「市民の森・結婚の森」

この森は、高崎市制90周年を記念して作ったもので、観音山丘陵の南端、山名町の山上碑の山道奥に所在している。市民が結婚を記念した植樹などがあり、サクラや自然散策の場とすることが構想されたが、年月ととともに知る人も少なくなり、長く放置に近い状態となっていた。この森を、市民の里山として再生しようと市民団体がボランティアで整備を行っており、市民の自然体験の場として活用するよう活動しています。

「高崎市民の森」

 

 

「高崎森林公園」

 

公園の石碑三基は、故信澤克己氏が残した石碑を高崎商科大学が設置したものです。

 万葉集巻143419 

 伊香保せよ 奈可中次下(なかなかしげに) 思ひどろ くまこそしつと 忘れせなふも

 

 万葉集巻143415 

 上毛野 伊香保の沼に 植ゑ小水葱(こなぎ) かく恋ひむとや 種(たね)求めけむ 

 

 万葉集143435

 伊香保ろの岨(そひ)の榛原(はりはら)我が衣に着きよらしもよ一重と思へば  

昔、どこかの国の山奥にキコリがいました。深山で、キコリが斧をふるって大木を伐(き)っていたとき、いつのまにか来たのか、サトリという異獣が背後でそれを見ていました。

 

 

キコリが「何者ぞ!」と、聞くと「サトリと言う獣に候」と言いました。あまりの珍しさに、キコリは生け捕ってやろうと思ったとき、獣のサトリは赤い口をあけて笑い、「その方、今、ワシを生け捕ろうと思ったであろう!」と、言いあてた。キコリは驚き、「この獣め容易に生け捕れぬ、斧で打ち取ってやろうと思った」。

 

するとサトリは「その方、今、斧で打ち取ろうと思ったであろう」と言う。キコリは、「こうも思うことを言い当てられては栓もない」と、ばかばかしくなり、「相手にならずに木を伐っていよう」と斧を持ちなおすと、「そのほう、今、もはや致し方なし、木を伐っていようと思ったであろう」と、あざけ笑った。しかし、キコリはもはや相手にならずどんどんと木を伐っていた。

 

そのうち、はずみで取っ手の先から斧が抜け、斧は無心に飛んで行き、異獣の頭に当たり、サトリの頭は無残にくだけた。サトリは二言と発せずに死んでしまった。

剣術でいう無想剣の極意とはそこにあります。

 

 

 無心や無我とは、心や自我意識を消し去った状態のことではない。生身の人間である限り、それを消し去ることは出来ない。では、こうした場面でいかに処すべきか。自分心の中で騒ぐ自我意識を、否定もせず、抑圧もせず、ただ静かに見つめる「もう一人の自分」。その自分が、心の中に現れた時、不思議なほど揺れ動く心や自我は静まって行く。実はこの状態こそが「無心」や「無我」、すなわち「悟り」と呼ばれる境地に他ならず、この境地にある時、我々は最高の力を発揮する。

「悟り」とは、自分の心を静かに見つめる「もう一人の自分」が現われている瞬間、その覚醒の状態を言います。

 

参考文献《物語は、インターネット上に掲載されている文章を基にアレンジしています》

福岡県の昔話

とんと昔のことたい。

筑前(ちくぜん)の国、今の※福岡県(ふくおかけん)の福間の里(ふくまのさと)に花見(はなみ)という街道(かいどう)が一本通っておって、その道は、いつでもおさん狐(ぎつね)が化(ば)けて出るところじゃったげな。

ある日のことたい。

福間の又兵衛(またぜえ)という馬方(うまかた)が、博多(はかた)の町から空荷(からに)のまんま、トンボトンボ、花見の街道まで帰ってきよると、ちゃんとおさん狐がきれいなベッピンさんに化けて出てきおったげな。

それで、又兵衛、「ベッピンさん、こん馬に乗らんな。ただで乗せてやろうたい。ただやきなあ」

と声をかけると、おさん狐のやつ顔を赤らめて、馬の背に乗せてもろうたげな。

「おっ、そうたい。こん馬は暴(あば)れるとじゃけん、ようっく、ひもでしばっとかな」

又兵衛わくわくしながら、おさん狐を、ぐるぐるっと馬の鞍(くら)に巻(ま)きつけてしもうたげな。

 

 

