上野三碑 №5
山王廃寺(放光寺)跡を訪ねる
 
                                    所在地:前橋市総社町総社2408
                                      1928年(昭和3年)国指定史跡
 
   山王廃寺(放光寺) ~群馬県内最古の寺院~
 古代上野国の中心地域である前橋市総社町に、7世紀後半の白鳳期に建てられた県内最古の寺院です。塔に関連した根巻石や鴟尾、仏具の緑釉陶器等も発見されています。「放光寺」・「放光」という文字を刻んだ瓦も発見され、この寺が「山ノ上碑」や「上野国交替実録帳」に記録されている「放光寺」であったことがわかりました。上野国の政治に深く関わった豪族が、権力の象徴として建てた寺院と考えられます。                                                                                                                                                                                
 
 高崎市山名町の「山ノ上碑」の碑文にある「放光寺」跡を訪ねました。
 今から1300年前に全国的にも稀にみる豪壮、華麗な寺院がこの地にみられました。
 今でも創建当時、寺院の屋根を飾った石製鴟尾(せきせいしび)塔の中心礎石、塔心柱根巻   石が残っています。
 
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大正10年塔心礎(とうしんそ)が発見されここが古い時期の寺院跡であることがわかり、地名にちなんで「山王廃寺跡」と名付けられました。
 
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 日枝神社:天台宗の守護神として近江国日吉神(山王権現)を勧請した神社。境内には元禄  8年(1695)の庚申塔をはじめ18基の万造物が安置されている。
 
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     石製鴟尾(せきせいしび):国認定重要美術品
                鳥の尾の形の魔除け、屋根の大棟の両端につけられていた。
 
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   塔心柱根巻石:国指定重要文化財
 
   内径96cm山王廃寺の五重塔の中心に据えられる、柱の根本を装飾したもの、
   7枚のハスの花びら輝石安山岩でできている。  
  
塔心礎:    五重塔の基礎部、この上に心柱が建っていた。
塔の心礎は一辺14mの方形基壇の中央を堀り凹めた中に置かれ、東西3m、南北2.5m、厚さ1.5mという巨石を加工したものである。心礎のほぼ中央には径65cm、深さ18cmの孔(柱受け)とさらにその中央に径27cm、深さ30cmの舎利孔との二段の孔がうたれている。孔の周囲には径108cmの環状の溝があり、そこから放射線状の溝が東西南北の方向をさして刻まれている。塔の心柱の太さは環状の溝内縁に合致するものであろうか、寺院建立時期は、出土瓦などから7世紀末の白鳳期の頃と考えられている。
 
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瓦には「文字瓦」が存在します。1979年(昭和54年)の発掘調査で山王廃寺から文字瓦がみつかりました。そこに刻まれていたのは「放光寺」。このことから、山王廃寺の寺号が放光寺であり、また、高崎市山名町の山ノ上碑の碑文にある放光寺であることが判明しました。山ノ上碑が建立されたのは681年頃ですから、山王廃寺すなわち放光寺はその頃には僧が活躍できるほどに伽藍が整備されていたことになります。
 
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           【参考図書】 「東国文化副読本」~古代ぐんまを探検しよう~(群馬県)
 
山王廃寺は放光寺か!?
 
【山王廃寺の建立時期】
前橋市教育委員会が昭和49年から第7次の調査を実施し、出土瓦の検討から創建の時期は、白鳳の時期としてもかなり飛鳥に近い時期、7世紀の中頃と考えられる。飛鳥に入れても良い瓦は八弁の瓦です。創建当初の中心となった瓦は、単弁の八葉で、まわりに円圏のある瓦です。この瓦は、山田寺の系統で山田寺が創建されたのは、7世紀中葉です。だから瓦の方からすれば山王廃寺の創建は、早くても7世紀中葉になります。瓦以外では、塔の中心礎石、掘り込んである礎石の形式、据え方は飛鳥寺の中心礎石の据え方に共通するものである。こういうものを考えると、山王廃寺は7世紀中葉頃から創り始められたと考えられます。
 
【法光寺ヘラ書き瓦】
かなり以前から「方光」とヘラ書きされた瓦は出ています。そこで何となく、山王廃寺は放光寺ではいかと言われていましたが、前橋市教育委員会が実施した第6次調査という学実調査に於いて、初めて「放光寺」と書かれた瓦が出て来た。それも塔の屋根にのっていた瓦だと思われるもので山王廃寺が放光寺と考えられた。瓦は、ヘラ書きまたはスタンプ瓦合わせて「方光」又は「放光寺」と書かれている瓦は、前橋市教育委員会が3点、瓦蒐集家の住谷氏が3点、都丸氏が1点の合計7点が出土し保管されています。
「放光寺」と書かれた平瓦は、凸面に縦方向の縄目痕があるもので、黒緑色の微粒子を含む均質な土で焼かれている。この文字瓦は山王廃寺の創建期の瓦ではなく、上野国分寺などからも出土する奈良時代以降に安中市の秋間古窯跡群で生産されたものとみられている。
瓦の供給先を表した例としては、「川原寺」(奈良県明日香村)、「観世音寺」(福岡県太宰府町)、「国分寺」・「国分寺瓦」(栃木県国分寺町)、「薬師寺瓦」(栃木県南河内町下野薬師寺)、「大慈寺」(栃木県岩舟町)等が知られている。これらの事例を考えあわせると、この「放光寺」は、瓦の供給先である山王廃寺の寺名が記されたものと考えられる。
 また、山王廃寺跡で出土した文字瓦のうち、創建期のものはほとんどなく、修造の際に用いられた瓦に文字が記されている場合が多いことがわかった。このことは、この時期の一般的傾向によるものであろう。しかし、この点を「放光寺」の文字瓦に限って、瓦窯の操業形態との関連で考えれば、創建期における瓦の供給先は山王廃寺だけであったものが、それ以降は、上野国分寺など他の寺院にも供給されるようになったので、瓦に供給先の寺名を明示して混乱を避ける必要が生じたと推測することもできる。