いまから187年前、1823年にシーボルトが長崎に持ち込んだのがピアノ。明治・大正・昭和・平成とピアノは鳴り響いている。
日本のピアノ産業を作ったのは元・武士。箱根の山を越えた。
明治・大正のピアニストの悲運、戦争の中のピアノ。今夜はピアノにまつわる秘話だ。
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長野県飯田市に残るピアノ。紀州藩士の山葉と、信州藩士の伊澤が作った。
1887年、箱根の山をオルガンを担いでいく元武士、山葉だ。
当時は西欧に追いつけの号令で日本が西欧化していったころ。
ピアノもいずれ商売になると山葉は目をつけた。しかし国や民族で音階は違う。三味線や琴の音に馴染んだ日本人にとって音階は難問だった。
伊澤も留学して音楽を学んだが、音階が異なり、うまく歌えなかった。
日本ではピアノはおろかオルガンも無い。伊澤は山葉寅楠にオルガン製造から指導。そこからピアノへと挑戦する。しかし西欧ピアノ200年の歴史はものすごい進化を遂げていた。
ベートーベンは68鍵もの楽譜を書き、限界に挑戦。連続してたたく技術も進化し、部品は8000を越えていた。
寅楠のもとに河合小市が現れた。当時11歳で、「発明小市」と呼ばれていた。河合は「犬馬車」をこしらえていて、それを寅楠が見てスカウトしたのだった。浜松中から優秀な職人が集められて、国産ピアノの製造が始まり、オルガンが箱根の山を越えて13年の後に国産ピアノが誕生した。
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1823年、江戸時代終盤にシーボルトが日本に持ち込んだ。
1900年、日本初の国産ピアノが誕生した。
それでは日本人のピアニストはどうして育ったのか。最初は岩倉使節団とともに海を渡った中の瓜生繁子だといわれる。
大正時代、二人の天才少女が現れる。久野久子。16歳から始めたが、東京音楽学校の教授にまでのぼりつめる。滋賀県大津市に生まれ、幼い頃の足の怪我で両親は音楽を学ばせる。もちろん笛や琴だ。久子は東京音楽学校に入学。そこで初めてピアノに出会う。
1日7時間以上の猛練習でメキメキ上達した。「指から血が出るのも知らずに」練習したという。明治39年音楽学校を主席で卒業し、日本を代表するピアニストとなる。
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ちょうどその頃、明治24年生まれの小倉末子がアメリカで脚光を浴びていた。末子は裕福な叔父に育てられて小さいときからドイツ人の指導を受けていた。
21歳でベルリン音楽学院に留学。しかし第一次世界大戦で、アメリカに渡る。そこで脚光を浴びたわけだ。
二人はそろって東京音楽学校の教授に就任し、芸術でも欧米にひけをとらないと期待を集める。しかし本人だけは欧米との差を知っていた。
久子は教授になってからも猛練習を続けた。天才と呼ばれることのギャップ、期待とのギャップに悩む二人だった。
久子は1925年4月20日、留学先のウィーンで自殺。渡ってから2年後のことだった。理由はわかっていないが、現場には演奏の難しさをメモした多くの楽譜が残されていた。
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大正時代、ジャズが流行した。ラジオ放送の開始もあいまって、ピアノが次第に大衆化していった。
小倉末子は戦争に巻き込まれていく。太平洋戦争勃発、東京音楽学校も戦時色に染まり、軍事教育が幅をきかせ末子は居場所を失っていく。学校も「戦う音楽学校」として「聴覚」を戦争に役立てるという方針が出される。
甲陽学院に残るピアノ。「音感教育」に使われた。陸軍船舶情報連隊において、音波を発射して、その反射から魚雷なのか潜水艦なのかといった判定をするために使われた。音階をドミソ(戦時中なのでイロハ)で徹底的に鍛えられた。
一方アメリカ軍は、ビクトリーモデルという戦場で使う緑色のピアノが投入された。
目的は海外で戦う兵士の慰問や士気高揚のためだった。
末子は東京音楽学校を退職。音楽専門教師が不要になったからだった。
末子は第一次世界大戦も欧州で経験し、その悲惨さを身にしみてわかっていた。退職後は各地で演奏会を開いた。関東大震災のときもピアノで慰問した末子。そのピアノが戦争に使われていくのをどんな思いでみていたのか。
末子は終戦をまたずに死亡。睡眠薬の飲み過ぎが原因といわれる。
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今わたしたちとって身近な存在となったピアノ。
最後はあの人が残したピアノについて。
横浜市のK.Y.さん宅に残されたピアノは小倉末子が生前使っていたものだ。Kさんの父が買い取って、Kさんは畳の部屋で練習した。
その演奏を米軍の捕虜達が聴いていた。終戦後、捕虜達が礼にチョコレートなどを持参して訪問したという。
国籍・人種を越えて末子のピアノが響いた。