おさん狐は、きつうてたまらんものだから、「ちいっと、ひもをゆるめてつかあさい」

と頼(たの)むけど、又兵衛、知らん顔たい。

それでも、あんまりおさん狐が泣くものだから、「やい、おさん狐、お前の正体(しょうたい)ははなっから知れっちょる。ひもをゆるめてやってもいいが、おれが言うことも聞いちくるるか。お前が今、金の茶釜(ちゃがま)に化けて、おれにひともうけばさしてくるっとなら、ゆるめてやろうたい」と、にらみつけると、「きっと、金の茶釜に化けてみせます」と約束(やくそく)したもんやきい、ひもをといて、金の茶釜に化けさせたげな。

又兵衛、さっそく、その金の茶釜を寺の和尚(おしょう)さんに高い値段(ねだん)で売りつけたげな。

和尚さんもたいそう喜んで、正月になると大勢(おおぜい)のお客を招(まね)いて、その茶釜を自慢(じまん)しいしい、炉(ろ)の火に架(か)けたげな。

そしたら、何やらこげ臭(くさ)い匂(にお)いがして、あげくのはてに、金の茶釜から毛むくじゃらの手足が出てきて、炉の灰(はい)を跳散(けち)らすと裏の山へ逃(に)げて行ったげな。

そんで和尚さんな、たいそう怒(おこ)らっしゃって、又兵衛の家へかけこんで行ってみたら、又兵衛のやつ、ひどい出来物(できもの)できたふりをしておって、床(とこ)の中たい。

顔を真っ赤にして怒(おこ)っとる和尚の話を聞いて、又兵衛のやつ、蒸(む)し芋(いも)を練(ね)りあげたのを塗(ぬ)りつけた顔をつき出して、和尚さんにいうたことが、にくい。

 

 

「和尚さん、そりゃあ、おおごとやったなあ。そん金の茶釜ば、和尚さんの所(とこ)さ持って行った又兵衛は、きっと、おさん狐の化けおった又兵衛でござっしょうなあ」

それぎんのとん。

 

出典:フジパン「民話の部屋」

『でえせえじ遺跡』は、「山上古墳」(高崎市山名町山神谷2104番地)から西方に約300mの場所にある。山上碑無料駐車場入口を直進し山名貯水池北側の丘陵傾斜地に位置している。

なお、「でえせいじ遺跡」推定地から北へ目測20mの丘陵南傾斜地に「山上西古墳 」がある。 「でえせいじ遺跡」は、昭和23(1948)年に地元の小学生が軒丸瓦の破片を見つけたことによって、その存在がしられるようになった。その後も軒丸瓦、平瓦などが採取され「でえせえじ」の名から寺院跡との見方がされているが、地形からは窯跡の可能性も指摘されている。      

 

市民の森と森林公園の分岐点を右に進む

分岐点から約20mの地点

でえせえじ遺跡と推定される場所

 

昭和24年に群馬大学の尾崎喜左雄氏が現地へ行って、その報告書が「日本考古学年報・2」に載っています。それによると、土地の人はこの場所を「でえせえじ」といっているが寺院跡か窯跡か発掘してみなければ断定できないとあります。また、付近には寺跡らしい形跡はなく、場所が山の中の谷間のようなところなので窯跡よりほかには考えられないともいっている。

 

『でえせえじ遺跡』で見つかった軒丸瓦(山王廃寺)出土のものと類似した複弁七弁蓮華文で、弁の端が尖り、中房が小さいため弁が細長くて、子葉は短い。間弁の反りはしっかりと表現されていて写実的である。中房には不揃いな蓮子が中心のものの周りに四つ、その外側に八つ配置されている。外縁は素文で、側面には丸瓦接続時に施された平行叩きが認められる。これと同じ文様の軒丸瓦は、高崎田端遺跡、藤岡市水窪遺跡で出土しており、いずれも同笵関係にあることが確認され、七世紀末頃の製作とみられている。田端遺跡は、『でえせえじ遺跡』の東約2.5㎞にあり、上越新幹線の建設に先立つて調査された集落遺跡で、近接して寺院跡の存在も指摘された。水窪遺跡は、『でえせえじ遺跡』の東南約4㎞の藤岡台地上にあり、三重弧文軒平瓦も出土しているが、詳しい状況は不明である。

 

    

ある教会で、神父さんが猫を可愛がっていました。お祈りをするときにも、何時も猫を手放さずに側に置いていました。

 

 

