ソール・ベロー『この日をつかめ』 | 文学どうでしょう

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ソール・ベロー(大浦暁生訳)『この日をつかめ』(新潮文庫)を読みました。今は絶版になってしまっているようです。

ソール・ベローは、ノーベル文学賞も受賞しているアメリカの作家ですが、今ではほとんど読まれていないだろうと思います。文庫ではほとんど手に入らないのではないでしょうか。

実はぼくも『この日をつかめ』しかまだ読んだことはないのですが、この小説は、ぼくにとって、とても大切な一冊なんです。

ストーリーの面では、それほど面白い小説ではありませんが、描かれる主人公の、どこにも行けない窮屈な状況が、なんだか痛いほどよく分かって、心に残る作品です。

『この日をつかめ』は非常にシンプルな小説です。ページ数にして200ページ弱。物語の舞台は、グロリアーナ・ホテルというホテル。

脇役として何人か登場はしますが、重要な登場人物は3人だけで、主人公のトミー・ウィルヘルム、その父のアドラー博士、ウィルヘルムに影響を与えることになるタムキン博士の3人。

ぼくは元々、限定された空間、限定された登場人物で進行する物語が好きなんですが、それは、それぞれの登場人物の心理の動きが丁寧に描かれ、関係性が少しずつ変化していく面白さがあるからです。『この日をつかめ』は、まさにそういう面白さのある小説です。

ウィルヘルムは40代半ばの男ですが、簡単に言えば、人生に敗れた男です。仕事もお金もありません。奥さんと2人の息子はいますが、家族とは離れてホテルで暮らしています。

ウィルヘルムの目下の悩みは、お金です。生活していくのにもお金はかかりますし、離婚の話し合いを進めている奥さんからは、子供の養育費だのなんだのと、たくさんのお金が請求されます。

父親のアドラー博士に精神的にも金銭的にも頼りたいウィルヘルムですが、アドラー博士は丁寧なアドバイスはしてくれるものの、助けてくれようとはしません。と言うのも、一旦お金を渡すようになると、際限なく息子は駄目になってしまうとアドラー博士は考えているからです。

仕事がなく、お金もなく、様々な悩みや困難がのしかかってきて苦悩するウィルヘルム。そのすべてを打破するために、一攫千金を目指して、投資をすることを決意しますが・・・。

『この日をつかめ』は、言わばとても地味な話なので、万民受けするというか、みなさんが読んで楽しめる作品かどうかは、正直よく分かりません。

ただ、この物語で描かれているのは、「理想」と「現実」の差異です。男性というのは概して夢見がちなものですが、ウィルヘルムは、常に「成功の一歩手前」にいます。今この瞬間をなんとか乗り切れれば、成功への扉が開かれるとウィルヘルムは考えているんです。

そうした夢や理想を追う感じは、ぼくは個人的にはよく分かるんですね。ウィルヘルムを応援してあげたい気がするくらいです。

しかし、ウィルヘルムの父親や奥さんからすれば、それは荒唐無稽な話であって、堅実的な生き方ではないんです。一言で切り捨てれば、ウィルヘルムは「甘い」んです。奥さんの言葉で言えば、「子供みたいなことを考えるのはやめにしなくちゃ」(182ページ)です。

周りの人がウィルヘルムを「甘い」と思う気持ちもよく分かります。苦しい苦しいと言ってばかりいないで、行動できることはもっとあるはずだという意見にも、素直に納得できます。

しかし、それ以上にぼくはウィルヘルムに共感してしまうんですね。目の前に見えている成功、自分の望む理想の生活、そして、溺れかけているような窮屈な現状。一呼吸だけ、この瞬間だけを乗り切れば、なんとかなるのに・・・。そんなウィルヘルムの苦悩を描いた小説です。

作品のあらすじ


グロリアーナ・ホテルでは、仕事を引退した老人が数多く生活しています。食事も取れますし、身の回りの世話を自分でしなくていいですから、お金さえあれば、悠々自適な生活が送れますよね。

