中島京子『小さいおうち』 | 文学どうでしょう

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小さいおうち/文藝春秋

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中島京子『小さいおうち』(文藝春秋)を読みました。直木賞受賞作です。

『小さいおうち』は、太宰治の『斜陽』を紹介した時に、いちごさんのコメントで触れられいて、ずっと読みたいと思っていた作品でした。

たしかに印象として重なる部分はあって、『斜陽』の「お母さま」ほど身分は高くはありませんが、『小さいおうち』にも世間の感覚から少しずれたような、裕福な奥さんが出て来ます。

さて、『小さいおうち』がどんなお話かと言うとですね、今はもうおばあさんである〈わたし〉が、自分の半生を振り返って書いた手記という形式の小説です。

〈わたし〉は若い頃からずっと女中奉公をしていた人なんですね。女中としていて働いていた先の「小さいおうち」で見てしまった家族の秘密や、その「小さいおうち」を取り巻く環境を描いていく物語です。

この小説の大きな読みどころは、やはりその「取り巻く環境」にこそあります。より具体的に言うと、戦争が背景にあるということです。

戦争が描かれているというだけで、「なんだか重そうだなあ」とちょっと敬遠したくなる人もいるでしょうし、ぼくもその気持ちは分からないでもないんですが、戦争が普通の小説とはまったく違う描かれ方をしているのが、この小説の何よりの魅力なんです。

たとえば、サッカーの試合を思い浮かべてみてください。観客席で見ていたり、映像で何度も巻き戻したりすれば、色々分析はできます。何が良かったのか、あるいは何が悪かったのか、誰がどこで何をしていたのか。

しかし、当たり前ながら、グラウンドに立つ選手はそれほど広い視野は持っていませんよね。自分の所にボールが飛んで来たら、瞬間的に判断して行動しなければなりません。

同じように、戦争を後から客観的に分析するのと、実際に体験するのとでは、感覚としてまったく違うものなのだろうと思います。俯瞰的な(高いところから見降ろしたような)視点は持ちようがないはずなんですね。

宝石やブリキのおもちゃを国に提供しなければならなかったり、食糧や身の回りのものが手に入りにくくなったりなど、辛いことはもちろんあります。

ただ、色んなものがないならないでそれなりに楽しみはありますし、何よりも戦地の様子はよく分かりません。たとえ現実として負けていても、新聞で勝ったと書かれていれば、破竹の勢いで勝ち進んでいると思って当然なわけで、子供たちは兵隊さんを応援するのに夢中になります。

他に具体的な例をあげるとですね、さらりとこんなことが書かれています。

 大東亜會館というのは、いまの東京會館のことだ。じっさい、戦時中のほんの何年かの間だけ、大東亜會館と呼ばれたけれど、その前と後は変わらず、東京會館である。(198ページ)


戦時中になぜ「東京」が「大東亜」になったかというと、日本は「大東亜戦争」といって、アジアを広く獲得しようとしていたからです。

戦後は、その考え自体が問題とされて、今は「大東亜戦争」という呼称は滅多に使われず、相手国によって違いますが、おおむね「太平洋戦争」と言い換えられています。

『小さいおうち』のすごさというか、目新しさがあるのは、たとえばこの「大東亜戦争」に対しての現在からの客観的な分析も反省も手記の中に反映されず、その当時にあったであろう「分からなさ」をしっかり描いていることです。

何故かはよく分からないけれど、急に大東亜會館という名称になったと。〈わたし〉の戦争の回想というのは、悲惨なものでも苦しいばかりのものでもなくて、むしろ明るかったり、楽しかったりもするんですね。

それだけだと色々問題になりそうなくらいなんですが、現在から見た目線というのも極めて巧妙に入り込ませていて、手記の中にちょくちょく甥の次男である大学生の健史が登場するんです。

健史は勝手に〈わたし〉の手記を読んで、「じへん、じゃないの、せんそう! そんなのただの、言葉のごまかしでしょう」(36ページ)と〈わたし〉の歴史認識を攻撃します。そんなやり取りも手記に書かれているんですね。

この手法によって戦争の当事者の持つ純粋な「分からなさ」と、現代的な歴史認識の両方のバランスがうまく保たれていて、単に悲惨なものではない、言わば新しい戦争の姿を描き出すことに成功しているように思います。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 まず始めに言っておかなくてはならない。
 この本は、「家事読本」ではない、と。
 家事術に関してはもう、お話しするつもりはないということだ。そのことをきちんと、理解してもらわねばならないだろう。(5ページ)


〈わたし〉は2年ほど前に『タキおばあちゃんのスーパー家事ブック』という本を出したことがあったんですね。

そして「タキさんにしかわからない、なつかしい東京のお話」(7ページ)を書かないかと編集者から声がかかり、こうして筆を取ったというわけです。

昭和5年の春、尋常小学校を卒業したばかりの13歳の〈わたし〉は上京して、小説家の小中先生の所で女中として働くことになりました。

小中先生の次は浅野家に奉公に行くんですが、そこで出会ったのが、〈わたし〉の8つ上の時子という奥様です。

恭一ぼっちゃんを抱いているにもかかわらず、「お母さんというよりは近所のお姉さんが戯れに子を抱き上げてみたような雰囲気で、お嬢様とお呼びしたいほどの若々しさ」(17~18ページ)の奥様。

間もなく奥様は、夫を事故で亡くしてしまうんですね。〈わたし〉は奥様について奥様の実家に行き、奥様がお見合いで恭一ぼっちゃんを連れて平井家に嫁ぐことになると、そのまま平井家の女中となりました。

