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アーサー・ミラー(倉橋健訳)『セールスマンの死』(ハヤカワ演劇文庫)を読みました。
戯曲はただでさえ小説に比べて敷居が高い感じがするのに、そもそもかなり高額だったりと、かつては本自体がなかなか手に入りづらかったんです。
その状況を大きく変えたのが、2006年から刊行が始まったこの「ハヤカワ演劇文庫」のシリーズで、名作戯曲が手軽に読めるようになったのを、当時とても嬉しく思った思い出があります。
そして「ハヤカワ演劇文庫」で一番初めに何気なく手に取って、ぼくがかなりの衝撃を受けたのが、この『セールスマンの死』でした。
この作品を読む前、ぼくは戯曲と言えば、ほとんどシェイクスピアぐらいしか読んだことがなかったんですね。
シェイクスピアは、時代や台詞回しなども大時代的な感じがしますから、”虚構である”ということを強く意識させる作風と言えます。
一方、『セールスマンの死』は、それとは対照的に、セールスの仕事がうまくいかず、息子ともうまくやれず、人生に疲れた一人のセールスマンの姿を描いた、非常に現実的な物語なんです。
物語の主人公のウイリー・ローマンは、かつては敏腕のセールスマンでした。しかし最近では、ほとんど全く商品を売ることが出来なくなっています。
そのため家のローンなど、借金で生活はどんどん苦しくなっていくばかり。友達からお金を借りてなんとかやりくりしているような日々。
働いても働いても何も手に入らず、かつて抱いていたはずの夢や理想は、現実にすり潰されていったのです。
ローマンには2人の息子、34歳のビフと32歳のハッピーがいます。長男のビフは高校時代、フットボールの花形選手で、誰からも好かれる学校中のヒーローでした。
しかし今では、その輝きが完全に失われてしまったビフは、全てにおいて自信をなくし、いまだにまともな仕事につけないでいます。
仕事や厳しい生活に対するウイリーの苦しみと、ウイリーとビフとの対立が描かれ、ビフが一体何故人生で大きな挫折を味わうことになったのかが、少しずつ解き明かされていく物語。
ウイリーは時折、楽しかった過去の出来事を思い出し、空想上の兄に向って語りかけます。たとえば、こんな風に。
ウイリー ああ、兄さん、どうしたら、昔のよき時代にもどれるんでしょう? 光にあふれ、仲がよく、冬は橇に乗り、ビフは頬をまっ赤にしてましたっけ。いつも、何かしらいいニュースがあり、いつも、何かしらいいことが、待ってました。家では、カバンもわしには持たせなかった、それにあの赤い小さな自動車をぴかぴかに磨きあげて! なぜ、なぜ、あの子に何かをやって、わたしを憎ませないようにしてはいけないんですか?(200ページ)
あったかも知れない明るい未来や、素晴らしい可能性の芽が、全てが駄目になった時点から語られるだけに、より一層切ない気持ちにさせられます。
アメリカでの初演は1949年で、そう聞くと随分前のように感じますが、この作品で扱われている理想と現実の差という主題は、そのままそっくり現代の問題と共通していますよね。
全体的に憂鬱な雰囲気が漂い、胸が締め付けられる物語ではありますが、「ああ、なんだかよく分かるなあ」と打ちのめされるように、ぼくはこの物語に強く共感させられてしまったのでした。
作品のあらすじ
60歳を少し過ぎたセールスマン、ウイリー・ローマンが大きなカバンを2つさげ、疲れ切った様子で自宅へ帰って来ました。
車の不具合のせいか、うまく運転が出来ず、「だめだった。どうしてもだめだった」(12ページ)とウイリーは妻のリンダに商品が売れなかったことを告げます。
そしてしみじみと、人生や家族のことについてリンダと話し合うのでした。
ウイリー 考えてみるとだね、一生働きつづけてこの家の支払いをすませ、やっと自分のものになると、誰も住む者はいないんだな。
リンダ でも、人生ってそういうものよ、つぎつぎに変わってゆく。
ウイリー いや、いや、なかには一代でどえらいことをやりとげる奴もいる。ビフは何か言っていたかね、けさおれが出かけたあと?
リンダ あんなにきびしく責めることはなかったのよ、遠くから帰ってきたばかりだというのに。あの子に癇癪をおこしてはいけないわ。
ウイリー おれがいつ癇癪をおこした? 金は儲かっているのかときいただけだ。それが責めたことになるのか?
