高崎市綿貫町の平治山坦洛院「普賢寺」は、応永3(1396)年 開創の真言宗のお寺で、本尊は「虚空蔵菩薩」です。虚空蔵菩薩は地蔵が大地を蔵とするのに対し、虚空蔵は虚空を蔵とします。大地が万物を生み、それを虚空の働きが育てるので、両者は陰と陽の徳を司ると考えられました。左手に如意宝珠を載せた蓮華を持って腰に当て、右手には光焔放つ宝剣を握る姿が一般的です。本堂に展示されている風信帖の拓本は、弘法大師(空海)から伝教大師(最澄)に宛てた手紙三通を版木にして拓本として、明治2(1869)年に発行されたものを36代僧正が購入し、長らく眠っていたものを平成6年に掛軸に表具したものです。
本 尊
風信帖
普賢寺の石造物
宝篋印塔は、信州高遠領藤沢の石工清水彦之丞が作成し、享保14(1729)年に建立。石幢六地蔵立像は、享保11(1726)年に建立。「幢」は「旗」の意味です。巳待塔は、文化13(1816)年の建立で、弁財天を祀り、己巳(つちのとみ)の日に供養する記念塔です。中大類村・高井守一の書。奪衣婆像は、三途の川の畔で亡者の衣類を奪い懸衣翁に渡すという鬼婆。虚空蔵菩薩は、正保5(1648)年の建立で当寺の本尊と同じです。
普賢寺裏古墳
墳丘は主軸をほぼ東西とし、東に後円部、西に前方部を配します。ちょうどお寺の本堂の背後に位置しているため、その建立の際に、後円部南側が一部削平されています。それ以外の部分は比較的よく旧状をとどめており、明瞭な基壇を確認することができることから、2段築成であることがわかります。墳丘測量図によると、墳丘全長77m以上、後円部径42メートル、同高さ6.2m、同墳頂部径11m、前方部幅45m以上、同高さ3.4mを有する。後円部の高さが前方部のそれの2倍近い点が特徴的です。墳丘の周囲をみてみると、墳丘北側及び東側に周堀の存在をうかがわせる窪みが認められます。葺石及び埴輪の存在については、現状では不明です。本古墳の時期は5世紀前半と推定されています。
参考資料:岩鼻「歴史マップ」