―高知県の昔話―

昔、高知の山奥で、うどんの屋台(夜泣きうどん)を引いてくる人の良い爺さんがいた。鈴をチリンチリンと鳴らしながらやってくる屋台は、かっちゃんという若者が常連だった。

 

 

ある夜、この辺では見かけない美人の女将さん風の人がうどんを食べにやってきた。次の夜もまた次の夜も、ここら辺では見かけない客がやってきて、うどんを3杯も4杯もおかわりして帰って行った。しかし見慣れない客が払ったお金は、全て翌日には木の葉になっていた。

うどん屋の爺さんがかわいそうだと思ったかっちゃんは、ある夜、怪しい客の着物のスソに火を付けた。すると思った通り、熱さに驚いた客は、元のタヌキの姿に戻った。タヌキは、かっちゃんから強烈な一撃をくらい、瀕死の状態で逃げて行った。それからは、もうお金が木の葉になる事もなかった。

 

 

翌年になり、また夜泣うどんがやってくる季節となった。だが、屋台の鈴の音ではない音が聞こえてくる。変だと思ったかっちゃんが、こっそり外を見ると、6匹の子ダヌキたちが鈴の音を真似て鳴いているのだった。

母ダヌキが毎晩、夜泣うどんに通っていたため、子ダヌキたちも鈴の音を覚えたのだろう。死んだ母狸を偲んでいる子ダヌキ達を見て、かわいそうな事をしたと、かっちゃんも泣いた。

 

出典:まんが日本昔ばなし〜データベース〜

高崎市倉賀野町西上正六の「粕沢橋と粕沢立場跡」:江戸時代に、粕沢橋は倉賀野宿内の太鼓橋と共に、幕命により高崎藩が管理した重要な橋でした。享和3(1803)年に太鼓橋と一緒に石橋に架け替えられました。元は現在より北側のやや低い処にあり、明治以降中山道の改修に伴い現在地に移動しています。粕沢立場は江戸中期(18世紀中ごろ)に橋の倉賀野よりに設けられた休憩施設で、三件ほどの茶屋があり茶屋の北側に粕沢の滝が望める景勝地として知られていました。

 

江戸時代の地図

大正時代中頃の粕沢付近

現在の粕沢橋と粕沢立場跡

 

 

―愛媛県の昔話―

昔々、愛媛松山城山の東の麓に貧乏な男が住んでおった。男は何とか大金持ちになってみたいと思い、湯山横谷の毘沙門天に毎夜通って百日の夜中参りをした。すると満願の夜、毘沙門天様が現れ「金持ちにしてやる。」といって消えたそうな。

次の日の朝、男はいつものように街へ野菜を売りに出かけた。すると恐ろしいほどの売れ行きで、野菜はおろか、天秤棒や笊、男の着物までもがあっという間に売れてしもうた。

それからはやることなすこと全て上手くいき、まるで水が流れ込むように金が流れ込み、男はあっという間にこの辺り一番の大金持ちになった。大きな屋敷に大勢の使用人、たくさんのご馳走にふかふかの布団と、まるで大名のような暮らしぶりじゃった。

 

 

その後も金は金を呼び、日に日に蔵が増え屋敷は大きくなっていった。屋敷が広すぎて、男は家の中で迷ってしまうこともある位じゃった。一方で、やらなければならない仕事も増え、また色々なもめごと等も持ち込まれるようになり、男はだんだん不機嫌になっていった。

「金持ちになったら楽が出来ると思っていたのに……。」男は金持ちの暮らしが嫌になり、ある晩また毘沙門天様の所にお願いに出かけた。「毘沙門天様、どうか私を元の貧乏人に戻して下さい。」すると毘沙門天様は元に戻る方法を教えてくれたそうじゃ。それは、一升枡を池で洗い、それを伏せて、枡の底を叩くというものじゃった。

 

 

男が言われた通りにすると、枡の底を叩くたび蔵が一つ消え二つ消え、終いには屋敷まで消えて、きれいさっぱり全部なくなってしまったそうな。男は、自分には貧しくとも気楽な暮らしの方が性に合っていると気づき、その後も食うや食わずのひどい暮らしじゃったが、のんびりと気楽に暮らしたそうな。

今でもこの男の屋敷があった辺りを長者ヶ平(ちょうじゃがなる)と呼ぶそうじゃ。

 

出典:まんが日本昔ばなし〜データベース〜

地域の旧道を歩くと、道の辻や三叉路に自然石で出来た「道祖神」や「庚申塔」と字彫りされた石、また「二十二夜供養塔」を見かけます。今回はこれらの石造物について髙山勇氏調査の「南八幡地区石造文化財調査表」に基づき阿久津地区を散策しました。なお、現存する石造物は多数ありますが、記載のものは全体のごく一部です。