リンダ でも、あの子に金儲けができるかしら?(16ページ)
一方、息子たちの部屋では、久し振りに家に帰って来たビフが、弟のハッピーと思い出話をしています。昔も2人はこうして自分たちの夢を語り合ったものでした。
しかし、高校時代はいつも自信満々で、大勢の取り巻きに囲まれ、女性からもちやほやされていたビフは、今ではすっかり落ちぶれ、夢を語るような余裕などありません。
高校を出てから、発送係やセールスマン、牧場で牛の面倒を見る仕事など、色んな仕事に挑戦してみたものの、どの仕事も安い賃金でこき使われるだけだと気付き、結局は家に帰って来てしまったんですね。
「おれはいつも、人生をむだにすまいと心がけてきたつもりだ。だが、ここに帰ってくると、決まって、おれがしてきたことはみんな、人生の浪費だってことに気づかされるんだ」(28ページ)と。
仕事がなく、今の追いつめられた状況を打破するために、ビフはかつて働いていたビル・オリヴァーの所へ行き、仕事がないか聞いてみようと思っています。
何たってオリヴァーはかつてビフが仕事を辞める時に、「ビフ、なにか困ったことがあったら、いつでもこいよ」(33ページ)と言ってくれていたのですから。
思い出話をしていたビフとハッピーは、ウイリーがぶつぶつと独り言を言っていることに気が付きました。
それはどうやら仕事がうまくいって、子供たちからも慕われていた時代の事を思い出しているようなのです。
ビフ 今度はどこへ行ってたの、パパ? パパがいないと、さびしくってね。
ウイリー (喜んで、二人の肩に腕をかけ、舞台前方の張出した部分にやってくる)さびしいのか、え?
ビフ とっても。
ウイリー ふうーん? ひとつ、秘密を話してやろうか。誰にも言うなよ。いずれ、自分で商売を始めるつもりなんだ、そうすれば、どこへも行かずにすむ。
ハッピー チャーリイおじさんのように?
ウイリー あんなのより、もっと大きな仕事だ! チャーリイは人に――好かれんだろう。好かれてはいるけど、あんまりは――好かれんからな。(41ページ)
チャーリイはウイリーの友達で、チャーリイの息子のバーナードはビフの友達です。
学校中のヒーローであるビフに憧れていて、ビフに勉強を教えたり、試験でこっそり答えを教えてくれたりしているバーナード。
ウイリーの回想の中、親子3人が明るい未来について話し合っているところへ、そのバーナードが慌てた様子でやって来ました。
「ねえビフ、バーンボーム先生が言ってたよ、数学の勉強をしなけりゃ、落とすって、卒業せさせないって。聞いたんだ!」(44ページ)と。
何校もの大学から奨学金つきのスポーツ推薦の話が来ている息子を誇りに思っているウイリーはうるさがります。
そして子供たちと「ガリ勉の点取り虫もいいとこだ!」(44~45ページ)とバーナードをあざ笑ったものでした。
チャーリイとバーナード親子の、夢見ることをしない真面目すぎる生活態度を馬鹿にしていたウイリーたち。
しかし今では、ウイリーは落ちぶれ、チャーリイから毎月お金を借りて暮らしているような状況です。
そして、熱心に勉強をし、弁護士になったバーナードは思いも寄らぬ大きな成功をおさめているのでした。
ビフがオリヴァーの元へ仕事をもらえないか頼みに行こうとしているように、ウイリーもまた苦しい現状を抜け出す方法を何とか考えようとしていました。
そこで、雇い主であり子供の頃から知っているハワード・ワグナーに、給料は安くても一つの所に落ち着ける仕事をもらえないか、頼みに行くことにして・・・。
はたして、ウイリーとビフのそれぞれの願いは適うのか? そして激しく対立するウイリーとビフの過去には、一体どんな出来事があったのか!?
とまあそんなお話です。ウイリーとチャーリイ、ビフとバーナードがそれぞれ好対照になっていますね。
ウイリーが成長した”ガリ勉の点取り虫”バーナードと会って、「(弱々しく、独りごとのように)何――なんだろうね、秘訣は?」(140ページ)と何故バーナードは成功し、ビフは駄目だったのかを尋ねる場面があります。
その場面でのやり取りがとても印象的なので、ぜひ注目してみてください。
ところで、みなさんも子供の頃は、将来の夢を持っていたのではないでしょうか。
”野球選手になりたい”とか、”アイドルになりたい”とか、それこそ目の前には無限の可能性が広がっていたはずです。
しかし、成長していくに従って、段々と現実に直面せざるをえなくなるのが、人生というものでもあります。
そんな風にして、ウイリーとビフの夢や希望も、現実に押しつぶされていってしまったのでした。
何故成功出来なかったのか、どこで道を間違えたのか――。
可能性の芽が摘み取られた場面が回想されていく物語でもあるので、胸が締め付けられるようですが、それだけに強く共感させられる作品です。
興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。また、上演されている機会があれば、ぜひ舞台を観に行ってみてください。
明日は、折口信夫『死者の書・口ぶえ』を紹介する予定です。