伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』 | 文学どうでしょう

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アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)/東京創元社

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伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』(創元推理文庫)を読みました。

伊坂幸太郎の小説で、ぼくが一番好きなのが、この『アヒルと鴨のコインロッカー』です。ちょっとこの作品だけは別格というか、ぼくの中で揺るがない地位を占めています。

この小説を読んだ方は、この小説についてなにかを語ることが、いかに難しいかを分かってもらえると思いますが、何よりもまず、その難しさに潜むものにこそ、この作品の魅力があります。

問題ない範囲で少し書いておくと、『アヒルと鴨のコインロッカー』は、2つの時間軸で物語が進行していく小説です。「現在」の〈ぼく〉と、「二年前」の〈わたし〉という2人の語り手がいるんですね。

「現在」の出来事と、「二年前」に起こったある事件について、交互に少しずつ語られていきます。出てくる人物が重なっているなど、相互に少しずつ関連はしているものの、最後になるまで、この2つの時間軸がどうリンクするのかは分かりません。

分からないだけに、読者はペンディング(保留)の状態で、全体の構造が分からないもやもやを抱えたまま物語を読み進めていかなければならないわけです。

こうした複雑な構成にするならば、読者を納得させられるだけの、それなりの理由が必要です。その点において、『アヒルと鴨のコインロッカー』は、見事にぼくら読者を納得させてくれます。

そしてそれは単に納得させるだけではなく、読者の心を大きく揺さぶるものになっています。

「現在」の出来事も、「二年前」に起こったある事件も、それぞれ単体としては、さほど大きな事件ではありません。しかし、この2つの時間軸がリンクした時に、震えるほどの感動が生まれます。

『アヒルと鴨のコインロッカー』を読み終えて、読者の心に残る感覚というのは、おそらく普通のミステリを読んだ時のものとは、全く違うのではないかと思います。

なにかを成し遂げれば、普通は充足感が生まれます。ところが、『アヒルと鴨のコインロッカー』において、なにかが成し遂げられた時に生まれるのは、充足感ではなく、切なさ、虚しさ、やるせなさです。

決してわざとらしいお涙ちょうだいの物語ではありませんし、号泣するほど悲しい物語でもないんですが、ぼくはいつも『アヒルと鴨のコインロッカー』を読むと、何故だか泣きたいような気分になります。

作中に「彼ら三人には三人の物語があって、その終わりに君が巻き込まれた」(270ページ)という言葉があるように、もうすでに終わってしまった物語にただ思いを馳せるような、言わばずっと映画のエンドロールを見ているような、そんなさみしさのある小説だからかも知れません。

作品のあらすじ


物語は、こんな書き出しで始まります。

 腹を空かせて果物屋を襲う芸術家なら、まだ格好がつくだろうが、僕はモデルガンを握って、書店を見張っていた。夜のせいか、頭が混乱しているせいか、罪の意識はない。(7ページ)


〈僕〉は、小さな書店の裏口に立って、ボブ・ディランの「風に吹かれて」を口ずさんでいます。2回歌い終わるごとに、ドアを軽く蹴飛ばします。今頃、河崎は中で、『広辞苑』を奪っているはず。〈僕〉は、この町に引っ越して来て、河崎と出会った2日前のことを思い出します。

「現在」

〈僕〉こと椎名は、大学進学のために、この町にやって来ました。生まれて初めての一人暮らしです。ボブ・ディランの「風に吹かれて」を口ずさみながら、いらなくなった段ボールを部屋の外へと運んでいます。

「風に吹かれて」は、〈僕〉の思い出の曲なんです。中学生の時に好きだった女の子が好きだった曲。それで必死に練習して、空で歌えるようになったんですね。

ところが、卒業式の前日に、その女の子に歌って聞かせると、「それって何ていう曲?」(83ページ)と言われてしまいました。どこで誤解があったかは分からないんですが、女の子は「風に吹かれて」を全然知らなかったんです。

結果は散々でしたが、ともかくそのことから〈僕〉は、「人間は必死になれば、たいていのことはできる」(84ページ)という教訓を学びました。

段ボールの片付けをしていると、ちょうど帰って来たばかりらしい隣の住人が、「ディラン?」(15ページ)と突然話しかけてきました。

細身で長身、全身黒ずくめで、どことなく悪魔を思わせるその男は、河崎と名乗ります。河崎は河崎の部屋で〈僕〉の歓迎会を開いてくれ、やりたいことがあるから、手伝ってほしいと〈僕〉に頼みます。