そこで一際若いのが、「四十代なかば、大柄で金髪、肩が大きい。背ははやいくらか前かがみで贅肉がついてはいるが、がっしりとたくまし」(6ページ)いウィルヘルムです。

元々、ウィルヘルムは映画俳優でした。若い時にスカウトされて、学業をほっぽり出して、役者の道に進みました。しかし、結局はうまくいかず、エキストラで終わってしまったんですね。

その後、セールスマンを長く勤めて、出世が約束されていましたが、社長の娘婿が入って来たことによってうやむやになり、それに腹を立てたウィルヘルムは会社を辞めてしまいました。

自分の浮気が元で、奥さんとは離婚の話し合いを続けていますが、金銭面で折り合いがつかず、話し合いはずっと続いています。仕事もなく、お金もなく、金銭的にも精神的にも追い詰められているウィルヘルム。

同じホテルでは、ウィルヘルムの父親のアドラー博士が暮らしています。仕事を引退したアドラー博士は、ある程度の財産を持っているので、ウィルヘルムは金銭的な援助を求めます。しかし、アドラー博士はそれに応じません。

 ほかの父親だったら、こんなことを打ち明けるのはよくよく困ってのことと察してくれたろうーーよくよくの不運、疲労、衰弱、失敗の果てのことだろうと。ウィルヘルムは老父の口調をまねて、紳士的に、声低く、上品な調子で話そうとした。声が震えるのをおさえ、ばかげた身ぶりもしなかった。だが、博士は何も答えない。ただ、うなずいただけだ。シアトルはピュージェット湾に面しているとか、ジャイアンツとドジャーズがナイターをやっているとかいう話を聞いたときとまるで同じように、健康で男ぶりのいい、ニコニコした老年の顔に、ほとんど何の表情の動きも表れない。(16~17ページ)


父子の不和というのは、小説ではよくテーマになりますが、ウィルヘルムとアドラー博士はぶつかり合うというよりも、それぞれ全く別の考え方をする人間なので、話はいつも平行線、すれ違いばかりです。

ウィルヘルムは金銭的な面だけではなく、親身になってもらいたい、助けてもらいたいんですが、アドラー博士は、自分は自分、他人は他人という考え方です。アドラー博士は息子に「わしはだれをも背負いたくはない。降りてくれ! で、ウィルキー、おまえにも同じことを勧めよう。だれをも背負うなよ」(88ページ)と言うだけです。

ホテルには、タムキン博士という人物がいます。様々な発明をしたというタムキン博士の言葉は、ウィルヘルムの胸に響きます。

精神的な報酬こそぼくの求めるものなんだ。人びとを〈いま・ここ〉という時へ導き入れることができればいい。本当の世界、つまり現在という瞬間へ。過去はもう役にはたたない。未来は不安でいっぱいだ。ただ現在だけが、〈いま・ここ〉だけが実在のものなんだよ。この時をーーこの日をつかめ(106ページ)


「この日をつかめ」という語は、訳注によると、ローマの詩人ホラティウスの『抒情詩集』にある言葉だそうです。

別の場面でもタムキン博士は同じことを言っています。「対象をせばめて一度に一品だけを見るようにし、空想を先走らせない。現在に生きるんだ。この時を、この時間を、この瞬間をつかむんだよ」(146ページ)と。

ウィルヘルムは、このタムキン博士と組んで、投資に乗り出すことにします。ラードやライ麦など、値が上がりそうな銘柄を買って、値が上がった時に売って儲けようというわけですね。成功すれば一攫千金です。

ウィルヘルムは投資に残りの全財産を投じますが、はたして・・・。

とまあそんなお話です。ウィルヘルムは役者を目指さずに、ちゃんと勉強していればよかったわけですし、妻との不和も耐え忍べばよかったわけですし、かっとなって仕事をやめればよかったわけです。さらに言えば、頭を下げてまた元の会社に雇ってもらえばいいわけです。