 

庚申塔(寛政12年・安政7)

  

諏訪社、天神社

 

不動明王、御嶽山、通力不動尊

 

地蔵菩薩

 

道祖神、庚申塔

 

 

地蔵菩薩は、釈尊が入滅してから弥勒菩薩が成仏するまでの無仏時代の衆生を救済することを釈迦から委ねられたとされる菩薩です。現世に釈迦はいませんが、弥勒菩薩が将来釈迦のように悟りを開き如来となってこの世を救います。ただ残念ながら、その救いは56億7千万年後のことです。なぜ、こんな計算が成り立つかというと、今、弥勒菩薩はこの世界とは違う兜率天(とそつてん)というところで修業しています。兜率天の1日はこの世の4,000日に当たります。そして、そこの平均寿命は4,000歳ということになっています。だから、4,000×360日(大陰暦)さらに平均4,000歳だから4,000を掛けると57億6千万年となるのです。ただ、長い年月言い伝えられているうちに、7と6が入れ替わって56億7千万年後となっています。

 

※庚申塔 中国の道教では人体に3匹の虫、三尸(し)が宿っているといいます。この虫は60日ごとに来る庚申の日の夜に、寝入っていた人体を抜け出し、天帝に宿主の罪業を報告します。庚申の日に宿主が寝なければ三尸は人体を抜け出せない。そこで 庚申の晩は当番の家に集まり不眠で過ごすことで三尸の報告を阻止して治病・長寿を得る庚申待ちの行事を行いました。その祈念碑として庚申塔があります。

 

参考資料:南八幡地区石造文化財調査表

―香川県の昔話―

昔、瀬戸内海に浮かぶ小さな島の山頂に一人の山姥(やまんば)が住んでいた。この山姥は、夜になると目をさまし、島の泉で一風呂浴びてから食事をするのが常でした。

 

 

ある日、船頭(せんどう)の親子が突風にあおられ海で立ち往生していた。仕方なく近くの気味悪い小島に船を付け、海岸で焚き火をしていると、大きな山姥が現れた。人を捕って食ってしまうという山姥に、身の危険を感じた親子は隙をみて逃げ出し、急いで船を出した。

船が海岸から離れ岬の先端に近づくと、先回りした山姥がニタニタと笑って立っていた。山姥は着物を脱ぎ大きな乳をあらわにすると、白い乳をピューピューと船に向かってかけはじめた。山姥の乳が船にかかると船が動かなくなるという言い伝えがあるので、親子は必死で逃げた。

 

 

しかし、一滴だけ船の舳先(へさき)にかかってしまい、船の艪(ろ)が動かなくなった。親父は「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」と、一心に念仏を唱えながら、乳のかかった舳先を小刀で削り続けた。必死に唱えている念仏を聞いた山姥は乳を出すのをやめ、泣き始めた。山姥にも念仏のありがたみがわかるのか、いつまでも岬の先端に立って泣き続けた。

親子の船は再び動けるようになり、無事にこの島から逃げ出す事が出来た。岬の事を「鼻」という事から、この岬を「念仏の鼻」と呼ぶようになった。

 

出典:まんが日本昔ばなし〜データベース〜

プロフィール: 阿久津町には「神代獅子由来」という変体仮名まじりの巻物がある。昭和7年に梅雲という人が古いものを写し直したもので、仏教の伝来と獅子舞が深い結び付きをもっている事が記されている。三人の上人が書いた絵を彫刻の名人が木彫りとし、宝物庫へ置いたが、京都が大荒れとなったときその獅子達が光りを受け、それを聞きつけた極上興兵衛が三頭の獅子を持って京都の家々を祈祷して歩き大荒れを静めた。その後極上興兵衛の倅、照政という者が苦心して稲荷流という舞を作り、それが阿久津村へ伝来したという。それは大化元乙巳(645)年中秋、孝徳天皇の御代、との記載がある。上野三碑がある土地柄、昔から都との交流が盛んだったのでしょう。

 

   

 

 

阿久津の獅子舞 (平成23年4月20日 高崎市指定重要無形民俗文化財)

流派は稲荷流で、舞は獅子(前・中・後)3人、カンカチ1人、笛吹き数人その他で構成される。曲目は、三拍子・ぼんでん・花吸い・まり・つるぎ・笹がかり・岩くずし・雌獅子がくしがある。

那須の獅子舞(甘楽郡甘楽町秋畑)・藤原の獅子舞(利根郡みなかみ町)とともに県内稲荷流三宗家の一つといわれる。伝承では大化元年(645)に極上興兵衛が舞をはじめ、それが阿久津に伝えられたものという。かつては獅子舞の由来を示す古文書があったが、明治43年(1910)に大洪水にあい流出した。しかし、昭和初期に由来書を筆写したといわれる巻物が伝わっている。                         

