージする際に表記を手がかりにしたり、表記が違うために同じ音の名前を違うイメージでとらえていたりするようなことはたびたびあった。表記がなくて音だけだったら、これほどに人名を覚えられなかったのではないかと思う。

日本語の音素はあまり多くないからなのか。
われわれはたとえ口語的に言葉を用いるときにも、頭の中に表記のイメージを少なからず宿しているのだろう。
表意文字である漢字もそうだが、それに差し挟まれた平仮名についても、なにかひらがな独特のイメージを抱くにちがいない。

日本の漢字仮名混淆の文字文化を知れば知るほど、日本語を読み書きし、思い浮かべることが楽しくなる。

裏を返せば、ローマ字を使う言語においては、音が日本語以上に大きなイメージを喚起しているのかも知れない。彼らの音の世界をもう少しさぐってみたい。