その神父さんが亡くなって、二代目の神父さんもその猫を飼ったのですが、お祈りをするのに邪魔だったので、猫を祭壇の横に繋いで置きました。三代目の神父さんもまたその猫を繋いで飼っていました。四代目の神父さんは猫が嫌いだったので、その猫が亡くなった後には猫を飼いませんでした。しかし、猫がいたほうが村の人の受けが良いと思った神父さんは、石で作った猫を置いておきました。五代目の神父さんは石の猫を見たときに「じゃまな石の猫だなぁ」と言って、祭壇の上の場所におきました。

 

その後に交代した神父さん方も、それをどんどん引き継いでいき、その教会ではお祈りをするときに石の猫が祭壇の上にいるのが当たり前になっていました。何年かが過ぎたときに、ある村人が「あの石の猫は、何でお祈りの場にいるのですか」と聞きました。ところがその質問に答えられる人はもう誰もいなかったそうです。

 

 

我々の生活の中にもこういうことってありませんか?例えばマナーや決め事にしても、何でこうなったのか、これはやってはならない。これはやるべきだということに対し、どんな歴史があったのか、どんな話し合い、プロセスがあったのかを考えてみるのも良いのではないかと思います。

 

参考文献《物語は、インターネット上に掲載されている動画を基にアレンジしています。イラストは、インターネット上に掲載されている無料画像を使用しています。》

高知県の昔話

とんとむかし、土佐(とさ)の安田の奥(おく)の中山に、貧乏(びんぼう)な男がおったそうな。

なんぼ働いても暮(く)らしがようならんき、てっきり貧乏神に食いつかれちょると思いよった。

ところが、その男の隣(となり)におんなじような貧乏な家があったが、不思議なことに、二、三年しよると急に暮らしがようなったと。

 

 

ほんで男は、ひょっとしたら、貧乏神を追い出したかもしれんと思うて、隣の家へ行って、

「おまん、どうやって貧乏神を追い出したぜよ。すまんが教えてくれんか」

いうて頼(たの)むと、隣のひとは、

「かんたんなことじゃ、家の戸口にこう書いちょけ。“ござったりや、ござったりや 福の神がござった”と、こうじゃ。かんたんじゃろが」

よろこんだ男は、さっそく習うたとおりに書いて、戸口へ貼(は)りつけておいたと。

やがて、一年たち、二年たった。けんど暮らしは一向にようならん。あいかわらずの食うや食わずの貧乏暮らし。とうとう三年目に、しびれを切らして隣の家へ行ったと。

「おまんに教えてもろうたとおりにやったけんど、一向に福の神は来ざったが」

「そりゃ、おかしいのう。来ないかんはずじゃに。どれ、ひとつ書きつけを見せてみい」

そこで、書いたものを持って、隣の人に見せたと。そしたら、

「こりゃいかん。これじゃお前(ま)ん、来(こ)んはずよ。“ござった”の“こ”にボチがついちゃせんじゃりか」と、いうきに、よう見てみたら、なるほど、

 

 

「こざったりや こざったりや 福の神がこざった」と、書いてあったそうな。

 むかしまっこう さるまっこう

さるのつべは ぎんがりこ。

 

出典:フジパン「民話の部屋」

山上古墳の西方250mの近接地に単独で存在している。この一帯は、南及び東側に展開する平地部分からは、かなり奥まった山間の地点であり、これら2古墳を除くと周囲には古墳はいっさい認められない。いわば、人里離れた同一の地点に意図的に2基の古墳が造られたことがわかる。本墳の所在する地点の標高は約140mであり、さきの平地部分との比高差は約60mを有している。周辺で認められる古墳群としては、南西約1300mの鏑川左岸に広がる平坦地に6世紀後半から7世紀にかけて形成された山名古墳群が主要なものです。

現在の古墳の現状

 

 

 

【墳丘及び外部施設】

従来、山上西古墳に対して行われた発掘調査は、昭和34年(1959)に短期間を利用して行われた石室を中心とした簡易な調査が唯一の機会であった。そのため、墳丘が丘陵の南斜面を利用して造られた、いわゆる山寄せ式小型円墳と推定される以外は、詳細は明らかでない。墳丘の直径は、約10mほどとされているが、石室規模から考えてほぼ妥当なものであろう。近接する山上古墳で実施された墳丘調査では、葺石が確認されていないことから、本墳にも施されていないと考えていいだろう。周辺の踏査からは埴輪は一片も採集されてない。

