城めぐりPCサイトオープン!
とは言っても、このPCサイトは城めぐりとはどんなゲームかを紹介するのが主たる目的でして、すでに城めぐり会員の方にはあんまりメリットはないんです( ̄Д ̄;;(イカした会員ログイン機能とかもありません)。ごめんなさい。
ただ、3000城のデータベースがPCからでも見れるようになっているので、お手軽に「城郭事典」としても活用頂けますし、検索機能も豊富なオプションがあって充実(。・ε・。)
さらには、今後のお出かけの際の攻城計画を立てるのに、PCならではの大きい地図や写真は、すでに会員の方々にも大いに活用して頂けるものです。
とりあえず、今後こっちのPCサイトをバンバン機能追加していく予定は今のところありませんが(正直)、将来城めぐりの規模が大きくなったらあかつきには、必然的に重要な位置づけになってくると思われます。
城めぐり会員の方もそうでない方も、ぜひこちらにパソコンからアクセスして下さいませ!
【本日】サーバーメンテナンスのお知らせ
先週よりゲーム内ではお知らせに慶次、ではなく掲示させて頂いています通り、本日以下の通りサーバーメンテナンスを実施させて頂きます。(このブログを読まれた時点ですでに過去のことになってしまっている方はすいません…)
実施日時:2012/7/9 14:30~15:00
実施内容:上記時間帯の間で数分間、すべてのサービスをご利用頂けません。
ゲーム内でのお知らせがぎりぎりになってしまい、申し訳ございませんm(_ _ )m
より快適に城めぐりをご利用頂くためのメンテナンスですので、どうかご了承頂けますと幸いです。
また、毎週月曜日に更新している、城郭フォトギャラリーの「今週の一枚」ですが、こちらもメンテナンス明けに今週分を更新致します。あわせてご了承頂けますと幸いです。
ということで、今日は事務的なお知らせに終わってしまいましたので、城関連のニュースをひとつ。
昨日7月8日、清洲城(清洲公園)にて、公園内にあった信長像の横に、同じく離れて設置されていた濃姫の像が移設されたそうです。
「殿、お久しゅうございます。」
「おう、450年ぶりじゃ。お前もだいぶ老けたのう( ̄ー ̄;」
というやりとりはなかったそうです。
久しぶりの男女の再会ならば、おとといの七夕にやればよかったのにー。いろいろ事情があるんです、きっと(。・ω・)ノ゙
<御礼>ブログ2周年
ブログ更新日である月水金は、朝出社前にお腹痛を起こしている(;゚;Д ゚;)と主張してみるのですが、どうも嘘だと見抜かれているようで、今日に至っています。それでも、「ブログを楽しみにしています」というマニアックな、ではなく、ありがたいお言葉にリアルに励まされながらなんとか今日まで続けてくることができました。
さすがに2年もやってると、ベテランの空き巣にじっくり物色されたタンス以上に引き出しの中は空っぽになってますが、このブログをやっているからこそ新しく身に付いた知識もたくさんあります。
逆に、プライベートで城をめぐる時にも、半分経費が出るわけでもないのに、半分仕事目線で見るようになってしまっていて、それが目下の悩みでもあります。職業病だと言えば職業病、贅沢病だと言えば贅沢病( ´△`)
ということで、「だからなんやねん?」的スピーチを長々と続けてしまいましたが、これからもゲームが楽しくなる、城めぐりが楽しくなる情報を提供していきたいと思いますので、今後ともブログの方もよろしくお願い申し上げます。
いつの日か、しょこたんのブログを抜けるようにがんばります。
【籠城戦】狙撃伝説も残る、信玄最後の戦い
さて、今回は籠城戦シリーズです。武田信玄最後の戦いとなった、野田城の戦いです。病身でありながら戦陣に立った信玄。信玄ファンとしてはなんとも切なくなる戦いです。寝不足がどうだとか言ってる奴(前述)にもこの闘志を見習ってもらいたいもんです。
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狙撃伝説も残る、信玄最後の戦い
元亀3年(1572)10月、甲斐の武田信玄は各所に万全の手配を施した上で西上の兵を起こした。当面の敵は三河・遠江を領する徳川家康である。約2万5千の兵を率いた信玄は信濃から青崩峠を越えて遠江へ侵入、犬居城の天野氏らの兵を吸収しながら只来、天方など徳川方諸城を次々に攻略していった。
