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高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』(講談社文芸文庫)を読みました。
『さようなら、ギャングたち』は、実はこのブログの中で何度か触れてきている作品なんですが、それだけぼくの中で、とても印象の強い小説です。ぜひ読んでみてください。とにかくもう、ぶったまげますよ。
小説に限らず、マンガでも映画でもそうですが、基本的に「物語」というのは、読者を感動させるために意図的に作るものですから、感動的な「物語」であればあるほど、そこには自ずから、ある種のパターンが生まれてしまいます。
たとえば頑固親父と反発する子供が登場したとすると、ぶつかり合いながらも、頑固親父が実は裏では子供を応援しているという展開になるでしょうし、愛し合う恋人同士が、なにかしらの理由で引き裂かれれば、必ず劇的な形で再会するはずです。
もちろんそうした「物語」で感動することはあります。そしてそうした「物語」的なパターンこそが、小説やマンガ、映画の醍醐味でもあります。
少年マンガで敵を倒さずに、ぼこぼこにやられてしまったら「物語」にはならないですし、推理ドラマで探偵が事件を解決しなければ、「物語」は成立しませんよね。「物語」的なパターン、お約束があってこそ、小説もマンガも映画も面白いわけです。
ところが、今回紹介する『さようなら、ギャングたち』というのは、そうしたパターンやお約束からは完全に逸脱した小説なんです。ちょっとすごいですよ。『燃えよドラゴン』のブルース・リーの言葉を借りて一言で評すると、「Don't Think. Feel!(考えるな、感じるんだ)」です。
数行で終わってしまう章が結構あって、白紙の部分が目立つことから、「小説ではなく、長い詩のようだ」と言われ、「ポップな」と形容されることも多い『さようなら、ギャングたち』。
しかし、『さようなら、ギャングたち』のすごさというのは、単に「詩的」や「ポップ」という言葉では分析できません。たとえば、次の文章を読んでみてください。
「わけのわからないもの」は教室へ入ってくるなり、部屋いっぱいに広がって叫びはじめた。
「わけのわからないもの」は形もなく、色もなく、重さもなく、匂いもなく、そこら中でのびたり、ちぢんだり、渦を巻いたりするだけだった。
「椅子に座りなさい」とわたしは言った。
「わけのわからないもの」が人間の言葉を解するのか、どうかわたしにも全く自信がもてなかった。
「座れ!!」(187ページ)
〈わたし〉は、「詩の学校」で生徒たちに詩を教えているんですが、そこへ「わけのわからないもの」がやって来ます。「わけのわからないもの」は、もちろん「わけのわからないもの」なので、「わけのわからないもの」です。
どうでしょう。ちょっと面白いですよね。「詩的」というのは、基本的には「現実を独特の感覚でとらえたもの」と言い換えられると思いますが、『さようなら、ギャングたち』は「詩的」な作品なのではなく、現実そのものがどこか変質しているんです。
もう少し分かりやすく言うと、「わけのわからないもの」に感じられるのではなく、「わけのわからないもの」がそこにたしかに存在しているということです。
小説の中には「ギャングたち」が登場します。しかし、それは「ギャングたち」という言葉が意味するものや、ぼくら読者がイメージする「ギャングたち」の像とは明らかに乖離していて、言わば、「ギャングたち」は「ギャングたち(?)」とつねに「?」つきにしたいくらいの曖昧さがあるんです。
こうした現実から数センチほど浮遊しているような文章のスタイルは、リチャード・ブローティガン(『アメリカの鱒釣り』など)に極めて近いんですが、ブローティガンを読むより先に『さようなら、ギャングたち』を読んだぼくは、「こんな小説があったのか」と、とても強い衝撃を受けました。
現実をそのまま写そうとする写実的な小説はありますし、「物語」的なパターンで感動させる小説もあります。現実を独特の感覚でとらえた「詩的」な小説もありますし、また、現実とは全く違う世界を描いたファンタジーもあります。
しかし、『さようなら、ギャングたち』のように、文章のレトリック(修辞・技巧)で、現実そのものを変質させてしまったような小説は他には見当たりません。これはある種の、金字塔と言える作品だろうと思います。
作品のあらすじ
物語は、「第一部 「中島みゆきソング・ブック」を求めて」「第二部 詩の学校」「第三部 さようなら、ギャングたち」の全部で三部に分かれています。
プロローグでは、どことなくユーモラスなタッチで、「ギャングども」が大統領を襲ったことが描かれます。そして、「第一部」はこんな書き出しで始まります。
昔々、人々はみんな名前をもっていた。そしてその名前は親によってつけられたものだと言われている。