「みなみやはたの歩み第5集参考」

―徳島県の昔話―

むかしむかしある町の長屋に、それはもう阿呆な息子が住んでおった。毎日仕事もせずぶらぶらしておったが、年頃になって嫁さんを貰ろうた。それでも相変わらずぶらぶらしておったそうな。

嫁さんはとうとう堪りかねて、何か商いでもしたらどうかと男を説得し、なんとか魚屋に仕立て上げた。そうして、「人の大勢いる所へ行って『とりたての魚はいらんかね~。』と言うて売るんじゃよ。」と言って、送り出したそうな。

 

 

 男が魚を担いで歩いて行くと、葬式で人が大勢集まっている家に出くわした。男が「とりたての魚はいらんかね~。」と言うと、家の人達は怒って男を追い出し た。男が家に帰ると、嫁さんは「そういう時はお悔やみの一つも言うもんよ。そうすれば魚も買ってくれるよ。」と、男に教えてやった。

 次の日、男は祝言をあげている家に出くわした。男が「惜しい人を亡くしてしもうた……。」とお悔やみを言うと、家の人達は怒って男を追い出した。嫁さんは「そういう時は高砂の一つも歌うもんよ。」と男に教えてやった。

 次の日、男は火事場に出くわした。男が「高砂や~」と歌って魚を売ろうとすると、火消し達は怒って男を追い返した。嫁さんは「そういう時は水の一杯もかけて火を消してあげるもんよ。」と男に教えてやった。

 次の日、男は鍛冶屋の前を通りかかった。男が炉の火に水をかけて魚を売ろうとすると、鍛冶屋は怒って男を追い出した。嫁さんは「そういう時は向う槌の一つも打ってあげるもんよ。」と男に教えてやった。

 次の日、男は夫婦喧嘩に出くわした。男が夫の頭を槌でたたいて魚を売ろうとすると、女房は怒って男を追い出した。嫁さんは「そういう時は『儂に免じてお引き取りを。』と言うもんよ。」と男に教えてやった。

そうして次の日、男は二匹の牛がにらみ合っているのに出くわした。男が「まあまあ儂に免じて……。」と牛に向かって言うと、怒った牛は男を散々に追いまわしたんじゃと。

 

 

まあ、馬鹿な息子もいたもんじゃ。こうして阿呆息子はいつまでたっても魚屋ができんかったそうな。

 

出典:まんが日本昔ばなし〜データベース〜

高崎市阿久津町の万日堂では、伝統行事である「百万遍」がおこなわれます。百万遍は悪病退散のため毎年7月16日に区長や役員が集まり行われます。朝8時半に万日堂で玄頂寺住職が読経の後、参加者全員で数珠を回し、9時にカネ(鉦)を叩きながらムラ中を回り歩きます。

 

 

 

   

 

お堂(万日堂)は、毎月18日が縁日で、年寄りがお堂に集まって、お経を唱えて祀っている。お婆さんが中心で、拝んだ後皆でお茶を飲み、四方山話に花を咲かせる。毎年1月18日が初観音で、講中の人々がお堂に集まって、観音様を祀っている。7月16日は、お堂を中心に行われる百万遍の日で、現在は区長と各組の班長が中心になって村中で行うが、かつては老人が主体であった。鉦を打ち、念仏を唱えて拝む。拝み終わると、昭和60年代までは村中を2日かけて歩いたが、その頃には道端で村人が待機していて、升に入れて持っていた米を一行にくれたものである。

※鉦には「元禄14(1701)年辛巳歳5月18日」「上州阿久津村観音堂願主一誉休念」の銘がある。                                                                                               (高崎市発行「阿久津の民族」より)

 

百万遍(ひゃくまんべん)とは、百万遍念仏のことで極楽往生を願って念仏を百万回唱えること。本来は、個人が念仏を7日間(もしくは10日間)のうちに100万回唱えることで目的が成就されるとされている。ただし、複数の人間が同時同音で念仏を唱えることによって互いの念仏の功徳を融通することが出来るとする考え方もある(例えば、10人が10万回の念仏を同時に唱えることが出来れば、10×10万=100万となり100万回念仏を唱えたのと同じ効果があるとするものである)。また、念仏の際に数取りのために大型の数珠をこすり合わせながら行う場合もある。この際に用いられる数珠を百万遍数珠と呼ぶ。百万遍念仏と極楽往生を結びつけた最初の人物は唐の迦オであると言われている。日本にも平安時代に伝来され、浄土教の流行とともに盛んになった。弘元元(1331)年、後醍醐天皇の命を受けた善阿が7日間にわたって百万遍念仏を行って達成させ、疫病を鎮めたとされている。彼が居住した知恩寺(知恩院ではない)の別名「百万遍」はその時の褒賞として授けられた寺号である。室町時代から戦国時代にかけて宮中から地方の村々の間にまで百万遍念仏が広まり、今日でも日本の寺院や地域の間において、百万遍念仏が行われている事例がある。南八幡地区では、阿久津・木部及び山名西がある。