截石切組積石室をもった山上西古墳は、山上古墳ときわめて類似した石室構成をもち、切組積を多用するところから山上古墳につづく時期のものと考えられている。

 

截石切組積(きりいしきりくみづみ)石室

古墳時代後期の古墳に見られる横穴式の石室における、側壁の石組技法のこと。截石(きりいし)とは、切石(きりいし)の表面を磨いたものの呼び方であるのだが、厳密な定義はない。ちなみに、切石とは、自然石(古墳などに使われるときは河原石とよばれる)と区別して使う表現で、加工した石という意味だろう。いづれにしろ、石室に使う截石は、上に何十トンもの巨石が乗るため、四隅を直角に切り出した石でないと側壁が崩れてしまう。

切組(きりくみ)とは、隣り合わせの石の形状に合わせて石を加工する技法のことで、上から何十トンもの重量がかかったときに、途中の石が壁面から飛び出してしまわないための、重要な技術なのです。

【ものさし】

なお、山上古墳、山上西古墳には、「高麗尺」の使用、宝塔山古墳、蛇穴山古墳には「唐尺」が使用されている。古墳を築造するにあたっては計画性かつ企画性が要求されたと考えられる。特に前方後円墳には一定のモデルプランが存在し、「前方後円墳体制」とも言えるようなモデルプランを媒体とした畿内の中央政府と地方豪族との密接な関係の存在も考えられている。実際の造墓作業では、墳丘の規模を決定するための長さの単位に23cmを1尺とする漢尺、24cmを1尺とする晋尺(しんじゃく)、さらに35cmを1尺とする高麗尺、30cmを1尺とする唐尺、あるいは両腕の全長をⅠ尋とする単位などが基準尺として用いられたと考えられる。4~5世紀代には漢尺、晋尺、6~7世紀代には高麗尺、終末期古墳の横穴式石室の構築には唐尺が用いられたと考えられる。

 

以前に撮影された石室の内部

 

「高崎市史 資料編1」に記載されている昭和34年の調査記録

穀物を売り買いする商人の所でトムという名前の若い男が働いていました。賃金は週に2ドルでした。長い年月そこで働いていたトムは、ある時に自分の賃金はなぜこんなに少ないのかと思い主人に「もう一人のトムは週に6ドル貰っているので、なぜ自分は2ドルなのですか?」と尋ねました。その穀物商の所では、もう一人同じ名前のトムという男が働いていたので、主人は「まあまて、そのうちに理由を教えてやる」と返事をしました。数日後、その穀物商の下の道を10台余りの荷馬車が隊列を組んで通りかかりました。

 

 

主人は急いで2ドルのトムを呼んで「道を降りて行って何を運んでいるのか聞いてこい」と命じました。トムは道を下り、戻って来て「トウモロコシを運んでいるそうです」と報告しました。主人は「どこへトウモロコシを運んでいるか聞いてこい」と、また命じました。トムはまたまた道を下って馬車まで駆けていき、戻ってきて「トウモロコシを市場に運んでいるそうです」と報告しました。主人は、またまた2ドルのトムに「急いで戻って、誰に頼まれて運んでいるのかを聞いてこい」と命じました。荷馬車はもう村はずれに差し掛かっていたので哀れにもトムは犬のように走らなければなりませんでした。

 

トムは走って戻り「隣町の町長さんに頼まれた荷物だそうです」と報告します。主人は「トウモロコシの値段を聞いてこい」と更にトムに言いました。トムは戻って、トウモロコシの値段を伝えると主人は「ここで少しまっておれ」と言いもう一人のトム、つまり6ドルのトムを呼んで「道を降りて行ってさっき通った荷馬車の商人たちの様子を見てきてくれ」と命じました。6ドルのトムは馬にまたがって荷馬車を追いかけました。少ししてトムは戻って来て「あの人たちは隣町の町長さんに頼まれてトウモロコシを市場に運んでいる商人たちでした。それで売値を聞いてすぐさまそれより少し高い値段で買うと申しましたら、重い荷物を運ぶのに疲れたので、うちの倉庫に荷をおろすと決めてくれました。今こちらに向かっています」と報告しました。穀物商の主人は、「これでもう一人のトムとお前の賃金が違うことが分かっただろう」と言いました。

 

 