途中、天竜川を利用した堅城、二俣城の攻略に2ヶ月近くを要する誤算もあったが、山県、秋山らの別働隊も各地で順調な戦果をあげ、早くも12月、家康の本拠地浜松城へと迫った。
単独では到底勝ち目のない家康は、同盟者である織田信長に救援を要請したが、実際に浜松に入ったのは3千ほどで、家康本隊8千を加えても総勢1万1千という心許ないものだった。
敵が半分以下の兵力とはいえ、これに籠城されては難儀と考えた信玄は家康のおびき出しにかかる。浜松城を目の前にして部隊を反転、家康に背を向けながら城下を通過したのである。結果的には、家康はこのおびき出しにまんまと乗ってしまい、城外で信玄と激突、惨憺たる敗北を喫した。これが三方ヶ原の戦いである。
家康を野戦で破った信玄は浜松城はそのままにして、遠江の刑部で越年、その後三河へと兵を進め、同じく徳川方の支城、野田城を包囲した。
野田城は小城ではあったが、城主菅沼定盈、援将松平忠正らが城門を固く閉ざして籠城していた。城兵は400ほどしかいなかったと言われるが、3万近い兵を擁する武田軍を相手に善戦、なかなか落ちる気配を見せなかった。
一方の信玄にとって、真の目的はこの先に控える信長との決戦にある。無理に力攻めすれば城を落とすことはできたかもしれないが、今は大事の前の小事、極力兵の損耗は避けたいところである。そこですぐさま戦術を切り替え、金堀衆を使って地下から井戸の水を抜き、野田城を渇攻めにした。信玄得意の戦法である。
数十倍の敵を相手に戦ってきた菅沼勢も、水の手を断たれては為す術がなかった。2月10日、定盈は自らの切腹を条件に降伏(定盈の切腹は許されず、後に人質交換に使われた)。野田城は武田の手に渡った。
しかしこの時、すでに信玄の体は病魔に蝕まれていた。後に天下人となる家康を撃破し、徳川方の領土を席巻、いよいよ信長との決戦目前というところで、無情にも信玄の運命は尽きようとしていたのである。
これ以上の進軍は不可能と判断した武田家首脳は撤退を判断。その途中の信濃駒場において、信玄は帰らぬ人となった。
余談ではあるが、この野田城の戦いには信玄狙撃伝説が残る。籠城軍の中に小笛の名手がいて、毎晩笛を吹いていた。その美しい音色に誘われた信玄は堀の端に近寄って笛の音に聞き惚れていた。これを定盈の家臣、鳥居三左衛門が狙撃した。信玄はこの傷がもとで亡くなったという。信玄が病ではなく、鉄砲によって命を落としたという伝説である。
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「殿、いくらなんでも近付きすぎですっ。」って家臣は注意してあげましょう。史実だったらこんな不憫な死に方はありません。まぁ、籠城に伝説はつきものということで…。
最近では、この一連の戦いで信玄に上洛の意思はなかったんじゃないかとかも言われてますが、どっちにしても信玄vs.信長見てみたかったですねー。ヒョードルvs.ノゲイラ以上にテンションが上がったと思います(・ω・)/
日本各地を股に掛ける
群馬に生まれ、京都、鎌倉、兵庫、福井、そして、ここ東京にも古戦場跡など関連史跡が多く伝えられています。彼が城めぐりの会員だったら、間違いなく「軍神」の異名を貼り付けているであろう、まさに全国を股に掛ける勇ましい武士だったのです。
そんな新田義貞が鎌倉時代に活躍している間に、現代の城めぐりでは本日、3人目の3000城を達成した方が誕生致しました!本当におめでとうございます(v´∀`)ハ(´∀`v)!!
最近では、わたくしも打ち合わせ先などで、「いやー、実はそれがすべて達成した方もいるんですよ(  ̄ー ̄)y-~~」と、完全に自分の手柄のように勝ち誇って話していることが多々あります。「あ、驚きました?」というドヤ顔で。
実際自分は1000城にも満たない攻略数なのに、ごめんなさいm(_ _ )m でも、それくらい本気で誇りに思っている、いや、思わせて頂いている、という証なのです…。
仕事をしていると、さまざまな城壁にぶち当たり、上からは石・槍・熱湯なども降ってきますが、今日のような出来事にいつも力をもらって乗り越えています。ありがとうございます。
そして、この場を借りて改めておめでとうございます!