この平井家が〈わたし〉にとっての「小さいおうち」になります。

色男ではないものの、玩具会社で働く仕事熱心な旦那様は真面目ないい人です。恭一ぼっちゃんが病気になったり、不穏な空気が流れる時代ではありますが、家族はとてもうまくやっていきます。

しかし、〈わたし〉は旦那様のある秘密に気がついてしまうんですね。証拠はないんですが、これはもう感覚的なものです。

 旦那様からは、男の人の匂いがしなかった。ああ、そういうことだったのだと、わたしはあのときに初めて気づいた。
 奥様が再婚してから赤ちゃんに恵まれなかったのには、理由があったのだと。
 旦那様はわたしを、一度も変な目でごらんになったことがない。おそらく、ほかの女のことも、そんなふうにごらんになるようなことがないのだ。(58ページ)


玩具会社の社長に、鎌倉にある別荘に招待され、そこで平井一家はデザイン部の青年、板倉正治と知り合いました。

大雨の時に手助けをしに来てくれたりして、板倉と平井家は親しく付き合っていくことになります。

ある夏のこと。社長の別荘から旦那様だけ早く帰って来たことがあり、〈わたし〉は奥様と恭一ぼっちゃんを迎えに鎌倉へ行くことになりました。

「少し早く出て、タキちゃんも潮風を吸ってくるといいよ。気分展開になるからね」(124ページ)という旦那様のすすめもあって、早めに出て大仏を見に行った〈わたし〉。

麻の白い日傘をくるくる回している人が、ある和歌を口ずさむのを耳にして、〈わたし〉は足を止めます。

それは奥様が〈わたし〉に教えてくれた歌でした。時間より早く来て遊んでいるのが見つかってはいけないと思った〈わたし〉が慌ててその場を離れると、「白いシャツを着た若い男の人」(128ページ)とすれ違います。

その男の人も同じ歌人の歌を口ずさんでいるんですね。与謝野晶子の歌です。

鎌倉から帰った奥様は、応接間の飾り棚に与謝野晶子の歌集をしまいました。〈わたし〉は掃除の時に、男の人が口ずさんだ歌のページに、しおりのようなものが挟んであるのを見つけてしまいました。

やがて、本格的に戦争が始まります。〈わたし〉は偶然、小中先生と再会します。小中先生はかつて女中を始めたばかりの〈わたし〉に、ある女中の話をしてくれました。

ミルの女中が、友人カーライルからミルが預かっていた原稿をゴミと間違えて燃やしてしまったという話。単なる学のない女中のミスの話です。

しかし、小中先生はこう言うんですね。「友人の原稿がなくなってしまえばいいと、彼は一瞬でも思わなかっただろうか」(16ページ)と。

2人とも学者で、言わばライバル同士です。カーライルの原稿がなくなれば、自分にチャンスがやって来るという考えがミルの頭をよぎらなかったかだろうかと言うんですね。もしかしたら、女中はそんなミルの考えを察したのかも知れないわけです。

再会した小中先生と〈わたし〉は、こんなやり取りをします。

「・・・いいかね。いちばん頭の悪い女中は、くべてはいけないものを火にくべる女中。並の女中は、くべておきなさいと言われたものを火にくべる女中。そして優れた女中は、主人が心の弱さから火にくべかねているものを、何も言われなくても自分の判断で火にくべて、そして叱られたら、わたくしが悪うございました、と言う女中なんだ」
「いちばん頭の悪い女中がうっかり火にくべたものと、ご主人様がお心迷いから火にくべかねていた代物とが、たまたまいっしょでしたら、いいんですのにね」
「おう、そうだ。まったくその通りだ。お前は、頭のいい女中だよ」(209ページ)


戦争が激しくなり、〈わたし〉は実家に帰ることになります。やがて戦後になって・・・。

とまあそんなお話です。戦争を背景に、ある家族の秘密を描いた物語です。手記というのは面白いもので、自ずから客観的な事実とは微妙に異なるものです。

みなさんも日記をつけてみると分かると思いますけれど、手記というのは情報を整理して書くものです。

そして、その情報の整理は、極めて主観的なやり方でなされるものであって、嘘ではないにせよ、限りなく嘘に近い書き方がされることもあります。たとえば誰かとケンカしたとしたら、自分の非は書かずに、相手の悪い所ばかり書いてしまうものですよね。

そうした手記の持つ特性に加えて、「小さいおうち」の内部だけではなく、外側も描かれる構造になっている所に、この小説の面白さがあります。

その点について、あえてあまり触れませんけれど、技ありの小説という感じがしました。不思議な余韻と深い印象の残る小説だと思います。興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

おすすめの関連作品


リンクとして、小説を1冊紹介します。

意図的に、限りなく嘘に近い事実を含ませた小説と言えば、カズオ・イシグロの『日の名残り』でしょう。映画にもなってます。

日の名残り (ハヤカワepi文庫)/早川書房

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『日の名残り』はある執事の物語で、自分が仕えた主人の回想と、現在の出来事が淡々と描かれていきます。それは事実の積み重ねのように見えますが、そこには重要なものが隠されているんですね。

簡単に言えば、執事の感情です。執事がどう思っているかで、その事実の見え方というのは大きく変わります。描かないことは嘘ではありませんが、限りなく嘘に近いことでもあります。

そうした技法を、「信頼できない語り手」と呼ぶこともあります。興味のある方は、こちらもぜひ読んでみてください。

明日は、柏葉幸子『霧のむこうのふしぎな町』を紹介する予定です。