フランス語教育の「失敗」の原因【2】―続・中学新入生の40%は読み書きができない?【3】 | PAGES D'ECRITURE

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フランス語の勉強のために、フランスの雑誌 Le Nouvel Observateur や新聞の記事を日本語に訳して掲載していました。たまには、フランス語の記事と関係ないことも書きます。

先日の フランス語教育の「失敗」の原因【1】―続・中学新入生の40%は読み書きができない?【2】 の続きです。今回の4は、フランス語(やその他のロマンス語系言語)に興味のない方には、全く面白くない話かもしれませんが、国外のフランス語学習者にとっては、非常に興味のある話題でした。

フランス語圏の雑誌や新聞記事を読んでいくうちに、政治的なことに深入りするまで、私が興味を持っていたことは、主にこういった話題だったということに気付きました。


Comment en est-on arrivé là ?

Les raisons du désastre


(つづき)


4. Une orthographe ardue (難しい綴り)
 フランスの小学生はついていない。我々の綴りは世界で最も難しいものの一つだ。ごく簡単な理由で。それは、書くことができる発音が聞こえるからではない(「saint(神聖な)」は「ceint(巻きついた)」、「sein(胸)」「sain(健康な)」等々と同じように発音される)。言語学者は発音と文字の間の規則性について語る。国ごとに、規則性は一倍から二倍に変わる。例えば、スペイン語やイタリア語では、規則性は97%であり、フィンランド語やデンマーク語では98から99%になる。しかしフランス語に関しては55%に過ぎない。発音されない文字という、誰もが同意する問題のことは言っていない。どこから障害を取り除けばいいのか。綴りの基礎に習熟するために、スペイン人の子供は数ヶ月かかるだけなのに、フランスの子供には数年が必要になる。それは、多くの国で、何世紀にもわたって綴りが単純化、「表音化」したからだ。フランスでは違った。「我々の言語は非常に保守的だ」、『学校の緊急課題:学ぶ権利、伝える義務』を最近出版した言語学者、アラン・ベントリラは認める。言語学的中央集権主義、制度化・・・ 17世紀以降、アカデミー・フランセーズの誕生とともに、言語の基準である辞書の権威が確立する。「フランス語は、目で見るための綴りにしたいと望んだ書き言葉の専門家によって創られた」、CNRSの言語学者、ジャン=ピエール・ジャフレは指摘する。その厳格さと不条理とともに。1738年の、アカデミーの辞書の第3版のために、印刷業者には十分なアクサン記号の活字がなく、アクサン・テギュー(例 é)、グラーヴ(è)、シルコンフレックス(ê)をごちゃ混ぜにした。決して忘れたのではなかった。そして、3世紀後の小学生は、例外のリストを意識的に学び続けている。そこから、何度も、フランス語の綴りの単純化に関する議論が起こっている。その試みは今のところ、死んだ文字に留まっている。1901年の、「綴りの寛容さを止める」ことは、特に一致の規定を排除したが、適用されたことはなかった。およそ2000語の綴りを修正した、1990年の部分的な修正と同様に。多分ご存じないだろうが、あなたにはportemonnaie(財布、正式には porte-monnaie)、naitre(生まれる、正式には naître)、évènement(出来事、正式にはévénementだが、évènementの方が理に適っている)、nénufar(スイレン、正式には nénuphar、f と同じ発音になる ph は、イタリア語やスペイン語では既に廃止されている)、ognon(たまねぎ、正式にはoignonだが、ognonの方が発音に近い)と書く権利がある・・・ 

N. F.




5. Une formation à revoir (見直すべき教員養成)
 小中学校の教員を養成するIUFM(教員養成大学院)に入学するのに、フランス語の成績が良好である必要はない。接続法が苦手な候補生でも入学試験の壁を突破できる。他の教科に優れていれば十分なのだ。最近数年間、フランス語は全体の配点で3分の1未満しか占めていない。そして5だけがふるい落とされる。他方、試験を受けるためには、学士号が必要だが、文学である必要はない。どんな学科でも目的に適うのだ。数学、スポーツ、心理学でも。したがって、養成課程の人類学者で、6月に任用された27歳のマチューのように、「綴りの試験では0点だった」と告白することになる。

 一度入学試験に合格してしまえば、未来の学校の教師たちは1年間IFUMで、大抵は小学校で一度も教えたことがない教授による理論的な講義を受ける。学生たちに「特殊語で話す」と判断されている授業だ。例えば「フランス語の形態記号学的、記号音声学的体系」とか「読み書くという行動において作用している認識過程」などといったことが語られる。基底のイデオロギー?「子供は自らの知識の主役である」 これらの講義の間、文法が問題になることは殆どないか、全くない。そして読解の方法が引き合いに出されることは非常に難しい。「教育学的自由」の名において、そして理論的議論のおかげで、その問題は殆どタブーとなっている! ウール=エ=ロワールの学校の教師ソフィーは、執拗に要求したにも関わらず、そうした方法を教えてもらうことができなかった。6月にIUFMを卒業したオレリーは、読解の学習に割かれた時間は9時間しか持てなかった。「参加者の言うことを聞いて、方法を作り上げるのは私たちだった。しかし、そこで説明されたことは眩暈がしそうで、実行不可能なことだった。」

