上野三碑 №4
山ノ上古墳及び山ノ上碑を訪ねる 所在地:高崎市山名町(字山神谷)2104
1954年(昭和29年)国指定特別史跡
【山ノ上古墳】
山ノ上碑に隣接する「山ノ上古墳」は精緻な切石積みの石室をもつ有力首長の墓であり、7世紀中頃の築造と考えられ、築造は山ノ上碑(681年)より数十年古いため、もともと黑売刀自の父の墓として造られ,後に黑売刀自を追葬したものと考えられている。
【山ノ上古墳】 【山ノ上古墳内部】
截石切積(きりいしきりくみづみ)石室が流行したのは、7世紀中葉ないし後半から末葉にかけての時期と考えられる。その中では、本墳の石室の構造的特徴は、初現的段階にあることを示している。その根拠として、石室壁面構成があげられる。すなわち、基本的に羨道部一段、玄室部二段の整然とした構成である。この壁面構成は、それ以前の当地域の石室にはまったく見られなかったものである。切石構造の石室とともに他地域から新たにもたらされたことが考えられる。そこで想起されるのは、大和の地域で7世紀中葉を前後した時期に属する岩屋山式石室との類似である。古墳自体の考古学的検討からは、681年をさかのぼる7世紀中葉を相前後する時期の中でとらえた方が穏当であろう。なお、山ノ上古墳をモデルに山ノ上西古墳が築造され、両墳は2世代にわたる前後の関係と捉えられる。
「高崎市史資料編Ⅰ」
【山ノ上古墳石室各部位計測値】
全長7.40m、「玄室」長さ2.70m、床幅1.8m、天井幅1.46m、高さ1.66m、【羨道】長さ4.70m、床幅0.90m、天井幅0.96m、高さ0.96m
【山ノ上碑】
「山ノ上碑」(681年)は、放光寺(山王廃寺)の長利僧が、母(黑売刀自)の為に佐野の三家(屯倉)の血筋を引く(母と自分の系図)を記した、漢字53字を4行におさめた碑です。
【山ノ上碑及び古墳の説明看板】
【山ノ上碑】1、碑身・台石ともに輝石安山岩の自然石。
2、高さ約1.1m、幅約0.47m、厚さ約0.52m
※ (自然石を使った形状は、新羅の丹陽赤城碑(545年)や昌寧 碑(561年)などに類似している。)
【銘文】
辛己歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒売刀此
新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児
長利僧母為記定文也 放光寺僧
[読み方]
[読み方] (テニヲハと句読点を挿入)
辛己歳(かのとみのとし)集月(じゆうがつ)三日に記(みっかにしる)す。佐野三家(さののみやけ)を定賜(さだめたまう)健守命(たけもりのみこと)の孫(まご)の黒売刀自(くろめとじ)此(こ)れ新川臣(にいかわのおみ)の児(こ)の斯多々弥足尼(したたみのすくね)の孫(まご)の大児臣(おおごのおみ)に娶(とつ)ぎて生める児(こ)の長利僧(ちょうりのほうし)が、母の為に記(しる)し定むる文也(ふみなり)。
放光寺僧(ほうこうじのそう)
[現代語訳]
辛巳年(天武天皇十年=西暦681年)十月三日に記す。
佐野屯倉をお定めになった健守命の子孫の黑売刀自。これが、新川臣の子の斯多々弥足尼の子孫である 大児臣に嫁いで生まれた子である(わたくしの)長利僧が、母(黑売刀自)の為に記し定めた文である。
放光寺の僧。
[用語の意味]
刀自(とじ)=女性の尊称。 足尼(すくね)=男性の尊称。
佐野三家(さののみやけ)は高崎市南部の烏川両岸(現在の佐野・山名地区一帯)にまたがって存在したとみられ、健守命(たけもりのみこと)がその始祖に位置づけられている。
三家=屯倉(みやけ)とは、6世紀~7世紀前半に各地の経済的・軍事的要地に置かれたヤマト政権の経営拠点である。
碑の造立者である長利は、建守命の子孫の黑売刀自が、赤城山南麓の豪族と推定される新川臣(現:桐生市の新川)の子孫の大児臣(現:前橋市大胡)と結婚して生まれた子である。
放光寺(山王廃寺)は、7世紀後半頃創建された東国で最古級の寺院だった。当時、仏教は新来の先進思想であり、長利は相当の知識人だったと考えられる。
山ノ上碑は墓碑であり、隣接する山ノ上古墳の墓碑であると考えられている。 その内容から放光寺の僧侶長利(ちょうり)が母の黒売刀自(くろめとじ)のために碑を建てたことがわかる。墓碑としても日本最古である。「放光寺」は佐野の地にあると考えられてきたが、最近の発掘調査により、前橋市の山王廃寺の可能性が高くなった。刻まれている文のほとんどが、長利母子の系譜を述べており、古系譜の史料としても貴重である。
*墓碑と墓誌の違い
特定の古墳について誰の墓かということをわからせるのが「墓碑」であり、後世の人にここに誰が埋められていたかをわからすために墓に入れたのが「墓誌」です。
この碑は東側に横穴式石室の内部構造をもつ円墳があり、古墳としては終末期古墳に属するものと認められる。1921年(大正10年)3月3日、国の史跡に指定され、1954年(昭和29年)には、「山ノ上碑および古墳」の名称で国の特別史跡に指定された。
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墓碑(ぼひ) 日本大百科全書
山ノ上碑の銘文の内容から、黒売刀自を被葬者とする山ノ上古墳の墓碑と推測され、古墳の造営年代が確定できる資料として著名です。
墓碑は故人の姓名・経歴などを刻した墓標の一種。『喪葬令』に「凡(およ)そ墓には皆碑を立てよ、具官姓名之墓と記せ」とあり、三位(さんみ)以上の高官の墓に碑を立てることを定めています。また、古代における遺例は少ないが、藤原鎌足(かまたり)(614~669年)の墓碑の存在が『家伝(かでん)』にうかがわれ、元明(げんめい)天皇(707~715年)の墓碑と伝えられるものも現存します。さらに養老(ようろう)7年(723年)銘を有する「阿波国造(あわこくぞう)・粟凡直(あわのおおしのあたえ)弟臣墓」碑は、小形のhttp://100.c.yimg.jp/lib/gaiji/gif/l/01112.gif(せん)造墓碑であるが、上下にhttp://100.c.yimg.jp/lib/gaiji/gif/l/01149.gif(ほぞ)があり、屋蓋と基礎を有したらしく、古代の墓碑の一典型といえます。このほかに、上野(こうずけ)三碑の一つとして知られる「山ノ上碑(やまのうえのひ)」(681年)や、「那須国造(なすのくにのみやつこ)碑」(700年)、「妥女氏塋域(うねめしえいいき)碑」(689年)なども墓碑的性格をもったものと考えられています。