―山口県の昔話―

昔から山口県熊毛地方八代の里は、多くの鶴たちがやってきます。村の人たちは鶴を大事にし、鶴も人によくなつき、このあたりには鶴と人にまつわる話がたいそう多くあります。その話の一つ。

ある年の秋、子供を連れた一羽の鶴が飛んで来ました。小鶴は旅の疲れと病気で弱っていました。親鳥はおいしそうな柿を見つけ、小鶴に食べさせようと思いました。鶴は柿の木に止まれませんので、下に降りてうらめしそうに柿を見ていると、カラスが飛んで来て柿を食べはじめました。鶴はカラスに柿を取ってと頼みますが、意地悪をするばかりで固い実をぶつけられました。

その様子を見ていた一人の女の子が、畑のおっとうを呼んで、カラスを追い、鶴に柿を取ってあげました。鶴は何度もお礼をいって小鶴の元へ飛び去っていきました。

 

 

その後ある寒い朝、あのお百姓さんの家では干し柿を食べた女の子が柿の種を喉に詰まらせ苦しんでいました。戸口を叩く音であけてみると、あのときの鶴がいて「今度は私が恩返しをする番です」と言いました。

 

 

鶴は家の中に入り、女の子の枕もとに立つと、長いくちばしでのどにつかえた柿の種を上手に取り出しました。お百姓さんは何度もお礼を言いました。そして別れ際、何の気はなしに「八代の柿は上手いんじゃが、種が多くていかん」と言いました。鶴は聞くともなく聞いていましたがやがてとびさっていきました。

それからだそうです。八代の柿は干し柿にすると種が消えるそうです。村の人たちは鶴の恩返しと考え、干し柿ではなく鶴柿と呼ぶようになったそうです。

 

出典:まんが日本昔ばなし〜データベース〜

高崎市阿久津地区のほぼ中央には万日堂があり、隣接して地元の町内公民館があります。かつては万日堂が阿久津の人々の集会の場となっていたが、公民館が出来てからは公民館が集会の場となった。万日堂は、「上野国緑野郡村誌」によれば元禄年中(1688~1704)に村民共力して建立とある。現在は万日堂というが、人々はお堂あるいは観音堂と呼んでいる。本尊は秘仏の観音様で13年に一度、巳年に開帳される。明治27(1894)年の大火の時にお堂は焼けたが、その際に光を放っている観音様を山口馬市さん(大正11年、77歳没)が水をかぶり持ちだしたという話が伝えられている。現在の公民館はかつてのお堂があった場所に、昭和55(1980)年9月1日に建てられたもので、お堂は公民館を作るときにやや西側に移動した。

 

 

お堂(万日堂)には明治時代から最後の堂守、岩城善妙、おフクさん(明治10年生まれ、昭和29年77歳没)の夫婦が住み、毎年7月15,16日の百万遍には、大数珠をかつぐ様にして、定められた道順を村の隅々まで歩いた。村人は悪病退散を願い、米や麦、お金は2銭から5銭位の喜捨をした。善妙さんが昭和4年に亡くなった後は、おフクさんが供人と歩いた。おフクさんが亡くなった後は、女性信者が毎月18日に万日堂に集まり、掃除をしたり、お経をあげて、お茶を飲んで楽しいひと時を過ごしています。                       

                                                                        (「みなみやはたの歩み」第3集P85より) 

 

 

お堂(万日堂)は、毎月18日が縁日で、年寄りがお堂に集まって、お経を唱えて祀っている。お婆さんが中心で、拝んだ後皆でお茶を飲み、四方山話に花を咲かせる。毎年1月18日が初観音で、講中の人々がお堂に集まって、観音様を祀っている。7月16日は、お堂を中心に行われる百万遍の日で、現在は区長と各組の班長が中心になって村中で行うが、かつては老人が主体であった。鉦を打ち、念仏を唱えて拝む。拝み終わると、昭和60年代までは村中を2日かけて歩いたが、その頃には道端で村人が待機していて、升に入れて持っていた米を一行にくれたものである。

※鉦には「元禄14(1701)年辛巳歳5月18日」「上州阿久津村観音堂願主一誉休念」の銘がある。 

                                                                              (高崎市発行「阿久津の民族」より)

 

万日堂の石造物

二十二夜如意輪観音・御巳待供養塔・百番供養塔・百八十八か所供養塔