 幸いなことに、学生に非常に評価の高い、「教員の教授」と一緒に受ける、年間を通じた実習が残っている。「全てを学ぶのはそこだ。教員、それは職人的仕事だ」とソフィーは言う。起こり得るフランス語の欠落に関しては、それを埋めるのは各人だ。綴りが弱点のマチューは、財務部長の父親と一緒に自宅で書き取り練習をする、今週、最初の職が見つかるのを待ちながら。

J. de L.




6. L'écran contre le livre (本に対するディスプレー)
 本を読む時間がない?結構な問題だ。子供たちが画面の前に張り付いていて過ごす時間を見たときに、それでもまだ食べる時間があるのかと自問するようなものだ・・・ 統計を見ると眩暈がする。4歳から14歳で、毎日2時間5分テレビを見て、13歳から17歳で1時間45分ラジオを聴き、思春期に入ったとたんに毎週10時間パソコンの前でキーを叩き、7時間ビデオゲーム機の前で過ごす・・・ 両親でさえも、もはや(過剰)消費を抑制しようとはしない。8歳から12歳の4分の1と、13歳以降の半数以上が自分の部屋にテレビを持っている・・・ 「思春期の少年の一部の家庭では、殆ど病的な程度にまで達している」、教師で、『そしてあなたの子供は読むことも・・・数えることもできない!』(2004年)の著者、マルク・ル・ブリは指摘する。「それが読めない状態の、主要な原因ではないとしても、この現象を10倍にするしかない。」 ディスプレーは時間を潰すだけでなく、19世紀に、農地での仕事がそうであったように、単に学校の競争相手という以上のものである。それは、心配な態度と行動を引き起こす。「過度の画像の吸収は、言葉による還元を伴わない」、エソニーの困難な地区のある校長は指摘する。「ディスプレーは対話を、気持ちを伝えたいという欲求を殺す。人を受動的にする。言葉の獲得を妨げる。」 新しい形のコミュニケーション(SMSショート・メッセージ・サービス、MSN)のことを言わなくても、「A12C4」やその他の「Téou」は、フランス語の綴りという祖先の決まりにとっては大したことはない・・・ 今のところ、ディスプレーは境界を作り、青少年が答案でこの種の略語を使うことは殆どないように見える。しかしいつまで?それは言語学者が自らに問う問題だ。

N.F.




出典:

CAROLINE BRIZARD

JACQUELINE DE LINARES

NATHALIE FUNÈS

LE NOUVEL OBSERVATEUR 2235 6-12 SEPTEMBRE 2007


http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2235/dossier/a353660-les_raisons_du_désastre.html




4.難しい綴り については、多少異論がありますが、例えば日本のフランス語学習者で、フランス語の綴りが世界一難しいものの一つ、などと思っている人がいるかどうか。ここでは、英語について言及されていませんが、綴りの難しさ云々以前の問題だからでしょう。綴りの規則性に言及するヒマがあったら、単語の綴りと発音をセットで覚えた方が早い、というわけです。個人的には、こんな厄介な言語が、曲がりなりにも国際語になってしまっている現状に違和感を覚えます。綴りも発音も。それに比べれば、フランス語の綴りも発音も、何て簡単なのでしょう。

もっとも、そういうことが言えるのは、既に英語をある程度学習していて、私の場合は大学の教養課程でドイツ語を履修した後に、大学の教育課程と無関係にフランス語を始めたから、しかもその後にスペイン語やイタリア語を「かじる」機会があったから、ということもできます。これが、小学校に入学したての子供であった場合、綴りの規則性の習得に何年もかかるというのは、納得できなくもないことです。

この点、日本語の場合、とりあえずひらがなさえ覚えてしまえば、特に習わなくても、子供は好きに読み書きを覚えていくものです。あとは少しずつ漢字を覚えていけばよい(それも最近は、危険に晒されていますが、文部省や教育「再生」会議などによって)。全ての書き言葉に一見厄介な規則を必要とする言語圏の子供は、その意味では気の毒です。

最近の辞書に、événementと同時にévènementが見出し語に載っているのは、こういう経緯があったということを知りました。確かに、理屈に合った改訂ではあります。

5. はフランス独特の問題かもしれませんが、6. は、世界共通の問題といえるでしょう。幸か不幸か我家ではゲーム機らしき物を買うお金もありませんが、その程度の経済的余裕があった不幸といえるかもしれません。しかし、万一そういう経済的余裕があってしまった場合、今の忙しい子供たちの時間に、どこにゲームが割り込むのか。既にゼロに近いテレビを見る時間が削られるのならともかく、読書や勉強の時間が削られるとしたら、由々しきことではあります。


今回の教育に関する一連のエントリーをまとめると、以下のようになります。

中学新入生の40%は読み書きができない?(フランスの話ですが)【1】
中学新入生の40%は読み書きができない?(フランスの話ですが)【2】

大学でも綴りの間違いが多発(フランスの話)―続・中学新入生の40%は読み書きができない?【1】

フランス語教育の「失敗」の原因【1】―続・中学新入生の40%は読み書きができない?【2】
フランス語教育の「失敗」の原因【2】―続・中学新入生の40%は読み書きができない?【3】 (今回)


日本では、「中学新入生の40%が読み書きができない」というほどには深刻な事態になっていないかもしれませんが、一部は日本語の特性に助けられているということも忘れてはいけません。教育予算も人員も不十分な日本で、曲がりなりにも désastre に陥っていないのは、たまたま運が良かったのだと考えた方がよいでしょう。