そう本に書いてあった。
大昔は本当にそうだったのかも知れない。(13ページ)
自分の名前を自分でつけるのが流行し、みんな役所に行って名前を交換してもらうようになりました。古い名前は川に捨てられるので、「何百万もの古い名前が川の表面をびっしり埋めて、しずしずと流れて」(14ページ)いきます。
ある時、工場で働いている〈わたし〉が仕事から帰ると、一緒に暮らしている女が赤ん坊を抱えていました。「わたし産んじゃったの、あなたの赤ん坊」(75ページ)と女は言います。〈わたし〉は赤ん坊を「キャラウェイ」と呼び、女は赤ん坊を「緑の小指ちゃん」と呼ぶようになります。
〈わたし〉はキャラウェイを可愛がりますが、ある時、役所からハガキが来て、赤ん坊はいなくなってしまいます。何故いなくなってしまったのかは、ちょっと伏せておきますが、〈わたし〉と女はキャラウェイを探します。
わたしと女は部屋のあちらこちらとさがし回った。
バス・ルームのタイルを這いずりながら、「あなた、外をさがして」と女は言った。
わたしは家のまわりを3回まわってから、部屋に戻った。
女は本棚の本の中を一頁ずつめくって調べていた。
「また明日さがそうよ」とわたしは言った。
「ええ」と女は答えた。(114ページ)
内容にはあまり触れないでおこうと思いますが、「本の中を一頁ずつめくって調べていた」が非常にユニークです。赤ん坊がそんな所にいるはずがないのに探しているわけです。映像化できない、文章ならではの面白さですね。
「第二部」になると〈わたし〉は、雨の日のゴミ捨て場で、「ヘンリー4世」という名前の猫を飼っている女と出会います。〈わたし〉は女に「中島みゆきソング・ブック」という名前をつけてやり、女は〈わたし〉に「さようなら、ギャングたち」という名前をつけてくれました。
〈わたし〉は「詩の学校」で詩を教える先生になっています。そこでのユニークな授業風景が描かれていきます。詩の歴史や技法を教えるのではなく、その人の書きたいという気持ちをうまく「交通整理」する役目を果たすのが〈わたし〉の仕事です。
「詩の学校」には、一風変わった生徒たちばかりが来ているんですが、ここは面白いので、ぜひ実際に読んでみてください。
「第三部」では、突然〈わたし〉とS・B(ソング・ブック)の前に突然、4人のギャングたちが現れます。そして・・・。
とまあそんなお話です。ぼくが最も印象的だった場面を紹介しましょう。〈わたし〉は猫の「ヘンリー4世」に話しかけます。「ヘンリー4世」は、ずっとバスケットの中で「ナーゴ」と答えていましたが、やがてこんなやり取りをします。
わたしは立ち上がった。わたしも「ヘンリー4世」もずっと何も食べないでテレビを見ていたのだ。
「何か食べる?」とわたしは言った。
「まぐろの缶詰め? さんまのひらき? それともウオツカ・アンド・ミルクにする?」
「ヘンリー4世」はバスケットに敷いた古いタオルに顔を埋めたままわたしに言った。
「何も食べたくない。トーマス・マンが読みたいんだ。どこかでトーマス・マンの短編集を買って来て」(283ページ)
突っ込みどころ満載な場面ですよね。本屋さんを探しても、トーマス・マンの短編集は見つからないので、〈わたし〉がトーマス・マンなんて作家は存在しないと思うという所にもおかしみがあるんですが、なによりも「猫が喋ったように感じる」のではなく、猫が突然喋ること、しかもトーマス・マンの短編集を欲しがるということに面白さがあります。
トーマス・マンの短編集であることに意味はないんです。単なる文学的記号です。その意味のなさにこそ、意味があります。
『さようなら、ギャングたち』は、ゆるやかなストーリーの流れはあるものの、ほとんどが断章(断片的な文章)の集まりです。時系列がやや前後することもあって、文章としてはわりと平易ですが、内容はなかなかつかみづらい作品だろうと思います。
ですが、細かいことはあまり気にしないでも大丈夫なので、作中で描かれる突飛な発想や、文章のレトリック(修辞・技巧)が、現実そのものを変質させてしまう感じを楽しんでください。
ふざけているようなタッチの中で、しんみりというかじんわりというか、心動かされる所もあります。
おかしな生徒がたくさん出てくるだけに、「第二部」で描かれる「詩の学校」がとりわけ印象に残りますが、個人的に一番好きなのは、やはり「第一部」ですね。
「第一部」には、「ううん、ちがうのダディ。キャラウェイ、じぶんであるいてく」(99ページ)というセリフがあるんですが、このセリフの場面が、ぼくの中の『さようなら、ギャングたち』のイメージを決定づけています。
これは何気ないセリフなんですが、実はかなりすごいセリフなんです。なぜこれがすごいセリフなのかは、読めば分かりますので、興味を持った方は、ぜひ実際に読んでみてください。おすすめの一冊です。
明日は、ソール・ベロー『この日をつかめ』を紹介する予定です。