同じアパートの隣の隣の部屋で、どこかアジアの国から来た外国人が暮らしているんですが、「ちょうど一昨年の今頃から、部屋に閉じこもりがちになったんだ。元気がなくなった」(22ページ)らしいんですね。

そこで、その外国人が欲しがっていた『広辞苑』を、プレゼントしてやろうというわけです。河崎は〈僕〉を誘います。「一緒に本屋を襲わないか」(24ページ)と。

当然、買ってプレゼントしたらいいじゃないかと〈僕〉は思いますが、河崎は、「広辞苑をプレゼントしたいわけじゃない。お金で買った広辞苑はいらない。本屋を襲って、取った広辞苑が欲しいんだ」(50ページ)と主張します。

実際に奪うのは河崎で、〈僕〉には裏口で見張っていてほしいと言うんですね。「裏口から悲劇は起きるんだ」(51ページ)と言う河崎。

そんな物騒なことに参加したくないと、断り続けていた〈僕〉ですが、段々と河崎を放っておけなくなって・・・。

「二年前」

ペットショップで働いている22歳の〈わたし〉こと琴美は、ブータン人の留学生ドルジと一緒に暮らしています。

ドルジは、酔っ払いが車に轢かれそうになったのを助けたんですね。それで怪我してしまったんですが、それを目撃していた〈わたし〉が、病院に行くかどうかを英語で尋ねたのが、2人の出会いのきっかけです。

2人とも英語ができるので、コミュニケーションは問題ないんですが、ドルジはもっと日本語を学びたいと思っています。

片言の日本語はなんとか喋れますが、文字の読み書きはなかなかできません。〈わたし〉は、教えてほしい日本語があれば、国語辞典で調べてあげると言います。

「(それも駄目。そんな言葉、使う機会なんてないって)」
「(琴美は厳しいなあ)」ドルジは怒る風でもなく、楽しんでいるようだった。「では、アヒルと鴨、どう違いますか」
 わたしは辞書を一ページも開かないうちに、「(アヒルは外国から来たやつで、鴨はもとから日本にいるやつ)」と答えた。そう聞いた覚えがあったのだ。
「本当、ですか?」(185~186ページ)


( )の部分は、英語で話しています。ドルジは文字が読めなくても、『広辞苑』があれば心強いだろうなと考えています。

その頃、町ではペット殺しがたくさん起こっていました。〈わたし〉はペットショップで働いているだけに、そのニュースに胸を痛めていたんですが、ある時、ペット殺しの犯人らしき3人組が公園で話しているのを聞いてしまいます。

3人組に絡まれそうになった〈わたし〉とドルジはなんとか逃げ出して、事なきを得たんですが、〈わたし〉はその時に、どうやら定期券の入ったパスケースをなくしてしまったらしいんですね。パスケースには、住所や名前が載っています。

やがて、3人組からいたずら電話がかかって来て・・・。

とまあそんなお話です。「現在」と「二年前」の出来事が、交互に少しずつ進行していきます。本屋を襲う話と、ペット殺しの3人組に狙われてしまう話。この2つの話は、何人かの人物によって繋がっています。

「現在」からすれば、外国人はなにかしらの出来事が起こって、傷ついているわけですし、「二年前」の話にも、河崎が登場します。

河崎は女たらしなんですが、〈わたし〉である琴美と少しの間付き合っていたんですね。河崎は、ドルジに日本語を教えてやろうとします。

そして、〈僕〉こと椎名も、河崎も、ドルジもボブ・ディランが好きなんですね。河崎は、「人を慰めるような、告発するような、不思議な声だろ。あれが神様の声だよ」(135ページ)と評しています。

はたして、「二年前」に起こった事件とは、どんなものだったのでしょうか。そして「現在」の本屋襲撃の結末は・・・!?

最後に、印象的なセリフを引用して終わります。

「生きるのを楽しむコツは二つだけ」河崎が軽快に言った。「クラクションを鳴らさないことと、細かいことを気にしないこと」
「滅茶苦茶だ」
「世の中は滅茶苦茶」河崎は心から嘆き悲しむかのようでもあった。「そうだろう?」(115~116ページ)


動物が殺されるなど、ショッキングな描写が結構ありますし、明るく楽しい話でもありません。それでもぜひ一度、読んでみてください。

他の小説ではなかなか味わうことのできない、極めて印象的な余韻が残る小説です。おすすめですよ。

明日は、道尾秀介『カラスの親指』を紹介する予定です。