クイズ不具合に関するお詫び
上記時間帯にクイズに解答頂き、不正解となってしまいましたみなさまにはこの場を借りてお詫び致します。現在サイト上にて個別の対応を行わせて頂いておりますが、対応完了まで数営業日の猶予を頂けますと幸いです。
今後は再発防止に取り組むとともに、より一層のサービス向上に努めて参ります。
これからも『発見!ニッポン城めぐり』をよろしくお願い申し上げます。
[都道府県別]城主争い競争率
そろそろ月末も近うなって参りました。毎月各地の城で激烈な争奪戦が行われている城主の座ですが、今日はそんな城主争い、じゃあいったいどこが一番競争率が高いのか計算してみました。
計算方法は、都道府県別の人口を城の数で割ったものです。例えば、その県に50城あって人口が50万人ならば、1城を1万人で競い合う、という計算です。
ではさっそく見てみましょう(・ω・)/
都道府県 1城あたりの人数
という結果となりました!東京都は119城収録されているものの、人口が1300万人ほどいるために、1城を約11万人で争っていることになります。熾烈…
まぁ、これは国民総城めぐり会員とした場合の数字ですので、実際に11万人で争うわけないですが、一応の目安くらいにはなるかと。
あくまで“理論上”の数値で他意はありませんので、梅雨でお出かけできないときの暇つぶし程度にお読み下さいませm(_ _ )m
今週の一枚
投稿される写真の枚数が増えたのに伴い、より高画質で写真を見られるようになったこともあってか、写真の閲覧回数もとてつもない数になってきています。本格的に“フォトギャラリー”になってきて、一城郭ファンとしても嬉しい限りです。
また、「今週の一枚」の選定も毎週頭痛の種(イイ意味で)です。「今週の百枚」だったらどんなに楽だろうと今さら思う毎週月曜日です。
※あ、すでにお気づきかと思いますが、不肖わたくしが選定させて頂いておりますm(_ _ )m
ちなみに、今日更新された1枚も面白い写真ですよ。そのふっくら感に癒されてしまうことは間違いありません。ぜひ見てみて下さい。引き出しが多いぜ!鳥取城( ̄□ ̄;)
というわけで、今後もみなさんからの写真投稿をどしどしお待ちしております。
【補足】
写真を投稿したのに反映されない、または削除された、というお問い合わせをたまに頂きます。写真投稿の際は必ず投稿ページに記載の注意事項をよくお読みの上投稿下さい。ご協力をお願い申し上げます。
一夜にして!
大事な大事な夢と希望が詰まった城めぐりの企画書もキレイさっぱりなくなりました(・∀・)!THE 初期化です。これまで積み上げてきた数々のアイデアがまさに一夜にして闇の彼方に消え失せてしまったわけです。
まぁ、幸いバックアップがあったのでこんなのん気にブログ書いてるんですが、昨日から延々復旧仕事に忙殺されてます(´Д`)y-~
さて、このまま書き続けると愚痴っぽい器の小さい男だと思われるので、こんな状況下でも城の話をしてみましょう。
わたくしたちのデータは一夜にして消えてしまったのですが、戦国時代には一夜にして城をつくってしまった男がいます。そう、ご存知、豊臣秀吉です。
秀吉の一夜城と言えば、墨俣城(岐阜県)と石垣山城(神奈川県)が有名ですが、墨俣城は秀吉が駆け出しの頃、石垣山城は秀吉ほぼ天下人の頃の城です。よって、遺構を比較すると、後者の方が石垣など見ごたえあるものがよく残っています。
まぁお分かりの通り、一晩で城が造れるわけがないのですが、そんな伝承を独り占めしてしまう秀吉のエンターティナー、ではなくて戦略家としての能力の高さを再認識します。ぜひ次回はミステリーサークルをプロデュースして頂きたいと思います(・ω・)/
ちなみに一夜城伝説は他にも、秀吉軍が一夜にして修復したという益富城(福岡県)や、千葉県には謙信一夜城というのもあります。
城に伝説はつきものです。たまにはこんなくくりで城について調べてみても面白いものですよ(´∀`)
わたくしも一筆啓上
基本的な考え方としては、一筆の内容はみなさんの良識にお任せしたいところです。規制が多ければ多いほど物事は楽しくなくなります。とはいえ、仕事ほったらかしでパチンコにでも行っていると誤解されてはいけませんので、このあたりで城めぐり公式の見解を(。・ε・。)
むろん、いつも城めぐりを支えて下さっているみなさんにこんなことを改めてお願いすること自体ナンセンスだとは思いますが、改めて&念のためとご理解下さい。
運営側では、事前に書き込み内容をチェックしたり、リアルタイムで管理したりというのは今のところ行う予定はありません(家内制手工業的な城めぐりには物理的に無理という噂も(゚Д゚*))。
ただ、ルールを守ることのできない方には毅然とした対応を取らせて頂きます。そのルールとは利用規約です。一筆啓上もこの規約に則っています。例えば、自分以外の第三者への誹謗中傷、スパム行為、ゲーム自体を意図的に貶める行為、下ネタ(放送禁止用語)、などがあった場合、削除の対象になります。
ふつうに城めぐりを楽しんで下さっている方々に不快な思いをさせる行為には、心を鬼武蔵にして対処する所存でございます。
最後に、ゆるいお願い事項ですが、ごくごく個人的なやりとりは「伝言板」へ、不具合報告やご質問は「お問い合わせ」へ、城の有益情報は「城口コミ」へ、とそれぞれうまく使い分けて頂ければ幸いですm(..)m
ということで、久々に運営ブログらしい運営についての話でした…。
みなさまご協力の程、何卒よろしくお願い申し上げます。