しかし、それができないのがウィルヘルムという男なんです。辛く苦しい現実を積み重ねるよりは、夢や理想を追いたいタイプなんです。

もちろんそれは「甘さ」に他ならないわけですが、ミュージシャンを目指さなければビートルズは存在しませんし、海賊王を目指さなければ、ルフィは様々な困難に立ち向かっていけないのもまた事実です。夢や理想こそが人を動かす力になるんですね。

「夢は願えば叶う」と成功した人びとは口をそろえて言います。『この日をつかめ』は言わば、「夢は願ってもなかなか叶わない」という小説です。

ウィルヘルムの状況に共感できる人にとっては、とても面白く感じる小説だろうと思います。機会があれば、ぜひ読んでみてください。

おすすめの関連作品


リンクとして、戯曲を1冊、小説を1冊、映画を1本紹介します。「理想」と「現実」の狭間にあって、「現実」にぎりぎりと締め付けられるような、そんな3作品を選んでみました。

テーマがテーマなだけに、どれも辛く、重い話ではありますが、それだけに心揺さぶられる感じがあります。機会があればぜひ読んだり、観たりしてみてください。

まずは、戯曲から。『この日をつかめ』とある意味では、とてもよく似ているのが、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』です。

アーサー・ミラー〈1〉セールスマンの死 (ハヤカワ演劇文庫)/早川書房

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家族の問題など、様々な問題がセールスマンにのしかかります。年齢を重ねたせいもあって、以前ほどセールスはうまくいかず、非常に苦悩するんですね。

どこにも行き場のない、人生の窮屈さが描かれていて、ショッキングな展開があったりもするんですが、それがショッキングであると同時に、読者や観客にとっても他人事ではない感じがあります。

極めて印象に残る戯曲です。また近い内に読み直して、詳しく紹介できたらと思っています。

続いては小説。「現実」にぎりぎりと締め付けられるような小説と言えば、やはりヘルマン・ヘッセの『車輪の下で』でしょう。

車輪の下で (光文社古典新訳文庫)/光文社

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頭がよいハンス少年は、神学校に入学しますが、小さなつまずきがいくつかあって、少しずつ道を逸れていってしまいます。本来なら、頭脳を使った仕事が向いているにもかかわらず、肉体労働をせざるをえなくなってしまうんですね。

ハンスの身を厳しい「現実」がぎりぎりと締め付けます。そして・・・。

最後は映画です。『いまを生きる』という映画がおすすめです。

いまを生きる [DVD]/ロビン・ウィリアムズ,ロバート・ショーン・レナード,イーサン・ホーク

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「この日をつかめ」と「いまを生きる」はイメージとして似ていますが、それもそのはずで、どちらもラテン語の”Carpe diem”という語が元になっています。ホラティウスの詩の一節ですね。

『いまを生きる』の原題は、”Dead Poets Society”で、作中で生徒たちが作ったグループの名前からきています。日本語タイトルは、作中で印象的に使われている語からつけられたようです。

『いまを生きる』は、実は明るく楽しい物語ではなく、結構辛い物語だったりもするんですが、号泣、感動ものの傑作です。特に詩や小説が好きな方は、ぜひ観てみてください。心の琴線に触れる映画だと思います。

ルールなどが非常に厳格な学校に、ロビン・ウィリアムズ演じる型破りな教師がやって来ます。その教師は独特のやり方で、自由の大切さと、詩の素晴らしさを生徒たちに教えます。

次第に生き生きとしてくる生徒たちですが、その自由さは学校や親など、大人たちの求めるものと、ぶつかるようになって・・・。

ラストシーンがとにかく鳥肌ものなんですが、有名な場面なだけに、学園ものなどでパロディの形で使われてしまうことが多いので、知らない内に観ることをおすすめします。一度観ると、決して忘れられない傑作だと思います。

明日は、伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』を紹介する予定です。