太平洋戦争70年シリーズ3回目は’作られた熱狂’それはマスコミが作った。新聞社・通信社などの当時の証言。マスコミを利用した陸軍省。’熱狂はこうして作られた’が今夜のテーマ。

まずは新聞・・・新聞主要三社の発行部数は戦争によって大きく伸ばした。

そのきっかけとなったのが「満州事変」だった。武野武治さん96歳、元朝日新聞記者にインタビュー。「戦争になると読者が増える。家族や知人が戦場にいくから。発行部数も伸びて、当時はその後にはいいことがあるだろうと思っていた。」

南満州鉄道の爆破事故をきっかけに日中が戦闘状態になり、関東軍は部隊を次々に投入し、本格的な戦争となった。報道合戦ともなり、号外が次々に発行され、写真入の号外は飛ぶように売れていった。血みどろの号外競争になり、競って記者を戦場に派遣した。大衆新聞として売り上げが伸びていった。

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新聞社は関東軍の行動を支持すべきかどうか。次第に論調は強硬論になり、軍の拡大を非難していた大正時代の新聞社は軍に賛同することになる。

そのきっかけとなったのが、記者が惨殺されたという記事だった。軍部支持やむなしの空気が強くなり、朝日新聞の緒方竹虎もついに公然と反対していた立場を翻す。参謀本部課長の今村も、在留邦人が悲惨な殺され方をしたいうことを訴えて、緒方の方針が変わったのだった。

武野さんが今村課長の録音テープを聴き、「そういうこともあったでしょう、国益だったですね。」

陸軍省からは「あれは関東軍がやったんだよ」と東京日日新聞記者に話したが、戦争が終結するまで伏せられた。’国益’に沿うために。

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メディアの熱狂がやがて一人歩きする。リットン報告書では満州は国として認められないとされ、国際連盟には認可されず、日本側は新聞社がリットン報告書は断じて受け入れられないと先頭に立って反対。国際連盟を脱退すべきだという報道をするようになる。

高橋是清は陸軍に何故新聞社はそのようなことを書くのか!と詰め寄るが陸軍は新聞社が勝手にやっていることと回答。

国際連盟脱退を避けることを使命とされた松岡だったが、結局脱退せざるをえなくなった。しかしメディアも日本国民もそんな松岡を大歓迎した。松岡は「こんなおかしなことになってしまったのか」とつぶやいた。

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満州事変後、戦争反対の立場に立った新聞社には言論弾圧が及んできた。信濃毎日新聞は、小坂武雄常務のもとに陸軍の長野県郷軍同士会という団体が訪問し、不買運動するという。この脅しにも譲歩を見せなかった小坂常務だったが、不買運動は致命的になるため、これに屈した。

社内では言論弾圧を醒めた空気で見ていた。

新聞社の合同会議が文芸春秋社主催で東京で開催された。

信濃日日新聞社の件も論議され、軍への反対を唱えると、経営ができなくなるということに落ち着いた。

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もうひとつのメディアはラジオ・・・近衛文麿は日本放送協会総裁でもあった。

総理大臣就任後1ヶ月して日中戦争勃発。首相近衛は挙国一致で政府の方針に協力されたいと表明。

あらゆるメディアの中でもラジオを利用して熱狂に巻き込んでいったのが近衛だった。勇ましい演説がラジオを通じて全国に流れた。

演説をメディアに流すやり方はアドルフ・ヒトラーの手法でもあった。このヒットラー・プログラムを日本放送協会も手本にしていた。

戦意高揚には大きな力になった。

南京陥落ではデパートでセールが開催され、ちょうちん行列では10万人が繰り出した。

その一方、世界は南京の戦争に対して日本に批判的になっていた。国内外のズレは大きくなっていた。

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殲滅作戦は空振りに終ったが、報道は勝利は近いとした。「我々日本の大勝利を祈願してください。」と結んだ。

「負けた」とか「撤退した」といったことは禁句だった。

当時12歳、13歳の人たちは「日本軍は強い、たいしたもんだと思っていた」と語る。

しかし少しずつ国民も疑問をいだくようになる。強い日本なのに何故中国は屈しないのか?と。

そしてイギリスの参戦があり揺らいだが、ドイツの快進撃報道によって、日独伊三国同盟を熱烈に歓迎する。

海軍は当初三国同盟に反対だったが、この世論に真正面から反対する空気は無くなったいった。

ドイツ大使の来栖太郎は「新聞社が三国同盟をさせたようなものだ」と新聞記者たちに語ったという。

反対でもないけど賛成でもなかった近衛首相は、三国同盟締結を発表。

イギリスとアメリカとの対立は決定的になる。

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メディアは自分達で作った世論に自分達で巻き込まれていき、誰が責任を取ることも無く事態は進む。

10月近衛内閣は総辞職し、東條内閣が発足。日米開戦へと世論が動き始めた。

御前会議において開戦が決定し、

1941年12月1日永田町、首相官邸には日米開戦を臨む投書が寄せられていた。

報道が勢いで流した方向に、逆に巻き込まれていった。

世論はメディアによって熱狂し、その渦は大きくなって、反対する意見はかき消されていった。

ほんの僅かの期間に、世論は替えられる。その力をメディアは持っている。

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森正蔵東京日日新聞記者の述懐があって、武野さんの現在に画面が移行。

武野さんは終戦後、その責任を感じ、新聞社を退社、地元に戻ってたった一人でジャーナリストとして生きてきた。メディアの持つ力、恐ろしさを身をもって感じながら。