この寓話から得られる教訓にはどんなことが想像できますか。この職場には二人のトムが働いていました。一人は週給2ドル、もう一人は週給6ドルでした。2ドルのトムは主人から言われたことはしっかりとやる若者でした。しかし、言われたことしか出来ない男である。一方6ドルのトムは、言われたこと以上の仕事のできる男である。2ドルのトムは「一を聞いて一をやる」男でしかない。一方、6ドルのトムは「一を聞いて十をやる」男であった。その違いは主人から「〇〇を聞いてこい」という指示を受けたとき、「主人はどうしてそれが知りたいのか」を想像できるかどうかの差なのです。

 

参考文献《物語は、インターネット上に掲載されている動画を基にアレンジしています。イラストは、インターネット上に掲載されている無料画像を使用しています。》

愛媛県の昔話

むかし、あるところに貧(まず)しい男がおって、野良仕事(のらしごと)をして暮(く)らしておったと。

あるとき、男は牛(うし)に草を食べさせようと、家から少(すこ)し離(はな)れたところにつないでおいたと。

ほしたら、そこへいたずら者のかわうそがやって来て、おもしろ半分に牛の背(せ)に飛(と)び乗(の)ったり、しっぽを引っぱったりして遊んだそうな。しまいには、綱(つな)を引きずって川の方へ連(つ)れて行こうとして、その綱を自分の体にくくりつけて歩きはじめたと。ところが、牛の方は草を腹いっぱい食べたので牛小屋(うしごや)へ帰ろうとする。

かわうそは、ぐいぐい引きずられて、綱をとくにとかれず、とうとう牛小屋まで連れて行かれたと。

この有(あ)り様(さま)を見た男は、「こりゃ、たまげた。りこうなかわうそがうちの牛に捕(つか)まるとは」と、驚(おどろ)くやら、あきれるやら。

「どうれ、今夜はかわうそ料理といくか、こりゃ、かわうそ、皮(かわ)をはがれるときは痛(いて)えぞお。ベリッ、ベリベリッて」と、おどかすと、かわうそは、必死(ひっし)になって、

「もう、これからは決(けっ)していたずらはしませんから、どうぞ助(たす)けてくださあい」

と、あわれな声で泣(な)いて頼(たの)むんだと。

「本当にせんか」

「はい、約束(やくそく)しますう」

と言うので、綱をほどいてやったと。

 

 

「ありがとうございました。お礼(れい)におらの出来ることをしますけん。この家の軒(のき)にものを引っかける鉤(かぎ)をつけておいてください」

と言うて、去(さ)って行ったと。

次の日の朝、男が軒を見ると、大きな鯛(たい)が鉤に引っかけてあった。

男は喜んで、めったなことでは食べたことのない、その鯛を家じゅうで食べたと。

次の日の朝も、その次の日も、毎日、毎朝、鯛が引っかかっておったと。

毎日続(つづ)く、かわうそのお礼に、男はつい欲(よく)を出した。

もっと大きな鉤をつけたら、何匹(なんびき)も鯛を引っかけてくれるのでは……と思って、以前、山で捕(と)った鹿(しか)の角(つの)を、軒につけたと。

ほしたら、それからはさっぱりで、毎朝待てど暮らせど、鯛はおろか、小魚(こざかな)一匹引っかけてくれなくなったと。

かわうそは、鹿の角が怖(こわ)かったそうな。

むかしこっぷり。

 

 

 出典:フジパン「民話の部屋」

山の上集落の奥にある「山名貯水池」(貯水量45000㎥)は、昭和9年に農村振興耕地拡張事業として県の認可を受け昭和9年12月16日起工し、翌昭和10年3月31日に竣工しました。

 

 

「万葉歌碑」

.山名貯水池わきに貯水池の完成記碑(昭和57年)として建てられた「山名貯水池」と刻まれた裏面に万葉歌が刻まれています。

いにしへの 古き堤は 年深み 池のなぎさに 水草生ひにけり

   =巻3-378 山部赤人=

大意:ずっと昔に造ったこの古い泉水は、年が深く積み重なったので、池の波打ち際に水草が生えているのだった。

 

 

「山名隧道」

山名町山の上天水地内の「山名隧道」は、県営ため池等整備事業のため、平成3年から平成7年にかけて新たに工事完成した長さ234mの隧道です。この水路は明治38年施工の素掘トンネルのため陥没・崩落が激しくトンネルの脆弱化が進み災害発生の危険な状態であった。そこで、下流施設の宅地及び道路への災害防止のため改修が行われました。

 

     

 

「天水ため池」

山名町天水地区にある「天水ため池」(貯水量25000㎥)