京都宇治からスタート。宇治橋には1箇所飛び出たところがある。名水だった宇治川の水を汲んだばしょだという。

今夜は千利休をメインに豊臣秀吉との友情と別れ。8年の交流を描く。

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16億円にも及ぶ茶椀や、1億円の茶入を紹介。大友宗麟は弟を殺してもいいから茶入は私にくださいと言ったとか。松永秀久は茶入とともに爆死したとか、戦国の茶の湯ブームを追う。

茶の湯はもともと上流階級のたしなみといわれていた。その茶の湯に着目したのが織田信長。茶の湯を功績のあった武士にのみ許し、報償に茶道具を与えた。

堺では裕福な商人の間に茶の湯が広まり、中でも3人の商人が名人と言われた。3人のうち千利休はさほど裕福ではなく、「紙の茶道具」を作って見た物を留めた。審美眼を鍛えた利休。

しかし信長は本能寺の変で世を去った。

その後は、羽柴秀吉が利休を天下取りのために必要不可欠と考えて利休を取り込んだ。

特に家康との関係においては、戦での決着が付けられずに、和睦を求めた。

家康は1万の大軍を仕向けてきた。秀吉はわざわざ家康を出迎え、家康のメンツを保ち、利休を伴ったことで、敵意の無いことを示した。

さらに利休が信長に仕えていたことを家康に気づかせて、自分が信長の後継者であることを暗に示した。

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秀吉は側近中の側近として利休を取り立てた。

なぜ利休の茶は、権力者の魂を虜にしたのか。

それはもてなしの精神。朝顔のもてなしは有名なエピソードだ。

茶人へち寛は落とし穴に落としてから風呂に入れて茶を飲んでもらった。

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1500人以上が参加した大イベント。北野天満宮の大茶会。

秀吉と利休が計画した。身分の別無く、茶の湯を楽しむというもの。身分を越えた世界を創ろうとした利休の意思が働いたといわれる。

この後、利休は庶民にも茶の湯を広めようとした。

華麗な中国茶器がもてはやされていたところに、利休は素朴な黒楽茶碗をつくり、象牙が主流の茶杓は竹を削って作った。

茶道具そのものを替えてしまった利休。

利休作の茶室がただひとつ残されている。しれが「待庵」、茶室の中では貧富の差は無いという思想が込められている。

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ところが名コンビだった秀吉と利休に微妙なズレが生じていく。

利休「黒い茶碗にて茶をたてることを秀吉様は嫌っている。」

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待庵を再現した茶室に渡邊アナが入り、その様子を伝える。2畳しか無いので狭いが、天井の広く見せるつくりなどで見た目は広く感じるという。さらににじり口は、秀吉が髷が高かったので、少し高くしたのだという。

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野菊に秘められた利休切腹の謎とは?

天下統一に近づきつつあった秀吉は、刀狩で農民から武器を取り上げて、厳格な身分制度を作り上げる。さらに武士に対しても、厳しい態度で臨み、北条はほとんどの領地を取り上げられ、伊達政宗は切腹寸前にまで追い詰められる。

武士たちは次第に秀吉から遠ざかり、逆に大名は利休とのつながりを深めた。

秀吉はこのつながりを不穏な動きとして、一人の利休の弟子の茶人を処刑した。

ある茶席で、秀吉は茶入に野菊を一輪置く。利休の嗜好を試すためだ。

しかし利休は無言でこの野菊を除いて脇に置いただけだった。

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秀吉は利休に対し、茶道具を高く売りつけているとか、自身の木像をこしらえたとか、因縁をつけて、利休を京都に謹慎させる。木像は持ち出されて縛られた形でさらされた。背けばこうなるという脅しだった。

利休には頭をさげるよう言ってくるが、それは拒否した。

京都追放から10日後、ついに切腹を命じる。兵が取り囲む中、最後の茶をたててもてなし、70年の生涯を終えた。

秀吉は利休の関係者を処刑しようとしたが、蒲生氏郷が利休の子「少庵」を匿い、その後少庵は京都に戻って、今に続く表千家・裏千家・武者小路千家となる。

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九州の名古屋城跡の発掘から、茶室の遺構が出てきた。利休の茶室に極めて似ているという。

また秀吉の母宛に出した手紙には「昨日、利休のもてなした食事をしてみたが趣があって良かった。」としるしてある。

利休の死を誰よりも悲しんだのは豊臣秀吉自身かも知れない。