【籠城戦】狙撃伝説も残る、信玄最後の戦い
近頃、どうも眠気が取れません。スポーツの見過ぎなのか、梅雨のジメジメのせいか、はたまた老化のきざしか、常にライフゲージが60%くらいの残量です。早く道ばたに落ちているホカホカの肉まんを見つけねば(三国無双の世界観)。
さて、今回は籠城戦シリーズです。武田信玄最後の戦いとなった、野田城の戦いです。病身でありながら戦陣に立った信玄。信玄ファンとしてはなんとも切なくなる戦いです。寝不足がどうだとか言ってる奴(前述)にもこの闘志を見習ってもらいたいもんです。
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狙撃伝説も残る、信玄最後の戦い
さて、今回は籠城戦シリーズです。武田信玄最後の戦いとなった、野田城の戦いです。病身でありながら戦陣に立った信玄。信玄ファンとしてはなんとも切なくなる戦いです。寝不足がどうだとか言ってる奴(前述)にもこの闘志を見習ってもらいたいもんです。
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狙撃伝説も残る、信玄最後の戦い
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元亀3年(1572)10月、甲斐の武田信玄は各所に万全の手配を施した上で西上の兵を起こした。当面の敵は三河・遠江を領する徳川家康である。約2万5千の兵を率いた信玄は信濃から青崩峠を越えて遠江へ侵入、犬居城の天野氏らの兵を吸収しながら只来、天方など徳川方諸城を次々に攻略していった。
途中、天竜川を利用した堅城、二俣城の攻略に2ヶ月近くを要する誤算もあったが、山県、秋山らの別働隊も各地で順調な戦果をあげ、早くも12月、家康の本拠地浜松城へと迫った。
単独では到底勝ち目のない家康は、同盟者である織田信長に救援を要請したが、実際に浜松に入ったのは3千ほどで、家康本隊8千を加えても総勢1万1千という心許ないものだった。
敵が半分以下の兵力とはいえ、これに籠城されては難儀と考えた信玄は家康のおびき出しにかかる。浜松城を目の前にして部隊を反転、家康に背を向けながら城下を通過したのである。結果的には、家康はこのおびき出しにまんまと乗ってしまい、城外で信玄と激突、惨憺たる敗北を喫した。これが三方ヶ原の戦いである。
家康を野戦で破った信玄は浜松城はそのままにして、遠江の刑部で越年、その後三河へと兵を進め、同じく徳川方の支城、野田城を包囲した。
野田城は小城ではあったが、城主菅沼定盈、援将松平忠正らが城門を固く閉ざして籠城していた。城兵は400ほどしかいなかったと言われるが、3万近い兵を擁する武田軍を相手に善戦、なかなか落ちる気配を見せなかった。
一方の信玄にとって、真の目的はこの先に控える信長との決戦にある。無理に力攻めすれば城を落とすことはできたかもしれないが、今は大事の前の小事、極力兵の損耗は避けたいところである。そこですぐさま戦術を切り替え、金堀衆を使って地下から井戸の水を抜き、野田城を渇攻めにした。信玄得意の戦法である。
数十倍の敵を相手に戦ってきた菅沼勢も、水の手を断たれては為す術がなかった。2月10日、定盈は自らの切腹を条件に降伏(定盈の切腹は許されず、後に人質交換に使われた)。野田城は武田の手に渡った。
元亀3年(1572)10月、甲斐の武田信玄は各所に万全の手配を施した上で西上の兵を起こした。当面の敵は三河・遠江を領する徳川家康である。約2万5千の兵を率いた信玄は信濃から青崩峠を越えて遠江へ侵入、犬居城の天野氏らの兵を吸収しながら只来、天方など徳川方諸城を次々に攻略していった。
途中、天竜川を利用した堅城、二俣城の攻略に2ヶ月近くを要する誤算もあったが、山県、秋山らの別働隊も各地で順調な戦果をあげ、早くも12月、家康の本拠地浜松城へと迫った。
単独では到底勝ち目のない家康は、同盟者である織田信長に救援を要請したが、実際に浜松に入ったのは3千ほどで、家康本隊8千を加えても総勢1万1千という心許ないものだった。
敵が半分以下の兵力とはいえ、これに籠城されては難儀と考えた信玄は家康のおびき出しにかかる。浜松城を目の前にして部隊を反転、家康に背を向けながら城下を通過したのである。結果的には、家康はこのおびき出しにまんまと乗ってしまい、城外で信玄と激突、惨憺たる敗北を喫した。これが三方ヶ原の戦いである。
家康を野戦で破った信玄は浜松城はそのままにして、遠江の刑部で越年、その後三河へと兵を進め、同じく徳川方の支城、野田城を包囲した。
野田城は小城ではあったが、城主菅沼定盈、援将松平忠正らが城門を固く閉ざして籠城していた。城兵は400ほどしかいなかったと言われるが、3万近い兵を擁する武田軍を相手に善戦、なかなか落ちる気配を見せなかった。
一方の信玄にとって、真の目的はこの先に控える信長との決戦にある。無理に力攻めすれば城を落とすことはできたかもしれないが、今は大事の前の小事、極力兵の損耗は避けたいところである。そこですぐさま戦術を切り替え、金堀衆を使って地下から井戸の水を抜き、野田城を渇攻めにした。信玄得意の戦法である。
数十倍の敵を相手に戦ってきた菅沼勢も、水の手を断たれては為す術がなかった。2月10日、定盈は自らの切腹を条件に降伏(定盈の切腹は許されず、後に人質交換に使われた)。野田城は武田の手に渡った。
しかしこの時、すでに信玄の体は病魔に蝕まれていた。後に天下人となる家康を撃破し、徳川方の領土を席巻、いよいよ信長との決戦目前というところで、無情にも信玄の運命は尽きようとしていたのである。
これ以上の進軍は不可能と判断した武田家首脳は撤退を判断。その途中の信濃駒場において、信玄は帰らぬ人となった。
余談ではあるが、この野田城の戦いには信玄狙撃伝説が残る。籠城軍の中に小笛の名手がいて、毎晩笛を吹いていた。その美しい音色に誘われた信玄は堀の端に近寄って笛の音に聞き惚れていた。これを定盈の家臣、鳥居三左衛門が狙撃した。信玄はこの傷がもとで亡くなったという。信玄が病ではなく、鉄砲によって命を落としたという伝説である。
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「殿、いくらなんでも近付きすぎですっ。」って家臣は注意してあげましょう。史実だったらこんな不憫な死に方はありません。まぁ、籠城に伝説はつきものということで…。
最近では、この一連の戦いで信玄に上洛の意思はなかったんじゃないかとかも言われてますが、どっちにしても信玄vs.信長見てみたかったですねー。ヒョードルvs.ノゲイラ以上にテンションが上がったと思います(・ω・)/